市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第7講

7 わたしの内に生きるキリスト

 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

(ガラテヤ書 二章 二〇節)


 前回の「わたしの死としてのキリスト」において、「キリストにあって」という恩恵の場では、自分を根拠とし自分のために生きるこれまでのわたし、生まれながらの命に生きるわたしは死に、キリストだけを根拠としキリストのために生きる別のわたし、新しいわたしが生き始めることを述べました。この事実を、パウロはここではこのような表現で語り出しています。 「生きているのは、もはやわたしではありません」というときの「わたし」は、自分を根拠とし自分のために生きるこれまでのわたし、生まれながらの命に生きるわたしです。その「わたし」はキリストの死に合わせられて死にました。では今生きているのは誰かというと、前回は「キリストを根拠としキリストのために生きる別のわたし、新しいわたし」が生き始めるのだと書きました。そのことをパウロはここで端的に、「キリストがわたしの内に生きておられるのだ」と語ります。そうすると、新しく生き始める別のわたしとは、キリストが内に生きていてくださっているわたし、キリストに合わせられて生きるわたしということになります。この消息をパウロは、「もしわたしたちがキリストの死の形に合わせられたのであれば、その復活の形にも合わせられることになる」(ローマ六・五)と言っています。わたしたちは十字架のキリストに合わせられて死に、復活のキリストに合わせられて新しい命に生きるのです。
 自分を根拠とし自分のために生きるわたしを「自我」と呼ぶならば、その自我が打ち砕かれて(=死んで)生まれる、「キリストがわたしの内に生きておられる」という新しいわたし、キリストと一つになって生きるわたしこそ、わたしを存在させている神が欲したもうわたし、本来のわたしです。この本来のわたしをどう呼ぶべきか知りませんが、この失われている本来のわたしを取り戻すことがわたしの救いであり完成です。
 その本来のわたしを生み出すのは神の霊の働きです。イエスはこの神の霊の働きを、欲するままに吹く風にたとえて語られました。人間の側の儀礼とか修行とか、総じて宗教とか道徳がなし得ることではありません。「キリストにあって」という恩恵の場に働く神の霊、聖霊の働きだけがそれを成し遂げます。このことについては、なお多くを語らなければなりません。