市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第77講

77 自分を無にして

 キリストは・・・・・自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。

(フィリピ書 二章七節)


 これは、パウロの時代のキリスト者たちが歌っていたキリスト賛歌(フィリピ書二・六〜一一)の一節です。この文の主語はキリストです。このキリストは、「神の身分であり」、「神と等しい」方です。そのキリストが、神と等しい者であることに固執せず、「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」のです。このキリストは「人間の姿で現れた」だけではなく、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」神の意志に従順に従われました。キリスト賛歌は、その前半で、死に至るまでのキリストのへりくだり、御自分を無とされたへりくだりを歌っています。
 この自分を無にして、十字架の死に至るまで自分を低くしたキリストを、「神は高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。その名とは《キュリオス》(主)という名です。その名の前には「天上のもの、地上のもの、地下のものすべて」がひざまずく名です。キリストが人間の姿で現れたときの名はイエスですから、「イエス・キリストは《キュリオス》である」という告白が、このキリスト賛歌の結びです。賛歌の後半は、神が主語であり、神が、自分を十字架の死に至るまで低くされたイエスを、死から復活させて、神と等しい座、すなわち主キリストという座に、高く引き上げられたことを歌っています。
 この賛歌の前半と後半は循環しています。前半の主語のキリストは、後半に歌われている神によって高く引き上げられたキリストです。この賛歌は、「イエスは《キュリオス》である」という原初の信仰告白を、円環形式で歌った賛美歌です。わたしたちのために十字架上に死なれたイエスが、復活してキリストまた《キュリオス》として立てられたことを信じて言い表している者たちの賛歌です。この主イエス・キリストに合わせられて、復活の命に生きている者たちの賛歌です。この賛歌から分かることは、復活信仰はその中に受肉の信仰、すなわち、イエスは復活によって神と等しい座に上げられたキリストの受肉であるという信仰を含んでいるということです。復活信仰に生きる者は、自分を無にされたキリストに合わせられて生きているのです。すなわち、「キリストの《ケノーシス》」の場、キリストが体現し、キリストが与えてくださる無の場に生きているのです。

                              (天旅 二〇〇八年2号)