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47 キリストの本願

「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいるところに、共におらせてください」。

(ヨハネ福音書 一七章二四節)


 復活して天に上られたイエスは、今神の右に座して何をしておられるのでしょうか。十字架の上に死なれたイエスは、三日目に死人の中から復活し、キリストとして立てられました。その「死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」のです(ローマ八・三四)。わたしたちのために死なれたキリスト・イエスは、復活して神の右に座し、今わたしたちのために執り成してくださっているのです。このようなキリストがいてくださるから、わたしたちはいかなる状況においても、「だれがわたしたちに敵対できるのか」と、勝利の凱歌をあげるのです。
 使徒たちとその時代のキリストの民は、聖霊の力強い働きの中で、このような復活者キリストの執り成しを身近に実感しながら歩みました。彼らは祈りの中で、その祈りがもはや自分が祈るのではなく、内にいます御霊が呻くように執り成してくださっていることを体験してきました(ローマ八・二七)。その御霊の執り成しの中に、復活者キリストの執り成しを実感しました。そして、ヨハネ福音書の著者は、それを地上のイエスの祈りとして表現したのです。最後の食事の席で弟子たちのために祈られるイエスの祈り(ヨハネ福音書一七章)は、神の右に座して執り成しをされる復活者キリストの祈りに他なりません。
 その中で、イエスは標題に掲げた祈りをされるのです。復活者キリストは、御自分に属する者たちが御自身のおられるところに、すなわち復活の命の次元に共にいることを願って、そうなるように父に執り成しておられるのです。この願いこそキリストの本願です。このキリストの本願があるからこそ、地上の欲望と卑しい願望に引きずられがちなわたしたちも、この本願に励まされて、キリストに到達すること、死者の中からの復活に達することを願い、それを目標として歩むことができるのです。
 わたしたちの中にあるこの願いは、聖霊によってわたしたちの中に働くキリストの本願です。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても(この地上に生きているときも死んでこの世を去ってからも)、主と共に生きるようになるためです」(テサロニケT五・一〇)。

                              (天旅 二〇〇三年2号)