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40 聖霊による変容

 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

(コリントU 三章一八節)


 わたしたちを罪の支配力から解放して自由にしてくださった神は、わたしたちに「これからは自分の力で好きなように生きよ」と言っておられるのでしょうか。そうではありません。キリストにあって働く命の御霊の力によって解放してくださった神は、同じ御霊によってわたしたちを「主と同じ姿に造りかえる」ために働き続けられます。もし前述(曙光39)の解放が、法廷での無罪判決という性質のものであれば、釈放された人はまた以前と同じ生活に戻るだけとなるでしょう。しかし御霊による解放は違います。内に働き続ける御霊の力によって、キリストの像(かたち)へと造り変えられていくのです。
 ここで鏡の比喩が用いられています。鏡に覆いが掛けられている時は、光を反射することはできません。わたしたちのこの世での生活には伝統や習慣や宗教など様々な種類の覆いがかけられていて、神がキリストにおいて現しておられる栄光を映し出すことができないでいます。わたしたちがキリストの中へ入ると、覆いを取り除かれた鏡のように、キリストの栄光を映し出すようになります。鏡の比喩はここまでです。わたしたちの内に宿るキリストの栄光は、それを宿す者を造り変える働きをし続けます。
 ここで「造り変える」と訳している動詞は《メタモルフォオー》です。《モルフェー》(形姿)を変えるという動詞ですが、外形だけでなく内実を変える、性質や生活を変えるという意味でも用いられます。パウロは、聖霊が人間の本性と在り方を変えていく聖霊の働きを、この動詞で表現しています。その変容の目標は、キリストと同じ姿、形です。この動詞は受動態で用いられていますが、その働きをする主語は、この節の最後の文が明確に語っているように、聖霊です。
 神の霊の働きによって、人間が囚われている反神的な諸力から解放されて、神の栄光を表現するキリストの形姿に造り変えられていくこと、これが救いです。救いは現在の過程です。その現実に生きている者は、その過程の先に、その過程を開始された神の信実に基づいて、その過程の完成を待ち望むことができます。神の霊が歴史のただ中に働く終末的現実は始まっています。われわれはその完成を待ち望みます。