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49 栄光の希望

 さらにまた、この方により、わたしたちがいま現に立っている恵みに導き入れられ、神の栄光にあずかる希望をもって歓んでいます。

(ローマ書 五章二節 私訳)


 使徒パウロのこの文は、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより神との和を得ています」(五・一 私訳)という文に続いて語られたものです。信仰によって主イエス・キリストと結ばれている者、すなわち「キリストにある」者は、神がキリストにおいて備えてくださった和解により、義とされて神との交わりに生きることを許されています。そこは恵みの場です。わたしたちはいま現に恵みの場にいるのです。
 現に恵みの場に生きていることの最初の標識として、パウロは希望をあげます。しかも、それは「神の栄光にあずかる希望」という途方もない希望です。この希望はあまりにも遠大すぎて、日常の体験の枠内でしか将来のことを考えられないわたしたちには、理解と想像を超えます。しかし、その内容は正確に理解できなくても、キリストにあって与えられる将来は何か栄光に満ちた輝ける将来であることは直感できます。このように、自分の将来を栄光に輝く方向に見るという魂の向きが「希望」です。
 「キリストにあって」与えられる希望は、何か人生の出来事に根拠があって生じるものではありません。現在の状況がこうであるから、将来はこのように輝くものになるだろうという予測ではありません。具体的な根拠が何もなくても、むしろ人生の現実はさらに苦難を予想させるような状況であっても、そのような実際の状況とは関係なく、内なる魂が栄光に満ちた将来に向かって歓ぶという「魂の方向」です。わたしたちの側には何の理由も根拠もないのに与えられるという点で、この「希望」は神の恩恵の現実的な現れの一つです。
 このような「魂の方向」は聖霊の働きの結果です。キリストにある恩恵の場に働く聖霊は、地上の状況に関係なく働き、むしろ苦悩の中でこそ力強く働き、キリストにある者の魂を、栄光の将来に向けさせます。わたしたちは、現実には希望を持つことができない状況で、祈りの中で思いがけず突然希望に満たされて立ち上がることがあります。とくに老年期は将来を期待する地上の根拠が次々に失われていく時期です。そのような時にはますます、恩恵の場に働く御霊が「同伴者」として寄り添っていてくださることが慕わしくなります。

                              (天旅 二〇〇三年4号)