市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第83講

83 宗教の本体としてのキリスト

 キリストは・・・・御自身の血によって、ただ一度聖所に入って、永遠の贖いを成し遂げられた。

(ヘブライ書 九章一二節)


 どの宗教にも何らかの形の祭儀があり、その祭儀を執り行う祭司がいて、祭儀が行われる施設としての神殿があります。このような祭儀のシステムが宗教です。ところが、最初期のキリストの民は神殿を持たず、祭司が執り行う祭儀もなく、個人の家に集まってひたすら祈り、聖書を読み、使徒が伝えるイエスの教えを反芻し、キリストを讃える賛歌を歌い、食卓を共にしてキリストの死を記念し、交わりをもつだけでした。このような形の信仰生活は、人間の宗教としてはきわめて異例のものでした。
 しかし、人間には風のように自由に働かれる霊の働きだけに身を委ねることはできず、何らかの形あるもの、人間がコントロールできる客体的な手段に頼りたい本性があります。周囲の宗教が見せている壮大な神殿での荘厳な祭儀に惹かれ、自分たちの祭儀のない信仰に物足りなさを覚えるキリスト者も出てきます。そのようなキリストの民に向かって、ユダヤ教という最高の宗教に精通した著者が、ユダヤ教を含めいかなる宗教にもまさる祭儀とそれを執り行う大祭司、またその祭儀が行われる壮大な神殿があることを指し示す文書を著します。それがヘブライ書です。
 ヘブライ書の著者は、キリストが十字架の上で血を流して死に、三日目に復活して高く上げられた出来事を、ユダヤ教の神殿祭儀で行われる大祭司の働きを比喩として用いて(大祭司のイメージで)語ります。大祭司は年に一度「贖罪の日」に犠牲の動物の血を携えて隔ての垂れ幕を通って至聖所に入り、契約の箱の上の「贖罪所」にその血を注いで、民の罪のための贖いを行います。キリストの十字架と復活は、その大祭司の行う贖罪の祭儀が予表していたことの実現、影である祭儀の本体なのです。キリストは動物の血ではなく御自身の血を携えて、ただ一度天にある聖所に入って、神の前に永遠の贖いを成し遂げられたのです。
 キリストは宇宙という神殿で大祭司の働きをしておられます。十字架の上に贖罪の血を流し、復活して、物質界と天界を隔てる幕を通って天上の至聖所に入り、神の前にその血を捧げて、永遠の贖罪、宇宙大の贖罪を成し遂げられたのです。これが実現した以上、もはや地上で死ぬべき人間が祭司として祭儀を繰り返す必要はありません。キリストこそが宗教の本体です。

                              (天旅 二〇〇九年3号)