市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第25講

25 生命への畏敬

 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

(創世記 二章七節)


 聖書は「初めに、神は天と地を創造された」という宣言で始まります。天地万物の存在は神の働きの結果だという宣言です。その創造の働きの頂点として人間の創造が語られますが、標題の言葉は、人間の身体とそれを生かす「命の息」が共に神から与えられたものであることを語っています。人間だけでなく天地に満ちる生命はすべて神から出たものです。神こそすべての生命の源泉です。ですから、神への畏敬は生命への畏敬を伴います。また、生命への畏敬は神への畏敬となります。自他の命を尊び慈しむ者は神を畏れ敬っているのです。自他の命を軽んじ滅ぼす者は神への最大の反逆者です。
 土の塵(地上の物質)で造られた身体をもつ人間を「生きる者」とするのは、神が吹き入れられる「命の息」、すなわち「生かす霊」です。聖書の用語では息は霊の象徴です。神からの霊によって生きる者となった人間は、子が親を慕い求めるように、命の根源である神を慕い求めないではおれません。人間は生まれながら宗教的人間、宗教する生物です。神を慕い求める人間の営み(=宗教)は、ときにグロテスクな形態を取りますが、生命への畏敬の形で現れるとき健全な方向にあると見ることができます。「木は実によって知られる」のです。自分の宗教のために人を殺すような宗教は正しい宗教ではありえません。
 「生命への畏敬」という言葉は「アフリカの聖者」と呼ばれたアルバート・シュヴァイツァー博士を思い起こさせます。博士は優れた神学者にして音楽家でしたが、アフリカの病苦に苦しむ貧しい人たちを助けるために医学を学び、コンゴで医療活動に従事し、キリスト信仰の根源にある生命への畏敬を身をもって実践し、その「生命への畏敬」の思想を世界に訴えました。病苦に苦しむ人をいやそうと真摯に尽くしている医師は博士と同じく生命への畏敬に、従って神への畏敬に生きている人たちです。
 キリスト者は、神が天地万物の存在の根源であり、生命の源泉であることを知っています。キリストにあってこの神を畏れ敬う者の生き方は、自分の命を大切にするのと同じように、隣人の命を大切にして仕える生き方になります。これが人間の倫理とか道徳の土台となる根本原理です。