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63 死に定められた体の中で

 イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊があなた方の内に宿っているならば、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださいます。

(ローマ書 八章一一節 私訳)


 わたしたちは死に定められた体の中で生きています。人間は皆いずれは死ぬのだということはよく分かっていますが、老齢期を迎えると、体力が衰えるだけでなく、体のいろいろな箇所に故障が起こり、この体がやがて活動を停止するということが実感されるようになります。そのような死に定められた体の中に生きているので、わたしたちは将来に希望を持つこともできず、その圧力に負けてうつ病になったり、暗くて辛い日々を送ることになりがちです。それで、死ぬまで明るく元気に暮らすことが切望されるようになり、八十歳や九十歳代になっても元気に活動している人たちをモデルにして、その方法が喧伝されていますが、体が動かなくなったりして、どの方法もとれない人が多いようです。
 けれどもキリストにある者には、死に定められた体の中に生きる「わたし」に死を超える希望があります。それはキリストにあって賜っている御霊の命がもたらす希望です。その御霊はキリストを死者の中から復活させた方の御霊であるからです。キリストに属するというのは、このような御霊によって生きることです。命は光です。キリストにあって賜る御霊は、わたしたちの内にあって命の光となります。この御霊の命という光源から発する光が、人生の様々な場面に映し出されて映像を結び、わたしたちの信仰の生涯を描き出します。その中で体の死というスクリーンに映し出された映像が「死者の復活」です。
 たしかに「死者の復活」は映像です。それはまだ現実ではありません。現実には、わたしたちは死に定められた体の中で生きています。しかし、わたしたちの内に御霊による新しい命が始まっていることは現実です。その命が光源となって死という現実を照らし出すとき、「キリストを死者たちの中から復活させた方は、わたしたちの内に与えてくださっている御霊によって、わたしたちの死に定められた体をも生かしてくださいます」と言わないではおれないのです。ここの「生かす」は「復活させる」と同義です。死という確実な将来は、復活という映像の中で見られることになり、不安とか怖れの刺を抜き去られ、栄光の世界への入口となります。その映像が空しい幻ではないことは、神の信実が保証し、現実に自分の内から発する光源が映し出すものであることを、わたしたちは知っています。

                              (天旅 二〇〇五年6号)