市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第5講

5 十字架につけられたキリスト

 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。

(コリントT 一章二二〜二三節)


福音とは世界にキリストを告知する言葉であり、その告知の働きです。その働きを担った使徒を代表して、使徒パウロは「わたしたちはキリストを告げ知らせているのです」と言っています。その使徒たちのキリスト告知の証言が新約聖書です。
 「キリスト」というのは救済者のことです。世界、すなわち人間の現実は苦悩に満ちていて、救済者を求めて呻いています。その呻きに応えて世界の多くの宗教が救済者を提示してきました。本来個人の内面における覚りを救いとする仏教においても、この呻きが阿弥陀仏という救済者を立てる大乗仏教を生み出します。「アミダ」は仏教世界におけるキリストです。
 このような世界に使徒たちはイエス・キリスト、すなわちキリストとしてのイエスを告知します。そのキリストは、世界の諸々の宗教が提示する救済者とは全く違った姿のキリスト(救済者)です。使徒たちが告知するキリストは、「十字架につけられたキリスト」です。使徒たちは十字架につけられて殺された一人のユダヤ人、ナザレのイエスをキリストとして告知します。このイエスを神は復活させてキリストとされた、と告知します。
 キリストとは復活して永遠に生きて、救済者として働いておられる方を指します。福音は、ナザレのイエスが十字架につけられたという歴史的事実を報告するだけものではありません。福音は、そのイエスが復活してキリストとされたことによって、わたしたちのために死なれた死を負って生きておられるキリスト、十字架につけられた姿のキリストを告知するのです。
 ここの「ユダヤ人]は、象徴体系である宗教の中に救済の現実を追及する宗教的人間の総称です。そして「ギリシア人」は、救済となるべき究極の知恵や覚りを追及してやまない哲学的人間を代表しています。その両方の人間に福音は「十字架されたキリスト」を告知します。この福音こそ、ユダヤ人にもギリシア人にも、その告知を信じてこのキリストに来る者に働き、救いに至らせる神の力となります。この福音こそ、天地の万物を存在させている根源の働きである神が、背いているわたしたち人間に「どこにいるのか」と問いかけ、無条件の恩恵によって「わたしはお前を赦している。わたしに帰れ」と呼びかける言葉なのです。