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30 見えないものに目を注ぐ

 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

(コリントU四・一八)


 先に(曙光29で)病み、老い、死にゆく自分を「外なる人」と見る別の自分、「内なる人」がいることを見ました。その「内なる人」はいつも「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎ」生きています。
 では、「内なる人」はなぜ「見えないもの」に目を注いで生きるのでしょうか。それは、見えるものは過ぎ去ることを知っているからです。「見えるもの」というのは、肉眼で見えるものだけでなく、人間が理性を含むすべての能力と体験をもって知りうることの全体を指しています。その全体を世界というならば、世界は過ぎ去ります。「内なる人」は、自分が過ぎ去りゆく世界に属する者でないことを知っています。「見えないもの」、すなわち人間のすべての体験と能力では理解しえない彼方の現実、人間はそれに畏怖と渇望をもって対せざるをえない「聖なるもの」は過ぎゆくことなく永遠に存続することを、「内なる人」は知っているからです。
 ところで「見えないものに目を注ぐ」とはどういうことでしょうか。それは見えないものを無理に見ようとして励むことではありません。見えないものは最後まで見ることはできません。この逆説的な表現は、見えないものに自分の全存在を投げ込んで生きる姿を指しています。そして、この言葉を語った使徒パウロにとって、「見えないもの」は漠然とした永遠の世界というものではなく、この言葉が出てくる文脈から、死者の復活を指しています。この言葉の直前で、パウロは自分はいつも死に直面して生きているが、イエスを復活させた神が自分も復活させてくださると信じていることを語り、この言葉の直後では、死者の復活という「見えないこと」を建物の比喩を用いて語っています。パウロは、人間の理解をはるかに超える復活の希望に自分を投げ込んで生きているのです。
 わたしたちキリストにある者は、福音によって告知されている神の約束と、その約束の言葉の背後にある神の信実だけに身を委ねて、人間の体験と理解をはるかに超えた復活の希望に生きています。「信仰とは、望んでいる事柄の実体、見ていない事態の確認」です。ここでは信仰と希望は一つです。わたしたちは復活というまだ見ていない現実を、ただそれが神の言葉であるという根拠だけに基づいて生きるのです。