市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第57講

57 節 制

 競技をする人は皆すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは朽ちない冠を得るために節制するのです。

(コリントT 九章二五節)


 今年の夏は、多くの人がアテネで行われたオリピック競技のテレビ中継に熱中し感動しました。メダルを獲得した選手たちが、そこに至るまでの苦労を語るのを聞きますと、その目的のために一切を献げる厳しい自己管理と練習ぶりに感銘を受けます。
 古代ギリシアでも事情は同じでした。都市を代表する選手にとって、オリンピック競技に優勝して月桂樹の冠を受けることは、都市の英雄として最大の栄誉を獲得することでした。そのために選手は厳しい訓練に耐えました。このよく知られた競技での栄誉を比喩として、使徒パウロはわたしたちに「朽ちない冠を得るために節制する」ように促します。
 競技の優勝者が受ける冠はただの月桂樹の冠であったり、与えられるメダルは小さな金属片に過ぎませんが、その栄誉は昔も今も大きいものです。時には金銭的な利益も伴います。しかし、その栄誉はいくら大きくても、地上のことです。やがては過ぎ去ります。それでも、競技者たちはその朽ちる冠を得るために厳しい節制をして、練習に励みます。
 わたしたち福音によって召された者は、「御国を受け継ぐ」ように、言い換えれば「神の子の栄光にあずかる」ように召されているのです。わたしたちには「朽ちない冠」が差し出されています。その冠は主に従う者たちに約束されていますが、それは神の恩恵によって賜り、神の信実によって保証された約束です。わたしたちは、「朽ちるものにではなく、朽ちないものに目を注いで」、その「賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」のです。
 競技選手たちの厳しい節制は、わたしたちに節制の重要性を教えています。節制とは自己管理(セルフ・コントロール)のことです。一つの目的のために生活の一切を集中する姿勢です。肉体の健康を維持するにも自己管理は欠かせません。欲望のままに食べたり飲んだりしていては健康の維持はできません。魂を健康に保ち、御霊の導きにあずかり、命の道を全うして「朽ちない冠」を受けるには、人生のすべてをこの一つの目標に集中し、不要なもの、妨げになるものを切り捨て、投げ捨て、目標に集中するという自己管理が求められます。わたしたちは地上に生きる限り、様々な事柄に心を配らなければなりませんが、無くてはならぬものは一つだけです。多くの事柄をその一つの目標に統合して、その目標に集中するための自己管理が「節制」です。

                               (天旅 二〇〇四年6号)