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12 続・キリストとアミダ

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。

(コリントT 一五・三〜五)


 先に(曙光11)アミダ仏は仏教が説く救済者であるとして、福音が告知する救済者キリストと比較しました。その際、両者を比較する上で省略することができない重要な点に(字数の制限から)触れることができませんでしたので、ここでそれを補っておきます。
 それは福音が告知する救済者キリストは「わたしたちの罪のために死んだ」方であるという事実です。アミダ仏にはそのような死はありません。法蔵菩薩が五劫の求道の末に悟りを開いて如来となりアミダ仏となったとされますが、その際苦悩する衆生を深く憐れむ慈悲心から、「誰でもわたしの名を称えてわたしの国に生まれることがないならば、自分も仏にならない」という願を立てたとされます。その願は成就してアミダ仏と成っておられるのだから、今その名号を称え念仏する者は誰でもアミダ仏の本願によって浄土に生まれるという念仏往生の信仰が説かれます。これはまことに美しい思想です。おそらく人類が到達した最高の宗教思想でしょう。自分の力や働きではなく、自分を超える人格の慈愛の力によって救われるとしたのは、救済宗教の王道を往くものです。しかし、アミダは実在の人格ではなく、人の思想の中の人格です。
 それに対して福音が告知するキリストは、ナザレのイエスとして歴史の中に現れ、十字架の死で生涯を終えた実在の人物です。標題にかかげた文は世界の諸国民にキリストの福音を宣べ伝えた使徒パウロの手紙の一節ですが、そこでキリストの身に起こった出来事が「死んだ、葬られた、復活した、現れた」と実際の人物の出来事として物語られています。後半の「復活した、現れた」はこのイエスがキリストとして立てられたことを宣言しますが、前半の「死んだ、葬られた」には「わたしたちの罪のために」という意義が加えられ、全体として「十字架されたキリスト」、「わたしたちのために死なれたキリスト」を告知しています。聖書の神は、長年聖書において約束してこられた救いの働きをイエスにおいて実現されたのです。その出来事によって罪の苦悩の中にある者たちへの慈愛を具体的に示されたのです。ここに基本的な違いがあります。