市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第50講

50 わたしには乏しいことがない

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。

(詩篇  二三編一節)


 牧畜を生業の一部とするイスラエルの民は、自分たちの神ヤハウェが必要を満たし守ってくださることを、羊飼いのイメージで語りました。そして、イスラエルの神信仰の遺産を継承したキリストの民も、二〇〇〇年にわたって、この詩篇を自分の歌として歌い続けてきました。もはや山地や草原に羊を飼うことがなくなった都市生活者にとっても、この詩篇は不思議に実感をもって励ましを与えます。
 考えてみますと、幼児は乏しいという意識を持つことはありません。生まれたばかりの赤ん坊は、空腹になれば生理的に反応して泣きますが、餓死するのではという不安とか欠乏の意識はありません。親が必要なものは用意して与えてくれることが当然であって、幼児は欠乏を意識することなく成長していきます。この無意識になっている人類の根源的な体験が、欠乏に苦しまなければならない状況において想起されて(自覚されて)、自分の存在の根源である神、すなわち親と言うべき神に向かって、信頼の言葉となって叫び出されます。
 イスラエルの民は、「緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われ」て、いつも十分な食べ物や水を与えられ、欠乏の意識も不安もない羊の姿に自分を重ね、神への信頼を告白しました。牧畜の体験のないわたしたちも、この人類に普遍的な幼児の根源体験を共有しているので、この羊飼いと羊のイメージが実感されるのではないかと思います。
 主イエスは、「わたしはよい羊飼いである」と言われました。復活者イエスに導かれる羊として、わたしたちは、このキリストにあって新しいいのちに生まれさせてくださった父なる神に全幅の信頼をもって身を委ね、欠乏を心配することなく、意識することもありません。父は新しく生まれたこの「いのち」を養い育てるために必要なものをすべて備えてくださっています。わたしたちは欠乏を心配することなく、身を委ねて父を賛美し、必要があれば祈り求めていけばよいのです。
 キリストの民は、この地上の身体や生命に関しては欠乏の極点にいるような時にも、この信頼と賛美の祈りを捧げてきました。それができるのは、新しく自分の内に生み出された「永遠のいのち」について、そのいのちを生み出してくださった父が、そのいのちの完成にとって必要なものをすべて備えてくださっており、「わたしには乏しいことがない」ことを知っているからです。

                              (天旅 二〇〇三年5号)