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91 清い心の創造

 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。

( 詩編五一編 一二節 )


 神を知ることは、自分が神に背いていることを知ることと表裏一体です。あるイスラエルの敬虔な魂が切に神の慈愛と憐れみを求めて祈ったとき、自分の神への背きを深く自覚させられ、神の前に打ち砕かれ、その背きの罪が赦されることをまず祈らないではおれませんでした。詩編五一編は、このような深い罪の自覚から始まります(三〜六節)。しかも、その罪は個々の規範、宗教的であれ道徳的であれ、外から要求される規定に違反する行為の集積ではなく、自分の内にある本性的な性向であることを魂は自覚しています。そのことが「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」と、詩的表現を用いて言い表されます(七節)。
 自分の本性が神に背いてやまない方向に生まれついている事実を深く自覚しているこの魂は、その背きの罪が赦され、雪のように白く洗い清められて、その責任が問われなくなっても(九〜一一節)、自分の内なる本性が変えられない以上、結局は神の命から切り離された者でしかないことを知っています。自分自身を形成する内なる心が造り変えられ、心よりさらに奥にある霊が新しくされなければならないことを知っています。それが標題の祈りとなってほとばしり出ます。彼は万物を創造された神が、自分の内に清い心と新しい霊を創造して与えてくださることを切に祈り求めないではおれません。そのような心と霊を与えると、神は預言者を通して約束しておられました。そのような心と霊を与える神の御霊の働きが取り去られず、神との交わりから退けられず、「自由の霊によって」、すなわち自発的に神に従う霊によって、命に至ることができるように祈り求めます(一三〜一四節)。
 この祈りの構造は、パウロが告知したキリストにおける救いの構造を思い起こさせます。パウロは福音を罪の赦しにとどめず、聖霊による《メタモルフォーシス》(変容)として告知しました。本性的に神に背く「肉」(生まれながらの人間本性)にあって、わたしたちは恩恵によって賜る聖霊の働きにより、「栄光から栄光へ、主と同じ姿に変えられていく」のです(コリントU三・一八)。その消息を、イスラエルの敬虔な魂が予感して祈っていたことが、この詩編からうかがえます。

                              (天旅 二〇一〇年5号)