市川喜一著作集 > 第21巻 福音の史的展開U > 第11講

終 章 キリストの福音からキリスト教へ




第一節 「教会」と「キリスト教」の成立

はじめに ― 「福音の史的展開」の意義

 本書『福音の史的展開』では、新約聖書諸文書の証言に基づき、復活されたイエスの顕現から始まってルカの二部作に至るまでの、ほぼ一世紀にわたる福音の歴史的展開を跡づけてきました。これは、キリストの福音が歴史的な状況の中で示す姿を通して、「福音とは何か」という問いに答えるための営み、福音の本質を探る試みでした。その過程は、最初(T・6頁)にあげた次のパウロによる福音の提示を確認することになりました。すなわち、パウロは長年の福音活動の最後の時期に書いたローマ書において、福音を次のような言葉で提示していました。

 「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、すべて信じる者には、救いに至らせる神の力です」。(ローマ一・一六)

 パウロは「福音は神の力だ」と宣言して、その後にその力がどのような質の力であるかを説明する言葉を添えます。すなわち、それは人の力ではなく神の力です。「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と言われる方の力です。それは「救いに至らせる」という方向に働く力です。救いとは天の彼方や来世にあるのではありません。現に体験する変化です。人を悲惨な状態に閉じこめている罪や病気や死の支配から解放し、人間存在の根底を変容させ、ついには神の栄光にあずかる姿に完成する、解放・変容・完成の全過程です。この力は物理的な力ではなく、言葉によって働く霊的・人格的な力ですから、その言葉を信じて受け入れる者だけに働きます。しかし、その力は「すべて」信じる者に働きます。信じる者の民族、宗教、男女、教養、文化程度を問いません。社会的身分、道徳的価値を問いません。誰であっても信じる者は、同じようにこの力を身に受けます。差別はいっさいありません。差別の中で、もっとも深刻な差別が宗教的な差別です。この福音は初めユダヤ教徒の中で生まれました。それで、モーセ律法を守るユダヤ教徒でなければ、イエス・キリストの神の民にはなれないという主張がありました。それに対してパウロは、ユダヤ教徒でなくても、モーセ律法の外にいるギリシア人であっても、福音を信じるならば、ユダヤ教律法とは関係なく、誰でもその信仰によって義とされ、救われるとしたのです。
 福音は言葉です。イエス・キリストの出来事を告知する言葉です。イエスご自身は「神の国」の到来を福音として告知されました。その「神の国」の実質はイエスにおいて到来している「恩恵の支配」でした。しかし、イエスが復活して「主《ホ・キュリオス》またキリスト」として立てられてからは、その「神の支配」また「恩恵の支配」は「主イエス・キリスト」の十字架・復活の出来事によって到来したとして、このキリストの出来事が福音として告知されました。
 福音は抽象的な教義や理論ではなく、救いに向かって働く神の力です。力は具体的な状況の中で働きますから、福音の姿とか内容は歴史的な状況から切り離して理解することはできません。本書は、この歴史的状況に即して働く福音の動態を追跡して、その中に福音の本質を確認することに努めてきました。その状況は様々ですから、同じキリストの福音も様々な姿で現れてきます。その力の働きそのものは身をもって体験する以外に理解することはできませんが、最初期にそれぞれの状況でそれを体験した人たちの証言が文書として伝えられています。それらの文書の集成である新約聖書二七巻は実に複雑な多様性を示しています。それは本書の序論2「新約聖書における多様性と一体性」で素描し、本論の各章で詳しく見てきた通りです。しかし同時に、この多様性の中に同一の現実が貫いており、その同一の現実が多様な新約聖書の諸文書に一体性を与えていることも見てきました。 その同一の現実とは 「歴史の中での終末の現臨としての聖霊の現実」( The Reality of the Holy Spirit as the Presence of Eschaton in History)と言えると思います。救済史の神が終わりの日に成し遂げると約束してこられた救いの事態、命の事態が、主イエス・キリストを信じる者たちに与えられる聖霊によって今や現実となって歴史の中に来ている(現臨している)という現実です。
 ここまでの本論の各章で、このような様々な状況で成立した新約聖書の諸文書の多様性の中に、同じ質の福音、同じ質の命が貫いて輝いていることを見てきました。このような福音の提示を終えて、最後にこの「終章」で、この福音がそれ以後、すなわち二世紀以後の時代の世界にどのような事態をもたらしたかを瞥見した上で、その事態との福音の関わり方を考察して本書の結びとしたいと思います。終章は次の二つの節で構成されることになります。

 『第一節 「教会」と「キリスト教」の成立』(本節)では、ローマ帝国が支配する地中海世界に進出したこの福音が、二世紀以後にこの世界にもたらした「キリスト教会」と、その「教会」に体現された新しい「宗教」としての「キリスト教」の成立を見ていきます。ここで教会、キリスト教、宗教という用語に「 」をつけたことについては、以下の本論で述べることになります。

 『第二節 キリスト教を相対化する福音』(次節)では、成立した「キリスト教会」と「キリスト教」に対して、キリストの福音はどのような関係に立つのか、その実際の歴史的経過を見ながら、そのあるべき関係を原理的に考察し、現代において福音を担う者としての課題を追究します。

本節は二世紀における「キリスト教会」成立の過程を追っています。この主題を扱った文献は多数ありますが、本節執筆にあたって参考にした主要な文献を三つだけあげておきます。

W・ウォーカー『 キリスト教史1 古代教会 』
(菊池・中沢訳、ヨルダン社、1984 )

J・ダニエルー『 キリスト教史1 初代教会 』
(編訳・上智大学中世思想研究所、平凡社ライブラリー 1996)

W.H.C.Frend, The Rise of Christianity, Fortress Press, 1984

T 「教会」の形成

新約聖書における《エクレーシア》

 本書『福音の史的展開』の本論(第一章〜第八章)において、使徒たちの福音告知活動により主イエス・キリストを信じる者たちの共同体が各地に成立し、その共同体が福音の担い手として活動し、自分たちを取り巻く社会に福音を告げ知らせてきたことを見てきました。新約聖書の諸文書はその共同体を《エクレーシア》と呼んで、その形姿と活動を描いています。本項(T)では、まず新約聖書において《エクレーシア》がどのような事態であったのかをまとめた上で、その《エクレーシア》が新約聖書の時代以後にどのようになっていったのか、その概略を見ることにします。
 最初に地上に成立したキリストの民の共同体はエルサレム共同体でした。その共同体は自分たちを「神の《エクレーシア》」と呼びました。それは、神の民として選ばれたイスラエルの中で、終末時にメシアによって特別に選び出された者たちを指すヘブライ語の《カハル・エール》(神の会衆)をギリシア語で表現したものでした。この自覚と自称は、当時エルサレムの同じ地域を拠点として活動していた黙示思想的宗派であるエッセネ派共同体と共有しています。

エルサレム共同体の自覚と自称については、拙著『福音の史的展開T』246頁の「神の会衆」の項を参照してください。

 エルサレム共同体は、最初はイエスが選ばれた十二人の「使徒たち」が指導していました。福音がパレスチナの各地に宣べ伝えられて信じる民が形成されたとき、エルサレムから使徒たち(たとえばペトロとかヨハネ)か、使徒に準じる預言者たち(たとえばバルナバ)が派遣されて指導するという体制で進められたようです。しかし、迫害で使徒たちがエルサレムから追われた後には、「主の兄弟ヤコブ」を議長とする長老会議がエルサレム共同体を指導し、ひいては当時の福音活動全体を統率するような立場に立つようになります(たとえばエルサレム会議)。

「主の兄弟ヤコブ」に統率されるエルサレム共同体については、拙著『福音の史的展開T』258頁以下の「V ヘロデ王による迫害」と、263頁以下の「W 主の兄弟ヤコブに代表されるエルサレム共同体」の項を参照してください。

 このエルサレム共同体の中のギリシア語系ユダヤ人によって開始されたユダヤ教の外への福音活動は、パウロによって「律法(ユダヤ教)の外でのキリスト信仰による神の義(救い)」の原理として確立され、この福音が地中海世界に広く伝えられ、多くの異邦人を含むイエス・キリストを信じる民の共同体が設立されます。パウロはこのような共同体に書簡で語りかけるとき、それを《エクレーシア》と呼んでいます。パウロがこれらのキリストの民の共同体を《エクレーシア》と呼ぶとき、彼らが「神の《エクレーシア》」である、すなわち終末時に選ばれた神の民、「真のイスラエル」であるという理解を前提にしていることは事実ですが、同時に特定の個人の家などに集まる具体的な「集会」を指して語りかけています。パウロはその集会での生き方について、多くの指示や勧告を与えています。
 このような各地の「集会」は、パウロの時代にはまだ明確な組織体としての形はとっていなかったようです。そのような「集会」に語りかけるパウロの手紙から、それは「主の晩餐」を共にする集まりであり(コリントT一一・一七〜三四)、その中に働く聖霊により各人が「それぞれ賛歌を歌い、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈する」という自由な集まりであったと伝えられています(コリントT一四・二六)。
 当時の福音告知においては、信じた者はバプテスマを受けて信仰を言い表すことが普通でした。このような集会に加わる者はバプテスマを受けた信者であることは前提されていますが、バプテスマを受けていない人(未信者)が集会にいることもありました(コリントT一四・二二〜二五)。「集会」は福音によって呼び集められた者たちの集まりであり、極めて流動的(定まった形がない状態)であって、まだ制度的な組織体ではありませんでした。

パウロの時代の集会の実際の様子は、水垣渉『ローマ書を最初に受け取った人びと』(『天旅』二〇〇七年3号所収)が垣間見させますので、それを参照してください。なお、その内容は本書225頁の「ローマ書を最初に受け取った人びと」の項に要約していますので、それを参照してください。

 しかし、その中にも指導的な役割を果たす人が出てくるのは自然な成り行きです。聖霊の賜物(カリスマ)によって、ある人には知恵の言葉、ある人には知識の言葉が与えられ、そのような賜物の人たちが伝承されたイエスや使徒の言葉、さらに聖書(旧約聖書)を解釈して教えを語り、集会を指導したことでしょう。このことはパウロの書簡(たとえばコリントT一二章)に見られるとおりです。パウロはそこでこう言っています。「神は、集会《エクレーシア》の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです」。
 パウロの時代の各地の集会にも、集会の中心になって指導したり世話をする人たちがいて、パウロは書簡の中で、そのような人たちの名をあげて語りかけています。それらの人々が「監督たちと奉仕者たち」と呼ばれている箇所(フィリピ一・一、ローマ一六・一)も僅かにありますが、それはまだ組織体の役職ではなく、指導したり世話をする人たちの立場を指しているに過ぎません。
 しかしパウロから二世代後の二世紀初頭に成立したと見られる牧会書簡になると、事情が違ってきます。牧会二書簡(テモテUを除くテモテTとテトス)では、集会の制度が大きく取り上げられ、「監督」、「長老」、「奉仕者」というような役職名が用いられて、その役職に任ぜられる人たちの資格や役目が議論されています。この三つの役職の相互関係とそれぞれの役割については多くの議論がありますが、この時期のエクレシアが組織体としての形を整えてきていたことは十分推察することができます。

牧会書簡については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』369頁以下の「第七章 キリストの民の形」を参照してください。なお、テモテUを除く理由については、本書207頁の「W 牧会書簡における共同体秩序」、とくに同じ207頁の「牧会書簡について」の項を参照してください。

単独監督制へ向かう ― イグナティオス書簡の証言

 本書では新約聖書の諸文書が成立する二世紀初頭までを「最初期」と呼んでいますが、その最後の時期には(牧会書簡に見られるように)各地の集会も監督や長老などの役職が置かれるようになり、組織化の兆しが見られるようになります。もっともこの議論はパウロ名書簡からなされているので、エーゲ海地域のパウロ系の諸集会について言えることで、他の地域については共同体の形がどうであったかは明らかではありません。
 しかし丁度この時期(二世紀初頭)に、将来共同体が向かう方向を指し示す重要な証言が見られます。それはシリアの中心都市アンティオキアの共同体を代表するイグナティオスの手紙です。彼はトラヤヌス帝の迫害のときアンティオキア共同体を代表する者として責任を問われ、野獣と闘う刑に処せられるためにローマに護送されます(一一〇年のこととされています)。その途上の小アジアの宿泊地(スミルナとトロアス)からエフェソなどのアジア州の諸集会とローマに書簡を書き送っています。現在七通の書簡が伝えられていますが、それは熱烈な信仰から出る殉教への情熱を示す激しいものです。その中に当時の信仰、儀礼、集会組織などに関する重要な証言があり、二世紀初頭の共同体の状況を知る上で貴重な資料です。

イグナティオス書簡については、その翻訳と解説が講談社版『聖書の世界』別巻4の「使徒教父文書」(翻訳と解説・八木誠一)にありますので、それを参照してください。この項目における引用は同書からです。イグナティオス書簡は当時の福音と神学にとってきわめて重要な証言ですが、ここでは教会の制度化の観点から見るだけにします。なおこの小項目での引用箇所の地名とその後の数字は、書簡の宛先とそこに宛てたイグナティオス書簡の章節をさします。

 イグナティオスは各地の集会に宛てた手紙で、監督の名をあげてその信仰と人格を言葉を尽くして賞賛し、その監督に従うように表現を尽くして集会に説きます。たとえば「監督を主御自身のようにみなさなければならない」(エフェソ六・一)とか、「監督を神の模像として、また長老団を神の議会また使徒団として敬うべきである」(トラレス三・一)とか、「イエス・キリストが父に対するように、監督に従いなさい。また、使徒に対するように長老団に従いなさい。また、執事を神の誡めのように尊びなさい」(スミルナ八・一)と言っています。長老と執事は複数形ですが、監督はいつも単数形であり、ある地域の共同体には一人の監督がいて、共同体を取り仕切っています。共同体は「監督ぬきでは何事もすべきではない」(トラレス二・二)と言われます。「監督なしで何かをする者は悪魔に仕えるのです」(スミルナ九・一)とさえ言っています。イグナティオスの手紙を通読すると、監督への服従を説く言説がきわめて多いという印象を受けます。

ただローマのキリスト者に宛てた手紙だけが監督の名をあげていません。これは、ローマにはまだ地域全体を統合する共同体が形成されていなかったことを示唆していると考えられます。

 一人の監督に従うことが集会の一致を保証します。集会が同じ一つの信仰に生きていることは、一人の監督とその下に結びついている長老執事団に従っていることによって保証されます。「監督と長老団と執事ぬきに何かをする人」は、聖所の外にいるのであって、潔くないのです(トラレス七・二)。イグナティオスは監督に従うことによって「異端」を避け、聖所の内にいるように強く勧告します。イグナティオスは異端に対する真実の教えとして、イエス・キリストが実際にその身体をもって十字架の苦しみを受け、また身体をもって復活したことを強調し、その身体は見せかけのものであったとする仮現説を「異端」として論難し、異端説を唱える者を「人の形をした獣」と呼んでいます(スミルナ二〜四)。
 イグナティオスはまた、「イエス・キリストが在ますところ、そこに公同教会《ヘー・エクレーシア・カトリケー》があるのと同様、監督があらわれるところ、そこに全会衆があらねばなりません。監督なしに洗礼を施すのも愛餐を行うのも適法ではありません。彼が正しいとすること、これが神にも喜ばれ・・・・」と言って、教会が行う儀礼は監督によって行われてはじめて効力のあるものとなることを主張し、分裂に陥らないために監督が行う「ただひとつの聖餐」にあずかるように強く求めます(フィラデルフィア四)。そしてその聖餐でいただくパンは「不死の薬」、「(死に対する)解毒剤」と呼ばれ(エフェソ二〇・二)、教会の儀礼が救いのために客体的な効力のあるものとする後の礼典(サクラメント)理解への萌芽を見せています。
 このように二世紀初頭のイグナティオスにおいて、単独の監督を頂点とする教会制度、その制度によって保証される異端の排撃と教会の一致、またその制度によって効力が保証される儀礼(サクラメント)という制度的教会へ向かう方向が指し示されています。二世紀初頭は新約聖書時代の終わりと重なります。ルカがマルキオンと対抗して後の正統教会の路線を模索していたのとほぼ同じ時期に、イグナティオスはさらに明確に制度的教会へ向かう方向、すなわち一人の監督による教会の一致の保証という体制を指し示していたことになります。

なお、イグナティオスの主張は教会史家によって「単独司教制」と呼ばれていますが、「司教」とか「主教」は後の教会での呼称の訳語であって、ここに用いるのは適切ではありません。イグナティオスは《エピスコポス》(新約聖書で「監督」と訳されている語)を用いていますので、「使徒教父文書」でも「監督」と訳されています。イグナティオスの主張は「単独監督制」と呼ぶべきでしょう。

 イグナティオスの手紙にはパウロの影響が強く見られます。そして、イグナティオスがスミルナの監督であるポリュカルポスに宛てた手紙から、ポリュカルポスがイグナティオスの路線の忠実な継承者であることが分かります。事実、ポリュカルポスがフィリピの教会に宛てた手紙は、ポリュカルポスが熱烈なパウロ主義者であると同時に、イグナティオスの指示に忠実に従っていることを示しています。このポリュカルポスの手紙の教会制度に関する部分は、新約聖書の中の牧会書簡に酷似しており、ポリュカルポスを牧会書簡の著者と見る有力な学説(カンペンハウゼン)があります。イグナティオスとポリュカルポスという二人の著名な殉教者の手紙はその後の教会形成に大きな影響力をもったと考えられます。

「ポリュカルポスの手紙」と彼の殉教を伝える「ポリュカルポスの殉教」は、先にあげた講談社版『聖書の世界』別巻4の「使徒教父文書」に収められていますので(翻訳と解説・田川建三)、それを参照してください。

 イグナティオス書簡に典型的に見られるように、二世紀に入ると、福音によって集められ聖霊の働きによって歩んでいた共同体は、内外の必要に迫られて制度的な形を取るようになります。エクレシアも人間の共同体である以上は、それが家の中での個人的な交わりを超えて、ある程度の社会的な広がりをもつようになったときには、必然的に何らかの職制をもつ制度にならざるをえません。エクレシアの場合は、エクレシア独特の内外の必要に迫られて、エクレシア独自の制度を生み出すことになります。
 「内外の必要」というのは、共同体の中での異端を排して正統な教えを確立する必要と、共同体を外から脅かす迫害に対抗する必要です。先に「ローマ帝国社会における迫害と福音の進展」(本書第六章第二節)で見たように、二世紀における迫害はまだローマ帝国の帝権による組織的迫害ではなく、周囲の異教市民からの嫌がらせ的な迫害でした。しかし、外からの迫害に対抗するために、共同体は愛による一致団結と組織体としての継続性・一体性が強く求められました。ところが、共同体の中には一致を脅かす異なる教えによる分裂の危険がありました。その危険を克服して一致を保つために、共同体は分裂の危険をはらむ分派的主張(異端)を厳しく退ける必要がありました。イグナティオスは一人の監督に対する服従という形でこの一致の保証を求めたのです。その一致の要求は、共同体を組織化する動因となります。この異端を排して正統信仰を確立しようとする努力は、次項(U)で扱うことにして、ここではもう一つの要因を取り上げておきます。

密儀とサクラメント

 聖霊による自由な交わりとしての共同体を組織体としていく動因として、バプテスマや「主の晩餐」のサクラメント化があります。「サクラメント」とは、それにあずかることによって救いが保証される儀礼のことです。本来、バプテスマと「主の晩餐」はそのようなサクラメントではありませんでした。それはあくまで内なるキリスト信仰を外に言い表す形式、すなわち社会的に表現する形式でした。ところが、福音がギリシア・ローマ世界に進展していく過程で、サクラメントとしての性格を帯びるようになっていきます。

「サクラメント」は、教会によって「秘蹟」とか「聖典礼」とか様々な用語で呼ばれているので、どれを使っても特定の教会の理解を前提とすることになりますので、ここでは広く「その儀礼に参加することが何らかの意味での救いを保証する宗教儀礼」を指す用語として、カナ表記を用います。

 すでに使徒時代に、普通の食事であった「主の晩餐」が儀礼としての「聖餐」になっていく過程は始まっていましたが、その「聖餐」が二世紀以降では、当時のギリシア・ローマ世界に普及していた「密儀」の影響を受けて、それにあずかることが救いを保証する儀礼として、「サクラメント」としての性格を強くしていく過程が進みます。

イエスが最後の夜に弟子たちとされた「最後の晩餐」が、最初期の共同体で「主の晩餐」という形で繰り返され、それが「聖餐」という儀礼になっていく過程について詳しくは、拙著『ルカ福音書講解V』の「主の晩餐」段落への「補論 『最後の晩餐』伝承の形成と展開」を参照してください。

 「密儀」というのは、ある一定の条件を満たした者だけに参加が許される秘密の儀式で、その儀式にあずかることによって救いが保証され、参加者は何らかの内的体験を与えられます。普通それに参加した者には、その儀式の内容を秘密にしておくことが求められます。それで、そのような儀式の内容は知られることが少ないのですが、キリストの福音が進出した時期の地中海世界には、このような「密儀」によって救済を約束する宗教が多く活動していました。ギリシア起源のものとしてはエレウシアの密儀やディオニュソスの密儀が有名です。その他にもアナトリア起源のキュベレの大母神信仰やエジプト起源のイシス・オシリス密儀、さらにペルシャ起源のミトラス密儀宗教などが盛んに行われていました。当時のギリシア・ローマ世界の人々は、市民として公には都市や帝国の宗教儀礼に参加していましたが、それとは別に自分の内面の不安や苦悩を克服して救済を求める必要から、そのような個人の探求と決意を求める密儀宗教に加わる傾向があり、それらの密儀宗教が隆盛を極めていました。

このような秘密の儀式はギリシア語で《ミュステーリオン》と呼ばれていました。この語は《ミュエイン》(閉ざす)という動詞から出た語で、目や唇を閉ざすことを指します。密儀宗教ではその儀礼は目を閉ざして、あるいは暗闇で行われ、その儀礼を体験した者は唇を閉ざして秘密を保つことを要求されました。それでその儀礼が《ミュステーリオン》と呼ばれることになります。
なお新約聖書には《ミュステーリオン》という語が二八回用いられていますが、このような秘密の儀礼としての「密儀」を指す用例はなく、すべてユダヤ教黙示思想由来の《ミュステーリオン》を指しています。すなわち、人知の及ばない隠された神の知恵とか計画を指す語です。黙示思想では、天界の実相とか将来に対する神の御計画は、人間には隠されており、その秘密はエノクとかダニエルのような特定の聖徒に啓示されて人間に伝えられるものとされています。それでこのような意味の《ミュステーリオン》は「秘義、奥義」とか「秘められた計画」(新共同訳)などと訳されることになります。「密儀」と混同しないように注意しなければなりません。

 そのような時代の人々の目には、バプテスマという儀礼を受けた者だけが参加を許される秘やかな集会で行われる「聖餐」は、一種の密儀のように見えたとしても不思議ではありません。バプテスマはキリストの死と復活の命にあずかることとされていますが(ローマ六・三〜五)、まさに密儀宗教もその密儀にあずかることによって参加者は自分が死んでその宗教の神性が生き始めることを保証します。聖餐はキリストの血と体にあずかることを指し示していますが、まさに密儀宗教も血を用いて神々との交わりに入ることを保証し、秘密の食事を救済の証しとします。もっとも共同体はその儀礼を秘密にしようとはせず、広く告知しようとするのですから、「密儀」とは決定的に異なります。しかし、このような宗教的意義の類似から、共同体のバプテスマと聖餐という儀礼が密儀宗教の密儀と比較され、その関係が議論されます。しかしその関係は複雑で、単純にギリシア・ローマ世界の密儀宗教が直接影響して共同体の儀礼を「密儀」にしたとは言えません。両者の関係は複雑で到底この小論で扱うことはできませんが、確かなことは、福音が呼びかけた当時の地中海世界の人々は、このような密儀宗教の思考に馴れ親しんでいたという事実です。そのような人々が形成した共同体において、共同体が行うバプテスマや聖餐という儀礼が、その内面的な理解で影響を受けることは避けられません。

バプテスマのサクラメント化

 すでにパウロの時代に、コリントの改宗者の中に死者のために(の代わりに)バプテスマを受ける人がいたと伝えられていますが、これもバプテスマが救いをもたらす効力のある儀礼、すなわちサクラメントとして理解されていたことを示しています。二世紀半ばの証言としては『ヘルマスの牧者』やユスティノスの『弁証論』には、バプテスマが密儀宗教の場合と同じように、清めと入信と永遠の命への再生をもたらす重要な儀式となっていたことをうかがわせるテキストがあります。聖餐にあずかることはバプテスマを受けて信仰を言い表した者だけに許されていましたから、バプテスマは密儀宗教における入信儀礼と同じように理解されて重要視されるようになります。
 このバプテスマを救いに必要かつ有効な儀礼(=サクラメント)と理解する傾向は、バプテスマの形式や効力について果てしなく続く議論を生むことになります。バプテスマを授ける者の資格については、使徒時代には使徒だけでなく賜物に恵まれた共同体の成員が自由にバプテスマをしていましたが、イグナティオスの証言に見られるように、バプテスマを施す資格は監督(後の制度では司教と司祭)に集中していくようになります。バプテスマを受ける資格については、二世紀半ばまでは十分な教理教育を受け、自発的に信仰を言い表すことができる成人に限られていましたが、その後一部には幼児にもバプテスマを認める傾向が出てきます。バプテスマの形式についても、流水(浸礼)か潅水(注ぎ)、唱えられる名もイエスの名か、父と子と聖霊の名があり、必ずしも一定していません。バプテスマの前には教理問答と断食が求められるのが普通でした。
 バプテスマは罪の赦しを与える効力があるとされていましたが、その効力についても様々な議論がなされました。後に異端とされた監督(司教)によってなされたバプテスマは効力があるかどうかが真剣に議論されました。また、その効力は一回限りであるとされたので、バプテスマを受けた後の罪の赦しについて議論があり、罪の赦しを完全にするため生涯の遅い時期に受ける傾向があり(コンスタンティヌスは死の直前にバプテスマを受けました)、教父たちは早くバプテスマを受けて聖なる生活に入るように勧告しなければなりませんでした。また、バプテスマは聖霊を与える約束を伴っていましたから、聖霊受領のしるしとして塗油と按手が行われました。この部分は後に「堅信礼」として分離しますが、初めは洗礼式の一部でした。
 このような二世紀以後のバプテスマに関する議論を見ていますと、最初期には福音を信受する告白のための一つの形式であったバプテスマが、罪を赦し将来の救いを保証する効果のある儀礼、すなわちサクラメントになっていく過程が見えてきます。その起源においては純粋にユダヤ教からのものであっても、ヘレニズム世界においては密儀宗教の影響を受けざるをえなかったと考えられます。サクラメントとなった洗礼式は、密儀宗教の入信儀礼と同じく、キリストの民への加入儀礼として、それを受けなければキリストの民として、罪の赦しも将来の救済も受けられない必須の儀礼となります。

聖餐のサクラメント化

 最初期の共同体は、イエスが最後の晩餐のときに使徒たちにお命じになったところに従い、イエスの死を記念するためにパンとぶどう酒を用いる「主の晩餐」を行っていました。その晩餐はすでに使徒の時代からパンとぶどう酒で主の死を記念する礼拝での儀式(聖餐)と、集会員の交わりのための食事(愛餐)に分離する傾向を見せていましたが、二世紀以後の共同体では、その分離は決定的になり、礼拝で行われる聖餐がサクラメントとして理解されるようになっていきます。
 新約聖書は、永遠の命《ゾーエー》を得るためにはキリストの肉を食し血を飲むことの必要を説いています(ヨハネ六・四七〜五八)。密儀宗教的な思考に慣れ親しんでいる人たちが、聖餐式で「これはわたしの体、わたしの血である」としてあずかるパンとぶどう酒を、実際に命を与える神秘的な物質として理解するようになるのも避けられません。先にみたように、二世紀初頭のイグナティオスは、「あなたがたはひとつのパンを裂くのですが、これは不死の薬、死ぬことなくイエス・キリストにあって常に生きるための(死に対する)解毒剤なのです」と言っています(エフェソ二〇)。
 二世紀半ばにユスティノスは、「われわれは普通のパンや飲み物としてそれらを受けるのではない。神の言葉によって肉体をとり給うたわれらの救い主イエス・キリストがわれらの救いのために肉と血をもち給うたと同じように、その食物は ― それは神の言葉の祈りによって祝福され、またそのものから、われらの血と肉は変質することによって養われるのだが ― 肉体をとり給うたイエスの肉と血であるということをわれわれは教えられている」と書いています(『第一弁証論』六六)。
 二世紀末になるとエイレナイオスは、「土から生じたパンは、神の呼びかけを受けると、もはや普通のパンではなくて地上と天上の二つの実在から成る聖餐(ユーカリスト)となるように、われわれの身体もまた、聖餐(ユーカリスト)を受けると、もはや朽ちることがなく永遠への復活の希望をもつものとなる」と書いています(『異端反駁』四・一八・五」)。
 このように、最初期にはイエスの死を記念する食事であった「主の晩餐」が、二世紀にはそれにあずかる者に永遠の命を与える効力のある儀礼(サクラメント)として理解されるようになっていたことをうかがわせます。このような変容は教会史家が言うように、「これらの考えが、神と食事を共にすることは神性にあずかる者となることである教えをもった密儀宗教にどれだけ由来しているかは決定しがたいことである。しかし、それらの考えは疑いなく同質の思考習慣から出たものである」(ウォーカー)と言えるでしょう。
 二世紀以降の聖餐式には、それは犠牲の奉献であるとする、最初期にはなかったもう一つ別の面が出てきます。古代人の宗教には、神々に犠牲を捧げて、神々からの禍を避け祝福を祈り求めるという共通の根本観念がありました。その基本的な宗教観念がこの聖餐にも適用されて、聖職者(司祭)が祝福するパンとぶどう酒は、御自身を犠牲として神に捧げられたキリストの犠牲を反復するものとして、神に捧げられる犠牲であるという理解が進んでいきます。この理解においては、聖餐を司る司祭は、宗教において不可欠の、犠牲を捧げる祭司の役目を果たす聖職者になります。ここで二世紀に進んだこの理解を詳しく跡づけることはできませんが、その集約として三世紀の半ばに活躍した教父キプリアヌス(二四九年からカルタゴの司教)の文章を引用しておきます。
 「もし、父なる神の大祭司であるわれらの主にして神でいますイエス・キリスト御自身が、最初に御自身を父に犠牲としてお捧げになり、そして彼御自身を記念してこのことを行うように命じられたのであるならば、確かに、キリストがなし給うたことを手本とする司祭はまさしくキリストの役目を果たすものである。そして彼は、キリスト御自身が捧げ給うたように進んで犠牲を捧げる時には、教会において真にして完全な犠牲を捧げることになるのである」。(キプリアヌス「書簡集」六二・一四)
 このように最初期の主の死を記念する「主の晩餐」は「聖餐」という礼拝儀礼になり、その聖餐は二世紀以降には、1その中にキリストが臨在し、それにあずかる者に不死なる命を与えるサクラメントであるという理解と、2生者と死者への神の祝福を願って司祭によって神に捧げられる犠牲であるという理解の二方面に進んでいくことになります。集会の中心的な儀礼である聖餐がこのような性格のものとなることによって、バプテスマが入信儀礼とされることと相まって、福音によって招集されたキリスト信仰の民の共同体は一つの祭儀共同体となり、古代の諸宗教に伍して一つの新しい宗教共同体、すなわち「教会」としての姿を現していくことになります。

U 「正統主義」の確立

新約聖書における論争

 前項(T)で見たように、共同体は内外の必要に迫られて単独監督を頂点とする聖職制に向かい、その聖職者が執行する祭儀によって具体的な形をとる「教会」としての姿を現すようになりますが、信仰共同体としては何よりも信仰内容の統一と確立が必要です。この点において共同体は内部に発生する様々な異なる意見、教義、信条を統一して、福音を健全に保持し、キリスト信仰を正しく継承していく努力をしなければなりませんでした。福音を福音でないものに変質させるような危険な傾向に対しては、厳しく排除して福音を保持しなければなりません。それは時に激しい論争となります。また、共同体内の交わりを妨げるような傾向に対しても、思いを一つにして共同体の一致を維持するために説得や勧告が必要となります。こうした論争、説得、勧告はすでに新約聖書にも多く見られます。
 最初期にも福音を危うくするような教えや運動があり、使徒たちやその後継者たちは福音の確立と共同体の一致のために祈り、戦わなければなりませんでした。パウロ書簡をはじめ使徒書簡はそのような論争、説得、勧告に満ちています。
 最初の大きな論争はユダヤ教律法主義に対するパウロの論争でした。異邦人が救われて神の民となるには割礼を受けてモーセ律法を順守しなければならない、すなわちユダヤ教に改宗しなければならないとする一部ユダヤ人信者の主張に対して、パウロは「アナテマ」を投げつけ、「無割礼の福音」の確立のために激しく戦いました。その論争の書がガラテヤ書です。割礼を受けることはキリストの恵みから脱落することだと、パウロはガラテヤの人たちに迫っています。
 また、コリントの人たち中に死者の復活を否定する者が出たとき、パウロは告知した福音の基本内容を引用して、死者の復活を否定することはこの福音を否定し、キリスト信仰を無効にするものだとして、彼らの誤りを指摘し、福音の救済史的枠組みを維持するために論陣を張っています(コリントT一五章)。死者の復活の否定は、おそらくギリシア宗教思想の影響からきたものと考えられますが、パウロはギリシア的な霊魂不滅信仰を乗り越えて聖書的な救済史的唯一神信仰を確立するために戦っています。
 七十年のエルサレム陥落を境として、最初期後期にはユダヤ教律法の順守を要求する勢力は衰退して「無割礼の福音」は確立しますが、ヘレニズム世界に進出した共同体は、ギリシア宗教や思想からの影響で福音を危うくするような教えに直面して対決しなければならなくなります。パウロの後継者の時代には、コロサイ書やエフェソ書に見られるように、「人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞」と福音の違いを指し示して、福音を確立するために論争しなければなりませんでした。「哲学」《フィロソフィア》という語は、当時のヘレニズム世界では人間の生き方を決める世界観を指し、ほとんど宗教的な教えを意味していました。ギリシアの諸「哲学」は、人間の思想と言い伝えから形成された学派の教えであり、神の啓示から生まれた聖書とは違い、「空しい欺瞞」だとされます。「哲学者」は特別な衣をまとい、諸都市をめぐって民衆に教えを説いていました。二世紀以降のヘレニズム世界の共同体は、このような「哲学」と対決して、福音の真理を確立する努力をしなければなりませんでした。

コロサイ書やエフェソ書の著者が対決しなければならなかった「哲学」は、単純にギリシアの哲学と言うことはできません。多分にユダヤ教の要素を含む混淆宗教のようです。詳しくは拙著『パウロ以後のキリストの福音』16頁の「コロサイの『哲学』」の項を参照してください。

 一世紀の終わり頃と考えられますが、ヨハネ共同体においてキリストが肉をとって来られたことを否定する人たちが現れ、長老ヨハネは手紙でそれを正しいキリスト信仰を危うくする誤りだとして厳しく退けています。神の子であるキリストは人間から苦しめられ殺されることはありえないのだから、地上で十字架につけられたイエスはキリストの仮の現れに過ぎないとする「仮現論」に対して、ヨハネは実際に自分が目で見て手で触ったイエスをキリストと言い表し、「イエスを肉の形をとって来られたキリストと言い表さない霊」を反キリストの霊として厳しく退けます(ヨハネT四・三私訳)。
 このように新約聖書においても、誤った教えや思想に対抗してその誤りを指摘することによって福音を確立するための論争が行われていますが、二世紀に入るとその論争はますます激しくなり、共同体は間違った教えを異端として退け、正しい信仰を確立して福音を保持しようとして戦います。本項(U)で、二世紀における共同体のこの論争を見ていくことになりますが、その論争は複雑で膨大であり、この小論が詳述することはできません。その概略を概観して、二世紀の福音共同体が「教会」としての形を整える過程をたどることにします。

なお、二世紀初頭にはマルキオンが現れ、彼の運動に対抗してルカがその二部作を著した経緯については、第八章第一節「ルカ二部作成立の状況と経緯」でやや詳しく述べました。これも新約聖書時代における論争になるのですが、マルキオンとの論争はその内容上二世紀の論争の主要な主題となるグノーシス主義との論争の中で取り扱う方が適切であると考えられますので、以下の小項目で扱うことにします。

グノーシス主義の興隆

 二世紀の共同体の内部で行われた論争の最大のものはグノーシス主義に対する論争です。グノーシス主義は二世紀になってはじめて現れた思想ではなく、すでに一世紀以前に地中海世界に広まっていました。しかし、二世紀になってその盛期を迎え、拡大しつつあったキリスト信仰共同体の中にその共鳴者を見出し、共同体内部にグノーシス主義的なキリスト理解を生み出し、使徒以来の伝承に立つ伝統的な主流派と激しい論争を引き起こすことになります。
 グノーシス主義はローマ帝国の辺境の地域で、抑圧された人々の体制への抵抗または体制超克の思想として生まれます。当時のヘレニズム世界の体制的思想はギリシアのコスモロジーでした。すなわち、この現実の《コスモス》(宇宙、世界)は善にして美なる存在として価値の源泉であり、その《コスモス》の秩序に即して生きることが人生の価値であり、善であるとされていました。ところが、辺境で抑圧された人々の間に、東方の諸宗教(その中にはユダヤ教もあります)の影響の下で、この悲惨な現実の《コスモス》を悪と見て、その《コスモス》の外に、またはその上に究極の神的世界を想定し、この悪なる世界から解放されて、それとは別の至上の神的で霊的な実在(魂の本来の故郷)に帰還することを救済とする宗教思想が生まれます。そのような救済に至るには、この《コスモス》の支配者である諸霊から解放されるための神秘的霊的照明が必要です。この霊的照明は《グノーシス》(知識を意味するギリシア語)と呼ばれ、人間はこの《グノーシス》によって救われるとするので、この救済思想は「グノーシス主義」と呼ばれます。
 グノーシス主義にも様々な種類があり、その体系も自由に生み出す多彩な神話によって実に複雑多様であって、一概に論じることはできません。しかし、共通するのは、現実の《コスモス》(宇宙、世界)を悪と見て、この《コスモス》とは別の原理を想定する「反宇宙論的二元論」です。このようなグノーシス主義は、悪の世からの救済を告知する福音運動とも親近性があり、グノーシス主義は福音共同体の中に、とくにその中の知的な階層に共鳴者を見出すことになります。彼らのギリシア的教養は、福音が告知する救済を時代の思潮であるグノーシス主義の思想で解釈し、いわゆる「キリスト教グノーシス主義」を生み出すことになります。彼らは使徒たちが告知した素朴な福音を未熟な段階のものとし、自分たちが福音をグノーシス主義的に解釈して構成した救済理解を高度な霊的なものとして誇りました。
 後にグノーシス主義を論駁した教父たちはサマリアのシモン(使徒八・九〜一一)をグノーシス主義の源流としていますが、シモンとグノーシス主義との関連はよく分かっていません。むしろ二世紀初頭に小アジアで活動したシノペのマルキオンがその後のグノーシス主義の特色を最初に明確に示すようになる指導者です。先に見たように(第八章第一節)、マルキオンは熱烈なパウロ主義者として、福音と律法の峻別を旗印にして、倫理的な信仰理解に後退しつつある当時の共同体を改革しようとしたのですが、彼の律法の否定は律法の書としてのユダヤ教聖書(旧約聖書)を全面的に否定するまでになりました。イエスは旧約聖書の義の神とは別の善なる神、恩恵の神を告知したのであり、その福音を正しく理解して告知したのはパウロだけで、ペトロなどの使徒たちはユダヤ教律法の枠の中にとどまり、福音を正しく理解していない弟子とされます。

ハルナックはマルキオンをグノーシス主義者とすることを拒否していますが、現実の世界を悪と見る「反宇宙論的二元論」に立つ以上グノーシス主義者と見るべきであるとする議論が有力です。その議論についてはマルキオンを扱った第八章第一節の「マルキオンとグノーシス主義」の項を参照してください。次の項で見るように、旧約聖書を拒否する点からすると、マルキオンはやはりグノーシス主義陣営に属すとしなければなりません。

 マルキオンに続いて(あるいはマルキオンと並んで)、アレクサンドリアのバシリデス(一三〇年頃)、アレクサンドリアからローマに出て活動したヴァレンティノス(一五〇年前後)、その弟子であるプトレマイオスやヘラクレオン(一七〇年頃)などがグノーシス主義の教師として有名です(年代はその活動の盛期)。マルキオンが熱烈なパウロ主義者であったように、グノーシス主義者は大体パウロを唯一の使徒として依拠し、主流の教会が「使徒」として重んじるペトロたちを不十分な使徒として、彼らに与えられた啓示は初歩的なものであり、自分たちはさらに高度な啓示が秘かに与えられているとします。使徒たちの伝承に従う周囲の大多数のキリスト教徒はユダヤ教の水準で神を礼拝しているが、霊的に成熟した者は与えられた《グノーシス》によって霊的な礼拝に達しているとしました。
 グノーシス主義者たち、とくにヴァレンティノス派はパウロの福音理解をさらに霊的に深化したものとしてヨハネ福音書を愛好し、自分たちの主張の根拠としてよく用いました。ヨハネ福音書はイエスをこの世とは別の領域から来られた啓示者として語っているからでしょう。ヨハネ福音書の最初の注解書を書いたのはグノーシス主義者のヘラクレオンです。ヘレニズム世界の最高の知性を誇るアレクサンドリアのグノーシス主義者たちは、キリスト信仰共同体に高度な知的営みをもたらし、クレメンスやオリゲネスらの後のアレクサンドリア神学の道備えをすることになります。

これらのグノーシス主義者たちのパウロ理解の問題、またヨハネ福音書との関係は興味深い問題ですが、この小論では取り扱うことはできませんので、他の専門書に譲ります。以前はグノーシス主義に関する情報は教父たちの異端論駁の著作の中で言及されているところだけでしたが、二〇世紀半ばにエジプトのナグ・ハマディで多くのコプト語のグノーシス主義文書が発見され、それが翻訳出版されるに及んでグノーシス主義に関する知見と研究が飛躍的に増えました。日本語では翻訳と解説が全四巻の『ナグ・ハマディ文書』(岩波書店)として出版されています。その他、ハンス・ヨナス『グノーシスの宗教』(秋山・入江訳、人文書院)、エレーヌ・ペイゲルス『ナグ・ハマディ写本』(荒井・湯本訳)、筒井賢治『グノーシス― 古代キリスト教の異端思想』(講談社選書メチエ)など、興味深い研究書や解説書が多く出版されています。ヨハネ福音書とグノーシス主義との関係については大貫隆『ロゴスとソフィア―ヨハネ福音書からグノーシスと初期教父への道』(教文館)を参照してください。

グノーシス主義との論争

 グノーシス主義は複雑な思想体系であり、その個々の問題点を取り上げることはこの小論がなしうることではありません。それでここでは話を分かりやすくするために、あえて問題点を一つに絞り、その一つの問題点を巡りグノーシス主義との論争を跡づけてみます。その問題点とは、旧約聖書を受容するか拒否するかという問題です。
 本書では先にマルキオンを取り上げ、彼の主張とその意義をやや詳しく述べました(第八章第一節)。実はマルキオンの主張に、その後のグノーシス主義の問題点が典型的に出ているのです。後にグノーシス主義を論駁したエイレナイオスやテリトゥリアヌスなどの教父たちがマルキオンを異端の源流あるいは首魁として論難したのも理由があります。それは、マルキオンが最初に、そして最も明確に旧約聖書を拒否したからです。グノーシス主義はその思想の帰結として何らかの形で旧約聖書を拒否しました。それはグノーシス主義の基本的原理である「反宇宙論的二元論」の自然な帰結です。
 グノーシス主義はこの世界《コスモス》を悪と見ています。従ってこの悪なる世界を創造した神は至高の神ではありえません。旧約聖書の神は世界を創造し、諸民族の中からアブラハムの子孫を自分の民として選び、その民にモーセを通して律法を与え、律法を守る者に祝福を、背く者に裁きを与える義の神です。それに対してイエスが示された神は、罪人を無条件に赦して受け入れる慈愛の神であり、イエスが啓示されたイエスの父なる神は旧約聖書の神とは別の神である、とマルキオンは唱えました。イエスが啓示された父こそ至高の愛の神であり、旧約聖書の神は一段劣る神、《デーミウルゴス》(半神)に過ぎないとしました。グノーシス主義の「反宇宙論的二元論」は、相容れない二つの原理の対立から二神論に陥り、唯一の神を拝すべきだとする正統派から厳しく批判されることになります。
 マルキオン以後のグノーシス主義者も、この世界の創造者を何らかの形で低い神性とし、その上に至上の霊的実在界を想定し、その至高の霊的実在界と現実の世界との関わりを、複雑な神話を造り出して説明しました。そのため、世界を創造しユダヤ人に律法を与えた神を語る旧約聖書は、否定的に解釈(たとえば創世記の蛇は真の知恵の象徴とされ、人間はその知恵によって創造神の拘束から解放されると解釈)されるなどして退けられます。
 ハルナックは共同体内のグノーシス主義を福音の「急速なギリシア化」と呼びました。フレンドもその著でグノーシス主義を扱う項目を「激しいギリシア化」(Acute Hellenization)という標題でまとめています。ヘレニズム世界に深く進入した福音は、故郷のユダヤ教聖書を拒否することでギリシア化を完成しようとします。しかし、旧約聖書の否定は救済史の否定となります。聖書は歴史の中で救済の働きを進められる唯一神の記録、すなわち救済史的唯一神の啓示だからです。それで、救済史の否定は福音の否定であるとして、使徒たちからの伝承に立つ主流派からの激しい批判を招くことになります。
 先に(第八章第一節で)見たように、聖書(旧約聖書)を拒否したマルキオンに対抗して、ルカがその二部作で聖書に基づく救済史の確立を唱えて、その批判の最初の実例となります。イエス・キリストの出来事とそれに基づく共同体の形成を聖書の成就であるとするルカの主張は、もともと使徒たちの福音告知の基本です。使徒たちはみなユダヤ人であり、聖書を神からの啓示として信じており、イエス・キリストの出来事を聖書の成就として告知しました。聖書の神とイエスの神は同じ神です。聖書は福音の根です。福音は聖書という根の上に咲いた花であり結んだ実です。グノーシス主義は旧約聖書を拒否することによって、福音をその根から切り離してしまう誤りを犯したことになります。聖書は救済史的唯一神を啓示する書です。聖書の救済史という根から切り離された信仰は、人間の知恵の中で形成された造花になってしまいます。
 二世紀初頭にルカが敷いた路線を進んだ主流派は、二世紀を通して隆盛を見せたグノーシス主義と論争し、エイレナイオス(二世紀末)やテリトゥリアヌス(三世紀初頭)らによってグノーシス主義に対する批判を完成させます。エイレナイオスは救済史神学の確立者として著名ですが、福音を旧約聖書の成就とする彼の救済史神学が聖書を拒否するグノーシス主義を批判するのは当然です。三世紀以降グノーシス派は衰退しますが、それはグノーシス主義が一部の知的エリートの信仰運動であったことの避けられない結末です。使徒的伝承に立つ多数派が主流派として生き残ることで、キリスト信仰共同体は旧約聖書を自分たちの聖書として受け入れ、信仰の拠り所として用いるようになります。キリスト教会がユダヤ人の聖書(旧約聖書)を神からの啓示の書として受け入れているのは自明のことではなく、二世紀の激しいグノーシス主義との論争の結果であることを忘れてはなりません。

モンタノス主義の衝撃

 もう一つ、二世紀後半の共同体を揺るがした問題にモンタノス主義運動があります。モンタノスは小アジアの中心部に位置するフィルギア地方で一五〇年代に活動し始めた預言者です。教父の証言によると、モンタノスはフィルギア地方に盛んなキュベレ宗教(密儀宗教の一つ)の祭司であったが、キリスト信者になって共同体にその地方に盛んな預言活動を持ち込んだとされています。モンタノスは聖霊によって預言する者として、自分の活動をヨハネ福音書で約束されている《パラクレートス》(慰め主)預言の成就としました。彼の活動に二人の女性預言者プリスカとマクシミラが加わり、彼らはキリストの来臨が間近であることを唱えて、黙示思想的な来臨待望を復興しました。彼らは新しいエルサレムが天からフィルギアのペプザに降ると唱えて、キリストの民はそこに結集するように呼びかけました。モンタノスの運動は、後代のキリスト教の歴史に繰り返し現れる千年王国思想(地上にキリストの支配を待望する思想)運動のはしりとなります。彼はキリストの来臨に備えるために断食や性関係の禁止など厳しい禁欲を唱えたので、当時の共同体の信仰の弛緩と世俗化を嘆く人々の共感を得て急速に拡大します。モンタノス運動は聖霊のカリスマ的な現れによって最初期前期の黙示思想的な切迫した終末待望を復興する運動として、その厳しい禁欲主義や殉教への情熱と相まって、組織化し世俗化しつつあった二世紀後半の共同体を揺さぶります。
 モンタノスの運動は、小アジアの中心都市であるエフェソから出た二つのヨハネ運動に霊感を得ているように見えます。一つは長老ヨハネの共同体の《パラクレートス》(聖霊)信仰、もう一つは預言者ヨハネに与えられた黙示録的啓示(ヨハネ黙示録)です(ヘンゲルのようにこの二つを同じ共同体の運動と見る説もあります)。小アジアに始まったモンタノスの運動は急速に拡大し、とくに西方のラテン語世界、すなわちローマと対岸のカルタゴ(北アフリカ)に燃え広がります。ローマの共同体ではモンタノス運動が唱える「(使徒以後の)新しい啓示」について激しい論争が起こります。カルタゴではラテン語世界での最初の偉大な神学者であるテリトゥリアヌスがモンタノス主義に転向し(二〇〇年頃)、もっとも傑出したモンタノス主義者となり、共同体に衝撃を与えます。
 先に見たように、共同体は二世紀に入って、単独監督を頂点とする制度的な聖職制を進めていました。最初期のカリスマ的な指導と協力態勢は、監督、長老団、奉仕者(執事)の職制をもつ組織体に変容しつつありました。モンタノス運動は、このような制度的な共同体に衝撃を与えます。各地の監督たちは、自分たちの権威の拠り所を突き崩すようなモンタノス主義に戸惑い、会議を開いて対応策を協議します。これらの会議は教会史上最初の「教会会議」と見なされるようになります。
 おそらくこれらの会議で議論されたことと推察されますが、監督たちはモンタノス運動における女性預言者の活動を問題にしたことと考えられます。すでに牧会書簡が集会における女性の指導者を否定しています。モンタノス主義に反対する聖職者たちは、その運動が女性預言者を認めていることに反対の根拠を見たのでしょう。実は、先に見たグノーシス主義との論争においても、女性聖職者を認めるかどうかが議論されました。グノーシス主義陣営では、マグダラのマリアがペトロに優る啓示の受領者であると唱えるなど、女性の聖職者を認める傾向がありました。グノーシス主義に反対する主流派は、ローマ社会の強い家父長制の枠の中で共同体を「健全に」維持するために、女性の聖職者を排除する方向に進みます。女性預言者を尊重したモンタノス主義運動の排除と相まって、後の教父たちの「異端反駁論」において、女性聖職者を認めることが異端のしるしとして非難されることになります。

モンタノス主義については、Anchor Bible Dictionary に R.E.Heineによってよくまとめられた項 Montanism があります。

「正統主義」の確立

 このように二世紀の共同体は、使徒たちから伝えられた伝承に立つ多数派が、グノーシス主義とモンタノス主義を激しい論争を経て退け、自分たちの信仰を「正統」信仰として確立します。グノーシス主義との論争においてもっとも危険な異端として攻撃されたのがマルキオンです。それは、他の教師たちと違って、マルキオン派は自分たちの聖書を持ち、正統派と同じような組織を持つ共同体として、正統派と勢力を競うようになっていたからでしょう。
 正統派の主張の根拠は、自分たちは主イエスが任命された使徒たちの教えを正しく継承しているということです。正統派の主張を典型的に代弁しているエイレナイオスは、その著『異端反駁』に見られるように、使徒たちは福音の完全な知識を持つまでは説教せず、その説教を使徒たちは福音書に記録したとしています。マタイ福音書とヨハネ福音書は使徒自身によって書かれたものであり、マルコ福音書はペトロの使信を再現し、ルカ福音書はパウロの使信を伝えるものとしています。それに対してグノーシス主義者は、福音書における公的な教えの他に、口頭で伝えられた「円熟している者の間で語られた知恵」(コリントT二・六)があり、自分たちがその継承者であると主張しました。モンタノス主義者は《パラクレートス》による新しい啓示を受けていると主張しました。それらの主張に対して、正統派は、もしそのような教えがあるとしても、それらは使徒たちが後継者として選んだ人々に委ねられたはずであり、使徒の教えは使徒によって基礎を与えられた共同体に完全に保存され、監督の秩序正しい継承によって保証されているとしました。このような「使徒継承」の理念によって、監督の権威は根拠づけられ、正しい信仰と共同体の一致はこの監督に従うことによって保証されるという主張が強化拡大されていきます、
 「正統」信仰は、「信条」の形成と「正典」の確立という形で表現されることになります。先に見たように、二世紀の共同体の各集会は、サクラメント化したバプテスマと聖餐を司る単独監督をいただく組織体となりつつありましたが、集会員の信仰を確認するためにこれらの儀礼のさいに信仰内容を言い表すことが求められるようになります。とくにバプテスマを受けてエクレシアに加入するさいに、志願者は問いかけに答えるという形で、どう信じているのかを表明することが求められるようになります。パウロの時代の「イエスは主である」という単純な信仰告白は、二世紀の終わり頃ローマでは次のような三項目の問答となっていたことが知られています。

 「あなたは全能の父なる神を信じますか」。 ― 「わたしは信じます」。
 「あなたは、聖霊によっておとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられて死に、三日目に死んだ者のうちからよみがえり、天に昇り、父の右に座し、生きている者と死んだ者をさばくために来られようとする、神の子イエス・キリストを信じますか」。 ― 「わたしは信じます」。
 「あなたは、聖霊、聖なる教会、からだのよみがえりを信じますか」。 ― 「わたしは信じます」。
(引用はウォーカー『古代教会』より)

 このような問答形式の信仰告白は、その後「わたしは信じます」(ラテン語で「クレドー」)で始まる宣誓型の信仰告白に席を譲り、現代の教会で用いられる「使徒信条」に至ります。このような形の信仰告白文は「クレド」と呼ばれ、歴史的なキリスト教会の信条を形成する出発点になります。
 信条の形成と並んで、自分たちの信仰の基準となる文書の範囲を確定するという作業も二世紀の共同体の重要な課題となります。このような自分たちの信仰の基準となる文書を「正典」としてもつことは、すでに二世紀の初頭にマルキオンが試みたことでした。二世紀の共同体は、マルキオンとの論争を通して「正典」という観念そのものとその必要を知るようになり、正典の範囲を確定する努力をするようになります。二世紀にはグノーシス派は自分たちの霊的理解を表現するために多くの文書を生み出していました。正統派はそれらの文書を異端として排除し、自分たちの信仰の土台として使徒たち自身または直接の弟子から出た文書だけを集会で朗読してもよいとしました。その文書の範囲は会議などで一気に確定したのではなく、徐々に諸集会の合意として形成されたものです。その過程を詳しくたどることはできませんが、その概略を見ておきましょう。
 最初期の共同体は、指導層がすべてユダヤ人であることから、旧約聖書を神の啓示の書として扱うことを当然としていました。イエス・キリストを信じる人たちも、自分たちの信仰を旧約聖書によって根拠づけ、あるいは旧約聖書の新しい解釈で表現していました。旧約聖書以外の文書が集会で権威ある書として朗読されたりして用いられたのは、パウロ系の諸集会でパウロ書簡またはパウロ名書簡がそのように用いられたのが最初ではないかと考えられます。イエス伝承を語り伝えたパレスチナ・シリアの運動では、その伝承(とくに語録伝承)が文書化されて用いられたことも推察されます。最初期後期にはそれらのイエス伝承を用いて福音書が形成され、それぞれの福音書が特定の地域で流布して用いられるようになりますが、まだそれらの文書を(旧約聖書と並ぶ)聖書として引用している実例は僅少であり、広く権威を認められていたのではありません。
 ところが二世紀に入ると状況が変わってきます。先にマルキオンに関する箇所で見たように、彼は旧約聖書をキリスト信仰の根拠とすることを拒否して、パウロの継承者であるルカがエーゲ海地域の共同体に伝えたイエス伝承(初版のルカ福音書)とパウロ十書簡集だけを自分たちキリスト者の信仰の基準として用いるようになります。こうして形成されマルキオン派の共同体で用いられるようになった文書の集成が「マルキオン聖書」と呼ばれ、二世紀の共同体にそれに対抗する正典の結集の必要を迫ることになります。
 マルキオンに対抗した正統派が自分たちの信仰の拠り所として集会で朗読されるべき文書(正典)かどうかを判定する基準としたのは、文書の使徒性です。その文書が使徒自身かその直接の弟子から出たものかどうかで判断されました。二世紀半ばのユスティノスは、福音書を「使徒たちの覚え書(複数形)」と呼び、それらが日曜日の礼拝において旧約聖書と同じように読まれたことを報告しています。ユスティノスの弟子のタティアノスは四福音書を記事の重複や相違を除いて調和のとれた一書にまとめた『ディアテッサローン』を著しています(一六〇年頃)。これは後にシリアでの標準福音書として用いられるようになります(タティアノスはローマからシリアに帰郷して活動)。さらにタティアノスはパウロ書簡集(ヘブル書を含む)を用いており、二世紀後半のローマ共同体では四福音書とパウロ書簡集が用いられていたことが分かります。
 二世紀末に活躍した教父のエイレナイオスは、異端的な分派が一つの福音書だけを用いていることを危険視して(エビオン派はマタイだけ、マルキオン派はルカだけ、ヴァレンティノス派はおもにヨハネ)、当時広く流布するようになっていた四福音書すべてを含めて用いるべきことを強く主張しました。世界に四つの方角があり、四つの風があり、四つの契約が与えられているように教会には四つの柱として四福音書があるとしました。彼は四福音書と使徒言行録を「すべての使徒たちの教え」とし、パウロの十二書簡(牧会書簡を含むがフィレモンを欠く)を「パウロの使徒的書簡」とし、他にペトロT、ヨハネTとUを正典と見ています。ヨハネ黙示録、ヘルマスの牧者、クレメンスの第一の手紙も用いられていますが正典とは考えられていなかったようです。
 近代になって「ムラトリ正典目録」と呼ばれる文書が発見されましたが、これは二世紀末にローマの教会で正典として読まれていた文書の目録であると見られます。それには四福音書と使徒言行録、パウロ十三書簡(現行新約聖書と同じ)、三つの公同書簡(ユダ、ヨハネTとU)、他に「ソロモンの知恵」、「ヨハネ黙示録」、「ペトロ黙示録」(認めない者もいるという但し書き付き)が記載されています。
 二世紀末から三世紀初頭にかけて活躍したカルタゴのテリトゥリアヌスは、ラテン語で著作した最初の偉大な教父ですが、彼は福音書を四つに厳しく限定し(彼の時代には多くのグノーシス福音書が現れていました)、四福音書を「正規の福音書」と呼び、「正規の使徒書」として使徒言行録、パウロ十三書簡、三つの公同書簡(ペトロT、ヨハネT、ユダ)をあげ、それにヨハネ黙示録を含む二十二の文書を正典としました。 その文書を「新しい契約(Novum Testamentum)」と呼び、旧約聖書と同等に権威あるものとしました。これが現在の「新約聖書」という呼び方の始まりとなります。
 このように二世紀末には、四福音書と使徒言行録、それにパウロ十三書簡は正典として確立していますが、他の公同書簡や黙示録は評価が定まらず流動的であったことがうかがわれます。教会は出所を語る伝承だけで使徒性を認めたのではなく、その内容を吟味して、古い使徒的文書を後代になって現れた非使徒的文書と区別しようとしました。正統的信仰を確立するために正典を限定しようとする努力と並行して、特定の人物(たとえばヴァレンティノス)の著作を「受け入れられない」ものとして排除することもなされました。こうして、なおその範囲は一部流動的ですが、正典という概念とその基本的な実体は二世紀末には確立していたと見ることができます。

正典の成立過程については、『総説 新約聖書』(日本基督教団出版局)に「第十章 新約正典成立史」(川島貞雄)がありますので、それを参照してください。なお、以上に概観した「正典」は古代教会の正典であって、現代の信仰共同体にとって直ちにそれが正典となるわけではありません。現代の共同体にとっての「正典」の問題は第二節で取り上げることになります。

「カトリック教会」の成立

 こうして、最初期に福音によって招集され、聖霊の力強い働きによって形成されてきたキリスト信仰共同体は、二世紀に入ってその働きをさらに推し進めると同時に、内外の事情に迫られて単独監督の下に定まった儀礼と信条をもつ組織体となっていきます。宗教的儀礼と信条をもち、聖職者組織をもつ信仰共同体を「教会」と呼ぶならば、二世紀はキリスト信仰共同体が「教会」として形成されていく過程であったと言えるでしょう。その過程は二世紀末には実質的にはほぼ完了しており、ローマ帝国が支配する地中海世界に一つの新しい「教会」、キリスト信仰によって成立する「キリスト教会」が出現したことになります。「イエスは神の国を告知された。そして、現れたのは教会であった」ということになります。
 本書ではこれまで最初期の共同体を指すのにあえて「教会」という用語(ほとんどの日本語訳新約聖書が用いている語)は避けてきました。最初期の福音によって招集され聖霊の働きによって形成された新約聖書のキリスト信仰共同体《エクレーシア》は、まだ「教会」ではないという理解からです。その共同体が儀礼、信条、正典、聖職者をもつ組織体、すなわち「教会」となる過程は二世紀を通して進行し、二世紀末になってようやく「教会」としてローマ世界に立ち現れるようになったと言えます。

本書において「 」を付けて「教会」と表記するのは、キリスト信仰共同体一般を指すのではなく、儀礼、信条、正典、聖職者をもつ組織体としての共同体を指していることを示すためです。

 その組織体としての「教会」の要になるのが、各個の集会を代表する単独の監督《エピスコポス》です。監督は共同体の統一を体現します。監督に従うことが正しい信仰を保証し、共同体の統一を保証します。監督が執行するか監督が認める儀礼だけがサクラメントとして有効です。監督を離れてキリストの民はありません。監督がいるところに「教会」があります。このように組織体としての「教会」を代表する単独監督(Bishop)は、「教会」において「主教」(東方教会での訳語)とか「司教」(西方教会での訳語)と呼ばれるようになります。これからは「教会」のことを語ることになりますので、各教会を代表する単独監督(Bishop)を、教会用語に従って「主教」とか「司教」と呼ぶことにします。

以下でおもに「司教」を用いるのは、西方教会に属する欧米神学の流れにある日本の神学が、その西方教会の訳語を踏襲して「司教」を用いているので、その慣行に合わせているだけです。なお、秦剛平訳の『エウセビオス「教会史」』(講談社学術文庫)は「監督」という訳語で統一しています。

 二世紀の共同体が置かれていた内外の困難な状況に対処するために、司教たちは協力します。外からの迫害のような困難には、物心両面の援助を惜しまず注いで協力して対抗します。その実例はイグナティオス書簡やポリュカルポス書簡に見られます。とくに内にある異端的分派に対して信仰の一致を維持するために、司教たちは書簡で意見を交わしたり会議を開いたりして、一致を図ります。そのような動きはごく初期からありましたが、やはり二世紀に入り、グノーシス主義やモンタノス主義と対抗する必要に迫られたとき、その動きは具体的になり、二世紀の後半には「公同の教会」《ヘー・エクレーシア・カトリケー》の自覚と特色が明確になってきます。この「公同の教会」という表現はすでにイグナティオスがその書簡で用いていますが、なお理念的でした。しかし、それまである程度独立していた各個の集会は、これらの動きを経て二世紀後半には有力な統合体として結合されるようになります。
 そのような統合の努力の中で、ある地域の主要都市にある規模の大きな「教会」の司教が大きな影響力をもつようになるのは自然な流れです。パレスチナ・シリアではエルサレムやアンティオキア、小アジアではエフェソ、エジプトではアレクサンドリア、アフリカではカルタゴなどの大都市の司教が周辺の諸都市や諸地方の「教会」の統合の中心となっていきます。その中でとくに重要な位置を占めるようになるのが、帝国の首都ローマにある「教会」の司教です。
 ローマの共同体は代表的な使徒であるペトロとパウロの殉教の地としての栄誉を誇り、その司教は初代の司教であったペトロの後継者であるとしていました。帝国の統合の中心地である首都の「教会」として、ローマ帝国各地の「教会」の統一に責任があると自覚していたようです。ローマの共同体は、先にイグナティオス書簡で見たように、一世紀末にはまだ一人の司教をいただく一つの「教会」ではなかったようですが、それでも「クレメンスの第一の手紙」に見られるように、帝国各地の教会の「平和と一致」に責任をもつ者としての自覚を持っていたようです。ローマの「教会」がいつ頃から一人の司教の下に統合された「教会」になったのかは確認困難ですが、エウセビオスの『教会史』は(確立した司教制の立場から遡って)ペトロの後を継いだリヌス以下歴代の司教の名とその在任年代を丁寧にあげています。その中で三代目の司教(在位九三〜一〇一年)としてクレメンス(コリントへの書簡の著者)の名をあげています。
 帝国の西方ではローマの教会が使徒と直接の関わりをもつ唯一の教会であり、グノーシス主義とモンタノス主義とに対する対抗に成果を上げ、その働きの中で信条が形成され、正典が確立されたこともあって、正統派教会での重要性が増し加わり、二世紀の後半には指導的な地位を認められるようになります。エイレナイオスはローマ教会をペトロとパウロによって設立された教会としてその働きを称揚し、「すべての教会は、この教会と一致すべきである」と書いています(『異端論駁』三・三・二)。
 ローマの指導権の増大を象徴する事件として「復活祭論争」を取り上げておきます。二世紀においてキリスト教会の勢力がもっとも盛んであったのは小アジアと東に隣接するシリアでした。その小アジアでは復活祭は曜日に関わりなくユダヤ暦のニサンの月の一五日または一四日に行われていました。ところがローマでは常に日曜日に行われていました。それでスミルナの司教ポリュカルポスが一五四年にローマの司教を訪問したとき、復活祭の日を統一することが話し合われましたが、合意に達することができませんでした。その後この問題はさらに紛糾して深刻になったので、ローマ、パレスチナ、その他の場所で教会会議が繰り返され、一九〇年頃にローマの主張に沿った決定がなされるに至りました。ところが、エフェソの司教に率いられた小アジアの諸教会はそれに従うことを拒否したので、ローマの司教ヴィクトルは不従順な教会を破門します。この高圧的な処置はエイレナイオスらの反対に遭いますが、この事件はローマ教会が帝国の「公同の教会」において指導的な地位にあることを主張するようになってきたことを象徴する出来事となります。
 この事件によってエフェソを中心とする小アジアの勢力はローマに対抗できなくなります。二次のユダヤ戦争を経てエルサレムも影響力を失い、アンティオキアも衰微します。さらに三世紀に入って興隆するアレクサンドリアやカルタゴもローマに並ぶことはできませんでした。ローマの司教は、まだ後の「教皇」のような他の司教たちの上に立つ権威ではなく、対等の司教の中の一人でしたが、それでも形成されつつあった「カトリック教会」の中心的存在として、その影響力を強めていきました。こうして二世紀後半のローマ帝国内に、ローマを中心とする「公同の教会(カトリック教会)」がその姿を徐々に現していくことになります。
 そのような「カトリック教会」の理念は、エイレナイオスやテリトゥリアヌスにも表明されていますが、三世紀半ばに至ってキプリアヌスの著作においてもっとも明確に表現されることになります。キプリアヌスは三世紀の五〇年代にカルタゴの司教として教会を指導した教父です。彼は二五一年に『カトリック教会の一致について』という著作を著し、また多くの書簡を書いて、当時の「教会」の理念を見事に代弁しています。彼によれば真の教会は正典、教理、典礼、聖職者組織を持つ見える教会であり,それは恩恵の唯一の機関であるので,「教会の外に救いはない」と言われます。彼は教会について次のように言っています。
「一なる神がいまし、一なるキリストがいまし、一なる教会があり、また、主の御言葉によって岩の上に建てられた一なる聖座(司教職)がある」。
「教会を母としてもたない者は、もはや神を父としてもつことはできない」。
「彼が誰であれ、彼が何者であれ、キリスト教会の中にない者はキリスト者ではない」。
「司教は教会の中にあり、教会は司教の中にあることを知りなさい。誰にせよ司教とともにおるのでなければ、彼は教会の中におるとはいえない」。
 帝国内の教会が「カトリック教会」として強力な組織体としての姿を現すようになったまさにその時に、デキウス帝の迫害が起こったことは象徴的です。二五〇年に起こったデキウス帝の迫害はローマ皇帝の命令による最初の迫害です。それまでの迫害は、自分たちの社会と文化には異質な在り方を示すキリスト教徒に対する市民たちの反感から起こった騒動でした。ところがこの頃からローマ帝国の体制は自分の中に異質な組織体が存在することを許せないと感じるようになって、その組織そのものの絶滅を図るようになります。キプリアヌスは次の皇帝ヴァレリアヌスによる二五八年の迫害の時に殉教します。
 この帝国と教会の戦いは次の世紀になって教会の勝利となって終わります。すなわち四世紀には、初頭にディオクレアヌスの大迫害がありますが(三〇三年から)、東西両帝国の正帝や副帝たちの権力闘争の中で迫害と寛容策がめまぐるしく交代し、ついに三一三年にミラノ寛容令が出されて教会の存続が認められ、東西両帝国を統一して都をビザンチンに遷したコンスタンティヌス大帝によって特別の地位を与えられるようになります。彼自身も最後には洗礼を受けてキリスト教徒になります。その後も、帝国の統一をキリスト教による統一によって基礎づけようとした皇帝たちによって教会に対する優遇措置は進み、「三帝勅令」を経て、他の宗教を禁止する三九二年のテオドシウス一世の勅令により、キリスト教の国教化が完成します。それ以後千年以上の長きにわたって、帝国と教会が癒着したキリスト教ローマ帝国(いわゆるビザンチン帝国)が世界史の中に歩み続けます。このような国家と教会が融合した体制は、その基礎を据えたコンスタンティヌス大帝の名をとって「コンスタンティヌス体制」と呼ばれることもあります。

V 「キリスト教」の成立

ギリシア・ローマ世界における「宗教」

 ここまで項目TとUで、福音によって招集され聖霊の働きによって形成されてきたキリスト信仰共同体が、二世紀には「教会」として形成される過程を見てきました。ローマ帝国が支配する地中海世界に新しく現れた「キリスト教会」は、その世界に「キリスト教」という新しい「宗教」をもたらしました。そのことが何を意味するかを、ここで見ておきたいと思います。そのために、古代では「宗教」とはどういうものであったのかを一瞥しておきます。
 「宗教」は人類と共に古いものです。人間は人間となったときから「宗教」をもって生きてきました。科学や芸術よりも、また国家を頂点とする諸々の社会制度よりも、「宗教」は古いものです。人類はそれを「宗教」として意識することなく、自分たちの生き方そのものとして行ってきました。人間は一人では生きることはできず、必ず共同体(社会)を形成します。仲間と一緒に生きていかなければなりません。そのとき人と人を結びつける原理、すなわち社会を形成する原理が、広い意味での「宗教」です。ここでは「宗教」とは何かという厳密な定義を追究するのではなく、「宗教的」と呼ばれる人類の営みを概観して、「キリスト教」という新しい「宗教」成立の意義を探りたいと思います。
 人間は霊の次元をもつ存在であり、何らかの形で人間を超える霊的存在との交流の中で生きていかざるをえません。その交流の形は様々ですが、もっとも普遍的な形は祭りを行うことでその交流を確保することです。この営みがもっとも素朴な意味で「宗教的」と呼ばれる人間生活の姿です。感謝や供物を捧げて霊的な世界からの禍を避け福を呼び込もうとする営みは祭りのもっとも普遍的な姿です。このような祭りのための儀礼を「祭儀」と呼ぶならば、人類はその最古の時代から「祭儀」を行ってきたと言えます。そして、同じ祭儀に参加することが、仲間であることを確認し、共同体を形成しました。祭儀が社会を形成する原理となっていました。人間社会のもっとも原初的な形は「祭儀共同体」であると言えるでしょう。もし儀礼をもって神々などの霊的存在を祀る行為とか営みを「祭祀」と呼ぶならば、「祭祀共同体」と言ってもよいでしょう。
 人間は言葉をもつ存在です。祭儀を行うとき、祭られる霊的存在は言葉をもって呼びかけられ、感謝や願いは言葉によって述べられます。祀られる霊的存在の意志は言葉で伝えられます。その祭儀の言葉が共有されることによって、その祭儀に参加する人たちの一体性が保証されます。その言葉は明確な言語ではなく、象徴が用いられる場合が多いのですが、象徴が指し示すことの理解が共有されることが共同体を形成します。共通の祭儀によって形成された共同体には、その祭儀の起源とか意義、またその祭儀によって形成された共同体の成り立ちや営みを言葉で語る物語が形成されます。それが「神話」であり、その共同体の統合の根拠として語り伝えられて、その共同体存立の基礎となる伝承・伝統となります。
 祭儀にはそれを有効に執り行う専門家が必要となり、祭儀共同体には祭儀を執行する祭司階級が現れます。祭司は祭儀を執り行うだけでなく、その祭儀の意義を語り伝える神話と伝承の保持者として、またその祭祀の体現者として、その共同体の統合の中心的地位を占めます。古代では共同体の支配者(王)はたいてい最高祭司でした。

本章(終章)で「宗教」という用語は、人間が神とか仏というような超越的で霊的な存在と関わる営み全般を指す広い意味ではなく、祭儀と祭司と教義をもつ祭祀共同体の営みを指すという狭い意味で用いています。そういう狭い意味に限定して用いていることを示すために、常に「宗教」とカギ括弧をつけて表記します。

 人類はもっとも原始の時代からこのような祭祀共同体として歩んできました。古代においてはまだこの事実が様々な規模と形で見られます。たとえば、われわれが理性的な哲学や民主主義政治体制の発祥の場として高く評価しているギリシアの都市国家(ポリス)は、祭儀共同体としての性格を強く示しています。そのことはすでにクーランジュが名著『古代都市』(一八六四年)で多くの資料を駆使して歴史学的な方法で示しています。彼は「緒言」で「古代人の制度を知るためには、その最古の信仰を研究する必要があることについて」語り、「第一編・古代の信仰」で古代ギリシア人の崇める霊は祖霊(亡くなった先祖たちの霊魂)であり、その祖霊を祀るために家の竈の火を絶やすことなく、その竈の火に供物を捧げるなどの儀礼を行い、ついにはその火そのものを神として崇めるようになっていたことを示しています。そして、このような家族宗教が婚姻、所有権、相続、父権などギリシア人の家族制度を形成したことを「第二編・家族」で詳しく論証しています。その家族制度の延長上にある「氏族」制の問題点を指摘し、その後「第三編・都市」で、都市の成立がいかに宗教的な出来事であるか、すなわち祭祀共同体としての都市の性格を明らかにしています。ここでその議論をすべて紹介することはできませんが、クーランジュはそこで「古代にあっては、あらゆる社会の紐帯をなしたものが祭祀であったことを見過ごしてはならない。家族の祭壇が一家の人々をその周囲に結合させたように、都市は同じ守護神をもち、同じ祭壇に向かって宗教的儀式を行う人々の集団であった」として、ギリシアやイタリアの都市の宗教儀礼を詳しく紹介し、すべての法律、行政などすべての統治行為がその祭祀の中で行われたことを詳しく描いています。
 同じ先祖をもつなどの理由で数家族が支族を形成し、さらに数支族が部族を形成しますが、さらに数部族がそれぞれの祭儀を尊重することで合意して連合するとき都市(ポリス)が生まれます。そのさい、下位の共同体の祭祀はそのまま存続し、新たに上位の共同体の祭祀が行われて上位の新しい共同体が誕生します。こうして都市は最初の都市祭祀を行うときに誕生することになるので、各都市は誕生日をもつことになり、毎年その日が建国祭として祝われることになります。ローマ都市国家の誕生日は四月二七日です。
 古代人の宗教において祖霊崇拝と並んでもう一つの普遍的な自然宗教(自然の生産力や威力を神として崇める宗教、ギリシアではゼウスなどオリュンポスの神々)も都市を形成するさいに重要な要素となり、各都市の守護神となりますが、共同体の形成原理そのものはやはり家族宗教の延長上にあります。従って各共同体の首長はそれぞれの段階の祭祀の祭司であり、家族では父親、都市では都市祭祀の執行者が都市を支配します。都市の統治はすべてこの祭祀の執行者(大祭司)によって行われます。古代都市では王(統治者)は祭司であり、祭政一致は当然でした。帝政時代のローマにおいても、そのコインの称号に見られるように、皇帝は同時に最高神官でした。
 このような宗教を土台とする古代都市も、その祭祀共同体としての存立を永続させることはできませんでした。次々に革命が起こり、ついに消滅する過程が「第四編・革命」と「第五編・都市政体の消滅」で描かれます。クーランジュはその原因を、@人知の発展にともなう思想上の変遷と、A都市の組織から除外されていた人々の階級があったという二つの事実に求めていますが、実際は後者、すなわち都市の祭祀組織から除外された階層の人たちの勢力の増大による祭祀共同体の崩壊に焦点が当てられています。これはその祭儀に参加できる者とできない者を厳しく差別する宗教そのものがもつ差別原理が原因となります。祭祀共同体は自分が抱える矛盾によって自己崩壊したということになります。彼の議論は詳細を極めていて、ここにその一端を紹介することもできませんが、彼が十分取り扱わなかった@の「人知の発展にともなう思想上の変遷」を取り上げておきます。
 クーランジュは古代都市の崩壊が起こった古代末期を扱いながら、古代末期の地中海文明を特徴づける「ヘレニズム文明」に触れていません。これは「ヘレニズム時代」という時代概念とその時代の文化を形成した「ヘレニズム文化」という概念は、ちょうど彼が『古代都市』を著した一九世紀中葉から唱え始められたものだからです。彼は古代都市の崩壊に決定的な一撃を与えたのは「ローマの制覇」であるとして、「ローマはいたるところで都市制度を破壊した」としています(第五編第二章)。しかし、ローマが制覇する前に、アレクサンドロス大王の東征の時から地中海世界のヘレネス化(=ギリシア化)は始まっており、ギリシア世界も東方の諸宗教との遭遇から都市宗教の枠を超える宗教思想が芽生え始めていました。アレクサンドロス大王(前三二三年没)は東西文明の融合を目指しましたが、その融合は後継のヘレニズム王朝の時代に発展し、ローマが最後のヘレニズム王朝のエジプトを支配するようになる前三〇年に至る三〇〇年の間に、都市宗教の枠の中で形成された思想は別の枠組みを持つヘレニズム思想とか文化へと変容していました。クーランジュがいう「人知の発展にともなう思想上の変遷」は、実はアレクサンドロス大王が引き起こした歴史的変動の結果であるヘレニズム世界における思想の変容であったわけです。その思想の特色は、《ポリス》(都市国家)の枠を超えて《コスモス》(世界)を価値の源泉とする普遍主義、言い換えれば、《コスモス》を自分のポリス(所属都市)とする「コスモポリタニズム」(世界市民主義)と言えるでしょう。
 ローマ帝国はヘレニズム世界の継承者です。ローマも他のギリシアの都市と同じ一つの都市国家として発足しました。従ってここで見たような祭祀共同体としての古代都市の一つであり、その性格は帝政期にいたるまで強く残っています。しかし、イタリアの一つの都市ローマがその強大な軍事力と巧妙な外交政策で地中海世界の多くの都市や民族や王国をその支配権(imperium)の下に置くことに成功したとき、「ローマ帝国」が出現します。ローマが支配するようになった地中海世界はすでにヘレネス化した世界、すなわちヘレニズム世界でした。ローマは文化的にはヘレニズム世界を相続したと言えます。
 ローマ帝国は支配下においた諸都市や諸民族の祭祀(宗教)を尊重し、その存続を認めるだけでなく、自分の守護神として取り込むこともありました。もともとローマは一つの都市として発足したときも、ラテン民族だけでなく複数の民族がそれぞれの祭祀を持ち寄って作られた都市であり、他の祭祀に対して開放的である体質があったのでしょう。ローマ宗教はその知りうる限り最も古い姿において、すでに「混淆的」だったと言えます。
 ローマ人にとって「宗教」(religio)とは、古来から確立している諸祭儀を政治的共同体の利益のために厳格に順守することであり、敬虔(pietas)とは祭儀上の勤めを忠実に果たすことでした。ローマ人は、自分たちほど敬虔な者はないと自負していました。一方、ローマ人の宗教的慣習にとって異質なものは迷信(superstitio)として厳しく排除しました。国家祭儀は個人が生まれる前から存在します。各人はその祭儀共同体の中に生まれ落ちるのです。その祭儀にあずからなければローマ人として生きることはできません。
 しかし、公の「宗教」としての国家祭儀に参加するだけでは満たされない魂の渇望が、ローマ社会にも様々な密儀宗教を流行させることになります。国家祭儀では一人の人間として生きる苦悩は解決しません。そこに個人の救済を唱える宗教が呼びかける(伝道する)場があります。ヘレニズム期には、都市を超えて《コスモス》に帰属するという意識が「個人」の自覚を深めていましたが、その「個人」が生きる苦悩からの救済を約束する新しい祭儀が個人に呼びかけます。それは公の国家祭儀とは別のもので、公にではなく密かに行われる祭儀として、「密儀」宗教という性格を帯びることになります。密儀宗教については先に触れましたが、帝政時代のローマにおいてもっとも繁栄した密儀はミトラス祭儀(ミトラス教)です。これはペルシャ起源の神ミトラスを祭神とする密儀で、この神を信じてその祭儀に与る者は、ミトラスの英雄的行為によって現世の苦難から救われるとされていました。ミトラス密儀は一世紀後半から四世紀かけてローマ帝国の各層に浸透し、同じ時期に活動したキリスト教と競合することになります。

F・クーランジュ『古代都市』(田辺貞之助訳、白水社)は最近(一九九五年)その復刻版が出ていますので、それを参照してください。なお、ヘレニズム世界については、H・ケスター『新しい新約聖書概説』(井上大衛訳、新地書房)の上巻が「ヘレニズム時代の歴史・文化・宗教」という副題をつけて、一般の歴史書よりも詳しくヘレニズム時代の実態を描いています。ローマ帝国の「宗教」事情については、この書の「第六章 ヘレニズムの相続者としてのローマ帝国」の中の項目「5 ローマ帝国時代の諸宗教」を参照してください。

ローマ帝国社会における「キリスト教」

 このような祭祀共同体としての古代都市の性格を色濃くとどめているローマ帝国の社会に、新しい宗教として「キリスト教」が登場してきます。先の項目(TとU)で見たように、福音によって招集され、聖霊の働きによって形成されたキリストの民《エクレーシア》は、二世紀には同じ祭儀、同一の信条、共通の聖職者組織によって統合された「キリスト教会」として立ち現れ、それによってローマ世界に一つの新しい「宗教」、すなわち「キリスト教」をもたらします。その本質は霊的共同体であり、その信仰は霊的次元のものであるとしても、周囲のローマ社会の人たちから見れば、「キリスト教会」が示す「宗教」は東方から来た新しい密儀宗教の一つと見えたとしても仕方ありません。そういうものとして「キリスト教」は、それが登場した舞台であるローマの国家宗教との対決を迫られることになります。
 先に見たようにローマ人にとって宗教(religio)とは、古来から確立されている諸祭儀を共同体全体の利益のために厳格に順守することですから、その祭儀に参加せず、別の祭儀の宗徒である「キリスト教徒」は、迷信とか妄信(superstitio)の徒として激しく排斥されることになります。すでに二世紀初頭のトラヤヌス書簡に見られるように、「キリスト教徒である」という事実そのものが犯罪とされるようになっていました。このように、「教会」の形成期である二世紀においても、周囲のローマ人の反発は始まっていたので、それに対して「教会」の護教論者は、「キリスト教会」が言い表している信仰こそが「真の宗教(レリギオ)」(vera religio)であることを論証しようとしました。こうして、初期のキリスト教は、ローマの国家宗教的概念である「レリギオ」の場で、「真のレリギオ」と「偽りのレリギオ」という形で対決することで、自己を「レリギオ」の一つとして現していくことになります。

この時期にキリスト教が成立するさい、ローマ帝国の政治的国家宗教的概念としての「レリギオ」という形を受け入れ、自己を「真のレリギオ」として「レリギオ・クリスチアーナ」(キリスト教)となったことについては、水垣渉氏の論考の中の「宗教概念とキリスト教概念」の項(「日本の神学」42号231頁以下)を参照してください。

 すでにユダヤ教はローマ帝国において「公認されたレリギオ」(レリギオ・リキタ)とされていました。しかし、公認されていたのは権力者間の政治的な駆け引きからであって、古来のローマ宗教祭儀に参加しないユダヤ人は一般市民(とくに知識階級)の嫌悪と非難の対象となっていました。それで、ユダヤ戦争の後、キリスト教会がユダヤ教の会堂からはっきりと分かれて別の「宗教(レリギオ)」として姿を現すようになってからは、ユダヤ人に対する嫌悪と非難の矛先は、キリストだけを「主」として崇めてローマ古来の祭儀に参加しないキリスト教徒に向けられるようになり、各地でキリスト教徒に対する迫害事件が起こります。この迫害は一般にキリスト教徒がローマの皇帝礼拝を拒否したから起こった迫害だと言われていますが、事態はそう単純ではありません。

ローマ帝国におけるキリスト教徒の迫害については、すでに本書231頁の「V ローマ帝国社会における迫害」の項で扱っていますので、ここで再説は避けますが、ローマ帝国における「宗教」問題として必要なかぎり取り上げます。なお、その項で参考文献としてあげた弓削達『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』の他に、先にあげたH・ケスター『新しい新約聖書概説』(井上大衛訳、新地書房)の上巻478頁の「b皇帝礼拝」の項が簡潔にまとめています。また、半田元夫『原始キリスト教史論考』(清水弘文堂)の第《二》部が迫害の問題を詳しく議論しています。

 ローマの国家宗教的祭儀において皇帝礼拝は微妙な位置にあります。ローマは一つの古代都市として、先に見たように、祖霊や自然神を守護神として祀る祭祀共同体としての性格を強く示しています。しかし、本来ローマ人にはいかに勝れた者であっても地上の人間を神として祀る習慣はありませんでした。カエサルが暗殺されたのも、彼が自分を神として拝ませる東方の専制主義的な王になろうとしているという野心を疑われ、ローマ古来の伝統に忠実な共和主義者たちによって襲われたのでした。ところが、ギリシア文明と東方の宗教(そこでは王が神として拝まれていました)が融合したヘレニズム期には、ギリシアの諸都市に勝れた王や支配者を神として祀る気風が生まれてきます。その気風が、ギリシア諸都市がローマによって支配されるようになったとき、ローマの将軍や総督を神として祀る神殿を建てるように促します。そのような支配者を神として祀る儀式は、ギリシア人にとってはローマの支配を受け入れるための儀式であったのです。征服された都市からの申し出に対して、ローマ側は慎重に対処します。東方の都市によってはそれを許可する場合もありましたが、ローマにおいては慎重な姿勢が貫かれます。カイサルの悲劇を知っている後継者のアウグストゥスは、「ローマの平和」をもたらした彼を神として祀ろうとするギリシア諸都市の申し出を許可しませんでしたが、最後にはローマの守護神ローマ女神と一緒に祀るという条件で許可します。ローマではカイサル以後、偉大な皇帝は死後に神として祀られ、それが国家祭儀として行われるようになりますが、生前の皇帝が神として祀られることはありませんでした。その例外がカリグラとドミティアヌスで、二人は生前に自分が神として祀られることを要求しましたが、暴君として退けられて滅びました。
 ローマ帝国側からの迫害は、とくに二世紀などの初期においては、皇帝を神として拝まないからという理由で行われたのではありません。実際の状況を調べても、皇帝の神像に犠牲を捧げるなどの礼拝行為は要求されていません。むしろ、キリスト教徒がローマの神々に犠牲を捧げて拝まないことが、「無神論者、人類への憎悪、秩序の破壊者」として罵られ、ローマの国家祭儀に加わらないことが皇帝の命令、すなわち法に違反することとなり、「キリスト教徒である」こと自体が犯罪とされることになります。キリスト教徒として訴えられても、皇帝の命に従ってローマの神々に犠牲を捧げるならば、すなわちローマの国家祭儀に復帰するならば赦されるという原則がトラヤヌス書簡で定められています。

「宗教」からの脱出

 このように、ローマ帝国によるキリスト教徒の迫害は、皇帝礼拝拒否というよりはむしろ祭祀共同体としての古代都市ローマそのものへの叛逆として、古代都市市民から引き起こされたものと言えます。福音によってこの世から召し出されて終わりの日における神の支配の実現を待望して生きるようになったキリストの民《エクレーシア》は、その民が現実に生活する祭祀共同体としての古代都市体制そのものと対立し衝突します。古代都市体制はその衝突を迫害によって取り除こうとします。迫害される側のキリストの民もその対立を自覚しています。そのことは、帝国の諸都市で迫害が始まっていた時期にローマで書かれたと見られる一つの書簡が次のように表現しています。

 「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」。(ペトロT一・一八〜一九)

 「先祖伝来のむなしい生活」とは、ギリシア・ローマ世界の諸都市が先祖たちから受け継いできた祭儀共同体としての生き方、すなわち古代都市の宗教生活です。キリストの民はそのような古代都市の「宗教」が支配する生き方と共同体から「贖われた」のです。「贖い」とは解放を意味します。キリストの民は、祭儀共同体としての国家宗教の支配から解放されて、別の原理で成り立つ共同体を形成したのです。その解放は「金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」という身代金によってなされました(古代では奴隷や捕虜の解放は身代金の支払いによって行われました)。この十字架された復活者キリストによる解放の告知が福音です。福音は、「宗教」からの解放を告知します。
 実は、この「宗教」からの解放はすでに千数百年前にイスラエルの民に起こった出来事でした。イスラエルの民はモーセに率いられて「奴隷の家」であるエジプトから脱出します。この奴隷状態からの解放は同時に「宗教」からの解放でした。わたしはエジプトに旅行したとき、巨大な列柱の神殿遺跡や豪華な王墓の遺跡に立って、イスラエルの「出エジプト」とはエジプト宗教からの脱出であったのだと実感しました。あの時代のエジプトではファラオ一人が支配する王国と神殿は一体であり、ファラオの支配は宗教の支配でした。イスラエルの民はその宗教の支配から解放されて、モーセを遣わして解放してくださった神ヤハウェと砂漠で契約を結び、僅か十の言葉から成る契約共同体を形成しました。これはすべての民族が祭祀共同体として国家を形成していた古代において、実に革命的な出来事でした。しかし、その契約共同体であるイスラエルも、カナンに定住して周囲の諸民族と対抗して生きていくようになったとき、王制をとり神殿を建てて周囲の国々と同じ古代国家となります。そして、政治権力としての王を失った後、すなわちバビロン捕囚の後、神殿を中心とする祭儀共同体としてユダヤ教という「宗教」を形成するに至ります。
 このようにイスラエルの歴史は、「宗教」から解放されて別の原理で形成された共同体も、歴史の中では周囲の状況に強いられて一つの「宗教」共同体になっていくことを示唆していますが、これと同じことがキリストの民《エクレーシア》にも起こります。祭祀共同体としての古代都市とは「別の原理」で形成された《エクレーシア》、すなわち「キリストにあって」という恩恵の場に働く聖霊によって形成されたキリストの民も、先に見たように内外の状況に迫られて祭儀、教義、聖職制をもつ制度的な「教会」となることで、ローマの国家宗教(レリギオ)と対立するもう一つの新しい「レリギオ」(宗教)、すなわち「キリスト教(レリギオ・クリスティアーナ)」となります。《エクレーシア》が「教会」となる過程は、福音がローマ帝国社会に存続するために必然的な過程でした。その必然は「福音の史的展開における必然」ということができるでしょう。ここで「福音の史的展開における必然」というのは、福音を存続させるために神が認め、そうなることを許された必然的過程という意味です。
 こうして神の認可と導きの下に形成された「教会」という堅固な容器に守られて、キリストの福音とキリストの民という霊的共同体は二千年の歴史を歩み、この世界の歴史の中に存続することができました。わたしたちは「教会」を神によって与えられた器として尊ばなければなりません。しかし、「教会」は神の救済史の目的ではありません。神の目的は、福音による神の民の形成とその完成です。「教会」はその神の目的に仕えるために形成された人間の組織体です。人間の組織体ですから過ちも犯します。「教会」の歴史は悲惨な過ちに満ちています。それにもかかわらず「教会」は世界史の中で福音を保持する機関として尊ばなければなりませんが、同時に「教会」が過誤に陥ることなく、福音による神の民の形成という神の目的に真に仕えることができるようになるためには常に改革されなければなりません。この「教会」と福音の関係、あるいは「教会」が世界に提示する「キリスト教」という「宗教」と福音の関係が次節(第二節)の主題となります。

「ユダヤ教」と「キリスト教」

 「宗教」から脱出した信仰共同体が再び別の「宗教」になっていく過程について、古代都市の国家宗教との関係では前項で見たとおりですが、「キリスト教会」と「キリスト教」の成立については、もう一つ重要な関係があります。それは「ユダヤ教」との関係です。「ユダヤ教」は古代世界で立派な「宗教」です。神殿祭儀を中核とし、祭儀を執行する祭司、祭儀共同体を律する厳格な律法による生活規制など、「宗教」としての典型的な姿を見せています。キリストの民《エクレーシア》は、その「ユダヤ教」の中で産声をあげ、その中で育ちました。しかし、「すべて信じる者を救いに至らせる神の力」としての福音は、ユダヤ教という「宗教」の枠に拘束されることなく、すぐにその枠を打ち破って世界の諸民族に告知され、ユダヤ教の枠の外にキリストの民《エクレーシア》を形成しました。福音運動は、ユダヤ教という「宗教」から脱出する運動となりました。そのユダヤ教の枠を打ち破る、すなわちユダヤ教という「宗教」から脱出することにおいて、もっとも重要な貢献をしたのはパウロの「無割礼の福音」であったことは本論で見たとおりです。
 本書は、最初期における福音の歴史的展開を追究してきました。すなわち、イエス・キリストの復活から二世紀初頭までのほぼ百年の間に福音が進展していった歴史を描き、その中で「福音とは何か」という問いを追究しました。その答えの一つとして、福音運動とは「宗教」からの脱出であったという面があったと言えます。最初期においては、福音活動はユダヤ教という「宗教」からの脱出の運動でした。キリストの福音によって形成されたキリストの民は、もはやユダヤ教という「宗教」の枠に拘束されることなく、「宗教」の枠を超えて自由に、御霊による交わり、霊の共同体を形成したのでした。
 キリストの民がユダヤ教とは別の原理で形成される民であることが歴史的に明確な形で現れるのは、最初期の後期、すなわち七〇年の神殿崩壊を境として、ユダヤ教が「会堂」組織になって厳しい律法宗教となった時代、とくにイエスをメシアと告白する者を「会堂から追放」するという決議をしてからです。この決議によってキリスト者はもはやユダヤ教の中にいることはできなくなり、明確にユダヤ教の「会堂」から出て、別の信仰共同体となります。このキリスト信仰共同体は《エクレーシア》と呼ばれたので、この時期には《シュナゴゲー》(会堂)と《エクレーシア》が厳しく対立し、「会堂」からのキリスト信仰に対する厳しい迫害に対して、《エクレーシア》も激しい会堂攻撃の言葉で応酬することになります。それがこの時期に書かれたマタイ福音書(とくに二三章)やヨハネ福音書に出てくることになります。
 最初期の百年に続く次の百年、二世紀初頭から三世紀初頭までの百年は、先に見たように、キリストの民が「キリスト教会」となり、「キリスト教」という宗教をローマ世界にもたらす百年となります。最初期の《エクレーシア》の指導者(使徒たち)はユダヤ教に忠実なユダヤ教徒であったので、福音によって「ユダヤ教」から脱出したはずの《エクレーシア》も、その実際の生活や共同体の形においてはユダヤ教の強い影響下にありました。それで、二世紀に《エクレーシア》が「教会」となったとき、それはユダヤ教「会堂」をモデルとして形成されるようになります。キリスト教会の礼拝はユダヤ教会堂での礼拝をモデルとしていることは明らかです。とくに、その礼拝で旧約聖書が正典として読まれたことは、キリスト教がユダヤ教の延長上にあり、周囲のローマ人たちからキリスト教がユダヤ教の一派のように見なされ、ユダヤ教徒とキリスト教徒との区別がはっきりとされなかったことは避けられないことでした。キリスト教徒に対する迫害においても、「ユダヤの悪習に染まり」が理由とされることもありました。現代においても、キリスト教はユダヤ教と一括(ひとくく)りにされて、「ユダヤ・キリスト教」と呼ばれることもあります。
 「教会」がユダヤ教の聖典である旧約聖書を自分たちの「正典」として受け入れるようなったことについては、二世紀のグノーシ派に対抗する正統派の激しい論戦の結果であることは先に見たとおりです。「キリスト教会」がユダヤ教の聖典である旧約聖書を受け入れたことによって、キリスト教はユダヤ教の体質、とくにその律法主義的体質を受け継ぐことになります。そのために「教会」は絶えざる「宗教改革」の必要を背負うことになります。しかし、キリスト教会が旧約聖書を受け入れることは、福音の本質からして必然のことでした。ここでも「福音の史的展開における必然」ということが言われます。それは福音が告知するキリストの出来事が旧約聖書の預言の成就であったからです。福音はキリストの出来事を「聖書に書いてあるように」という形で宣言しました。グノーシス派のように旧約聖書を拒否することは、キリストの出来事をイスラエルの歴史の成就とすることを否定することになり、イスラエルの歴史の中で形成された救済史的唯一神信仰を否定することになるからです。
 こうして、二世紀には「キリスト教会」はユダヤ人会堂とは別の宗教共同体としてローマ社会に現れ、ユダヤ教とは別の「宗教」である「キリスト教」をこの世界にもたらします。先に見たように、「キリスト教」は古代都市の国家宗教と対立する別の一つの「宗教(レリギオ)」として成立しましたが、同時にまた、もともとそのような「宗教(レリギオ)」ではなかったユダヤ教とも違う別の「宗教」として自身を形成し、ローマ社会に登場します。

結び

 このようにローマ世界に登場した「キリスト教会」は、「宗教」から脱出した共同体であると同時に、「キリスト教」という新しい「宗教」を形成せざるをえない共同体であるという矛盾を内に抱えることになります。この「宗教」からの脱出と「宗教」形成の必然との相克が、その後の「教会」と「キリスト教」の歴史を構成する原理となります。「教会史」とか「キリスト教史」は、この二つの相反する方向に働く力の相克の歴史として描くことになります。二千年にわたるその歴史の詳細は、それぞれの分野の専門書に委ねざるをえませんが、本書では次節(終章第二節)でそれを原理的に考察して、本書全体の結びとします。「原理的に考察する」のは、本節(第一節)で見た二世紀における「教会」と「キリスト教」の成立を素材として、本来「宗教」からの解放の力である福音が新しい「宗教」を生み出した事実の意義と、福音が生み出した「宗教」である「キリスト教」において、福音がどのような位置を占め、どのような役割を担うのかを考察することによって、「福音とは何か」という原理的な問いにさらに明確に答えるためです。