市川喜一著作集 > 第22巻 続・聖書百話 > 第1講

1 どこにいるのか

主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」。

(創世記 三章九節)


 わたしが宣教師から福音を聞いたとき、最初に心に届いた聖書の言葉がこれです。わたしは機械好きで、中学から専門学校まで機械科で勉強をしてきましたが、青年期の内面的な不安と葛藤に促されて、もっと人間について知りたいと願い、大学は人文系の学部に入りました。そして、学生時代に出席した宣教師の集会で、生まれて初めて聖書に接することになりました。
 そこで、この「おまえはどこにいるのか」という問いかけの言葉を聴いたのです。そのときはまだ、それが神からの問いかけであることは分かりません。ただ自分が問われている存在であることを感じただけです。しかし、問われていることを自覚したことは、自分が問う者との関わりに入ったことを意味します。それまでは自分だけの中で魂の寂しさや人生の無意味さと空虚さに直面し、否定の壁に取り囲まれ、出口を求めて見出さず、堂々巡りで苦しんでいました。その時にこの問いかけを聴いて、「わたしはどこにいるのか」と自分に問いかけ、「おまえはどこにいるのか」と問いかける方に向かって、「あなたはどなたですか」と問いかけるようになりました。
 その時から、この問いへの答えを求める探求の旅が始まりました。熱心に集会に通い、聖書を貪り読みましたが、なかなか答えが来ません。しかし、イエスが「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見つかる。門を叩け、そうすれば開かれる」と言われたように、ついに門が開かれ、答えが与えられる日が来ました。「おまえはどこにいるのか」と問いかける方は、背を向けて遠くに離れ去っているわたしに、「わたしはおまえを赦している。わたしに帰って来なさい」と呼びかける方だったのです。わたしはその呼びかけを、わたしのために死に、三日目に復活されたイエス・キリストを告知する福音において聴いたのです。
 「アダム」とは人間です。人間は自分自身で存在しているのではなく、万物を存在させる根源の働きによって存在させられている者です。聖書はこの根源的な働きを神と呼んでいます。この万物存在の根底である神は、自分の根底に背を向けて離れ去っている人間に向かって、「おまえはどこにいるのか」と問いかけておられます。人間がこの問いかけを聴いて、自分の存在の根底である神との関わりに目覚めるところから、人間が本来の人間の姿を取り戻す旅が始まります。