市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第3講

3 神の肯定

この方において「然り」が実現した。

(コリント書U 一章一九節)


 「この方」というのは使徒パウロがコリントの人たちに告知した「神の子イエス・キリスト」を指しています。わたしは学生時代に初めて宣教師からイエス・キリストのことを聞いたとき、十字架につけられて死んだイエスがどうして自分を救うことができるのか理解できませんでした。しかし、宣教師の方々が逆境の中で確信に溢れ、イエスが復活してキリストとして立てられ、信じる者に聖霊を与えてくださることを宣べ伝える姿を見て、ここには何かがあると感じて、聖書と取り組み始めました。
 その頃のわたしは否定の壁に取り囲まれていました。家族や友人にも恵まれ、大学で学ぶことを許され、特に深刻な悩みもありませんでしたが、心は空虚で、自分の存在の無意味さに苦しんでいました。何をしてもこんな努力に何の意味があるのか、最後には死がすべてを否定するのではないか、それが何であるか分からないが何か最も大事なものを失っているのではないか、得体の知れない虚しさと寂しさ、不安に取り囲まれていました。その頃にゲーテのファウストを読み、その中で悪魔のメフィストフェレスが、「わたしはすべてを否定する霊だ」と言ったのを読んだときの衝撃は忘れられません。
 しかし、わたしが神の恵みの導きによりイエス・キリストを知るに至ったとき、わたしを閉じこめていた否定の壁は打ち破られました。キリストを信じることによって与えられた霊は、わたしの中で新しい命となり、すべてを肯定する力となりました。人生の苦労や悩みがなくなったわけではありません。しかし、どのような苦しみの中でも、神はすべてを用いて善を実現されるとの確信をもつことができるようになりました。神の絶対の愛を知るようになりました。
 この天地万物を創造された神が、すべてを見て「善し」とされたのです。その神が御自身から背き離れた世界に向かって、虚無の滅びから救い、命の充満の大肯定に至らせると約束しておられます。パウロは標題の言葉の後にこう続けています。「神の約束は、ことごとくこの方において然りとなったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通してアーメンと唱えます」。世界の現実と歴史は悲惨です。否定の霊が跳梁しています。しかし、歴史は神の救いの約束の下にあります。神の大肯定が貫いています。