市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第11講

11 キリストとアミダ

 あなたの口でイエスは主であると言い表し、あなたの心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、救われるのです。

(ローマ書 一〇章九節 私訳)


 福音は十字架につけられて殺されたナザレのイエスを神は復活させてキリストとされたと告知し、その告知を信じる者は救われることをこの言葉で確認します。この言葉を聞くと、仏教、とくに浄土系仏教の伝統に親しんできたわたしたちには、アミダ仏を心に念じ、口でその名号を称えるならば救われると唱えた法然や親鸞を思い起こします。この仏教の救済告知と福音とはどう違うのでしょうか。
 もともとブッダの教えは個人の内面的な悟りによって無明の苦悩から解脱する道を説く悟りの宗教でした。その仏教がインドと中国を経て日本で展開する長い年月の間に、誰でも信じる者は救われる救済者アミダを立てる大衆の救済宗教へ変容したのです。「キリスト」を救済者を指す称号とするならば、アミダは仏教におけるキリストです。仏教もその長い歴史の果てに救済者キリストを告知する宗教になったのです。
 では仏教における救済者アミダと福音が告知するキリストとはどう違うのでしょうか。まずアミダが人間の願望や思想の中にある人格存在であるのに対して、福音が告知するキリストは実際に歴史の中に出現したイエスという人物が神の力によって復活し、今も神の力によって働く救済者であることが違います。このキリストとしてのイエスを指す名「イエス・キリスト」が個人名になったので、この方の地位を示す称号として「主《キュリオス》」が添えられて「主イエス・キリスト」が福音が告知する救済者の名となりました。
 仏教徒がアミダに帰依することを南無阿弥陀仏という称名で言い表すとき、アミダ仏の本願によって救われます。しかし、その救いは人間の内面における変化です。確かに内面の変化は人生を変える力があります。それに対して福音は信じる者に働く神の力です。それは人間の全体を変えます。深みにある霊性も、知情意の心性も、ときには身体も変えます。それは神の力である聖霊の働きです。先に(曙光9で)述べたように福音のキリストが与えるものは聖霊の賜物です。
 福音はアミダ信仰を包摂完成します。福音は仏教徒にキリスト教への改宗を求めるものではありません。どの宗教の人でも、福音が告知する主イエス・キリストに帰命してその名を言い表すキリスト信仰に生きるならば、神の救いの力を体験するのです。