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60 ゼロの場に生きる

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。

(マタイ福音書 一〇章八節)


 このイエスのお言葉は、弟子たちを宣教に送り出すにあたって、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、・・・・悪霊を追い払いなさい」という命令の後に加えられたお言葉です。この位置からも分かるように、このお言葉は本来、弟子が世に福音の祝福をもたらす働きをなすにあたって報酬を受けないように求めるお言葉です。
 しかしそれだけではなく、このお言葉はわたしたちが生きている絶対恩恵の場の姿を実践的な形で指し示しています。「ただで受けた」というのは、わたしたちがキリストにあって父から受けたもの―それは聖霊の賜物です―は、わたしたちの働きの報酬として受けたものではないことを言い表しています。今わたしたちがキリストにあって得ている救いの祝福―それは信仰と愛と希望です―は、わたしたちの資格とか価値に応じて与えられたのではありません。まったく働きも資格もない者に与えられた父の絶対無条件の恩恵の賜物です。
 このような恩恵の場は、人間の側の価値がゼロになる場です。わたしがゼロになる場です。「キリストにある」という場は、わたしのために死なれたキリストに結びつけられてわたしが死ぬ、すなわちわたしがゼロになる場です。そして、わたしがゼロになった地点から見ますと、すべてがプラスになります。世界は今までとはまったく違った様相を示し始めます。それまでは自分の働きや価値が正当に報われていないという不満が心の奥底に渦巻いていましたが、ここでは現在の自分が受けているすべて、自分の存在そのものまでもが、それを受けるに値しないわたしに対する父の賜物として感謝でならなくなります。
そのように自分がゼロになっている場では、「ただで与える」ことが当然の生き方になります。自分がゼロですから、相手の価値とか資格を問うことはできません。また自分に対してなされた働きの善悪を問うこともできません。どのような相手にも自分が父から受けた善きものを与えることが当然のことになります。この恩恵の場において、報酬を求めることなく、無条件で善をなす生き方が始まります。イエスはこのことを、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と言い表されました。
 自分がゼロになるとき、キリストが満ちてくださいます。キリストは「終わりのアダム」、すなわち終末の時代に現れる完全な霊的人間です。自分の価値に固執する肉なるわたしがゼロになる場に、神の栄光体であるキリストが生き始めます。これが、人からの報酬を求めないゼロの場に生きる者への神からの報酬です。

                              (天旅 二〇〇五年3号)