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17 聖霊の賜物としての愛

愛はすべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う。

(コリント第一書簡 一三・七 私訳)


 パウロはコリントの集会に宛てた第一の手紙の一二章から一四章で、預言や異言、知識や信仰、癒やしの力など、集会に与えられた豊かな聖霊の働きを列挙し、それらの霊の賜物《カリスマ》をいかに神の御旨に従って用いるべきかを懇切に語っています。その中で「わたしは最高の道を教えよう」と言って、神の霊の最高の賜物である愛について語り出します(一三章)。
 そのような霊の賜物がいかに大きくても愛がなければ一切が虚しいと前置きして、愛の働きを動詞を列挙して語り出します。はじめの二つは「忍耐強い」と「情け深い」と肯定形ですが、後に続く八つは否定形で「ねたまない」以下、嫉妬、自慢、高慢、無礼、自利、いらだち、怨恨、不義への共感など、人間本性に巣くう自我心からの悪が駆逐されることを描き、最後に標題の言葉で締めくくられます。この標題の言葉で用いられている「すべて」は、どのような相手にも、またどのような状況でも愛が示す姿を強調しています。「愛はすべてに打ち勝つ」のです。
 ここでパウロはこれらの動詞の主語としての愛を指すのに《アガペー》という語を用いています。愛を指すのに、ギリシア語では他に親子とか恋人、友人など間の自然の情愛を指す《フィリア》とか、何かより優れた価値を慕い求める《エロース》という語がよく用いられていましたが、パウロや他の新約聖書はこのような語は避けて、一般にはあまり用いられていない《アガペー》を用いています。それは、イエスによって示され、聖霊によって内に与えられる新しい命の質としての愛は、このような人間に固有な自然の愛とは質が違うからです。
 その質の違いは、先に(曙光16で)見たようにイエスは敵を愛する無条件絶対の愛として示されましたが、パウロも聖霊によって新しい命に生きる者の愛の姿を語っています(ローマ書一二章)。そこでパウロは「迫害する者のために祈れ」とか、「悪に悪を返さず、善をもって悪に勝て」など、イエスと同じことを言っています。敵を愛する愛は生まれながらの人間本性には不可能ですが、キリストにあって聖霊が人間に新しい命を与えてくださるときに可能となり、御霊に従って生きる人間の内に実現します。新約聖書は「神は《アガペー》である」と告知し、「《アガペー》に生きる者は神を知っている」と宣言します。