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55 未来から来た民

 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

(フィリピの信徒への手紙 三章二〇節)


 最近よく、日本人はもっと日本の歴史に思いをひそめ、日本固有の伝統をしっかりと身につけて新しい文化を創造してゆかなければならないという声を聞きます。それは当然です。それぞれの民族は固有の歴史をもち、違った伝統を土壌にして、様々な文化の花を咲かせています。違った色彩の花を咲かせている多くの民族が共存して、世界が百花繚乱の花園になることは、想像するだに楽しいことです。このように諸民族が過去に目を向け、過去に自己のアイデンティティーを求めているとき、その中に未来から来た特別の民がいます。それはキリストの民です。この民にも歴史はあります。しかし、この民の存在の根拠は過去の歴史にあるのではなく、未来にあります。この民の本籍は未来にあります。
 この民は、「わたしたちの本国は天にある」と自覚しています。そのさい、「天」とは空のかなたという空間的概念ではなく、歴史の終わり、歴史が完成する終末という時間的概念です。終末とは、創造者の目的が完成し、時間が絶え果てる世界のことです。そのような終末に属する民として、キリストの民は歴史の中を寄留者として旅しています。そして、自分の本国であり故郷である終末を首を長くして待望している姿が、「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っている」と言い表されます。この姿に、この民が終末から来た民であることが現れています。
 この民は、歴史の中で終末を先取りして生きています。彼らが民族伝来の神話や宗教祭儀を脱し、神の霊によって、子として霊なる父を礼拝し、霊なる父との交わりに生きるとき、彼らは終末に実現する霊的事態を先取りしているのです。また、彼らが、強い者がその力によって弱い者を支配するという歴史の原理を克服して、強い者がその力によって弱い者に仕えるという原理で共同体を形成するとき、彼らは「羊が狼と共に宿る」という終末を先取りしているのです。彼らが、その主に従って敵を愛する愛に生きるとき、終末における絶対愛の父の支配を、この世界の中で先取りしているのです。
 この終末の先取りは聖霊の働きです。聖霊は、来るべき神の支配という終末の事態を、生まれながらの人間本性が支配するこの世界のただ中に実現する力です。それは、歴史においてはなお戦いの中にあります。しかし、聖霊によって生きるキリストの民は、終末から来た民として、終末を先取りしながら歴史の中を歩みます。

                              (天旅 二〇〇四年4号)