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第七章 ヨハネ共同体とその福音書

       ( 本章で書名のない引用箇所はヨハネ福音書の章節です。)




第一節 イエスが愛した弟子とその共同体

はじめに

 前々章(第五章)で、パレスチナ・シリア地域で伝承されたイエス伝承を用いて福音を告知する文書として、マルコ福音書とマタイ福音書が成立したことを述べ、その両福音書の内容を概観しました。この両福音書が成立した時期、すなわちエルサレム神殿崩壊以後の最初期後期に、新約聖書で極めて特異な位置を占める重要な福音書がもう一つ成立しています。ヨハネ福音書です。この福音書がどこで成立したかは、いまだに議論が続いていますが、二世紀の教父たちはこの福音書が「ヨハネによる福音書」という名で、「ヨハネの手紙」と共にエフェソを中心とするエーゲ海地域において成立し、流布していたことを証言しています。このヨハネという名で呼ばれる福音書と手紙を生み出したのは、ヨハネという名の一人の霊的な人物を中心に形成された一つの共同体であると考えられるので、この共同体を「ヨハネ共同体」と呼び、最初に(本節で)この共同体の活動とその成果であるヨハネ福音書の成立の経緯を追求し、次ぎに(次節で)その共同体が生み出した「ヨハネ福音書」の内容を見ることにします。

T イエスが愛した弟子

「愛弟子」の登場場面

 ヨハネ福音書には「イエスが愛された弟子」が登場します。そしてこの福音書の最後(二一・二四)に、「以上のことを証しした者、そしてそれを書いた者は、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」という証言が書き記されています。この一文がヨハネ福音書の成立の鍵をにぎる重要な証言です。以下、この「イエスが愛された弟子」を「愛弟子」と呼んで物語を進めます。
 まず、この「愛弟子」がどのような場面に登場するのかを見ておきます。この福音書で「愛弟子」が最初に登場するのは最後の夜の食事の席です(一三・二三)。食事の席でこの弟子は「イエスの胸に寄りかかって」いました。当時の宴席では、客は卓を囲んで横腹を下にして席に着きました。ここでは、この弟子の顔がイエスの胸のあたりに来る位置になったことを指しています。この位置は主人(または主賓)にもっとも身近な者が着く位置で、この弟子が特にイエスの身近にいたことを示唆しています。
 次の場面は、大祭司の館におけるイエスの審問の場面です。イエスが逮捕されて大祭司の館に連行されたとき、ペトロと「もう一人の弟子」がついて行きます。この弟子は大祭司の知り合いだったので館の中に入りますが、入れないで外に立っているペトロを、門番の女に話をつけて入れてやります(一八・一五〜一六)。この弟子は「愛弟子」のことですが、彼が「大祭司の知り合い」であるという事実は、この「愛弟子」の出身を知る上で重要な手がかりとなります。
 次の場面は十字架のそばです(一九・二五〜二七)。他の弟子たちがみな逃げ去って、十字架のそばには数人の女性しかいなかったとき、この「愛弟子」は男性の弟子としてはただ一人十字架のそばにまで来て、イエスの最後を見届けます。その時、イエスは母マリアをこの「愛弟子」に委ねます。
 次も十字架の場面ですが、兵士が槍でイエスのわき腹を刺したとき血と水が流れ出たことを目撃して証言することになります(一九・三四〜三五)。
 次の場面は空の墓です。マグダラのマリアの報告を聞いて、ペトロとこの「愛弟子」が墓へ走ります。二人は一緒に走りますが、「もう一人の弟子」の方がペトロよりも速く走って、先に墓に着きます。そして、イエスの体を巻いていた亜麻布だけが残されているのを見て、「愛弟子」は信じたと伝えられています(二〇・一〜一〇)。
 さらに、補遺としてつけられた二一章で二回この「愛弟子」が登場します。第一の場面は、ガリラヤ湖畔で復活されたイエスが弟子たちに現れたとき、この「愛弟子」もそこに居合わせており、湖畔に現れて網を打つ場所を指示した人が主であることをペトロに教えています(二一・七)。
 第二の場面は、この復活して現れたイエスにペトロと一緒について行って、ペトロとこの「愛弟子」の最後についてイエスが語られる場面です(二一・二〇〜二三)。ここでこの「愛弟子」が死なない、すなわちイエスの来臨まで地上にとどまるという噂が否定され、この記事が書かれた時には「愛弟子」がすでに亡くなっていることが示唆されています。その後で、この福音書の内容を証言して文書にしたのはこの弟子であることが明記されています(二一・二四)。
 この七回が「愛弟子」が福音書に登場する場面です。この場面を見ますと、いくつかの事実が目立ちます。第一は、この登場場面は前半(一二章まで)にはなくて、すべて後半(一三章以下)の受難・復活の記事に集中していることです。第二は、十字架のそばの出来事は例外として、その他の場面ではすべてペトロと一緒に登場しています。そこでは、ペトロに対して「もう一人の弟子」と呼ばれています。第三は、福音書の著者がこの「愛弟子」をあくまで無名のままにとどまらせていることなどです。

ヨハネ共同体と長老ヨハネ

 福音書本体が二〇章三〇〜三一節の結びの言葉で閉じられた後に、二一章を補遺として加えた編集者は、「愛弟子」の最近の死を示唆する文(二一・二〇〜二三)を置いた後に、この「愛弟子」について「以上のことを証しした者、そしてそれを書いた者は、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」と書いています(二一・二四)。この文から、福音書の内容となる事柄を証言して、この福音書を成立させたのは、イエスの身近な弟子であったこの「愛弟子」であり、「わたしたち」、すなわちこの弟子の証言によって信仰に入り、信仰共同体を形成してきた者たちは、この弟子の証言が真実であることを知っており、その証言に依存してきたことが分かります。
 そうするとこの「愛弟子」が誰であるのか、またヨハネ福音書がどのようにして成立したのかを知るためには、この信仰共同体との関係を追求することが重要な課題になります。ヨハネ福音書が成立直後の二世紀初頭から「ヨハネによる福音書」という呼び方で流布していたことは、その時代の教父たちの証言もあり、広く認められています。その事実は、この福音書を生み出した共同体を指導して形成した人物がヨハネという名であったことを意味しています。したがって、このヨハネが誰(どのヨハネ)であったのかは別として、とにかくこの人物によって指導され形成された信仰者の交わりを「ヨハネ共同体」と呼ぶことにします。
 このヨハネは、先に見たように、福音書の中ではいっさい名があげられず、「イエスが愛された弟子」とか「もう一人の弟子」と呼ばれていますが、実際の共同体ではどう呼ばれていたのでしょうか。この問いに答える資料は、この共同体で成立した「ヨハネの手紙」です。
 新約聖書に収められている三通の「ヨハネの手紙」はヨハネ共同体で成立したものであることは広く認められています。第一の手紙には差出人の名はありませんが、第二と第三の手紙では差出人は「長老のわたしから」と名乗っています。第一の手紙では「長老のわたしから」という形で差出人は特定されていませんが、(後で見ることになりますが)この手紙も「長老」からのものであると見なければなりません。ヨハネの手紙もヨハネ福音書と同じく、「ヨハネの手紙」という呼び名で古くから流布していたことは、広く認められています。従って、この「長老」の名はヨハネであったことになります。そうすると、この共同体では指導者であるヨハネが「長老」と呼ばれていたことが分かります。手紙の差出人は、「長老のわたし」と言えば、受取人はどのような立場の人物からの手紙であるかを十分理解するはずだと考えていることになります。
 ヨハネという名は当時のユダヤ人に多い名であり、新約聖書にも多くのヨハネが登場します。洗礼者もヨハネですし、十二使徒の一人ゼベダイの子でヤコブの兄弟もヨハネ、パトモスで黙示録を書いたのもヨハネです。「ヨハネ」という名はディアスポラ・ユダヤ人には珍しく、パレスチナ・ユダヤ人に多い名、しかも祭司階級に多い名とされています。ここでは、ゼベダイの子のヨハネを「使徒ヨハネ」、黙示録の著者を「預言者ヨハネ」、そしてヨハネ共同体の指導者を「長老ヨハネ」と呼んで区別することにします。

長老ヨハネの年代

 福音書の補遺で、この「愛弟子」の死を示唆した後、「以上のことを証しした者、そしてそれを書いた者は、この弟子である」と証言されているのですから(二一・二〇〜二四)、福音書本体を成立させるまで共同体を指導した「長老」がこの「愛弟子」であることになります。ヨハネ福音書の成立が九十年代であることは広く認められていますので、もし「長老」がこの時八十歳代だとすると(長老と呼ばれる人は普通高齢者です)、イエスが死なれた三〇年には十歳代ということになります。正確には確定できませんが、もしイエスの十字架の年三〇年に十五歳であれば九〇年には七五歳となり、二〇歳であれば八〇歳となります。この計算は、イエスの側にいた「愛弟子」がヨハネ共同体の「長老」であることが年齢的に可能であることを示しています。
 「愛弟子」が一〇歳代半ばでイエスの弟子であったことも、当時では珍しいことではなかったようです。後に「ユダヤ戦記」や「ユダヤ古代誌」を書いて歴史家として著名になったヨセフスは、彼の自伝の中で、一四歳の時すでに高度な学識に達していたこと、また一六歳の時までに「われわれの民族が分かたれている数個の宗派について個人的体験をすることを決意した」と語り、「しかし、こうして得られた体験に満足できず」、彼は「バヌスという名のユダヤ教の禁欲者の熱心な弟子となり、三年間彼のもとにいた」と語っています。エルサレムの若きヨハネは、真理の探究においてヨセフスに及ばなかったことはないはずです。
 このように、長老ヨハネは一〇年代半ば(一五年頃)に誕生したと推定することが可能ですが、その家系はエルサレムのかなり有力な祭司階級の一家であったと見られます。長老ヨハネがエルサレムの出身者であることは、共観福音書がイエスの活動をほとんどガリラヤでのこととして伝えているのに対して、ヨハネ福音書はエルサレムとその周辺でのイエスの活動に集中していることからもうかがえます。
 さらに、「愛弟子」が顔パスで大祭司の館に入ることができ、また門番の女に話をつけてペトロを中に入れてやった事実(一八・一五〜一六)は、彼の家族が大祭司とかなり近い知り合いであったことを物語っています。そうすると、彼の家族はエルサレムのかなり有力な祭司の一家であったと推定することができます。

洗礼者ヨハネとの出会い

 ヨハネの少年時代に洗礼者ヨハネの活動が始まります。すでに深く霊的な事柄に目覚めていた少年ヨハネは、洗礼者ヨハネの力強い預言者的活動に引きつけられて彼のもとに馳せ参じ、彼の弟子となります。そして、洗礼者ヨハネの証言に導かれてイエスと出会うことになります。
 福音書の初めに、洗礼者ヨハネの二人の弟子がイエスについて行ってイエスの弟子になる記事があります(一・三五〜四一)。その二人の中の一人はアンデレであったと名があげられていますが、もう一人の弟子は名が伝えられていません。この無名の弟子が「愛弟子」であったかどうかについては議論がありますが、少なくともその可能性を否定する根拠はありません。
 二人の中のアンデレでない方の弟子は、ここでは「もう一人の弟子」とも言われないで、アンデレと一緒にイエスについて行って、その日はイエスと一緒に泊まったと伝えられるだけで、その後のことは何も報告されていません。しかし、この事実はこの無名の弟子がペトロよりも先にイエスから親しく教えを受けて弟子となったことを物語っています。後で見ることになりますが、ヨハネ福音書はこの「愛弟子」をいつもペトロと一緒に登場させて、ペトロよりもイエスに身近な弟子として優先的な立場を与えていることからすると、ここでもわざわざ「二人の弟子」と書いて、アンデレの他にもう一人ペトロよりも先にイエスの弟子になった者がいるとしているのは、この「愛弟子」のことを指していると推定するのが順当であると思われます。
 「愛弟子」が洗礼者ヨハネの身近にいた弟子であることは、この記事からだけでなく、この福音書が洗礼者ヨハネについて多くのことを伝え、また、彼の活動と証言に大きな意義を与えている事実からも推察することができます。イエスが洗礼者ヨハネのようにバプテスマを授ける活動をされた時期があったことは、この福音書からだけ知ることができる事実です(三・二二〜三〇)。さらに、アンデレやペトロ、またフィリポやナタナエルなどイエスの弟子の中核メンバーが、もとは洗礼者ヨハネの弟子であり、イエスが洗礼者ヨハネのもとにおられた時期にイエスと出会ったということも、このヨハネ福音書からだけ知ることができる事実です(一・三五〜五一)。

イエスのそばの「愛弟子」

 ペトロをはじめイエスの弟子たちは、ほぼイエスと同じ年代で、三〇歳前後の壮年期の男たちのグループでした。その中で、この「愛弟子」だけが、一〇歳代半ばまたは後半の若者であったことになります。この年代の違いが、イエスがとくに若者ヨハネに目をかけられた理由であると思われます。もちろん、ヨハネの聡明さと熱心さもあったことでしょうが、イエスはこのエルサレムの若者の純粋さを慈しんで、エルサレムに来られた時にはいつも身近に置かれたと思われます。
 後に福音書を書いたとき、長老ヨハネはガリラヤでのイエスの働きを伝える伝承を用いて、ガリラヤでの出来事も少しは取り上げていますが、やはり自分がイエスと一緒にいて見た、エルサレムまたはその近辺のユダヤの地でなされたイエスの働きを語ることが多くなるのは自然です。ヨハネ福音書のイエスは、祭りの度ごとにエルサレムに上ってきて、エルサレムで宣教の働きをされています。過越祭だけでも三回来ておられます。ということは、イエスの福音活動は少なくとも二年から長くて四年にわたり、その間何回もエルサレムに来て教えておられることになります。
 この事情が、(洗礼者ヨハネのもとにいたことを示唆する一章三五〜四一節の記事を例外として)「愛弟子」が一三章以下の受難・復活物語だけに登場する理由を説明します。それは、「愛弟子」がエルサレムで起こった主イエスの受難と復活という福音の主要な出来事の目撃証人であることを強調するためです。この福音書で「愛弟子」が最初に登場するのは最後の夜の食事の席です(一三・二三)。食事の席でこの弟子は「イエスの胸に寄りかかって」いました。この位置は主人または主賓にもっとも身近な者が着く位置で、この弟子が特にイエスの身近にいた者であることを示唆しています。
 この「イエスの胸に寄りかかって」いたという「愛弟子」の位置は、イエスがユダの裏切りを予告された記事に出てきます(一三・二一〜三〇)。裏切る者は誰かという秘密はイエスだけが胸に秘めておられることです。ペトロはその秘密を知ることはできません。それで、この「愛弟子」にイエスから聞き出すことを頼むのです。この記事は、ペトロよりもこの「愛弟子」の方がイエスの深い思いを知ることができる立場であることを示唆していることになります。
 「愛弟子」が「イエスの胸に寄りかかって」いたという位置は同時に、この晩餐の部屋はこの若者ヨハネの家ではないかという推察に誘います。すでに『マルコ福音書講解U』(183頁)で指摘したことですが、イエスはエルサレムにも有力な支持者をもっておられ、最後の食事をその人の家でするように打ち合わせておられたと見られます。エルサレムの支持者は一人とは限りませんから、それがこのヨハネであるとは断定できませんが、少なくともその候補ではあります。
 マルコ福音書(一四・五一〜五二)には、イエスがゲツセマネで逮捕されたとき、亜麻布だけを身にまとってついてきていた「若者」が、その亜麻布を捨てて逃げたという記事があります。この記事は、この福音書の著者がイエスの受難の出来事の目撃証人としての自分の姿を書き込んだ、署名としての意味をもつ記事ではないかと見られています。そのように、ヨハネ福音書の著者も、イエスの受難と復活の出来事の目撃証人として、その記事の中に自分を無名で、しかし「愛弟子」という匿名で登場させていると見ることができます。
 次の場面は、イエスが逮捕されて大祭司の館に連行されたとき、ペトロと「もう一人の弟子」がついて行き、この弟子は大祭司の知り合いだったので館の中に入り、入れないで外に立っているペトロを、門番の女に話をつけて入れてやります(一八・一五〜一六)。この弟子が「愛弟子」であることについては、(一章の場合と違って)ほとんど異論がありません。彼が「大祭司の知り合い」であるという事実は、先に見たように、この「愛弟子」の出身がエルサレムの高い家柄の祭司階級であることを示しています。

十字架のそばの「愛弟子」

 次の場面は十字架のそばです(一九・二五〜二七)。他の弟子たちがみな逃げ去って、十字架のそばには数人の女性しかいなかったとき、この「愛弟子」は男性の弟子としてはただ一人十字架のそばにまで来て、イエスの最後を見届けます。男性の弟子の中でこの「愛弟子」だけが女性たちに混じって十字架のそばまで行くことができたのは、彼がまだ少年と見える若者であったからだと考えられます。イエスはローマへの反逆者として処刑されたのですから、壮年の弟子たちはその仲間として追われる身でした。この「少年」だけが警戒されることなく、母親のような年代の女性たちに混じって近づくことができたと見られます。
 その時イエスは、「ごらんなさい。あなたの母です」と言って、母マリアをこの「愛弟子」に委ねます。「この時から、その弟子は彼女を自分のところに引き取った」とあります(一九・二六〜二七)。他の弟子がみな反乱分子として追われる身であるのに対して、この「愛弟子」だけがエルサレムに屋敷をもち、また大祭司の知り合いとして追求を免れる身分の家の者として、母を委ねるのに唯一の人物であったのです。母マリアがどのくらいの期間この「愛弟子」の家で世話になったのか分かりませんが、母マリアが復活直後のエルサレム共同体に参加していたことは、ルカも報告しています(使徒一・一四)。この「愛弟子」はある期間、イエスの母マリアと一緒に暮らして、マリアからイエスについての話を十分に聞く機会を持ったことになります。この事実は、この「愛弟子」がペトロを代表とする「十二人」の使徒団よりもイエスの身近な弟子であることを暗に主張しています。
 次も十字架の場面ですが、兵士が槍でイエスのわき腹を刺したとき血と水が流れ出たことを目撃して証言することになります(一九・三四〜三五)。この証言について、「それを目撃した者が証しをしてきた。彼の証しは真実であり、その者は自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたたちもまた信じるようになるためである」(一九・三五)と書き加えたのは、この「愛弟子」すなわち長老ヨハネから繰り返しこの証言を聞いたヨハネ共同体の一人でしょう。この一文は(二一章二四節と共に)、ヨハネ共同体の信仰が主の受難と復活という出来事を目撃した弟子の証言に基づいていることを主張しています。

主の復活の証人としての「愛弟子」

 次の場面は空の墓です(二〇・一〜一〇)。マグダラのマリアの報告を聞いて、ペトロとこの「愛弟子」が墓へ走ります。二人は一緒に走りますが、「もう一人の弟子」の方がペトロよりも速く走って、先に墓に着きます。そして、イエスの体を巻いていた亜麻布だけが残されているのを見て、「愛弟子」は信じたと伝えられています。ペトロについては「信じた」と言われていないのが注目されます。もちろんペトロも後に復活者イエスに出会って、復活者イエス・キリストを命がけで宣べ伝えるようになるのですが、まだ復活者イエスに出会わない前に信じたのはこの「愛弟子」の方だと言っていることになります。「彼(キリスト)は死者たちの中から復活することになっているという聖書を、彼ら(ペトロを含む弟子たち)はまだ理解していなかった」という状況で、この「愛弟子」だけが聖書を理解して信じたという対照を示唆していることになります。このことは、後にトマスに対して言われた「見ないで信じる者は幸いである」(二〇・二九)というお言葉と対応しています。すなわち、復活された方の顕現を体験する(見る)ことがなくても、聖書を理解し、墓が空であったという証言を信じて、復活者イエス・キリストとの交わりに入る者は幸いだと主張しています。これがヨハネ共同体の復活信仰です。
 空の墓の記事に続いて、マグダラのマリアに復活者イエスが現れたという記事があります(二〇・一一〜一八)。これは「愛弟子」が登場する場面ではありませんが、他の福音書の顕現記事と大きく違い、ヨハネ福音書の特色となっていますので、その意義に触れておきます。
 復活されたイエスが最初に現れたのはマグダラのマリアであったという伝承は、最初期の共同体に広く知られていたようです。この伝承は、マルコ福音書の付加部分(一六章九節以下)にも取り上げられています(マルコ一六・九)。ところが、ユダヤ教では女性に証人としての資格が認められていなかったこともあって、復活の証人のリストは男性だけとなり、ペトロや(主の兄弟の)ヤコブの名が最初に来るようになります(コリントT一五・五、七)。そして、顕現物語もそれに合わせて形成され、共観福音書の顕現物語にはマグダラのマリアは登場しなくなります。また、後にグノーシス主義系の教会がマグダラのマリアをイエスが愛された第一の弟子とし、最初の復活証人として重視したことに反発して、正統派の教会がマリアへの顕現伝承を抑圧したという事情もあります。
 ところが、ヨハネ福音書はマグダラのマリアへの顕現を最初に置き、しかも他の弟子たちへの顕現よりも詳しく物語っています。ペトロやヤコブの名は(二〇章までの福音書本体部分においては)顕現物語には出てきません。この事実は、ペトロに代表される「使徒団」よりも、他の弟子(この場合はマグダラのマリア)の方が主イエスの証人として重要であると、ヨハネ福音書が主張していることを意味しています。これは、この福音書が証人としてはペトロより「愛弟子」の方が優位にあることを主張していることと同じ線上にある扱い方であると言えるでしょう。
 さらに、補遺としてつけられた二一章で二回この「愛弟子」が登場します。第一の場面は、ガリラヤ湖畔で復活されたイエスが弟子たちに現れたとき、この「愛弟子」もそこに居合わせており、湖畔に現れて網を打つ場所を指示した人が主であることをペトロに教えています(二一・七)。「愛弟子」がガリラヤに登場するのはここだけです。すなわち、二〇章までの福音書本体の部分にはなくて、著者の死後編集者によって加えられた補遺に登場するだけだということです。「愛弟子」がエルサレムの住民であり、おもにエルサレムでの出来事を報告していること、またイエスの復活後エルサレム共同体にいたことを考えると、たしかにこの記事には不自然さが感じられます。
 これは推察になりますが、本体部分の顕現物語(二〇章)に「愛弟子」が登場していないことを不満に感じた編集者が、「愛弟子」が復活のイエスに出会った場面を設定するために、広く伝えられているガリラヤ湖畔での顕現伝承を利用した可能性があります(ルカ福音書五章は別の仕方でこの伝承を用いています)。「愛弟子」は実在の人物でありながら、多くの場合象徴的意義を担って登場していました。ここでも編集者はこの「愛弟子」に復活者の顕現に出会った者という意義を担わせようとしたのかも知れません。もしそうだとすると、「見ないで信じる者は幸いである」とする著者の主張からずれることになり、ひいきの引き倒しの感を免れません。また、ペトロとこの「愛弟子」の最後を語るための舞台として、最後にこの二人を同時に登場させるために、このような場面を設定したと見ることもできます。
 第二の場面は、復活して現れたイエスにペトロと一緒に「愛弟子」がついて行って、ペトロとこの「愛弟子」の最後についてイエスが語られる場面です(二一・二〇〜二三)。ここでこの「愛弟子」が死なない、すなわちイエスの来臨まで地上にとどまるという噂が否定され、この記事が書かれた時には「愛弟子」がすでに亡くなっていることが示唆されています。
 この福音書が書かれた時には、ペトロはずっと早くに(おそらく六〇年代)に亡くなっており、彼の殉教の死は広く知られていました。ここでも「あなたは両手を広げ、他の人があなたの帯を締め、あなたが望まないところに連れて行く」という言葉で十字架刑によるペトロの殉教が示唆されています(ペトロは逆さ十字架を望んだと語り伝えられています)。ペトロと同世代の「使徒たち」もすべて世を去って、イエスに直接接した弟子の中ではこの長老ヨハネだけが生き残っていたので、彼こそイエスが「ここに立っている者の中で死を味わない者がいる」と語られた者に違いないとされ、彼はイエスの来臨まで死ぬことなく、地上にとどまる者であるという噂が共同体の中に広まっていたようです。長老ヨハネの死後に筆をとった編集者は、それはイエスの望まれたことではないとして、その噂を根拠のないものとします。その後で、この福音書の内容を証言して文書にしたのはこの「愛弟子」であることが明記されます(二一・二四)。

U 長老ヨハネとその共同体の歩み

「愛弟子」と「十二人使徒団」

 イエスが選ばれた「十二人」の弟子は、イエスによってガリラヤの各地に派遣され、「神の国」の福音を告げ知らせる活動をしました。この「十二人」は主イエスによって選ばれ、使者として派遣された者として「使徒」と呼ばれるようになり、イエスの復活後に形成されたエルサレム共同体の指導者となります。マルコ福音書(三・一四)は、「イエスは十二人を選び、使徒と名付けられた」とし、その十二人の名をあげています。その代表者がペトロです。
 しかし、この「愛弟子」はまだ少年のような年齢であったことと、ガリラヤではイエスと一緒にいなかったので、この活動のために派遣されることはありませんでした。従ってこの「愛弟子」は使徒ではありません。しかし、この弟子の証言によってイエスを信じた者たちの共同体(ヨハネ共同体)は、この弟子の証言がガリラヤでイエスと一緒にいた「使徒たち」に勝るとも劣らない確かなものであることを強調するために、この弟子をしばしばペトロと一緒に「もう一人の弟子」という呼び名で登場させて、この弟子の方がペトロよりもいっそうイエスに近いことや、弟子としてペトロよりも優れていることを主張しています。
 この「愛弟子」が「もう一人の弟子」と呼ばれるのは、ペトロに対してだけではなく、「十二使徒団」に対しても「もう一人の弟子」として、彼らに勝るとも劣らないイエスの証人であることを主張していると考えられます。ペトロを筆頭者とする「十二使徒団」は、エルサレム共同体の指導層であり、おそらくアラム語圏のパレスチナ・シリア地域に活動を進め、福音運動の主流を形成します。その中からマルコやマタイの福音書が生み出されます。その両福音書では、ペトロが中心人物です。それに対して、ヨハネ福音書はペトロとは別の「もう一人の弟子」、あるいは十二使徒団とは別の「もう一人の弟子」が、彼らに勝る確かな証人としてイエスを伝え、その信仰と伝承によって独自のキリスト共同体を形成したことを語ります。この共同体、すなわちヨハネ共同体は、ペトロに代表される主流派の福音運動とは別の流れを形成していたと見られます。
 このような事情から、ヨハネ福音書には「使徒」という呼び名は出てきません。「愛弟子」をペトロたちと同列に扱うため、ペトロも十二人もこの若い弟子もみな「弟子」と呼ばれています。ヨハネ福音書には十二使徒の名簿はなく、二〇章までの本体部分でイエスの弟子として名をあげられているのは、シモン・ペトロ、アンデレ、フィリポ、ナタナエル、トマスの五人です。「ゼベダイの子たち」は(ヤコブとヨハネという名をあげないで)二一章の補遺に出てくるだけです。
 共観福音書ではペトロとゼベダイの子のヤコブとヨハネが、内輪の弟子として、重要な出来事のさいイエスの身近にいます。これはエルサレム共同体で三人が指導的立場にいたことを反映していると見られます。それに対してヨハネ福音書(本体)では、ゼベダイの子たちは登場せず、ペトロよりもその兄弟アンデレが重視され、フィリポと共に積極的な役割を果たしています。アンデレとフィリポは、共観福音書では名があげられているだけで、何の役割も果たしていません。トマスも共観福音書では十二人のリストに名があげられているだけですが、ヨハネ福音書では重要な役割を果たしています。ナタナエルはヨハネ福音書には理想のユダヤ人の弟子として登場しますが、共観福音書にはその名の弟子は出てきません。このように、ヨハネ福音書に登場する弟子たちの名は、長老ヨハネが親しくした弟子たちとの交わりを反映しているものと考えられます。

弟子ヨハネのパレスチナ・シリアでの福音活動

 年若い弟子ヨハネは、イエスの十字架・復活後にエルサレムに成立した共同体に加わっていたと推察されます。十字架の前で母マリアを託されたヨハネは、自分の家にマリアを引き取り、マリアと共にエルサレム共同体に参加していたと考えられます。マリアがエルサレム共同体にいたことはルカの使徒言行録(一・一四)も伝えていますが、ヨハネもイエスを信じる弟子の一人として参加していたはずです。ヨハネはペトロたちと一緒にあのペンテコステの聖霊降臨を体験し、その後のエルサレム共同体における著しい聖霊の働きを体験してきたと考えられます。そのことは、彼が残した福音書でイエスが祭りの時に叫ばれた聖霊の約束について、「これは、イエスを信じた者が受けることになる御霊のことを言われたのである。イエスがまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだなかったのである」(七・三九)と書いていることからも、彼の聖霊体験はイエスの十字架復活後のことであることが十分推察できます。彼はエルサレム共同体の一員として活動したことでしょう。しかし、年若いヨハネはエルサレム共同体では目立つことなく、この時期のヨハネについては使徒言行録は何も伝えていません。
 しかし、青年期・壮年期に達した弟子ヨハネが何の活動もしないでエルサレムにとどまっていたとは考えられません。この時期のヨハネはもう「愛弟子」と呼ばれる立場ではありませんが、イエスの弟子の一人として、イエスをキリストと告知する活動を熱心に進めたと考えられます。しかし、最初期のエルサレム共同体の進展を語るルカの使徒言行録はペトロに焦点を絞って書いており、弟子ヨハネに言及することはありません。その後のヨハネの活動についての資料は、その活動によって成立したヨハネ共同体が伝える文書、すなわちヨハネ福音書とヨハネ書簡以外にはほとんど何もありません。
 当然ヨハネも最初はパレスチナ・シリアの方面で活動したと考えられます。その中でサマリアが注目されます。ヨハネ福音書において、エルサレムとその近郊以外の地域で大きく扱われているのはサマリアです。イエスの活動の主要舞台はガリラヤですから、後に成立した福音書においても(エルサレムと並んで)ガリラヤに関する伝承を用いて書かれる部分が多くなるのは当然ですが、ヨハネ福音書ではサマリアに関する記事が大きく扱われているのが目立ちます。他の福音書では、サマリアでのイエスの活動はほとんど伝えられていませんが、ヨハネ福音書ではイエスのサマリアでの福音活動が一章を使って詳しく語られています。しかもガリラヤで活動を始められる前に、サマリアで福音を告知され、そこでイエスの身分について、使命について、またこれからの礼拝の在り方について綱領的で重大な宣言がなされています。このような事実から、ヨハネ共同体はサマリアにあったという見方が出てくるのにも相応の理由があります。
 ヨハネ福音書四章(一〜四二節)の記事によると、イエス自身がサマリアで活動され、一人のサマリア教徒の女性にご自身を示され、その女性の証言によってサマリアのシカルという町の多くの住民がイエスを信じたとされています。ところが、ルカの使徒言行録(八章)によると、サマリアに福音が告げ知らされたのは、ステファノの殉教後、エルサレムを追われたギリシア語系ユダヤ人の一人フィリポの活動によるとされています。サマリア人がフィリポの活動によってイエスを信じてバプテスマを受けたという知らせがエルサレムに届くと、エルサレム共同体はペトロとヨハネ(ゼベダイの子のヨハネ)をサマリアに派遣し、聖霊のバプテスマを受けるように指導しています。
 ペトロとヨハネをサマリアに派遣するにあたっては、エルサレム共同体の指導者の間で議論があったのではないかと推察されます。それは、エルサレム共同体には「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ一〇・五〜六)というイエスの語録が伝承されており、ユダヤ教徒以外の汚れた異教徒(サマリア教徒を含む)に接触して福音を告げ知らせる活動をすることに反対する人たちもいたはずだからです。しかし、イエスの復活後、聖霊に導かれている共同体は地上のイエスの命令を乗り越えて、異教徒に神の恵みを伝えることを決断します。
 「サマリア人の町に入ってはならない」というような明確なイエスの言葉がある以上、イエスご自身がサマリアで活動されたことはありえないとして、ヨハネ福音書四章の記事の歴史性を全面的に否定する説もあります。しかし、この言葉は福音告知のために弟子を派遣するにあたっての命令です。イエスご自身はしばしば祭りのためにガリラヤからエルサレムに行っておられるのですからサマリアを通られたことでしょうし、その時サマリア教徒の女性と出会って対話されたこともありえます。その事実を知っている弟子たちが、後にイエスをメシア・キリストとして告げ知らせる活動をサマリアでして、イエスを信じる人たちの共同体を形成したとき、自分たちの福音活動において働いておられる復活者イエスの働きを地上のイエスの働きと重ねて、このような記事を生み出した可能性があります。わたし自身は、福音書の二重性という基本的な性格から、ヨハネ福音書四章の記事はこのような二重性の産物ではないかと考えています。
 もしそうだとすると、使徒言行録が伝えるフィリポのサマリア伝道とヨハネ(エルサレムのヨハネ)によるサマリアでの共同体の形成とどちらが先かという問題が起こります。両者の関係は複雑な問題を提起しますが、ここではそれに触れることはできませんので、一応広いサマリアで別の出来事として起こった可能性もあり、矛盾するものではないという答えにとどめて先に進みます。
 ヨハネ共同体がサマリアにあったという説には批判もあり、そのまま受け取ることはできませんし、事実、後にはヨハネ共同体はエフェソに移るのですから、サマリアでの活動は一時的なものであったことになります。しかし、ヨハネ共同体は多くのサマリア教徒を含み、キリスト論などでサマリア教徒の反エルサレム傾向が見られる(R・E・ブラウン)のも事実のようです。それは、ヨハネ福音書のイエスはユダヤ教徒から「お前はサマリア人ではないか」(八・四八)と非難されていることからも推察されます。
 ヨハネ共同体の活動場所については、サマリア説以外にシリアとかアレクサンドリアとかを推定する説があります。ドイツ語圏の研究者には、ヨハネ福音書に見られる主要な宗教的伝承がシリア的な(グノーシス主義的な傾向を帯びた)伝承であることを理由に、シリアを推定する傾向があります。最近はパレスチナとシリアの境界にあるガウランティス地方(ガリラヤ湖の東北に広がる現在のゴラン高原地方)を推定する説が行われていますが、M・ヘンゲルはこれを「学者の空想」として厳しく批判しています。いずれにせよ、弟子ヨハネが初めはパレスチナ・シリア地域で活動したことは事実でしょうが、この時期に関しては資料がなく、確実なことは分からないと言うほかありません。

エフェソにおけるヨハネ共同体

 ヨハネ共同体の所在地については、二世紀の教父たちの証言は圧倒的にエフェソを指し示しています。その証言を網羅することはできませんので、ここでは代表的な証言としてエイレナイオスの著作からの引用をあげておきます。二世紀末に活躍したリヨンの監督エイレナイオスは、福音書は四つでなければならないことを主張した最初の教父ですが、彼はマタイ、マルコ、ルカがそれぞれ福音書を書いた事情を述べた後、「最後に、主の御胸に寄りかかっていた主の弟子ヨハネは、アジアのエフェソにいる時に福音書を出した」と述べています(「異端論駁」三巻一章)。エイレナイオスはもともと小アジアの出身であり、若い時にスミルナの監督ポリュカルポスのもとで学んだ弟子です。したがって小アジアの事情と伝承には詳しい人物であり、その証言は重いものです。彼は「使徒ヨハネ」とは言わす、「弟子ヨハネ」と言っていますし、(他の教父にも見られる)「主の御胸に寄りかかっていた主の弟子ヨハネ」という表現は、「愛弟子」の伝承が教父の時代にも続いていたことを示しています。
 ヨハネが最初はパレスチナ・シリア地域で活動したのであれば、どこかの時点でエフェソに移住したことになります。その移住の時期については、九〇年代(ブラウン)や八〇年代(私市)など諸説がありますが、ヘンゲルが推定しているように六〇年代前半がもっとも可能性が高いと考えられます。この時期は六六年に勃発するユダヤ戦争の直前の時期であり、熱心党の運動は全民族を巻き込み、反ローマの熱気が高揚してパレスチナは極度に緊張していました。エルサレム共同体も六二年の主の兄弟ヤコブの殉教の前後は厳しい状況であったと見られます。この時期には戦争の噂が広まり、戦禍を避けてパレスチナから地中海世界の各地に移住するユダヤ人が多く出ました。その移住の流れの中で、ヨハネはエフェソに移住したものと推察されます。

ヨハネのエフェソ移住を四〇年代とする説もあります。イエスから母を委ねられた「愛弟子」がマリアをエフェソに連れてきて、マリアが晩年をエフェソで過ごしたとされていますが(その家がエフェソ遺跡に再建されています)、マリアの年齢からすると、 四〇年代までと見るべきであるとする説です。エフェソ遺跡解説書の「マリアの家」の項には、「聖ヨハネは二度エフェソを訪れたようである」として、「ヨハネは三七年から四八年にかけてエフェソに来たことが知られている」と書いています。エフェソ博物館の公式の解説書も、ゼベダイの子でヨハネの兄弟であるヤコブが殺された時、ヨハネとマリアはこれ以上エルサレムには残れないとして、四一年から四二年にアナトリアに移住したとし、その時マリアは六四歳であったとしています(この解説書にも使徒ヨハネと「愛弟子」ヨハネの混同が見られます)。 ヨハネがマリアを連れてエフェソに移住したのは、エフェソには様々な宗教の人たちが住んでいて、宗教的・民族的に寛容な国際都市で、隠れ住むにはよい場所であったからだとしています。このような現地の伝承は、マリアの家遺跡発見の経緯からしても、ただの伝説として無視することはできません。エフェソにはヨハネの墓所に建てられた立派な教会堂の遺跡があります。

 この移住がヨハネ個人の移住であったのか共同体の移住であったのかは確認できません。個人であったとしても、六〇年代前半の移住であれば、福音書の成立年代とされる九〇年代までは三〇年以上の年月があります。これはパウロの回心から殉教までの年数に相当し、この期間にエフェソを中心に、弟子ヨハネの証言と活動によりかなりの規模の信仰者の共同体が形成されたことは十分推察できます。
 主の弟子ヨハネの証言活動により、エフェソと周辺都市の住民が多く信仰に入り、共同体が形成されます。その中にはユダヤ人も異邦人も含まれていたと考えられます。ヨハネがパレスチナ・シリアで活動した時期のユダヤ人信者がどれだけ含まれていたかは確認できませんが、その時期に共同体が受けたパレスチナ・シリアの宗教的伝統がエフェソ時代の共同体に受け継がれていたことは、十分推察することができます。しかし同時に、エフェソを中心に形成されていたパウロ系の諸集会の伝統も色濃く影響を及ぼすことになります。
 エフェソを中心に形成されたパウロ系の諸集会とヨハネ共同体の重なりがどういう姿であったのかは確認できませんが、ヨハネの神学がパウロの延長上にあることは広く認められている事実であり、とくにコロサイ書やエフェソ書などのパウロ名書簡の思想と親近性があることは、序詩(一・一〜一八)の「充満」《プレーローマ》などの用語と思想が示しています。

V ヨハネ共同体と長老ヨハネの書簡

家の集会と巡回伝道者―第三書簡

 「主の弟子ヨハネ」がエフェソに移住したのが六〇年代とすると、パウロが二年余りの活動を終えて五五年にエフェソを去ってから一〇年ほど後に、エフェソはパウロに優るとも劣らない優れた証人であり教師である人物を迎えたことになります。このヨハネの三〇年に及ぶ活動の結果、ディアスポラのユダヤ人も含みますが大多数は異邦人と考えられる信者の群れが、エフェソとその近辺に形成されます。このヨハネのもとに集まる者たちの交わり《コイノーニア》は、後に見るように制度的な「教会」ではなく、ヨハネのイエスの証人としての権威と教師としての霊性を慕って集まる人たちの自由な交わりであったと考えられます。このような交わりをどう呼ぶかは問題ですが、ここでは「ヨハネ共同体」と呼んで議論を進めていきます。
 このヨハネは、その権威と指導に従う共同体において「長老」と呼ばれるようになります。ヨハネ共同体の交わりがどのような性格のものであったかは、「長老」が書いた手紙によって垣間見ることができます。最初に共同体の在り方を示唆することが多い「第三の手紙」を取り上げます。
 第三の手紙は「長老」からガイオという人物に宛てられています(一節)。まず、挨拶で「長老」はガイオが「真理に歩んでいる」ことを賞賛しています(二〜四節)。ガイオが真理に歩んでいることは、「兄弟たちが来ては、証ししてくれる」と長老は言っていますが、これは離れた場所にある個別集会の間の頻繁な交流を示唆しています。
 長老はガイオに、「御名のために旅に出た人たち」を「送り出してください」と依頼しています(五〜八節)。「御名のために旅に出た人たち」とは、主イエス・キリストの御名を伝えるために各地を巡回して伝道する人たちのことです。「送り出す」というのは、そのような伝道者たちの働きを支援することで、その中には生活費も含めて彼らが必要とする費用を負担することも入っています。「送り出す」がその意味であることは、「彼らは異邦人(信者でない人たち)からは何ももらっていません」という文面が説明しています。このように具体的な形で彼らを支援することが「真理のために共に働く者となる」のだと、長老はガイオと彼の家にある集会を励まします。ガイオはすでに「兄弟たち、それもよそから来た人たちのために誠意をもって尽くしてきました」。そのことは、ガイオの世話になった人たちが「教会(おそらく長老が居合わせる集会)で証しをした」ので、長老は今回もガイオの誠意を信じて、このような依頼をすることができると喜んでいます。
 巡回伝道者に対する支援を依頼する原則的な文面の後に(すこし離れて)、デメトリオという人物を推薦する文面があります(一二節)。デメトリオは、おそらくこの手紙を携えてガイオのもとに来た巡回伝道者であると思われます。「わたしたちも証しします」という長老の推薦の言葉は、デメトリオが長老と彼が代表する共同体から伝道の使命を委任されて送り出されていることを示しています。この依頼と推薦が、この短い手紙の主要な目的であろうと思われます。
 その間に、「指導者になりたがっているディオトレフェス」のことが取り上げられます(九〜一一節)。長老は、彼が「悪意に満ちた言葉で」長老の共同体指導を批判して、自分の指導権を主張していると非難しています。長老とディオトレフェスとの間の確執がどのような問題をめぐるものかについては議論があるところですが、おそらく第一の手紙や第二の手紙に見られるようなキリスト理解についての対立ではなくて、単独司教制への移行期に見られる制度的な問題ではなかったかと考えられます。二世紀初め頃から、個々の教会は一人の監督(後に司教と呼ばれるようになります)によって指導されなければならないとする単独司教制が主張され、すでに二世紀初頭にはイグナティオスやポリュカルポスがそのような単独司教として活躍しています。このような方向に進むように主張したディオトレフェスと、長老の霊的権威を認めた上で、個々の信徒と集会が平等で自由な交わりを持つというこれまでの行き方が対立したのではないかと見られます。
 最後の結びの挨拶で、長老自身が近いうちにガイオを訪問して直接話し合いたいという希望を述べています(一三〜一五節)。長老自身も各地の家の集会を巡回して指導していたことがうかがわれます。このように、ヨハネ共同体は長老の霊的権威の下に個々の家の集会が自由な交わりをもつ信仰共同体であったことが、この短い手紙から分かります。

なお、この短い書簡に出てくる三人の人名を見ますと、ガイオ(正式にはガイウス)はローマ名、他の二人はギリシア神話にちなんだ名前で、ユダヤ人ではないことが分かります。ヨハネ共同体は、長老自身はパレスチナ出身のユダヤ人であり、中核的なメンバーには多くのユダヤ人がいたことは十分推察できますが、エフェソというヘレニズム世界の大都市で異邦人的性格を強めていたことがうかがわれます。

ヨハネ共同体の信仰生活

 ところで、このように各地の家の集会が一人の長老の霊的権威と指導の下に、何人かの巡回伝道者の働きで伝道活動を進めながら、自由で対等の交わりを持っていたと推察されるヨハネ共同体は、実際の信仰生活をどのようにしていたのでしょうか。ここでその概略を見ておきましょう。
 パウロ書簡や共観福音書および使徒言行録から、最初期(使徒が活躍した時代とその直後)の信者たちの集会の様子をある程度うかがうことができます。信者たちは、(ユダヤ教の安息日である土曜日ではなく)主が復活されたとされる日曜日に集まり、共に主イエス・キリストの名によって祈りを捧げていました。まだ教会堂はありませんから、ゆとりのある個人の家に集まっていたようです。その集まりの中心は「主の晩餐」でした。復活者キリストの十字架の死を記念してパンとぶどう酒でする共同の食事が中心で、その前後に祈りや聖書(旧約聖書)の朗読、あるいは巡回してきた使徒や伝道者たち、または先輩集会員の説教や勧告があったようです。すでにパウロの時代に「監督たちと奉仕者たち」と呼ばれる役職の人々がいたことが知られています(フィリピ一・一)。
 ヨハネ共同体の場合は、「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事、または後に「聖餐」と呼ばれるパンとぶどう酒による儀礼が行われていたかどうかが問題になります。共観福音書(マルコ一四・二二〜二五および並行箇所)には、主イエスが最後の食事の席で弟子たちにパンを裂いて与え、ぶどう酒の杯を回して飲ませ、「これはわたしの体、わたしの血である」という言葉で意義づけ、「わたしの記念としてこれを行え」と言われたとする記事(いわゆる「制定記事」)があります。パウロもこれを自分も受けた伝承として自分が形成した集会に伝えています(コリントT一一・二三〜二五)。ところが、ヨハネ福音書では最後の食事の記事に、過越祭の背景でパンとぶどう酒を意義づける記事がなく、「主の晩餐」を制定する記事もありません。代わりに、六章(五二〜五八節)に「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」ことの霊的意味を強調する記事が置かれています。
 ヨハネ福音書に「制定記事」がないからといって直ちに、ヨハネ共同体は「主の晩餐」とか「聖餐」を行っていなかったと結論することはできません。それを行っていることは当然のこととして、その精神を教えるためにイエスが弟子の足を洗われた記事を置いたという理解も可能です。しかし、「神は霊である。神を礼拝する者は霊と真理によって礼拝しなければならない」(四・二四)というヨハネ福音書の基本的な主張からすれば、「聖餐」が祭儀化しつつある傾向に対抗して、あえて「制定記事」を省いたという理解も可能です。最後の食事の席でイエスの一番近いところにいた目撃証人である「愛弟子」が、そして少なくともマルコ福音書を知っていると考えられる長老ヨハネが、あえて「制定記事」を書いていないという事実は重く受け止めるべきであると思います。

二世紀初頭のアンティオキア司教イグナティオスには、聖餐を永遠の命を与える秘薬のように理解する祭儀化が見られることと比較すると、一世紀末のヨハネ福音書におけるサクラメントとしての聖餐についての無関心は注目されます。ヨハネ共同体における「サクラメント」については、拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』256頁の「補講―ヨハネ福音書とサクラメント」を参照してください。

 バプテスマについても、ヨハネ福音書は水のバプテスマに対比して聖霊のバプテスマを強調しています。復活者キリストは(マタイのように)水のバプテスマを授けるように命じられたことはなく、聖霊でバプテスマする方として指し示されています(一・三三)。水のバプテスマを示唆するとされる「水と霊によって生まれなければ」という三章五節も、御霊の自由な働きを語る文脈の中に包み込まれています。ヨハネ共同体の信仰を提示するヨハネ福音書は、総じてサクラメントには無関心で、本来それが来るべき位置に御霊の自由な働きと、それによる復活者キリストとの霊の交わりを置いています。教会制度についてもまったく無関心です。「使徒」という地位を示す用語は一度も用いられていません。
 このような事情を総合すると、ヨハネ共同体は長老ヨハネの証言と指導に依拠して、ひたすら御霊による復活者イエスとの交わりを追求し、形式的・制度的な関心から解放されて、御霊による自由な交わりを形成しようとした共同体ではないかと考えられます。これは教会とかセクトではなく、長老ヨハネを霊的な権威と仰いで、小アジアの諸集会を横断する形で展開した信仰運動ではなかったかと考えられます。日本のキリスト教史においては、内村鑑三とか賀川豊彦の運動に近いものではなかったかと推察することも可能です。そうであれば、洗礼とか聖餐という儀礼は教会のものとして認めた上で、この運動の中では無関心でいることができることになります。このような運動としてのヨハネ共同体の在り方は、現在のわたしたちのモデルとして重要な意義を担うことになります。

ヨハネ共同体の危機―第二書簡

 このような共同体に分裂の危機が襲います。共同体の中に対立と亀裂が生じたことは、すでに第二の手紙が示しています。この手紙ではまだ分裂まで行っていませんので、すでに分裂が起こってから書かれた第一の手紙(二・一九参照)よりも先に書かれたと見られます。ここでまず、先に書かれたと見られる短い第二の手紙の概略を見ておきます。
 「長老」は「選ばれた婦人とその子たち」に書き送っています(一節前半)。「婦人」《キュリア》という語は、《キュリオス》(主人)の女性形で、もともと奴隷に対して女主人を指す語です。この語に「選ばれた」という説明がついていることと、「その子たち」について語ることが集会員のことですから、この「婦人」は宛先の集会を象徴的な用語で指していると理解することができます。
 長老は手紙の挨拶文(一節後半〜三節)で、特愛の用語である「真理」と「愛」を繰り返し用いて、共同体がいかに真理と愛の中にある交わりであるかを(ややくどい文体で)強調しています。
 長老は宛先の集会がもはや一枚岩ではなく、亀裂が入っていることを知っています。長老は「あなたの子供たちの中に」、すなわち集会員の中に「わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人たち」がいることを知って喜んでいると言っていますが(四節)、その言葉の背後にはそうでない人たち、すなわち真理に従って歩んでいない人たちがいることを知った苦悩があります。そこで、長老は「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります」と言って、長老が教えたとおりに真理に歩むように勧告します(五〜一一節)。
 では、長老が言う「真理に歩む」と「真理に歩まない」の違いはどこにあるのでしょうか。長老は最初に、愛に歩むように、すなわち互いに愛し合うという御父の掟に従って歩むように求めています(五〜六節)。しかし、愛に歩むということはあまりにも一般的な戒めであり、それに従って歩んでいるかどうかで、「真理に歩んでいる」人であるとか、「真理に歩んでいない」人であると線を引くことは困難です。
 長老は、常日頃強調している愛による一致を前置きとして繰り返した上で、その後で本題を出します。長老が訴えたい本題は、「人を惑わす者たち」の偽りの教えに耳を傾けないようにという勧告です(七〜一一節)。長老は「人を惑わす者たち」のことを「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たちだと説明した上で、彼らを「反キリスト」だと決めつけます。長老は、彼らの教えに耳を傾け、その教えに従うならば、「わたしたちが努力して得たものを失う」ことになると警告します。「わたしたちが努力して得たもの」とは、長老を中心に長年にわたって伝道の努力をして形成したキリストの民の信仰を指していると見てよいでしょう。長老は正しい信仰の崩壊を心配しています。彼らの教えに聴き従う者は、「キリストの教えを越えて、これにとどまらない者」であり、そのような者は「神を持たず」(直訳)、「豊かな報いを受ける」こともないと警告が続きます。長老が証言し共同体が保持してきた教えこそ「キリストの教え」であり、「その教えにとどまる人こそ、御父と御子を持つ」(直訳)のだと断言します。
 ここで「教え」が「真理に歩む」ことの基準となっていることが注目されます。長老が説き続け、共同体が保持してきた教えこそ「キリストの教え」であり、その教えから逸脱して、「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たちの教えは「反キリストの教え」とされます。長老から見て「反キリストの教え」をもって巡回する伝道者の働きが始まり、共同体が分裂の危機にあることを長老は真剣に危具しなければならなくなります。それで、長老は各集会に、何よりも彼ら「人を惑わす者たち」を家に入れず、挨拶もしないように、すなわち集会で語る機会を与えないように警告します。彼らに「挨拶する」人は、彼らの仲間になるのであり、彼らの偽りの所行に荷担することになると厳しく警告します。
 長老は最後の結びで、「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです」と、第三の手紙で言ったのと同じ言葉を用いています(一二節)。長老の指導は書いたもの(文書)によるのではなく、直接語る形で行われたようです。
 最後に「あなたの姉妹、選ばれた婦人の子供たち」からのよろしくの挨拶が加えられて、手紙は結ばれます。この「あなたの姉妹、選ばれた婦人」は今長老がいる集会を指しています。ヨハネ共同体では、各地の集会はお互いに姉妹として対等で親しい交わりを形成していたようです。
 第二の手紙の書き方はきわめて一般的で、どの集会に宛てられたものとしても読むことができます。同じ文面の手紙が共同体の各集会に送られた可能性があります。おそらく長老は「惑わす者たち」の活動を封じるために各地の集会を訪問しようとして、その予告としてこの手紙を各集会に送った(あるいは回状として回した)のではないかと推察されます。宛先が固有名詞ではなく「選ばれた婦人」という象徴的な用語になっているのもそのためであると考えられます。

共同体の分裂と消滅

 長老の必死の努力にもかかわらず、亀裂は深まり、ついに一部の者たちは共同体の交わりから出て行きます(ヨハネT二・一九)。ある意味で共同体は分裂したのです。「ある意味で」と言ったのは、この場合「分裂」の実情が曖昧であるからです。ある組織的な団体から一部の構成員が出て行って別の組織を作ったのであれば、それははっきりと「分裂」です。しかし、ヨハネ共同体というのは、教会とか教団というような組織体ではなく、どの教会や集会の所属員も自由に長老ヨハネの教えに接することができる開放的で流動的な交わり《コイノーニア》であったと見られます。したがって、その交わりから一部の者が出て行ったとしても、それは厳密な意味での「分裂」(組織の分裂)ではなく、交際をやめるという程度のものであると見られます。長老は組織の分裂とか崩壊を恐れているのではなく、共同体の交わりから出て行った者たちの「偽りの教え」が、共同体全体の信仰を誤りに導き、地域(この場合は小アジア)のキリスト者共同体全体に浸透することを恐れているのです。
 その危機に際して、長老が共同体に残っている者たちに、正しい信仰にとどまるように説き勧めるために書いた勧告の書が「第一の手紙」です。これは手紙というよりは長老の説教です。その内容は別項「X 長老ヨハネの遺訓としての第一書簡」で扱うことになりますが、ここでその成立の事情だけに触れておきます。
 長老ヨハネの晩年には、ペトロをはじめ直接イエスに接した弟子たちはみな世を去っていましたから、ただ一人地上に残された証人として、その権威は高く仰がれるようになったと思われます。それで、この長老ヨハネこそ主が来臨の時まで地上に留まると預言された弟子であるといううわさが共同体に広まったようです(二一・二〇〜二三)。しかし長老ヨハネも、高齢になってからですが、召される時が来ました。それは一世紀末、九〇年代のことであると考えられます。彼が世を去った直後に、弟子の一人がそれまでに形を取っていた共同体の福音書に二一章を書き加えて、若いときに「イエスが愛された弟子」であった自分たちの指導者長老ヨハネこそこの福音書の著者であると証印して(二一・二四)、この福音書を世に送り出します。
 ヨハネ共同体は、長老ヨハネが世を去ってから比較的早く、舞台から消えていったようです。二世紀に入ると、ヨハネ文書の流布は確認できますが、一つの共同体としての活動を伝える証拠は見ることができなくなります。ヨハネ共同体が長老の没後比較的早く消滅したのは、それが制度的な教会ではなく、イエスの目撃証人としての長老の個人的権威による結合であったからでしょう。長老ヨハネに代わることができる結合原理は他にありえなかったのです。
 ヨハネ共同体が分裂したとき、出て行った人たちは第二書簡で批判されていた「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たち、長老が「反キリスト」と非難している者たちです。このグループの人たちは後にグノーシス主義の陣営に流れ入ります。長老のもとに残った人たちは、補遺の二一章が示唆しているように、長老の没後は主流派の交わりにとけ込み、固有の共同体としての歩みは見られなくなります。
 しかし、長老ヨハネは彼の文書、とくにヨハネ福音書によって後世のキリスト教に決定的な刻印を刻み込むことになります。次項(W)で、このヨハネ共同体が生み出した福音書である「ヨハネ福音書」の成立過程とその意義を見ることにします。

W ヨハネ福音書の成立

著者問題

 これまでに見てきたように、この福音書自体に著者を指し示す記事(二一・二四)があるにもかかわらず、ヨハネ福音書の著者問題は紛糾しています。この福音書が「ヨハネによる福音書」という名で流布していたことは、教父たちの証言で明らかなのですが、ヨハネという名の人物が多くいることが紛糾の原因となっています。古代からの教会の伝統では、十二使徒の中の一人であるゼベダイの子のヨハネが著者とされてきました。しかし、これはありそうにないことです。その理由は大略次のようなものです。

1 出来事を象徴的な長い講話に結びつけるなど、福音書全体の内容や書き方は、ガリラヤの漁師の筆になるものとは考えられません。
2 ガリラヤ出身の目撃証人が、ガリラヤでの出来事ではなくエルサレムでのイエスの活動に集中するのは理解できません。
3 共観福音書がゼベダイの子ヨハネが居合わせたとする重要な出来事(たとえばヤイロの娘の生き返り、山上の変容、ゲツセマネ)を伝えていません。

 一つひとつの理由は決定的なものでないかもしれませんが、全体として見るとやはりゼベダイの子ヨハネの作とすることは困難です。ゼベダイの子のヨハネはペトロたちと同世代の人で、この福音書の成立を七〇年以後の最初期後期とすると、この福音書の著者ではありえません。マルコ(一〇・三九)はゼベダイの子ヨハネのかなり早い時期の殉教を知っていることを示唆しています。
 それにもかかわらずゼベダイの子ヨハネが著者とされたのは、二世紀には「使徒ヨハネ」と「長老ヨハネ」が混同され、この立派な福音書を使徒の著作として権威づけるために、使徒であるゼベダイの子ヨハネの作とされるようになったと見られます。そのおかげで、かなり問題視されていたこの福音書が正典に入れられるための助けになったようです。
 現代の批判的研究はほとんどこの福音書の著者はゼベダイの子ヨハネではないとしていますが、ではどのヨハネであるかとなると諸説があり、複雑な「ヨハネ問題」を提起しています。わたしは、M・ヘンゲルが主張しているように、福音書に「主が愛された弟子」として登場している若い弟子で、後にエフェソで活動して共同体を形成し、そこで「長老」と呼ばれるようになっていたヨハネであると考えています。この稿の最初(288頁)に「愛弟子」の年代を議論しましたが、それはこの「愛弟子」が九〇年代に成立したと見られるこの福音書の「著者」でありうることを示すためでした。この「愛弟子」と「長老」は別人であるとして様々な説が提出されていますが、年代的に可能であるならば、同一人であるとするのがもっとも単純で妥当な解決であると考えられます。同一人であることを否定する決定的な根拠は見当たりません。

別人とする諸説を紹介し検討する余裕はありませんが、その一例として最近の仮説の中で興味深い説を一つだけあげておきます。ローマカトリック教会の現教皇ベネディクト一六世となっているヨゼフ・ラツィンガーは、その著『ナザレのイエス』で次のように主張しています。最近の神殿祭司職の社会学的な研究から、ゼベダイはかなりの雇い人をもつガリラヤの漁師であると同時に、エルサレムで祭司職を務めていたことはあり得るとして、その子のヨハネが「イエスが愛された弟子」であり、イエスが選ばれた十二人の使徒の一人であるとします。そしてこの「愛弟子」に遡る「ヨハネ学派」がエフェソで活動します。そして使徒ヨハネの死後、その学派の「長老」が学派の伝統を福音書にした、としてP・シュトゥールマッハーに賛成しています。これは、使徒ヨハネを福音書の著者とするエイレナイオス以来の教会の伝統と現代の研究を調和させようとする試みですが、なおエルサレム関連の記事が圧倒的に多いという事実を十分説明できないなど問題点も残ります。ヘンゲルのように、エルサレムの祭司階級の青年が「愛弟子」であり、この「愛弟子」が後にエフェソで活動し、長老として福音書を書いたとするのが妥当だと考えられます。

証言としてのヨハネ福音書

 若いときにイエスにつき従い、「主が愛された弟子」として身近にイエスの働きを見、その言葉を聞いたヨハネは、イエスの十字架と復活後は、聖霊によって働かれる復活のイエスとの交わりを深め、そのイエスを主キリストとして宣べ伝える働きを進めていったと考えられます。先に見たように、当初はパレスチナ・シリアの地域で活動したのでしょうが、ユダヤ戦争の危機と混乱が高まった六〇年代の前半にエフェソに移住し、そこでイエスをキリストとして証しする活動を続けます。それが九〇年代まで続き福音書が成立したとすると、三〇年のイエスの十字架と復活のあと六〇年以上にわたって証言活動が続いたことになります。後半のエフェソでの活動だけでも三〇年を超える年月が経っています。その間にヨハネの証言によって地域の(おそらく)少数のユダヤ人と多数の異邦人が信仰に入り、イエスを信じる者たちの共同体が形成されます。このヨハネの証言活動によって形成された信者の共同体を、わたしたちは「ヨハネ共同体」と呼んでいます。
 このヨハネの活動を、「福音」という用語を使って、「福音を告知した」とか「福音活動」を進めたということはためらわれます。ヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネの手紙)には「福音」とか「福音を告げ知らせる」という用語は一度も出てきません。「福音」という用語はパウロが自分の思想と活動の中心に据えた用語で、パウロ系文書に繰り返し用いられています。イエス伝承を用いてキリストを告知する最初の文書(マルコ福音書)が「神の子イエス・キリストの福音」と題して出され(おそらく著者がパウロの活動に親しい人物であったから)、イエスの働きが「福音」という用語で語られたために、このような性格の文書(イエス伝承を用いてキリストを告知する文書)が「福音書」と呼ばれるようになりました。
 ヨハネ福音書も同じように地上のイエスの働きを語ることによって復活者キリストを世に提示する文書として、「ヨハネによる福音書」という名で流布するようになりますが、この福音書自身には「福音」という用語はまったく出てきません。この文書の性格は、「福音を告げ知らせる」というよりは「証言する」というほうが適切です。「証し」とか「証しする」という表現が繰り返し出てきます。ヨハネの活動は、自分が見たこと、聴いたこと、体験したことを「証しする」活動であったのです。

「証し」という名詞はマルコに四回、ルカに一回であるのに対しヨハネは一四回、「証しする」という動詞はマタイに一回、ルカに一回であるのに対し、ヨハネでは三一回出てきます。

イエスの活動の証言として

 ヨハネの「証し」には二つの面があります。一つはイエスが地上で活動されたとき、イエスにつき従って見聞きしたイエスの言動についての「証し」です。もう一つの面は、復活されたイエスとの御霊による交わりにおいて体験した復活者イエスを証しする「証し」です。この二つの面の証しが融合して語られているところに、この福音書の独特の性格が出て来ます。この二つの面は切り離しがたく融合していますが、それでも本来は別のことですから、まずそれぞれについて別に考察します。
 まず地上のイエスの活動についての証言を見ます。ヨハネはエルサレムの住民であり、イエスがエルサレムに来られたときにつき従ってエルサレムとその近辺でなされた活動を直接見聞きしています。従ってヨハネ福音書にはイエスのエルサレムでの活動を描く記事が多くなるのは当然の結果です。ガリラヤでのイエスの活動は直接接していないので、それを描くときは伝承された資料に頼ることになります。もっとも初期にヨハネ共同体がパレスチナ・シリアで活動していた時期には、ガリラヤ出身のユダヤ人もその中にいて、彼らがガリラヤでのイエスの働きを伝えた可能性も十分考えられます。
 イエスがガリラヤで「神の国」を告げ知らせる働きをされたのは確かな事実です。しかし、その働きの期間中、ユダヤ教徒として律法の規定に従い、祭りの時はエルサレムに上り祭りに参加しておられます。ヨハネ福音書は、イエスが過越祭や仮庵祭でエルサレムに来られたことを何回も報告しています。エルサレムでの活動はかなりの期間になり、多くの力ある業をなされ、イエスを信じる者もかなりの数に上っていたと推察されます。

ヨハネ福音書の証言に基づいてイエスの活動の年代を推定したE・シュタウファーは、イエスの活動をユダヤ教の祭りを目盛として次のように構築しています(E・シュタウファー『イエス ―その人と歴史』 高柳伊三郎訳・日本基督教団出版部)。

 二八年  ヨハネからバプテスマを受ける(一章)
 ヨハネのバプテスマ運動に参加
 二九年春 過越祭参加のためにエルサレムへ(二〜三章)
       神殿での象徴行為はこの時
 二九年秋 サマリアを通ってガリラヤへ(四章)
       その後「沈黙の一〇ヶ月」 バプテスマ運動から離脱
 三〇年秋 仮庵祭のためエルサレムへ(五章)
 三一年春 ガリラヤでの過越祭 メシア的饗宴(六章)
 三一年秋 エルサレムで仮庵祭(七章)
       この時から翌年春までエルサレムとその近辺に滞在
 三一年冬 神殿奉献祭で神殿で論争(一〇章) 
 三二年春 過越祭のとき十字架(一二章〜)  

 近代以降、イエスの活動の事実(史的イエス)を探求するにさいして、ヨハネ福音書は用いられることが少なく、もっぱら一番古いとされるマルコ福音書とそれに基づく共観福音書が資料として用いられる傾向があります。おそらくヨハネ福音書の証言の第二の面(復活者イエスの体験から語られる霊的告白)の印象があまりにも強く、全体が霊的・神学的著作とされて、歴史的資料としては使えないという理由からだと考えられます。しかし、「著者」ヨハネは実際にエルサレムでのイエスの活動を目撃した証人であり、ガリラヤでの活動はともかく、祭りの場におけるエルサレムでのイエスの働きについての証言は、イエスの歴史を考察するために十分な資料価値をもっています。むしろ、マルコ福音書の方が、キリストの福音告知(ケリュグマ)の枠組みに基づいて構成された文書として、イエスの活動の歴史的事実を追求する資料としては不適切な面があります。ヨハネ福音書の証言からすると、イエスの活動期間は、マルコの一年半よりも、ほぼ四年と見る方が順当です。
 ヨハネ共同体は、マタイ福音書やルカ福音書は知らなかったがマルコ福音書は知っていたのではないかと考えられます。マルコ福音書の記述が、その福音告知の枠組みに制約されて不十分であり、かつ不正確な面もあるので、ヨハネはそれを補い修正するために福音書を書いたという一面もあるのではないかと見られます。洗礼者ヨハネの活動が始まり、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったのは、「歴史家ルカ」が伝えるとおり「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」、すなわち二八年とすると、共観福音書ではイエスの十字架はその一年半後の三〇年春の過越祭のときとなります。ヨハネ福音書によると三二年の過越祭となります。新約聖書には、ルカも含めて、イエスの十字架の年を記述した文がありませんので確実なことは言えませんが、ヨハネの方が事実ではないかと考えられます。
 十字架の日付についても、マルコとヨハネでは一日のずれがあります。マルコでは過越祭の当日ですが、ヨハネでは一日前の「準備の日」、すなわち神殿で過越の小羊がほふられる日となっています。この一日のずれの問題はいまだに解決されていません。
 マルコ福音書は、その福音告知の図式からイエスの活動を洗礼者ヨハネの投獄以後に始まるガリラヤでの活動から語り始めています。それに対してヨハネ福音書は、イエスがバプテスマを受けてからも洗礼者ヨハネのもとにとどまりバプテスマ運動を続けられたことを報告しています(三・二二他)。アンデレやペトロ、フィリポ、ナタナエル、そしておそらくこの「愛弟子」がイエスと出会い弟子となるのが洗礼者ヨハネのバプテスマ運動の中であることを知るのもヨハネ福音書によります。
 イエスがエルサレム神殿で鞭で商人を追い出すという過激な象徴行為をされたのは、マルコ福音書では最後の過越祭の時とされていますが、ヨハネ福音書はイエスがまだ洗礼者ヨハネとバプテスマ運動を共にしておられた初期の出来事としています。エルサレム祭司制を批判するクムラン宗団の流れにある洗礼者ヨハネと運動を共にされていた時期の行動であることや、イエスのガリラヤでの活動の期間中、絶えずエルサレムの祭司や律法学者たちの監視団がつきまとっていたことを考慮すると、この方が事実であると考えられます。
 ヨハネの福音書は、「著者」を「イエスが愛された弟子」としていつもペトロと一対で登場させ、この弟子の方がペトロよりも確かな証人であることを印象づけようとしています。そうすることで、ペトロ系の伝承によっているマルコ福音書よりも確かな形でイエスを伝えていることを主張していると見られます。ただ、長老の没後に加えられた補遺の二一章では、ペトロ系の伝承も受け入れて主流のペトロ系の共同体に近づこうとしている姿勢が見られます。
 このように見てくると、マルコ福音書よりもヨハネ福音書の方がイエスの活動の事実に近いと見ざるをえません。古代のタティアノスの『ディアテッサロン』(四福音書の内容を調和的に記述した著作)から現代のシュタウファーまで、イエスの生涯をヨハネ福音書の枠で記述しようとする試みは絶えません。わたしもイエスの地上の実際の働きとその歴史については、ヨハネ福音書を基本的な枠組みとすべきであると考えています。

復活者イエスの証言として

 イエスの証言としてさらに重要なのは第二の面、すなわち復活者イエスとの交わりにおいて体験したことの証言です。ヨハネは復活されたイエスから聖霊を受けた体験を、ルカが伝えるペンテコステの出来事とは違う形で伝えています(二〇・一九〜二三)。弟子ヨハネは、その後も聖霊の豊かな注ぎを受けて、ペトロたちと共に復活者イエスとの交わりを深めていったと考えられます。聖霊による復活者イエスとの交わりの現実は、イエスが十字架の前夜に弟子たちに語られたとされる「訣別遺訓」(一四〜一六章、とくに一四・一五〜三一、一六・四〜一五)に予告の形でまとめられています。
 イエスは、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」と言っておられます(一五・二六〜二七)。イエスが天に去られた後、復活者イエスが地上の弟子たちに遣わしてくださる「同伴者」であり「弁護者」である聖霊が、復活者イエスを証しして、その栄光を示し、そのイエスが語りかける言葉を聴かせてくださることが約束の形で述べられています。その上で、聖霊の証しを受けた弟子たちが、聖霊によって見た復活者イエスのキリストとしての栄光と、その方から聴いた言葉を世に証しをすることになると言われています。ヨハネは、自分たちがしている証しはまさにこのことであると言っているのです。その証しは、彼らがイエスと「初めから一緒にいたのだから」、すなわち地上のイエスの働きを見てその言葉を聴いた者であるのだから、その証しと一体となって行われることになります。こうしてイエスについての証しの二つの面が重なることになります。
 弟子のヨハネは彼の回りに集まる共同体に向かって語るとき、自分が見聞きした地上のイエスの言動を伝えたことでしょう。しかし、そのイエスを語るとき、イエスとはこのような方であり、このように語りかける方であると、いま自分が御霊によって復活者イエスから聴いている言葉を重ねて語らざるをえなかったと考えられます。彼の説話が編集されて成立した福音書は、地上のイエスが語られたこととして書かれていますが、その内容はヨハネが御霊によって復活者イエスから聴いている言葉が重なっていて、どこまでが実際に地上のイエスが語られた言葉で、どこからが復活者イエスが語っておられる言葉であるのか、区別することが難しい場合が多くあります。
 その重なりの詳細は「ヨハネ福音書講解」に譲りますが、ここでその典型的な一例をあげておきます。ヨハネ福音書には、イエスが《エゴー・エイミ》と語られたことが何回も出てきます(四・二六、八・二四と二八と五八、一三・一九)。この言葉は新共同訳では「わたしはある」と訳されています。「わたしである」と訳すこともできます。この言葉は、共観福音書ではガリラヤ湖でイエスが水の上を歩いて漕ぎ悩む弟子たちの船に近づかれたときに弟子たちが聴いた時と、イエスが裁判のさい「お前はメシアであるのか」と問う大祭司に向かって答えられたときの二回だけです(マルコ六・五〇、一四・六二)。ガリラヤ湖での出来事は、復活されたイエスが弟子たちに現れた出来事を地上の働きの期間に置いたものと見られますので、このイエスの語りかけの言葉は、弟子たちの復活者イエスとの出会いを指し示す典型的な言葉と見られます。その言葉をヨハネ福音書が繰り返し用いていることは、ヨハネ福音書におけるイエスの言葉が、ヨハネとその共同体が復活されたイエスから御霊によって聴いているものであることを強く示唆しています。
 新約聖書はキリスト体験の証言です。キリスト体験とは、聖霊の働きの場で、復活者キリストがわたしに働きかけて(=語りかけて)くださることによって起こる出来事です。これは「わたしである」とご自身を現される方との出会いです。この体験においてわたしたちが聴く究極の言葉は、現れてくださる方の「わたしである」という言葉です。ヨハネ福音書にしばしば現れる「わたしは命のパンである」というような「わたしは〜である」という宣言は、この《エゴー・エイミ》の後に説明的な補語が続く形であり、復活者イエスの自己宣言です。

《エゴー・エイミ》と「わたしは〜である」という宣言については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解T』319頁以下の「特注 ヨハネ福音書における《エゴー・エイミ》」を参照してください。

 ところで、御霊の場でわたしたちに働きかける方を、パウロは「キリスト」と呼び、その体験を「キリストにあって」という句で語っていますが、ヨハネはこのような場合に「キリスト」を用いることはありません。ヨハネが「キリスト」を用いるのはユダヤ人のメシア待望に関わる場合だけで、新共同訳はそれを「メシア」と訳すので、「キリスト」がヨハネ福音書に出てくるのは「イエス・キリスト」という共同体の告白表現の場合の二回だけとなります(一・一七、一七・三)。ヨハネ福音書は、御霊の場でわたしたちに語りかける方をも「イエス」と言い表すので、わたしたちはヨハネ福音書の「イエス」を復活者イエスを指す名として読まなければならない場合がしばしば起こります。
 このように地上のイエスと復活されたイエスとが重なって証言されることが、この福音書の著しい特色となります。そのため、この福音書のイエス像は後年の神学的考察によって形成されたものとして、史的イエスの探求においては除外され、もっとも古いとされるマルコ福音書が基本的な資料とされます。しかし、地上のイエスを語ることによって復活者キリストの福音を世に提示することが「福音書」の本来の性格とすれば、ヨハネ福音書の方がマルコ福音書よりも素直にこの提示をしているとも言えます。マルコ福音書をはじめ共観福音書にもこの重なりは見られますが(拙著『マルコ福音書講解U』の「福音書の二重性」参照)、ヨハネ福音書においてはこの重なりが、自分が見聞きした地上のイエスの証言と、聖霊によって体験した復活者イエスの証言とが直接的に融合して重なっているので、より素朴な形での福音の告知となっていると言えるのではないかと思います。事実、ドイツ新約聖書学の碩学K・ベルガーはヨハネ福音書の成立をマルコよりも先だとして、「はじめにヨハネがあった」という著作を出しています。最終的な成立と流布は九〇年代だとしても、福音書の原初の形態としてはヨハネ福音書がもっとも古いと言えるのではないかと思います。

Klaus Berger "Im Anfang war Johannnes" 1997 は入手していませんが、同じ著者による "Das Neue Tesatament und Fruhchrisit-liche Schriften" 1999では、七〇年のマルコよりも早い六八年または六九年をヨハネ福音書の成立年とし、その理由としてエルサレムの破壊が前提されていない、教会制度が言及されていない、ユダヤ人キリスト教的要素が強い、聖餐の制定語や「主の祈り」が知られていないなどを上げ、ヨハネ福音書はパウロの福音提示に近く、パウロの死からエルサレム陥落の間に位置づけられるとしています。

永遠の命をめぐる対話編

 このような二重の意味での長老ヨハネのイエス証言を文書にしたのがヨハネ福音書です。ヨハネの証言活動はおもに説教という形で行われたと推察されますが、共同体の人たちの疑問や質問に答えるとか、外のユダヤ教会堂からの厳しい批判や非難に応答する必要から、ヨハネのイエス証言はイエスと弟子およびイエスと「ユダヤ人」との対話という形をとって文書にまとめられます。したがって、ヨハネ福音書はイエスと弟子たち、およびイエスと批判者たちの対話からなる「対話編」となります。
 対話編といえば、プラトンの有名な対話編がすぐに思い浮かびます。プラトンは紀元前四世紀に活躍した哲学者ですから、ヨハネがプラトンの著作を知っていた可能性はあります。しかし、ヨハネ福音書に見られるギリシア的要素は(ロゴスという用語の使用にしても)十分にヘレニズム化した当時のユダヤ教の範囲内で理解できることで、ヨハネが特にギリシア哲学に通じていたことを指す指標はありません。ヨハネがその福音書で対話編という様式で「真理」を提示したのは、プラトンの影響というより、その生涯を貫く証言活動が、長老とその弟子たちとの間の対話、また敵対者(ユダヤ教会堂)との激しい論争という形でなされてきたことの結果であると考えられます。長老は「真理」を提示しようとするさい、身に付いた対話の形式をおのずから採らざるをえなかったものと見られます。
 この「対話編」の主題は「永遠の命」です。この福音書は「永遠の命」をめぐる復活者イエスとの対話という性格の文書になっています。イエスが告知された福音の主題は「神の国」であったことからすると、この主題の変更はこの福音書の性格を指し示す重要な指標です。この福音書には、「神の国」は一段落に二回出て来るだけです(三・三と五)。それに対して「永遠の命」は全編を通じて繰り返し出てきます。この命は、わたしたちが現に生きている生まれながらの命と区別される命であり、イエスを信じることによって神から新しく与えられる命を指しています。この区別をするために、ヨハネはこの命を「永遠の命」《ゾーエー・アイオーニオス》と呼んでいますが、この命をただ「いのち」《ゾーエー》という語で指す場合も多くあります。
 「永遠の命」は、ユダヤ教においては本来「来たるべき世《アイオーン》」で与えられる命を指しています。イエスに「永遠の命を受け継ぐ」には何をすればよいかと尋ねた若者もこの意味で使っています(マルコ一〇・一七)。イエスもこの意味で用いておられます(マルコ一〇・三〇)。パウロにおいても「永遠の命」はこの世での信仰の生涯が「行き着くところ」の将来です(ローマ六・二二)。それに対してヨハネ福音書は「永遠の命」を現在の体験として語ります。ヨハネ福音書のイエスは、「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」と断言されます(六・四七)。もともと終末に与えられるものとして待望されていたものが現在すでに来ているという使信がヨハネ福音書を貫いています。ヨハネ福音書は「キリストの来臨《パルーシア》」を語ることはありません。詳しいことは次節でヨハネ福音書の内容を扱うときに触れることになりますが、終末の現臨(現に来ている)という使信がこの福音書の大きな特色をなしていることをここであげておきます。

ヨハネ福音書の状況と対象

 このような特異な福音書がどのような状況で、どのような人たちに向かって書かれたのか、現在に至るまで議論は続いています。以前(二〇世紀前半)はおもに異邦人(ギリシア人)に向かって書かれたと見る傾向がありました。それは、共観福音書が「神の国」とか「人の子」というような用語でパレスチナ・ユダヤ教の終末的な使信を伝えているのに対して、ヨハネ福音書は「永遠の命」とか「真理」とか「天と地」の空間的二元論とか、ギリシア的な思考の世界で語っていると理解されたからでした。ところが、二〇世紀後半には死海文書の発見などで当時のユダヤ教の状況がさらに正確に分かるようになり、ヨハネ福音書も極めて強く当時のユダヤ教の思想圏にあることが再認識されるようになります。その結果、ヨハネ福音書は、ユダヤ教会堂との対立が激しくなり危機的な状況にあるユダヤ人の信徒共同体に、イエスが神の子であることを再確認させるために書かれたと見る見方が強くなってきました。それに伴って、ヨハネ共同体の地理上の位置(したがってヨハネ福音書の成立の地)も、ヘレニズム世界の大都市から、シリア・パレスチナのユダヤ教の辺境地域に求められるようになりました。
 たしかにヨハネ福音書の著者は極めて強く一世紀のユダヤ教の世界に組み込まれています。「人の子」とか「わたしはある」というようなユダヤ教だけの用語を当然のように使用し、「光と闇」、「命と死」などエッセネ派に見られるような終末的二元論を思考の枠組みとしていることなど、ヨハネ福音書はユダヤ人がユダヤ人のために書いた福音書だと見ざるをえない一面があります。これは、本稿で見たような長老ヨハネの経歴からすれば当然のことであり、驚くことではありません。
 しかし、福音書と手紙を子細に観察すると、ヨハネ共同体が異邦人世界にあり、ヨハネ福音書が異邦人世界に向けられていることを指し示す指標も多くあります。まず、この福音書では「ユダヤ人」という総称が第三者として扱われていることが注目されます。この福音書のイエスは、自らユダヤ人でありながら、ユダヤ人の律法を「あなたたちの律法」とか「彼らの律法」と呼び、著者は祭りを繰り返し「ユダヤ人の祭り」と解説しています。さらに、「メシア」などヘブライ語の宗教用語をギリシア語に訳したり説明したりしています。これは聴衆が異邦人であることを指し示しています。
 また、ヨハネ福音書には異邦人伝道への意欲とか姿勢が見られます。ヨハネ福音書がサマリア伝道に大きな関心をもっていることは(共観福音書に比べて)顕著な事実です。当時のユダヤ教徒から見ればサマリア人(サマリア教徒)は異教徒と同じでした。イエスは異教徒のサマリアの女にご自身をメシアであると示し、この女からイエスに導かれたサマリア教徒たちはイエスを「世界の救い主」と告白しています。サマリアでイエスは「この山(サマリア教の聖地ゲリジム山)でもエルサレム(ユダヤ教の唯一の神殿)でもないところで父を礼拝する時が来る」と言って、世界のどこででも「御霊と真理をもって父を礼拝する」時が来ていることを宣言しておられます。これはヨハネ福音書が完全にユダヤ教の枠を乗り越えていることの宣言です。
 さらに、律法の扱い方もこの福音書が異邦人伝道の場で書かれていることを示しています。救われるためにはモーセ律法を順守しなければならないかどうかの問題(パウロが死闘したあの問題)はすでに解決済みの問題であり、遠い過去になっています。律法(聖書)はイエスの神性を証言する預言としてのみ登場します。もしヨハネ福音書がおもにユダヤ人から成る共同体に向かって書かれているのであれば、たとえ七〇年以後の状況でも(マタイがしたように)信仰の立場からする律法の意義づけを積極的に議論しなければならないでしょう。それが全然ないことは、この福音書が異邦人伝道の場で成立したことを示しています。
 福音書が描く出来事の舞台は地上のイエスの活動です。したがって、イエスを信じる者はユダヤ人だけです。しかし、著者は異邦人の信徒を視野に入れて語らないではおれませんから、将来のこととして「この囲い(ユダヤ教)に入っていないほかの羊(すなわち異邦人)」も「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことを予告することになります(一〇・一六)。また、最後の夜の祈りで、イエスは「すべての人が一つになるように」祈られます(一七・二一)。
 このような異邦人伝道への関心は、本稿で見たように、長老ヨハネがヘレニズム世界の大都市エフェソに移住した後に伝道活動をして共同体を形成したとすると、よく理解できます。そして、この福音書に見られる「ユダヤ人」との厳しい対立と激しい論争は、共同体の場所をパレスチナ・シリアのユダヤ教辺境地域に求めなくても、エフェソでも十分理解できます。エフェソには(他のヘレニズム大都市と同じく)強力なユダヤ人の共同体がありました。その会堂勢力はパウロの伝道に激しく反対しています(使徒一九・九)。数十年後にパウロと同じく信仰による救済を説いたヨハネの活動に対しても激しく敵対したことは、十分に推察できます。長老は、共同体の弟子たちに「真理」を説くと同時に、敵対するユダヤ教会堂勢力と激しく論争しなければなりませんでした。その状況がこの福音書の「ユダヤ人」に対する厳しい断罪になったと考えられます。この福音書のように「ユダヤ人」を一括して不信仰の民と断罪する書き方は、福音書がユダヤ人の共同体に向かって書かれたとするよりも、異邦人伝道の場で成立したとする方が理解しやすくなります。この福音書は、一世紀のユダヤ教の伝統と伝承を深く身にしみこませたユダヤ人の著者が、異邦人伝道という環境で、聖霊の強い働きによる独創性を発揮して生み出した作品ということになります。
 ただし、「著者」といっても、この福音書は一人の人の文筆活動で生み出された著作ではなく、「著者」の証言活動を編集してまとめた共同体の作品と見なければならない面があります。繰り返し見てきたように、二一章は著者の没後に編集者が加えた「補遺」ですが、本体部分にも多くの編集の跡が見られ、それが共同体の証言であることが垣間見られる場合があります。一例だけあげておくと、三章の「ニコデモとの対話」において、イエスがニコデモに語っておられるところでは、「神の国」とか「人の子」というようなパレスチナ・ユダヤ教の背景をもつイエス伝承が用いられていますが、その中に「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」(三・一一)というように複数形の主語を用いて、これがヨハネ共同体がユダヤ教会堂に向かって語りかけている証言であることを示唆する文章が入ってきたり、三・一六以下の文がイエスのニコデモに対する語りかけか、あるいは長老または共同体の普段の証言がここに置かれたものか判然としない形で続いていたりします。このような構成は、この福音書が複雑な編集過程を経て成立していることを垣間見させます。その編集過程の分析は専門家の注解に委ね、本書では現に正典として収められている現形のヨハネ福音書の基本的な内容と特色、およびこの福音書が福音の展開史に占める位置と意義について焦点を絞って(次節で)考察していきます。
 その前に、この福音書を生み出した後のヨハネ共同体の姿を追求するために、共同体の分裂の危機の後に執筆され、長老ヨハネの最後の声と見られる「ヨハネの第一の手紙」の内容を瞥見しておきたいと思います。

X 長老ヨハネの遺訓としての第一書簡

       (この項目Xにおいて書名のない数字はヨハネ第一書簡の章節を指します―引用は私訳)

長老の「遺訓」

 長老の晩年、先に見たように、ヨハネ共同体は分裂の危機に直面します。実際に「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たちが共同体の交わりから出て行った後、長老は残った人たちに改めて正しい信仰の内容(長老はそれを「真理」と呼びます)を説きます。そして、それを書簡の形で交わりにある各集会に送ります。それがこの第一書簡です。新約聖書における文書配列の習慣から、一番長いこの書簡が最初に置かれていますが、成立時期からすると三つのヨハネ書簡の中で最後に成立したものです。おそらくこの手紙が書かれるまでに、二一章の補遺を除く福音書の本体部分は書かれていたと考えられます。この後にはヨハネの手紙や文書はありませんから、この手紙は長老ヨハネの晩年に書かれた最後の手紙として彼の「遺訓」となります。
 これが彼の「遺訓」であるというのは、この手紙が「遺訓文学」という類型に属する文書であると言っているのではありません。「遺訓文学」というのは、誰かが自分の主張を述べるのに、過去の著名な人物が死に臨んで語った(あるいは書き残した)言葉として著述した文書であり、一種の偽名文書です。ペトロの第二の手紙は、このような「遺訓文学」の文書です。それに対して、このヨハネ第一書簡は、そのような「遺訓文学」文書ではありません。これは長老ヨハネ自身の肉声であり、長老ヨハネが彼の長い活動の最後に残した貴重なキリスト証言の書です。わたしたちはこの書簡に、最初期の一人の比類ない証人の肉声を聴いているのです。

序言 ― 手紙の主題と目的(一・一〜四)

 「初めから在(いま)した方、わたしたちが聞いた方、わたしたちが自分の目で見た方、わたしたちがよく見つめ、そしてわたしたちの手で触れた方、すなわち命の言(ことば)について。―― この命が現わされたのです。父と共にいましたが、今やわたしたちに現された永遠の命を、わたしたちは見て、証しし、あなたたちに告げ知らせています」。(一・一〜二 私訳)

 第一書簡には、第二と第三の手紙にあったような「長老のわたしから誰それへ」という手紙の形式はありません。最初から主題が鳴り響き渡ります。長老は、自分が若き日に実際に「聞いた方、目で見た方、よく見て、手で触れた方」を伝えるのだと宣言して語り始めます。長老は若き日にイエスの声をその耳で聞き、イエスの姿と働きをその目で見ました。そして、その体に手で触れることもあったことでしょう。そのイエスこそ、「初めから在(いま)した方」、「父と共にいました方」です。これは福音書の序詩で言い表されている信仰と同じです。その方が「肉と成って、わたしたちの間に幕屋を張った」のです。父のふところに隠されていた「命の言(ことば)」が、わたしたちが見て触れることができるイエスという姿で現れたのです。この方を見た者が「今やわたしたちに現された永遠の命」を証しし、告げ知らせているのだと語ります。
 長老は自分が現実に接した一人の人であるイエスを、イエスという個人名で呼ばず、「命の言(ことば)」と呼び、「今やわたしたちに現された永遠の命」とします。それは、自分がかって地上で接したイエスと、復活して現在自分に語りかけ、その言葉で命《ゾーエー》を与えてくださっているイエスが重なって一つになっているからです。逆に、今自分に命を与えてくださっている復活者キリストは、かって自分がその目で見た方、耳で聞いた方、手で触れた方イエスに他ならないという事実を今一度明らかにしておきたいのです。交わりから出て行った「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしない」者たちの教えに耳を貸さないようにというこの書簡の主題が初めから鳴り響いています。
 そして、この証言をする目的を、「(この証言を聴く)あなたたちもまた、(証言する)わたしたちと同じ種類の交わり、すなわち父との交わりに至る御子イエス・キリストとの交わりに入るためであり、共にその交わりにいるわたしたちの喜びが満ちあふれるため」であると語ります(一・三〜四)。

光の中の歩み(一・五〜二・一七)

 この書簡は、長老が日頃説教で語っていることをそのまま書き記して書簡にしたような文体で書かれており、同じ主題と用語が繰り返され、議論は鎖のようにつながり、螺旋状に回りながら先へ進んでいきます。それで、本書を区分してその構成を語ることは困難です。中央部(二・一八〜三・二四)にある「反キリストへの警戒」が長老のもっとも言いたいことでしょうが、その前と後にイエス・キリストが与えてくださっている命に生きる者の歩みについての勧告を加えています。
 最初に長老は「神は光である」と宣言して、光の中を歩むように勧告します。光の中を歩むことが真理を行うことであり、神の光のない闇の中を歩むのは偽りを行うことであるとします(一・五〜六)。人の歩み(生き方)を光と闇の二つの原理に峻別して語ることは、長老ヨハネの語り方の特色であり、それは福音書(三・一九〜二一)にも表れていました。このような語り方はエッセネ派のものと見られる死海文書の語り方の特色ですが、新約聖書の中ではエフェソ書(五・八〜一四)やヨハネ文書のような最初期後期の文書に見られるようになります。これは、エルサレム陥落後(そのときクムランも破壊されました)エッセネ派の人たちがキリスト者共同体に多く加入するようになり、その影響が強くなったからとも見られます。しかし、ヨハネ共同体の場合は、長老自身を含め洗礼者ヨハネの弟子であったユダヤ人が中核をなしていたのですから、エッセネ派的な要素があったことは当然かもしれません。
 しかし、長老ヨハネは、クムラン文書のように「光の子ら」と「闇の子ら」を截然と分けるのではなく、罪に陥りやすい弱い人間が神の光の中での交わりを維持することができるように、罪の赦しの道が備えられていることを指し示します(一・七〜一〇)。罪の赦しなど必要でない、すなわち自分には罪はないと言い張る者たちは、「御子イエスの血による罪の清め」を備えられた神の業を無用のものとするのであり、イエスの十字架をそのようなものとして語られた神を偽り者とすることになります。
 長老はイエス・キリストについて、わたしたちを父の御前で執り成してくださる「弁護者」であるだけでなく、「この方こそわたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪のための贖いです」と語ります(二・一〜二)。本書は新約聖書の中で「罪」という用語が(その長さの割に)もっとも多く出てくる文書です。長老が共同体の分裂にさいして、自分を神とする人間の本性的な罪の深さを痛感していることがうかがわれます。出て行った者たちは、長老から見れば、自分の理解とか悟りを義として、十字架の上に血を流されたイエスを「肉体をとって来られた御子キリスト」であるとしない、すなわち自分の罪のための贖いとしない偽り者です。十字架の上にイエスが血を流された事実を見た長老(ヨハネ一九・三四〜三五)にとっては、真理と偽りの分岐点はこの一点にあります(後述)。
 長老は、神を知る者として光の中を歩む者は、「彼の誡め」を守るべきことを説いて、「彼の内にとどまっていると言う者は、あのお方(イエス)が歩まれたように、その人自身も歩まなければなりません」と言います(二・三〜一一)。この箇所はほとんど「彼」という代名詞を用いて語られていますが、この「彼」が神を指すのかイエスを指すのか解釈が分かれています。しかし、「神の誡め」と「イエスの誡め」は違うものではなく、「イエスの中にいる」ことによって「神の内にとどまる」ことになるのですから、あまり厳密に区別する必要はないでしょう。長老は「彼の誡め」を「あなたたちが初めから受けていた古い誡め」であると同時に、今この状況で改めて書き送らなければならない「新しい誡め」とし、兄弟を愛することこそ「彼の誡め」であるとします。これは、自分の霊的理解を理由にして他の兄弟たちの信仰を軽蔑・批判し、交わりから出て行った者たちを念頭において書いていると考えられます。
 ここで長老はこのような書簡を共同体に書き送る心境を吐露します(二・一二〜一四)。長老は共同体の様々な年代や立場の者たちに呼びかけます。しかし、呼びかけの用語の違いはあまりこだわる必要はないでしょう。長老はそれぞれの文で共同体全体に呼びかけているのです。長老は「わたしがあなたたちに書き送る」という句を六回も繰り返し、「〜だからである」という句を続けて、この書簡が意味をもちうる前提として、共同体の信仰の質を思い起こさせます。前半(一二〜一三節)では「書き送る」は現在形ですが、後半(一四節)では過去形で、前半で言ったのとほぼ同じことを繰り返しています。
 その後、これまで述べてきたことを締めくくるかのように、普段から共同体の人々に訴えてきたことを書き記します。それは、「世も世にあるものも愛してはならない」ということです(二・一五〜一七)。ヨハネにおいては、世《コスモス》は神と対立し、神が支配される光と命の領域とは相容れない闇と死の領域です。従って、世を愛する者は当然父を愛する愛はありません。また、父との関わりがないのですから、父からの愛もありません。ここの「父の愛」は、父への愛と父からの愛の両方を含んでいます(一五節)。
 ここで長老が「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生きざまの驕り」と呼んでいるものは、パウロが「肉」《サルクス》とか「肉の欲」と呼んでいるものとほぼ同じです。パウロにおいては、肉《サルクス》は、自己中心の生まれながらの人間本性であり、肉の欲はその本性が欲求するものであって、それは神から賜る御霊の命の質と相反し、御霊が欲するところと逆方向に向かうものでした(ガラテヤ五・一七)。このようにパウロにおいては御霊と肉という人間内部で対立する命の質として描かれていたものが、ヨハネでは「神からのもの(=神に属するもの)」と「世からのもの(=世に属するもの)」の対立として描かれています(一六節)。そして、「世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神の御旨を行う者はとこしえにとどまります」と言って、世を愛することと父を愛することの結末がいかに重大かを語ります(一七節)。

ヨハネ文書における「世」という用語については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解U』124頁の「特注― ヨハネ福音書における『世』」を参照してください

反キリストへの警戒(二・一八〜二七)

 このような前置きを語った後、長老は本題に入ります。最近共同体から出て行った者たちを「反キリスト」と呼んで、その教えが危険なものであることを指摘します。そのような「反キリスト」が現れるのは、終わりの時には反キリストが現れるという昔からの預言が言っているように、終わりの時が来ていることのしるしだとして、このように言います。

 「子たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来るとあなたたちが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れました。このことによって、わたしたちは終わりの時が来ていると知るのです」。(二・一八)

 この語り方から、長老が率いる共同体も、周囲の一般の共同体と同じように、反キリストの出現を含む終わりの日の預言を知っており、キリスト来臨《パルーシア》の待望を共有していたことが分かります(三・二参照)。では、反キリスト出現の預言とはどのような預言だったのでしょうか。実は「反キリスト」という用語はこのヨハネ書簡だけにしか出てきません(ここと二・二二、四・三、U七)。それでこの用語を手がかりにして新約聖書における「反キリスト」の像を描くことはできませんが、新約聖書が語る終わりの日の預言には、キリストが栄光の中に来臨されて世界を裁き完成される前に、この業を妨げる勢力が出現することは様々な表現を用いて語られています。たとえば、パウロ系の共同体では、「まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならない」と語られていました(テサロニケU二・三)。

このような預言の成立とその内容については、このパウロ名書簡の箇所を講解した、拙著『パウロ以後のキリストの福音』170頁以下を参照してください。

 長老は共同体の分裂について「彼らはわたしたちから出て行きました。しかしむしろ、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのです。もし彼らがわたしたちに属する者であれば、わたしたちのもとにとどまっていたことでしょう。しかし出て行ったのは、彼らすべてがわたしたちに属する者でないことが明らかになるためでした」(二・一九)と語ります。長老のもとに残った「わたしたち」と出て行った「彼ら」を隔てるのは、「真理」と「偽り」の区別です。長老はその区別をこう語ります。

 「偽り者とは、イエスはキリストでないと言って否認する者でなくて誰であろうか。このような者こそ反キリストであり、父と御子を否認する者です」。(二・二二)

 「イエスはキリストである」が真理であり、これを否認することが偽りです。その偽りを唱えて神の民を惑わす者が「反キリスト」です。「偽り者」は、イエスがキリストであることを否認し、それによって父と御子を否認しているとします。しかし、出て行った者たちもそれまでずっとイエスをメシア・キリストと言い表す共同体の一員であったのですから、この「イエスはキリストでない」という否認は何を意味するのでしょうか。この表現のここでの意味を明らかにする文が後に出てきますので、それと較べてみましょう。

 「イエスを肉の形をとって来られたキリストと言い表す霊はすべて神からの霊です。そして、このイエスを言い表さない霊は神からのものではありません。これは反キリストの霊です」。(四・二〜三)

 長老は先に、残っている者たちに「あなたたちには聖なる方からの油《クリスマ》が注がれているので、真理を知っている」と語っていました(二・二〇、二七)。油《クリスマ》は霊を指す語です。真理を教えるのも、偽りに陥れるのも霊の働きです。ここで長老は神の霊と反キリストの霊を見分ける基準を示します。出て行った者たちもイエスをキリストと言い表していますが、イエスを「肉の形をとって来られたキリスト」とは言い表さず、他の意味でのキリストとしていたことになります。

この箇所をすべての日本語訳は「イエス・キリストが肉となって来られたことを言い表す」としています。外国語聖書も同じです。しかし、「イエス」という名は地上の現実の人を指す名ですから、「肉において来られた」をイエスにかけるのは(同意反復的で)不自然です。それに対して、「キリスト」は様々な様態の存在が意味されえます。天上にいまして、世界ではただ人間の霊性の内に働くだけのキリストという理解も可能です。「霊なるキリスト」は、このようなキリスト理解に至る可能性もあります。グノーシス主義の「キリスト」は、この方向を突き詰めたものでしょう。それに対してヨハネは、イエスを「肉において来られたキリスト」、すなわち完全に人間の身体をとって世界に現れたキリストとし、イエスこそそのようなキリストであると言い表します。この私訳は、「イエスをキリストと言い表す」という基本的な信仰告白形式を、グノーシス主義的傾向のキリスト理解に対抗するために、キリストに「肉において来られた」という句を付した形として理解した結果です。なお、三節で「イエスを言い表す」のイエスに(普通は固有名詞にはつかない)定冠詞がついています。この場合の定冠詞は(定冠詞本来の)指示的な意味があり、「このイエス」という意味になります。すなわち、前節で言い表された「肉の形をとって来られたキリストとしてのイエス」という意味です。「このイエス」を言い表さない霊は神からではないということになります。

 彼らがどのような意味でイエスをキリストと言い表していたのか、正確に確認することはできませんが、おそらく霊なるキリストがイエスのバプテスマにさいして天から降り、イエスを通して働き、受難の前にイエスから去ったので、十字架の上で苦しんだのはキリストでなく人間イエスであるとして、イエスをキリストの仮の表れであるとする「仮現論」を唱えたのではないかと見られています。あるいは、イエスは人間の救いに必要な天的な知識《グノーシス》を世に与えるために来た救済者であるとして、その十字架の死による贖罪を否定し、後にグノーシス主義として正統派と対立するようになる信仰のはしりであったとも考えられます。
 彼らはそれまでに共同体で形成されていた福音書(本体部)を自分たちの福音書として携えて出て行ったのではないかと推察されます。後にヨハネ福音書はグノーシス主義陣営(とくにヴァレンティノス派)で特愛の福音書となりますが、この福音書にそのように解釈できる面があるからでしょう。ヨハネ福音書を萌芽形態におけるグノーシス主義文書であると見る研究者(ケーゼマン)もいて、議論を呼んでいます。

ヨハネ文書とグノーシス主義との関係については、大貫隆『ロゴスとソフィア ― ヨハネ福音書からグノーシスと初期教父への道』(教文館)、とくに「U ヨハネ福音書とグノーシス主義」を参照してください。そこで、ケーゼマンの主張をめぐる議論も紹介されています。

ヨハネ共同体における終末待望(二・二八〜三・一〇)

 このように反キリストの出現に終末の近いことを見る長老は、「彼が現れるとき」、すなわち「彼の来臨《パルーシア》」にさいして恥じることのないように自分を清く保ち義を行うように説き勧めます(二・二八〜三・一〇)。この一段は、ヨハネ共同体が最初期のキリスト信仰共同体に一般的であった来臨待望を共有していることを明白に示しています。
 ところで、ヨハネ福音書は「キリストの来臨《パルーシア》」のことは語らず、永遠の命が現在のことであることを強調しているのは顕著な事実です。それで、福音書の著者と来臨を語る書簡の著者は別人であり、後者が前者の著作に後で終末的待望を語る部分(たとえば六章の死者の復活を語る章句)を挿入したという説が行われています。この議論には、救いの現在性の主張と終末における救済待望は両立せず、両者が同じ人物の中に共存することはありえないという見方が前提されています。この前提は間違っています。御霊によって救いの現在を強く体験すればするほど、今は不完全な姿の救いが将来完全な姿で現れるのだという希望と確信が強くなります。「すでに」という語で語られる救いの現在性と、「まだ」という語で語られる待望は、矛盾するものではなく、互いに強め合う表裏の関係です。この関係は、イエスにおいては「神の国」がすでに到来しているという面と、将来の「人の子」の到来を待ち望む言説となって現れています。パウロにおいては、キリストにある命の御霊の現実を語る告知と、《パルーシア》における栄光の顕現を待ち望む告白となって現れています。長老はこう語ります。

 「愛する者たちよ、わたしたちはいま現に神の子です。しかし、わたしたちがどのような者になるのかは、まだ明らかにはされていません。わたしたちは、彼が現れるならば、わたしたちは彼に似る者となることを知っています。わたしたちは彼をあるがままの姿で見ることになるのですから」。(三・二)

 ここで明言されているように、すでに神の子であるという告白と、「彼に似る者となる」という将来の希望が一息に語られることになります。ここで長老ヨハネが言っていることは、パウロがローマ書(八・一八〜二五)で「神の子たちの顕現」とか「神の子たちの栄光への解放」と言っていることと同じです。ヨハネは、それを「彼に似る者となる」と、平易に、しかもその方の姿を見た者として具体的に語っています。
 ここでヨハネが主の来臨のことを語るのに、おもに「現れる」という表現を用いて語っていることが注目されます。これはこのヨハネ書簡も、「使徒名書簡の時代」(ヨハネ書簡もこの時代のものです)において来臨の遅延が問題になり、それを克服するために「来臨」《パルーシア》という表現よりも「キリストの顕現《アポカリュプシス》」という表現が多く用いられるようになった流れの中にあることを示しています。
 長老は「彼にこの希望をかけている者はみな、あのお方が清いように自分を清くします」と言って、罪を行うことなく義を行うように説き勧めます(三・三〜一〇)。その勧告の根拠として、罪を行う者は悪魔の子であり、神から生まれた神の子は、神の種子が内に留まっているので罪を行うことはできないと説きます(九節)。この「神の子は罪を行うことができない」という言葉は、先に「自分には罪はないと言う者は、神を偽り者とするのだ」と言った言葉(一・八、一〇)と矛盾するように見え、どう関係するのかが問題となります。この問題は解釈者を悩ます難問です。
 この二つの命題は論理的に矛盾しているように聞こえますが、キリストにあるわたしたちの内に、どちらにも「アーメン、然り」と共鳴する声が聞こえます。わたしはとうてい「自分には罪がない」などとは言えません。わたしは本性的に聖なる神に背く者であり、罪に陥っている者です。わたしが今神の子として父への信頼と交わりに生きることができるのは、「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちを清めてくださり」、その御子の血によって信実で義なる神がわたしの罪を赦してくださっているからです。もしわたしが「自分には罪がない」と言うならば、それは、わたしの罪のために死んでくださった御子イエス・キリストの死を無意味なものとすることであり、この御子の死をもってわたしに「わたしはあなたを贖った」と語ってくださった神を偽り者とすることになります。
 ところが一方、「神から生まれた者はすべて、罪を行いません。その人は神から生まれたのですから、罪を行うことができません」という言葉を聞くとき、わたしの内にある何かが共鳴して、「そうだ、その通りだ」と叫びます。いったい神から生まれた命が、神に反すること(罪)を行うことができるでしょうか。それはありえません。わたしの内にある御霊の命が、この言葉に共鳴してそう叫ばせるのです。すると、論理的に矛盾する長老の二つの発言がどちらもわたしの中に共鳴を引き起こすのは、わたしの内に二つの相反する質の本性があるからだということになります。自分には罪があると告白するのは、生まれながらの人間本性、パウロが「肉」《サルクス》と呼ぶ本性です。生まれながらのわたしは、自分が罪であることすら自覚しませんでした。しかし、キリストにあって御霊の光を受けたとき、その光に照らし出された自分は、こう告白せざるをえない姿でした。他方、わたしの内にある御霊の命は、この命は神からのものであって、神の御心に反することは行うことができない質のものであることを知っています。この御霊に従って歩むときにのみ、神の御心を行うことができます。
 パウロは「御霊と肉」という用語でこの間の消息を詳しく語りましたが、長老ヨハネは厳密な神学者ではなく、自分が体験していることを、それが論理的に整合していようが矛盾していようがかまわず、そのまま述べます。わたしたちはこの二つの発言の論理的不整合を無理に説明しようとするのではなく、その発言のそれぞれが指し示している御霊の現実と人間の現実を、自分の一身の中で統合して歩むことが大切だと考えます。

兄弟愛と神の愛(三・一一〜四・二一)

 神の子の姿が顕わになる終わりの日を前にして、現にいま神の子である者は罪を行うことはできず、義を行う者であることを説いた長老は、その罪とは兄弟を憎むことであり、義とは兄弟を愛することだとして、兄弟愛こそ神の根源的な誡めであることを説きます(三・一一〜一八)。兄弟が正しい者であることを憎んだカインがアベルを殺したことを実例として採り上げ、兄弟を憎むのは「人殺し」であると断じます。その反対に、イエスを範例として兄弟のために命を捨てる愛を求めます。恩恵の場は自分のための放縦な生き方を許すものではなく、最も厳しい自己放棄を求める場です。
 続いて長老は、兄弟愛に生きる者はそれによって自分が真理に属していることを知り、神の前に確信を持って生きることができると語ります(三・一九〜二四)。兄弟愛の実践において「心が責める」ことがあっても、わたしたちの移ろい変わる心よりもはるかに大きくて確かな神の恩恵と信実に委ねるならば、神の前に確信をもって求めて受けるという恩恵の場に生きることができます。長老は、わたしたちが恩恵の場にいることは神の誡めを行っているからだとし、その神の誡めを一息で語ります。

 神の誡めとは、神の御子イエス・キリストの御名を信じ、この方がわたしたちにお与えになった誡めの通りに、わたしたちが互いに愛し合うことです。(三・二三)

 天地の創造者である神が御子であるイエス・キリストを遣わして、その方によって世界に求められるただ一つのことは、人間が互いに愛し合うことです。長老はそれを「兄弟愛」と呼んでいますが、これは特定の集団とか仲間の中の愛ではなく、一切の枠を外した人間同士の愛です。この愛の理解がキリスト信仰を「宗教」の枠を超えた人間愛を実現する原動力とならしめます。
 この愛に生きる者はキリストが、そしてキリストにあって神が自分の内に生きておられることを体験します。それを体験させ知らせてくださるのは神の御霊です(二四節)。御霊の働きに言及した長老は、その御霊こそ「イエスは肉の形をとって来られたキリストである」と言い表す「真理の霊」であることを思い起こさせます(四・一〜六)。この真理を否定するのは「反キリストの霊」、「人を惑わす霊」であると、先に「反キリストへの警戒」のところで述べたことを霊の働きの視点から繰り返します。
 その上で再び「互いに愛し合いなさい」という根源的な誡めに帰り、その愛が神の愛から来るものであることを語ります(四・七〜二一)。この箇所は、長老ヨハネの使信がもっとも典型的に表れている箇所であり、新約聖書の中でも「神は愛である」ことを宣言するもっとも有名な箇所になります。
 長老は、共同体の分裂の危機にあたって、自分のもとに残った人たちに、イエスへの正しい信仰告白と共に、互いに愛する愛の重要性を、この書簡で言葉を尽くして訴えてきました。その愛の訴えがここで頂点に達します。おそらくかなりの高齢になっている長老は、自分の長い生涯を通して主イエスから聞いてきた神についての教えを一点に絞り、もはや枝葉のことに触れることなく、その一点を繰り返し語ります。その一点とは、神は愛であるから、神に属する者は互いに愛すべきであるということです。この一点は、用語は違いますが、イエスが「父が慈愛深いのであるから、あなたたちも慈愛深い者であれ」と言われたのと同じです。ヨハネはこれを「愛《アガペー》」という用語で表現します。神は愛ですから、愛は神から出るものであり、愛する者は神から生まれ、神を知る者であり、愛さない者は神を知らないということになります(七〜八節)。
 ヨハネの神認識はきわめて実践的です。「愛する者はすべて、神から生まれ、神を知っている」のです。互いに愛するという実践的な場で、人間は神を知るのです。民族とか宗教とか文化の差異を超えて、人間は互いに愛するならば、その愛の中で人は誰でも神を知るのです。ある特定の宗教の者だけが神を知ることができるのではありません。厳しい修行と瞑想に没頭する者だけが神を知るのではありません。どの宗教の人間でも、もしその人が愛に生きているならば、その人は神を知っているのです。
 では、その愛に生きることが直ちに神を知ることであるという「愛」とは、どのような愛でしょうか。人間は誰でも生まれながらに愛を知っています。男は女を愛し、女は男を愛します。親は子を愛し、子は親を慕います。肉親の兄弟姉妹を愛し、友人・同胞を愛します。もしそのような愛に生きることが直ちに神を知ることになるのであれば、生まれながらの人間は全員神を知るはずであり、啓示も贖いも要りません。しかし、それは人間の愛であって、その愛で神の愛を知ることはできません。神の愛は人間の愛と異なる別種の愛であり、神がそれを啓示してくださらなければ知ることができない愛です。
 ヨハネは、「このことによって、神の愛がわたしたちに明らかにされたのです」と言って、神が独り子を世に派遣された出来事、すなわちイエスが神を啓示する者として働き、わたしたちを命の領域に導き入れてくださった出来事を指し示します(九節)。さらに、「ここに愛があります」と言って、神の独り子イエス・キリストがわたしたちのために死なれた十字架の出来事を指し示します(一〇節)。ヨハネもイエスの十字架の死を、神の独り子によるわたしたちの罪過のための贖いと理解し、それが神の愛の啓示であるとします。これは、パウロが「わたしたちがまだ罪人であったときに、キリストがわたしたちのために死なれたことによって、神はわたしたちに対する御自身の愛を示された」(ローマ五・八)と言っているのと同じです。
 そして、このイエス・キリストの出来事によって啓示された神の愛は、生まれながらの人間がもつ愛と別種であるので、ヨハネはそれを別の用語で語ります。ギリシア人は、男女とか親子とか友人とか人間の間の自然の情愛は《フィリア》とか《エロース》という語で指しました。そういう情愛とは別種の愛が現れたので、その愛を受けて体験した新約聖書の証人たちは、それを《アガペー》という別の語で語りました。その中でもヨハネはとくにこの《アガペー》を多く用いて、自分の福音告知の中心に置いています(ヨハネ三・一六など)。
 「神の愛」と言っても、それは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださった」ことを指しています。ヨハネの言う愛は、高みに向かう人間の愛、より高い価値を慕う人間の愛《エロース》ではなく、低いところにいる人間、罪の中にいる人間に向かう神の愛です。《アガペー》は「降下する愛」です。
 どのようにして神の愛がわたしたちに啓示されたか、そして啓示された神の愛とはどのような愛であるのかを語った上で、長老は改めて、「このように神がわたしたちを愛されたのですから、わたしたちもまた(この質の愛をもって)互いに愛し合うべきです」と繰り返します(一一節)。そして、「もしわたしたちが互いに愛するならば」、どのようなことがわたしたちに起こるのかを語ります。それは「わたしたちが神の内にとどまり、神がわたしたちの内にとどまる」という驚くべきことです(一二〜一六節)。そのことは「御霊」の働きによって起こります。パウロも「わたしはキリストの中に、キリストはわたしの中に生きる」とキリストとの相互内住を語りましたが、ヨハネはさらに一歩進めて神との相互内住を語ります。新約聖書で神との相互内住を明白に語るのはここだけです。ヨハネはこれまで繰り返し「彼の内にとどまる」と言ってきました。その「彼」は復活者イエス(キリスト)を指すと考えられますが、ここに来て「彼の内にある」ことは「神の内にある」ことだと明言されるに至ります。
 このように、愛における神と人との相互内住が実現するとき、わたしたちは裁きの日に恐れることなく確信をもつことができると語られます(一七〜一八節)。長老とその共同体は、やがて「裁きの日」が世界に臨むこと、また「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立つ」(コリントU五・一〇)ようになるという終わりの日の待望を、(パルーシア待望と同様に)周囲の主流の共同体と共有しています。それで、イエスと同じように生きることを裁きの日に確信をもって御前に立つことができることの根拠にすることになります。イエスと同じように生きてきた者を、裁き主であるイエス・キリストが断罪されることはないのですから。この「愛は恐れを追い出す」ということは地上の生活においても実現します。愛に生きる人生には恐れはありません。
 長老は最後に改めて、神を愛することと兄弟を愛することが一体であることを強調します(一九〜二一節)。長老が神を愛していると言いながら兄弟を憎む者を偽り者だと決めつけるのは、おそらく共同体の交わりから出て行った者たちのことを念頭に置いているのでしょう。彼らは自分たちが霊なる神との深い交わりと知識を持つことを誇り、神を愛していることを標榜しながら、共同体から出て行く際に長老のもとに残る兄弟たちに軽蔑とか反感を露わにして出て行ったのでしょう。長老はそれを「兄弟を憎んでいる」と表現します。そして、「現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません」と、その行動を神を愛していないことの証拠として突きつけます

結び ― 世に勝つ信仰(五・一〜二〇)

 最後に長老は、イエスをキリスト、神の御子と信じる信仰こそ世に打ち勝つ力であることを繰り返します(五・一〜一二)。ヨハネにおいては、世《コスモス》とは、神に背き、神に敵対する霊的な力が支配する闇と死の領域に他なりません。その闇の支配から救い出されて光と命の領域に移ることが救いです。そして、その「世から救い出される」ことを、ここでは積極的に「世に打ち勝つ」と表現します。人間は、自分の力と努力で世に打ち勝つことはできません。命と光の領域から遣わされてこの世に来られたイエス・キリストを信じ、その方に合わせられることによってのみ、世の支配を脱し、闇と死に打ち勝って光と命の領域に移ることができるのです。これがヨハネの使信の核心です
 このイエス・キリストについては、神が三つの証しを与えておられることが付け加えられます。「証しするものが三つあります。御霊と水と血です。そして、この三つは一致します」。イエス・キリストは「水を通して」来られました。すなわち、イエスが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたとき、聖霊が降り、その聖霊がイエスは神の子であることを証ししました。イエス・キリストは「水だけでなく、水と血とによって来られた方」です。イエスはバプテスマのときに受けられた聖霊によってキリストとしての働きをされただけでなく、十字架の上で血を流した方として、真に救済者キリストであるのだとするのです。これはパウロが「十字架につけられたままのキリスト」《クリストス・エスタウロメノス》を強調したのと同じ線上にあります。復活後に働かれる聖霊がこのキリストを証しされます。
 最後に長老は結びとしてこの手紙を書いた意図を、「あなたたちが永遠の命を持っていることを知ってもらいたいからです」と繰り返し述べて、その永遠の命を持っている者たちの共同体における実際的な歩みについて、気にかかっている事柄の対処を述べて終わります(五・一三〜二一)。


本節「イエスが愛した弟子とその共同体」は、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解U』の『附論 「もう一人の弟子」の物語 ― ヨハネ文書の成立について』を要約し書き直したものです。議論の詳細については同書を参照してください。
ヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネ書簡)の成立事情についての議論は果てしなく、参考文献も山ほどありますが、本稿の項目T〜Wは、次の二著を主要な参考資料として記述したものです。
 Martin Hengel, The Johannine Question, 1989 Translated by John Bowden, SCM Press
 Raymond E.Brown, The Community of the Beloved Disciple, 1979, PAULIST PRESS