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51 受肉の祝祭

イエスを言い表さない霊はすべて神から出たものではありません。

(ヨハネの手紙T 四・三 私訳)


 わたしたちの信仰は「イエス・キリスト信仰」です。「イエス・キリスト信仰」とはイエス・キリストとの交わりのことです。わたしたちは信実な神によって、「神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(コリントT一・九)。  使徒パウロは、「キリストにあって」生きているわたしたちの姿、すなわち霊なるキリストが働いてくださっている場に生きるわたしたちの在り方を「キリストの信仰」と呼んでいます。それは、わたしの外にいますキリストを対象とするわたしの働き、すなわちわたしが「キリストを信じる信仰」ではなく、キリストがわたしを愛して、わたしに働きかけてくださることにより、御霊の場に成り立つキリストとの交わりです。わたしはこのような信仰を「キリスト信仰」と呼んでいます。
 この霊なるキリストは、イスラエルの歴史の中にイエスとして現れ、十字架につけられて死に、三日目に復活して、霊としてわたしたちに働きかけるキリストとなられた方です。キリストとイエスは切り離せません。イエスが復活者キリストとなっておられることを告白するのが復活信仰であり、復活者キリストが地上ではナザレのイエスであったことを告白するのが受肉信仰です。地上ではイエスとして現れた復活者キリストとの交わりを、パウロは「イエス・キリストの信仰」、「キリスト信仰」と呼んでいます。
 霊なる復活者キリストから切り離されたイエスは、わたしたちに高度な倫理を教える教師となります。イエスから切り離されたキリストは、人間のあらゆる霊的体験の名称になります。そこにはどのような霊的出来事をも含ませることができ、際限のない神話が発生します。これは、古代のキリスト教史にグノーシス主義として実際に起こったことです。
 ヨハネ福音書を生み出した共同体の中に、このようなイエスから切り離されたキリストを教える教師が起こったとき、それが偽りであることを厳しく指摘したのが「ヨハネの手紙」です。イエスから切り離されたキリストでは、イエスの十字架の死が無意味になります。「イエスを言い表す」、すなわち十字架の上に死なれたイエスこそ神の子キリストであることを告白する霊が神から出た霊です。
 クリスマスは世界に「イエスを言い表す」祝祭、受肉の祝祭です。そのことによって、わたしたちはイエスの十字架の死を神の究極の愛の啓示であると世界に告知することができるのです。

                              (天旅 二〇〇三年6号)