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第三節 使徒言行録におけるルカの福音理解

       ( 本節で書名のない引用箇所は使徒言行録の章節です。)

はじめに

 第一節の「ルカ二部作成立の状況と経緯」で、ルカ福音書と使徒言行録というルカが書いた二部作の成立について述べました。それは、ルカ福音書と使徒言行録をその歴史的状況に位置づけて、その内容を正しく理解するためでした。その内容の個々の解説は講解とか注解に委ねなければなりませんが、ここではこの二つの文書が提示している「キリストの福音」がどのような形と内容になっているかを探求して提示することを課題としています。
 本節では第二部である使徒言行録を取り上げます。実は本著作の上巻となる『福音の史的展開T』において、使徒言行録とパウロ自身が書いた七書簡を資料として、パウロのローマ到着までの最初期共同体の福音告知の内容を追究しました。ここでその使徒言行録を扱うので内容が重なるところが出てきますが、ここではあくまで使徒言行録を著述したルカの福音理解に焦点を絞り、ルカが使徒言行録という著作で提示するキリストの福音がどのような形でルカの福音理解を反映しているか、そしてそのルカの福音理解が最初期の福音の史的展開においてどのような位置を占めているかを見ていきたいと思います。

T 最初期共同体の歴史とルカ

最初期共同体の歴史におけるルカの貢献

 「使徒言行録におけるルカの福音理解」という本題に入る前に、最初期共同体の歴史を知る上でルカが果たした貢献について見ておきたいと思います。
 先に本章第一節「ルカ二部作成立の状況と経緯」(以下「状況と経緯」と略記)で述べたように、ルカは若き日にパウロの伝道旅行と最後のエルサレムからローマへの受難の旅の同行者として、東地中海の各地域を広く旅し、パレスチナ・シリアとエーゲ海地域を含む各地に滞在し、その地の共同体に伝わる伝承を収集していました。パウロなき後もルカの旅は続いたものと推察されます。そして、おそらく晩年はエフェソを拠点として活動し、そこで福音書と使徒言行録を著述したと推察されます。

福音書はともかく使徒言行録には、ルカがエフェソで著作していることをうかがわせる指標が見られます。使徒言行録がエフェソで書かれたという推察の根拠については、Hermeneia聖書注解シリーズの左記の著作を参照してください。
    R.I,Pervo, Acts, p.5 Introduction 3. The Date and Place of Composition; the Author
 使徒言行録の著者ルカがパウロの伝道旅行の同行者であった可能性については、先の「状況と経緯」の中の「著者問題」の項で扱いましたが、念のためにその一部を再録しておきます。
「六〇年にはローマで拘禁されていたパウロの伝道旅行に同行したのが二〇歳前後のルカだとすれば、一世紀末(一〇〇年)には六〇歳前後となり、使徒言行録を書いたと見られる一二〇年頃には八〇歳前後となります。この二部作の著者を、若き日にパウロの後期の伝道活動に同伴し、最後の監禁の時期まで見届けた医者のルカであるとする伝統的な見方も年代的に可能です」。

 各地の共同体に語り伝えられていた伝承をルカが使徒言行録という著作にまとめてくれていなければ、わたしたちは最初期共同体についてほとんど何も知ることはできなかたでしょう。たしかにパウロ七書簡という一次資料はあります。しかし、パウロ書簡は各地の共同体の問題に対処するために書かれたものであって、共同体全体の歴史的な流れを示すものではありません。パウロ書簡は、ルカの歴史記述を確認したり補填・修正したりするには貴重な資料ですが、各地の伝承を広く集めて集成し、最初期の福音運動の歴史を見させるものではありません。
 ルカは最初期共同体の歴史を記述するために使徒言行録を書いたのではありません。先に「状況と経緯」で見たように、ルカは来臨遅延の問題に対処するためとか、マルキオンに対抗するためという具体的な問題に対処しながら、今や異邦人が主要な担い手となった救済史の神学を確立し、それを次の時代に伝えるために神学的な著述をしているのです。しかしそれでもなお、ルカが集めてその著作の中に保存してくれた諸伝承のおかげで、わたしたちは福音告知活動の最初期前半の歴史的な姿をかなり知ることができます。その点で、ルカはわたしたちの「福音の史的展開」の探求にとって何にも代え難い貢献をしてくれた著作家です。

歴史文書としての使徒言行録の意義と価値については、M・ヘンゲル『使徒行伝と原始キリスト教史』(新免貢訳・教文館)の「第一部 古代と原始キリスト教史における歴史記述」を参照してください。

「エルサレムからローマへ」の一筋の道

 ルカは使徒言行録において、福音がエルサレムから始まりパウロによってローマに達するまでの過程を記述しています。使徒言行録の成立が二世紀に入ってからだとすると、ルカはそれ以後の歴史を見ているはずです。エルサレムで福音告知の活動が始まったのが三〇年とすると、六〇年頃のローマ到着まで三〇年経ったことになります。それから後、ルカが使徒言行録を書く一二〇年前後までは六〇年あります。ルカが扱った期間の二倍の年月が経っています。その年月のことは全然触れることなく、ルカはパウロのローマ到着でその記述を終えます。それは、そこで著述の目的が達せられるからです。福音は「エルサレムからローマへ」と進展し、その目的地に達したのです。
 この「エルサレムからローマへ」という地理的な進展の標語は、ルカの著述目的を実に端的に指し示しています。エルサレムはユダヤ教の牙城、本拠地です。それに対してローマは世界帝国の首都、世界の諸民族の統合を体現している場所です。福音がエルサレムから出てローマに達する過程はまさに、キリストの福音がユダヤ教の枠から出て世界の諸国民のもとに達し、世界を統合する力あるいは原理としての足場を得たことを象徴しています。福音がユダヤ教の枠を突き破って世界の諸国民の救いの使信となること、これこそルカがこの著作で提示しようとした福音の姿に他なりません。
 この視点から使徒言行録の歴史的記述の構成を改めて概観しておきましょう。

1 エルサレムでの福音告知の開始と、それによるエルサレム共同体の成立(一〜五章)
2 ギリシア語系ユダヤ人の福音活動、その代表者ステファノの殉教(六〜八章)
3 異邦人への使徒パウロの回心、ペトロの異邦人伝道、異邦人への福音活動の担い手となるアンティオキア
 共同体の成立など、異邦人伝道への胎動(九〜一二章)
4 アンティオキア共同体の福音活動の一環としてのバルナバとパウロのキプロス・ピシディア州での福音活動
 (一三〜一四章)
5 エルサレム会議―エルサレム共同体によるパウロの無割礼の福音の承認(一五章)
6 パウロのマケドニア・アカイア・アジア州(エーゲ海地域)への独立福音活動(一六〜一九章)
7 パウロのエルサレムへの旅とエルサレムでの逮捕と裁判(二〇〜二四章)
8 パウロの皇帝への上訴、ローマへの護送、ローマ到着(二五〜二八章)

 このように概観すると、ルカは「原始キリスト教史」を書こうとしたのではなく、複雑多様な最初期福音活動の諸潮流の中から、「エルサレムからローマへ」至る一筋の道だけを選んで記述していることが分かります。七〇年以前の最初期前期においても、エルサレムから始まった福音告知の活動は、サマリア、ガリラヤ、沿岸地方を含むパレスチナ、シリアでもエデッサを中心とする東シリア、南はアレクサンドリアを中心とするエジプトなど、地理的にも多方面に拡がっていったはずです。また、パレスチナではユダヤ教の枠内でユダヤ人に対して行われていた活動(たとえば「語録資料Q」を生み出した運動)もありました。ルカはそういう流れをすべて無視して、ひたすらエルサレム→アンティオキア→ローマに至る線だけをたどります。しかも、その展開の担い手はパウロです。
 たしかに前半ではペトロが物語の主人公ですが、そのペトロも異邦人伝道を準備する道備えの役割を果たしています。福音はパウロによって「エルサレムからローマへ」至ります。使徒言行録は福音がユダヤ教の枠から出て異邦人の世界に進展していく過程を描いていますが、その主要な担い手はパウロです。とくに後半はパウロに集中しています。パウロ自身「わたしはエルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく告げ知らせました」(ローマ一五・一九)と言っていますが、その後パウロがローマに到着して福音を告知したところまでをルカが描いて、福音の「エルサレムからローマへ」の線を完成します。このような記述は、ルカがパウロの同労者であり継承者である以上、当然のことでしょう。
 「エルサレムからローマへ」至る福音の進展においてパウロが主要な担い手であるというのは、福音活動がエルサレムから始まってローマに達する地理的な進展や、その間に異邦人の共同体が多く形成されたという実際的な働きの担い手がパウロであったという理由だけではありません(福音はパウロの到着前すでにパウロ以外の信者たちによってローマに伝えられていました)。さらに重要な理由は、福音がユダヤ教の枠を出て異邦人への救いの福音となりうる原理、すなわち「無割礼の福音」の原理を確立したのがパウロだからです。この「無割礼の福音」については、「パウロによるキリストの福音」を扱った章で詳しく論じましたので繰り返しませんが、異邦人(非ユダヤ教徒)が割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくても、異邦人(非ユダヤ教徒)のままでキリスト信仰によって救われ神の民となるというこの原理は、パウロが文字通り命をかけて戦い確立した原理であり、この原理によって福音は世界の異邦諸民族に到達することができたのです。このパウロが世界の中心であるローマに到達して福音を告知したことが、ルカにとって象徴的な意義をもつのです。
 ルカはパウロの同労者であり継承者です。そのルカがパウロが提示した「キリストの福音」をどれほど正確に理解し継承しているか、ルカがその著作で提示している福音理解とパウロ自身の福音理解との異同が問題になってきます。前節で見たように、すでに福音書でもパウロの福音理解との違いの問題がありましたが、福音書はイエス伝承を集めて書かれていますので、それほど表に出ることはありませんでした。しかし使徒言行録はルカ自身の記述によりますので、ルカの福音理解が目立つことになります。本節はこのパウロとの異同という問題を座標軸にして、ルカの福音理解を追究することになります。

ルカはパウロ書簡集を知っていたか

 パウロとの異同という問題を座標軸にしてルカの福音理解を追究しようとするとき、まず問題になるのは果たしてルカはパウロ書簡集を知っていたのかどうかの問題です。それは、ルカが使徒言行録で示している福音理解がパウロ書簡のそれとかなり違う面が認められるからです。パウロの働きの記述においても、書簡におけるパウロ自身の証言と食い違う場合があります。その違いはこれから順次見ていくことになりますが、それが時にはあまりにも違うので、ルカはパウロ書簡集を知らなかったのではないかという見方が出てくることになります。使徒言行録におけるルカの福音理解をパウロとの異同という視点から検討するには、まずこの問題を決定しておかなければなりません。
 現代では、パウロがキリストの福音をどのように理解し告知していたかは、パウロの書簡集から確認されています。もっとも現在の新約聖書にパウロの書簡として収められている十三書簡の中で、パウロ自身の筆になる書簡として広く認められているのは七書簡(テサロニケ書T、ガラテヤ書、フィリピ書、フィレモン書、コリント書TとU、ローマ書)で、他の六書簡(テサロニケ書U、コロサイ書、エフェソ書、テモテ書TとU、テトス書)はパウロの名で書かれていますが、パウロ以後の時代にパウロの後継者によって書かれたものと見られます。したがって、ルカの福音理解との比較の対象になるのは、パウロ自身が書いた七書簡となります。ここでは前者を「パウロ書簡」または「パウロ七書簡」、後者を「パウロ名書簡」または「パウロ名六書簡」と呼んで、区別して用いていきます。
 比較の対象が「パウロ七書簡」であるということは、ルカがどの範囲のパウロ書簡集を知っていたかとは別問題です。パウロ名六書簡の中では、テサロニケ書U、コロサイ書、エフェソ書の三書簡は七〇〜九〇年代に書かれたと見られ、一世紀末にはパウロ七書簡にこのパウロ名三書簡を加えた十書簡から成る「パウロ書簡集」が成立し、ある程度流布していたと見られます。「牧会書簡」と呼ばれるテモテ書TとU、テトス書は二世紀前半の半ば頃の成立と見られ、この「パウロ書簡集」にはまだ入っていなかったようです。そのことは二世紀初頭に活動を開始したマルキオンが用いた「パウロ書簡」が牧会書簡を含まないパウロ十書簡集であったことからも確認されます。
 ルカは(マルキオンと同じく)このパウロ十書簡集を知っており、それを資料として用いて使徒言行録を書いています。パウロの同労者であり、継承者であるルカがパウロ書簡集を知らないなどということはありえません。先に見たように、ルカは晩年にはエフェソに住んで使徒言行録を執筆したと見られますが、エフェソはまさにパウロ書簡集の集成が行われた地です。ルカは若い日から各地に滞在してその地の共同体の伝承を広く集めて福音書と使徒言行録を著述しました。そのことはルカ自身が自分の著作への序言(ルカ一・一〜四)で明言しています。そのルカがエフェソで使徒言行録を執筆するにあたって、その地で集成されたパウロ書簡集を知らないというようなことは考えられません。事実、使徒言行録とパウロ書簡集の用語や文体の綿密な分析と比較から、ルカがパウロ十書簡集を資料として用いていることが論証されています(R・パーボ)。

ルカがパウロ書簡集を資料として用いていることについては、すでに本書455頁の「ルカとパウロ書簡」の項で取り扱いましたので、そこを参照してください。

 パウロ書簡集を熟知し、それを用いて書きながら、ルカの使徒言行録で描かれるパウロが、書簡でパウロ自身が語っている姿とどうしてこれだけ大きく違うのか、これは新約聖書の大きな謎の一つです。この問題も先に「状況と経緯」で取り上げました。本節では、その違いも含めて、ルカがパウロの継承者として使徒言行録で告知している福音の全体像を追究します。

U 異邦人への福音

異邦人への使徒パウロの継承者ルカ

 パウロは自分を異邦人(=非ユダヤ教徒)に福音をもたらすために召された使徒であると強く自覚していました(ローマ一・一、ガラテヤ一・一五〜一六)。そして、その召しに従い、異邦人に福音を告知する働きに生涯と生命を献げました。パウロは志半ばで六〇歳代で殉教します。しかし、その激しい福音活動の中で、パウロの福音告知によって回心した者たちの中から多くの弟子や協力者が生まれます。その多くは名前が知られているだけで、その活動の詳細は伝えられていませんが、パウロの福音理解と志を受け継ぐ「パウロの継承者」が存在したことは確かです。パウロ書簡の中にも多くの名前があげられていますが、なかでもテモテとかテトス、シルワノ、エパフロディト、オネシモなどは有名です。マルコはパウロの弟子ではなかったかもしれませんが、同労者だった時期もありますので、パウロの継承者の一人に数えてよいでしょう(フィレモン二四節)。
 ルカもそのようなパウロの協力者であり、「パウロの継承者」の一人です。ルカもパウロの手紙にその名が出てきます(フィレモン二四節)。さきに「著者問題」で見たように、ルカはパウロの後期の独立福音活動のとき、マケドニア州の活動から始まり、エルサレムへの旅とローマ到着までパウロに同行して、「われら章句」を書いた青年であると見られます。トロアスに来てパウロに出会ったマケドニア人ルカが回心した出来事が、マケドニアに招かれているというパウロの幻となったのではないか、とわたしは推察しています(一六・六〜一〇)。

パウロ名書簡ではコロサイ四・一四、テモテU四・一一にルカの名が出てきます。テモテへの第二書簡にルカの名が出てくることの意義については、拙著『福音の史的展開T』478頁の「補説 パウロの最後についての牧会書簡の証言」を参照してください。

 異邦人への使徒パウロの継承者の一人として、ルカが福音の異邦人世界への進出を主題として歴史を描くのは当然です。この主題はすでに福音書においても提出されていました。先にルカ福音書講解で見たように、ルカはイエスのガリラヤでの福音活動の最初にナザレの会堂での出来事を置き、そこで福音がユダヤ人から出て異邦人に向かうということをイエス自身が宣言されたとしています(ルカ四・一六〜三〇)。また、エルサレムとその神殿の崩壊を「異邦人の時代」の開始を象徴する出来事として意義づけています(ルカ二一・二四)。二部作の第二巻となる「使徒言行録」では、福音が実際にユダヤ教の世界から出て異邦人世界(異教徒世界)に入って行く過程が描かれます。ルカはその過程の一部を実際に担ってきた証人です。自分自身が証人であるだけでなく、ルカは歴史家としてその時代の各地の証言(伝承)を集めて、それを資料として用いて福音が「エルサレムからローマへ」至る出来事を、聖霊の働きによる神の御計画の実現として記述します。ここでは、「使徒言行録」におけるルカのその主題の扱い方を検討することになります。

エルサレム共同体と異邦人への福音活動

 ルカにとって福音の出発地はエルサレムです。エルサレムで十字架につけられて死なれたイエスは、エルサレムで復活した姿を弟子たちに現し、弟子たちにエルサレムにとどまって上よりの力を受け、エルサレムから始めて、証人としてこの復活者イエス・キリストの福音を世界に宣べ伝えるようにお命じになります。このことは、空の墓の記事の後に付けられたルカ特有の復活者イエスの顕現記事(ルカ二四・一三〜五三)と、それに続く使徒言行録一章(三〜一一節)の記事が明確に語っています。このように福音の起源を強くエルサレムに結びつける描き方は、福音をユダヤ教の伝統から完全に切り離そうとするマルキオンに対抗して、福音のユダヤ教起源を明らかにするためのルカの構想であると考えられます。
 このルカの構想を明確にするために、ここでもマルコと較べてみましょう。マルコでは復活されたイエスの顕現はすべてガリラヤで起こっています。マルコ福音書は空の墓の記事で唐突に終わっていますが、最後の晩餐の後オリーブ山に向かう途上のイエスの預言(マルコ一四・二八)と空の墓での天使の予告(マルコ一六・七)により、弟子たちはガリラヤで復活されたイエスにお目にかかれるとされており、ガリラヤに向かうように指示されています。メシアとしてエルサレムで大いなる働きを示されるに違いないと期待した弟子たちは、イエスの刑死に落胆してガリラヤに戻ります。巡礼者が故郷に戻るのは当然ですが、イエスを死に定めたエルサレムのユダヤ教指導層を恐れたゆえの逃走という面もあったのでしょう。マルコ福音書は、この弟子たちのガリラヤ行きを主イエスの指示によるものとします。
 ガリラヤに帰ったペトロたちは生業の漁師に戻ります。その漁の場であるガリラヤ湖の湖畔で(マルコ一・一六〜二〇)、また嵐の湖上で(マルコ六・四五〜五二)でペトロたちは復活されたイエスに出会います。この二つの記事は、ペトロたちが復活されたイエスに出会った体験を語り伝える伝承が、マルコによって地上のイエスの福音活動の時期に置かれたものと考えられます。この復活者イエスの顕現に遭遇したペトロたちは、家業を捨ててエルサレムに移住し、エルサレムで栄光のイエス・キリストの来臨を待ち望み、復活者イエス・キリストの福音を告知する働きを始めます(序章参照)。
 ルカもガリラヤでの復活者イエスの顕現伝承を知っているはずです。ルカはヨハネ(二一・一〜一四)にある復活されたイエスがガリラヤ湖で弟子たちに現れた伝承を使っています(ルカ五・一〜一一)。しかし、ルカはガリラヤでの顕現をすべて無視して、復活者イエスの顕現をエルサレムとその近郊だけに限ります。そのように構成するために、「ガリラヤでお目にかかるであろう」というマルコにあるイエスの預言や天使の予告は、ルカでは削除されます。弟子たちはイエスの指示に従って、エルサレムを離れることなく、聖霊の力を受けてエルサレムで活動を始め、エルサレムに最初期の共同体が誕生することになります。
 ところで、復活されたイエスの顕現がガリラヤであったのであれば、ガリラヤにもイエスを信じる者たちの共同体があったことが推察されます。パウロが伝えている顕現の出来事のリストにある「五百人への顕現」(コリントT一五・六)はガリラヤでのことではないかという見方もあります。「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(一・八)という復活されたイエスの言葉を聞いた弟子たちが、故郷のガリラヤには行かなかったとは考えられません。エルサレムに形成された最初期の共同体の中心は「十二人」の使徒たちでした。アラム語系ユダヤ人であるガリラヤ人の彼らが、アラム語が通じる故郷のガリラヤで活動しなかったはずはありません。イエスが活動されたガリラヤにはイエスを慕う多くのユダヤ人がいるはずです。彼らがガリラヤで活動したことは、ルカ福音書一〇章の「七十二人の派遣記事」に反映しています(同箇所の講解を参照)。
 ところが、ルカは使徒言行録ではガリラヤでの福音の進展はいっさい無視して触れることはありません。ルカは使徒言行録の一〜五章で、最初期のエルサレム共同体の歩みを詳しく描きますが、六章からはエルサレムのギリシア語系ユダヤ人信者による異邦人伝道の開始を語り出します。その後はそのグループを代表するステファノやフィリポらの活動、将来異邦人への使徒となるパウロの回心、彼らによるアンティオキア共同体の形成とその活動に焦点が絞られ、ガリラヤでの進展など他の流れはいっさい無視されます。しかし、マルコ福音書の存在は、ガリラヤにも有力な福音運動とイエスを信じる者たちの共同体があったのではないかと推察させます。

「エルサレムとガリラヤ」
マルコ福音書はガリラヤでイエスにお会いすることになるという予告(一四・二八、一六・七)で終わっていることから、ガリラヤで復活されたイエスの顕現があり、ガリラヤに有力な共同体が形成され活動したのではないかという推察が行われています。このことはすでに E. Loh-meyer, Galilaa und Jerusalem, 1936で提起され、それを承けて W. Marxsen, Der Evangelist Markus, 1956 が編集史的方法を用いて、ガリラヤでのキリスト信仰共同体の存在を論証しようと試みています。もっともマルクスセンの場合は、「ガリラヤでお会いすることになる」という予告は復活されたイエスの顕現ではなく、来臨される復活者イエスとお会いすることを指すとして、ユダヤ戦争時のエルサレム共同体のペラへの脱出に関連するものとしていますが、ガリラヤをイエスと共同体の故郷として繰り返し言及するマルコ福音書の存在そのものがガリラヤに有力な共同体の活動があったことを指し示しているとしています。このようなガリラヤでの福音運動の指摘を承けて、田川健三『原始キリスト教史の一断面』(勁草書房 1968)は、マルコ福音書をガリラヤでの民衆の福音運動の立場からエルサレムの権力的な教団統制を批判する文書として解釈しています。
イエスの復活後、ガリラヤに復活者イエスをメシア・キリストとして告知する福音活動が行われたことは、ルカ福音書一〇章の「七十二人の派遣」記事から十分推察できますが、傍証が乏しく、いまだにその実態は解明されていません。ガリラヤを無視したルカのエルサレム・アンティオキア・ローマの一直線史観が圧倒的な影響力をもって今日までの「原始キリスト教史」を支配しています。ルカが使徒言行録の冒頭で福音の進展を綱領的に宣言しているところ(一・八)で、ガリラヤが抜けているのも意図的ではないかと勘ぐることにもなります。実際の福音進展の歴史は複雑多様であって、サマリア、ガリラヤ、エジプト、シリア(エデッサ)なども考慮に入れなければなりませんが、ここはルカの著述の性格や意図を探求する場ですから、この問題は保留にしたまま先に進みます。

ペトロによる異邦人への福音活動

 ルカはキリストの福音がユダヤ教の枠を超えて異邦諸民族に拡がることが神の御計画であることを示そうとして、この最初期共同体の歴史を扱う使徒言行録を書いています。エルサレム共同体の歴史を語るときも、この共同体こそが異邦人世界へ福音を伝える事業の出発点となったという視点からその歴史を語ります。五章まででこの共同体の成立を描いた後ただちに、六章からはエルサレム共同体の一部を構成するギリシア語系ユダヤ人がユダヤ教の根幹をなす律法と神殿に対して批判的な言動をしたとして迫害され、エルサレムから追放され、それによって福音がエルサレムの外に拡がるための突破口が開かれたことが語られます。この時の迫害で殉教したステファノの演説によって、この出来事の意義が宣言されます(七章)。
 続いてこの迫害でエルサレムから追い出された人たちによる福音活動が描かれます。とくにフィリポによるサマリアと沿岸地方での福音活動が詳しく語られます(八章)。さらに迫害する側のサウロ(後のパウロ)が回心してイエス・キリストに仕える僕となることが報告されますが(九章)、これは次項で扱うことにして、この項ではエルサレム共同体を代表するペトロの活動を見ておきます。
 ステファノの殉教のときの迫害でエルサレムから追われた人たちの福音活動を、ルカはエルサレム共同体の働きの一部として描きます。その中でペトロの活動が大きく取り上げられていることが注目されます。フィリポの福音告知によって信仰に入ったサマリアの人たちに、エルサレム共同体はペトロとヨハネを派遣して、彼らが聖霊を受けて正しい信仰に歩むように指導します(八・一四〜二五)。さらにフィリポが活動した沿岸地方の町々にペトロを派遣して、エルサレム共同体に伝えられているイエスの教えをもたらします(九・三二〜四三)。もっともルカはこのペトロの沿岸地方への巡回において、ペトロが行った顕著な奇跡だけを報告していますが、このような巡回指導が行われたという事実は、この時期の福音活動におけるエルサレム共同体の指導的地位を示しています。ペトロはこの時期(四三年のヘロデ・アグリッパ一世による迫害でエルサレムを去るまでの時期)、エルサレム共同体を代表する立場にありました。その人物がエルサレム以外の各地に成立した集会を巡回指導したという事実は、ギリシア語系ユダヤ人伝道者による福音活動全般がエルサレム共同体の指導監督下にあったことを指し示しています。
 そのペトロの巡回指導の活動の中で、福音の展開の歴史で極めて重大な意義をもつ出来事が起こります。それはカイサリアでのコルネリウス一家の回心と彼らへの聖霊の降臨という出来事です。ルカはその出来事を、ペンテコステの記事を超える分量の記事(一〇章から一一章前半)で詳しく伝えています。これは、いかにルカがこの出来事の意義を重視しているかを示しています。コルネリウスはカイサリアに駐屯するローマ軍イタリア隊の百人隊長です。異邦人(=非ユダヤ教徒、異教徒)であるコルネリウスが異教徒のままで、すなわち割礼を受けてユダヤ教徒にならないままで聖霊を受け、神の民とされたという事実は、異邦人世界への福音の進出が神の御計画であることを示そうとして使徒言行録を書いているルカにとって最大級の重要性をもつ出来事です。その記述が詳しくなるのは当然です(出来事の経過については本書上巻252頁の「コルネリウスの回心」の項を参照してください)。
 このコルネリウスの出来事は、無割礼の異邦人がそのままで清い者とされて神の民に受け入れられるということをユダヤ教徒に納得させることがいかに困難なことかを示しています。それは、神御自身が幻という非常手段を用いてなしてくださらなければできないほどのことです。ユダヤ教徒にとって割礼は生命線です。権力者がユダヤ教を弾圧し禁止しようとしたとき、割礼を禁止しましたが、ユダヤ教徒はそれに対して命がけで抵抗しました。割礼を行わなければ神との契約が成立せず、神の民としての資格を失うからです。その割礼がなくても神の民であり得るとするのは、ユダヤ教の存在意義を否定することです。事実、コルネリウスの出来事の後も、異邦人は割礼を受けてユダヤ教徒にならなければ救われないと主張するユダヤ教徒の勢力がエルサレム共同体に根強く残っていたことが、その後のパウロの無割礼の福音の主張をめぐる対立とエルサレム会議の成り行きによく出ています。
 ここで使徒言行録の叙述の順序を振り返りますと、このコルネリウスの出来事を頂点とするペトロの沿岸地方伝道の記事(九・三二〜一一・一八)が、ステファノの殉教をきっかけとして起こった迫害で散らされたギリシア語系ユダヤ人たちのユダヤ、サマリア、フェニキア、キプロス、アンティオキアでの活動を語る記事(八章から一一章にかけて)の途中に、やや無理に割り込む形で挿入されているのに気づきます。アンティオキア共同体成立の記事(一一・一九〜三〇)は、サウロの回心とそれに続く初期の活動の記事(九・一〜三〇)に自然に続きます。このギリシア語系ユダヤ人の活動を物語る記事の中に、コルネリウスの出来事を詳しく語る記事を入れたのは、無割礼の異邦人を受け入れるようになったアンティオキア共同体の活動よりも先に、ペトロとエルサレム共同体が無割礼の異邦人を受け入れていたことを主張するためであったと考えられます。歴史的事実としては、異邦人を受け入れたアンティオキア共同体の活動と、コルネリウスの出来事のどちらが先であったかは確定できません。しかし、ルカがアンティオキア共同体の成立と活動を語る記事よりも先にコルネリウスの記事を置いたのは、パウロの無割礼の福音の主張よりも先に、他ならぬペトロが異邦人に福音を伝える活動をし、無割礼の福音を認めていたことを印象づけるためであったと考えられます。すぐ後に置かれたエルサレム会議の記事(一五章)においても、ペトロはこのコルネリウスの出来事を指し示して、パウロが言うような言葉遣いで、無割礼の福音を主張するパウロを支持しています(一五・六〜一一)。このような書き方に、前節「状況と経緯」で見たように、パウロだけを神からの使徒としてペトロらを偽りの使徒とするマルキオンに対抗して、ペトロがパウロよりも先に異邦人に福音をもたらした使徒であり、ペトロもパウロも等しく神から遣わされた使徒であることを示そうとするルカの意図が見えます。

パウロの回心と初期の福音活動

 ルカは使徒言行録の六章から一一章で、福音がギリシア語系ユダヤ人信者の活動によって、ユダヤ教徒の牙城であるエルサレムから出て各地に拡がり、ヘレニズム世界の大都市であるアンティオキアに異邦人伝道の担い手となる共同体が形成されるまでを描きます。その過程で将来の異邦人伝道の主役パウロが舞台に登場する出来事が語られます。エルサレムでモーセ律法と神殿に対して批判的な言動をしたとしてギリシア語系ユダヤ人の信者が迫害され、その代表者ステファノが殉教しますが、その迫害において主導的な働きをしたファリサイ派律法学者のサウロ(後のパウロ)が、イエスの信者を逮捕連行するためにダマスコに向かっていたとき、復活されたイエスが光の中にサウロに現れ、サウロは地に打ち倒されて目が見えなくなります。その後、手を引かれてダマスコに入っていたサウロは、主イエスから遣わされた弟子アナニアの祈りによって聖霊を受け、目が開かれます。この出来事を伝えるルカの記述(九・一〜一九)は(人名や地名なども)具体的で、迫害者サウロの回心の出来事を生き生きと伝えています。
 パウロ自身はこのダマスコ体験について書簡で触れることはほとんどなく、僅かにガラテヤ一・一五〜一七で示唆するだけです。しかし、同労者たちには折に触れて語っていたことと推察され、ルカはそれをよくまとめて伝えてくれています。ルカはこのパウロのダマスコ体験を、後でパウロが逮捕されて裁判を受けるさいにパウロ自身がなした弁明にも繰り返して用いています(二二・一〜二一、二六・一二〜一八)。そのさい、この回心体験が同時にパウロが異邦人への使徒として召される召命体験であったことを伝えています(二二・二一)。これはパウロがガラテヤ書で自身の自覚として語っているところを物語とした形になっています。
 パウロ自身の証言によると、パウロはこのダマスコ体験の後、エルサレムには行かないでアラビアに行っています(ガラテヤ一・一七)。それに対してルカは、パウロが回心後ただちにダマスコでイエスをメシアとして宣べ伝える活動を始めたことを伝えています(九・一九〜二二)。この二つの記事は矛盾しません。パウロは回心後、ルカが伝えるように、ダマスコでイエスをメシアと告知する働きを始めますが、その後、パウロは「エルサレムには行かないで」東に向かい、「アラビアに出て行き」、ナバテア王国の首都ペトラに赴いたと推察されます。当時ダマスコはナバテア王アレタ王四世の支配下にあり、ユダヤ人とは友好関係にありました。首都ペトラには多くのユダヤ人が住んでおり、パウロは最初の異邦人伝道の足がかりとしてそこを選んだと考えられます。

ダマスコ体験後のパウロのアラビア行きには二つの見方が対立しています。一つは、アラビアと言えば荒野を指すとして、パウロは回心体験を深めるために瞑想と祈りの地としてアラビアの荒野に行ったという理解です。新共同訳の「アラビアに退いた」という訳はこの理解からの訳ですが、原文の動詞はたんに「出て行く」であって特に「(人里離れたところに)退く」という意味はありません。もう一つは、パウロは福音活動のためにダマスコから「出て行って」アラビアにあるどこかの都市に赴いたという理解です。この理解が適切であると考えられます。詳しくは拙著『パウロによるキリストの福音T』70頁の「ダマスコでの活動」の項を参照してください。

 パウロのアラビアでの福音活動は途中で挫折したと見られます。年代的にはちょうどこの時期に、ガリラヤとペレアの領主ヘロデ・アンティパスとナバテアのアレタ王との間に戦争が起こり、ユダヤ人の活動ができなくなったという状況が原因だったかもしれません。パウロは「そこ(アラビア)から再びダマスコに戻ってきた」と淡々と事実だけを書いています(ガラテヤ一・一七)。ダマスコで再び福音活動を始めたパウロは、その地のユダヤ人の激しい反対に直面し、ダマスコを脱出しなければならなくなります。パウロを殺そうとするユダヤ人の陰謀を察知して、パウロは籠で城壁からつり降ろされてダマスコから逃れます。後にパウロ自身、この時の体験を書簡(コリントU一一・三二〜三三)で具体的に語っています。
 ルカはこの時のパウロのアラビアでに福音活動について触れることはありません。ルカは「エルサレムからローマへ」西に向かって福音が一直線に進展することを神の御計画として描こうとしています。それで東に向かったパウロの最初期の異邦人伝道は(それが成功しなかったこともあって)無視します。アラビアでの福音活動の無視は、ルカの「エルサレムからローマへ」の一直線史観の結果でしょう。
 続いてパウロがエルサレムを訪れたことは、パウロ自身もルカも語っています。ただそこで何を言おうとしているのか、両者の意図の違いが見られます。パウロが語るところでは、ケファ(=ペトロ)に会って十五日間一緒に過ごしただけで、主の兄弟ヤコブの他はどの使徒にも会わなかったことを強調しています(ガラテヤ一・一八〜二〇)。それは、自分の福音が「人から受けたのでも教えられたものでもない」ことを強調するガラテヤ書一章の文脈の中で語られています。
 それに対してルカ(九・二六〜三〇)は、「エルサレムで使徒たちと自由に行き来した」ことを強調しています。これは、マルキオンに対抗してパウロと使徒たちとの一致を強調したいルカの意図を示しています。そのさいルカは、迫害者だったサウロがエルサレム共同体に受け入れられるようになるのには、ダマスコでの福音活動を見ていたバルナバの証言があったこと、また、古巣のギリシア語系ユダヤ人の会堂での激しい議論の末彼らがパウロを殺そうとしたこと、パウロがエルサレムを去りタルソへ赴いたことなど、貴重な情報を伝えています。

エルサレム共同体に関するルカの記述

 パウロが回心後三年目にエルサレムに行って使徒たちと交流を重ねたことを記述したルカの筆は、それに続いてペトロの沿岸地方の伝道と異邦人のコルネリウス一族に聖霊が降った出来事を詳しく伝えます(九・三二〜一一・一八)。この記述は、先に見たように、ペトロはパウロよりも先に異邦人に福音をもたらした使徒であって、パウロの反対者ではないことを示して、マルキオンを反駁しています。その後でルカは異邦人への福音活動の拠点となるアンティオキア共同体の成立と活動を語ります(一一・一九〜三〇)。その後、再びエルサレム共同体の状況を伝える記述に戻ります(一二章)。
 ルカは一二章で、ヘロデ・アグリッパ一世(在位41〜44年)時代のエルサレム共同体の状況を伝えています。ローマの宮廷に取り入って祖父ヘロデ大王の領地にまさる王国を統治する王となったアグリッパは、ユダヤ教指導層のサドカイ派と親密な関係を結び、ユダヤ教に好意的な政策を進めます。その中で十二使徒の一人であるヨハネの兄弟ヤコブを捕らえて処刑し、ペトロも逮捕投獄します。ペトロは奇跡的に脱獄して、エルサレムを去ります。おそらく他の使徒たちもエルサレムから逃れたことでしょう。
 このような状況で、エルサレム共同体はユダヤ人共同体に通例の長老会議が指導する体制となり、その中の筆頭者である「主の兄弟ヤコブ」がエルサレム共同体を代表するようになります。すでにステファノの殉教のときの迫害でギリシア語系ユダヤ人がエルサレムから追放され、その後のエルサレム共同体はアラム語系ユダヤ人の共同体となっていましたが、ここにきて「義人」(=ユダヤ教律法の厳格な実行者)と呼ばれる主の兄弟ヤコブに統率されるパレスチナ・ユダヤ教徒の集団となります。このエルサレム共同体は最初期前期(三〇〜七〇年)の福音運動の歴史において極めて重要な意義をもつのですが、ここはその歴史記述におけるルカの姿勢を問うところですから、その問題に限定します。

この時期のエルサレム共同体の状況と歴史については、拙著『福音の史的展開T』258頁以下の「V ヘロデ王による迫害」と「W 主の兄弟ヤコブに代表されるエルサレム共同体」の項を参照してください。

 ルカは福音がユダヤ教の枠を出て異邦人世界に進出することを神の計画として提示することを意図してこの使徒言行録を書いているのですから、ユダヤ教の枠内にとどまる福音運動については冷淡であることは避けられません。ルカのこの姿勢は、最初期前期においてもっとも重要な意義を担うエルサレム共同体の歴史(その成立当初の歴史は別にして)や、パレスチナ・シリアに展開したユダヤ人の信仰運動についてはほどんど触れることはありません。イエスが選ばれた十二人だけを「使徒」としておきながら、その「使徒たち」の働きについては(異邦人伝道の先駆者としてペトロを描くこと以外は)ほとんど触れないでいます。十二使徒はみなアラム語系ユダヤ人ですから、彼らはアラム語圏のパレスチナ・シリア方面(ガリラヤを含む)で活動したと考えられます。最初期前期に見られる様々な福音活動の潮流の中で、ルカはエルサレムからアンティオキアに進み、やがてパウロの福音活動に収斂していく一筋の流れだけに注目して、福音進展の歴史を記述します。その結果、エルサレム共同体もこの後はパウロの異邦人伝道との関連で脇役として二回(エルサレム会議と献金)舞台に登場するだけで、ここの一二章の記述を最後に舞台から退場することになります。ペトロもこの時以後は、エルサレム会議のときを除いて、再び舞台に登場することはありません。

最初期前期の福音活動の諸潮流については拙著『福音の史的展開T』370頁の「X 最初期福音活動の諸潮流」を参照してください。

 この時期のエルサレム共同体の姿については、むしろパウロ書簡の証言から垣間見ることができます。パウロはエルサレム共同体を「神の会衆」と呼んでいます。この呼称は、「聖なる者たち」と共に、最初期のエルサレム共同体の自称であったと見られます。「神の《カーハール》(会衆)」というヘブライ語をパウロは「神の《エクレーシア》」というギリシア語で指していますが、これはもともと(エッセネ派に見られるように)イスラエルの中で終わりの時に臨んで特別に神に召し出されて神に所属する民となったという終末的自覚を表現する呼称でした。エルサレム共同体は、復活されたイエスが天から来臨されること(キリストの《パルーシア》)を熱烈に待ち望む共同体であり、自分たちがこのような終りの時に選ばれた民であると強く自覚していました。パウロは自分がキリストの来臨《パルーシア》を宣べ伝えたことを証言していますが(テサロニケ第一書簡四章)、エルサレム共同体の来臨待望はそれ以下ではなかったはずです。パウロが告知した福音は、エルサレム共同体から「受けて伝えた」福音なのですから。

「神の会衆」が終末的共同体としての自覚を表現する呼称であることと、パウロ書簡の用例については、拙著『福音の史的展開T』246頁の「T 神の会衆」の項を参照してください。なお、エルサレム共同体がもともと《パルーシア》待望の共同体として発足したことについては、同書65頁の序章「第四節 弟子たちのエルサレムへの移住」を参照してください。

 ところが、ルカはエルサレム共同体のこの熱烈な来臨待望を伝えていません。たしかに成立当初の聖霊に満ちあふれた熱気とその中で行われたイエス復活の証言は伝えられていますが、復活されたイエスの来臨《パルーシア》については、ペトロの神殿での告知で「万物更新の時」について触れる箇所(三・二〇〜二一)以外にはほとんどありません。共同体の様子を描くところでも、来臨待望について述べることはありません。
 しかし、殉教したステファノが死に臨んで「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(七・五六)と叫んだ言葉は、最初期のエルサレム共同体における「人の子」待望の熱烈さを垣間見させます。イエスは「人の子」という称号を用いて終わりの日のことを語られましたが、それを直接聞いた使徒たちが伝える伝承を基にして「人の子の顕現」を核とする終末預言が形成され、伝承されてマルコ福音書一三章にあるような黙示録的終末預言となったと考えられます。このような「人の子」待望の終末預言はエルサレム共同体で形成され伝承され、エルサレム共同体はずっとこのような「人の子」待望に生きたと見られます。そのことはユダヤ戦争直前(62年)に殉教した主の兄弟ヤコブが死にさいして、「人の子は天において大いなる力の右に座し、天の雲に乗って来られる」と叫んだと伝えられていることからもうかがわれます。
 ルカはエルサレム共同体の熱烈な「人の子」待望を知っているはずです。ルカはパウロの同行者として主の兄弟ヤコブの在世中にエルサレムに滞在して、エルサレム共同体の伝承も収集しています。事実、ルカはマルコ福音書一三章に用いられている(エルサレム共同体で形成・伝承されたと見られる)終末預言を自分の福音書で用いています。ところが、使徒言行録でエルサレム共同体の状況を描くとき、ルカはエルサレム共同体の来臨待望にほとんど触れません。それは何故でしょうか。
 ルカは、最初期後期に共同体が直面した「来臨遅延」の問題に対処するために二部作を構想し著述しています。これまでに繰り返し見てきたように、ルカの時期の共同体は、もはや前期のように復活者キリストが今にも来臨されることを期待することはできず、イエス・キリストの証言をするために歴史の中を歩む覚悟をしなければならない状況にありました。ルカは伝承された来臨の約束を保持しつつ、共同体にこの歴史の中を歩む覚悟を促すために使徒言行録を書いています。したがって、最初の共同体であるエルサレム共同体をモデルとして描くとき、間近な来臨待望に燃える共同体ではなく、周囲からの迫害に耐えて聖霊の力により復活者イエスを証言する歩みを続ける共同体として描くことになります。
 このように、ルカが描くエルサレム共同体の姿は、ユダヤ教の枠の中にとどまる共同体ではなく(実際はユダヤ教内キリスト信仰の牙城でした)、そこから出て異邦人世界に福音をもたらす共同体として描かれます。また、差し迫った来臨待望に燃える共同体ではなく(実際は「人の子」待望に燃えていました)、キリスト証言のために苦難の歴史の中を歩む共同体として描かれることになります。その実際の姿と違う描き方にルカの著述意図とか視点、福音理解が滲み出ています。

アンティオキア共同体とパウロ

 一二章でエルサレム共同体の状況を描いたルカは、一三章からはパウロの活動を描くことに専心します。パウロの異邦人への福音活動を伝えることが使徒言行録におけるルカの主要関心事です。パウロについては、ルカはすでにその回心と直後の活動を記述しています(九章)。そして、初期の活動の主要な舞台となったアンティオキア共同体についてもかなり詳しく伝えています(一一章後半)。アンティオキア共同体は、パウロの福音活動にとって重要な意義があるだけでなく、最初期前期においてエルサレム共同体と並んで福音の進展にとってもっとも重要な拠点となる重要な共同体です。

アンティオキア共同体の成立と活動については、前著『福音の史的展開T』291頁の「第二節 アンティオキア共同体とその福音活動」で、その重要性のゆえにやや詳しく扱いましたので、そこを参照してください。ここではアンティオキア共同体の一員として活動した時期のパウロを描くルカの記述から、ルカの特色を追うことに限定します。

 パウロは回心後三年目にエルサレムに行ってイエスをキリストとして証言する活動をしますが、古巣のギリシア語系ユダヤ人に追われてエルサレムを脱出し、故郷のキリキア州タルソスに向かいます。タルソスでも福音活動を進めたと考えられますが、詳しいことは分かりません。タルソスにいたとき、アンティオキア共同体で指導的な働きをしていたバルナバがパウロを探しにきて見つけ、パウロをアンティオキアに連れて行きます。バルナバはエルサレム共同体の重要な一員でしたが、ダマスコでの回心以来のパウロを見ており、アンティオキア共同体の指導に必要な働き手と見て連れてきたのでしょう。バルナバはアンティオキア共同体の筆頭者であり(一三・一)、パウロはバルナバと共にアンティオキアに腰を据えて教える働きを続けます(一一・一九〜二六)。アンティオキア共同体はもともとエルサレムを追われたギリシア語系ユダヤ人信者が核となって形成された共同体であり、ユダヤ教律法に対して自由な姿勢をとったステファノの流れに属する共同体ですから、異邦人信者を受け入れるのに積極的であったと考えられますが、その共同体がますます異邦人への福音活動に熱心になっていくのは、パウロの指導と影響が大きく貢献したと考えられます。
 ルカはバルナバをパウロのもっとも重要な盟友として重視しています。バルナバはパウロとエルサレム共同体を結びつける絆として重要な働きをしており、ルカはバルナバのこの面を強調して取り上げています。この時期のパウロはいつもバルナバと一緒に行動しています。そして、パウロがバルナバと決裂せざるをえなくなった出来事も、ルカはその意義を最小限まで小さくしようと努めます(後述)。
 ルカは一三章から一四章にかけて、バルナバとパウロが一緒に活動したキプロスとガラテヤ州南部への伝道旅行をかなり詳しく伝えています。この二人の福音活動は、その出発の記事(一三・一〜三)と帰着報告の記事(一四・二一〜二八)が示しているように、アンティオキア共同体の福音活動の一環として行われものであり、アンティオキア共同体を代表する二人が共同体によって送り出されて(おそらく資金の面でも支援されて)為された事業であると考えられます。
 この一三〜一四章の伝道旅行記には、パウロがピシディアのアンティオキアでユダヤ人の会堂に入ってユダヤ教徒に向かって行った福音告知の言葉(一三・一三〜四一)と、リストラで異教の神殿前で異邦人に向かって行った福音告知の言葉(一四・八〜一八)という重要な内容が含まれていますが、その内容と意義については次項(V)で扱うことにして、ここでは新しい地域での二人の福音活動の進め方についてのルカの語り方に限定します。
 この伝道旅行はアンティオキア共同体の活動の一環ですから、二人の名をあげるときは共同体での立場に対応して「バルナバとサウロ(パウロ)」という順序になっていますが、実際にはパウロの活動の報告となっています。そうすることで、この二章は実質的にパウロの伝道旅行の報告となり、研究者の間で「パウロの第一次伝道旅行」と呼ばれることになります。
 二人は新しい土地に入るとまずユダヤ人の会堂に入り、そこに集まるディアスポラ・ユダヤ人に福音を告知します。会堂には「神を敬う異邦人」も来ています。パウロの福音告知を聞いたユダヤ人と「神を敬う異邦人」の中から信じる者も起こされますが、その土地の大部分のユダヤ人は激しくパウロに反対して、バルナバとパウロを追い出します。二人は文字通り「石をもって追われ」ます(一四・一九)。このユダヤ人の反対を、ルカはねたみによるものとしていますが(一三・四五)、実際はパウロがキリスト信仰による救済を告知するにさいして「モーセの律法では義とされない」と主張したこと(一三・三八)、すなわちユダヤ教の絶対性を否定したことに対する宗教熱心なユダヤ教徒の反発であったはずです。このユダヤ人のパウロに対する反発と憎しみはパウロの生涯の最後まで続きます。
 このように福音を拒否するユダヤ人に対して、パウロは「あなたたちがこの福音を拒否するので、わたしたちは異邦人の方に行く」と宣言して(一三・四六)、異邦人に福音を告知する活動を進めます。このパターンはパウロの福音活動の最後まで続きます(二八・二三〜二九)。ルカはこのパターンを繰り返すことによって、ユダヤ人が神の民としての地位を失い異邦人が神の民として救済史の担い手となることを、ユダヤ人自身のかたくなさが神の御計画を成就させた出来事として描きます。
 なお、パウロが新しい都市で福音活動を始めるとき、そこにユダヤ教会堂があるときはいつも、まずユダヤ教の会堂に入って福音を告知したというルカの記述は事実を伝えていると考えられます。イエスはユダヤ人の中に現れ、福音という神の言葉はまずユダヤ人に送られました。パウロが福音について「まずユダヤ人に、それからギリシア人にもまた」(ローマ一・一六)と繰り返し言っているように、ルカもパウロの福音活動をこの順序で描きます。実際、パウロが新しい土地に福音を伝えようとするとき、手がかりになるのはユダヤ教会堂です。まず会堂で福音を語り、そこで信じるユダヤ人と「神を敬う異邦人」が信仰に入り、その「神を敬う異邦人」を通して周囲の異邦人が信仰に入り、その都市に信じる者たちの共同体が形成されます。
 「神を敬う異邦人」というのは、異邦人の中でユダヤ教の神を慕い、ユダヤ教会堂に来て聖書を学んでいる異邦人で、まだ割礼を受けてユダヤ教徒にはなっていない人たちのことです。この信仰に入った「神を敬う異邦人」が、最初期に福音が異邦人世界に進展するための重要な担い手になります。

エルサレム会議と「使徒教令」

 ルカは一五章で、最初期の福音の進展にとってきわめて重要な意義のあるエルサレム会議について詳しく報告しています。この会議は、異邦人への福音活動の進展に伴い、異邦人で信仰に入った人たちに割礼を施すべきか否かをめぐって起こった論争を解決するために、アンティオキア共同体を代表してバルナバとパウロがエルサレムに行って、エルサレム共同体の代表たちと話し合い、エルサレム共同体がパウロが進める「無割礼の福音」を認めたことを内容とする会議です。このエルサレム会議については、すでに上巻の第三章第三節の「エルサレム会議とその前後」でかなり詳しく扱っていますので繰り返しは避け、ここではその会議について報告するルカの記事の意義について検討することに限定します。
 このエルサレム会議については、当事者であるパウロ自身の報告(ガラテヤ二・一〜一〇)がありますので、それとの比較がルカの記事の特質と意義を検討する出発点になります。二つの記事は、異邦人信者の割礼が問題になっているという基本的な共通点がありますが、その状況や内容について違いも大きく、果たして同じ会議のことを伝えているのかどうかも問題になるなど、新約聖書の解決困難な謎の一つとなっています。上巻の「エルサレム会議とその前後」では、パウロの報告とルカの記事を併記して、エルサレム共同体がパウロの「無割礼の福音」を認めたという結論だけを確認するに止めました。しかし、ここではルカの記事の意義を明らかにすることを努めなければなりません。
 先に「状況と経緯」で見たように、ルカはパウロ書簡を資料として用いて使徒言行録を書いています。そうしながらなぜ(以下に見るように)パウロ書簡と違う書き方をするのか、その理由とか意図が問題になります。
 パウロはこの会議をエルサレムの「おもだっ人たち」(ヤコブ、ペトロ、ヨハネ)との個人的な話し合いであったと語っていますが、ルカはそれを主の兄弟ヤコブによって主宰され採決された「使徒たちと長老たち」全体の正式会議としています(それで「エルサレム使徒会議」と呼ばれることになります)。
 パウロは異邦人信者のテトスを連れて行ったが、テトスはエルサレム共同体から、そして「おもだった人たち」からも割礼を強制されることがなかった事実を強調し、「無割礼の福音」が認められたことの重要な根拠としてあげていますが、ルカはテトスのことに触れることがありません。むしろ少し後ですが、パウロがテモテに割礼を受けさせた事実を取り上げています(一六・三)。
 パウロは、エルサレムの「おもだった人たち」は(ペトロが割礼の者たちへの使徒であると同様に)パウロが異邦人への使徒として立てられたことを認めたとしていますが、ルカはパウロとバルナバを使徒と呼ぶことはなく、「使徒」という称号をエルサレムの「十二使徒」に限っています。
 パウロは「おもだった人たち」は「どんな義務も負わせなかった」と証言していますが、ルカは議長のヤコブが異邦人信者に(最小限に軽減された内容ですが)律法の四項目の要求を手紙で書き送るように決定したとしています。
 パウロはエルサレム側から「貧しい人たちのことを忘れないように」という(資金援助の)要請を受けたとしていますが、ルカはその要請のことはいっさい触れていません。ルカは、パウロ書簡(とくにコリント第二書簡)で重要な内容となるエルサレム共同体への募金活動について触れることはいっさいありません。
 このように、エルサレム共同体がパウロの「無割礼の福音」を認めたという結論は一致していますが、ルカがここで描くエルサレム会議はガラテヤ書におけるパウロの証言とは違った様相を見せています。パウロの「無割礼の福音」に対しては、パウロの福音活動の終わりまで執拗に、ユダヤ教に固執するユダヤ人信者からの対抗運動があったと考えられます(二一・一七〜二六参照)。おそらくパウロはその後もエルサレムに上るたびにこの問題で協議しなければならなかったのでしょう(たとえば一八・二二)。ルカはこの会議をパウロを含む使徒全員の正式会議とし、異邦人信者の割礼問題はその会議で決着したものとして、全共同体の一致を印象づけることで、このような確執を隠そうとしています。使徒言行録ではこの会議以後には、パウロ書簡で切実な問題となっているパウロと「ユダヤ主義者」(異邦人信者に割礼とユダヤ教律法の順守を求めるユダヤ人伝道者)との確執はありません。
 最初期の福音活動にはユダヤ教の枠内でキリスト信仰を広めようする運動(エルサレム共同体がその代表)と、ユダヤ教の外に出て福音を告知する運動(その代表がパウロ)という、二つの主要な潮流がありました。この二つの潮流の間には確執、あるいは亀裂がありましたが、ルカはこの確執とか亀裂を覆い隠そうとしています。それはエルサレム会議の描き方にも出ていますが、その後に記述される「使徒教令」の伝達にも同じ意図が見られます。
 ルカは、「使徒会議」は異邦人信者にユダヤ人信者と食卓の交わりを維持するために必要な四項目を守るように要求する手紙を送ることを議決し、その手紙をバルナバとパウロに(二人の同行者をつけて)届けさせたと書いています。この手紙は「使徒教令」と呼ばれています。ところが、パウロはエルサレム会議のことを書いたすぐ後に、アンティオキアに来たペトロとの間に起こった対立について証言しています(ガラテヤ二・一一〜一四)。その対立、むしろ衝突は、まさにユダヤ人と異邦人の共同の食卓をめぐる問題でした。もしルカが書いているように「使徒教令」がすでに届いていたのであれば、このような衝突は起こらなかったはずです。パウロはこのような「使徒教令」の存在を知りません。パウロはその後の福音活動で成立した集会で、ユダヤ人信者と異邦人信者の食卓の交わりで苦労していますが、その問題を扱う際に「使徒教令」を持ち出すことはありません(コリントT八章、ローマ一四章)。
 「使徒教令」の四項目については、パウロが最後にエルサレムを訪れたとき、主の兄弟ヤコブがパウロにその存在を伝えています(二一・二五)。その存在を疑う理由はありませんが、エルサレム会議の議決によりパウロ自身によってアンティオキアに送られたとするのはルカの意図的構成と見なければなりません。パウロが証言するように、アンティオキアでユダヤ人信者と異邦人信者との間に食卓の交わりをめぐる深刻な対立が起こったために、その問題を解決するためにエルサレ共同体とアンティオキア共同体が協議を重ね、このような決定に至ったものと見なければなりません。この決定にパウロは関与していません。それをこのようにエルサレム「使徒会議」の議決としてパウロ自身が伝えたとするルカの意図は、この問題についてはパウロとペトロとの間(したがってパウロとエルサレム共同体との間)には対立がないことを強調するためであると推察せざるをえません。そうすることで、ルカはガラテヤ書のパウロとペトロの衝突事件を隠しています。

「使徒教令」について詳しくは、拙著『福音の史的展開T』350頁以下の項目VとWを参照してください。

 ルカは一五章でエルサレム会議と使徒教令の伝達を語った後、バルナバとパウロの意見が衝突し、別行動をとるにいたった消息を伝えています(一五・三六〜四一)。ルカによるとそれは、先のパンフィリアでの福音活動のとき途中でエルサレムに帰ったようなマルコを連れて行くかどうかについての意見の衝突であったとされています。ところが、パウロは食卓の交わりの問題でペトロと衝突したとき、バルナバまでもがペトロに同調して、異邦人との食卓の交わりから身を引いたと伝えています。パウロはこの行動を「福音の真理」に反する行動として非難します(ガラテヤ二・一三〜一四)。バルナバはアンティオキア共同体を代表する筆頭者です。バルナバはアンティオキア共同体を代表する立場から、エルサレム共同体との関係を重視して、ペトロと同調したと考えられます。そのバルナバと対立したパウロは、アンティオキア共同体で孤立します。
 ルカはこのパウロとバルナバの対立を、マルコを連れて行くかどうかという実際的な問題にすり替えています。パウロがこのような小さな問題でバルナバほどの盟友と決裂するとは考えられません。ここでもルカは「福音の真理」をめぐるパウロとバルナバの対立、ひいてはパウロとペトロの対立を隠しています。
 総じてルカはこの一五章で、ガラテヤ二章のパウロを隠しています。先に「状況と経緯」で見たように、「使徒言行録は実に巧妙な仕方でガラテヤ書を覆い隠そうとしている。一五章はもっとも成功した事例の一つである」(R・パーボ)と言われます。ルカが使徒言行録でペトロとパウロを同じように描くのは、バウアー以来言われているように、「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」の対立を隠すためという説明ができますが、ルカがとくにガラテヤ書のパウロを覆い隠そうとするのは、ルカにとってマルキオンが最重要視したガラテヤ書はもっとも隠してしまいたいパウロ書簡だからと言うこともできます。

パウロによる異邦人共同体の形成

 食卓での交わりについてペトロだけでなくバルナバとも対立したパウロは、アンティオキア共同体で孤立します。それで、パウロはアンティオキアを出て伝道旅行を開始しますが、これ以後の伝道旅行は先のキプロスとガラテヤ州南部への伝道旅行とは異なり、もはやアンティオキア共同体の福音活動の一環としてバルナバと共にする伝道旅行ではなく、パウロの独立の福音活動となります。すなわち、アンティオキア共同体からの支援を受けての活動ではなく、自分で生活と福音活動のための必要を自給しながらの活動となります。パウロは生業のテント生地を製造する職人として働きながら東地中海の各地を巡り、ローマを目指します。この時期のパウロの福音活動によって、エーゲ海を囲む諸州(エーゲ海北岸のマケドニア州、西岸のアカイア州、東岸のアジア州)に異邦人を主体とする共同体が多く形成されます。この時期のパウロの福音活動とその成果については、上巻の第四章第一節「パウロによる異邦人共同体の形成」にまとめましたので、ここで繰り返すことは避けます。ここでは「異邦人への福音」進展の視点から、その福音活動を描くルカの記述(一六章〜一九章)の特色を見ることに限定します。

パウロがエルサレム会議の後、ペトロと衝突してアンティオキアを去り、マケドニア州とアカイア州で行った福音活動(一六〜一八章)は、一般に「第二次伝道旅行」と呼ばれています。そして、アカイア州の州都コリントから一度エルサレムを訪れてアンティオキアに滞在し(一八・二二)、そこから内陸部の高地を経てエフェソに来てアジア州で活動し、続いてマケドニア州からアカイア州をめぐりエルサレムに向かう旅を「第三次伝道旅行)と呼んでいます。しかし、この呼び方は、パウロの旅をエルサレムを起点として区分しているので適切ではありません。パウロの福音活動は、アンティオキア共同体の活動の一環として行われた前期(一四章まで)と、独立自給で行われた後期(一六章から)とに区分するのが適切だと考え、ここでは後期をまとめて扱います。

 パウロは各州の州都である大都市に腰を据えて福音活動を進め、そこに成立した共同体を拠点として周辺地域に福音をもたらすという方針で活動したようです。マケドニア州の州都テサロニケ、アカイア州の州都コリント、アジア州の州都エフェソがパウロの活動拠点となります。そのような大都市にはユダヤ人の会堂がありました。パウロはまずユダヤ教会堂に入って、そこに集まるユダヤ教徒と「神を敬う異邦人」とに福音を語ります(一七・一〜三、一八・四、一九・八)。
 その結果、福音を信じる者が出ますが、多くのユダヤ人は「モーセの律法では義とされない」というパウロの言説を、ユダヤ教を否定するものとして激しく反対します。パウロに対するユダヤ人の反発と憎しみは、キリスト信仰による救いを告知し、ユダヤ教律法を相対化する(救いの条件としない)パウロの言説をユダヤ教に対する冒?とするユダヤ教徒の反発であるはずですが、ルカはそれをユダヤ人の「ねたみ」とか「かたくなさ」に帰し、律法に関するパウロの言説によるものであることには触れません。これは、パウロを(マルキオンに対抗して)律法に忠実なユダヤ教徒として描きたいルカの著述意図を示唆しています。
 ユダヤ人の反対運動の結果、パウロは会堂とは決裂し、信じる異邦人の邸宅や公共の講堂などで異邦人に向かって福音活動を始めます(ただし、テサロニケでは激しい反対運動で町から追い出されて、そのようにする余裕はなかったようです)。こうして、「あなたたちがこの福音を拒否するので、わたしたちは異邦人の方に行く」という原則がこの時期にも貫かれたことを、ルカは繰り返し報告しています(一八・六〜七、一九・八〜九)。そのさい「神を敬う異邦人」の存在と活動が重要な役割を果たしてます。彼らの証言と活動によって、州都を中心とする周辺各地に異邦人を主体とする共同体が形成されます。
 会堂で福音を告知するだけでなく、パウロはフィリピでは河原で(小都市のフィリピには会堂がなかったようです)「神を敬う異邦人」の女性に、アテネでは公共の広場やアレオパゴスでギリシア人に福音を語っています。パウロの福音活動と共同体の活発な証言活動によって異邦人社会にイエス・キリストを信じる者たちの存在が目立つようになるに従って、周囲の異教社会の反発も目立つようになります。フィリピでは「ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも実行することも許されない風習を宣伝する者」として、パウロとシラスは政務官に引き渡され、鞭打たれて投獄されます。アテネでは市民の冷笑に晒されます。エフェソでは、アルテミス神殿を崇める業者と民衆によって引き起こされた騒乱に巻き込まれています。ルカは、異教社会からパウロに向けられた反発と迫害を比較的詳しく伝えています。そうすることでルカは、これから異教社会の中で歩まなければならないルカの時代の共同体を励まそうとしていると考えられます。ルカの時代(一世紀末から二世紀初頭にかけての時代)の共同体は、先に本書第六章第二節の「ローマ帝国社会での迫害と福音の進展」で見たように、周囲の異教の市民の反感、すなわち自分たちの宗教や風習に溶け込もうとしない異質な者への反発と憎悪に晒されて迫害されるようになっていました。ルカは、そのような迫害がパウロの時から始まっていることを描き、同じ状況にある共同体を励まします。

福音のローマ到達

 エーゲ海をめぐる広い地域にキリストの福音を告知する活動の最後の時期に、パウロはアジア州の州都エフェソに二年あまり滞在して、そこを拠点として福音活動を進めます。その結果、エフェソとその周辺の諸都市に異邦人を主体とする共同体が多く形成されます。このエフェソ(と周辺地区)の共同体は、パウロが去った後もパウロの継承者たちの働きによって力強く成長し、エフェソは後にはエーゲ海地域のパウロ系共同体のセンターのような立場になります。パウロ書簡集もエフェソで収集されたと見られ(パウロ書簡はほとんどがエフェソで書かれています)、ルカもエフェソで使徒言行録を書いたと推察されます。
 アルテミス神殿を崇拝する市民たちの騒乱に巻き込まれたパウロはエフェソを去らざるをえなくなり、アジア州西岸を北上、その地域とマケドニア州の諸集会を再訪して励まし、コリントまで来て越冬し、エルサレム行きの船便の再開を待ちます。この旅は、その時期に書かれた「募金の手紙」(コリント第二書簡の八章と九章)からも、エルサレム共同体への援助献金を集めるための旅であったと見られます。事実、パウロはコリントに滞在中にローマの人たちに手紙を書いていますが(ローマ書)、その中で福音を携えてローマに達したいという切望を語りながら、今は反対方向のエルサレムに向かわなければならない状況を訴えています(ローマ一五・二二〜二九)。そのさい、自分がエルサレムに現れたときの騒乱と、持参した献金が受け入れられるかどうかを心配しています(ローマ一五・三〇〜三一)。
 この募金活動は、先のエルサレム会議でエルサレム共同体側からの要請(ガラテヤ二・一〇)を受けてパウロが始めた活動ですが、献金する異邦人諸集会の側にも自分のための募金ではないかというようなパウロに対する誤解があったり、受け取るエルサレム側にも律法を汚す者からの援助は受けられないというパウロに対する批判があり、困難を極めました。しかし、パウロにとってこの募金活動は、自分が形成した異邦人のキリスト信仰共同体が「神に喜ばれる供え物となるために」祭司の役を果たすことであり(ローマ一五・一六)、どのような困難があっても仕遂げなければならない使命でした。事実、パウロはこの献金を届けるために、念願のローマ入りを一時お預けにし、危険を覚悟してエルサレムに向かい、困難な旅を続けます。そして、赴いたエルサレムで逮捕され、裁判にかけられ、ついには殉教することになります。
 このようにパウロにとって重大な意義をもち、パウロ自身も書簡で繰り返し触れているエルサレムの聖徒たちへの募金活動について、ルカは沈黙しています。献金ための旅の過程でも、これを渡すためにエルサレムでヤコブと会ったときの記事でも、献金のことはいっさい触れられていません(二〇〜二一章)。これも使徒言行録の大きな謎です。
 ルカはこの献金問題の結末を知っているはずです。もし献金が受け入れられていたのであれば、それはエルサレム共同体がパウロの「無割礼の福音」の成果を認めたことになり、マルキオンに対抗してエルサレム共同体とパウロの一致を強調したいルカにとって重要な論拠になる事実ですから、沈黙するはずはありません。ルカの沈黙は、この献金が受け入れられなかったことを示唆しています。ルカは献金問題には触れず、ヤコブがパウロに律法に忠実であることを実証するように求め、パウロがそれに従ったことを報告して、パウロが律法に忠実なユダヤ教徒であることを描いています(二一章)。
 パウロがヤコブの勧告を受けて、清めの儀式を受けるために神殿に入ったのを見たアジア州(おそらくエフェソ)から来ていたユダヤ人が、パウロが異教徒を連れて入り神殿を汚したと騒ぎ立て、騒乱が起こります。その騒乱でパウロは逮捕され、ローマ総督の裁判を受ける身となります。パウロはローマ総督だけでなく、当時のユダヤの王であるアグリッパ二世の前で、また最高法院でも、イエス・キリストを証言することになります。こうしてパウロはユダヤ人と異邦人の両方の代表者の前で福音の証しを立てることになります。ルカは同行者としてこの裁判の様子を詳しく報告しています(二二〜二六章)。
 一連の裁判でのパウロの証言の内容と、それを記述するルカの意図などについては次項(V)で扱うことにして、ここではパウロが皇帝に上訴してローマに護送され、そういう形でパウロがローマに到着した事実を伝えるルカの記述の意義を見るにとどめます。
 ルカは、このローマへの護送の旅とローマでの囚人としてのパウロの様子を、同行者として具体的に詳しく報告しています(二七〜二八章)。その内容については疑う理由はありません。ただ、ルカがローマでのパウロの記事を、「パウロは自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(二八・三〇〜三一)という文で打ち切っていることが問題となります。パウロは皇帝に上訴して、時の皇帝ネロの裁判を受ける身です。その裁判の結果がどうであったのかが、ルカの報告を読む者の最大関心事であるはずですが、ルカはそれについては触れることなく、この文で使徒たちの働きを描く「使徒言行録」を締めくくります。これは何を意味するのでしょうか。
 ルカはこの裁判の結末を知っているはずです。拘留を「二年間」とする以上、その二年が終わった時の終わり方、すなわち有罪とされて処刑されたのか、または無罪とされて釈放されたかを知っているはずです。もし無罪となって釈放されたのであれば、その事実はルカの護教的意図にとってもっとも有力な論拠となるので、それを報告しないことは考えられません。ルカはこれまでエルサレムにおけるローマ総督の裁判で、総督はパウロの無罪を知っていたとしています(二六・三〇〜三二)。これは、イエス・キリストの信仰はローマ帝国の秩序に違反するものではないことを弁証しようとするルカの護教的動機から出た記事です。ルカ二部作を貫くルカの護教的意図からすると、皇帝の無罪判決を省略することは考えられません。
 ルカはパウロが有罪とされて処刑されたことを知っているはずです。そのことは、ルカがパウロの最後のエルサレムへの旅を諸集会への訣別の旅として描いていることからも推論できます。その典型はパウロのエフェソの長老たちへの訣別の勧告です(二〇・一七〜三八)。パウロは彼らに「自分の顔をもう二度と見ることはあるまい」と言っています。エルサレムで起こることを預言した預言者の言葉によって、エルサレム行きを止めようとした人たちに対して、パウロは「エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟している」と言ってエルサレムに向かいます(二一・一〇〜一四)。
 では、パウロの殉教を知っているはずのルカがなぜこのような終わり方で使徒言行録を締めくくったのでしょうか。それは福音が異邦人への使徒パウロによって帝国の首都であるローマに到達したことを語るところで、「使徒言行録」著述の目的が達せられたからです。パウロがローマで「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」ことで、「エルサレムからローマへ」という主題は完結しました。パウロは囚人という姿でローマに到着し、ローマで殉教の死を遂げました。ルカはそれを知っており、多くの読者も知っていることでしょう。しかし、それはすでに遙か遠い過去の出来事となっています。ルカの護教的意図からすれば、福音の使徒が帝国から有罪とされたことをわざわざ書き残すことはありません。ルカはそのような悲劇的な結末の中に、福音を「エルサレムからローマに」到達させようとされた神の御計画が実現したことを見て、それを表現するのにふさわしい言葉で使徒言行録を締めくくります。

V 使徒たちの福音告知

はじめに

 使徒言行録には、使徒たちの福音告知や弁明の演説が数多く報告されています。ルカは「使徒」という称号をイエスが選ばれた十二人に限っていますが、パウロを異邦人に遣わされた「使徒」としていることは明らかですから、当然パウロを含む使徒たちの福音告知が詳しく報告されることになります。十二人の「使徒」については、ペトロが代表として取り上げられ、他の使徒はほとんど無視されています。ルカはペトロとパウロの福音告知を並行して報告することで、両者の間には齟齬や対立はないことを強調しています。そうすることで、先に「状況と経緯」で見たように、ペトロが代表するユダヤ教内キリスト信仰と、パウロが代表する「無割礼の福音」、すなわちユダヤ教の外でのキリスト信仰が同じであること、さらにペトロをパウロに敵対する偽りの使徒とするマルキオンに対抗してパウロとペトロ、ひいてはパウロとエルサレム共同体との間に亀裂はないことを示そうとしています。
 使徒言行録に報告されている使徒たちの福音告知は、ルカが入手した資料や伝承を素材としているのでしょうが、それをまとめて記述するさい、ルカの福音理解と著述意図が影響するのは当然です。むしろ、古代の伝記作家や歴史家は、自分が読者に訴えたいことを登場人物に語らせるのが普通であったとも言われます。使徒言行録における使徒たちの福音告知の言葉は、まったくのルカの作文ではなく、それまでの共同体の福音告知をルカが用いているとしなければなりませんが、それでもその構成とか用語の使い方にルカの福音理解と著述意図が滲み出てくることは避けられません。このような視点からここでは、まず使徒言行録にある使徒たち(実際はペトロとパウロ)の福音告知の演説を掘り下げて、そのように報告するルカの福音理解に迫ることを試みます。最後の部分に出てくる法廷でのパウロの弁証の演説については、その後で別に扱います。

ペトロのユダヤ人への福音告知

 使徒言行録ではペトロの福音告知や弁証は次の箇所に出てきます。

1 ペンテコステの日の福音告知(二・一四〜四〇)
2 神殿での福音告知(三・一一〜二六)
3 最高法院での弁証(四・五〜一二、五・二九〜三二)
4 コルネリウス家での福音告知(一〇・三四〜四三)
5 エルサレム共同体への弁証(一一・一〜一八)
6 エルサレム会議での証言(一五・五〜一一)

 ペトロの福音告知では、前半の1〜3はエルサレムのユダヤ教徒に向けられたものであり、後半の4〜6は異邦人のコルネリウス一族に向けられたものと、それと関連してユダヤ人になされた弁証です。まず前半のユダヤ人に対してなされた福音告知を見ます。
 ペンテコステのペトロの福音告知は、「あなたたちが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させて主《キュリオス》またキリストとされた」というイエス復活の証言です。そして、その告知のさい、イエスの十字架の死も復活も聖書に預言されていることの成就であることが、聖書を引用して強調されます。
 ペトロの福音告知の演説は、イエスの弟子たちが聖霊に満たされて異言をもって神を賛美している様子を見て「彼らは酒に酔っているのだ」と嘲笑した人たちに、ヨエル(三・一〜五)の預言を引用して、この出来事は終わりの時に神がご自身の霊をすべての人に注ぐと言われた預言の成就であることを宣言することから始まります(二・一四〜二一)。
 次いでペトロは、多くの奇跡によって神から遣わされた方であることを示されたイエスを、「あなたたちは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺した」が、それは神が「お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで、あなたたちに引き渡された」結果であるとします(二・二二〜二三)。ここでは聖書は引用されていませんが、イエスの十字架の死が神の御計画による出来事であることが明言されています。
 イエスの復活も、ダビデの詩とされる詩編一六編を引用して、神が御自身の約束を実現される働きとして告知されます(二・二四〜三二)。そして、今自分たちが終末時に約束されていた聖霊を受けているのも、イエスが復活して神の右に座す方となられた結果であることが詩編の言葉で告知されます(二・三三〜三六)。聖書を神の啓示として信じているユダヤ人への告知においては、聖書の引用が重要な論証となります。
 こうして聖書による論証に立って、ペトロはイエスの復活を告知し、その結論として「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主《キュリオス》とし、またメシア《クリストス》となさったのです」(二・三六)と呼びかけます。

この箇所の「主《キュリオス》」という称号と「メシア」という訳については、上巻の『福音の史的展開T』111頁の「補注―メシアかキリストか」を参照してください。

 このような聖書証明はこの時のペトロの告知にあったのか、それとも後の共同体の福音告知において用いられたものがこの時のペトロの告知に帰せられたのかは議論がありますが、この時のユダヤ人に対するペトロの告知の核心は、イエスの復活を証言して、「あなたたちが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させてキリストとされた」という呼びかけであったことは確実です。
 このペトロの呼びかけに、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と応えたユダヤ人聴衆(その中にはピラトの裁判の時「十字架につけよ」と叫んだ者もいたでしょう)に向かって言ったペトロの応答は、ルカの福音理解をよく示しています。ペトロはこう言っています。

 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。(二・三八)

 これはまさにルカが世界に向かって告知している福音です。「悔い改めなさい」という呼びかけは、その時のユダヤ人に対するペトロの呼びかけとしては、イエスを神から遣わされた方と信じないで殺した罪を悔い改めて、イエスを神からのメシアとして受け入れなさい、という呼びかけです。しかし、ルカはこの言葉で異邦人世界に呼びかけます。「偶像を神々として拝んでいた迷妄から離れて、イエスを救い主として世界に送られた唯一まことの神に立ち帰りなさい」と呼びかけるのです。ルカの福音告知において「悔い改め」は、「罪の赦しを得させる悔い改め」として、いつも中心の位置を占めています(ルカ五・三二、二四・四七、使徒三・一九、五・三一、一七・三〇)。悔い改める者を神は赦してくださる、というのがルカの福音の強調点です。
 「悔い改めてイエス・キリストを信じなさい」が福音の呼びかけですが、ルカはイエスを信じることを「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」という形で言い表すように求めています。バプテスマという信仰告白の形が、いつからどのようにして始まったのかは議論がありますが、ルカの時代の共同体では広く信仰告白の形として行われていました。ルカはそれを最初の福音告知に遡らせます。ペトロのペンテコステの日の福音告知は、すべての時代の福音告知の原形ですから、それはこの時から始まっていなければなりません。こうしてルカの福音告知においては、洗礼者ヨハネの「罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマ」(ルカ三・三)は、「イエス・キリストの名によるバプテスマ」によって完成されます。このバプテスマを受ける者は「罪を赦していただく」ことになります。神の子イエスを十字架につけた罪も赦されることになります。これまでまことの神に背き偶像を神としていた罪も赦されます。
 悔い改めてイエスを信じ、その信仰をバプテスマを受けて言い表す者は、罪を赦されるだけでなく、「賜物として聖霊を受ける」と約束されます。この聖霊の約束は、パウロの同労者として聖霊こそ福音が告知する現実をもたらす神の力でありキリストの働きであることを見てきたルカが、福音の本質的内容(それがなければ福音が福音でなくなる内容)として加えないではおれない項目です。そしてこの約束は、ユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられているものであることが、「遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」という言葉で予告されます。ただここで、罪の赦しと聖霊の受領がバプテスマという儀礼に約束されているのではなく、バプテスマによって言い表されているイエス・キリスト信仰に約束されているのであることを見誤ってはなりません。
 ルカは、最初期のエルサレム共同体の福音告知をうかがわせる重要なペトロの演説を、もう一つ伝えています。それはペトロが神殿でユダヤ人民衆に向かって行った「神殿説教」(三・一一〜二六)です。ペトロとヨハネが神殿で足の萎えた人を立ち上がらせた奇跡を見て、驚いて集まってきたユダヤ人たちにペトロはイエスのことを語り出します。ここでもこの奇跡を指してイエスが復活して今も働いておられると証言することが告知の中心ですが、ここには二章のペンテコステ説教に見られなかった内容が加わっています。
 その一つは、ここではペトロは聴衆に「兄弟たちよ」と呼びかけ、イエスを十字架につけて殺したことを「指導者たちと同様に無知のために」したこととし、罪過が消し去られるように悔い改めて、このイエスをメシアとして送られた神に立ち帰るように呼びかけています(三・一七〜一九)。この呼びかけは、最初期後期(エルサレム陥落以後、とくにイエスを言い表す者を会堂から追放するとした決議の後)では、ユダヤ教会堂に向かってはただ断罪の言葉を投げつけるだけになっていた(たとえばマタイ二三章)のと較べると、同胞をイエス・キリストへ獲得しようとする前期のユダヤ教内キリスト信仰の姿勢を反映していると見られます。
 もう一つは、イエス・キリストの来臨が告知されていることです。後の共同体でよく用いられるようになる《パルーシア》(来臨)という語は用いられていませんが、「慰めの時」とか「万物の更新」というようなユダヤ教黙示思想の用語を用いて、キリストの来臨による救済史の完成が語られています(三・二〇〜二一)。復活して天に昇られたイエスは「万物が新しくなるその時まで天にとどまる」のが神の定めであり、その定めの時が来ればイエスは栄光の主として現れます。そのイエスが今「神の僕」として遣わされたのであるから、このイエスに聴き従って祝福に入るようにと呼びかけています。
 ルカがエルサレム共同体の来臨待望について触れるのはこの一箇所だけです。実際の最初期のエルサレム共同体は「人の子」の顕現を熱烈に待望する共同体と見なければなりませんが、ルカがこの面に触れることが少なく、もっぱら迫害の中で聖霊の力に溢れて復活されたイエスを証言する活動に集中しているのは、ルカが自分の時代の「来臨遅延」の問題に直面して、共同体に歴史の中を証人として歩む覚悟を促すために使徒言行録を書いているという著作意図を反映するものです。 そのことについては先の「エルサレム共同体に関するルカの記述」の項(本書562頁)で扱いましたので、詳しくはそこを参照してください。

ペトロの異邦人への福音告知

 先に「ペトロによる異邦人への福音活動」の項(本書556頁)見たように、ルカはペトロを異邦人への福音活動に熱心な使徒として描いています。そのペトロの異邦人への福音告知の代表的な説教がコルネリウスの家での説教(一〇・三四〜四三)です。ペトロがコルネリウスに福音を告知し、その結果コルネリウスたちに聖霊が降ったことの意義はそこで述べましたので、ここではその時のペトロの福音告知の内容とその特色について見るだけにします。
 コルネリウス家でのペトロの福音告知も、その中心に「人々が十字架につけて殺したイエスを、神は三日目に復活させた。わたしたちはその証人です」という、あのペンテコステの日の福音告知が立っています(三九〜四〇節)。しかしその前に、きわめて簡潔に要約された形ですが、イエスが地上でなさった働きが宣べ伝えられています(三七〜三八節)。この構成、すなわちイエスの地上の働きと受難・復活を合わせて語り伝えるという形の福音告知が、使徒たちの福音告知の原形であり、後にマルコ福音書となるという見方もできます(C・H・ドッド)。この点はルカ福音書も同じですが、ここのコルネリウス家でのペトロの福音告知にはルカの特色が多く見られます。

ドッドの所説については、C.H.Dodd, The Apostolic Preaching and Its Developments, Hodder & Stoughton を参照してください。

 まず前置き(三四〜三五節)で、これが「どんな国の人でも、神に受け入れられる」ことを告知する福音、すなわち世界の諸国民への福音であることが明言されます。それは、次節(三六節)に挿入された、イエス・キリストについての「この方こそ、すべての人の主《キュリオス》です」という宣言にも繰り返されています。
 ここでイエスの地上での働きが洗礼者ヨハネの出現から始まることは、後の諸福音書の原型を示しています。先に「状況と経緯」で見たように、元のルカ福音書も三章の洗礼者ヨハネの出現から始まっていました。ルカはそのイエス・キリストの働きと出来事の全体を、「神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせ、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉《ホ・ロゴス》」(三六節)と呼んでいます。マルコ(一・一)はこのイエスの出来事全体を「福音」と呼んでいますが、ルカは《エウアンゲリオン》(福音)という名詞は使わないで《ホ・ロゴス》と言っています(「福音する」という動詞は同じ節で「平和を告げ知らせ」という形で使っています)。この《ホ・ロゴス》という名詞は「言葉」を意味するギリシア語ですが、最初期の福音活動においては「福音」を指す仲間内の用語でした(マルコ八・三二の講解を参照)。

ルカが「福音」《エウアンゲリオン》という名詞を用いないことについては、本書482頁の「ルカ福音書における『福音』」の項を参照してください。

 ルカはイエスの働きについて、「神は聖霊と力をもってこの方に油注ぎをされたので、この方は巡り歩いて・・・・すべてをいやされた」と記述し、さらに念を押すように「神が共におられたからです」と付け加えています(三八節私訳)。イエスの働きを聖霊の働きに帰することはルカの記述の特色です。
 イエス復活の告知において、ルカは復活されたイエスが「人々に現れた」出来事の性格について独自の報告をしています。まずその出来事は「民全体に対してではなく」、すなわち誰でもが認知できる客観的な出来事ではなく、「前もって神に選ばれた証人」に対してなされた啓示であること、すなわちイエスの復活はその啓示を体験した証人によって世界に告知され、信じることを求める告知であることです(四一節)。そして、その証人とは「イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたち」という形で、復活の証人としての「使徒」の範囲が限定されます。イエスが「前もって選び」、復活後に食事をした、ペトロに代表される十二人が復活の「証人」として使徒とされます。ルカの復活告知においては、「一緒に食事をする」という形でイエスの復活が身体をもった復活であることが強調されます(ルカ二四・三六〜四三)。
 この復活の証人たちに復活されたイエスが民に宣べ伝えるようにお命じになった証言の内容は、「イエスが生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であること」と、「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられること」の二つです。審判と罪の赦しという法廷的な概念で福音が告知されます(ルカ二四・四七参照)。ルカの福音は「罪の赦しの福音」です(本書487頁の項目Uを参照)。これは使徒たちの証言ですが、「また預言者もみな証ししています」と付け加えられて、その「罪の赦しの福音」が聖書を成就する使信であることが強調されます(二四・四四〜四八)。これもマルキオンに対抗するルカの強調点です。
 ペトロがまだ割礼を受けてユダヤ教徒になっていないコルネリウスの家で食事を共にしたことに対して、エルサレム共同体の長老たちから厳しい批判が出ます。その批判に対してペトロは、自分に与えられた幻を詳しく紹介して、「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という天からの声を聞いたことを語ります(一一・一〜一八)。ユダヤ人は、割礼を受けずモーセ律法の外にいる異邦人は汚れた者だとしていました。その無割礼の異邦人に聖霊を注ぐことで、神が異邦人を神に所属する「清い者」とされたのだから、もはや誰も異邦人が無割礼の異邦人であるゆえに汚れた者であるとは言えないということです。コルネリウス家での出来事は、キリストの福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられていることを示す出来事としてルカは重要視し、大きなスペースを割いて詳しく報告します。
 このような出来事があったにもかかわらず、これでエルサレムの「割礼を受けている者たち」からする「無割礼の福音」に対する批判が終息したわけではありません。エルサレム共同体は最後までユダヤ教内キリスト信仰の牙城です(二一・二〇参照)。すぐ後に、無割礼の異邦人をそのまま受け入れているアンティオキア共同体との間に激しい論争が起こり、エルサレムでこの問題に関する会議を開かなければならないことになります(一五・一〜三)。この会議において、ペトロはコルネリウスの家での出来事を指し示して、パウロを支持する弁証を展開しています(一五・五〜一一)。その弁論において、ペトロはモーセ律法を「先祖もわたしたちも負いきれなかった軛」と呼び、「主イエスの恩恵によって救われる」というようなパウロのような語り方でパウロを支持しています。
 以上のようなペトロの描き方に、ペトロを偽りの使徒とするマルキオンに対抗して、ペトロをパウロと同じく神からの使徒として描き、ペトロを代表とする「使徒たち」によるイエス伝承をパウロ系共同体にもたらそうとする福音書記者ルカの強い意図が感じられます。

パウロのユダヤ人への福音告知

 パウロの福音告知は次の箇所に出てきます。ここでは、ステファノもパウロの先駆者としてこの項目に含めます。

1 最高法院のでステファノの弁証(七・一〜五三)
2 会堂のユダヤ人への福音告知(一三・一六〜四一)
3 異教神殿での福音告知(一四・一四〜一七)
4 アテネの異邦人への福音告知(一七・二二〜三一)

 キリストの福音がユダヤ教の枠を打ち破って広く異邦諸国民の世界に出て行くための突破口を開いたのは、エルサレム共同体の中のギリシア語系ユダヤ人の証言活動でした。その代表がステファノです。ステファノは、パウロに先立って、神殿とモーセ律法の絶対性を揺るがすような発言をしたと見られ、そのために律法順守に熱心なユダヤ教徒との間に激しい論争を引き起こし、激高したユダヤ人たちに石打にされて最初の殉教者となります。その出来事については、先の『福音の史的展開T』177頁の「U ステファノの殉教」で扱いましたので、ここではステファノがユダヤ人たちに対して行った弁証を報告するルカの記事の特色と意義を見ることに限ります。
 ステファノの主張はルカによって、それを聞いたユダヤ人たちの告発の言葉として要約されています。彼らはこう訴えています。「わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所(神殿)を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習(モーセ律法)を変えるだろう』」(六・一四)。すなわちルカの要約によると、ステファノは、神殿での礼拝に代ってイエス・キリストの贖いの場での御霊による礼拝が始まること、律法による義に代わる別の原理(信仰)による救済が来ていることなど、後のパウロが唱えるようになることを先駆的に主張したと見られます。
 この訴えに対してステファノは、父祖アブラハムに対する土地の約束から説き起こし、族長たちの物語、モーセによる出エジプト、荒野の四十年、ダビデ・ソロモンによる神殿建設、バビロン捕囚、そしてメシアとして遣わされたイエスの殺害に至るまでのイスラエルの全歴史を見渡す長い弁論を行います(七・一〜五三)。そのイスラエルの歴史の回顧は、イスラエルの民が「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち」であり、「いつも聖霊に逆らってきた」ことを論証するためでした。そのかたくなさのゆえに、イスラエルの先祖たちは預言者を殺してきました。そして、あなたたちはついに預言を成就する方として来られたイエスを殺す者となった、と今の時代のイスラエルを弾劾します(五一〜五三節)。
 その弁論の中で、ステファノは預言者の言葉を引用して、「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」と言っています(四八節)。これは、エルサレム神殿はもはや真の礼拝の場ではないことを宣言しています。そして律法に関しては、聖書(律法)を成就する方として来られたイエスを殺すことで、天使から受けた律法を守らない者であることを示した、と糾弾します(五三節)。
 ルカは、ユダヤ人が殺したイエスを神が復活させたことは、すでにペトロのペンテコステ説教で詳しく語りました。しかし、そこではイエスの十字架の死については、それが預言のとおりに起こったことだという要約的な宣言があるだけでした。ルカはいまステファノの口を通して、イエスの死が長いイスラエルの歴史の結末として必然的に起こったことであり、その歴史の成就であることを、その歴史に即して語ります。それで、この弁論は長くならざるをえません。これは、最初期の共同体がユダヤ教共同体に向かって語ろうとしていることを、ルカがステファノの口を通して語らせているのです。ルカは彼の二部作の第二部(使徒言行録)で、ステファノの弁論とペトロのペンテコステ説教の組み合わせによって、第一部(ルカ福音書)のイエスの受難・復活物語に対応する物語を完成しています。実に見事な構成です。
 ギリシア語系ユダヤ人の会堂でステファノの石打に賛成し、イエスを信じる者たちに対する迫害の急先鋒であったサウロ(後のパウロ)が、ダマスコ途上で復活されたイエスに遭遇して回心し、イエス・キリストの僕となって、キリストの福音を宣べ伝えるようになります。その出来事の経緯についてはすでに繰り返し語りましたので、ここではそのパウロが宣べ伝えた福音を記述するルカの記事を検討するだけにします。
 パウロは東地中海の各地で何百回と福音を語ったことでしょう。しかし、ルカはそれを要約して二つの代表的な記事にしています。一つはキプロスとガラテヤ州南部への伝道旅行(いわゆる「第一次伝道旅行」)で、ピシディアのアンティオキアに行ったとき、ユダヤ人の会堂でユダヤ人に向かって行った福音告知の説教です(一三・一三〜五二)。もう一つは、パウロが(いわゆる「第二次伝道旅行」で)アテネに行ったとき、アレオパゴスの丘でギリシア人に向かってした福音告知の演説です(一七・一六〜三四)。まず、パウロが会堂でユダヤ教徒に向かって行った福音告知の内容をルカがどのようにまとめて報告しているかを見ましょう。
 ここ(一三・一三〜五二)に報告されているパウロの会堂説教は重要です。というのは、パウロは各地域の主要都市を拠点として福音活動を進めましたが、その拠点都市に到着するとまずユダヤ人の会堂に入り、会堂に集まるユダヤ教徒と「神を敬う異邦人」に福音を告知するのを常としたので、ここの福音告知は以後の会堂説教のモデルとなるからです。パウロはこのような福音告知をして地中海世界の諸都市に福音をもたらした、とルカは報告しているのです。
 使徒言行録一三章にまとめられているパウロの福音告知は二つの主要部と結びの三部で構成されています。第一部(一六〜二五節)は、族長たちからダビデに至るイスラエルの歴史を概観し、その歴史はダビデの子孫から救い主が送られるという約束を構成すること、そしてその約束に従ってイエスが救い主として送られたことを語ります。その上でイエスが現れる前にイスラエルに悔い改めを宣べ伝えた洗礼者ヨハネは、彼自身が約束された救い主ではなく、救い主について証言する者であることが加えられます。
 イエスがダビデの子孫であることを強調するのは、ユダヤ人に向かって福音を語るときの特色です。当時のユダヤ人には、メシアはダビデの子孫から出るという信仰が行き渡っていたからです。また、イエスの出来事を洗礼者ヨハネの活動から始めるのも、最初期の福音告知の通例です。ここでイエスの称号に「救い主」《ソーテール》という語が用いられていることが(二三節)、この文がルカによる要約であることを印象づけます。この「救い主」という用語は、牧会書簡や第二ペトロ書簡のような新約聖書の最後期の文書に多く(全体で二四例のうち一五例)、ルカもよく用いています(四例)。ユダヤ人に向けた福音告知では、イエスが約束された「メシア」であるという表現が普通です。ところが、おもに異邦人に向かって福音が語られるようになった後期では、異邦人に馴染み深い「救い主」が用いられるようになります。ルカもこの流れの中にいます。
 十字架と復活のことを語る第二部の前に、イエスのことが語られていますが、先に見たコルネリウス家でのペトロの福音告知に較べると、イエス出現の意義について語るだけで、地上のイエスの働きと教えについて触れていないという違いがあります。これは、パウロがその福音告知においてイエス伝承を用いることなく、もっぱらイエス・キリストの十字架と復活という出来事の救済史的意義に集中したことを反映していると考えられます。それでもイエスの出現が聖書の成就であることを語る部分を主要部として強調していることに、マルキオンに対抗するルカの姿勢が読み取れます。
 第二部(二六〜三七節)では、神の約束に従ってイスラエルに送られたイエスが、民の不信仰のゆえに総督ピラトに引き渡され、罪もないのに十字架にかけられて殺されたこと、墓に葬られたこと、死者の中から復活されたこと、証人として選ばれた者たちに現れたことが語られます(二六〜三一節)。ここには、「キリストはわたしたちの罪過のために死に、葬られ、三日目に復活し、わたしたちに現れた」という最初期のエルサレム・ケリュグマが響いています。
 そのイエスの出来事を語った後、このイエスの復活こそがイスラエルに与えられた神の約束の成就であることが、福音として告知されます(三二〜三七節)。詩編(二・七)にある「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」という神の子出現の預言は、イエスの復活によって実現したと告知されます。イエスは復活によって神の子と世界に公示されたのです(ローマ一・四)。そして、もう一つのダビデの預言(詩編一六・一〇)も、ダビデ自身においてではなく、イエスの復活において成就したことが指し示されます。この聖書証明は、ペンテコステの福音告知においてペトロが用いているのと同じです(二・二五〜三一)。
 この福音告知の結びとして第三部(三八〜四一節)で、パウロはユダヤ人に向かって「兄弟たち」と呼びかけて、だからこのイエスを救い主として信じるように説きます。第一部と第二部の福音告知の内容は、二〜五章に見られるペトロの福音告知とほぼ同じ内容です。これをペトロが語ったとしても違和感はありません。これは、最初期共同体がユダヤ人に宣べ伝えた福音の基本形です。しかし、この結びの第三部に来て、ルカはパウロの福音告知の独自の中心点を明示します。

「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。(一三・三八〜三九)

 ルカはここで「この方による罪の赦し」と「信じる者は皆、この方によって義とされる」を同格に並べています。たしかに、「信じる者は皆、この方によって義とされる」、すなわち「信仰による義」はパウロの福音の核心です。しかし、「罪の赦し」については、パウロはほとんど言及することはありません。「罪の赦し」が福音の中心に据えられるのは、パウロ以後のコロサイ書やエフェソ書などのパウロ名書簡になってからです(コロサイ一・一四、エフェソ一・七)。ルカもこの流れにいて、「罪の赦し」を復活されたイエスが弟子たちにお命じになった福音告知の中心主題にしています(ルカ二四・四七)。
 「モーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされる」という告知は、ユダヤ人に向けられたものです。ユダヤ人にとって「義とされる」ことは人生の最大問題です。神から義なる者と認められ、その民として受け入れられ、栄光にあずかるようになることはユダヤ人の究極の目標であり、そうなるためにモーセ律法の順守に励んだのです。ユダヤ人にとっては、神から与えられた律法であるモーセ律法を行うことが義とされる唯一の道であり、それ以外の道は考えられませんでした。ところが、パウロはユダヤ人に向かって、「モーセの律法では義とされることはできない」と宣言し、ただ神が送られた救い主であるイエスを信じることだけが義とされる道であると主張したため、多くのユダヤ人の反発を招くことになります。ルカは、このパウロの福音告知の核心をよく知っていますので、このユダヤ教会堂における福音告知にこれを入れないではおれませんでした。しかし同時に、自分が今異邦世界に告知しようとしている福音の中心主題である「罪の赦し」も入れないではおれないので、両方が並んで置かれることになります。ここにも、このパウロの福音告知がルカの要約によるものであることが示されています。
 パウロは、律法の行いによっては義とされず、イエスを信じることによって義とされるのだというこの宣言が、モーセ律法を絶対としているユダヤ人にとっていかに大きなつまずきになるのかをよく知っています。そして、ルカは実際にそうなったことをよく知っています。それで、ルカは最後に、預言者ハバクク(一・五)の言葉を引用して、ユダヤ人聴衆に向かって、そうならないように警戒するパウロの呼びかけを置いて、この福音告知を締めくくります(一三・四〇〜四一)。
 ユダヤ人の激しい反対に遭遇してパウロとバルナバは、これからは異邦人に向かうと宣言して町を去ります(一三・四四〜五二)。そこで福音に対するユダヤ人の拒否が、「神の言葉」を拒否したと、《エウアンゲリオン》(福音)ではなく《ホ・ロゴス》(言葉)が用いられているのも(四六節)、ルカの特色です。

パウロの異邦人への福音告知

 パウロがユダヤ人の会堂ではなく、その他の場所で直接異教の人たちに福音を語った最初の実例は、一四章(八〜二〇節)にあります。パウロとバルナバはリストラで異教神殿の前で福音を語り、それを聞いていた足なえの人を立たせます。それを見た群衆は、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」叫び、ゼウス神殿の祭司が雄牛の犠牲を捧げようとします。二人は辛うじてそれを押しとどめ、「このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように」説きます。ところが、そこへパウロたちに反対するユダヤ人が押し寄せてきて騒ぎ立て、パウロの説教はごく初めの部分だけで中断します。それで、このリストラでの説教は異教の人々に対するパウロの福音告知の実例として取り上げることができません。
 それに対してルカは、パウロがアテネのアレオパゴスで行った説教を詳しく伝えています(一七・二二〜三一)。おそらくルカは、当時広くギリシア文化の中心地として認められていたアテネでのパウロの福音告知を、異邦人への福音告知の典型として報告しようとしたのでしょう。そのギリシア語全文を刻んだ銘板がアレオパゴスの丘の岩肌にはめ込まれていて、今もキリストの福音がギリシア文化と遭遇した歴史を象徴する記念碑となっています。
 パウロはまず、アテネの街角で見かけた多くの神殿や祭壇などの中に「知られざる神に」と刻まれている祭壇を見かけたことを取り上げます。パウロは、そのような「知られざる神に」献げられた祭壇がある事実を、アテネの人たちが「知らずに拝んでいる神」への予感として取り上げ、その「あなたがたが知らずに拝んでいる神」を知らせようと言って、聖書の唯一の神を告知します。パウロは、アテネの人たちがその熱心な宗教性から「知られざる神」があることを予感していることを、まことの神への予感として意義づけをし直して、そこから福音の告知を始めます(一七・二二〜二三)。
 パウロはまず、神は唯一であり、その唯一の神が天地万物を創造し、世界の多様な諸民族を造り、それぞれの場所に住まわせておられること、人間はみなこの神の子孫であることを、(聖書ではなく)ギリシアの詩人の言葉を引用して説きます(一七・二四〜二九)。その中でパウロは、「この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません」と説き、「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」と言って、神殿で拝まれている偶像はまことの神ではないのだから、そのような偶像から離れて、唯一の生けるまことの神に向かうように説きます。この部分がパウロのアレオパゴス説教の第一部をなします。
 続いてパウロは、その神が世界を裁く前に悔い改めを命じておられることを告知して、こう言います。

 「さて、神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」。(一七・三〇〜三一)

 このように、地上の諸民族が創造者である唯一の神を知らず、神でない偶像を拝むという時代が長く続きました。それは、そのような偶像礼拝が存在の根源であるまことの神に対する背反であることを知らない無知によるものであるとして、神がその「無知の時代」を見過ごしてくださったからであるとし、「しかし今は」神は世界の諸民族に向かって「悔い改める」ように、すなわち、このまことの神に「立ち帰る」ように命じておられるのだと告知します。
 そして、今立ち帰るように命じられている理由が続きます。それは神が世界を正しく裁かれる日が決められたからです。もはや無知として見過ごしにされる時代は終わり、背反は背反としてその責任を問われる日が定められ迫っているからです。そのような裁きの時が迫っていることの確証を、その裁きを執行するべく選ばれた方を死者の中から復活させることによって、神は世界に与えられたと告知されます。もちろんそれは、イエスが死者の中から復活して、キリストまたは《キュリオス》(主)と立てられた出来事を指しています。イエスという個人の働きではなく、死者の中からの復活という出来事が、終わりの日の到来を指し示す出来事(神の働き)として告知されています。
 この「アレオパゴス説教」はルカの筆になるものでしょうが、内容はパウロの異邦人への福音告知の要点をよく伝えています。この時期、すなわちパウロが独立でマケドニア州とアカイア州で福音活動を進めた時期の福音の内容が、この時期に書かれたパウロ自身の手紙に証言されていますが、それによるとパウロが異邦人に告知した福音の内容が次の二点に要約されています(テサロニケT一・九〜一〇)。

 1 異邦人が偶像から離れて生けるまことの神に立ち帰ること。
 2 死者の中から復活されたイエスこそ神の御子であり、やがて来るべき裁きの時にわたしたちを救ってくださる
   方であること。

 この「アレオパゴス説教」は、まさにこの二点をアテネの人々に告知しています。パウロが告知した神は、天地万物の創造者である唯一の生ける神であるだけでなく、時を定めて世界を裁き完成すべく諸民族の歴史を導く神、すなわち救済史の神であることが、この「アレオパゴス説教」によく示されています。また、イエスを復活させた神は、天地を創造された神であるという告知は、イエスの神を創造神とは別の神であるとするマルキオンを反駁していることにもなります。
 アテネではパウロの福音告知は冷笑を招いただけで終わったようです(一七・三二〜三三)。死者の復活による救済の告知は、身体は精神の牢獄と見るギリシア人には愚かさの極みであり、とうてい受け入れられない告知でした。アテネでのこの不幸な出会いから始まる聖書的救済史信仰とギリシア的コスモロジー(世界観、宇宙観)との遭遇は、その後の数世紀の福音の史的展開において、もっとも重要な主題となります。

パウロの法廷での弁証

 独立自給の態勢で福音活動を続け、エーゲ海地域に異邦人を主体とする多くの共同体を形成したパウロは、最後の拠点都市エフェソでの騒乱に巻き込まれてエフェソを立ち去ります。その後、先のエルサレム会議で要請されていた援助の献金を集めて届けるために、これらの異邦人諸集会を訪れ、エルサレムに行こうとします。エフェソを出てからエルサレムへの旅は、エルサレムでの逮捕と裁判、ローマへの護送と続き、二〇章以下で詳しく報告されます。この記事で奇妙なことは、パウロが書簡であれほど真剣に取り組んでいることを表明している献金の問題にルカが全然触れていないことです。これは使徒言行録の大きな謎ですが、それについては先に「状況と経緯」で扱いましたので、ここではその最後の期間になされたパウロの弁論を伝えるルカの仕方について検討することに限定します。
 この期間に行われたパウロの主要な弁論は、次の箇所にまとめられています。

1 エフェソの長老たちへの別れ(二〇・一七〜三五)
2 エルサレム市民への弁証(二二・一〜二一)
3 最高法院での弁証(二三・一〜一〇)
4 総督フェリクスへの弁証(二四・一〇〜二一)
5 アグリッパ王の前での弁証(二六・一〜二三)

 1のエフェソの長老たちへの別れの説諭は、パウロの「訣別遺訓」の様相を示しています。パウロはエフェソの長老たちに語るのはこれが最後になるとして、自分がいなくなった後の信仰の諸問題と、襲ってくるであろう危険について警告し、自分が伝えた福音を正しく継承するように共同体を指導するよう、切々と諭しています。エフェソを出てからエルサレムに着くまでの旅の記事は、これがパウロと諸集会が会う最後の旅になったことを知っているルカが、パウロの訣別の旅として描いています。パウロは各地で別れの言葉を与えたことでしょう。エフェソの長老たちへの説諭はその典型として詳しく報告されていると考えられます。
 2はエルサレム市民に対するものですが、3から5の弁証は、逮捕されてから法廷でなされたパウロの弁証です。ルカは、パウロがエルサレムで逮捕されてからローマに護送されるまでの出来事と、その期間になされたパウロの弁論を、二一章以下八章を用いて詳しく報告しています。これは使徒言行録全体の三分の一以上を占めます。ルカは同行者として現場にいただけでなく、後にも現地の資料を熱心に収集して、パウロの「受難物語」を詳しく書き留めます。この長大な記事には、ルカが最大の使徒として継承を目指すパウロへの敬意と情熱が感じられます。これらの弁証の弁論には、パウロの生い立ちや信仰体験を含めて、他では知ることができない貴重な情報がありますが、ここはルカの福音理解を探求する場ですから省略して、これらの弁論のまとめ方に見られるルカの記事の特色に絞ります。
 第一は、これらの弁論でルカはパウロをユダヤ教の伝統に忠実なファリサイ派ユダヤ教徒として描いていることです(二二・三、二三・六、二四・一四、二六・五)。パウロは生い立ちがファリサイ派であるというだけでなく、現在パウロがユダヤ人から敵視され訴えられているのも、ファリサイ派の復活の信条に忠実なためとされます(二三・六、二四・一五、二六・六〜八、二八・一七)。ルカがこのようにパウロを忠実なファリサイ派ユダヤ人として描くのは、キリストの福音がユダヤ教の伝統に背くものではないという、ユダヤ人に対する弁証の動機があるのでしょうが、同時に、先に「状況と経緯」で見たように、パウロをユダヤ教伝統から切り離そうとするマルキオンに対抗するためという意図が感じられます。
 第二に、ルカはパウロの活動がローマ帝国の法や社会体制に背くものではないことを、パウロの弁論や他の様々な形で、とくに総督もパウロの無罪を認めていたという形で主張しています(二五・一八、二六・三〇〜三二)。ルカが伝える法廷でのパウロの弁論は、キリスト信仰がローマ社会の法や秩序に反するものではないとする護教的動機が見られます。ルカがパウロの最後を書かなかった動機の一つに、皇帝の裁判による有罪判決という護教的意図に反する事実には触れないで、パウロが帝国の首都ローマで「何の妨げもなく」福音を宣べ伝える形で完結しようとしたことが考えられます。

結び

 以上、この項(V)で、使徒言行録でルカが使徒たちの福音告知として伝えている説教のまとめ方を概観してきました。その中で一番印象に残る特色は、ルカがペトロとパウロの福音告知をほとんど同じように記述していることです。とくにペトロを異邦人伝道の開拓者として描いている一〇章以下では、パウロ主義者のルカはペトロをパウロの福音を告知する使徒として描いています。以前から言われてきたように、これは「原始キリスト教におけるユダヤ人キリスト教と異邦人キリスト教の間の亀裂を覆い隠すため」という説明の仕方も可能ですが、それ以上に具体的には(歴史的には)マルキオンの衝撃が共同体を揺るがしていた時代に、ルカはペトロとパウロという代表的使徒が同じ福音を伝えていることを強調して、ペトロをパウロの反対者として退けるマルキオンを反駁しようとしていると見ることができます。そうすることで、ペトロが代表するユダヤ教内キリスト信仰と、パウロが代表するユダヤ教の外のキリスト信仰を統合し、パウロ系共同体がマルキオンのようにユダヤ教聖書を排除するのではなく、それを受け入れることができるようにしたと言えるでしょう。それが後の時代の正統主義に至る道筋を備えたことは、先に「状況と経緯」の最後の項「Z 正統主義の出発点としてのルカ二部作」で見たとおりです。

W ルカの救済史理解

ルカにおける《エクレーシア》

 ルカは彼の二部作の第二部になる「使徒言行録」を著して、エルサレム共同体の成立からパウロによる福音のローマ到達までの最初期共同体の歩み(形姿と活動)を描きました。ルカはすでに第一部となる福音書を書いて、神が諸国民の救いのために成し遂げてくださった最終的な業である主イエス・キリストの出来事を告知しています。他の福音書記者はそれだけで福音の告知には十分として、その後の弟子たちの活動や共同体の歴史を記述することはありませんでした。ところが、ルカは第二部の「使徒言行録」で、イエス復活後の信じる者たちの共同体の歴史を詳しく描きます。この事実は何を意味するのでしょうか。
 それは、先に「状況と経緯」で見たように、たんに歴史家として自分が関わった福音運動の歴史を記述して後世に伝えるためではありません。ルカはこの著述によって、ルカ自身の福音理解に基づいて福音を告知しようとしているのです。ルカの二部作は、全体で「ルカによる福音書」です。使徒言行録の内容だけでなく、その存在自体がルカの福音理解(神学)の指標です。ルカはこの使徒言行録を世に送ることによって、神の救済史について重要な告知を行っているのです。
 ルカが彼の「福音書」の第二部で最初期共同体の歴史を描くのは、今やこの共同体が神の救済史の担い手となっているからです。神の諸国民に対する終末的な救いの働きは、主イエス・キリストの出来事によって成し遂げられました。ルカはそれを第一部の福音書で書きとどめました。しかし、復活して主《ホ・キュリオス》として立てられたイエス・キリストが来臨して世界にその支配を打ち立てるということは、ただちには起こりませんでした。今や神の人間救済の働きは、新しく地上に生まれたキリスト者の共同体によって担われ、そのことが起こるまで、すなわち完全に神の支配が人類の中に実現するまで、世界の歴史の中を進んで行かなければなりません。ルカはそのことを告知するために、使徒言行録を書いて神の救済史の担い手であるキリスト者共同体にその自覚と覚悟を促します。
 ルカはこの共同体を、パウロ以来の伝統に従って《エクレーシア》という語で指しています。パウロはもともと終末時の神の民を指す「神の会衆」《エクレーシア・トゥ・テウー》という語をエルサレム共同体と共有していました。しかし、各地の共同体を指導するために書き送った書簡で、宛先の共同体を指す時には、この《エクレーシア》という語を単独で用いています。従って、この《エクレーシア》という語は、それが個々の集会を指すときは単数形で、地域の諸集会を指すときは複数形で用いられることになります。このような用例の《エクレーシア》は「集会」と訳すのが適切です。
 ところが、エルサレム神殿崩壊以後の時期に書かれたコロサイ書やエフェソ書になると、《エクレーシア》という語は(挨拶における二例の例外を除いて)個々の集会を指すのに用いられることはなく、従ってそれが複数形で用いられることはありません。《ヘー・エクレーシア》といつも定冠詞つきの単数形で用いられ、召されてキリストのものとなった民全体を指しています。そして、この「キリストの御民」は、キリストを頭としていただくキリストの体であり、キリストの充満へと成長する生命体であるという理念で描かれています。わたしはコロサイ書やエフェソ書の私訳において、このような理念的な用例の《ヘー・エクレーシア》を「御民」と訳しています。

キリストに属する者たちの共同体をどう呼ぶのか、とくに新約聖書における《エクレーシア》という語の用い方の変遷については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』415頁の「エクレシア理解の進展」の項を参照してください。なお、ほとんどの日本語訳新約聖書は《エクレーシア》を「教会」と訳していますが(塚本訳だけが「集会」と訳し、それに「エクレシヤ」というふりがなをつけています)、本書では「教会」という訳語は用いず、私訳で「集会」または「御民」という訳語を用い、講解の本文でキリスト者のグループを指すのに「共同体」という語を用いました。その理由については、拙著『福音の史的展開T』44頁の「共同体」の項を参照してください。

 ルカは使徒言行録で《エクレーシア》という語を二三回用いていますが、そのほとんどは実際の個々の集会、または諸集会を指しています。時には漠然とある地域の当時の諸集会の全体を指している場合もあります(九・三一、一六・五)。使徒言行録執筆時のルカは、第三世代のパウロ主義者として、第二世代のコロサイ書やエフェソ書のエクレシア理解を知っているはずですが、その世代の《ヘー・エクレーシア》の理念的な用例はなく、パウロの用例と同じく、実際の歴史的諸集会を指しています。これは、背後にルカの神学があるとしても、使徒言行録は最初期共同体の実際の歴史を描くことを第一義の内容としているのですから、当然の結果でしょう。一箇所(二〇・二八)に《エクレーシア・トゥ・テウー》(神のエクレシア)という句が用いられていますが、これも最初期のエルサレム共同体が用いたような終末時の選民を意味しているのではなく、エフェソの集会を指しています。

本項では、以後特別の必要がない限り、ギリシア語の《エクレーシア》を指すのに日本語表記の「エクレシア」を用います。

救済史と黙示思想

 キリストの十字架と復活において決定的な神の救済の業が成し遂げられたのですが、それによって直ちに神の最終的な支配(神の国)が実現したのではなく、それがキリストの来臨《パルーシア》によって完成するまでには、キリストの民であるエクレシアが世界に対する神の救済の働きを担って歴史の中を歩まなければならない時期があることを、ルカははっきりと理解しています。ルカはすでに一世紀近くにも及ぶその事実、すなわちキリストの民がキリスト復活後の神の救済史の担い手として活動してきた歴史を見てきています。ルカはその歴史を記述することを通して、その歴史の中に啓示された神の救済史の意義を世界に告知しようとします。
 新約聖書において、キリストの福音は救済史の枠組みの中で告知されています。ということは、キリストの福音はあくまで「聖書」の枠組みの中で告知されていることを意味します。「聖書」は救済史(神が人を救うために為される働きの歴史)の書だからです。この場合の「聖書」は、現在われわれが「旧約聖書」と呼んでいる文書群を指しています。キリストの福音が告知され始めたこの時代には、まだ「新約聖書」はありませんでした。福音を告知した使徒たちはすべてユダヤ人であり、彼らは「聖書」(=旧約聖書)を神からの啓示の書として、キリストの出来事を聖書を成就する出来事として告知したのです。すなわち、「聖書」の中で神が終わりの日に成し遂げると約束してこられた救済の働きの実現として告知したのです。福音告知において、「聖書に書かれているように」という宣言はつねに第一項をなしていました(たとえばコリントT一五・三〜五)。
 ところで、イエスの時代のユダヤ教においては、救済史の信仰は「黙示思想」の色彩を強くしていました。黙示思想は救済史信仰の特異な形態です。バビロン捕囚以後のユダヤ人は、相継ぐ異教帝国の支配の下で苦しみながら、預言者たちが預言した最終的な救済と栄光を神の約束として待ち望んで歩んできました。その苦難の歴史の中から、現実の歴史の中では絶望的な状況においても、神の超越的な介入により、破局的な混乱と苦難を経て、イスラエルの民の救済と栄光が実現するという形で終末を待望する文書が生み出されます。そのような「神の隠されている計画」を、特定の義人を通して啓示すると称する文書が数多く出てきます。ダニエル書をはじめとするそのような性格の一連の文書は「黙示文書」と呼ばれ、そこで表明されている信仰や思想が「黙示思想」と呼ばれます。
 黙示思想の基本的な構造は「二つのアイオーン」の思想です。《アイオーン》というのは一定の長い時期を指すギリシア語で、「世、代、時代」というような意味の語です。黙示文書では「今のアイオーン」と「来るべきアイオーン」の二つのアイオーンが神によって定められているとし、「今のアイオーン」では神に敵対する悪の力が支配し、神に属する義人たちは苦しめられているが、神がやがてその御計画に従い、超自然的な人物によってもたらされる「来るべきアイオーン」では、悪人は裁かれて滅び、今苦しめられている義人は救われて栄光の地位に高められるとされます。
 ペトロやパウロをはじめ最初に福音を告知した使徒たちはみなユダヤ人ですから、またキリスト信仰によって形成された共同体の最初の指導層の多くはユダヤ人ですから、彼らから生み出された新約聖書は当時のユダヤ教黙示思想の影響を色濃く示すことになります。彼らが黙示思想の枠組みで思考していることから、黙示思想こそ新約聖書における神学の母であるとする見方(ケーゼマン)も出てきます。しかし同時に、キリストの福音はユダヤ教黙示思想の枠を超えて、新しい思想の枠組みを形成していきます。パウロやヨハネはその典型です。ルカもそのようなユダヤ教黙示思想を克服する新しい道を提示する一人です。

聖書が救済史の書であることについて、また黙示思想の成立とその意義については、拙著『パウロによるキリストの福音T』の「第八章 福音におけるユダヤ教遺産の継承」を参照してください。

黙示思想を超えて ― ヨハネとパウロ

 新約聖書の中でこのユダヤ教黙示思想克服の姿をもっとも明確に示しているのはヨハネ福音書です。ヨハネ福音書は、黙示思想的待望を示す「キリストの来臨《パルーシア》」について語ることはありません。イエスを信じる者はすでに現在永遠の命を持っています。ヨハネ福音書においては、「今のアイオーン」と「来るべきアイオーン」の対立ではなく、死と闇の領域と命と光の領域という二つの霊的領域の峻別が救済の枠組みとなっています。人間はイエス・キリストを信じることによって、今の世(アイオーン)では苦難を受けるが来るべき世で栄光を受けるのではなく、現在すでに死の領域から命の領域に移されて救われているのです。このような形でヨハネ福音書はユダヤ教黙示思想を克服しています。
 パウロはまだヨハネほど徹底していませんが、それでもパウロの福音においては、「キリストにあって」現在すでに来るべき世の命を生きているのだという救済の現在性が出てきています。それは、キリストにあって賜っている聖霊により現実となっている命の体験です。パウロにおいては、(テサロニケ第一書簡に見られるように)まだキリストの来臨《パルーシア》による救済の完成という救済史の枠組みが明確に保持されていますが、同時に聖霊による命の現実に焦点が移ることによって、ユダヤ教的な黙示思想は克服されています。すなわち、来るべき世は現在と無関係な事態が突然到来するのではなく、今は隠されている現在のキリストにある命の現実が将来には顕わになるだけだという形で、現在化されています。
 パウロのユダヤ教黙示思想の克服の仕方をヨハネのそれと比較すると、ヨハネの場合には黙示思想的枠組みが徹底的に排除されるので、黙示思想の基礎にある聖書的救済史の枠組みまでが排除される危険があります。たしかにヨハネ福音書においても、イエス・キリストの出来事は聖書の約束を成就する終末的な出来事であるという救済史の基本的な終末論的構造は維持されています。しかし、思考の枠組みは時間的な(ヘブライ的)救済史の枠組みから空間的な(ギリシア的)霊界の対立領域という枠組みに移っています。これによってヨハネ福音書は、後の時代に発展するグノーシス主義者にもっとも好まれる福音書となります。グノーシス主義は複雑な宗教思想の体系であり簡単に紹介することはできませんが、その分かりやすい指標を一つあげると、グノーシス主義はユダヤ教の聖書(旧約聖書)を拒否します。この天と地を創造し、イスラエルの民を自分の民として選び、モーセによってその民に律法を与えて導いてきた聖書(旧約聖書)の神は真の神ではないとし、至高の霊界を満たす神的存在の系譜を語る複雑な神話を形成して、その霊界の知識《グノーシス》を得ることで現実の悪の世から救われるとする「霊的知識(グノーシス)による救済」を語ります。グノーシス主義は、聖書を拒否することで救済史的枠組みを退けています。それで、一見救済史を退けているように見えるヨハネ福音書に親近感をもつようです。ヨハネ福音書を萌芽形態におけるグノーシス主義文書だとする見方(ケーゼマン)も出てきます。
 それに対してパウロでは、来臨《パルーシア》告知に見られるようにユダヤ教黙示思想の枠組みが保持されていることで、聖書の救済史的構造が見失われることがありません。たしかにエルサレム陥落以後の時期(最初期後期)にパウロの名で書かれたコロサイ書やエフェソ書には、黙示思想的枠組みは後退して、「キリストの来臨《パルーシア》」は語られることなく、復活を含め救済は現在化されている面がありますが、それでもなお現在の救済の隠された現実が顕現する時として救済史的将来が待望されています(コロサイ三・一〜四)。ただ、エルサレム陥落以後、それまで主流であったイスラエルを救済史の担い手とする救済史信仰が成り立たなくなった時代に書かれたこれらのパウロ名文書には、エクレシアがキリストの充満体として地上における神の救済の働きを体現しているという形で福音が提示されるようになっています。この時代の共同体の代表者たちは、今やこの世界における神の救済の働きは、イスラエルを担い手とする救済史ではなく、エクレシアにおける御霊の現実の中にあると認識するようになっています。

ルカにおける黙示思想の克服

 このような状況の中で、ルカは一人のパウロ主義者(パウロの継承者)として独自の仕方でユダヤ教黙示思想を克服した救済史の道を提示します。その独自の形は、まず何よりも「使徒言行録」の存在が示しています。ルカも第二世代のパウロ主義者(コロサイ書やエフェソ書の著者)と同じく、もはやイスラエルは救済史の担い手ではなく、今やエクレシアこそが神の救済史の担い手であることを認識しています。ただそれを提示するのに、コロサイ書やエフェソ書のように理念的にエクレシアの霊的意義を語るのではなく、エクレシアの現実の歴史を描くことで、その事実を共同体と世界に提示しようとします。ここで、使徒言行録によってルカが指し示している救済史とはどのようなものかを見ることにします。
 ルカはパウロの継承者の一人です。ルカはパウロの救済史信仰を継承しています。ルカにとって福音はあくまで聖書(旧約聖書)の成就としてのキリストの出来事を告知するものです。ただルカはパウロと違い、エルサレム陥落後の状況で活動しています。エルサレム神殿崩壊によって区分される最初期の前期と後期では、共同体を取り巻く状況は大きく変わってきています。パウロはまだキリストの来臨による救済史の完成を自分の活動の期間中に期待することができました。それに対してルカは、キリストの来臨と深く結びついて語られていたエルサレム神殿の崩壊の後何十年経ってもキリストの来臨は起こらず、共同体はこの事実に直面して、「来臨遅延」の現実をどう理解するか、解決を迫られていました。後期に生み出された文書は、この問題に対する解決の方向が様々であることを垣間見させています。たとえば、コロサイ書やエフェソ書では、思考の枠組みがヘブライ的救済史思考からギリシア的コスモロジーに変わることで問題が解消しています。ヨハネ福音書も、救済を現在体験している永遠の命の現実に集中することによって、問題を解消しています。このような方向に対して、テサロニケ第二書簡やヨハネ黙示録のように、黙示思想の再解釈によって黙示思想的来臨待望を維持しようとする方向もあります。
 その中でルカは独自の方向の解決を提示します。それは基本的にパウロの方向です。パウロは、キリストにあって賜る聖霊によって終末の現実がすでに到来しているとして、たんに将来に約束されている終末的栄光を待望するという黙示思想を克服していました。ルカはそれが聖霊によってエクレシアの中に来ているとして、そのエクレシアの歴史を描くことで成し遂げています。
 ルカはエクレシアの現実の歴史を描くことによって、キリストの十字架と復活という終末的な神の救済の御業とキリストの来臨による完成との間には、エクレシアによるキリストの業の継承とその証言という期間があり、その期間を経てはじめて最終的な完成が来るという図式を提示しようとします。この期間においては、、神の救済史の御計画を担うのはエクレシアであり、エクレシアを通して神の御計画が世界の中に進むことになります。このような救済史理解は、現在ではあまりにも当然のことになっていますが、ルカの時代では画期的な提示であり、現代のわれわれはルカの貢献を見逃してはなりません。
 ルカが「使徒言行録」を書いたのは、最初期の共同体の歴史を書きとどめて後世に伝えようとしただけではありません。それを書くことで、救済史の新しい理解を提示し、同時に新しく救済史の担い手となったエクレシアに、その使命にふさわしい歩み方を指し示す意図もありました。ルカは歴史家であると同時に神学者でもあります。

マルキオンに対抗して

 救済史信仰の維持という面では、これも先に「状況と経緯」で述べたように、マルキオンに対抗するという意図が見られます。マルキオンはパウロ主義者の一人として、人が救われるのは信仰によるのであることを強調して、福音を律法から峻別することを説きます。マルキオンはユダヤ教律法を退けるのに急で、ユダヤ教の聖典である聖書(旧約聖書)そのものを拒否するに至ります。この天地を創造し、イスラエルを選んで律法を与えた聖書の神を、イエスが啓示された慈愛の父なる神とは別の神、一段と劣る神とします。これには当時のグノーシス主義の影響があったのかもしれません。
 このようなマルキオンの過激なパウロ主義改革に対して、ルカは聖書(旧約聖書)が福音の土台であり、福音は聖書を成就する出来事であることを強調してやみません。先に見たように、マルキオンの登場に直面してから書かれた使徒言行録と、その時に初版ルカ福音書に書き加えられた部分には、とくに福音が聖書の成就であることを強調する部分が多くなっています。これは、ルカが晩年のパウロの同行者として広く地中海世界を旅して、その活動の本拠地であるエーゲ海地域だけでなく、パレスチナ・シリア地域の伝承を多く収集していたので、その地域のイエス伝承と共同体の伝承に詳しく、それらの伝承の聖書的伝統を身につけていたからではないかと考えられます。
 ルカが福音を聖書の成就であるとするのは、イエス・キリストの出来事とエクレシアの現実を救済史の枠組みの中に置くことです。本稿で見たように、聖書は救済史の書であり、キリストとエクレシアの現実をすべて聖書の成就と見ることは、これを聖書が成就した最終段階の出来事、すなわち終末の事態として理解することです。
 聖書を福音の土台として強調することは、福音を救済史の枠組みの中に置くことです。それに対して、マルキオンのように聖書を拒否することは、福音を救済史の枠組みから切り離してしまうことです。福音が救済史の枠組みから切り離されたとき、キリスト信仰がどうなるかは、その後のグノーシス主義の歴史が示しています。キリスト信仰は、世界における神の救済史的働きという確固たる枠組みを失い、個人の霊的知識と悟りの宗教になり、人間の霊界の知識から生じる限りない神話の体系になってしまいます。事実、二世紀における正統派とグノーシス派との対立は、聖書を受け入れるか拒否するかの対立となり、聖書に基づくルカの路線を継承した正統派の信仰は、やがて二世紀末にはエイレナイオスの救済史神学となって、後の時代のキリスト教会を築くことになります。

救済史における三つの時代

 先に見たように、この時代の救済史信仰は「二つのアイオーン」という黙示思想的な図式に支配されていました。その「来るべき世」の到来という終末的完成の中に「エクレシアの時代」を入れることで、ルカは救済史を三つの時代の図式に改めました。それによって聖書の救済史信仰が新しい形で維持されるようになっただけでなく、エクレシアの使命(=救済史の担い手としての使命)についての自覚が深められることになります。
 実は救済史を三つの時代の図式に改めることは、すでにイエスご自身の終末理解に見られます。イエスも黙示思想的終末待望が高揚している時代に、洗礼者ヨハネと共に「神の支配」、すなわち「来るべき世」の到来が差し迫っていることを宣べ伝えられました。イエスと黙示思想の関係については、A・シュヴァイツァーの「徹底的終末論」など、多くの議論がありますが、最近イエスを一世紀という時代の一人のユダヤ人として見る視点でイエスの宣教を描いたD・フルッサー『ユダヤ人イエス』(池田・毛利訳・教文館)は、その最終章「洗礼者ヨハネとイエスによる救済史の諸段階」で、イエスは二つのアイオーンという当時の黙示思想的終末の図式を前提として、終末審判を通して到来する「来るべきアイオーン」の直前に、自分の宣教において天の支配が実現しているもう一つの時代(メシアの時代)を入れることで、三つの時代の図式に変更したとしています。

コンツェルマンは、ルカの救済史では、出発点としての創造と完成点としての再臨という二つの極の間に、救済の歴史は三つの段階を経て展開するとして、次の三つの時をあげています。 ― コンツェルマン『時の中心』(田川訳、新教出版社)252頁

 1 イスラエル、律法、預言者の時
2 イエスの時
3 イエス登場と再臨の間の時、すなわち教会と霊の時

たしかにイスラエルとエクレシアの関係という視点から見るとこの区分は適切ですが、全世界に対する神の救済史という視点からすると、以下に述べるように、ルカの救済史も二つのアイオーンの枠組みで理解すべきであると考えられます。

 しかしよく見ると、ルカが挿入した「エクレシアの時代」というのは、神に敵対する「今のアイオーン」と神の支配が実現する「来るべきアイオーン」との間に挿入された第三のアイオーンではありません。ルカが挿入した「エクレシアの時代」は、「来るべきアイオーン」の中に位置しています。「来るべきアイオーン」はキリストの出現によってすでに来ているのです。ユダヤ教黙示思想が用いた「今のアイオーン」と「来るべきアイオーン」という用語を、現代風に「歴史」と「終末」と言い換えるならば、「終末」はすでに開始しており、「エクレシアの時代」は「終末」の中の事柄として位置づけられます。
 それに対応して、イスラエルの歴史は「今のアイオーン」の中に含まれ、「歴史」の中の一部として理解されなければなりません。イスラエルは「歴史」に属するものとして、「終末」に属するエクレシアとは断絶します。イスラエルは世界の「歴史」の中にあって、選ばれて来るべき「終末」を予告し準備するという特別の使命を与えられました。エクレシアはその成就態としてイスラエルと連続します。しかし、終末に属するものとして、歴史に属するイスラエルとは断絶しています。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、(終末的事態である)神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」というルカ一六・一六の言葉は、このような断絶を指し示していると理解できます。

エクレシアの二重性

 コンツェルマンは「イスラエルの時」と「エクレシアの時」の間に「イエスの時」を置き、それを「時の中心」としています。しかも、誘惑を終えたサタンがイエスを離れてから(ルカ四・一三)再びイスカリオテのユダに入るまで(ルカ二二・三)、イエスがサタンの活動から解放されていた時期を特別に「イエスの時」として、それを「時の中心」としています。しかし「イエスの時」は、「イスラエルの時」と「エクレシアの時」と並ぶ救済史上の一つの時期ではありません。それは十字架と復活という出来事によって、神が終わりの日に成し遂げると約束されていた救済の働きであり、終末を導入する出来事です。救済史の中で、「イエスの時」は終末の到来を告げる時点であって、救済史上の一つの時期ではありません。
 その出来事が起こったとき、その出来事に含まれる栄光の来臨が直ちに「神の支配」を完成するとして告知されましたが、実際には来臨が直ちには起こらなかったという現実が、ルカに「エクレシアの時」の歴史を書かせることになりました。しかし、イエス・キリストの十字架と復活という出来事において成し遂げられた神の救済の働きによって、終わりの日の命である聖霊が到来して、すでにエクレシアの中に働いています。イエスの出来事とエクレシアにおける聖霊の現実は、一つとなって「来るべきアイオーン」(終末)を構成しています。それはイエス・キリストの十字架と復活によって始まり、エクレシアの中に働いています。それは、いつであるかは分からないが必ず起こるキリストの来臨によって完成する一つの救済史上の時代を構成します。ルカが描く最初期共同体の姿は、終末における神の民の姿ですが、それはなお時間の中にあり、世界の歴史の中にあって苦闘する姿となります。この二重性、すなわち現実に歴史の中にあって終末を生きるエクレシアの二重性が、その歴史を矛盾に満ちた複雑な様相をもつものにします。
 「二重性」といえば、すでに福音書が二重性の中にありました。福音書は地上のイエスの姿を語り伝えながら、その中に復活されたイエスを重ねて告知しています。使徒言行録も、地上のエクレシアの歴史を語る中で、聖霊によって形成される終末的事態としての神の民の姿を告知しています。ルカが描く最初期の共同体は、地上の人間の共同体として様々な人間的な限界と問題を露呈してます。しかし同時に、その共同体は神の救済史の担い手として、神が聖霊によりそれを通して働かれる姿を告知しています。それは福音書におけるイエスの二重性と連続して、歴史の中に終末が到来していることを指し示す二重性となります。
 このようなルカの救済史理解は福音書の中にも現れています。ルカは自分の福音理解を比較的自由に出すことができる「旅行記」に、「神の国はいつ来るのか」という問題を扱う段落(ルカ一七・二〇〜三七)を置いています。そこでは、黙示思想の典型的な関心事である「神の国はいつ来るのか」という問いに対して、イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」と、歴史の中で「神の国」の到来を待望する黙示思想的待望が間違っていることを指摘された後、「実に、神の国はあなたがたの中にあるのだ」と断言しておられます。その段落の講解(拙著『ルカ福音書講解U』325頁)で見たように、このイエスの言葉は「神の国」という終末的事態がすでに「あなたがた」、すなわち共同体の中に現実として到来しているのだという宣言であり、この宣言によってユダヤ教の黙示思想的終末待望と、共同体の中にある「来臨の遅延」による動揺(それは黙示思想的待望から来ます)を乗り越えています。
 ルカは、一方では「マルコの小黙示録」(マルコ一三章)のような典型的な黙示思想の伝承を忠実に継承して(ルカ二一章)、聖書的救済史の枠組みを維持しながら、同時にこのような黙示思想を克服する言葉を置いて、新しい救済史理解を示しています。

「エクレシアの時代」と「異邦人の時代」

 このように、ルカはイエス・キリストの出来事によって到来した「神の国」という終末的事態に、実際のエクレシアの歴史を記述することによって「エクレシアの時」を挿入して、共同体に新しい救済史理解をもたらしました。それによって、「来臨の遅延」によって動揺した救済史信仰を維持すると同時に、共同体に救済史の担い手として歴史の中を歩む自覚と覚悟を促しています。ところで、ルカはその「エクレシアの時代」を「異邦人の時代」と呼んでいるところがあります(ルカ二一・二四)。この「異邦人の時代」という呼び方には、異邦人への使徒パウロの継承者としてのルカの福音書理解が滲み出ています。

「異邦人の時代」というルカだけの表現については、次に刊行する予定の拙著『ルカ福音書講解V』で、ルカ福音書二一章のイエスの終末説教を取り上げるときに、「異邦人の時代」の項として詳しく講解することになりますが、ここではその要旨をまとめて、ルカの救済史理解をたどります。

 エルサレム陥落前の使徒時代においては、共同体は復活されたキリストの来臨による神の支配の到来を熱烈に待望していました。そして、それをイエスが用いられた「人の子」という表象を用いて、黙示思想的な形で言い表し、「マルコの小黙示録」(マルコ一三章)というような形で表現していました。しかし、使徒時代の終わりとなるユダヤ戦争前後の時期に成立したと見られるマルコ福音書は、そのような黙示録的な苦難の中での待望を語るさい、「まだ終わりではない」ことを強調し、現在の苦しみはまだ「産みの苦しみの始まり」だとし、終わりが来る前に世界の「あらゆる民」が福音を聞かせられる時期があることを指し示していました(マルコ一三・五〜一〇)。マタイ(二四・一四)も同じです。
 イエスが「来たるべき世」の前に「メシアの時代」を置いて救済史を三段階にされたのを、マルコはキリストの福音が全世界に告知される時期を入れる形で継承していることになります。ここで「あらゆる民」というのは世界の諸民族・諸国民を指します。ここで用いられている《タ・エスネー》(諸民族)という語は、もともとユダヤ教徒が非ユダヤ教徒(異教徒)を指すのに用いた表現です。その語がマルコでは世界の諸国民を指す語として用いられています。この語はもともと民族、国民を指す《エスノス》から来ていますが、ルカ(二一・二四)はその複数形《エスノイ》を用いて「諸国民の時代」と言っています。従って、マルコが世界の「あらゆる民」に福音が告知される時代と言っていることを、ルカは「異邦人(=諸国民)の時代」という表現で、同じことを言っていることになります。聖書では、「諸国民」はユダヤ人(ユダヤ教徒)と対立する概念(異邦人、異教徒)として用いられています。
 ただ、マルコがそれを福音が告知される時代としているのに対して、ルカはそれをエルサレムの陥落の文脈で用いて、エルサレムが異邦人に踏み荒らされる時期の期限としている点が違います。このルカの「異邦人の時が満ちるまで」という見方は、パウロの救済史観を継承しています。パウロは救済史におけるユダヤ人と異邦人の関係について、「この奥義(秘められた神の計画)について無知でいてもらいたくない」と前置きして、「イスラエルの一部がかたくなになったのは、入ってくる異邦人の数が満ちるまでであり、こうして全イスラエルが救われることになるのです」と言っています(ローマ一一・二五〜二六)。
 パウロはまだイスラエルを担い手とする救済史の枠組みで異邦人を見ています。異邦人は(無割礼のままですが)あくまで契約の民であるイスラエルに「入ってくる」ことによって救われるのです。パウロは「異邦人への使徒」として、福音によって異邦人を招き「その数を満たす」ことを使命として働きました。それに対してルカは、エルサレムの陥落が象徴するように、もはやイスラエルが救済史の担い手ではなくなり、世界の諸国民が担い手となった時代を見ています。ルカの時代のエクレシアは、ユダヤ人以外の諸国民が多数を占めています。ユダヤ教内のキリスト信仰の民は、福音活動の主流から見れば片隅に追いやられて、もはや主導的立場にはありません。しかし、パウロが神の選びについて言っているように、ルカも「神の賜物と招きは取り消されない」(ローマ一一・二九)ことを知っています。それで、イスラエルに代わって異邦人が救済史の担い手である時期も、神の時が「満ちる」までであり、それが満ちるときには、もはやユダヤ人も異邦人も区別のない、全世界の諸民族が救済史の担い手となることを、「異邦人の時が満ちる」という表現で指し示します。

結び ― ルカ救済史観の要約

 以上、最初期(前期)の共同体の歴史を描いた使徒言行録という著述に見られるルカの救済史観を追究してきました。ルカの救済史理解は、第一部である福音書においても、伝承を編集して福音書に構成するルカの仕方に表れていました。最後に、福音書も含めたルカの二部作に表れているルカの救済史観をまとめて、この項(W)の結びとします。
 ルカがイエス・キリストの出来事を告知する福音書と並んで、最初期共同体の歴史を記述する使徒言行録を書いた事実は、イスラエルの歴史とそれを成就完成する「来たるべき世」との間に「エクレシアの時」を挿入して、救済史を三段階で構成したように見えます。しかしここで見たように、ルカは「今のこの世」と「来たるべき世」との間に「エクレシアの時」を挿入して救済史を三段階としたのではなく、主イエス・キリストによって到来した「来たるべき世」の中の出来事としてエクレシアの歴史を書いたのです。そのことは、主イエス・キリストの出来事、すなわち誕生、バプテスマ、いやしと「神の国」告知の活動、十字架、復活の出来事はすべて聖霊による出来事であり、共同体の誕生、癒しと福音告知の活動もすべて聖霊の働きによるものであることを強調して、イエス・キリストの出来事も共同体の歴史も同じく、終末時に約束されていた聖霊の働きによるものであること、すなわち同じ「来たるべき世」における出来事であることを指し示しています。イエスが告知された「神の国」と、共同体が告知するキリストは、共に「歴史の中での終末の現臨としての聖霊の現実」(The Reality of the Holy Spirit as the Presence of Eschaton in History )です。
 イエス・キリストの出来事も共同体の歴史も共に時間の中で起こった出来事であるかぎり、福音書においては地上の人ナザレのイエスと復活者キリストが重なっているという二重性があり、使徒言行録においては地上の人間共同体が終末的な神の民と重なっているという二重性の中にあります。「天から(=終末から)」来られたイエスが、地上では(=歴史の中では)苦難を受けざるをえなかったように、エクレシアも聖霊によって形成され、聖霊によって終末の現実を生きる共同体であるゆえに、歴史の中では苦難の中で終末の現実を証言し、指し示すことを使命として歩まざるをえません。ルカはその使命を、現実の最初期のエクレシアの姿を範例(モデル)として描くことで、代々のキリストの民に指し示しています。
 エルサレム陥落後の後期では、前期の燃えるような差し迫った来臨待望は維持できなくなり、来臨信仰は何らかの形で変容を迫られていました。先に見たように、後期における対応としては、二つの方向が見られました。
 第一は、コロサイ書やエフェソ書に見られる方向で、キリストの福音によって形成された共同体を、救済史の枠組みではなく、霊的な諸領域で構成されるギリシア的コスモロジーの枠組みで理解する方向です。ヨハネ福音書も、その起源から来るユダヤ教的色彩を強くとどめながら、全体としてはこの方向にあります。この方向を「ギリシア化」というならば、ギリシア化を徹底させたところに、救済史の源であるユダヤ教聖書を完全に排除してしまうマルキオンが現れます。
 第二の方向は、テサロニケ第二書簡やヨハネ黙示録のような、ユダヤ教黙示思想の枠内での解決を求める方向です。それは福音の中の黙示思想的部分を新しく解釈し直して来臨遅延の問題に対処したり(テサロニケ第二書簡)、さし迫った状況に促されて新しい黙示録的幻を示して来臨待望を鼓舞しようとする方向です(ヨハネ黙示録)。
 ルカは使徒言行録を書くことで第三の道を指し示します。それは新しい救済史の枠組みの提示です。ルカは第一部となる福音書においてパレスチナ・ユダヤ人共同体の黙示思想的な「人の子」顕現を待望する伝承を忠実に伝えながら、一方では「神の国はあなたたち(共同体)の中にあるのだ」と宣言して、第二部の使徒言行録で終末の現実を内に宿す共同体の実際の歩みを叙述します。その中でルカは、異邦人が救済史の担い手となる新しい救済史の枠組み(それまでのユダヤ教の救済史には見られなかったもの)を提示して、苦難の歴史を歩み始めた共同体に提示します。
 次章(終章)で見ることになりますが、二世紀以後の歴史的展開を見ますと、このルカの路線が主流となり、正統派を形成します。この事実からしても、ルカ二部作が福音の歴史的展開において占める位置の重要性が分かります。