市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第6講

6 わたしの死としてのキリスト

 わたしたちはこう確信します。一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。

(RSV コリントU 五章一四節)


福音は世界に十字架につけられたキリストを告げ知らせます。救済者キリストはなぜ十字架につけられなければならなかったのか。その奥義は深く、語り尽くすことはできません。ここに、その奥義の一端を示すために、神の霊感を受けて語り出された言葉があります。これは使徒パウロが、キリストの救いを体験し、その愛に迫られている者たちを代表して、「わたしたちはこう確信します」と言って語り出した言葉です。
 イエスは一人の人です。しかし、そのイエスが復活してすべての人の救済者キリストとして立てられたとき、そのキリストが負っておられる死は「すべての人のため」の死となります。「すべての人のための死」は「すべての人に代わっての死」を意味し、キリストはすべての人の死を死なれたことになります。キリストの死をこのように確信するとき、キリストの死は「わたしのための死、わたしに代わっての死」となり、キリストの死においてわたしが死んだことになります。この「すべての人」は、わたしの他のすべての人ではなく、わたしがその中の一人である「すべての人」だからです。
 キリストがわたしのために死なれた以上、わたしは死んだのです。十字架の姿をした復活者キリストの現実が、「わたしはあなたのために死んだ」という言葉として迫るとき、今まで自分を根拠とし、自分ために生きていた「わたし」は死に、このキリストだけを根拠とし、自分のために死なれたキリストのために生きる別の「わたし」が生まれます。これが「回心」です。これは、自我が砕かれ真己(真実の自分)が生き始めること、すなわち新生ということになります。
 キリストの死は、自己主張の塊で岩のように堅い人間の自我を打ち砕き、復活者キリストにおいて賜る無条件の恩恵にひれ伏す魂を生み出します。このように、キリストの死に合わせられて死に、復活者キリストに結ばれて生きる場を、パウロは「キリストにあって」という表現で語っています。この句を用いて表現するならば、福音は「キリストにあって」神から人間に賜っている豊かな命を告知します。福音は、救いに至らせる神の力が働く場として、「キリストにあって」という恩恵の場を提示します。福音はすべての人を、この恩恵の場に入るように招いています。