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46 一人ひとりのクリスマス

 あなたがたは神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。

(ローマの信徒への手紙 八章一五節)


 クリスマスはキリストの誕生を祝う祝日です。わたしたちの救い主である神の子キリストがこの世界にお生まれになったのです。救い主をこの世界に与えてくださった神に感謝し、賛美しないではおれません。しかし、もしわたし自身が神の子として生まれていなければ、キリストがこの世界にお生まれになったことは何の意味があるでしょうか。それはわたしと何の関係もない別世界の出来事です。わたしがキリストにあって「神の子とする霊を受け」、神の子として誕生しているからこそ、その誕生を与えてくださった救い主キリストの出現を神に感謝し賛美するのです。
 したがって、キリストの誕生を祝うクリスマスは、実はわたし自身の神の子としての誕生を祝う祝日であるのです。マタイとルカの両福音書の冒頭にある誕生物語は、イエス誕生の歴史というより、復活によって神の子と立てられたキリストの出現を賛美する歌集であり、このキリストによって神の子として生まれた者たちの誕生賛歌です。
 福音書の誕生物語には三つの強調点があります。第一は、神の子キリストの誕生は神の約束の成就であること、第二は、神の子キリストの誕生は聖霊の働きによること、第三は、その出来事が貧しい者たちの間に起こったことです。そしてこの三点は、わたしたちが神の子として誕生するさいの姿であるのです。
 わたしたちは自分で神の子となることはできません。福音という神の約束の言葉にひれ伏して、その言葉を受け入れたとき、その言葉がわたしたちの身に成就実現して、わたしたちを神の子とするのです。このことは、天使の言葉に「お言葉どおり、この身に成りますように」とひれ伏したマリアの姿に描かれています。そして、その言葉を実現する働きが、キリストにあって賜る聖霊です。この霊によって、わたしたちは「アッバ、父よ」という祈りの世界に入り、いっさいを父の配慮に委ねる子としての歩みを始めるのです。このような出来事は、わたしたちが貧しい者になったとき、すなわち自分が砕かれてなくなった場に起こるのです。
 世はクリスマスのお祭り騒ぎの中で、このキリストの出来事とまったく無関係に自分の楽しみと利益だけを求めています。その中で、わたしたちキリストにある者は、クリスマスに神の子としての自分の誕生を祝うことによって、それを与えてくださった神を賛美するのです。

                              (天旅 二〇〇三年1号)