市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第35講

35 墓の前で

 わたしたちは知っています、わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを。

(コリント第二 五章一節)


わたしたちは今、長年信仰の歩みを共にした兄弟、愛する夫、慈しんでくれた父親、親しい友人であった者の墓の前に集っています。それは過ぎ去ってしまって取り戻すことができない過去を嘆くためではなく、勝れる未来があることを知っている者として、その希望によって現在を生きる者として、過ぎ去った時をその希望の光の中で顧みて、そこに注がれていた神の恵みを賛美するためです。
 わたしたちキリストにある者は知っています。キリストは復活して今も生きておられること、そしてキリストに合わせられて生きるわたしたちの中にキリストが生きておられることを知っています。わたしたちは死後の世界がどのようなものかは知りません。しかし、それがどのようなものであれ、そこでもこの世界でそうであったのと同じように、キリストと共にあることを知っています。この世でキリストのゆえに無条件に受け容れてわたしを恵みの世界に生かしてくださった愛の神が、来たるべき世でも支配しておられることを知っています。
 わたしたちは今、故人が地上に残した一片の骨、それを納める冷たい墓石、そこに刻まれるべき故人の過去の事蹟という見えるものに目を注ぐのではなく、神の言葉、神の恩恵、来たるべき神の支配という見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。この標題の言葉に続く一段で、使徒パウロは幕屋と建物の比喩や衣服を脱ぐとか着るというような表現で、この体を離れて主のもとに住むことを切望していることを切々と語っています。
 パウロは「わたしには生きるとはキリストであり、死ぬのは益なのだ」と言って、どちらを選ぶべきか、二つの間で板挟みになっていると告白しています。パウロは生と死という人間には絶対的な対立を相対化しています。墓は、その前にいる生ける者とその中にいる死せる故人との間に、越えることできない絶対的な相違という淵があることを思い知らせます。しかし、キリストにあっては、生と死は相対化され、この世にあることとかの世にあることの違いは、キリストにあることによってどちらもよいことになります。こうして、キリストにおける神の恵みは死に打ち勝ちます。