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86 苦難の場にいます神

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

(詩編 四六編二節)


 詩編四六編はルターによって「神はわが櫓」という賛美歌とされ、宗教改革の戦闘歌となりました。ルター自身、押し迫る苦難の中でこの詩編に励まされて、福音のために戦ったのでしょう。それができたのは、この詩編がイスラエルの厳しい苦難の歴史の中から生み出された命がけの叫びであったからです。
 古代の人々は身の安全を守るために住まい(都市)の回りに城壁をめぐらし、砦を構築しました。敵に襲われる時には、その城壁の中にこもって難を避けました。しかし、弱小国のイスラエルは幾度も周囲の強国によって城壁を破壊され、筆舌に尽くせない苦しみを味わいました。ローマにエルサレムを破壊されてからは、城壁を持つことすら許されない流浪の民となりました。それだけに、ひたすら自分たちの神だけを「わたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」として、身を委ねることを学び、「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と信じ抜く民となりました。
 民のこの信頼は応えられたでしょうか。苦難のとき、神は必ずそこにいまして、こう信じる御自身の民を助け、その苦難から救い出されたでしょうか。最近の実例をあげれば、ナチのホロコーストのガス室に神はおられたのでしょうか。ガス室のユダヤ人はこの祈りと信仰で神を呼び求めたことでしょう。しかし、現実にはユダヤ人は虐殺されました。それでも「苦難のとき、神は必ずそこにいまして助けてくださる」と言えるのでしょうか。
 わたしは、救出されたか殲滅されたかという結果ではなく、その苦難の中にいる者がこのように信じたという事実の中に神がいました、と思います。苦難は神がいまし、神が働かれる現場です。神はどこにいまし、どこで働かれるのか。神は力をふるう者たちの中にはおられず、苦しめられて、その身を神に委ねるほかはない者たちのこの祈りの中にいますのです。このように信じる者の中に働かれるのです。その働きは、わたしたちの思いとは天が地から高いようにかけ離れています。こう信じる者は、苦難の中に神の栄光を見て、苦難の中ですでに勝利するのです。キリストの民は、苦難に遭遇するとき、その苦難こそキリストがいます現場であり、その場でこそ栄光の霊が働いてくださることを体験するのです。

                              (天旅 二〇〇九年6号)