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92 父のもとに帰る日

 生涯の日を正しく数えるように教えてください。

(詩編 九〇編 一二節)


 詩編九〇編は、永遠なる神の前の人間のはかなさを自覚する魂の祈りです。この魂は神に向かって、「山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(二節)と、神の永遠性を賛美します。同時に、神の前にいる自分がいかにはかない存在であるかを自覚しています。神が定めた時が来れば、塵から造られた自分は直ちに塵に帰ります(三節)。人生のはかなさを、「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」と嘆きます(六節)。「儚(はかな)い」という字は、人生が一場の夢にすぎないことを言い得て妙です。
 人間ははかないだけでなく、罪のために、すなわち神への背きのために、「御怒りに消え去り、ため息のように消え失せる」者であることを、この魂は自覚しています。そして、「人生の年月は七十年ほど、健やかでも八十年」と数え、その間に「得るところは労苦と災いにすぎず、瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」と嘆きます(一〇節)。そして、その嘆きの中から、標題の祈りを祈ります。
 この祈りは、直訳すると、「わたしたちの日々を数えることを教えてください」となります。それを正しく数えることが「知恵ある心」だとします(一二節)。あるドイツ語訳はここを「賢くあるために、わたしたちは死ぬべき者であることを、わたしたちが思うように教えてください」と訳しています。
 「わたしたちの日々を数える」とは、わたしの寿命に限界があることを自覚するだけでなく、わたしの時(=わたしの人生に起こる出来事)が神の御手にあることを悟ることでもあります(詩編三一・一五)。それを悟るとき、わたしの肉体がすべての機能を停止し、冷たくなり分解していく出来事、「人の子よ、(塵に)帰れ」と仰せになる創造者の定めは、「わたしの子よ、わたしのところに帰れ」という父の温かい招きの言葉となります。これは「キリストにあって」起こる恵みの出来事です。「キリストにあって」、十字架の贖いにより罪を赦され、復活されたキリストから賜る聖霊によって神の子の喜びに生きるようになるとき、「塵に帰る」わたしの肉体の死は、わたしが父に帰る喜びの日となります。このことを悟った魂は、「生涯、喜び歌い、喜び祝う」魂となります(一四節)。人生のはかなさの中で生の充実を喜び祝う魂となります。

                              (天旅 二〇一〇年6号)