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56 原理主義

「しかし、わたしは言う。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。

(マタイ福音書 五章四四節)


 最近「原理主義」という言葉を聞くことが多くなりました。とくにテロ事件でイスラーム原理主義の過激派が関係したというような報道や解説がよく聞かれます。また、テロに対抗するアメリカの武力行使の背後にはキリスト教原理主義の勢力があるとも言われます。それで、宗教的原理主義は世界に暴力をまき散らす元凶として非難されることになります。いったい、原理主義とは何でしょうか。
 そもそも宗教における原理主義とは、その宗教なり信仰の基本的原理に忠実に生きようとする姿勢であり、その忠実さにおいて一切の妥協を斥け、厳格で徹底的であろうとする態度です。したがって、その宗教自体が邪悪なものでないかぎり、原理主義そのものは悪いもの、非難すべきものではありません。問題は宗教の基本的原理に徹底的に忠実に生きようとするさい、それを妨げる勢力に対する態度です。その妨害が言葉による批判とか非難であれば、言葉によって対抗することができます。しかし、その妨害が力ずくのものになってきた場合、原理主義者はともすれば力によって対抗し、力ずくで自分の原理主義を実現しようとします。その実例は、すでに新約聖書の時代にありました。イエスの時代のユダヤ教原理主義者たちは、ユダヤ教律法に忠実に従うために、異教徒のローマ人の支配を力ずくで覆そうとし、そのためにテロや武力行使に走りました。
 イエスの「しかし、わたしは言う」の「しかし」は、このような力に頼る原理主義に反対するのです。ここで「敵」とは「迫害する者」、自分の信仰を力ずくで抹殺しようとする者です。そのような敵に対して、力をもって反撃するのではなく、復讐するのでなく、彼らの救済を祈るという、正反対の道を歩むように求められるのです。「山上の説教」の核心をなすこの有名なイエスの言葉は、このような力ずくの原理主義とは反対の道を指し示す言葉です。
 イエスご自身も原理主義者でした。父の無条件絶対の恩恵の場に生きられたイエスは、隣人に対して、敵に対しても、このような恩恵の支配の原理に生き抜かれたのです。キリスト者に原理主義があるとすれば、それは自分の教義を力ずくで他者に押しつけることではなく、イエスの弟子として、イエスのこの言葉に徹底的に従うこと、そのために自分が殺されても従うという生き方です。殉教者たちはこの原理に殉じた人たちとして、信仰の勝利者でした。

                              (天旅 二〇〇四年5号)