市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第26講

26 命を与える霊

わたしが生きているので、あなたたちも生きるようになる。

(ヨハネ福音書 一四章一九節 後半)


 これはイエスが十字架につけられる前の晩に弟子たちに語られた言葉です。弟子たちは、先に(曙光25で)見たように、現在すでに神から受けた命の霊気で生きているのに、「あなたたちも生きるようになる」と未来形で語られるのはなぜでしょうか。それは、そうなる根拠として、十字架を前にして「わたしが生きているので」と語られるイエスの言葉が指し示しています。
 土の塵で造られた人間の体は土に帰るように定められています。神はその体に命の霊気を吹き入れて生かしておられますが、それは期限付きです。その命の息が取り去られる時が来ます。これを現代の生命科学の用語で言いますと、人間の体の設計図であるDNAには成長から死に至る全過程が書きこまれているということになります。人間は誕生の瞬間から死に向かって歩んでいるのです。だれもこの定めを変えることはできません。今わたしたちが生きている命は死に定められた命です。
 イエスもわたしたちと同じ死に定められた体をもって生き、その死に臨んでこの言葉を語られたのです。イエスが「わたしが生きるので」と言われた命は、この死に定められた命とは別種の命、死を超えて生きる命、復活の命、永遠の命なのです。事実、神はイエスを死者の中から復活させて、イエスが「わたしは生きる」と言われた言葉の中身を実証されました。
 イエスは復活してキリストとして立てられ、今わたしたちが生きている命とは別種の命、復活の命を生きておられます。それで、このイエス・キリストに自分を引き渡して合わせられる者に、ご自分が生きておられる命を与えることができるのです。神は今キリストにある者は、神への背きの罪を赦し、聖霊、すなわちイエスを死者の中から復活させた霊を注いで、復活されたイエスが生きておられる命に生きるようにしてくださいます。こうしてイエス・キリストは「命を与える霊」となられました。命を与えるとは命のないところに、すなわち死の中に命を創り出すことです。このように「命を与える霊」となられたキリストを、パウロは、最初に神から「命の息」を吹き入れられて人間となったアダムと対比して、「終わりのアダム」と呼んでいます。終わりのアダムは、終わりの時に神が創造される人間を代表しています。わたしたちはこのキリストにあって復活への命、永遠の命を生きます。