市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第61講

61 イエスの招き

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

(マタイ福音書 一一章二八節


 古来人間は、人間を真に人間とする知恵を必死に探求してきました。その探求の結果、イエスが出現される数百年前には、人の知恵はきわめて高いレベルに達し、ギリシアではソクラテスやプラトンの哲学、インドではシャカの悟りなど、洋の東西を問わず古代世界は多くの知者を生み出し、高度の知恵を示していました。
 アブラハムなどの父祖たちとモーセに与えられた啓示によって独自の宗教をもつイスラエルの民も、知恵の探求において無為ではなく、ソロモン以来国をあげて取り組み、「箴言」などの知恵の書を生み出し、イエスが出現される数世紀前からは、世界に高まった知恵の実を吸収して、イスラエル独自の「知恵文学」を形成していました。「箴言」や「知恵の書」や「シラ書」などのイスラエルの知恵文学では、知恵はしばしば擬人化されて、街頭や戸口で無知で愚かな人々に、「わたしのもとに来て知恵を学び、悟りを得るように」と呼びかけ、自分のもとで知恵を学ぶ者に、平安とか癒しとか祝福を約束しています。
 マタイだけが伝えるこのイエスの招きの言葉は、このようなイスラエルの知恵文学の伝統の中にあります。イエスは真実の知恵の体現者として、民に自分のもとに来て学ぶように呼びかけられます。「わたしに学びなさい。そうすれば、安らぎを得られる」と約束されます。イエスは「わたしがあなたたちを休ませよう」(直訳)と断言されます。
 イエスが呼びかける相手は「疲れた者、重荷を負う者」です。イエスが呼びかけるイスラエルの民は、無知な者ではなく、神の律法を与えられて神の知識を持っている民です。ただ、神のことを教える律法が細かい祭儀規定や生活規定となって押しつけられ、それを守れない民にとって裁きや地獄の恐怖となっていたのです。そのような「背負いきれない重荷」(マタイ二三・四)を負わされて、その霊が疲れ果て苦悩している民に、イエスは父の無条件の恩恵を説き、その恩恵に身を委ねることによって平安に入る道を示されます。
 現代のわたしたちは、イエスの時代のイスラエルの民のように律法の重荷の下にはいません。しかし、人生の重荷、錯綜した人間関係、死の不安などに疲れ果て、魂の奥底で呻いていることには変わりはありません。そのわたしたちに、今復活者イエスが呼びかけられます。この復活者イエスの呼びかけは、ヨハネ福音書が端的に言い表し、繰り返し書きとどめています。「わたしのもとに来なさい。わたしを信じる者は死ぬことなく、永遠の命を持つ」と。

                              (天旅 二〇〇五年4号)