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85 御霊は風のように

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。

(ヨハネ福音書 三章八節


 人間は風をコントロールすることはできません。木の葉の音を聞いて風が吹いていることは分かりますが、その風がどこから来て、どこへ行くかを知りません。風に働きかけて、風向きや強さを決めることはできません。わたしたちは風の働きの対象になるだけで、風の動きを決める主人にはなれません。
 御霊とわたしたち人間の関係も同じです。働きかける側を主体、働きを受ける側を客体と呼ぶならば、御霊と人間の関係においては、常に御霊が主体で、人間は客体です。人間は主体として御霊に働きかけ、御霊の働きをコントロールすることはできません。わたしたちは御霊を所有することはできません。わたしたちは御霊の働きを受けるだけの立場です。
 ところが人間は自分が主人でないと気がすまない存在です。すべてのものを自分が支配する(コントロールする)立場でいたいのです。御霊が形成する神と人間の関係においても、思いのままに吹く風のように御霊が働いてくださるのを待ち、その働きに身を委ねることは耐えられません。自分が御霊に命令して、この時にこのように働くようにと、自分が主体となって御霊の働きを決めようとします。しばしば宗教儀礼がその装置となります。たとえば、洗礼を受けると、御霊が働いて受洗者を新しく生まれさせるとされます。聖餐にあずかると、御霊のキリストがわたしたちの中に入って来てくださるとされます。こうして教会が執り行う儀礼が御霊の働きを決めるとされます。
 そうではありません。儀礼としての洗礼や聖餐が御霊の働きをもたらすのではありません。わたしたちが御霊の働きを受けるためには、御霊の風(御霊と風はギリシア語では同じ語です)が吹く場に身を置く以外にはありません。神の御霊が働く場は「キリストにある」という場です。わたしたちが、わたしたちのために十字架上に死に、復活して神の子とされた主イエス・キリストの前にひれ伏し、キリストにおいて与えられた神の無条件絶対の恩恵に身を委ねる他はありません。これが信仰です。御霊の風は「キリストにある」という場に吹き、その場にひれ伏す者に働きかけます。洗礼や聖餐を受けることが、この信仰の表現であるならば、それは御霊の場にいることになります。

                              (天旅 2009年5号)