市川喜一著作集 > 第21巻 福音の史的展開U > 第8講

第八章 ルカ二部作におけるキリストの福音




第一節 ルカ二部作成立の状況と経緯

はじめに

 「ルカ福音書」と「使徒言行録」という二つの文書は、同じ著者によって、同じ意図をもって書かれた著作であることは、両書の序文からも明らかです。両書の共通の意図と性格については後で述べることにして、ここではまず著者が同じであることだけを確認しておきます。「使徒言行録」の著者はその序文(一・一〜二)で、同じ献呈者であるテオフィロ(ルカ一・三)に向かって、「わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、・・・・天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と書いています。これは先に書いた福音書を指していることは間違いありません。用語や文体も、両書が同じ著者による著作であることを指し示しています。著者は、先の第一巻(福音書)に続いてこの第二巻(使徒言行録)を書いて、同じテオフィロに献呈しています。ここでは、この二書を合わせて「ルカ二部作」と呼び、本節でその成立の経緯を検討します。

T ルカ二部作の意図と構想

著述の意図

 ルカはまず福音書を執筆し、その後で使徒言行録を著述したと見られます。そのことは著者自身が使徒言行録の序文で、福音書について「わたしは先に第一巻を著して」と言っていることからも明らかです。二部作の著述の経緯については後で詳しく見ることになりますが、著者の意図や著述の性格は、福音書の序文で著者自身が明確に述べていますので、そこから出発します。

 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」。(ルカ一・一〜四)

 ルカはここで《ディエーゲーシス》(ここで「物語」と訳されている語)という、新約聖書ではここだけに出てくる注目すべき用語を使っています。この語は、「わたしたちの間で実現した事柄について」の「歴史的説明」という意味で用いられています。この事柄については、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに」書き連ねて、「歴史的説明」の書を著すことをすでに多くの人が試みてきた、とルカは言っています。その中にはマルコ福音書が含まれていることは確かです。ルカはマルコ福音書を前に置いてこの福音書を書いています。マルコ福音書だけでなく、ルカは他の奇蹟物語や比喩物語集、また現在「語録資料Q」と呼ばれているイエスの語録集、ルカが広く地中海世界を旅して集めた伝承や文書(ルカの特殊資料)なども手元にもっていたでしょう(ルカの資料については後述)。ルカは、「すべての事を初めから詳しく調べている」者として、それらを「順序正しく書いて」、自分なりの「歴史的説明」の書を著して、「敬愛するテオフィロ」に献呈しようとします。序文というものは、全著作が完結してから書かれるのが著作の常ですから、この序文も二部作全体が完成してから書かれたものかもしれませんが、福音書の著述に対する著者の姿勢もよく説明していると見られます。

福音の史的展開

 ルカは自分の著作を《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書としています。その「歴史的説明」は、「わたしたちの間で実現した事柄について」、「すべての事を初めから詳しく調べて」いるルカ自身が「順序正しく書いて」仕上げた著作です。この「わたしたちの間で実現した事柄・出来事」は、本来目に見えない神のご計画とか働きが、わたしたち地上の人間の間で、すなわち地上の歴史のただ中に、目に見える出来事の形で実現したことを指しています。
 福音は、イエス・キリストの出来事において成し遂げられた神の救いの働きを世界に告知する言葉です。このイエス・キリストの出来事(この方の生涯・働き・言葉)こそ、「わたしたちの間で実現した事柄」、わたしたち地上の人間の歴史の中に起こった救いの出来事に他なりません。《ケリュグマ》(福音)はそれを告知する直接的な言葉ですが(たとえばコリントT一五・三〜五)、ルカはそれを《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書として提示します。この本来目に見えない神の言葉である福音が歴史上の出来事として起こり、その中に自らの本質を開き示していく相を、わたしは「福音の史的展開」と呼んでいます。わたしは、この「福音の史的展開」を跡づけて、その中で福音の本質を追究することを生涯の課題としていますが、それはルカがしたことを現代においてしようとしていることに他なりません。
 ルカはこの課題を成し遂げようとして、第一巻(福音書)を書きあらわしました。しかしその課題は、イエス・キリストの出来事を語る第一巻だけで終わることはできませんでした。ルカは、このイエスの復活後、この方をキリストとして世界に宣べ伝えた使徒たちの働きを見ています。彼らが宣べ伝える「福音」と、その結果歴史の中に生み出され、歴史の中に歩む「キリストの民」《エクレーシア》を見ています。それも「わたしたちの間で実現した事柄」、神の働きの歴史的展開に他なりません。ルカは第二巻(使徒言行録)を書きあらわして、イエス復活以後の福音の史的展開を文書にします。その序文(使徒言行録一・一〜二)は、これが同じ著者による第一巻の続編であることを示すだけの短いものですが、その意図とか性格は第一巻と変わりません。福音書の序言で示した著作の目的と性格は、この第二巻にも続いています。

完成と継続 ― ルカの救済史

 ルカは、「わたしたちの間で実現した事柄」という文で、「実現した」を「満す」とか「成就する」という動詞の完了形・受動態で表現しています。この動詞は、(マルコやマタイで)預言の成就について用いられる「満たされた、成就した」という動詞とは少し違う形ですが、同系の動詞です。ルカはこの動詞で、イエス・キリストの出来事によって神の救済の働きが「完成に達した」ことを指し示しています。しかし、イエス・キリストにおいて完成に達した神の救いの働きは、なお地上の歴史の中で展開すべき未来をもっています。これは、その救いを受ける人間が時間の中にいるかぎり、すなわち歴史の中にいるかぎり必然の相です。
 最初キリストの福音は、預言された終末の到来として告知されました。キリストの十字架と復活において実現した救いは、すぐにも栄光の中に来臨されるキリストによって完成するという、差し迫った終末的告知でした。使徒時代にはまだその終末待望が熱く燃えていましたが、使徒後の時代、すなわち「使徒名書簡」の時代では、「来臨の遅延」が大きな問題になっていました。すなわち、終わりの日と重ねて語られていたエルサレム神殿の崩壊の後もキリストの来臨はありませんでした。七〇年の神殿崩壊以後の時代の指導者たちは、キリストの民《エクレーシア》にこの問題にどう対処するのかを語らなければなりませんでした。
 この時代のキリストの民は、いつ来るのか分からないキリストの来臨による完成までの長い期間を、地上の歴史の中を歩んで行く覚悟をしなければならなくなっていました。エルサレム神殿の崩壊後のこの時代、イスラエルに代わって成立した、おもに異邦人から成るキリストの民《エクレーシア》が、イエス・キリストにおいて完成した神の救済を担って、歴史の中を歩む使命が与えられていることを、この時代の終わりに生きたルカはしっかりと自覚しています。神はキリストにおいて終末的な救済の業が実現した後も、歴史の中でその救済の働きを進められるのだという新しい救済史の思想(神学)が自覚されます。ルカはその自覚で、福音の史的展開を物語る《ディエーゲーシス》(歴史的説明)の文書二巻を書き著します。このようにして、ルカの著作は、この時代の《エクレーシア》の救済史的自覚を表現する文書となります。
 ルカはパウロ主義者です(このことの意義は後述)。ルカはパウロの救済史的唯一神信仰を受け継いでいます。しかし、ルカの救済史理解は微妙にパウロと違ってきています。パウロはヘレニズム・ユダヤ教の救済史の枠でキリストの出来事と終末的完成を見ています。すなわち、神は終わりの日にメシアを送ってイスラエルを救われる、そのイスラエルに異邦諸国民が加わることによって、世界に対する神の支配が完成するという図式です。パウロが活動した時期には、まだエルサレム神殿は健在でした。パウロは自分の世代において、イスラエルを中心とする神のご計画が成就するとして、世界の果てまで福音を告げ知らせようとしました。それに対してルカは、エルサレム神殿が破壊されて、それによってイスラエルが神から退けられたとせざるをえない時期に筆を執っています。ルカにとって救済史の担い手は異邦人からなる《エクレーシア》です。「異邦人の時代」が始まっています。このような状況から、ルカの著述には二つの主題が現れてきます。一つは神の救済史の担い手がユダヤ人から異邦人に移ったこと、もう一つは救済史の担い手であるキリスト信仰共同体《エクレーシア》は、これからの長い歴史の中での歩みを通して、キリストにおける神の救済の業を証言していかなければならないことです。ルカはこの二つの主題をイエスの働きを語る福音書と、最初期共同体の働きを語る使徒言行録の二部作で展開することになります。

歴史家ルカ

 このようにルカには重要な神学的主張がありますが、それを《ディエーゲーシス》(歴史的説明)という形で提示するために、ルカはイエスから始まり、使徒たちに継承された福音の歴史的展開を物語る二部作を構想します。そのためにルカはその出来事が起こった土地を広く旅して資料を集めます。古代の歴史家はなによりもまず旅行家でした。「歴史の父」と呼ばれるヘロドトス(前5世紀のギリシアの歴史家)は、同時に古代ギリシア最大の旅行家でもあり、直接の見聞を求めて東方世界を広く旅し、エジプトからインダス川にまで行っています。その見聞を基にして大著「歴史」を書きます。また、ローマの勃興期を描く「歴史」を書いたポリュビオス(前2世紀のギリシア人歴史家)は、スキピオに従って地中海各地を広く旅し、ポエニ戦役のことを書くためにハンニバルの全行程を自分で歩いたと伝えられています。
 ルカもまた旅行家でした。「われら章句」の著者は、旅行、とくに航海のことに詳しく、体験も豊富であったことがうかがわれます。著者は、少なくともパウロの最後の時期の伝道旅行に同行し、マケドニアからアカイア州を経てパレスチナ・シリアの地に行き、最後はローマまで旅して、各地の実態を自分の目でつぶさに見ています。さらに、パウロ亡き後も広く旅行をして、行き先の各地で関係者から証言を集め、その地方の伝承を聞き取っていたはずです。文書があれば、当然その写しを持って帰ったことでしょう。そのことをルカ自身がこう言っています。

 「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています」。(ルカ一・一〜二)

 「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」(使徒たち)が語り伝えたことを「書き連ねて」文書にする動きも、すでに始まっていました。そのような試みについて、「多くの人々が既に手を着けています」と言っています。ルカは、そのような文書を《ディエーゲーシス》(歴史的説明)と呼んでいます。
 このような文書の中に、マルコ福音書が含まれていたことは明らかです。ルカはマルコ福音書に基づいて自分の福音書を書いています。また、イエスの語録を集めた「語録資料Q」も手元に持っていたはずです。他にも、イエスの奇跡集なども持っていたことでしょう。このような文書資料だけでなく、ルカは各地で集めた証言や伝承を資料として持っていました。そのことは、ルカ自身が「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので」(ルカ一・三)という表現で示唆しています。

護教文書としてのルカ二部作

 歴史家としてのルカは、これらの資料を用い、その内容を「順序正しく書いて」この二部作を著述します。この著述の目的は、先に見たように、これを読む者が、「受けた教えが確実なものであること」を確認するための《ディエーゲーシス》(歴史的説明)とするためです(ルカ一・三〜四)。そして、このような「歴史的説明」の書を献呈する意図を、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」からだとします。献呈する相手の人物は、すでに「教えを受けている」者とされています。すなわち、この「歴史的説明」の書は、すでに信者である人たち、キリストの民《エクレーシア》内部の人たちに宛てて書かれています。彼らが、自分たちの受けた教えが歴史上に実現した出来事という確実な根拠に基づいていることを確認して、信仰を確かなものにするために書かれた書です。
 同時に、この書が「テオフィロ」に献呈されている事実は、この「歴史的説明」の書が、外のローマ社会の人々に向かって、キリストの民の信仰を弁証するために書かれた書であることを示唆しています。というのは、「テオフィロ」につけられた《クラティストス》という語は、高位高官の人物に敬意をもって呼びかけるときの敬称(英語 Most Excellent)ですから、この人物はローマ社会を代表する教養ある高位の人物であり、ルカはこの人物にこの書を献呈するという形で、ローマ社会に向かって、この信仰が「わたしたちの間で実現し、最初から目撃した人々がわたしたちに伝えた」確かな歴史的出来事に基づくものであり、それを報告することでその確かさ、健全さを説明しようとしていることになります。このように、外の人たちに向かって自分の信仰の根拠と内容を説明し、外の人たちの承認や同意を得ようとする文書を「護教文書」と言い、そのような著作をもって世に働きかける著作家を「護教家」と呼びます。ルカの著作は、そのような「護教文書」のはしりです。ルカの後に出た二世紀の多くの「護教家」は、ローマ皇帝などローマ社会を代表する人物に宛てて、多様な護教文書を書くことになります。ルカの二部作には、このような護教文書としての性格が見られます。

ルカの資料

 そこで、ルカがこの二部作を著述するさいに用いた資料について、簡単に見ておきます。共観福音書の成立に関しては、現在では二資料説が広く認められています。これは、マルコ福音書が最初に成立し、マタイとルカはマルコ福音書とイエス語録資料(略号はQ)という二つの資料を用いて、それぞれの福音書を書いたと見る説です。そのさいマタイとルカは、それぞれだけが持っている独自の資料も用いたとされ、マタイの独自資料はM、ルカの独自資料はLという略号で呼ばれています。
 ルカが福音書を執筆した一世紀末には、七〇年前後の成立と見られるマルコ福音書は広く流布していて、ルカもそれを自分の福音書の基本的な枠組みとして用いることができたと考えられます。ただ、それが現在わたしたちが手にしているマルコ福音書と同じものか、または、それ以前の版の「原マルコ福音書」と呼ぶべきものであったかは議論されていますが、この問題は当面のわたしたちの課題には取り上げなくてもよいと考えられます。ルカが用いたイエスの語録資料(Q)も、マタイが用いたものと同じ版であるのか、または違う版であるのかが議論されていますが、これもここではとりあげる必要はないと考えられます。必要なときに講解で触れることにします。
 ルカ福音書だけに現れる特殊な伝承は、ルカ独自の資料(L)からと見られますが、この資料がどのようなものであったのかが問題になります。先に見たように、歴史家ルカは福音運動に関わる地域を広く旅行して、直接目撃証人から聞き取り、またその地の伝承を集め、流布している文書を持ち帰り、自分の福音書執筆のさいの資料としていると考えられます。詳しいことは専門書に委ね、ここではルカの特殊資料の一部に関してごく概略を見ておきます。
 ルカはアンティオキアで得られた資料(アンティオキア資料)を用いていると見られます。ルカはアンティオキアで「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」(使徒一三・一)と接触し、おそらく彼を通して「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」(ルカ八・三)を知ったと推察されます。このようなヘロデに近い人物を通して、イエスに対するヘロデの態度や扱いを知ることができ、ルカだけがそれを福音書に取り入れることができた(ルカ一三・三一〜三三、二三・七〜一二)と考えられます。ルカは使徒言行録でアンティオキア集会のことを詳しく報告しています。

フィッツマイアはルカをアンティオキア出身の人と見ています。しかし、「われら章句」の著者と見ると(後述)、マケドニアの出身とも推察されます。ルカの出身地はあまり重要ではないでしょう。ルカがどこの出身であっても、地中海世界(とくにエーゲ海地域)を広く旅行したり居住して、活動したことを知るだけで十分でしょう。ルカは晩年はエフェソで活動したと考えられます。ルカの墓がエフェソにあります。

 ルカは、パウロの最後のエルサレム行きの旅に同行し、カイサリアに上陸しています。カイサリアは伝道者フィリポの活動拠点であり、パウロ一行はエルサレムに入る前の数日彼の家に泊まっています(使徒二一・八)。パウロはエルサレムで逮捕されてカイサリアに護送され、そこで二年間拘禁されますが(使徒二四・二七)、ルカも二年間カイサリアに滞在したと見られます。この二年間にルカはフィリポから彼自身の活動の経緯だけでなく、最初期のエルサレム共同体やその活動を詳しく聞くことができたはずです。このフィリポは(十二弟子の一人のフィリポではなく)七人の《ヘレーニスタイ》伝道者の一人であり(使徒六・五)、サマリアから沿岸地方に伝道し、カイサリアを拠点として活動した人物です(使徒八章)。このフィリポから聞き、カイサリアに伝えられている伝承を集め、ルカはカイサリアで多くの資料(カイサリア資料)を得たことと推察されます。
 ルカはエーゲ海地域で活動したと考えられますが、この地域の中心地でありパウロの最晩年の活動拠点であったエフェソと当然密接な接触があったとしなければなりません。エフェソにはパウロに関する伝承が多く残されていたと考えられ、ルカはそれを利用することができたでしょう。エフェソでは一世紀末にはパウロ書簡集(牧会書簡を除く十書簡)が成立しており、使徒言行録の執筆にさいしてルカはそれを資料として用いることができました(ルカとパウロ書簡集の関係については後述)。
 ルカがエフェソで得た資料(エフェソ資料)には、パウロに関するものだけでなく、ヨハネ共同体と共通の資料があるようです。ヨハネ共同体はユダヤ戦争の前後の時期にパレスチナ・シリア地域からエフェソへ移住したと考えられ、パレスチナの最初期の伝承をエフェソに携えてきていたと推察されます。ルカのエルサレム中心主義はヨハネの影響であると見る学者もいます。また、ヨハネ共同体を率いた長老ヨハネは、イエスから母マリアを託された弟子として、エフェソにマリアを伴ってきていたので、ルカはマリアから出たイエスの誕生と幼少時代に関する伝承を聴いていた可能性があります。
 ルカは、皇帝に上訴してローマに護送されるパウロに同行し、パウロがローマで監禁されていた二年間をローマで過ごしたはずです。そうすれば、当時ローマにいたプリスキラ・アキラ夫妻や、パウロよりも前から使徒として働いていたアンドロニコとユニア(おそらく夫妻)などの有力な働き人たち(ローマ一六・三以下)から、イエスに関する伝承や使徒たちの働きについて詳しく聞くことができたと考えられます(ローマ資料)。

著者問題

 さて、このような「福音の史的展開」を物語る重要な二部作の文書を著した「ルカ」とはどのような人物でしょうか。これまで著者を「ルカ」と呼んできましたが、この二部作の著作自体には、著者が「ルカ」であることを指し示す文言はありません。古代教会の伝承において(エイレナイオス以来)、この二部作はパウロ文書(パウロ書簡とパウロ名書簡)にパウロの同伴者・協力者としてその名前が出てくる「医者のルカ」(フィレモン二四節、コロサイ四・一四、テモテU四・一一)が書いたとされてきましたので、伝統的に「ルカ」の著作とされてきました。本書でも、この二部作の著者を、この教会伝統に従って「ルカ」と呼んでいますが、著者が誰であるか、その人物像を正確に描くことはできません。

ギリシア語新約聖書には、《ルーカス》という名が(ここにあげた)三カ所に出てきます。この《ルーカス》は、フィレモン書では「わたしの協力者(同労者)」、コロサイ書では「愛する医者ルカ」、テモテ書では「ルカだけがわたしのもとにいる」と言われています。二部作の著者が医者であることについては、医者特有の術語が少ないことから、これを否定する議論もありますが、当時の医者の実態からすると決定的な根拠にはならず、医者であることを示唆する箇所もあり、医者であったとする伝承は受け入れてよいと考えられます。
 なお、新約聖書には《ルーキオス》という名が二カ所に出てきます。使徒言行録(一三・一)では、アンティオキア集会の指導者の一人として、バルナバやサウロ(パウロ)と並んで「キレネ人のルキオ」という形で、そしてローマ書(一六・二一)では、パウロの同行者の一人として、ヤソンとソシパトロと一緒に、「わたしの同国人ルキオ」という形で出てきます。この二カ所の《ルーキオス》はユダヤ人ということになります。《ルーカス》は《ルーキオス》の短縮形で、この二つの名前は同一人物を指すのではないかという推定が行われています。《ルーキオス》はローマ書では、これから献金を携えてエルサレムに向かうパウロの同行者として名をあげられていますので、テモテ書でローマでの監禁中のパウロのもとにいる《ルーカス》と同一人物であるとすれば、その後最後までパウロと同行した「われら章句」の記録者(後述)として、つじつまが合います。しかし、この推定は根拠が弱く、確認することは困難です。

 この二部作の著者がユダヤ人であるのか異邦人であるのかが議論されています。コロサイ書(四・一〇〜一四)の文面では、ルカはパウロの同国人(=ユダヤ人)のリストとは別のグループにあげられているので、ルカの出自は異邦人であるとされてきました。さらに二部作の文体は、洗練されたギリシア語と高度のギリシア文学の教養を示しており(そのギリシア語の文体は新約聖書の著者たちの中でも最高の洗練を示しています)、内容も異邦人向けに書かれていることから、当然のように著者はギリシア人(=異邦人)とされていました。
 しかし最近、二部作の著者はユダヤ人ではないかという議論が強くなっています。たしかに、そのユダヤ教に対する態度や詳細で多彩な聖書引用や聖書に基づく議論は、著者がユダヤ人であることを推察させる面があります。ただ、その生まれは異邦人であっても、当時の最高のギリシア的教養を身につけた後ユダヤ教に改宗したか、少なくとも「神を敬う者」としてユダヤ教会堂で信仰生活を送った人物である可能性も考えられます。
 著者が異邦人であるかユダヤ人であるかは、この場合あまり意味がありません。ユダヤ人であっても、ヨセフスやフィロンの場合に見られるように、ギリシア的環境で生まれ育ったディアスポラのユダヤ人には、高度のギリシア語とギリシア的教養の人物は珍しくありません。また、著者が異邦人であっても、入信後数十年もすれば、長年聖書(ギリシア語旧約聖書)に親しみ、ユダヤ教的な思想を深く身につけていることは十分あり得ることです。その出自がいずれであれ、この二部作の著者は、高度のギリシア的教養と深い聖書とユダヤ教への理解を身につけた教養人であったことは確かです。エーゲ海地域のヘレニズム世界に展開したキリスト信仰は、使徒名書簡の時代の後期に、その諸潮流を統合する最適の人物を見出したと言えるでしょう。
 著者問題において問題になるのは、「使徒言行録」の旅行記の中に出てくる「われら章句」です。「われら章句」というのは、「使徒言行録」の旅行記の中で、主語が「わたしたちは」となっていて、その旅行記を書いた人物自身がその旅行に参加していることを示している部分です。この「われら章句」は、パウロの旅行のトロアスからフィリピまで続き(一六・九〜一七)、フィリピでいったん途切れ、ずっと後にパウロが第三次旅行からの帰途にフィリピを訪れるときに再び現れ(二〇・五)、それ以後最後まで、フィリピからミレトスへの旅(使徒二〇・五〜一五)、ミレトスからエルサレムへの旅(二一・一〜一八)、カイサリアからローマへの旅(二七・一〜二八・一六)という旅行記に現れます。そうすると、この旅行記の著者はトロアスでパウロ一行と出会い、ひとまずフィリピまで同行し、パウロがそこを去った後もフィリピに滞在し、パウロが第三次旅行から帰ってきたときフィリピで再び一行に加わり、終わりまでずっとパウロに付き添ったと推定されます。この事実から、この「われら章句」の著者はフィリピ出身の人物ではないかという推察もあります。
 この「われら章句」については、三つの見方があります。1.古代教会(エイレナイオス)以来、この旅行記の著者は使徒言行録の著者であるルカ自身であるとする伝統的な見方。2.実際にこの部分の旅行に参加した別の人物の旅行記をルカが資料として利用したという見方。3.この「われら章句」はルカの文学的創作であるとする見方です。現代の研究者には、2と3の見方が多いようです。
 六〇年にはローマで拘禁されていたパウロの伝道旅行に同行したのが二〇歳前後のルカだとすれば、一世紀末(一〇〇年)には六〇歳前後となり、使徒言行録を書いたと見られる一二〇年頃(後述)には八〇歳前後となります。わたしたちはこの二部作の著者を、若き日にパウロの後期の伝道活動に同伴し、最後の監禁の時期まで見届けた「医者のルカ」であるとする伝統的な見方も(使徒言行録の成立を一二〇年頃としても)年代的に可能であり、そのような見方に立って読んでも特別の不都合はないと考えます。

二部作の構想

 ルカの二部作が現在新約聖書に収められている形で出来上がったのは、(その経緯は後の諸項目で詳しく見るように)二世紀に入ってから、おそらく一二〇年代前半であると見られますが、その構想は、異邦人共同体の進展や来臨遅延の問題が顕在化した七〇年以後の最初期後期にすでに胎胚しており、その構想に従って少なくとも福音書は書き始められていたと考えられます。その構想は、出来上がった二部作から推察することになりますが、ルカはイエスによってガリラヤから始まった福音活動がエルサレムに至り、さらに使徒たちによってエルサレムから帝国の首都ローマに達するまでの福音の歴史的進展を描こうとします。
 このような地理的な進展がルカの二部作の大枠を形成します。第一部(福音書)では、イエスによって担われた福音がガリラヤからエルサレムまで進む過程が叙述されます。そして第二部(使徒言行録)では、使徒たちに担われたキリストの福音がエルサレムから始まってローマに到達する過程が物語られます。この地理的な進展は、福音の担い手の地理的な移動、すなわち旅の姿で描かれます。従って、ルカの二部作は「旅の書」の様相を示すことになります。これはルカ自身が「旅の人」であったからでしょう。
 第一部(福音書)については、イエスがガリラヤからエルサレムに行かれたことはどの福音書にも記述されていますが、ルカ福音書においては、ガリラヤからエルサレムに向かうイエスの旅が、ガリラヤでの「神の国」の活動と、エルサレムでの受難と復活の出来事と並んで、福音書の主要部分を形成しています。この旅の部分(ルカ九・五一〜一九・二八)は「ルカの旅行記」と呼ばれ、その分量からも特色ある内容からも、この区分が重視されていることが分かります。この部分は、モデルとしているマルコ福音書から大きく離れて、ルカ独自の性格を示しています。他の部分はほぼマルコ福音書に従っていますが、この「旅行記」では、ルカだけに見られるイエスの語録やたとえを多く取り入れています。たとえば、ルカだけに伝えられている有名な「放蕩息子」、「失われた銀貨」、「よいサマリア人」などのたとえ話は、みなこの「旅行記」に収められています。ルカだけの独自の内容を収めた部分(九・五一〜一八・一四)は、この「旅行記」の大部分を占めています。
 第二部の使徒言行録が「旅の書」であることは、一読して明らかです。フィリポのサマリアから沿岸地方への宣教の旅、ペトロのカイサリアに至る旅など、使徒たちの旅によって福音はエルサレムから各地に広まっていきます。エルサレムから追放された「ヘレニスト」(ギリシア語を用いるユダヤ人)によって設立されたアンティオキア集会から、ユダヤ教の枠を超えた伝道活動が始まり、それはヘレニズム世界に広く離散していたディアスポラ・ユダヤ人の会堂を拠点としながら、周囲の異邦人世界へ拡大していきます。そのクライマックスはパウロの伝道旅行です。アンティオキアから始まったパウロの宣教活動は三次に及び、ついにローマに達します。
 このような地理的な進展という大枠をもって構想されたルカの二部作は、その構想に従って構成されているので、その構成は比較的見分けやすくなっています。二部作全体の構成は、著作への序文(一・一〜四)を別にして、大枠で以下にようになっていると見られます。

   第一部 福音書―イエスの言行録
導入部   誕生物語と幼児物語(一・五〜二・五二)、 イエスの登場(三・一〜四・一三)
第一主要部 ガリラヤでの「神の国」宣教活動(四・一四〜九・五〇)
第二主要部 エルサレムへの旅(九・五一〜一九・二七)
第三主要部 エルサレムでの受難と復活(一九・二八〜二四・五三)

   第二部 使徒言行録
導入部   イエスの歴史から使徒たちの歴史への移行           一章
第一主要部 エルサレム原始共同体とその福音活動―ペトロが主要な担い手  二〜一二章
第二主要部 パウロの異邦人伝道                     一三〜二八章

なお、使徒言行録一・八の綱領的宣言に基づいて、使徒たちによる福音の進展を T エルサレム(一〜七章)、 U ユダヤとサマリア(八〜一二章)、 V 地の果て(ローマ)まで (一三〜二八章)という三段階に分ける見方もあります。

二部作の構成原理

 ルカも、福音の基本的原理として「預言と成就」の図式を重視していますが、イエスの生涯の個々の出来事が聖書の預言の成就であるとして聖書箇所を引用することは、マタイ福音書に較べるとずっと少なくなっています。聖書を知らない異邦人読者には、福音は聖書(古い契約)の成就であるとする総論は告知しているが、具体的な適用という各論は省略していることになります。
 しかし、ルカがその著述を二部作という形で構成したことから、預言と成就の図式にルカ独自の形が出てきています。すなわち、第一部でのイエスの言動が預言となり、それが第二部の使徒たちの働きにおいて成就しているという構造が見られます。ルカにおいてはイエス自身が預言者であり、イエスが語られた言葉や為された働きが、イエス復活後のキリスト者の共同体《エクレーシア》において実現しているという図式で、その二部作が構成されることになります。
 この図式で最も重要な事例は、イエスが御自身の十字架の受難と復活について、それが神的必然であるとして予告・預言されたことが、使徒たちの宣教において、すでに実現した過去の出来事として告知されていることです。
 イエスは御自分に従う弟子たちが周囲から迫害を受けるときに喜ぶように語られましたが(ルカ六・二二〜二三)、使徒言行録では、迫害された使徒たちが喜びに満たされ(五・四一)、集会も迫害の中で喜びに溢れたことが伝えられています。イエスは弟子たちが証のために法廷に引き出されることを預言されましたが(ルカ一二・一一〜一二など)、使徒言行録には使徒たちが会堂や最高法院、また総督の法廷に引き出されてキリストを証ししたことが数多く物語られています。イエスは「大宴会」のたとえで、福音はまずユダヤ人に与えられるが、ユダヤ人が拒んだので異邦人に向かうことを預言されましたが(ルカ一四・一五〜二四)、それは使徒たちの働き、とくにパウロの働きにおいて、その通りに実現します。パウロは繰り返しユダヤ人に、「あなたたちが拒むので、わたしは異邦人に向かう」と宣言して、その福音の働きを進めていきます。
 ルカ福音書は他の福音書に較べて、イエスを預言者として描くことが多いようです。とくに、ルカはイエスを申命記(一八・一五)で預言されている「モーセのような預言者」として描いています。ペトロは、申命記の預言を引用してイエスを「モーセのような預言者」とし、この方に聴き従うように呼びかけています(使徒三・二二)。ステファノは最高法院で弁明したとき、昔のイスラエルの民がモーセに従わなかったように、今のイスラエルは約束された「モーセのような預言者」であるイエスに背き、この方を殺したと、イスラエルを非難しています(使徒七・三七、五二)。終わりの日にイスラエルに遣わされる「モーセのような預言者」を拒んだために、イスラエルは見捨てられ、異邦人が神の民として選ばれることになったという見方が、ルカの二部作には貫かれています。
 ルカの二部作には、預言と成就という関係ではありませんが、第一部と第二部の記述に「対応関係」が見られます。すなわち、第一部でイエスについて語られたのと同じこと、またはそれに相応する出来事が第二部の使徒たちの働きや共同体についても語られるという関係です。この対応構造は、同じ一つの福音を二部作で提示するルカの著作に必然的に伴う構造であると言えるでしょう。
 その中でまず第一にあげるべきことは、第一部のイエスの働きや出来事と、第二部の使徒たちの働きや出来事が、ともに聖霊の働きとして記述されていることです。第一部では、幕が上がる前の序曲というべき誕生物語でも、イエスの誕生は聖霊によるものであることが強調されています。第一部での宣教の働きは、イエスが上より聖霊を受け、聖霊の力に満たされて、預言の成就として御霊の到来を宣言されることから始まります(ルカ三・二二、四・一、一四、一六〜二一)。それに対応して第二部での宣教も、使徒たちが聖霊を受けて力に満たされ、終わりの日の預言の成就として聖霊が降ったという宣言から始まります(使徒一・八、二章)。その後に続くイエスの働きも、使徒たちの働きも、聖霊によるものとして繰り返し記述されます。
 イエスは「神の国」を宣べ伝えられました(ルカ四・四三など多数)。使徒たちも「神の国」を宣べ伝えたとされています(使徒一九・八など多数)。しかし、第二部では、使徒たちは「神の国と主イエス・キリストの御名」を宣べ伝えたとされることが多くなります(使徒八・一二など)。実際には使徒たちは「キリストを宣べ伝えた」(使徒八・五)という方が事実に近いと考えられます。使徒たちは、イエスを復活されたキリストとし、その十字架の死を罪の贖いとして告知したはずです。それを「神の国」の告知としたのは、むしろルカが使徒たちの福音告知をイエスの福音告知と対応させるために用いた表現であると考えられます。
 イエスは神の霊によって多くの力ある業(奇跡)を行われました。使徒たちも、それに対応する奇跡を行っています。イエスは病人を癒されました。使徒たちも多くの病人を癒します(使徒五・一五〜一六)。イエスは手や足の麻痺した人を癒されました。使徒たちも麻痺した人を癒します(使徒三・一〜一一)。イエスは悪霊を追い出されました。弟子たちも悪霊を追い出します(使徒八・七など)。イエスは死者を生き返らせました。使徒たちも死者を生き返らせます(使徒九・三六〜四三)。このようにルカは、使徒たちが行った多くの奇跡の中から、イエスの奇跡に対応するものを代表的な事例として列挙して、使徒たちの働きを記述しています。
 第二部の最後はパウロのエルサレムへの旅、逮捕、裁判、ローマへの護送というパウロの受難記になっています。パウロの最後は(おそらく意図的に)伏せられていますが、このパウロの受難記は多くの点でイエスの(エルサレムへの旅を含む)受難物語に対応しています。たとえば、パウロのエフェソの長老たちへの別れの言葉(使徒二〇・一七以下)は、イエスの最後の食事の時の訓話に対応しています。福音書がイエスの受難物語で終わるように、ルカは第二部を、使徒たちを代表する人物の受難記で終わらせています。
 第一部(福音書)と第二部(使徒言行録)との間だけではなく、第二部(使徒言行録)の前半の第一主要部と後半の第二主要部の間にも対応関係が見られます。前半の第一主要部の主要人物であるペトロと、後半の第二主要部の主要人物であるパウロについての記述において、ペトロがしたことやその身に起こったのと同じこと、またはそれに対応することをパウロはしており、またその身に起こっています。たとえば、ペトロは神殿で足の萎えた人を立ち上がらせ、その奇跡に驚いたエルサレムの民衆に最初に福音を説いています(三章)。パウロは異邦人への伝道旅行で、足の萎えた人を立ち上がらせ、驚いた民衆に福音を宣べ伝えます(一四章)。ペトロはヘロデ王によって投獄されますが、天使の働きで獄舎から救出されます(一二章)。パウロもフィリピで投獄されますが、地震によって奇跡的に獄から逃れます(一六章)。(ペトロとパウロの対応関係について詳しくは後述)

U ルカによる福音書の執筆

ルカとマルコ福音書

 マルコ福音書はユダヤ戦争前後の時期に成立し、七〇年以後の「最初期後期」にはパレスチナ・シリアやエーゲ海地域に流布し、筆頭使徒のペトロから出た伝承に基づくものとして重んじられていたと見られます。ルカもこの福音書の写しを所有し、それを基にして自分の福音書を書いたと考えられます。ルカはその基本的な構成においてマルコに従っています。すなわち、ルカはマルコと同じく、1 ガリラヤにおけるイエスの「神の国」告知の働き、2 エルサレムへの旅、3 エルサレムでの受難と復活、という三部構成で福音書を構成します。
 しかしながら当然、ルカはマルコ福音書を引き写したのではなく、ルカ独自の福音書を著述します。たんに手元にある伝承資料を並べて一書を著したのではなく、ルカが置かれている状況において、自分の福音書理解(神学)を主張するために、伝承資料を編集・配置してルカ独自の福音書を世に送り出します。主要な点でのマルコ福音書との異同をあげると次のようになります。
1 ルカ福音書には、マルコ福音書にはない誕生物語(一〜二章)と復活されたイエスの詳しい顕現物語(二四章)があります。しかし、もともとのルカ福音書は三章一節から始まり、マルコ福音書と同じく、洗礼者ヨハネの活動から始まり空の墓の記事で終わっていたと見られます。この部分の前に置かれた誕生物語(一〜二章)と、その後に置かれた復活されたイエスの顕現の物語(二四章)は、後で付加された部分と考えられます。このことについては、本節後半でルカ二部作成立の経緯を扱うところで詳しく議論されることになります。
2 ルカは、第一部「ガリラヤでの福音告知の働き」と第三部「エルサレムでの受難と復活」ではほぼマルコに従っていますが、第二部「エルサレムへの旅」では大きくマルコから離れ、その区分にマルコにはない材料(「語録資料Q」やルカの特殊資料)を置き、その区分をルカが自由に自分の物語を語ることができる一種の物語空間にしています。この部分は「ルカの旅行記」と呼ばれますが、それは分量においても第一部と第三部を凌ぎ、内容も福音の多彩な面を描いており、ルカ福音書の特色を示す部分になっています。
3 マルコでは第一部の終わりに置かれている故郷ナザレでのイエスの働きは、ルカでは最初に置かれ、特別に詳しく記述されています。それは、ルカがそこで自分の福音告知の主題(選ばれた民であるイスラエルがメシア・イエスを退けること、イスラエルに代わって異邦人が救済史を担うようになること)を綱領的に提示する場となっています。
4 ルカはマルコの記事を大きく削除(省略)しています。ルカは荒野でイエスが五千人にパンをお与えになった記事の後、湖上を歩かれたこと、弟子を連れて北方のティルス、シドン、デカポリス地方を旅された記事、もう一度四千人に食べ物をお与えになったことを伝えるマルコ(六・四五〜八・二六)の長い記事を削除しています。これは「ルカの大削除」と呼ばれていますが、他にも大小の削除が多くあります。異邦人読者には必要ないとしたのか、繰り返しを嫌う著述家の傾向からか、その理由は様々に推察されますが、中には受難を予告されたイエスをペトロが諫めた記事や、ヤコブとヨハネの兄弟が神の国でよい地位を求めた記事の削除という神学的に重要な意味をもつ場合もあります。
5 その他、ルカはマルコの記述や表現を変更しているところが多くありますが、そのような変更にルカの福音理解の傾向や姿勢がうかがわれます。それらは個々の講解に委ねざるをえません。

異邦人向けの福音書

 ルカ福音書とほぼ同じ時期に成立した福音書にマタイ福音書があります。マタイ福音書とルカ福音書は、同じようにマルコ福音書を基本的な枠組みとして用いていることと、共通のイエスの語録資料を用いていることから、共通点が多く、マルコ福音書を含めて三つの福音書が「共観福音書」と呼ばれることになります。しかし、マタイ福音書とルカ福音書は、その成立事情から、対照的な性格を見せています。それで、今回の主題であるルカ福音書の性格を際だたせるために、マタイ福音書と比較しながら、ルカ福音書の特質を見ていくことにします。
 両者の基本的な違いは、マタイがユダヤ人キリスト者に向かって書いているのに対して、ルカは異邦人キリスト者を対象として著述していることです。マタイ福音書が、マルコ福音書を基本的な枠組みとして用いながらも、ユダヤ人読者のためにかなりマルコ福音書を改訂し、また、ユダヤ教の枠内で伝承された「語録資料Q」を拠り所として主要な内容としているなど、律法(ユダヤ教)の立場を維持しようとしています。マタイ福音書を生み出したシリアのユダヤ人信者の共同体(マタイ共同体)は、すでにユダヤ教会堂から出て、別の信仰共同体として異邦人社会に乗り出そうとしています。そのため、その内容は異邦人にも呼びかけるものとなっています。何よりも異邦人社会の言語であるギリシア語で書かれていることが、この福音書の異邦人社会に向かう姿勢をよく示しています。しかし、著者はユダヤ教律法学者の出身であると見られ、読者もユダヤ人共同体であることから、この福音書にはユダヤ教的な体質が色濃く残っています。
 それに対してルカ福音書は、パウロの異邦人伝道の成果として形成されたエーゲ海地域で、しかもその構成員のほとんどが異邦人出身者になった時期に成立しています。著者のルカが異邦人であるかユダヤ人であるかは確認できませんが、先に見たように、どちらであるにせよ、著者はギリシア・ローマ世界の高い教養をもち、異邦人の視点から著述を進めています。使徒名書簡の時代(七〇年のエルサレム陥落以後)は、もはや律法(ユダヤ教)との関係が問題にならなくなるほど、ユダヤ人の影響は小さくなっています。このような異邦人諸集会が活動しているエーゲ海地域で、このような時代の末期に成立したルカの二部作が異邦人向きの著作となるのは当然です。
 一方ルカは、使徒たちが伝えた福音と信仰を継承維持することを使命としているので、ユダヤ人である使徒たちが当然のこととして拠り所とした聖書(旧約聖書)を信仰の拠り所として尊重しています。ディアスポラのユダヤ人として幼い時から身につけてきた知識か、または回心してから数十年の学びによって獲た知識かは確認できませんが、ルカは七十人訳ギリシア語聖書に精通しており、それを引用して(マタイと較べると事例はずっと少ないですが)議論を進めています。その結果、ルカの二部作は聖書的救済史の枠組みを基本的には保持しつつ、使徒名書簡の時代に見られたユダヤ教律法から自由になったヘレニズム的キリスト信仰を、高いギリシア的教養で表現する文書となっています。そのような性格からルカの二部作は、ヘレニズム世界に進出した使徒たちのキリスト宣教が、この使徒名書簡の時代の最後にとった形態として、福音の史的展開において重要な位置を占めています。

異邦人向けの表現

 ルカは、ギリシア語だけを用いている異邦人読者のために書いていますから、聖書やイエス伝承にあるヘブライ語やアラム語などセム語系の用語を用いないようにしています。たとえば、「アッバ」、「ボアネルゲ」、「エファタ」、「ホサナ」などマルコ福音書やマタイ福音書に出てくるセム語系の用語は、ルカの並行箇所には用いられていません。また、「ラビ」というヘブライ語は、「師、先生」とか、「主人、先生」という意味のギリシア語に変えられています。「ゴルゴダ」というヘブライ語の地名も省略されて、「されこうべの場所」という意味を表現するギリシア語だけになっています。「ゲツセマネ」という地名も出てきません。
 用語においては、共観福音書ではルカだけに出てくる「救い主」《ソーテール》という称号が注目されます。キリスト教二千年の歴史の中でイエスの称号として重視され、広く用いられてきたこの称号は、意外なことに新約聖書では最後期の一部の文書に現れるだけで、他の称号と較べると全体としては用例がきわめて少ないのです。この「救い主」《ソーテール》という称号は、パウロにも一例(フィリピ三・二〇)だけ見られますが、パウロ以後に少し用いられ(エフェソ五・二三)、最後期の牧会書簡に至って急増し、一〇例となります。また、最も遅い時期の文書であるペトロ第二書簡に五回出てきます。他には、ヨハネ福音書(四・四二)とヨハネ第一書簡(四・一四)に一例ずつ、ユダ書(二五)の一例だけです。それだけにルカがこの称号を四回(福音書で一・四七と二・一一の二回、使徒言行録で五・三一と一三・二三の二回)用いていることが目立ちます。
 この「救い主」という称号は、福音書の中で初期のマルコ福音書には用いられず、また後期でもユダヤ人向けのマタイ福音書にも出てきませんが、後期に異邦人向けに書かれたルカの二部作に出てくるようになります。これは、ルカ文書成立の環境が、牧会書簡のような最後期の文書の異邦人環境と似ていることを示唆しているのではないかと考えられます。牧会書簡の著者はルカではないかという説もあるくらいです。
 ギリシア・ローマ世界では、都市を侵略者から解放したり、世界に平和を樹立した将軍や皇帝が「救い主」という称号で称えられていました。異邦人読者には、メシアとか贖い主というようなユダヤ教的な称号よりも、この「救い主」という称号の方がずっと分かりやすく親しみやすい称号であったのでしょう。イエス・キリストは、イスラエルの「メシア」から「万民の救い主」へと変貌します。この世界での福音の展開を締めくくるような位置にあるルカの二部作で、この「救い主」という称号が用いられるようになるのも理解できます。ユダヤ教徒が汚れた異教徒たちを指すのに用いた「異邦人」《エスノイ》(複数形)という呼称は、ヘレニズム世界での宣教の場では世界の諸民族を指す用語となり、キリストは世界のすべての民の救い主として宣べ伝えられるようになります。「異邦人への使徒」、すなわち非ユダヤ教徒への福音を委ねられたパウロから出発した福音運動は、ルカの時代には世界の諸民族(万民)への救済使信として告知されることになります。

ルカ福音書の成立年代

 ルカ福音書はマルコ福音書を資料として用いているのですから、その成立はマルコ以後となります。そして、二世紀初頭に現れたマルキオンがルカが集成した福音書を自派の福音書として用いたのですから(後述)、一世紀末までには成立し、エーゲ海地域で用いられるようになっていたと見られます。そういう事情から、ルカ福音書の成立を八〇年代か九〇年代と見る説が通説となっています。ただし、この時期、すなわちマルキオン以前に成立し、マルキオンに知られていたルカによる福音書は、現在新約聖書に収められている形のルカ福音書(正典ルカ福音書)ではなく、三章一節から始まり空の墓の記事で終わる初期の形の福音書(初版ルカ福音書)であったと考えられます。この問題については、本節後半でルカ二部作成立の経緯を扱うときに詳しく議論することになります。

V 使徒言行録の成立時期

使徒言行録の成立年代に関する論争

 現代の研究者の大多数は二部作の成立をほぼ一世紀末、すなわち八〇〜九〇年代と見ています。これが通説であると見てよいでしょう。たしかにルカ福音書については、イエス伝承が広く伝えられ、マルコ、マタイ、ヨハネなどの他の福音書が成立した時期、すなわち七〇年のエルサレム陥落から一世紀末までの期間に、その骨組みが出来上がっていたと見てよいでしょう。しかし、使徒言行録については、その成立年代に問題が残ります。その成立年代は、使徒言行録の解釈と深く関わっていますので、ここで改めて成立年代の問題を取り上げます。
 使徒言行録の成立年代については、現代の研究者の見解はほぼ三つのグループに大別されます。

1 早期説―パウロが最後にローマで拘禁されていた二年の期間中、またはその直後として六〇年代とする説
2 中期説―エルサレム陥落以後で一世紀末までの間の成立とする説、現在の通説と言えます。
3 後期説―二世紀前半、一〇〇年から一五〇年の間と見る説
 
 早期説は聖書の記述を文面通りに理解しようとする保守派の研究者に多く見られますが、使徒言行録が福音書よりも後に成立したことを考慮すると、使徒言行録が七〇年のエルサレム陥落よりも前に成立したとすることは困難です。先に福音書の成立の章で見たように、最初の福音書であるマルコ福音書がほぼエルサレム陥落の前後に成立し、そのマルコ福音書を用いてマタイ福音書とルカ福音書が成立したのですから、ルカ福音書は少なくとも七〇年以後の成立となり(ルカ福音書は明らかにエルサレムの陥落を過去の出来事としています)、それより後の使徒言行録も七〇年以後となります。早期説は使徒言行録がエルサレム陥落という重大事件に触れていないことをその主張の主要な根拠の一つとしていますが、この点は中期説と後期説で十分説明されており、早期説は困難です。
 前著『ルカ福音書講解T』の序章で、わたしも通説の中期説に従って問題はないとして、ルカ二部作の成立を一世紀末としました。しかし、実際の成立年代を確定することは困難だとしても、ルカ二部作は新約聖書時代(新約聖書の諸文書が成立した時期)の最後に位置する文書であると見られることを指摘しておきました。それは、ルカ二部作が内容からすると、それまでの福音の展開の諸潮流を統合して、それ以後の福音の歴史的展開のためにレールを敷いたという位置づけができ、新約聖書時代とそれ以後の時代を結びつける「連結器」の役割を果たし、結果から見ると「正統派」はルカの路線をたどったと見られるからです。そのような視点から、この「福音の史的展開」という著作では、ルカ二部作を扱う章を最後に置いたわけです。
 ルカ二部作の位置づけをするために、ここでやむなく「正統派」という言葉を使いましたが、二世紀ではまだどの主張が「正統」で、どれが「異端」かは決められないような混沌とした状況でしたから、正統か異端かという視点で議論を進めることはできません。ただ二世紀に入ってからの福音の歴史的展開を検討している過程で、ルカ二部作の位置づけをするにさいして、二世紀前半に活動したマルキオンの影響が無視できないことが分かり、改めてマルキオンとの関わりの中でルカ二部作の成立、とくに使徒言行録の成立を二世紀に入ってからとする後期説を再検討する必要があると感じるにいたりました。そこで最近の研究を参照しながら、使徒言行録の成立年代について検討してみます。

後期説の検討のために用いた主要な資料は左記の著作です。
Joseph B. Tyson, MARCION AND LUKE-ACTS, ― A Defining Struggle ― University of South Carolina Press, 2006
本書は左記の著作の所説を継承、その後の批判に応えて発展させたものです。
John Knox, Marcion and the New Testament: An Essay in the Early History of the Canon,
University of Chicago Press, 1942
Knoxの著作はルカ文書の成立と正典成立史に関する主要な文献としてしばしば言及される重要なものですが、現在入手できませんので、 Tyson の著作を主要資料として検討します。

後期説の検討

 一九世紀後半にチュービンゲン学派を代表するF・C・バウアーが使徒言行録を二世紀前半の成立とする説を唱えて、反チュービンゲン学派の保守派(早期説が多い)から激しい反発を招き、論争を引き起こしました。「原始キリスト教」の歴史を「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」との拮抗の歴史と見るバウアーは、使徒言行録をペトロとパウロをほとんど同じ主張をする使徒として描くことで、両者が代表する「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」との対立を最小化し、両派の融和を図ろうとした文書であるとし、そのような試みは二世紀になって初めて可能であるとしました。

ここで「原始キリスト教」、「ユダヤ人キリスト教」、「異邦人キリスト教」という用語にカギ括弧をつけたのは、この時代に「キリスト教」という呼び方は適切でないので、わたしは用いていませんが、ここはバウアーの主張を紹介する文として、彼の表現をそのまま用いました。これらの用語の問題点については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』407頁の「『ユダヤ人キリスト教』と『異邦人キリスト教』という用語について」の項を参照してください。

 バウアーが引き起こした論争は、神学的な立場の違いから戦わされた論争という相がありますが、そのような神学的な立場の相違から離れて、文書の内容そのものから成立年代を示唆する事実を検討する必要があります。
 文書の内容に入る前に外証(文書の存在を示す引用など)を見ておきましょう。最近の有力な研究では(コンツェルマンなど)、ルカ二部作への明確な引用が見られるのは二世紀の半ば以降であるとし、最初の引用は護教家のユスティノス(その著作は一五〇年代)であるとされています。この事実は、ルカ二部作の成立が二世紀半ば以降ではないことを示すだけで、その成立が二世紀前半であることを証明するものではありません。しかし、その可能性を保証します。
 使徒言行録自身の内容から見ますと、その成立が二世紀に入ってからであることを示唆する事実が数点あります。第一は、七〇年のエルサレム陥落に対する姿勢です。たしかに使徒言行録はエルサレム陥落に言及していません。それが、使徒言行録は七〇年以前に書かれたとする早期説の根拠になっています。しかし、この事件以後に書く者は必ずこの事件に言及するはずだとする前提(早期説の前提)は間違っています。どのような大事件でも、事件以後年月が経つほど事件に言及する必然性は小さくなり、状況によっては無関心であることも起こります。七〇年のエルサレム陥落と神殿の崩壊というパレスチナ・ユダヤ人にとっての大事件も、(ヘンゲルも指摘するように)ディアスポラ・ユダヤ人にはそれほどの衝撃ではなかったようですし、地理的にも時代的にも遠く離れた一世紀末とか二世紀の異邦人社会では無関心であったのは当然のことです。使徒言行録がエルサレム陥落に言及していない事実は、その成立がその事件から遠く隔たっていることを指し示し、かえって後期説を補強します。
 第二は、使徒言行録の終わり方です。ルカはパウロのローマでの二年間の拘留生活の記述で著作を打ち切っています。その期間を「二年間」という以上、拘留は二年で終ったことと、その後に起こった出来事を知っているはずです。皇帝に上告した裁判で有罪となり処刑されたのか、無罪として釈放されたのか、この重要な事実をルカはなぜ書かなかったのか、この謎に対して様々な説明が試みられています。これはルカの著作の意図(それについては後述)から説明されるべき問題ですが、使徒言行録の成立時期を示唆する事実としても見ることができます。
 この使徒言行録の叙述がここで終わっていることは早期説の根拠とされます。ルカはこの「二年間」の終わり頃に書いたか、その直後に書いたので、その後のことは知らないので触れていないのだとする説明です。しかし、この説明は不自然です。拘留は二年で終ったとする以上、その結末(パウロの死)を知っているはずです。ルカがこの結末を知っている徴候は使徒言行録自体にもあります(エルサレムへの最後の旅を諸集会への訣別の旅として描いていることなど)。その結末がまだホットなニュースであった時期にそれに触れないで終わることは困難です。それに対して、その時から時間が経つほど関心は薄れ、このような終わり方がしやすくなります。使徒言行録の終わり方は早期説よりもむしろ中期説、さらに後期説と成立時期を遅く見る説に有利です。
 第三に、ヨセフスの著作との関連です。ルカは使徒言行録五章のガマリエルの演説で、テウダを先にあげ、「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり」と歴史的な順序を間違えてガマリエルに語らせています(五・三六〜三七)。これはしばしばルカがヨセフスを知らなかったことの根拠にされますが、実はヨセフスの『古代誌』二〇巻五章(九七〜一〇二)にはこの順序で二人が言及されています。もちろんヨセフスは正しい年代を知っているのですが、ここでは物語の進行上テウダを先にあげてユダヤ教過激派の運動を記述しています。ルカのガマリエル演説での誤りは、ルカがヨセフスのこの記事に依存したからであると考えられます。その他、使徒言行録には細かいことでルカがヨセフスの『古代誌』に依存していることを示唆する事実が多々あります。そうだとすると、ヨセフスの『古代誌』は九三〜九四年の成立ですから、使徒言行録はそれ以後、二世紀に入ってからの成立と見なければならないことになります。

ルカがヨセフスに依存している点については、Tyson は左記の文献に依拠して叙述しています。
Richard I Pervo, Dating Acts ; Between the Evangelists and the Apologists, Polebridge Press 2006
なお Pervo はその著で、使徒言行録の成立を一一〇年〜一二〇年、おそらく一一五年頃としています。

 第四に、パウロ書簡集との関係があります。ルカが使徒言行録で描くパウロ像とパウロ書簡から知られるパウロ像が大きく食い違うことは顕著な事実であり、ルカがパウロ書簡とどう関わっているかは新約聖書学の難題の一つです。たとえば、最初期の福音活動の分水嶺となった重要なエルサレム会議の描き方も、パウロ書簡(ガラテヤ書二章)とルカの使徒言行録一五章では、かなり食い違いが見られます。また、パウロが書簡であれほど重視して命がけで取り組んでいるエルサレム共同体への募金活動が、使徒言行録では完全に脱落しています。これらの食い違いは、ルカがパウロの伝道旅行の同行者であるとする伝統的な見方を困難にします。いったいルカはパウロ書簡を知っていたのだろうかという疑問が提起され、その問いに様々な回答が提出されています。パウロ書簡集(牧会書簡を除く十書簡集)が集成されて用いられるようになったのは一世紀末とされて、早期説と中期説では、ルカはそれを知らないで使徒言行録を書いたとされることがあります。しかし、最近の精密な研究により、使徒言行録ではルカはパウロ書簡を資料として用いており、用語においてもパウロの特殊な用法を踏襲していることが明らかにされています。その詳細は使徒言行録の内容を検討する箇所(本章第三節)で扱うことになりますが、ここではその事実が(ヨセフスの使用の事実と共に)使徒言行録の成立を二世紀に入ってからとする後期説を裏付けることを指摘するにとどめます。

ルカがパウロ書簡集を用いたことについては、前出の Tyson, Marcion and Luke-Acts, p.15 以下を参照してください。 なお、前出の
Pervo の著作が、これまでの諸研究をまとめて、ルカがパウロ書簡集を資料として用いたことを詳細に論証しています。

 ルカがパウロ書簡集を知り、それを用いているのであれば、なぜパウロ書簡集と食い違うパウロ像を描くのかという問題が起こります。それが使徒言行録解釈の重要な課題になります。そこに二世紀に入って登場したマルキオンの影響、と言うよりむしろ衝撃、が視野に入ってきます。

W マルキオンの衝撃

マルキオンの活動年代

 以上の所見から、使徒言行録成立の上限は一世紀末、下限は二世紀半ばとなり、使徒言行録は二世紀前半(ほぼ一〇〇年から一五〇年の間)に書かれたという見方が有力になります。二世紀前半ということになりますと、その時期のキリスト者共同体(とくにローマを含むエーゲ海地域の共同体)を揺るがせた大問題、マルキオンの登場と活動との関連がなかったかどうかが問題になってきます。はたして使徒言行録の書き方にマルキオンとの関連をうかがわせるものがないかどうかを検討する必要があります。それで、まずマルキオンの活動(とくにその年代)とその思想(福音理解、神学)について概観しておきます。

現代のマルキオン研究は、ハルナックの左記の古典的な著作が出発点となり基礎になっています。
Adolf von Harnack, Marcion : Das Evangelium von Fremden Gott, 1921
English translation by J. E. Steely & L. D. Biierma, Marcion : The Gospel of the Alien God, 1990
その後、ハルナックの説を批判し修正する説も多く出され、 May & Greschat edt. Marcion ohne Harnck, 2002 というような論集まで出ています。しかし、ここはマルキオンについての詳細な議論を検討する場ではありませんので、ハルナックとその後の議論をよく要約している 前出のTysonの著作を主要な資料として議論を進めます。

 マルキオンは後に異端の烙印を押され、その著作などは徹底的に排除されたので、彼の著作や彼の共同体で用いられた文書などは何も残っていません。マルキオンが告知した「福音」や彼の著作、また彼の働きとその共同体については、彼を異端として論駁した教父たちの著作に引用されたり言及されている内容から推測する他はありません。マルキオンのすぐ後の時代にマルキオンを異端として反駁した教父の著作としては、エイレナイオスの『異端論駁』(一八〇年代)とテリトゥリアヌスの『マルキオン反駁』(一九〇年代)が重要です。このような反駁論が書かれた時代には、マルキオン派の活動は隆盛をきわめ、地域によっては反対する側(後の正統派)を凌ぐ勢いであったと伝えられています。
 マルキオンはポントス州の重要な貿易港シノペの出身です。アナトリア(小アジア)の北側、黒海に面した地域のポントスには一世紀末にはキリスト者の共同体が活動し、かなりの規模になっていたことはペトロ第一書簡(一・一)にも証言され、二世紀初頭にはキリスト教徒に対する迫害が社会問題になっていたことは、先にトラヤヌス帝と総督プリニウスの間の往復書簡の件で見たとおりです。

ポントス州には当時すでに有力なユダヤ人共同体が活動していました。パウロの同労者となったアキラもポントス州出身のユダヤ人です。そして旧約聖書の翻訳者として有名なアキラもマルキオンと同時代のポントスの改宗ユダヤ教徒です。ハルナックは、マルキオンの家族は改宗ユダヤ教徒からキリスト教になった家族だと推定しています。マルキオンの父親はシノペのキリスト教共同体の監督であったと伝えられていますが、彼が改宗ユダヤ教徒であったとすれば、キリスト教への改宗は当時の標準的なパターンでしたし、その経歴からして監督となったのも自然に理解できます。そうであれば、マルキオンは若いときから旧約聖書をよく知っていたと推察されます。教父は、マルキオンは監督である父親によって共同体から追放されたと伝えていますが、事実であれば、マルキオンはシノペにおいてすでに重大な異説を唱えたと推察することになります。ハルナックは、マルキオンのキリスト教はユダヤ教への反感と恨みから出ているとしています。

 マルキオンはポントス州の港町シノペの裕福な船主とされています(テリトゥリアヌス)。彼は東方(小アジア)で活動した後ローマに来て、ローマの共同体に多額の寄付をしてその共同体の一員となり、ローマで活動しますが、彼の所説が使徒たちが伝えた信仰と異なるとしてローマの長老会議で問題とされ、自説を固持するマルキオンはローマの共同体から追放され、寄付金は返還されます。彼はその後も各地で活動し、マルキオン派の共同体が形成されることになり、二世紀後半には彼に反対する主流派と拮抗する勢力となります。マルキオンは鋭い神学者であっただけでなく、有能な説教者であり、組織者でもあって、彼によって帝国各地に形成された集会は司教や長老や執事をもっていました。マルキオン派の勢力が主流派にとっていかに大きな脅威であったかは、エイレナイオスやテリトゥリアヌスの反駁書からも十分推察することができます。
 ハルナックは、マルキオンの誕生を八五年頃とし、東方で活動した後、一三八年頃にローマに来て、一四四年にローマから追放されたとしています。しかし、マルキオンの誕生を七〇年頃とし、その活動をもう少し早く見る説も有力です(R・J・ホフマン)。古代では「異端は正統の後に生まれる」という原理が信奉されていて、異端の成立を遅く見る傾向があります。ところで、「殉教者」と呼ばれて有名なユスティノスは、一五〇年に書かれたと見られる彼の『第一弁証論』でマルキオンの名をあげて言及し、「彼は(帝国の様々な民に説教して成功し)今なお活動している」と書いています。彼の書き方は、マルキオンの活動がすでに長年を経過していて、一二〇年頃、あるいはさらに早く一一〇年頃に始まっていたことを示唆するとも見られます。

ハルナックは、マルキオン派ではキリストとマルキオンとは一一五年六ヶ月半隔たっているとしていることから、二九年のキリストの登場から一一五年六ヶ月半後の一四四年をマルキオンのローマ追放(=マルキオン教会の創立)の年としています。しかし、一四四年をマルキオンの没年とする説(E・バルニコル)もあります。また、R・J・ホフマンはマルキオンの誕生を七〇年頃とし、彼がローマに来たことを認めず、一一〇年から一五〇年にかけてアジア州で活動したとしています。
マルキオンの活動と所説が小アジアでかなり早く(一二〇年頃までに)知られていたことについては、マルキオンとポリュカルポスとの出会いが注目されます。アジア州出身のエイレナイオスは、自分が直接聞いた事実として、スミルナの司教のポリュカルポスがマルキオンと出会ったとき、彼から「わたしを知っているか」と聞かれて「知っているとも。お前はサタンの長子だ」と答えたことを伝えています(『異端論駁』三・三・四)。エイレナイオスはこの対話を一五五年のポリュカルポスのローマ訪問時としていますが、同じ表現が一三〇年に書かれたと見られるポリュカルポスの「フィリピ人たちへの手紙」にもあることから、一三〇年までにマルキオンの所説がポリュカルポスには知られていたとしなければなりません。その他、一一七年のイグナティオスの手紙とか、牧会書簡がマルキオンを知っていることを示唆することなど、一二〇年頃には(少なくとも小アジアでは)マルキオンの活動が知られていたことが十分推察できます。

マルキオンの福音理解

 マルキオンは熱烈なパウロ主義者です。エーゲ海地域のパウロ系共同体ではパウロが唯一の「使徒」であって、「使徒」と言えばパウロを指していました。小アジアで活動したマルキオンは、「使徒」パウロの福音を継承し、それを徹底することを使命として活動し、当時の主流の共同体と対立した改革者です。現代の学者の中にはマルキオンを「教会史における最初のパウロ主義改革者」と呼ぶ人もいます。ハルナックもマルキオンをキリスト信仰にとってのパウロの意義を最初に理解した人物であるとし、「パウロ以後アウグスティヌス以前の古代において、彼に匹敵する宗教的人物はいない」と言って、マルキオンを高く評価しています。
 マルキオンは早くても七〇年頃の誕生ですから、六二年に殉教したと見られるパウロに直接師事したことはありません。マルキオンはパウロの書簡からパウロの「キリストの福音」を学び取り、その福音をもって福音活動を進め、当時の(マルキオンから見てイエスとパウロの福音から逸脱した)周囲の福音運動を改革しようとします。おそらく彼はポントス州から、パウロの活動の中心地であったエフェソを中心都市とするアジア州に出てきて、そこで伝えられ集成されているパウロ書簡を徹底的に学び、パウロがその書簡で唱えている福音を継承し確立することを自分の使命とするようになったのではないかと推察されます。

もっとも、監督である父親によって追放されたという伝承が事実であれば、故郷のシノペですでにパウロ書簡に接し、パウロの福音を理解し、ラディカルなパウロ主義改革を唱えて追放され、アジア州に出てきて同調者を求めたという可能性もあります。

 マルキオンの出発点はガラテヤ書とローマ書、とくにガラテヤ書に見られる律法と福音の対立です。彼はガラテヤ書やローマ書でパウロが律法と福音を峻別し対立させていることを知ります。パウロは「信仰による義」、「律法とは別の神の義」を福音の真理として高く掲げています。少しでも律法の要求を付け加える者に「アナテマ!」を投げつけ、厳しく拒否しています。キリストは律法を守らない罪人を信仰によって義として受け入れる方です。キリストは「律法」の終わりとなった、とパウロは宣言しています。福音は律法の終わりであり、福音が現れた今はもはや律法は過ぎ去り無用のものとなった、とマルキオンは理解します。
 この無条件の恩恵の福音に対して、旧約聖書が与える律法は、人間生活の隅々にまで細かい規定を定め、それを守らない者を裁きます。律法を与えた旧約聖書の神は正義の神であり、律法に違反する者を無慈悲に裁く神です。その神に対して、イエスが告げ知らせた父である神は、慈悲深く、律法を守れない者も無条件に受け入れる恩恵の神です。この神は、イエスが現れて世界に告げ知らせるまでは誰にも知られていない神、「知られざる神」でした。マルキオンは、パウロの律法と福音の対立を、旧約聖書の神とイエスの父なる神の対立にまで突き詰めます。
 旧約聖書の神は、世界を創造し、ユダヤ人を自分の民として選び、その民に律法を与え、律法への従順か不従順かという物差しで裁き、苦しむ民にはメシアを与えると約束している神です。それに対して、イエスが告げ知らせた神は、父としての慈愛に満ち、背く者を無条件に赦し、律法を守ることができない罪人をも受け入れる恩恵の神です。この神はイエスが世に来て告げ知らせるまでは、ユダヤ人には知られていない神、世界の誰にも知られていない神であった、とマルキオンは理解します。
 イエスが啓示しパウロが教えたことは、それまでには全く知られていなかったことであるとマルキオンは主張します。後の教父の一人(エピファニウス)が伝えるエピソードによると、マルキオンはローマ共同体の長老たちの査問の席で、律法と福音の違いを説き、福音を律法という古い器に入れることの誤りを「誰も新しい布で古い服に継ぎ当てをしない。誰も新しいぶどう酒を古い革袋に入れない」(ルカ五・三六〜三七)というイエスの語録を引いて語ります。マルキオンから見れば、当時のローマ共同体の信仰は、パウロが明らかにした福音と律法の決定的な違いを理解せず、福音をユダヤ教律法という古い器に入れる過ちを犯していると見えたのです。マルキオンは結論として、「悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない」(ルカ六・四三)というイエスの言葉によって、福音を啓示するイエスの神を良い実を結ぶ良い木とし、律法によって裁く旧約聖書の神を悪い実を結ぶ悪い木としました。ローマの長老たちはマルキオンを使徒たちから伝えられた教えに背く異端者として追放します。ハルナックはこのエピソードを引用して、「ルターを思い浮かべない者があろうか」と言っています。
 このように、一般のキリスト者共同体が旧約聖書を啓示の書として信仰の拠り所として仰いでいたのに対して、マルキオンはキリスト信仰の拠り所としては旧約聖書を全面的に拒否します。旧約聖書に示されている神はユダヤ人の神であり、世界を創造し、律法を与えた神であり、イエスが啓示した父なる神とは別の神とされます。イエスの神が至高の神であり、旧約聖書の神は一段低い神とされます。この唯一神の否定、具体的にはイエスが啓示された父なる神は旧約聖書の神とは違う神であるという教えが「異端」とされて、後の教父たちの攻撃の的になります。

マルキオン聖書

 キリスト者の共同体は、成立当初から七十人訳ギリシア語聖書を自分たちの「聖書」として用いていました。この「聖書」を神の言葉として、それをイエスの言葉や使徒たちの教えによって解釈して、信仰の拠り所として用いていました。この聖書を自分たちの信仰の拠り所として用いることを拒否(このことの意味については後述)したマルキオンは、それに代わる権威ある文書をキリスト信者に与える必要から独自の「聖書」を作ります。それが「マルキオン聖書」です。これは福音の展開史において最初の「正典」(信仰の拠り所また基準として権威を認められた文書)となり、その後の「新約聖書正典」の結集にきわめて重要な影響を及ぼすことになります。
 「マルキオン聖書」は現存していません。後に異端として断罪されたマルキオンの著作は徹底的に排除され、次ぎに述べるマルキオンの主著「対立論」と共に、一つの写本も残されていません。しかし、マルキオンに反対して「マルキオン反駁」を書いたエイレナイオス、テリトゥリアヌス、ヒュッポリュトス、エピファニウスら教父たちの著作に引用されている文から、ハルナックを初めとする研究者によって再構成が試みられ、大体の内容が知られるようになっています。ここではその再構成に基づいて「マルキオン聖書」の概要を見ていくことにします。
 「マルキオン聖書」は「福音書」と「使徒」から成ります。「福音書」は、福音を告知されたイエスの言葉や働きを集めた文書です。「使徒」は、マルキオンが唯一の真正な使徒と仰ぐパウロの書簡を集めたものです。「マルキオン福音書」は現在新約聖書に入れられているルカ福音書と多く重なっています。両者の関係については後で見ることにして、先にマルキオンの出発点となったパウロ書簡を集めた「使徒」について見ておきます。

マルキオンとパウロ書簡

 マルキオンが「使徒」の名の下に集めたパウロ書簡は、現在の正典新約聖書に含まれるパウロの十三書簡(パウロの名による書簡を含む)から牧会三書簡を除いた十書簡です。最初にマルキオンにとって最も重要なガラテヤ書が置かれています。それにコリント書TとU、ローマ書、テサロニケ書TとU、ラオデキア書(=エフェソ書)、コロサイ書、フィリピ書、フィレモン書の順で続いていたと見られます。一世紀末にはこの十書簡を含む「パウロ書簡集」が(おそらくエフェソで)成立しており、エーゲ海地域で流布していたと考えられます。どの程度流布していたかは確認困難で、マルキオンが活動を始める頃にはポントス州でも知られていて、彼は故郷のシノペですでにパウロ書簡集に接していたのか、それともアジア州に出てきてから触れたのかは決定できません。とにかくマルキオンは自分たちの「聖書」を必要としたとき、すでに成立していた「パウロ書簡集」を利用して、それを「使徒」として用いることができました。
 ただ、すでに成立してたパウロ書簡集を用いるにさいして、マルキオンはかなりテキストを改変して編集しています。マルキオンからすれば、手元にあるパウロ書簡もパウロに反対する「ユダヤ主義者」によって汚染されており、パウロの伝えた純粋な福音を回復するためには、パウロ書簡にも紛れ込んでいるそれらのユダヤ主義的要素を取り除かなければならないとされたのです。その改変の実例をすべてあげることはできませんが、顕著な事例を数例だけあげておきます(ハルナックによる)。
 ガラテヤ書では一・一八〜二四は削除されていたと見られます。マルキオンは、パウロが真正の使徒ではないペトロやユダヤ教徒の共同体の代表者であるヤコブとの交わりにあったとするのは、「偽りの使徒」や「ユダヤ主義伝道者」による挿入としたのでしょう。二・一の「バルナバと一緒に」も削除されたと見られます。マルキオンは、パウロが唯一の真正な使徒である事実が他の誰からも制約されることを嫌ったと考えられます。三・六〜一四aのアブラハムに関連する箇所は削除され、「と書かれている通りです」という聖書引用を示す句は削除されて、「信仰によって義とされた者は生きる。律法の下にある者は呪われており、それらの事を行う者はそれによって生きるからである、ということを学びなさい」と改変されていたと見られます。三・一五〜二五の長い部分は削除されたと見られます。三・二九の「アブラハムの子孫です」も削除されていたようです。四・二一〜二六では、アブラハムの名は削除されず、契約概念の変更や、「エルサレム」の除去、エフェソ書一・二一の挿入、「そのことにおいて、わたしたちはわたしたちの母である聖なる教会を約束されているのである」という文言の挿入が推察されています。四・二七〜三〇は削除されたと見られます。
 ローマ書では、一・一六の「最初にユダヤ人」の「最初に」は削除され、一・一七の「・・・・と書いてあるとおりです」の文も聖書の引用として削除されています。一・一八の「神の怒り」の中の「神の」も、恩恵の神に怒りはないとして削除、一・一九〜二・一も削除、三・三一〜四・二五の聖書証明による議論も削除されています。その他細かい改変と共に、九・一〜三三、一〇・五〜一一・三二などのユダヤ人や聖書に好意的な大きなブロックが削除されています。一五章と一六章が欠けているのは、マルキオンによる削除ではなく、マルキオンが用いた写本になかったからだと考えられます。
 その他の書簡にも多くの改変が見られますが、語句の変更や付加や挿入は少なく、おもに削除による改変です。削除されたのは、マルキオンが信仰の根拠として用いることを拒否した聖書(旧約聖書)からの引用や、聖書を論拠とした議論、ユダヤ教に対する好意的な文言など、マルキオンがユダヤ主義者による挿入や改変と見た部分です。

マルキオン福音書とルカ福音書

 マルキオンに対する反駁文を書いたエイレナイオスやテリトゥリアヌスら古代教会の教父たちは異口同音に、マルキオンはルカ福音書の内容の多くを削除して自分流に改作したと非難しています。削除された主要な内容は、主の誕生物語とイエスが世界の造り主を父と言い表された説話の部分であるとされます。ハルナックをはじめ現代の研究者の大部分は、この古代教父の見方と同様、マルキオンは現在新約聖書に収められている四つの福音書の中からルカ福音書を選び、それを自分流に改作して自分の福音書とした、という見方をしています。
 しかし、事態はそう単純ではありません。エイレナイオスが活動した二世紀末では現行の四つの福音書が流布しており、エイレナイオスは福音書が四つでなければならないことを力を込めて主張しています。しかし、マルキオンが活動した二世紀初頭では状況はまだ流動的で、すべての地域で現行の四福音書が出揃っていたのではありません。マルキオンの活動の舞台であった小アジアでは、パウロの同行者として知られていたルカの収集になるとされる福音書が流布し尊重されていたようです。マルキオンが四つの福音書から選んだというのではなく、当地で福音書といえばこのルカが集成した「福音書」だけであったという可能性が高いことを考慮に入れなければなりません。
 マタイ福音書が知られていたとしても、このユダヤ教的色彩の濃い福音書はとうていマルキオンが用いることはできなかったでしょう。マルコ福音書は知られていた可能性が十分ありますが、イエスの言葉を伝えることの少ないこの福音書は、すでに現地で行われている豊かな内容の福音書(ルカの集成した福音書)に較べて採用する理由はなかったことでしょう。ヨハネ福音書は、ヨハネ共同体という限られたサークル内で用いられていて一般には知られていなかったのではないかと推察されます。もし知られていても、一部にある強烈なユダヤ教的内容からマルキオンには向かないと判断されたことでしょう。
 マルキオンが用いた福音書は、マルキオンが初期に信仰生活を送ったポントスで用いられていた福音書だったと考えられます。先にプリニウスのところで見たように、一世紀末にはポントスに多くのキリスト教徒が活動しており、福音書が重要な役割を果たしていたと考えなければなりません。その福音書は、小アジアで広く用いられるようになっていたルカの手になる福音書であったと見るのが自然です。
 マルキオンが自分の福音書として用いたのがこの福音書であるとすれば、その当時マルキオンの手元にあった福音書は、果たして現行の「ルカ福音書」と同じものであったのかどうかは問題になります。エイレナイオスをはじめ古代教父や多くの現代の研究者は同じであったと前提して、「マルキオンはルカ福音書を改竄(かいざん)した」と判断しています。しかし、マルキオン福音書がその当時のポントスで流布していた福音書の改訂版であった可能性も考慮しなければなりません。ここまで「ルカが集成した福音書」と呼んできましたが、それは現在の新約聖書に収められているルカ福音書と区別するためです。たしかにルカは一世紀末までにそれまでの各地の伝承を集成してイエスの言行録ともいうべき「福音書」を書いていました。マルキオンはそれを用いて自分の福音書として用いた可能性を考えなければなりません。マルキオンの時代の状況と、エイレナイオス以降の状況の違いを考慮にいれますと、この一世紀末までに成立していてマルキオンが用いたルカの手になる福音書を「初版ルカ福音書」と呼び、エイレナイオスらが用い、後に新約聖書正典に収められることになるルカ福音書を「正典ルカ福音書」と呼んで区別する必要が出てきます。
 マルキオン福音書には正典ルカ福音書の多くの部分が欠落しています。最大の欠落は一〜二章の「誕生物語」と二四章一三節以下の「顕現物語」です。この欠落は、これまで古代教父からハルナックなどの現代研究者まで、マルキオンがルカ福音書のこれらの部分を削除したと考えられてきました。しかし、もしマルキオンが初版ルカ福音書を用いて自分たちの福音書としたのであれば、初版ルカ福音書にはこれらの部分はなく、これがマルキオン福音書となった後、マルキオンに対抗するためにこれらの部分が初版ルカ福音書に加えられた可能性も検討しなければならなくなります。もしルカがマルコ福音書をモデルにして福音書を書いたのであれば、それが洗礼者ヨハネの活動から始まり空の墓で終わっていたことは十分考えられます。ここでこの可能性、すなわち初版ルカ福音書にはこれらの部分はなく、マルキオン福音書以後に書き加えられたとする見方(J・ノックスとJ・タイソンの説)を検討してみます。

ルカ二部作の成立におけるマルキオンの衝撃

 タイソンはノックスの所説を継承し、次のように主張しています。タイソンはまず使徒言行録の成立年代が二世紀前半であることを論証し(その要旨は本稿の項目Vで紹介しました)、さらにマルキオンの活動が二世紀の早い時期(二〇年代)に知られるようになっていたことを最近の研究から示して、使徒言行録がマルキオンに対抗するために、二〇年代前半に著述されたとします。そして、すでに成立していた初版ルカ福音書に(同じくマルキオンに対抗するために)「誕生物語」と「顕現物語」などが加えられ、使徒言行録と一緒にされて、新たに「序文」(ルカ一・一〜四と使徒一・一〜二)を添えてテオフィロに献呈されたとします。従って現形のルカ二部作は二世紀の二〇年代前半に成立したということになります。
 使徒言行録の内容と書き方からすると、マルキオンの衝撃を考慮に入れることが必要であると認めざるをえません(そのことは次項Xで述べることになります)。たしかに、マルキオンに対抗するためという動機は、ルカがその二部作を著述する目的のすべてではなく一部に過ぎませんが(初版ルカ福音書はマルキオンの登場前に書かれています)、それでも成立過程と成立時期を考慮に入れると、現行のルカ二部作はマルキオンに対抗するという意図をもって書かれたとしなければなりません。
 わたしは前著『ルカ福音書講解T』において、本来のルカ福音書は三章から始まっており、一〜二章の「誕生物語」は、全編が完成してから後で付け加えられたものであり、全編を読んでから味わうのが適切ではないかと述べ、三章から講解を始めました。そして、三章以下の本体部にも、本来のルカ福音書が三章から始まっていることを示す痕跡があることを指摘しておきました。しかし、そのときはマルキオンの衝撃を考慮に入れることなく、内容に対する直感からそうしたのですが、マルキオンの衝撃に対する応答とすることで、この直感が歴史的根拠を得たように思います。その他、マルキオン福音書と正典ルカ福音書の比較検討は、項目Yで行います。
 また、使徒言行録については謎が多く残っていました。その中で最大の謎は、パウロの伝道旅行の同行者であるか、同行者でなくてもパウロと極めて密接な関わりを持っていたルカが、また歴史家として熱心に各地の資料を集めたルカが、パウロ書簡集を知らないということはありえません。そのルカが使徒言行録で描くパウロが、パウロ書簡集のパウロと違うのはなぜか、ただ少し違うだけでなく反対のことが語られているのはなぜかという問題です。この謎は、マルキオンに対抗するためという意図で書かれたという見方以外では十分に解決できない謎です。この見方をとると、使徒言行録の謎の多くが解決されるように思われます(この点については次項X)。以下の項目(XとY)で、マルキオンの衝撃に対抗するためという視点から、ルカ二部作の成立を再考します。

マルキオンの「対立論」

 その前にもう一つ、マルキオンの主著といわれる著作について見ておく必要があります。「福音書」と「使徒」からなる「マルキオン聖書」は、すでにある福音書と使徒書簡を編集したものであって、マルキオンの著作ではありません。ハルナックはマルキオンの編集作業を、伝承過程で混入した要素を除いて元の正文(テキスト)を回復するための校訂作業として、マルキオンをキリスト教史上の最初の文献学者と評価しています。しかし、その校訂作業はあくまで、マルキオンが「偽りの使徒」とするユダヤ主義者たちの手によって唯一の真正の使徒であるパウロの書簡に混入したユダヤ教的傾向の部分や、イエスの純粋な福音の言葉の真意を十分に理解できず、なおユダヤ教の枠に閉じこめられているペトロらの手によって曲げて伝えられた部分を福音書から取り除くことでした。
 こうして出来た「聖書」ですが、それを与えられただけでは「福音」を理解するには不十分として、マルキオンは「律法と福音」の対比、ユダヤ人に律法を与えた世界の創造神とイエスによって啓示された恩恵の神との対比を説く文書を著します。その著作は失われて現存しませんが、テリトゥリアヌスら教父が《アンティテセイス》(諸対比、諸対立、諸矛盾)という名で言及している著作があったことは確実としてよいでしょう。牧会書簡(テモテT六・二〇)に出てくる「不当にも知識《グノーシス》と呼ばれている反対論《アンティテセイス》」はこの著作を指しているとする意見もあります。ここではこの書を「対立論」と呼んで話を進めます。
 その書の構成や内容を正確に復元することは困難ですが、教父たちの引用から大体の内容は分かります。それは、パウロが説く律法と福音の峻別に基づき、律法の神と恩恵の神との対比を明らかにしようとする著述です。すなわち、世界を創造し、ユダヤ人を選び、律法を与え、律法によって裁く義の神、聖書(旧約聖書)に自己を啓示している「創造神」と、イエスが福音によって父として啓示された慈愛恩恵の神、「善なる神」との対比です。後者が至高の神であり、前者は一段低い神です。イエスが現れてこの至高神を啓示されるまでは、誰にも知られていない神であり、イエスは聖書の神とは「異なる神」、それまでには誰にも「知られざる神」を啓示されたとされます。
 マルキオンはパウロに基づき、人間は善なる神の無条件の恩恵により、キリストへの信仰によって、創造神の律法による拘束から解放され、至高神の子とされ救われるのだとします。創造神は人間を自分の被造物である世界の中に置き、律法によって自分の支配下に閉じこめているのです。
 マルキオンは悪についての思いを深め、この悪に満ちた世界を造った神はイエスが啓示された絶対の善である神とは相容れないとして、聖書(旧約聖書)に自分を啓示している神は、異民族の殺戮を命じるなど多くの例をあげて、程度の低い神とします。マルキオンは聖書そのものを否定したのではありません。ただ聖書はあくまでユダヤ人の聖書であり、キリスト信仰の拠り所とはならないとしたのです。
 キリスト信仰と相容れない聖書の神の律法や働きをイエスの福音と調和させるために用いられる寓喩的聖書解釈をマルキオンは拒否します。聖書解釈では、マルキオンはユダヤ教側と同じく、厳密に歴史的に解釈します。聖書の神はユダヤ人の神であり、ユダヤ人がこの聖書の預言を信じて待ち望んでいるように、この神はやがてユダヤ人にメシアを送るであろうが、それはイエスではないとします。イエスは聖書がその到来を預言していたメシアではなく、まったく別の神から遣わされた子であり、救済者であり、ユダヤ教聖書とは関係ないとします。
 このようにマルキオンは聖書の神をユダヤ人の神とし、キリスト者の神とは別の神とします。教父たちはまさにこの点を「異端」として攻撃します。イエスが説かれた父なる神は聖書が啓示する創造神と同じ神であり、イエスもペトロらの使徒たちも、そしてパウロも唯一の神を説いているのに、マルキオンは二神を説く異端者とされます。

マルキオンとグノーシス主義

 マルキオンは熱烈なパウロ主義者です。当時のキリストの民の主流においては、パウロが設立したエーゲ海地域の諸集会も含め、パウロはあまり理解されず、様々な伝承の中に埋もれてしまっていたようです。その中でマルキオンがパウロ書簡(とくにガラテヤ書とローマ書)に現れている福音の真理を再発見し、パウロの福音によって当時の福音運動を改革しようとします。ところが、マルキオンの改革は聖書(旧約聖書)の拒否となり、「別の神」の福音となります。どうしてこのような結果になったのでしょうか。
 一つには、マルキオンにはパウロに対する誤解があった、とわたしは思います。すなわち、パウロはユダヤ教を否定したのではなく、ユダヤ教を相対化したのですが、マルキオンはそれをユダヤ教の否定と誤解したのだと思います。

パウロによるユダヤ教の相対化については、拙著『教会の外のキリスト』の「終章 キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。

 パウロは、キリストを信じた異邦人信者に割礼を受けてユダヤ教徒になることを要求したユダヤ主義者に激しく抵抗し、義とされる(=救われる)のは信仰(キリスト信仰)によるのであって、ユダヤ教律法の実行とは関係がないことを命がけで主張しました。これはユダヤ教律法の順守を救いの絶対条件とすること、すなわちユダヤ教の絶対化を否定したのであって、ユダヤ教そのものを否定したのではありません。ユダヤ教の内にいても外にいても、ユダヤ教とは関係なく信仰によって、すなわちキリストにおける神の恩恵によって義とされるという福音です。パウロ自身は生涯ユダヤ教徒として生きました。当然、パウロは聖書を神の啓示の言葉とし、自分の主張の論拠として聖書を引用しています。ところがマルキオンは、ユダヤ教の絶対性(ユダヤ教の中でないと救いはないとする立場)を否定したパウロの福音を、ユダヤ教そのものの否定と誤解して、聖書をキリストの民と関係ないものとしました。それによって、聖書の神とは別に、イエスによって新しく啓示された恩恵の神を立てる結果になりました。聖書を拒否した結果、パウロが異邦諸民族にもたらした、聖書の貴重な遺産である救済史的唯一神信仰を見失う結果になりました。たらいの水を流すのに急で、その中の赤児まで流してしまう過ちを犯したことになります。
 こうして、パウロは敵対者と追従者の両方から誤解されることになります。すなわち、イエスを信じないユダヤ人たちからは、ユダヤ教を相対化したパウロはユダヤ教の否定者、聖なるモーセ律法を汚す異端者とされ、生かしておけない者として生命を狙われます。またイエスを信じるユダヤ教徒の中のユダヤ主義者たち、すなわちユダヤ教の絶対性に固着するユダヤ人信者からもそう誤解されて、目の敵にされて執拗な妨害を受けます。一方熱心な信奉者であるマルキオンからも誤解されて、その誤解はユダヤ教の遺産をキリスト信仰から切り離してしまう誤った道へ導くことになります。
 もう一つの理由として、当時起こりつつあったグノーシス主義思想の影響が考えられます。二世紀中葉から後半にかけて、地中海地域のキリストの民の中にもグノーシス主義の運動が起こってきます。その運動の代表者の一人ヴァレンティノスは一〇〇〜一七五年頃の人で、マルキオンより少し遅いだけで(二人を同時代人として扱う研究者もいます)、その活動の時期は一部マルキオンと重なります。マルキオンは直接ヴァレンティノスから影響を受けたのではありませんが、当時のローマ帝国支配下で起こりつつあったグノーシス思想、あるいはその傾向の思想の影響を受けていたことは十分推察されます。

エイレナイオスやテリトゥリアヌスらの教父は、マルキオンはローマに来ていたシリヤのグノーシス主義者ケルドンの教えを受けたとしていますが、確実ではありません。後述の筒井『グノーシス』142頁「キリスト教グノーシスとマルキオン」の項を参照。

 グノーシス主義と呼ばれる当時の思想的・宗教的運動は、その定義をめぐって論争が絶えない複雑な思想的・宗教的現象です。その全体についてはここで扱うことはできませんが、マルキオンとの関係ついて見れば、その思想の特色の一つ、世界を悪と見る面が共通項として重要です。ギリシア思想では《コスモス》(世界、宇宙)は秩序ある美しい存在であり、その《コスモス》の秩序に一致して生きることが価値の源泉でした。ところが、そのような世界で抑圧されているという魂の呻きから、現実の《コスモス》を悪として、そこから解放され、《コスモス》を超える価値の源泉、魂の故郷(それは様々な象徴で語られます)に帰ることが救済であるとする宗教思想が生まれます。そのさい、悪の世界に閉じこめられ眠り込んでいる魂が覚醒して、《コスモス》の諸々の霊界の層を通り抜けて、至高の光の故郷に達するのは、霊界の実相を知る《グノーシス》(知識、認識、洞察)によるとされます。
 このようなグノーシス主義の思想が二世紀のキリスト教運動の中にも入り込んで、グノーシス主義思想をキリスト教的用語で表現するキリスト教グノーシス主義が行われるようになります。その代表格の教師がヴァレンティノスです。二世紀末に「異端反駁論」を書いたエイレナイオスは、ヴァレンティノスを初めグノーシス主義者を厳しく批判していますが、その源流にマルキオンがいるとして、マルキオンをサマリアのシモンから始まるグノーシス主義の系列に位置づけています。しかし、ハルナックはマルキオンをグノーシス主義者とすることを拒否します。マルキオンにおいては、人が救われるのは《グノーシス》によるのではなく信仰によるのです。マルキオンには、グノーシス主義特有の至高の光の霊界からこの世界が発出するに至る複雑な神話的思考が全然ありません。一方、グノーシス主義の研究者のヨナスは「マルキオーンは反宇宙的二元論のもっとも非妥協的な代表者であった。宇宙(コスモス)の神に対立する知られざる神の観念、劣等的な専制君主としての創造者の観念・・・・(を説いた)。この歴史的状況の中でそれを説く者は、誰であれグノーシス派の一人に数えられねばならない」と言って、マルキオンをグノーシス主義者に数えています。

マルキオンをグノーシス主義者としないハルナックの見方については、ハルナック『マルキオン』第九章の注1(英訳173頁)参照。 ヨナスのマルキオンについての見方は、ハンス・ヨナス『グノーシスの宗教』(秋山・入江訳、人文書院)190頁以下の「b マルキオーンの福音」の項を参照してください。
筒井賢治『グノーシス ― 古代キリスト教の異端思想』(講談社選書メチエ)はマルキオンをれっきとしたグノーシス主義者とし、ヴァレンティノスと並んで一章を充てて論じています。しかし、この書はパウロ主義者としてのマルキオンの面を十分考慮に入れていないように思います。

 わたしは、マルキオンはパウロ主義者であってグノーシス主義者ではないと考えています。しかし、ユダヤ教律法を福音と無縁なものとして拒否するマルキオンの姿勢は、ユダヤ教聖書の神、世界を創造した神を至高の神ではないとする「異なる神の福音」を生み、その結果、この世界《コスモス》を悪として、その世界を造った「造物主」を《デミウールゴス》と呼んで、この低級な造物主の支配から逃れることが救いであるとしたグノーシス主義に近づいています。グノーシス主義では、肉体の行動は霊の悟りには影響しないとして放縦に走ったり、逆に結婚して子孫を得ることは《デミウールゴス》の支配の継続に寄与することであるとして結婚を禁じたりします。マルキオン本人からではないかもしれませんが、マルキオン派では後に結婚を禁じる傾向が出てきたりして、教父から異端のしるしとして激しく批判されることになります。マルキオンとグノーシス主義との関係については、「マルキオンなしでもグノーシス主義はあった」と言えるでしょう。しかし、「グノーシス主義がなければマルキオンはなかった」と言えるかもしれません。少なくとも、マルキオンのパウロ主義は違った形を取っていたことでしょう。

ナグ・ハマディ文書にマルキオン関係の文書が含まれていないことが注目されます。ナグ・ハマディ文書は、二世紀から三世紀にかけて輩出したグノーシス主義文書が、権力を得た正統派による殲滅から守るためにエジプトの砂漠に隠されていたものです。その中にマルキオン関係の書物がないという事実は、その時代のグノーシス主義者たちがマルキオンをグノーシス主義者と見ていなかったことを示唆しているのではないかと考えられます。

X 使徒言行録を成立させた状況

ルカ二部作著述の経緯

 ルカは一世紀末までに福音書を書いていたと考えられます。それは二世紀初頭にその活動を始めたマルキオンがルカの手になる福音書を自分の福音書として用いることができたという事実からも確認できます。ただし、その福音書が現在新約聖書に収められている正典のルカ福音書とは違う「初版ルカ福音書」であったことは、先に(項目Uで)見たとおりです。使徒言行録は、先に(項目Vで)見たように二世紀前半に書かれたのですから、福音書と使徒言行録の著作の間には年月が経っており、その間に状況の変化があったのかどうかが問題になります。前項Wで見たように、二世紀に入ってマルキオンが登場し彼の活動がエーゲ海地域に知られるようになったのですから、その状況が使徒言行録を書かせるようになったのではないかということを本項で検討することになります。
 本稿では一世紀末にはできていた元の形のルカ福音書を「初版ルカ福音書」と呼び、後に増補改訂された形は正典に入れられた現行のルカ福音書ですから、これを「正典ルカ福音書」と呼びます。

現行の正典ルカ福音書が、ルカが最初に書いた福音書ではなく改訂版である可能性について、ヘルメネイア注解シリーズで使徒言行録を担当している R.Pervo は、その著 Richard I. Pervo, Acts, p.20, n.120 で次のように言っています。
「正典ルカ福音書がその福音書の最初の版であるかどうかの問題は問われ続けている。最近J・タイソンが、正典ルカ福音書はたとえばマルキオンに知られていた版の後に出たものであるという仮説を再提出した。もしこの仮説が正しければ、正典ルカ福音書を書いた著者は、使徒言行録をそれと一対のものとして書いたことになる。この仮説は(写本でも発見されないかぎり)証明はできないが、しかしそれ(その説)は反駁するのは容易でない」。

 タイソンは使徒言行録の内容を検討して、その結論としてマルキオンの登場という新しい状況に対応するためにルカは使徒言行録を書いたとしています。タイソンは、ルカはマルキオンに遭遇して初めて使徒言行録を書いて二部作としたのか、それともマルキオン以前から二部作として構想していたが、マルキオンに遭遇してその使徒言行録を現在のような形で書きあらわし、初版のルカ福音書を増補改訂して二部作としたのかは議論していませんが、わたしは先に(項目TとUで)述べたように、ルカはマルキオン以前から二部作を構想していたが、マルキオンからの衝撃を受けて現在の内容の使徒言行録を書いたと見ています。そこで、使徒言行録の内容あるいは書き方がマルキオンの主張に対抗するためのものであったかどうかを検討してみる必要があります。そのさい、使徒言行録の主要人物であるペトロとパウロの描き方が鍵となりますので、この問題から入ります。

ペトロの描き方

 使徒言行録前半の主人公はペトロです。使徒言行録前半におけるペトロは、使徒団の筆頭者であり(一・一三)、エルサレム共同体の指導者であり、神殿でユダヤ教徒たちにも、議会で祭司長たちや律法学者たちに対しても、いつも聖霊の確信に満ちて大胆にイエスの復活を証言し、その十字架の意義を聖書から論じ、迫力のある説教をして多くの人を回心に導き、聖霊の賜物をもたらし、また病人をいやし奇跡を行う理想的な使徒です。
 ところが、パウロを唯一真正の使徒としたマルキオンは、パウロ書簡(とくにガラテヤ二・一一〜一四)から、ペトロをはじめエルサレムのユダヤ人指導者をパウロの福音を覆そうとする人たち(ガラテヤ一・六〜七)と見ました。そして、コリント第二書簡(一一・一〜一五)の「偽使徒たち」は彼らを指しているとし、そこで「大使徒」(五節)と呼ばれている人たちも、「キリストの使徒を装っている偽使徒たち」(一三節)と非難されている人たちも、彼らのことであるとしました。また、福音書においても、ペトロはイエスの言葉の真義を理解できない愚鈍な弟子であることを暴露しているとしました。
 このような非難に直面して、エルサレムやアンティオキアなどで広くエルサレム共同体の活動やペトロの働きを見てきた(あるいはその伝承を集めてきた)ルカは、マルキオンに対抗してペトロを立派な真正の使徒として描く必要に迫られます。その結果、使徒言行録のペトロは、パウロ書簡に見られるペトロ像とは対極的なペトロとなります。立派な使徒としての面を強調する使徒言行録のペトロの描き方は、ペトロの使徒としての資質を問題視するマルキオンに対抗する必要という状況にもっともよく適合します。
 さらに使徒言行録のペトロは、パウロより先に異邦人に福音を伝える突破口を開いた使徒として描かれています。八章では、ユダヤ教と対立しているサマリア教徒に福音を伝える活動においてペトロは指導的な働きをしています。一〇章では、神の啓示に導かれて異邦人のコルネリウスに福音を伝えています。そして、この体験に基づいて異邦人の割礼が問題になったエルサレム会議で、異邦人が神の民に加えられるのに割礼とかユダヤ教律法の順守は必要でないと、パウロが言うようなことを主張しています(一五・七〜一一)。このようなペトロの描き方は、ペトロをパウロの異邦人伝道に立ちはだかる妨害者のように扱うマルキオンの主張を論駁しています。

パウロの描き方

 使徒言行録の後半の主人公はパウロです。パウロの描き方で最初に注目されるのはペトロとの並行関係です。使徒言行録前半のペトロと後半のパウロは、同じような内容の福音を告知し、同じように異言を伴う聖霊のバプテスマをもたらし、同じように多くの病人をいやし、足なえの人を立たせたり死人を生き返らせるなど同じような奇跡を行い、同じように獄舎から解放され、同じように審問されて弁証しています(詳しくは使徒言行録の内容を扱う本章第三節で)。この並行関係は早くから注目され、この事実からバウアーは、使徒言行録の著作目的はペトロが代表する「ユダヤ人キリスト教」とパウロが代表する「異邦人キリスト教」を調和させるためであったという議論を展開しました。

最近この並行関係を詳しく検討したクラークは、その著作 Andrew C. Clark, Parallel Lives, Paternoster Press, 2001 でルカの目的を、二人の指導者を調和的に描くことで共同体の中のユダヤ人区分と異邦人区分の一致を示すことであるとしています。
彼はこの著でこの並行関係はプルタルコスの著作 Parallel Lives に範を取ったとしています。 この議論からタイソンは、プルタルコスの Parallel Lives は一一五年頃までは出ていないから、使徒言行録の成立は一一五年以降であると論じています。

 使徒言行録におけるパウロの描き方で、もっとも重要であり問題となるのは、ルカがパウロのユダヤ教伝統に忠実な面を強調して描いていることです。パウロ書簡に見られるパウロのユダヤ教に対する姿勢と、使徒言行録で描かれているユダヤ教伝統に忠実なファリサイ派ユダヤ教徒としてのパウロの姿はかなり違います。それがあまりにも違うとして、バウアーはルカが自分の神学に合わせるようにパウロの姿を歪めたとしました。それに対してハルナックは、ユダヤ教伝統に対する忠実さは本来パウロに内在しており、特殊な状況に対処するために書かれた書簡では顕在していないが、ルカの記述はその面を取り出したものだと、ルカの記述を擁護しました。このパウロ書簡のパウロと使徒言行録のパウロの間の距離は、その後の使徒言行録解釈の争点として議論が続いています。
 しかし、ここはパウロの実像を探求する場ではありません。その探求はやはりパウロ自身の筆になる書簡からなすべきでしょう。ここはルカが使徒言行録でパウロをどう描いているかを調べて、ルカの意図を探ることが主題です。主要な場面でのパウロの描き方を検討してみましょう。
 1 使徒言行録においてパウロの福音活動は一定のパターンで描かれています。どの都市に入ってもパウロはまずユダヤ人の会堂に入ってユダヤ人にイエスをメシア・キリストとして告知しています。ユダヤ人がパウロが告知するイエス・キリストを受け入れないので、パウロは異邦人に向かいます。このパターンが繰り返し語られますが、この語り方は、ユダヤ人がキリストの民と対立しているのはパウロの意図によるものではなく、ユダヤ人がパウロを拒否しているからであることを強調しています。使徒言行録のパウロは繰り返し繰り返しユダヤ人の会堂を訪れ、イエスこそユダヤ人の待望を実現する方、聖書を成就する方であることを告げ知らせています。この描き方は、イエスはユダヤ人の神、聖書の神とは別の神から遣わされたとするマルキオン派の主張を反駁しています。
 2 パウロとエルサレムの使徒団との関係について、ルカはパウロ書簡と違った描き方をしています。まず目立つのは、パウロが書簡で自分は使徒であることを繰り返し強調しているのに対して、ルカは使徒言行録においてパウロを使徒と(ほとんど)呼んでいない事実です。「使徒」という称号は、イエスが選ばれた十二人に限定されています。イエスを裏切ったユダが自殺したあと欠員を補うさい、ペトロは使徒の条件を「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネのバプテスマのときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」と語っています(一・二一〜二二)。この条件からすると、パウロは使徒ではありえません。
 ところが先に「ほとんど」と書いたのは、例外があるからです。一四章で二回(四節と一四節)でパウロとバルナバが使徒と呼ばれています。この問題については研究者の間で議論が続いています。ここでその議論に立ち入ることはできませんが、使徒言行録の後半でほとんどパウロ一人に焦点を絞って異邦人への福音活動を描いたルカが、パウロを異邦人への使徒であることを否定しているとは考えられません。ルカはその事実の記述をもってパウロを異邦人への使徒として描いています。しかし、「使徒」という称号はエルサレムの十二人に限定しているのは、先にみたペトロを理想的な使徒として描く描き方と共に、エルサレムの指導層を偽使徒とするマルキオンに対抗して、彼らは真実にイエスによって立てられた本来の使徒であることを強調するためであると考えられます。その中で、一四章の例外はパウロを使徒と見ているルカの本音が漏れた結果であると考えられます。
 マルキオンはガラテヤ書によって、パウロが使徒であるのはエルサレムの使徒団とはまったく無関係に復活の主から来たものであり、エルサレム使徒団からの要求に屈することなく対抗的に働いたとしました。それに対してルカは、パウロがエルサレム使徒団と協調的に働いたことを強調します。マルキオンはパウロを唯一の使徒とし、エルサレムの指導層を偽使徒としました。それに対してルカは、エルサレムの十二人こそ本来の使徒であり、彼らと一致して働くパウロを描きます。使徒言行録のパウロは繰り返しエルサレムを訪問して、使徒たちと相談し、挨拶(報告?)しています。その一致の典型的な例は一五章のエルサレム会議の描き方に見られます。
 エルサレム会議については二つの報告があります。すなわち、パウロの報告(ガラテヤ書二章)とルカの報告(使徒言行録一五章)です。この二つの報告が同じ会議のことを報告していることは、異論もありますが、現在では広く認められています。この会議の報告がパウロとルカではかなり違っており、その解決(説明)が新約聖書学における難問の一つとなっています。わたしも前著『福音の史的展開T』において、二つの報告を並べて紹介し、その違いと理由には立ち入らず、エルサレムの使徒たちがパウロの無割礼の福音を承認したという結論だけを福音の歴史的展開において意義のあることとして取り上げ、叙述を進めていきました(同書348頁「二つの記事の関係」参照)。しかし、ここではルカによるパウロの描き方を扱っていますので、ルカが使徒言行録でエルサレム会議を描いている仕方とその意義を検討しなければなりません。
 ルカはエルサレム会議の経緯を叙述するのにパウロのガラテヤ書を資料として用いています(これは重要な論点ですので項を改め次項で詳しく扱います)。ところが、ルカが描くエルサレム会議は、パウロがガラテヤ書で語っている内容とかなり違います。むしろ反対の面が出ています。パウロの証言によると、この話し合いはエルサレムの「おもだった人たち」との個人的な話し合いですが、ルカはそれをエルサレム共同体の「使徒たちと長老たち」が集まった公式会議で、議長役の「主の兄弟ヤコブ」の裁定で決まった決議にしています。
 パウロはガラテヤ書で、異邦人信者への割礼の要求を一歩も退かず拒否し、連れて行った異邦人信者のテトスも割礼を強要されなかったことをあげて、主張を貫徹したことを述べています。それに対してルカは、テトスのことには触れず、すぐ後にパウロがテモテに割礼をしたことを伝えています(一六・一〜三)。さらに会議では、ペトロがコルネリウスのところで体験したことを引き合いに出してパウロの主張を代弁したとしています(この一五・七〜一一のペトロのスピーチにはパウロ書簡の用語や表現が強く反映しており、ルカがパウロ書簡を資料として用いた実例とされます)。これはパウロがガラテヤ書(二・一一〜一四)で語っているペトロとは違います。
 また、パウロは「実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした」と証言しています。ところが使徒言行録では、ヤコブの裁定で異邦人信者が避けるべき四項目が定められ、それを求める書簡をパウロ自身がアンティオキアに伝えています(一五・一九〜三一)。この四項目はぎりぎりまで軽減された形ではありますが、やはりユダヤ教律法の祭儀規定に他なりません。パウロがこのようなモーセ律法順守の要求を受け入れたとは考えられません。もしパウロがそれを受け入れていたのであれば、アンティオキアでの異邦人との食卓をめぐる衝突も起こらなかったでしょうし、ユダヤ人と異邦人を含む諸集会でのトラブル(コリントT八章、ローマ書一四章)に心を痛めることもなかったでしょう。パウロ書簡にはパウロがこの「使徒教令」と呼ばれる書簡を知っていた痕跡はありません。
 このようなルカの書き方は、ルカはパウロ書簡のパウロ像を変えようとしていると感じさせます。復活者キリストから直接受けた啓示に基づき、エルサレムからの割礼やユダヤ教律法順守の要求を厳しく拒否するパウロを、エルサレム使徒団と協調して一緒に働くパウロに変え、パウロとペトロとの間には違いはないことを強調しようとしています。これは、これまで言われてきたように「ユダヤ人キリスト教」と「異邦人キリスト教」の一致、共同体の中のユダヤ人グループと異邦人グループの一致など、総じて最初期共同体の美しい一致を描こうとするルカの著述意図からも説明できますが、これをマルキオンに対抗するためという文脈においてみると、さらにその意義が明確に浮かびあがります。ここでルカが強調している諸点は、まさにマルキオン派のパウロ像(エルサレムの偽使徒たちと対抗して福音を宣べ伝えたパウロ)を修正するためという目的に一致します。
 3 ルカは使徒言行録においてパウロをユダヤ教の諸伝統に忠実な働き人として描いています。そのことはとくにルカが構成したパウロのスピーチによく表れています。当時の文学的手法では著者が読者に訴えたいことを登場人物に語らせることは普通でしたが、ルカもその著作の使徒言行録で今自分が訴えたいことをパウロに語らせています。もちろんルカもパウロの福音活動の証人として、キリストの出来事を救いとして告知するパウロの福音告知の基本的内容を伝えています。しかし、そのさい重点の置き方を見ると、ルカがマルキオンのパウロ理解を反駁しようとしている意図が見えてきます。
 第一のグループは、パウロが福音を告知するときのスピーチです。先に見たように、パウロはどの都市に入ってもまずユダヤ人の会堂に入って、ユダヤ人と神を敬う異邦人求道者に語りかけます。その会堂での福音告知の代表例が一三章(一六〜四一節)のピシディア州のアンティオキアにおけるスピーチです。そのスピーチでパウロは、父祖アブラハムから説き起こし、モーセ、ダビデを経て洗礼者ヨハネに至る預言者たちを通して働き約束されたイスラエルの歴史を振り返って、イエスの出来事はその預言者たちの約束を成就し、イスラエルの歴史を完成する出来事だと告知しています。これは、イエスの神はユダヤ人の歴史と関係のない神、聖書の神とは別の神であるとするマルキオンに対する全面的な拒否です。その他、異邦人に福音を告げるときも、アテネでのアレオパゴス・スピーチ(一七・二二〜三一)が代表しているように、まず神を天地の創造者として告知し、その神がイエスを復活させて世界の救済者とされたことを告知しています。これも、マルキオンがイエスの神を世界の創造者なる神とは別の神としたことへの反論となっています。
 第二のグループは、パウロが訴えられ裁判にかけられたときのパウロの弁明です。パウロが異邦人諸集会の献金を携えてエルサレムに来たとき、エルサレム共同体の長老たちは、パウロが世界のユダヤ人にモーセ律法から離れるように教えていると伝えられているから、誓願をかけているユダヤ人と一緒に神殿で清めの儀式にあずかり、そうすることで律法に忠実であることを示すように勧告します(二一・一七〜二六)。パウロがこの勧告に従い、神殿での清めの儀式を終えて出てきたところに、アジア州(マルキオンの活動の舞台)から来ていたユダヤ人が、「この男は民(ユダヤ人)と律法(聖書)とこの場所(神殿)を無視することを至るところで教えている」と叫んで騒乱を起こし、その結果パウロはローマ守備隊に逮捕されることになります。
 逮捕されたパウロは次々と裁判にかけられますが、その裁判でパウロは自分がいかにユダヤ教律法に忠実であるかを、繰り返し弁明しています。逮捕直後にユダヤ人民衆に語りかけたスピーチ(二二・一〜二一)でも、最高法院での弁明(二三・一〜六)でも、総督フェリクスの裁判でも(二四・一〇〜二一)、アグリッパ王の前でも(二六・一〜二三)、パウロは自分が律法に熱心で忠実なファリサイ派ユダヤ教徒であり、律法の順守において何の落ち度もないことを証言しています。ルカは繰り返し裁判の経過を詳しく語り、くどいほどパウロがユダヤ教律法に忠実で、聖書の預言の成就者としてイエス・キリストを宣べ伝えていることを強調しています。
 二世紀初期においてパウロはマルキオン派に取り込まれて、律法、ヘブライ聖書《トーラー》、ユダヤ教の諸習慣に反対する者と見られるようになっていました。使徒言行録の著者はパウロをマルキオン派から救出するために、パウロを熱心なユダヤ教徒であり、ユダヤ教の伝統と待望に忠実なファリサイ派ユダヤ人として描いたと言えます。

ルカとパウロ書簡

 使徒言行録には多くの謎があります。たとえば、使徒言行録の終わり方が謎です。パウロの最後を知っているはずのルカが、なぜ裁判の結果を報告せず、あのような終わり方をしたのか、この謎に対して様々な説明が試みられていますが、解決は見つかっていません。多くの謎の中で重大なものは、パウロ書簡を知っているはずのルカが、なぜパウロ書簡と違うこと、ときには矛盾することを書いているのかという謎です。わたしにはこれが使徒言行録の最大の謎です。ここでルカとパウロ書簡の関係をまとめて見ておきましょう。
 この謎に対する説明の一つに、ルカはパウロ書簡集を知らなかったという説があります。これは使徒言行録とパウロ書簡集の成立時期の問題となります。パウロ書簡集の成立がいつ頃かは争われていますが、牧会書簡を除くパウロ十書簡集が成立したのは一世紀末と見てよいでしょう。コロサイ書やエフェソ書という七〇〜九〇年代の成立文書を含む以上、それより後であることは確実です。そして二世紀初頭にパウロ十書簡集を知っていて、それを自分用の聖書にすることができたマルキオンより前であることは確実だからです。このように見ると、使徒言行録の成立を六〇年代に見る早期説も七〇〜九〇年代とする中期説も、ルカはパウロ書簡集を知らなかったとすることは可能ですが、ルカがパウロ十書簡集を知らなかったという可能性はきわめて低い、まずありえないと考えられます。
 ルカはパウロの福音運動の流れに属する著述家です。古代教会の伝統では、ルカはパウロの伝道旅行の同行者であり、最後までパウロと一緒にいた医者のルカです。最近ではこの伝統的な著者説を取らない研究者が多いのですが、少なくともパウロの福音運動の流れにおいて著述した人物であることは確実です。

わたしは、パウロの伝道旅行に同行した二〇歳代の青年ルカが、その最晩年(八〇歳代)に使徒言行録を執筆した可能性は十分にあると考えています。その執筆地がエフェソであることは、ヘルメネイア注解シリーズで使徒言行録を書いている Pervoが説得的に論証しています。エフェソにはルカの墓があることも参考になります。 

 しかも使徒言行録の成立地は、その記述の視点の置き所などから、エフェソと見られます。パウロ書簡集の集成の地であるエフェソで執筆しているパウロの継承者ルカ(しかも各地の資料を熱心に収集して著作している歴史家ルカ)が、パウロ書簡集を知らないというようなことは、まずあり得ません。事実、使徒言行録の文章には、ルカがパウロ書簡集を知っており、それとの綿密な比較はルカがそれを資料として用いていることを示しています。

使徒言行録の著者がパウロ書簡集を資料として用いていることの論証は、左記の文献によります。
  Richard I.Pervo, Dating Acts : Between the Evangelists and the Apologists, Polebridge Press, 2006
この著作において Pervo は使徒言行録の資料問題を詳細に論じています。ルカがパウロ書簡集を資料として用いていることは、パウロ書簡と使徒言行録の文章を、その内容だけでなく、単語や文章の構成に至るまで綿密に比較して、ルカがパウロの手紙を利用していることを論証しています。その事例は多数にのぼり、すべてを紹介することはできませんので、典型的な場合としてガラテヤ書との比較の数例をあげておきます。

 ルカは回心前のパウロの迫害行動を「滅ぼす」という動詞を用いて描いています(九・二一)。このギリシア語の動詞の使用は比較的珍しく、新約聖書と初期キリスト教文書では、こことガラテヤ書の二箇所(一・一三、二三)に出てくるだけです。この事実は、ルカの使用はガラテヤ書に依存していることを強く推察させます。また、回心前のパウロのユダヤ教への熱心を記述する「熱心であった」という分詞形を用いた特異なギリシア語表現は、当時のギリシア語文献でパウロ自身の使用(ガラテヤ一・一四)とルカの使用例(二二・三)の二例だけという事実も、ルカのガラテヤ書利用を推察させます。
 さらに、パウロは自身の回心体験を「(神は)彼の子《ヒュイオス》を啓示された」ことと記述し、異邦人への使徒として召されたことを一体として語っていますが(ガラテヤ一・一五〜一七)、ルカもパウロの福音告知活動の第一声として「この人こそ神の子《ヒュイオス》である」という表現を用いています(九・二〇)。「神の子」という表現は使徒言行録でここだけであるという事実、またルカは使徒言行録ではいつもパウロに回心体験と異邦人への使徒としての召命を一体で語らせているという事実は、ルカがガラテヤ書におけるパウロの記事に依存していることを推察させます。
 また、「聖霊の約束を受ける」という表現がガラテヤ書(三・一四)と使徒言行録(二・三三)で用いられていること、律法が「天使たちを通して制定された」という同じ表現がガラテヤ書(三・一九)と使徒言行録(七・五三)で用いられていることなど多くの表現の一致が、さらにルカのガラテヤ書依存を補強します。
 しかし、ルカとガラテヤ書の関係でもっとも大きな問題となるのは、エルサレム会議についての使徒言行録一五章とガラテヤ書二章の記述です。ここでもルカはガラテヤ書を資料として用いていることは十分推察できます。両方に見られる「割礼、無割礼」という語の用法(ガラテヤ二・七、一二と使徒一〇・四五、一一・二〜三)、「軛」という語の使用(ガラテヤ五・一と使徒一五・一〇)、とくにルカが構成するペトロの演説(一五・七〜一一)は、「信仰によって」義とされるというガラテヤ書の主張と同じことを言っています。もっとも最後の「恵みによって救われる」という言い方はパウロ名書簡のエフェソ書(二・八)の表現に近いものです。
 ところが同じ会議のことを報告しながら、先に見たようにルカとパウロでは内容がかなり違います。先に両者の違いを述べていますので繰り返しませんが、これはバウアー以来言われてきた「ユダヤ人キリスト教と異邦人キリスト教の一致」という視点からも説明できます。しかし、パウロがヤコブを首座とするエルサレム使徒団の裁定に服しているような描き方は、マルキオンに対抗するためという意図から見るとき、もっとも適切に理解できます。
 ルカはガラテヤ書のパウロを覆い隠しています。ルカにとってマルキオンが最重要視したガラテヤ書はもっとも隠してしまいたいパウロ書簡です。「使徒言行録は実に巧妙な仕方でガラテヤ書を覆い隠そうとしている。一五章はもっとも成功した事例の一つである」(R・パーボ)と言われます。これは典型的な事例ですが、ルカはパウロ書簡集を資料として用いながら、使徒言行録全体でパウロ書簡集のパウロ像を覆い隠しています。これはなぜ、何のためでしょうか。
 それはマルキオンに対抗するためであると見なければなりません。マルキオンは自派の聖書として「福音書と使徒」という構成の聖書を策定しました。マルキオンは「使徒」の部分を(自分流に改訂した)パウロ書簡で構成し、おもにガラテヤ書とローマ書によって他の使徒たちと対立して律法(ユダヤ教)とはまったく関係のない福音を告知するパウロを提示し、それを「対立論」で論証しました。ルカはそのマルキオン聖書に対抗して、その「福音書と使徒」の「使徒」の部分を「使徒言行録」として著述して、パウロ書簡集(とくにガラテヤ書)のパウロを隠し、マルキオンとは違うパウロ像を描きます。すなわち、ユダヤ人の聖書と伝統に忠実なパウロ、福音をユダヤ教聖書の成就として告知するパウロ、ペトロと同じ福音を告知するパウロ(むしろパウロと同じ福音を告知するペトロ)、エルサレム使徒団と協調するパウロを描きます。マルキオンが改訂したパウロ書簡と「対立論」でしたことを、ルカはパウロ書簡を隠し、ペトロとパウロの物語を書くことで、マルキオンとは反対のパウロ像を描き出します。
 もう一つの大きな問題は、エルサレム共同体への献金の問題です。パウロがエルサレム会議での要請(ガラテヤ二・一〇)を受けて、自分が設立した異邦人の諸集会から献金を集めようと努めたことはコリント書簡からも明らかです(T一六・一〜四)。その募金活動のために誤解を受けて非難されたり、大変な苦労をしたことがコリント第二書簡(八〜九章)からもうかがわれます。パウロはエフェソを去った後、西に向かいローマ経由でイスパニア(スペイン)に行こうとしています。しかし、それまでにエルサレムに献金を届ける責任を果たそうとして、危険を覚悟してエルサレムに向かいます(ローマ一五・二二〜三三)。実際、パウロはこの献金を届けるためにおもむいたエルサレムで逮捕され、裁判を受ける身となります。このようなパウロの生涯にとっての重大問題を、ルカは使徒言行録で完全に無視して一言も触れていません。これは、この献金がヤコブに代表されるエルサレム共同体によって拒否され、それがパウロの命取りとなったことを知っているルカが、エルサレム使徒団とパウロの対立を強調するマルキオン派に好材料を与えないために隠したのではないかと考えられます。ただ、パウロがエルサレムの聖徒たちのために援助の努力をしたことは、飢饉援助の形で報告しています(一一・二七〜三〇)。そのさい「それを実行し」という表現で、ガラテヤ書二・一〇でパウロが用いた独自の表現を利用していることを示唆しています。このように見てくると、パウロ書簡集を知っていながらパウロ書簡集とは違うパウロ像を描く使徒言行録の多くの謎が解けます。

Y ルカ福音書の成立過程

初版ルカ福音書

 先にマルキオン福音書の成立について述べたところで、マルキオンがルカ福音書の多くの部分を削除して自派の福音書として用いたというエイレナイオスやテリトゥリアヌスなどの教父たちの主張に対して、マルキオンは現行の正典ルカ福音書から削除したのではなく、当時彼の手元にあった福音書をある程度改編して自派の福音書としたという見方を紹介しました。そのさい、マルキオンが用いたルカ福音書を「初版ルカ福音書」と呼ぶことにしました。ここでその「初版ルカ福音書」の存在と内容について検討してみます。
 すでにバウアーが一八四七年の著作で、マルキオン派ではないパウロ主義者によって元の形のルカ福音書が書かれており、正典のルカ福音書の著者はこの元の版の福音書を資料として用いて、それにマタイ福音書からの材料と手元にある独自資料を加えて、マルキオンに対抗するための福音書を成立させたとしています。その後(おもにドイツで)元の版のルカ福音書とマルキオン福音書と正典ルカ福音書の関係が激しく議論されてきましたが、それらの一九世紀の議論をノックスはまとめて、「その議論はマルキオンが正典ルカ福音書を削除改変したという伝統的な見方を確認することはなく、むしろルカ福音書はマルキオン福音書から出たという見方とマルキオン福音書は正典ルカ福音書から出たという見方の両方を否定する新しい見解に至った」と言っています。その上でノックスは「元の版の福音書がある程度短縮されてマルキオン福音書となり、かなり拡大されて正典ルカ福音書となった。この正典ルカ福音書の著者は使徒言行録の著者でもある」という立場をとっています。

元の版のルカ福音書を「原ルカ福音書」と呼びたいのですが、これは避けます。 それは、ストリーターらによって出されている Proto-Luke Theory (原ルカ説)との混同を避けるためです。この説は、一番最初のルカ(原ルカ)は「語録資料Q」とルカ特殊資料Lから成っており、後でマルコを知って、マルコの材料を加えて次の版ができたとします。ストリーターは、その版は三章一節から始まっていたとし、後で誕生物語を加えて、現在の形のルカ福音書が出来上がったとしています。現在の研究者の多くはこのProto-Luke Theory を採りませんが、本来のルカ福音書は三章一節から始まっていたとする人は、R・E・ブラウンやJ・A・フィッツマイアーなど有力な研究者が多くいます。

 では、この「初版ルカ福音書」の内容はどのようなものだったのでしょうか。それはほぼ現行のルカ福音書の三章から二三章(正確には二四・一〜一二も含む)までの部分であったと考えられます。論述の順序が前後しますが、後で見るように一〜二章の序文と誕生物語および二四章(正確には一三節以下)の復活されたイエスの顕現物語は、マルキオン福音書が現れてから、それに対抗するために書き加えられた部分と見られるので、マルキオンが用いることができた初版のルカ福音書は、ほぼ現行のルカ福音書の三章から二三章の本体部分に相当すると考えられます。
 ただ、僅かの箇所ですがこの本体部分にもマルキオンに対抗するために書き加えられたり、変更されたりする部分があると見られます。たとえば、五・三六〜三八の古いぶどう酒と新しいぶどう酒の比喩は、マルキオンが古いユダヤ教律法と新しいイエスの福音が相容れないことを論証するのに用いた比喩ですが、その後に加えられた三九節は、古いユダヤ教伝統の価値を見直すために正典ルカ福音書の編者が加えたと見られます。また、一六章の一七節は直前の一六節と相容れず、解釈困難な箇所ですが、これもマルキオンに対抗するため、二一・三三の「わたしの言葉は過ぎ去らない」を「律法の文字の一画」に変えて挿入した可能性が考えられます。その他多少の語句の変更が推察されています。
 このような僅かの改変が考えられますが、基本的に初版のルカ福音書は、現行ルカ福音書の洗礼者ヨハネの活動から空の墓に至る三〜二三章から成っていたとみることができます。マルキオンはこの本体部分からも自分の福音理解に合わないところを削除しましたが、付け加えることはなかったと考えられます。マルキオンは著者ではなく文献批評家であり、テキストの校訂だけに徹していたようです。したがって、現行の正典ルカ福音書には、マルキオンによる付加部分が紛れ込んでいる可能性はないと見られます。
 なお、放蕩息子のたとえ(一五・一一〜三二)がマルキオン福音書にはないとされていますが、これは削除されたとすると、兄がユダヤ人を指すと解釈され、その兄に「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(ルカ一五・三一)という言葉がマルキオンをつまずかせたと見なければなりません。しかし、このたとえは全体としてパウロ的な恩恵の神を指し示していますから、マルキオンが削除したのではなく、初版ルカ福音書になかったものがマルキオン以後の増補版で加えられたと見る見方も可能であり、決定できません。また、十字架上の二人の盗賊の記事(二三・三九〜四三)は削除する神学的な理由は見当たらないので、初版ルカ福音書にはなく、マルキオン以後の増補版で加えられた可能性を考えなければなりません。

マルキオン福音書

 マルキオン福音書の写本は現存していません。異端とされたマルキオン派の文書は徹底的に絶滅させされたからです。ここでルカ福音書と比較されるマルキオン福音書は、教父らの異端論駁の著書に引用されている文から、ハルナックら現代の研究者によって復元された仮説の文書です。したがって、その比較も厳密なものではありえませんが、それでもかなりの確実さをもってマルキオン福音書の内容が推定できます。
 まず大枠で見れば、マルキオン福音書には誕生物語と顕現物語がありません。マルキオン福音書は現行のルカ福音書の三章から始まっています。それは彼が用いた初版ルカ福音書が三章から始まっていたからです。そして空の墓の記事まではありますが、それ以降の復活されたイエスの顕現物語の多くの部分はありません。これもマルキオンに対抗するために正典福音書の著者が書き加えた部分と見られます。
 マルキオンは初版ルカ福音書を自派の福音書とするために、その中にあるユダヤ教的な部分を、パウロの福音を曲げようとするユダヤ主義者による変造と見て削除します。その主要なものをあげると以下のようになります。数字は現行のルカ福音書の章節です。

1 洗礼者ヨハネの活動とイエスのバプテスマについての記事(三・二〜二二)。マルキオン福音書は三・一から始まりますが、二節以下のユダヤ教の大祭司の名と洗礼者ヨハネの活動をすべて削除しています。マルキオンはユダヤ教の預言者の系列に属するヨハネとイエスとの関係を認めようとはしません。
2 イエスの系図(三・二三〜三八)。マルキオンは、イエスがユダヤ人の待望を成就する方であるとする主張を避けたのでしょう。
3 荒野の誘惑の記事(四・一〜一三)。マルキオンはイエスがユダヤ教聖書を権威として用いられたことを認めようとはしません。
4 裁きの記事(一三・一〜九)。イエスの神は恩恵の神であって裁きの神ではないという主張に合わないから、また、ユダヤ教徒についての記事だから削除したのでしょう。
5 放蕩息子のたとえ(一五・一一〜三二)。マルキオン福音書にありませんが、前述したように、これはマルキオンが削除したのか、初版になかったものをルカが増補版で加えたものか決定できません。
6 受難予告(一八・三一〜三三)。イエスの受難と復活が聖書の預言の成就であるとすることは、マルキオンは認めません。
7 イエスのエルサレム入りと神殿での商人追放の記事(一九・二九〜四六)。マルキオンはイエスがエルサレムと神殿に重大な関心をもたれることはないとしたからでしょう。
8 イエスがエルサレムのために泣かれた記事(一九・四一〜四四)。イエスがユダヤ教神殿に同情的であることを避けたからでしょう。
9 二振の剣の記事(二二・三五〜三八)。イエスの愛敵の精神と両立しないという判断からでしょう。
10 十字架上の二人の盗賊の記事(二三・三九〜四三)。これもマルキオンが削除したのか、初版になかったものをルカが増補版で加えたものか決定できません。

ハルナックはマルキオン福音書の復元にあたって、正典ルカ福音書から削除されたとされる部分について、「確実に削除」、「おそらく削除」、「不確か」などのコメントをつけています。ここにあげた例は本体部分(三〜二三章)で「確実に削除」とされたものの主要な例です。
タイソンは、ハルナックの復元に基づいてルカ福音書とマルキオン福音書の比較をしたノックスの研究を継承し、マルキオンにもあるルカの記事(A)、マルキオンにはないルカの記事(B)、マルキオンにあるかどうかが不確実な記事(C)の節の数と単語の数を集計して、正典ルカ福音書と初版ルカ福音書の両方の場合について正確な数字をあげています。Bの記事は、初版ルカ福音書よりも正典ルカ福音書において、共観福音書に並行記事がある部分よりもルカだけの記事がはるかに多い事実をあげて、これは正典ルカ福音書を書いた著者が自分だけの資料を用いて(誕生物語と顕現物語を)増補した結果だとします。

 なお、ペトロがイエスに「あなたはメシアです」と言い表したとき、ペトロは受難を予告されたイエスを諫めますが、そのペトロをイエスが叱責されたというマルコ(八・三二〜三三)の記事を、ルカは省略しています。さらにエルサレムを前にして再度受難を予告された直後、ヤコブとヨハネがイエスの栄光の座の右と左に座らせてくださいと願ったマルコ(一〇・三五〜四五)の記事も省略しています。ペトロとヤコブとヨハネというイエスの弟子団でもっともイエスの身近にいた三人の無理解ぶりを暴露するこの記事がルカにはない(マタイにはあります)という事実は何を意味するのか、ハルナックでもタイソンでも十分議論されていません。マルキオン福音書にあったのかどうかは確認できませんが(教父文書に言及がないことは一〇〇パーセント確実な根拠にはなりません)、初版ルカ福音書にあったので、弟子たちの無能ぶりを示す好材料としてマルキオンが用い、それを不都合としてルカが正典福音書の編集時に削除した可能性を考えなければなりません。ハルナックはマルキオンが正典ルカ福音書から削除したという立場ですから、正典ルカ福音書にない記事を取り扱うことはできません。しかし、タイソンのように初版ルカ福音書を想定する場合は、初版ルカ福音書にあったのをマルキオンが用い、それをルカが正典福音書の編集時に削除した可能性を考えなければなりませんが、その可能性は議論されていません。ペトロとヤコブ・ヨハネ兄弟に関するこれらのマルコの二つの記事がルカにない事実は、ルカ福音書の理解にとって重大な意義を持つと考えられますので、次節でルカ福音書を扱うさいに取り上げることにして、ここではマルキオン福音書との関わりの可能性を指摘するにとどめます。

増補改訂版ルカ福音書

 マルキオンの活動に接し、おそらくマルキオンの福音書を見たルカは、使徒たちから伝えられた伝承を正確に伝えてマルキオンに対抗するため、すでに手元にある初版の福音書を増補改訂します。ルカはすでにマルキオンに対抗するために使徒言行録を書いていますが、それをテオフィロに献呈するために、福音書の方も増補改訂して、使徒言行録と一緒にして一組とし、序文をつけて二部作として献呈します。序文というものは、全著作が完成してから後に書くものであることは著作の常です。序文は後で検討することにして、先に初版の福音書に書き加えられた増補の部分について検討します。
 出来上がった著作を増補改訂する場合、その前と後ろに書き加えるのがもっとも容易な仕方です。ルカは初版福音書の前に、イエスの誕生と少年時代の逸話を含む「誕生物語」を書き加え、最後に空の墓の記事の後に、独自の「顕現物語」を加えます。書き加えた部分は、ルカの特殊資料(L)をもってルカの筆で書かれており、他の福音書に並行記事のないルカ独自の特色ある記事を形成しています(マタイとルカの誕生物語はまったく別起源のものであり、「並行記事」ではありません)。

1 「誕生物語」(一・五〜二・五二)

 ルカの誕生物語は、三章一節から始まる本体部分と文体や思想内容において大きな違い(落差、分裂)があることは、マルキオンのことを考慮に入れていない研究者によっても以前から注目されていました。まず物語の雰囲気が違います。誕生物語を読んで受ける印象は、本体部分の印象と違います。本体部分ではイエスはユダヤ教社会と厳しく対決しておられ、ついに逮捕され処刑されるに至ります。家族関係についてもイエスの激しい発言が目立ちます。本体部分では厳しい雰囲気が漂っていました。それに対して誕生物語では、イエスの家族はユダヤ教律法に忠実で何の問題も起こっていません。家族関係も普通の家族愛で描かれ、全体として穏やかな雰囲気に満ちています。誕生物語を読む者は、神殿を中心とする敬虔なユダヤ教の世界に引き入れられます。
 用語や文体においても落差が見られます。ルカは七十人訳ギリシア語聖書のギリシア語を範として著述しているようですが、本体部分と較べると誕生物語では一段と七十人訳ギリシア語聖書に依存する面が強くなり、意図的な模倣も見られるとされます。また、研究者によって誕生物語のギリシア語にはセム語用法の影響が指摘されています。なによりも聖書からの引用が多くなります。ルカは異邦人に向かって書いていますから、本体部分ではあまり聖書を引用していません。ところが誕生物語では繰り返し聖書が引用され、出来事は聖書を成就するためとして語られ、聖書によって意義づけられます。
 内容においては洗礼者ヨハネとイエスの並行関係が目立ちます。ヨハネとイエスの誕生が、その予告においても賛歌においても、さらにその奇跡的誕生においても同じように描かれています。この並行関係は、使徒言行録におけるペトロとパウロの並行関係を描いた筆致を思い起こさせます。これは、本体部分でイエスがヨハネからバプテスマを受けた事実を明確にしないという扱い方と対照的です。
 何よりも重要な点は、ユダヤ教に対する姿勢です。誕生物語においては、神殿での祭儀制度や祭司の供犠が当然とされ、律法に忠実なユダヤ人が毎日の敬虔な礼拝生活をしており、聖書の約束に基づく待望に生きています。ルカの誕生物語は、新約聖書の中で他のどの記事よりもユダヤ教に好意的な記事だとされます。
 このような誕生物語の特色は、マルキオンとの対決という視点がなくてもある程度説明できますが、これらの特色はマルキオンに対抗するためであると見るとき、もっとも適切に説明されると考えられます。この点をタイソンに従って見ていきます。
 まず何よりも誕生物語はイエスが一人の女性から産まれたという事実を語ることでマルキオンを反駁しています。マルキオン福音書のイエスは、三章一節の「皇帝ティベリウスの治世の第一五年に」、突如天からカファルナウムに現れます。――マルキオンは、イエスとユダヤ教の関係を極力避けるために、洗礼者ヨハネとイエスの関係を描く記事をすべて削除し、系図や荒野の誘惑も削除して、イエスのガリラヤ伝道活動から始めますが、ルカが最初に置いているナザレの会堂での説教は、四・二三の記事からしてカファルナウムでの働きの後でなければならないとして、四・三一〜三七のカファルナウムの記事を先にもってきています。―― マルキオンは、誕生の次第を語ることはイエスの「父なる神の子」である尊厳を引き下げることになるとして、できるだけイエスの人間としての面に触れないのに対して、ルカはイエスが女性から産まれた赤子から成長した一人の人間である事実を突きつけます。マリアが男の子を「胎に宿し産む」(一・三一直訳)というような天使の言葉はマルキオンにとって嫌悪すべき表現だったでしょう。イエスの誕生が処女からの誕生であるという記事についてはルカ福音書を扱う次節で取り上げます。ここでは誕生物語がマルキオンに対抗するために付加されたものであるという視点からの検討に限定します。
 誕生物語においてイエスとヨハネの並行関係が大きく扱われている事実は、マルキオンが洗礼者ヨハネに関わる記事を削除しているのに対抗して、洗礼者ヨハネの存在と活動がいかに重要であるか、ヨハネもイエスと同じく神から遣わされた使者であることを強調して、洗礼者ヨハネを無視したマルキオンの誤りを修正しようとしています。ヨハネとのつながりの強調は、聖書の預言者の系列とイエスのつながりの深さを示しています。
 誕生物語においてはイエスのユダヤ教とその聖書との強いつながり、とくにイエスはユダヤ教聖書の待望を成就する方として来られたことが強調されています。まずイエスの家族がダビデの家系に属することが繰り返され強調されています(一・二七、六九、二・四)。イエスはダビデの町にお生まれになります(二・一一)。そのことによってイエスはダビデへの約束を成就する方として来られたことが指し示されています。さらに聖書の預言書、とくにダニエル書とマラキ書から引用して、イエスこそ聖書の預言を成就する方であることが語られます。短い誕生物語の中で旧約聖書の人物八人が列をなして登場します。そして最後に、イエスが割礼を受けたこと(二・二一、イエスが割礼を受けたことに触れるのは新約聖書の中でここだけです)、神殿で律法の規定通りに聖別の儀礼によって主に献げられたことが報告されます(二・二二〜二四)。そのとき預言の霊に満たされたシメオンとアンナが、イスラエルの待望がイエスにおいて成就したことを宣言します(二・二五〜三八)。
 このようなイエスとユダヤ教とのつながりを強調するのは、旧約聖書を全面的に拒否したマルキオンに対抗するためという意図からもっとも適切に説明できると考えられます。

2 「顕現物語」(二四・一三〜五三)

 顕現物語の場合は、誕生物語の場合ほど単純ではなく、複雑に込み入っています。顕現物語には、誕生物語の場合に見られた三章一節のような明確な区切りの表現はありません。しかし、資料の用い方でかなり明確な区切りが認められます。すなわち、空の墓の記事まで(=二四・一二まで)著者はほぼ資料のマルコに従っていますが、それ以後はマルコから離れてルカの特殊資料だけを用いて、ルカだけの物語を進めていきます。
 タイソンはハルナックの復元に基づいて、二四章において次の諸節をマルキオン福音書にはない節としてあげています。

 二節     墓のわきに転がされていた石
 一〇節    墓に行った女性の名前
 一二節    墓に行ったペトロ
 二五〜二七節 聖書、預言者、モーセへの言及
 三四節    ペトロへの顕現の報告
 四二〜四三節 イエスが魚を食べた記事
 四四〜四六節 聖書と預言者への言及
 四九節    エルサレムにとどまれとの命令
 五〇〜五三節 イエスの昇天

 一〜一二節の「空の墓」の記事では、ルカはほぼマルコに従っていますが、重要な変更もあります。マルコ(一六・七)では「白い長い衣を着た若者」が女性たちに、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と言っています。「かねて言われたとおり」というのは、ゲツセマネに向かう途上でイエスが弟子たちのつまずきを予告されて、「しかし、わたしはあなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われたことを指しています。ところがルカでは、ゲツセマネ途上での予告の言葉はなく、空の墓で「輝く衣を着た二人の人」が女性たちに「あの方はここにおられない。復活なさったのだ」と告げたあと、「ガリラヤでお会いできる」とは言わず、「ガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」(六節)と言っています。この変更はルカのエルサレム中心主義の構想から出たことで、とくにマルキオンとの関係はないかもしれません。しかし、空の墓の記事の終わり方は問題になります。

空の墓の記事でルカは「主イエスの遺体」という表現を使っています(三節)。ルカは福音書でしばしばイエスを《キュリオス》と呼んでいますが、《キュリオス・イエスース》(主イエス)という表現はここ以外にはありません。ところが使徒言行録では《キュリオス・イエスース》という表現が一〇回以上出てきており、マルキオン以後に使徒言行録を書いたルカの手が空の墓の記事に入っていることをうかがわせます。

 マルコ(一六・八)では「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」という文で終わっています。それに対してルカでは、「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」となっています(一〇〜一一節)。この使徒たちの不信仰は、ペトロらユダヤ人使徒が不十分な使徒であることを指し示す格好の材料ですから、マルキオン福音書にはなくて後で加えられたとするよりは、マルキオン福音書にあった(すなわち初版ルカ福音書にあった)とする方が適切です。
 しかし、空の墓の記事を締めくくる一二節の「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」という記事は複雑です。この節が(ヨハネ福音書二〇章に酷似していることもあって)原本に属するものか後代の挿入によるものかについて、古写本の研究者の間でも議論があり決着していません。内容からすると、先行する一一節の内容とは切れ目があり、また後続するエマオ物語の中の空の墓に関するまとめ(二四・二二〜二四)とも食い違いがあり、この節は空の墓の事実を使徒による認証で権威づけようとする後代の(やや不器用な)努力と見なければなりません。
 エマオ物語(二四・一三〜三五)は、最初期の共同体に知られていた二人の弟子への顕現伝承(マルコ一六・一二)を用いてルカが構成したものですが、そこでは「預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」の心の鈍さが非難され、復活されたイエスは二人に「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだ」ということを、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とされています(二四・二五〜二七)。イエスの出来事(とくに受難)が聖書の成就であるという強調は、この記事がイエスの出来事を聖書と無関係とするマルキオンに対抗するために書かれたことを示唆しています。なお、ペトロへの顕現を弟子たちの報告という形で物語に入れていますが(三四節)、これはペトロへの顕現を最初の顕現とする伝承(コリントT一五・五)に合わせるためであると見られます。
 次ぎにおかれている弟子たちへの顕現の物語(二四・三六〜四九)は、二つの点を強調しています。一つは、復活されたイエスに身体があることの強調です。亡霊を見ていると思って恐れている弟子たちに、イエスは手と足を見せて触ってみるように促されます。さらに、焼いた魚を食べて見せられます(三六〜四三節)。これは、イエスの復活を霊的な現象とするマルキオンを反駁するためであると見られます。復活されたイエスが食物を食べられたこと、あるいは一緒に食事をしたことを強調するのはルカの特色です(ここと使徒言行録一〇・四一)。

ヨハネ福音書の補遺(二一・九〜一三)に、イエスが食べられたとは明言されていませんが、復活されたイエスと弟子たちが一緒に食事をしたことを語る記事があります。ルカはヨハネ福音書を知っていたかどうかは確認できませんが、ルカもヨハネもエフェソで執筆していると見られますので、エフェソにこのような復活されたイエスに関わる伝承があったと推察されます。

 もう一つは、イエスの出来事が聖書の成就であるということの強調です。イエスは「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と言って、その内容を「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と解説されます(四四〜四七節)。これもマルキオンを反駁するために構成された記事であることを推察させます。
 なお、この福音がエルサレムから始まるようになるために、弟子たちはイエスの昇天後もエルサレムにとどまるように命じられています。これはエルサレムを中心として福音の進展を描こうとするルカ二部作の構想から来るものですが、このようなエルサレムを中心とする構想は、聖書的伝統重視の結果の一つであると見られます。ユダヤ教聖書の世界で神の働きを語るにさいしてエルサレムが中心となるのは必然です。この二四章の終わり方は使徒言行録の開始を準備しています。イエスが天に上げられた後、弟子たちはエルサレムにとどまり、「絶えず神殿の境内にいて」神を賛美し祈り続けます。そこに約束されたとおり「高い所からの力」(聖霊)が降り、エルサレムから福音の告知が始まります。二四章の終わり方は正確に使徒言行録の最初と対応しています。この事実は、二四章がマルキオン後の使徒言行録の著者によって構成されたことを示しています。
 二四章におけるマルキオン(「マ」と略記)とルカ(「ル」と略記)の対比をタイソンは次のようにまとめています。

マ イエスの世界への出現はまったく預言されていなかった。
ル イエスは復活後、預言者たちをはじめ全聖書(旧約聖書)がイエスの生涯と死を予告していることを説かれた。

マ ペトロや他の使徒たちは偽りの使徒である。
ル 使徒たちはイエスによって復活の証人となるように委託された。

マ イエスの復活は霊的現象である。
ル イエスは復活後、霊ではなく身体があることを示し、使徒たちの面前で魚を食べられた。

マ ユダヤ人の宗教はイエスの宗教と何のかかわりもない。
ル イエスは弟子たちにエルサレムにとどまるように命じ、彼らは神殿にとどまった。

3 序文(一・一〜四)

 ルカ福音書(一・一〜四)の序文と使徒言行録(一・一〜二)の序文は明らかに一組一体であって、福音書と使徒言行録が一人の著者によって二部作として著述されたことを示しています。序文は全著作が完成してから最後に書かれるものであるという著作の常からしても、この序文は増補改訂版のルカ福音書と使徒言行録が完成して二部作としてテオフィロに献呈されるときに書かれたと見られます。そうすると、これまで見てきたようにルカ二部作はマルキオンに対抗するために現在の形に仕上げられたものであるとするならば、序文にもその意図が込められているとしなければなりません。このような立場から、タイソンはルカ福音書の序文に次のように解説を入れた形で訳しています。[ ]内はタイソンの解説です。

 わたしたちの間で実現した事柄[すなわちヘブライの預言者や聖書によって予告され、イエスの生涯と死と復活において、また使徒たちの福音告知において実現した事柄]について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々[すなわちイエス復活の証人として、また悔い改めの福音を告知するように、イエスによって立てられたペトロや他の使徒たち]がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています[たとえばマルコ、語録資料Q、初版ルカ、おそらくマルキオンや他の人々]。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく[すなわち、その本来の意味を示す形で]書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただき[マルキオンなどから来る挑発にのらないようにしていただき]たいのであります。

タイソンは左記のアレキサンダーの著作に基づき序文を検討し、著者の翻訳に自分の解説を挿入した形で序文を紹介しています。著者の翻訳は現行の新共同訳と実質的には変わりませんので、ここでは新共同訳にタイソンの解説を挿入した形にしています。
Loveday Alexander, The Preface to Luke's Gospel: Literary Convention and Social Context in Luke 1.1-4 and Acts 1.1
Cambridge University Press, 1993

 ルカ二部作をマルキオンの挑戦に対する応答と理解する限り、序文をこのように理解するのは当然です。しかし、ルカが二部作を著述したのはマルキオンに対抗するためだけだったのでしょうか。タイソンも決してそう主張しているわけではありません。彼はルカの著作意図を語るときに、「部分的に」(in part)を繰り返し、マルキオンへの対抗を著述の意図の一部として扱っています。タイソンは現形のルカ二部作成立の「状況」としてマルキオンへの対抗を論証しようとしているのであって、マルキオンへの対抗をルカ二部作の著述目的のすべてであるとか、主要な目的であると主張しているわけではありません。
 わたしは先に二部作成立の経緯を扱ったところで、マルキオンが現れる前からルカは、現在この時代に福音を提示するにはイエスの言行録というべき福音書と使徒たちの言行録の両方を記述する必要があると考え、その著述を二部作の形で構想していたと述べました。ルカはすでにその必要を理解して、各地の伝承を収集して初版ルカ福音書を書いていました。おそらく使徒言行録のための資料も十分集めていたことでしょう。しかし、マルキオンの挑戦に遭遇して、現在のような形の福音書と使徒言行録を書き上げるに至ったと考えています。
 わたしは先に前著『ルカ福音書講解T』の序論で「ルカ二部作の成立」を扱いました。その時にはまだマルキオンとの関係は視野に入っていませんでした。今回ここで見たようにマルキオンへの対抗という視点からルカ二部作の成立過程を見ると、謎が解けたり、さらに明確な理解ができたり、有益なことが多くあるのは事実です。しかし、ルカ二部作の成立に関して前著序論でルカの序文を解説して述べたことは、著作の経緯(過程)と年代以外は、基本的には変更しなくてもよいと考えています。
 ルカは最初期後期の最後に位置する著作家です。最初期後期は七〇年のエルサレム神殿崩壊以後、二世紀初頭に至る時代です。ペトロら十二使徒たちと異邦人への使徒パウロはすでに世を去り、使徒たちの教えを受けた第二世代の指導者たちが、使徒たちの名で書簡を書いたり、「(使徒たちが)語り伝えたとおりに物語を書き連ねて」福音書などを生み出して、共同体を指導した時代です。そのような時代の最後にルカが、その時代のキリスト信仰の流れと、その時代に成立していた諸資料を統合して、キリスト信仰の正統性(レジティマシー)を共同体の内と外に弁証するために「歴史的説明」《ディエーゲーシス》の文書を著述します。それがルカ二部作です。
 この時代が直面した大きな問題は「来臨遅延」の問題です。七〇年以前の最初期前期においては、キリストの来臨《パルーシア》が差し迫っているという待望に燃えており、キリストの福音を告知するための福音書は、マルコ福音書に見られるように、イエス・キリストの十字架と復活を告知する物語の中に、復活者イエスの栄光の来臨を語る黙示録的預言を入れておくことで十分でした。しかし、《パルーシア》と一組にして語られていたエルサレム神殿の崩壊の後二〇年三〇年経っても《パルーシア》は起こりませんでした。キリスト信仰の共同体はこの事実に直面して、その信仰告白の仕方を再検討するように迫られていました。
 また、この最初期後期は異邦人が共同体の主流を占めるようになった時代でした。前期では指導者はみなユダヤ人であり、ユダヤ教内キリスト信仰の立場から異邦人の位置が激しく議論される時代でした。パウロの命がけの活動によりユダヤ教の外でのキリスト信仰の門が開かれ、異邦人が異邦人のままでキリストの民の一角を占めるようになっていましたが、共同体の中でユダヤ人と異邦人の関係は問題として残っていました。ところが、エルサレムの陥落は「異邦人の時代」の幕開けを象徴する出来事となりました(二一・二四)。後期には、エルサレムを拠点とするユダヤ人指導者の影響力は衰退し、異邦人がキリスト信仰共同体の主流となり、指導者も異邦人から出るようになりました。
 このような状況でルカは、異邦人が主流となった共同体が救済史の担い手としてこれからの歴史の中を歩んで行く「異邦人の時代」を見据えて著述することになります。そのためにはイエスの出来事を伝える福音書だけでなく、歴史の中を歩み始めたキリスト者共同体の姿を範例として語り伝える必要があります。そうすると、ルカはマルキオンの挑戦に出会う以前に、使徒言行録を含む二部作を構想していたとしなければなりません。ルカは、キリストの民が異邦人を含むようになることと、これからの長い歴史の中を歩むようになることを、神の御計画としてイエスと最初期共同体の物語で語ることになります。この序文の著述意図の説明は、マルキオン以前のものとしても読むことができます。

Z 正統主義の出発点としてのルカ二部作

マルキオン聖書出現の意義

 本著『福音の史的展開』で見てきたように、最初期における福音の歴史的展開の過程は、ユダヤ教との関係が座標軸になっていました。すなわち、キリストの福音が進展していく歴史的過程は、それが生み出された母胎であるユダヤ教の枠を打ち破って世界の諸民族に伝えられる過程ですから、その過程で起こる出来事や生み出される文書は、ユダヤ教との距離とか関係によって、その位置や意義が測られました。そのことは本書序論2の「新約聖書における多様性と一体性」で述べたとおりです。その中で、「福音の史的展開における三段階」の項で掲げました図表(前著『福音の史的展開T』29頁)で、この過程を図式的に示しておきました。
 マルキオンの出現は、この最初期における福音の史的展開の最終章をなします。マルキオンはユダヤ教の正典である聖書(旧約聖書)を拒否することで、福音を完全にユダヤ教から切り離しました。マルキオンは、福音がユダヤ教から出て行く過程を最後まで突き詰め、ユダヤ教の神とは別の神を立てるに至りました。もしユダヤ教から出て行く過程を「ギリシア化」というならば、マルキオンは福音のギリシア化を徹底して最後の地点まで行った人物ということになります。
 マルキオンは旧約聖書の宗教的意義を否定したのではありません。マルキオンはそれが立派な宗教経典であることを認めています。ただ、それはユダヤ人の聖書であって、キリストの福音とは関係がなく、キリスト者の信仰の根拠ではないとしたのです。聖書(旧約聖書)の神は、世界を創造し、アブラハムを選んでその子孫を自分の民とし、彼らに律法を与え、律法に従う者に祝福を、律法に違反する者に裁きを与える義の神です。ユダヤ人は歴史の中で苦しみましたが、この神はメシアを送って自分の民を救うことを約束しています。マルキオンは聖書を比喩的に解釈することを否定し、ユダヤ教徒と同じく歴史的に解釈し、やがてメシアが来ることに同意しています。しかし、イエスはその聖書が約束するメシアではないとし、別の神、完全に善である恩恵の神から遣わされた子であるとします。イエスが啓示された父なる神は、旧約聖書が語る粗野な神、この悪に満ちた世界を創造して支配する神とは「異なる神」だとします。
 当時のキリスト者共同体は、七十人訳ギリシア語旧約聖書を自分たちの信仰の拠り所として用いていました。そのことをマルキオンは、律法と福音の区別を十分に理解しないで、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる」誤りとして拒否します。マルキオンはパウロのガラテヤ書やローマ書に基づき、福音は律法とはまったく別の根拠に立つものとし、律法の書である旧約聖書を信仰の拠り所とすることを拒否します。そして、拒否したユダヤ人の聖書に代わるキリスト者のための聖書、福音を告知する聖書を別に与えます。それが「マルキオン聖書」です。
 マルキオンは聖書主義者です。ユダヤ人が聖書(旧約聖書)をもっていたように、キリストの民も聖書をもたなければならないとして、旧約聖書に代わる聖書を策定します。それは(先に見たように)イエスが告知された福音を伝える「福音書」と、イエスの福音を正しく解釈した唯一真正の使徒であるパウロの書簡から成ります。この「福音書と使徒」から成る「マルキオン聖書」こそ、後にキリスト教会の正典となる「新約聖書」の出発点であり、基礎になる聖書です。
 後の時代のキリスト教会は、その「福音書と使徒」という構成だけでなく、「正典」という観念そのものをマルキオンから学びます。自分たちの信仰の根拠また規準として認められる書かれた文書を「正典」としてもたなければならないという観念です。初期の福音運動は数え切れない多くの文書を生み出しますが、どの文書を正典とするかを決めるには数百年の年月を要します(その過程は終章で扱うことになります)。マルキオン聖書の出現がこの過程の出発点となります。

マルキオンとルカのパウロ理解

 このマルキオン聖書の出現に最初に反応したのがルカです。ルカは、自分がイエス伝承を集成して書いた福音書がマルキオンによって改変して用いられて「マルキオン福音書」となり、当時成立していたパウロ書簡集が「使徒」として用いられて「マルキオン聖書」となって現れたことに危機感をもちます。ペトロをはじめとする使徒たちから伝えられたイエス伝承を広く収集して、それを信仰の拠り所として福音書を書いたルカにとって、また、パウロの働きの歴史的事実を知っているルカにとって(直接パウロの福音活動を見ている可能性は高いと考えられます)、マルキオンの主張はあまりにも一方的で、旧約聖書を拒否する彼の路線は将来のキリスト信仰にとって危険であると感じられます。そのマルキオンに対抗し、その危険を克服し、キリスト信仰を健全な土台の上に築くために、ルカは福音書を書き直し、使徒言行録を著述して加え、マルキオン聖書と同じ「福音書と使徒」という構成で二部作を仕上げます。その経緯は本稿で詳しく見てきたとおりです。ここでは、マルキオンとルカのパウロ理解の違い、ひいては福音理解の違いを対比してみます。
 マルキオンとルカは共に第三世代のパウロ主義者です。ここでは、パウロ系の福音運動の流れに属し、パウロの福音を継承した指導的人物を(他に適当な呼び方が見つからないので)「パウロ主義者」と呼んでおきます。直接パウロに師事し、パウロ亡き後パウロの福音を継承して共同体を指導した人物、たとえばテモテやテトス、さらにコロサイ書やエフェソ書の著者は第二世代のパウロ主義者です。マルキオンはパウロ以後に生まれてパウロを直接知らず、第二世代の後に現れてパウロの福音を継承した第三世代のパウロ主義者ということになります。ルカは、もし若いときにパウロと福音活動を共にした同労者(「われら章句」の著者)だとすれば、第二世代になるわけですが、使徒言行録を書いた晩年のルカは、第三世代のパウロ主義者と時代が重なってきます。
 マルキオンとほぼ同時代のパウロ主義者にポリュカルポスがいます。スミルナの監督ポリュカルポスは、七〇年に生まれ一五六年に八六歳で殉教していますから、ほぼマルキオンと同時代の人物です。ポリュカルポスとマルキオンの出会いのエピソードは有名です。マルキオンに対抗するために書かれたとも見られる牧会書簡はポリュカルポスが書いたとする有力な説(カンペンハウゼン)もあります。その説の当否はともかく、牧会書簡は第三世代のパウロ主義者の作であることは広く認められています。その護教的姿勢や用語の類似からルカの著作だとする見方もあります(Anchor Bible Dictionary のJ・クイン)。
 第三世代のパウロ主義者の中でもっとも鋭くパウロの福音を理解したのはマルキオンではないかと考えられます。彼が用いたパウロ書簡集にはコロサイ書やエフェソ書という第二世代のパウロ主義者の文書も含まれますが、マルキオンはガラテヤ書やローマ書というパウロ自身の書簡によって福音が律法とはまったく別のものであり、ただ恩恵に基づくものであることを理解します。マルキオンはこの鋭いパウロ理解によって、当時パウロを理解すること少なく道徳主義的な信仰理解の面を強くしていた主流の共同体を批判する改革者として現れることになります。このことが、ハルナックなど現代のドイツのプロテスタント研究者によって「教会史における最初のパウロ主義改革者」と評価されることになります。
 ただ、マルキオンはその理解を徹底するのに急なあまり、旧約聖書を律法の書として、また律法の神の啓示の書として全面的に拒否し、パウロがユダヤ教徒として体現していた救済史的唯一神信仰という貴重なユダヤ教の遺産を見失ってしまいます。さらに、当時のヘレニズム世界に浸透し始めていたグノーシス主義の影響もあったのか、旧約聖書の神を世界の造物主《デミウールゴス》とし、キリストの福音において恩恵を与える神を「別の神」として立てるに至ります。このことが、二世紀の主流派共同体の指導者(教父)からグノーシス派の異端として厳しく批判されることになります。
 一方ルカは、パウロを異邦人への使徒として使徒言行録でその働きを顕彰していますが、先に見たようにパウロ書簡のパウロを覆い隠すような書き方をしています。それは、マルキオンがパウロ書簡に基づいて福音と律法を峻別し、パウロ書簡からユダヤ教的要素を徹底的に除去しようとしたことに対抗して、パウロをユダヤ教伝統に忠実なファリサイ派ユダヤ人として描くためでした。マルキオンがパウロ自身の手紙に現れたパウロの福音告知に基づいているのに対して、ルカのパウロ像はむしろ第二世代のパウロ主義者が描くパウロ像です。そのことは、ルカが福音を「罪の赦し」と理解していることに典型的に示されています。コロサイ書とエフェソ書は第二世代のパウロ主義者の文書ですが、そこでは律法との確執は問題にならず(律法という用語すら出てきません)、福音を要約する位置に「罪の赦し」が置かれています(コロサイ一・一四、エフェソ一・七)。ルカの二部作においても、福音を要約する位置に「罪の赦し」が出てきます(ルカ二四・四七、使徒二・三八、五・三一、一〇・四三、一三・三八、二六・一八)。パウロは「赦し《アフェシス》」という語は用いていません。パウロにおいては罪の支配力からの解放が福音の中身とされていますが、第二世代の文書では「罪の赦し」が福音の中身となり、第三世代の文書(使徒言行録)に福音の中心主題として受け継がれます。

正統派信仰の出発点

 マルキオンは初めから異端者として排斥されていたわけではありません。二世紀初頭ではまだ事態は流動的で、正統と異端との区別はありません。そもそも何が正統で何が異端かという区別は、対立する両派が宗教的な絶対性を主張するようになったとき、自分を正統とし、相手を異端とするだけです。その論争で勝利して多数を占めた派が相手を異端として断罪することになります。「異端」という語は勝利した側が歴史を書くときに用いるレッテルです。エウセビオスの『教会史』は「異端」という語で満ちています。
 マルキオンが登場したときには、あくまでキリストの福音を告知する運動として現れます。マルキオンの福音活動によって各地に形成された集会は、他のキリスト信仰共同体と同じく監督や長老をもち、同じようにイエスを主キリストと告白し、同じようにバプテスマと聖餐(ただぶどう酒の代わりに水を用いたとされています)を行う共同体でした。マルキオンは鋭い神学者であるだけでなく、優れた伝道者であり組織家でもあり、彼の独自のパウロ理解によって形成された共同体は、周囲の主流派共同体と拮抗する大きな勢力になっていきます。この事実が教父たちに、共同体内部で個人的に教えを説く他のグノーシス主義者よりもマルキオンを目の敵にして攻撃させるようになったと考えられます。
 マルキオン聖書に対抗して、同じく「福音書と使徒」という構成で現れたルカ二部作は、マルキオン派に対抗する主流派の重要な武器となります。最初(項目U)に見たように、使徒言行録が用いられるようになるのは二世紀の半ば、五〇年代に著述したユスティノスからと見られますが、八〇年代のエイレナイオス、九〇年代のテリトゥリアヌスと、ルカの路線に立つ主流派の論客たちのマルキオン攻撃が激しくなります。二世紀の福音の歴史的展開においては、マルキオン派のキリスト教と主流派のキリスト教の抗争が重要な一面をなしますが、その抗争の歴史の出発点にルカ二部作が立っています。
 本節で見てきたように、初版の福音書を集成した段階ではともかく、最終的な二部作として完成した段階でルカがもっとも力をこめて主張したことは、マルキオンに対抗して、イエスの出現とその福音はヘブライの聖書(旧約聖書)の約束と預言の成就であること、イエスはその福音を伝えることをペトロをはじめとする使徒たちに委ねたのであり、パウロもその使徒たちと同じ仲間であるということでした。この主張は、パウロによって形成され、パウロを唯一の使徒として仰ぐエーゲ海地域のキリスト者共同体においては、けっして当たり前のことではありません。むしろマルキオンの路線の方が受け入れやすいはずです。後にキリスト教の主要な揺籃の地となるこの地域でルカがこのような主張をしたことは、その後のキリスト教の形成に大きな影響力をもつことになります。
 続く世紀でルカの路線を歩む人たちが主流派となり、マルキオン派は衰退します(その経過は終章で触れることになります)。その結果、旧約聖書はキリスト教の聖書として確立し、それと並んで新約聖書が教会の正典として形成されます。ルカがその二部作で強調した諸点が正統派の信条に取り入れられます。「使徒信条」の天地の創造者としての神、救い主の処女からの降誕、終わりの日の裁き、罪の赦し、身体の復活などは、まさにマルキオンに対抗してルカが強調した信仰内容です。ルカの路線の延長上に、天地の創造からイスラエルの歴史の成就としてのキリストの出来事、そして最後の審判と復活を見渡す正統主義者エイレナイオスの救済史の神学が生まれます。これも終章の主題となります。