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21 キリストの信・愛・望

 「わたしたちは父なる神の御前で、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐を絶えず思い起こしています。これらはみな、わたしたちの主イエス・キリストに結ばれているところから出るものなのです」。

(テサロニケT 一章三節 私訳)


 これは使徒パウロがテサロニケで福音を宣べ伝え、信じる者たちの集会を立てあげた後、迫害されて移動した次の伝道地コリントからテサロニケの人たちに書き送った手紙の挨拶部分の一節です。ここでパウロは彼らが自分と共にしてくれた「信仰の働き、愛の労苦、希望の忍耐」を絶えず思い起こして神に感謝しています。この三つはキリストにあって生きるようになった者たちの生き様に現れる基本的な標識です。実を見て木を見分けるように、この標識で人がキリストに結ばれて生きていることを見分けます。
 ここで重要なことは、パウロはこの信仰と愛と希望という生の三つの新しい姿に、「主イエス・キリストの」という説明を最後に加えていることです。パウロの言う信仰はキリストの信仰、愛はキリストの愛、希望はキリストの希望です。大抵の日本語訳はこの「主イエス・キリストの」を直前の希望だけにかけていますが、これは間違いです。先行する三つ全体にかかります。信仰と愛と希望は一つの命の現れ、聖霊によって賜った新しい命の現れであり、切り離すことはできません。「キリストの」という説明は、三つの姿に現れている一つの命の源泉を指し示しています。
 「キリストの信仰」とはキリストに結ばれ、キリストにあって生きる事態の全体です。わたしはこれを「キリスト信仰」と呼んでいます。キリストを対象とする信仰ではありません。自分がキリストを信じているのではなく、キリストに捉まれ、内なるキリストが生きていてくださる現実の全体です。「キリストの愛」とはキリストを愛する愛よりも、キリストにあって受けている無条件絶対の愛に生きている事態です。恩恵の場にいることで、自分も相手の価値を問わないで愛さないではおれない生き方です。「キリストの希望」とは、復活者キリストが内に生きておられるので、将来の死者からの復活を神の約束として望まないではおれない生き方です。このキリストにあって生きるという源泉から生まれる信仰と愛と希望により、困難に満ちた人生において、忍耐をもって労苦をいとうことなく、希望に満ちた生き方が出てきます。信仰と愛と希望、この三つはキリスト者にとって人生の宝です。