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65 言葉の体験としての信仰

 あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。

(エレミヤ書 一五章一六節)


 これは預言者エレミヤの御言葉体験です。エレミヤは預言者として召されたときから、ヤハウェの呼びかけと語りかけを受けてきました。エレミヤはヤハウェの言葉を受けたとき、それを聞き流すのではなく、「むさぼり食べました」。食物が食べた人の体の一部となるように、ヤハウェの言葉はエレミヤの存在そのものになり、エレミヤはヤハウェの言葉によって生き、その言葉を語りました。ヤハウェの言葉はエレミヤの生きる喜び、生の実感となりました。
 人は言葉です。人がどのような言葉を見出し、どのような言葉に生きるかによって、その人の在り方が決まります。わたしたちは、イエス・キリストの出来事の中に神が語りかけられる究極の言葉を見出しました。それを告知する言葉が福音です。福音はたしかに言葉です。しかし、それは空しい言葉ではなく、それを信受する者を救いに至らせる神の力です。それを食べる者に永遠の命を与える命の糧です。
 主イエスは、最後の食事の席でパンを裂いて渡し、「取って食べよ」と言われました。杯を回して、「取って飲め」と言われました。それは、神の言葉であるキリストを食べることを象徴しています。キリストにおいて聴いた神の言葉を「むさぼり食べる」とき、すなわち神の言葉であるキリストに自分の全存在を投入して生きるとき、その言葉がわたしのものとなり、わたしはその言葉となります。それが「信仰」です。そのとき、わたしたちの心は言いしれぬ喜びを実感します。それは、このように御言葉を体験することは聖霊の働きによるからです。
 神の言葉である福音が語られる場では、神の霊が働かれます。福音は、紙に印刷された言葉やコンピュータのデータとして伝えられるものではありません。人から人へ、心から心へ語りかける言葉として伝えられます。福音がそのように語られる場には聖霊が働き、その働きの主体としてキリストが現れ、その働きを受けて新しい「わたし」が生まれます。それは御言葉によって生まれたわたしであり、御言葉によって生きるわたしです。

                              (天旅 二〇〇六年2号)