市川喜一著作集 > 第21巻 福音の史的展開U > 第4講

第六章 パウロ以後のキリストの福音




第一節 エーゲ海地域におけるパウロ以後の福音の進展

       ― パウロ名書簡におけるキリスト信仰

       ( 本稿で書名のない引用箇所は使徒言行録の章節です。)

はじめに

 本書では「使徒後時代における福音の進展」を扱います。前章でユダヤ戦争前後のパレスチナ・シリア地域におけるユダヤ教内キリスト信仰の消長を見た後、その地域で成立したマルコ福音書とマタイ福音書の内容を見ました。それに続いて本章では、パウロによってエーゲ海地域を中心に形成された異邦人を主体とする諸集会において、パウロが告知したユダヤ教の枠の外の福音が、パウロなき後どのように進展していたのかを見ることにします(第一節)。そのさいローマも含めます(第二節)。ローマは地理的にはエーゲ海地域の都市ではありませんし、パウロが設立した集会でもありませんが、帝国の首都として各地と交流があり、とくにエーゲ海地域のパウロ系諸集会とは密接な交流がありましたので、同じ状況にある集会として、また信仰の質としては一体として扱ってよいと考えられます。
 この地域でのパウロ以後の福音の進展を一回で扱うのは無理がありますので、二節に分けて扱います。本節(第一節)ではパウロの名によって書かれた書簡を扱い、次節(第二節)でそれ以外のこの時期の使徒名書簡を中心に、とくにローマ帝国との関係において福音の進展を見ていくことにします。

T エーゲ海地域のパウロ系共同体の状況

七〇年以後のエーゲ海地域

 先に(前著『福音の史的展開T』第四章第一節「パウロによる異邦人共同体の形成」で)見たように、アンティオキア共同体から出たパウロがシラスやテモテやテトスらと一緒に行った熱烈な独立の福音活動によって、エーゲ海を取り囲む地域に異邦人を主体とする集会が形成されました。エーゲ海北岸のマケドニア州では州都テサロニケとフィリピやベレア、西岸のアカイア州では州都コリント、東岸のアジア州では州都エフェソを中心にラオディキアやコロサイなどの周辺諸都市とトロアスなどにキリスト者の集会が形成されました。パウロが独立の福音活動を始めたのが四九年だとすると、五六年のエルサレムでの逮捕までの七年という僅かの期間に、エーゲ海を囲む広範な地域に有力な集会を形成し、福音の拠点を確立したことは、聖霊の大いなる働きと言わざるをえません。
 パウロが五六年に逮捕されて福音活動ができなくなった後も、これらの諸集会はパウロから受けた福音を熱心に周辺地域に伝え、福音はこの地域の諸都市に拡がっていきます。これまでにあげられた都市に加えて、一世紀末に書かれたとされるヨハネ黙示録と、二世紀初頭に書かれたイグナティオスの書簡に出てくる都市名を合わせると、一世紀末のアジア州(およびその近隣)には以下の諸都市にキリストの集会があったことが分かります。先ず州都エフェソ、その近辺のマグネシアとトラレス、リュコス渓谷に沿って東に入ったラオデキア、コロサイ、ヒエラポリス、東北の山地に入ったサルディス、フィラデルフィア、ティアティラ、エーゲ海に沿って北にあるスミルナ、ペルガモン、トロアスなどです
 アナトリア(現在では「小アジア」と呼ばれる大きな半島)では、エフェソを中心とするエーゲ海に面した西部地域(アジア州)だけではなく、中央部のガラテヤ州にはパウロとバルナバが行った初期の福音活動(いわゆるパウロの第一次伝道旅行)によって、ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベなどの州南部の諸都市と、独立福音活動(第二次伝道旅行)の最初の通過地域となった中部ガラテヤ地方の諸都市(名前は伝わっていません)にキリストの民の集会ができていました。一世紀の遅い時期(おそらく八〇年代)に書かれたと見られるペトロ第一書簡には、その宛先として「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と、アナトリアのローマ各州の名があげられています(ペトロT一・一)。アジア州はエーゲ海に面した半島西岸、ポントス州とビティニア州は黒海に面した半島北岸、ガラテヤ州は中央部、カッパドキア州は東部山岳地帯で、この五つの州はアナトリア全体を含んでいます。五〇年代に行われたパウロの福音活動から一世代後には、アナトリアの全地にキリストの民が活動していたことになります。
 ポントス州の名は、パウロの盟友アキラの出身地として新約聖書(使徒一八・二)に出てきますが、パウロと同時代人のアキラの年齢からすると、彼が若いときにポントス州で信仰に入ったと考えることは無理で、ローマに出てきてから福音に接し信仰に入り、四九年のクラウディウス帝によるユダヤ人追放令でコリントに来たと見られます。しかし、パウロ以後の時期にはポントス州にもキリスト者の共同体があったことは、黒海に面した港町シノペの共同体の有力者の息子であったマルキオンの場合が例証しています。壮年期にローマで活躍し、一四四年にローマから追放されたとされるマルキオンは、この時期(一世紀末から二世紀初め)にシノペで生まれ、信仰に入り、信者として育った可能性が十分にあります。
 ビティニアについては、新約聖書ではパウロがビティニア州に入ろうとしたができなかったこと(使徒一六・七)が伝えられているだけですが、ペトロ第一書簡のこの箇所から一世紀の後半にはキリスト者の共同体があったことが知られます。その事実は、二世紀初期(一一〇年)にビティニア州総督のプリニウスがキリスト者の取り扱いについて皇帝トラヤヌスと交わした有名な往復書簡からも分かります。
 東部の山岳地帯のカパドキアは、後には(四世紀)バシレイオスやグレゴリオスなど有力な神学者を輩出し、修道制の確立に寄与し、後のキリスト教の重要な拠点となります。そのカパドキアにはパウロ自身が福音を伝えたという伝承があります。たしかにパウロが第三次伝道旅行で、タルソスを出てキリキア門を通り、アナトリアの中央山岳地帯を経てエフェソに行ったとき、カパドキアを通過したと見られますので、そのさい福音を伝えた可能性はありますが、確認することはできません。とにかく、かなり早い時期からカパドキアにはキリストの福音が伝えられていたと言えます。なお現代では、カパドキアの渓谷の断崖や谷間に林立するきのこ状の奇岩やその地下に、六世紀から一三世紀にかけて建設された洞窟修道院や教会堂で有名です。
 この時期の末(一世紀末から二世紀初頭)に書かれたと見られる牧会書簡によって、エーゲ海の南を塞ぐように横たわるクレタ島にも、キリスト者の共同体があったことが知られます(テトス一・五)。また、パウロはイリリコン州まで福音を告げ知らせたと言っていますので(ローマ一五・一九)、この時期にはギリシア東部のマケドニア州だけでなく、ギリシアの地の西部アドリア海側にもキリスト者の共同体が形成されていた可能性があります。ギリシア南部のアカイア州では、州都コリントに活発な共同体があり、周辺各地にも集会が成立していたと推察されます。ギリシアの古都アテネにも集会ができていたことは、エウセビウスの『教会史』(三巻四・一一)が「アテネ教会の初代司教」としてディオニシオスの名を上げていることからも確認されます。
 こうして、古代ギリシア文明の揺籃の地として重要なエーゲ海地域(ギリシアとアナトリア)に、一世紀の後半にはパウロとその後継者によってキリストの福音が浸透し、主要な諸都市にはキリスト者の共同体が成立していました。こうして、ヘレニズム文化の中心地域に根を下ろしたキリストの福音は、ギリシア文化との対話の中で、キリスト教という世界宗教を生み出すことになります。この地域は帝都ローマと共に、その後のキリスト教の形成に決定的な影響を及ぼします(ローマについては次節で扱います)。

ユダヤ戦争の影響

 福音の史的展開の最初期を前期と後期に分けるユダヤ戦争は、パレスチナ・ユダヤ人のキリスト者共同体には大きな変動をもたらしましたが、すでにパレスチナ以外のヘレニズム世界の諸都市に成立していた異邦人を主体とするキリスト者共同体には直接的にはそれほど大きな影響は与えなかったようです。しかし、間接的には様々な形で影響を及ぼしています。
 ユダヤ戦争の戦禍を逃れて多くのユダヤ人がパレスチナから地中海世界の諸都市に移住しました。とくに北に隣接するシリアには多くのユダヤ人が移住したと見られます。シリアの中心都市アンティオキアとかエデッサについては先に見たとおりです。すでに多くのディアスポラ・ユダヤ人が住んでいるシリア以外の地中海地域の諸都市にも移住があったと見られます。新約聖書関連ではとくにエフェソへの移住が目立ちます。エフェソは多くの民族や宗教が流入して混在する国際都市で、すでにかなりの規模のユダヤ人共同体もあり、避難民が移住しやすい都市であったのでしょう。
 もともとパレスチナ・シリアで活動していたヨハネ共同体が(おそらく六〇年代には)エフェソに移動して活動したと見られます。この共同体はヨハネ福音書を生み出し、ヘレニズム世界に独自の霊的な福音を提示することになります。また、エルサレムの攻防戦を体験したと考えられるパレスチナ・ユダヤ人の黙示思想的系譜の預言者集団が戦後アジア州に移住して活動し、迫害下のエフェソ近辺の諸集会に働きかけます。その中からヨハネ黙示録が生み出されます。なお、イエスの母マリアも、不穏で危険なエルサレムを逃れてエフェソに移住し、晩年をエフェソで過ごしたという伝承があり、現在でもエフェソ遺跡に「マリアの家」が保存されています。

ヨハネ共同体のエフェソ移住については、拙著『対話編・永遠の命 ― ヨハネ福音書講解U』の附論『「もう一人の弟子」の物語』、とくに292頁以下の「第一節 長老ヨハネの生涯U」を参照してください。ヨハネ黙示録の成立とヨハネ共同体との関係については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』183頁以下の「第一節 ヨハネ黙示録の成立」を参照してください。

 このようにパレスチナから遠いヘレニズム都市の異邦人主体の共同体も、ユダヤ戦争後にはパレスチナ・ユダヤ人の流入によって彼らのキリスト信仰の影響を受けることになりますが、その中でエッセネ派ユダヤ人の影響も無視することはできません。エッセネ派はその終末信仰がキリスト信仰共同体と通じるところがあり、エルサレム共同体は成立の当初からエッセネ派と深い交流があったと見られます。そのエッセネ派はユダヤ戦争で本拠地クムランを破壊されて求心力を失い、かなりのエッセネ派ユダヤ教徒がキリスト者共同体に流入したと推察されています。ユダヤ戦争以後の時期にエフェソで成立したと見られる「エフェソ書」には、「光の子」という表現に見られるように、エッセネ派ユダヤ教の影響が見られるとする研究者もいます。

ユダヤ戦争後のエッセネ派の影響については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』124頁の「光と闇の二元論?」の項を参照してください。

 先に(本書15頁で)見たように、ユダヤ戦争終結後に創設された「ユダヤ金庫」によってユダヤ人は登録しなければならなくなり、登録しないキリスト者は、それまではユダヤ人会堂の一員のように扱われていましたが、この時からは明確にユダヤ教徒《ユウダイオイ》とは別の教徒として扱われるようになり、《クリスティアノイ》(キリスト教徒、キリスト者)と呼ばれるようになります。この呼び名はすでにアンティオキアで始まっていたとしても(一一・二六)、ローマ社会で広く公に使われるようになるのはユダヤ戦争以後であり、新約聖書の中では後期のペトロ第一書簡(四・一六)だけに現れます。こうして、異教の神々を拝まない一神教徒の中で、《クリスチアノイ》はユダヤ教徒から区別され、ユダヤ教徒に認められていた異教の神殿祭儀への不参加特権を失い、異教祭儀への不参加はローマ社会への敵対的な態度であると見る周囲の異教市民たちの反感に直接曝されることになり、迫害の原因となります(迫害については次節で)。

この時期(ユダヤ戦争以後)におけるユダヤ教徒とキリスト教徒との区別の明確化の過程について詳しくは、上村静『宗教の倒錯』(岩波書店)「第一六章 キリスト派のユダヤ教からの分離」を参照してください。なお、この時期におけるユダヤ教徒とキリスト教徒の分離については下記の優れた論集が参考になります。 
  " JEWS AND CHRISTIANS , The Parting of the Ways, A.D.70 to 135 "
    Edt. James D.G.Dunn, 1989,  W.B.Eerdmans Publishing Company

 福音の内容という視点から見ると、エルサレム共同体が歴史の表舞台から退場したことによって、救済史の担い手はもはやエルサレム共同体を核とするユダヤ人キリスト者共同体ではなく、異邦人を主体とするキリスト者共同体に移ったという自覚が強くなり、この時代(最初期後期)の最後に現れたルカ二部作には「異邦人の時代」という表現が出てくるようになります(ルカ二一・二四)。この時代に書かれた文書(使徒名書簡)では、前期には大きな課題であったユダヤ教律法との関係はもはや問題ではなくなり、「律法」という用語さえほとんど出てこなくなります。この時代におけるユダヤ教律法との関わりについては、以下の各項でパウロ名書簡を扱うさいに触れることになります。

パウロ書簡集の集成

 この時代のエーゲ海地域における福音の進展において重要な出来事は、パウロ書簡集の集成です。パウロはエーゲ海地域で行った福音活動の期間中、自分が設立した各地の集会に起こった様々な問題に対処するため、手紙を書いて指導しました。その範に倣って、パウロなき後の時代の共同体の指導者たちも、様々な信仰問題に対処するために手紙を書いて指導しました。そのさい、彼らはパウロの名を用いて書き、自分の書いた文書をパウロから各集会にあてられた指導の書としました。新約聖書にはパウロの名で書かれた手紙が一三通収められていますが、その中で問題なくパウロ自身が書いたとされるものは、テサロニケ第一書簡、ガラテヤ書、コリント第一書簡、コリント第二書簡、フィリピ書、フィレモン書、ローマ書の七書簡です。他の六書簡(コロサイ書、エフェソ書、テサロニケ第二書簡、テトス書、テモテ第一書簡、テモテ第二書簡)は、パウロ以後の時代に、パウロの後継者がパウロの名によって書いた「パウロ名書簡」と見られます。そう見られる理由は以下の各項でそれらの書簡を扱うときに触れますが、これらのパウロ名書簡がこの時代のエーゲ海地域のパウロ系共同体の信仰の質を証言する資料となります。
 パウロ名書簡がエーゲ海地域のパウロ系諸集会の間に流布していたことは、この時期に書かれたと見られるテサロニケ第二書簡の次の一節からもうかがわれます。

 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐ動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」。(テサロニケU二・一〜二)

 テサロニケ第二書簡自身もパウロ名書簡と見ざるをえませんが(後述)、それが他の「わたしたちから書き送られたという手紙」を反駁しています。すなわち、一つのパウロ名書簡が他のパウロ名書簡を論駁していることになります。このようなパウロ名書簡が用いられるようになるのは、使徒としてのパウロの権威が確立していたことを前提にしています。この事実は、パウロ以後の時期には共同体の指導をめぐって異なる見解が競合し、それぞれの主張が使徒の名を用いて権威づけられていたことを示しています。
 これらのパウロ書簡とパウロ名書簡を収集して「パウロ書簡集」を集成したのはエフェソの共同体ではないかと推察されます。パウロはエーゲ海地域で福音活動を進めるさい、各州の州都を拠点として活動しました。マケドニア州ではテサロニケ、アカイア州ではコリント、アジア州ではエフェソです。とくに最後の活動拠点となったエフェソには二年以上と一番長く滞在し、エーゲ海地域の交通の中心地であったエフェソからこの地域の諸集会に弟子を派遣して書簡を届けたり、自身で出向いたりしています。パウロが告知した福音とパウロの教説の伝承がもっとも豊富に残されているのはエフェソであると見られます。
 また、パウロ書簡の大部分はこのエフェソで書かれました。テサロニケ第一書簡は先のコリント滞在中に書かれましたが、ガラテヤ書、コリント書(TとU)、フィリピ書、フィレモン書などはみなエフェソで書かれたものです。書かれた手紙は、信頼できる同労者によって宛先の集会に届けられました。当時手紙を書き、遠くの宛先に届けることは、手間のかかる仕事でしたし、不測の事態に備える必要もあったことでしょうから、写しが手元に残されたと考えられます。すなわち、パウロ書簡の大部分は書かれたときに、写しがエフェソの集会に残され、保存されたと見られます。ローマ書は、エルサレムの聖徒たちへの援助の募金を集めて届けるために、パウロがエフェソを出てマケドニア州を通りコリントまで来て冬を過ごした時に書かれました。しかし、この重要な書簡は、宛先のローマに送られただけでなく、パウロが実質的な活動拠点としていたエフェソにも写しが送られたと見るのが自然です。
 パウロの書簡をこれほど多くまとまって手元に所有している集会は、エフェソの他にはありません。従って、パウロが召されてから、パウロ系の諸集会が重要な信仰の拠り所として、また主にある歩みの指針としてパウロの手紙を結集しようとしたとき、エフェソがその活動の中心地となったことは、十分推察することができます。パウロ書簡の収集は、おそらく一世紀末から二世紀初頭にかけて、熱心に進められたと考えられます。

エフェソにおけるパウロ書簡集の集成事業について、またその事業を担当したのがオネシモではないかという推察については、拙著『パウロによるキリストの福音V』293頁の「第二節 パウロ書簡集とオネシモ」を参照してください。

 パウロ書簡集の集成については、タイセンが簡潔に要約していますので、それを引用しておきます。

「エフェソでパウロ書簡集が最初に結集されたとき、それは長さの順にまとめられた四大書簡(ローマ書、コリント書TとU、ガラテヤ書)の集成であった。この元の収集の第二版が作られたとき、やはり長さの順にコロサイ書、フィリピ書、テサロニケTとU、フィレモン書が付録として加えられた。その時、この付録部分への導入としてエフェソ書が起草され、先頭に置かれた。だからガラテヤ書よりも長いが、その後に置かれることになる(マルキオンの聖書はこの段階の一〇書簡をパウロ書簡としている)。さらに、その後に第二の付録として牧会三書簡が加えられた(そのさい、一番短いフィレモン書が最後に回された)」。
        ― G・タイセン『新約聖書』(大貫隆訳・教文館) 201頁以下。( )内は筆者の解説。

 二世紀初頭に活動を開始したポントスのマルキオンは、若いときアジア州(おそらくエフェソ)に来てパウロ書簡集に接したと推察されます。後にマルキオンが自分たちの聖書として牧会書簡を含まない一〇書簡のパウロ書簡集を用いたのは、その頃にはまだパウロ書簡集に牧会書簡が含まれていなかったからであると考えられます。牧会書簡は、マルキオンの影響に対抗するために書かれたという見方もされます(マルキオンについては後述)。

使徒名書簡の時代

 この七〇年以後の時代には、もはや使徒たちはいないので、使徒たちの後継者が共同体を指導するさい、自分たちの指導を使徒の権威をもって行うために、使徒の名をもって書簡を書きました。それが典型的に現れるのは、書簡を用いて共同体を指導したパウロの先例にならった、使徒パウロの後継者たちでした。
 このパウロ名書簡の活躍は他のグループにも波及し、パウロ以外の使徒の名を用いた書簡が現れます。代表的なものは、ペトロの名を用いたペトロ第一書簡とペトロ第二書簡です。この時代は使徒の名を用いた書簡が書かれ、それらの書簡によって福音が提示され、また共同体のキリスト信仰が証しされることになります。このような使徒の名を用いて書かれた書簡を「使徒名書簡」と呼ぶならば、この七〇年以後の時代は「使徒名書簡の時代」と呼ぶことができるでしょう。
 本節ではその使徒名書簡の典型的な場合であるパウロ名書簡を取り上げますが、それ以外の使徒名書簡は次節で扱うことにします。

U コロサイ・エフェソ書のキリスト信仰

コロサイ書に見られる福音の危機

 パウロはその独立の福音活動の最後に、エフェソに二年以上も滞在して、公の講堂で毎日福音を語り、多くの力ある働き(病人のいやしなどの奇跡)を行ったので評判が拡がり、エフェソだけでなく周辺の諸都市の人たちも福音を聞くようになりました。エフェソに来てパウロから福音を聞いて信仰に入った周辺都市の人たちが、自分の町に帰って福音を伝え、集会が形成される場合もありました。コロサイもそのような場合の一つです。
 コロサイは、エフェソから東へ二〇〇キロほどのところにあるリュコス渓谷沿いの都市です。エフェソからは七日ほどの道のりです。このコロサイの住人エパフラスがエフェソで福音に接し回心します。彼は回心後、エフェソでパウロから熱心に学び、故郷に帰って、コロサイとその周辺のラオデキアとヒエラポリスにも福音を伝えます(コロサイ一・七、四・一二〜一三)。こうしてエパフラスの働きによって形成されたコロサイの集会に、パウロが伝えた福音を覆す危険がある違った教えが入ってきます。コロサイ書の著者はそれを「人間の言い伝えに基づく哲学、すなわち空しい欺瞞」と呼んで反論しています。それがどのような教えであったのかは、コロサイ書にある反論から推察する他に資料はありませんが、ほぼ次のような内容であったと考えられます。

 1 特別な形の祭儀への参加を要求する。 ― 偽りの教えの教師たちは、特別な暦による「祭りや新月や安息日への参加」を要求し、「自己卑下と天使礼拝を好む者たち」です(二・一六〜一八)。

 2 禁欲的な戒律の順守を要求する。 ― 「近づくな。味わうな。触れるな」などという戒律で、性的な分野と食事のことで禁欲的な戒律を順守することを要求し、「独り善がりの礼拝、自己卑下、体の苦行」を伴っている教えです(二・二〇〜二三)。

 3 「世の諸々の霊」に従っている。 ― 上記二つの特色(特別な祭儀と禁欲的な戒律)は、「宇宙《コスモス》の諸霊」についての彼らの教義から出ています(二・八、二〇)。魂がそれらの諸霊の支配を免れて救われるためには、諸霊を祭る上記のような祭儀とか地上の身体的禁欲が必要だと教えたと見られます。

 4 神の十全な知識を目標としている。 ― 彼らが教えた特殊な祭儀への参加と禁欲的な戒律の順守は、完全な神の知識《グノーシス》に達することを目標としていたと推察されます。それは、本書が彼らに対抗して、そのような祭儀とか戒律は必要ではなく、キリストにこそ神の完全な知識が宿っており、キリストを知ることが神を知ることだと強調している(一・二六〜二八、二・三)ことから推察することができます。著者がよく用いる「奥義《ミュステーリオン》」とか「充満《プレーローマ》」というような用語は、彼らが掲げるこのような標語に対抗して、著者がキリストにこそ《ミュステーリオン》も《プレーローマ》もあるのだと主張するためであると見られます。

 これらの特色を総合すると、ユダヤ教と何らかのつながりがあるグノーシス主義的な宗教(あるいはある程度グノーシス主義化したユダヤ教)とヘレニズム世界の宗教(密儀宗教を含む)との混淆形態が背後にあると考えられます。

これらの特色とクムランとの関連が注目されます。安息日と特定の暦に基づく祭りの厳格な実行、清い食べ物と汚れた食べ物の厳密な区別、「肉の体」という用語の使用、特別の宗教的知識へのこだわりなどが、コロサイの「哲学」とクムランの両方に見られます。クムランのユダヤ教(エッセネ派ユダヤ教)が何らかの経路を経て、コロサイの「哲学」の形成に影響を及ぼしたことが推察されます。なお、この地域にユダヤ人が多く住んでいたことについては、拙著『パウロによるキリストの福音V』46〜47頁の注記を参照してください。

 福音の真理を覆す危険は、パウロの場合は異邦人信者に割礼を求める「ユダヤ主義者」からでしたが、コロサイ書の場合は割礼は問題ではなくなっており、グノーシス主義の萌芽形態のような宗教思想になっています。このような性質の危険に対抗することが、この時期エーゲ海地域の共同体の課題となり、そのために書かれたコロサイ書のような文書によって、この地域のこの時期の福音とキリスト信仰の姿を知ることができます。

著者問題

 では、この危機に対処するためにこの書を書いたのは誰か。パウロ自身か、あるいはパウロの後継者がパウロの名を用いて書いたのかは争われています。パウロ自身がエフェソから書き送ったと見る有力な研究者もいますが、現在ではパウロ名書簡とする見方が大勢を占めています。ここにあげたような偽りの教えが入ってくるのは、パウロ自身が活動した時代よりかなり後になると見られることと、次のような理由から、パウロ名書簡であると判断せざるをえません。

 1 用語と文体 ― 用語については、他のパウロ書簡に用いられていない用語が87語に達しますが、これは決定的な理由になりません。しかし、自由、救済、契約、約束、恩恵など、パウロ特愛の用語がコロサイ書には出てきません(これは思想内容の違いからでしょう)。また、文体を見ますと、パウロ書簡と同一の人物の手になる文章とは考えられません。パウロはきわめて単純で直截な文体で口述していますが、本書の文体は同じ意味の語を重ねて用いるとか、関係代名詞や分詞構文を多用して、長くて複雑な構文の文章を連ねています。訳文ではよく分かりませんが、原文で読むとパウロ書簡とは別の世界に入っているという印象をぬぐい去ることはできません。この違いは、獄中とかの事情の相違によって説明することはできません。

 2 思想内容 ― 本書は、基本的にはパウロの福音理解を忠実に継承していますが、子細に見ると、パウロであればそのようには語らないであろうと考えられる仕方で福音を語っています。一例だけを挙げると、「キリストと共に復活した」という語り方はパウロにはありません。パウロには「共に死んだ」と「共に十字架された」はありますが、復活はいつも未来形で語られています。もちろんパウロは復活のいのちの現実に生きていることを語っていますから、これは用語の違いかもしれませんが、後で見るようにパウロと著者では思想の枠組みが違うことが推察されます。
 パウロは律法学者としての素養のある生粋のユダヤ人ですから、すべての議論を聖書を用いて論証しています。それに対してコロサイ書の著者はほとんど聖書を引用することはありません。おそらく著者は異邦人の出自であると見られます。彼の思想の枠組みはギリシア的な宇宙論(コスモロジー)です。

 3 パウロの使徒性についての理解 ― 本書はパウロをほとんど唯一の使徒として扱っており、パウロ自身はその書簡で自分を多くの使徒の中の一人としているのと違っています。また、使徒としてのパウロが受ける苦難を身代わり的に意義づける(一・二四)のは、パウロ自身が苦難について語るところ(たとえばコリントU四・八〜一三)と違います。 本書のパウロについての記述は、パウロの没後、パウロの忠実な後継者が師パウロの使徒としての意義を語っていることを示唆しています。

 コロサイ書をパウロ名書簡とすることで、すなわちパウロ以後の時代にパウロの後継者によって書かれた書簡とすることによって、この書を後期(七〇年以後)のエーゲ海地域における福音の証言として用いることができます。この項(U)では、コロサイ書と、コロサイ書に依拠して書かれた見られる同じ質のキリスト信仰を証言しているエフェソ書とによって、この時期この地域の福音の内容を見ていきます。

コロサイ書のキリスト賛歌

 コロサイ書において福音が告知し、それによって共同体が生きているキリストとはどのようなキリストか。それは、コロサイ書に引用されている「キリスト賛歌」(コロサイ一・一五〜二〇)によく示されていますので、その賛歌を中心に見ていきます。
 著者は書簡の形式に従い、挨拶と感謝を述べ、祈りを記した後、キリスト賛歌に入りますが、その前置きとして、「わたしたち」がキリストにおいて受けている救いの事実を描きます。

 御父はわたしたちを闇の権勢から救い出して、その愛の御子の支配下に移し入れてくださいました。この御子にあってわたしたちは贖い、すなわち罪過の赦しを得ているのです。(コロサイ一・一三〜一四)

以下、このコロサイ書とエフェソ書を扱う項での聖書引用は拙著『パウロ以後のキリストの福音』で用いた両書の私訳を用います。

 これはコロサイ書の救済論の要約です。著者にとって、救済とは「闇の権勢から救い出して、その愛の御子の支配下に移し入れてくださった」ことです。
 当時の人々にとって、この世界(コスモス)は「権勢」とか「支配」などと呼ばれる諸々の霊に支配されている世界でした。地上を支配している諸霊は人間を暗闇(不幸や悲惨や絶望)に閉じこめる霊的な支配力です。父は、福音によって信じる者をこの「闇の権勢」の支配から救い出して(解放して)、父の愛の体現者である御子キリストの支配下に移し入れ、「光の中にある聖徒たちの相続分にあずかるにふさわしい者にしてくださった」のです(コロサイ一・一二)。その内容はパウロの救済理解(ローマ八・二)と同じですが、表現はすっかりヘレニズム風になっています。グノーシス主義者も、彼らの救済を(内容は違いますが)このような表現で語りました。
 その支配の移行はすでに起こったことです。それは、この御子キリストにおいて「贖い、すなわち罪過の赦しを得ている」からです。パウロにおいてあれほど深刻な問題であった罪が問題にされているのは、本書ではここだけです。しかも、パウロはいつも罪を根源的な支配力として単数形で扱っていましたが、ここで罪が複数形で用いられています。「罪過の赦し」という句はパウロ七書簡には出てきません。パウロにおいては「解放」という側面が強かった「贖い」が、本書では「諸々の罪過の赦し」という面に限定されるようになっています。救済を「罪の赦し」とする理解は、ルカ福音書にも見られます。
 なお、著者はキリストを「御子」という称号で指す傾向が強く、パウロにおいてあれほど頻繁に用いられた「キリストにあって」という句は、本書においては(挨拶部を除くと)わずか一回だけになります。以下に引用するキリスト賛歌も御子への賛歌となっています。キリスト賛歌(一五〜二〇節)は、前半(一五〜一七節)と後半(一八〜二〇節)とに分かれます。

 この方は見えない神の像、
 すべての造られたものに先だって生まれた方。(一五節)
万物はこの方において造られた、
 天にあるものも地にあるものも、
 見えるものも見えないものも、
 王座も主権も、
 支配も権勢も。
 万物はこの方により、この方へと造られた。(一六節)
そして、この方は万物に先だっていまし、
  万物はこの方の中で存立している。(一七節)

 この方はその体、すなわち御民の頭。
 この方ははじめであり、
 死者の中から最初に生まれた方、
 すべてのことにおいて最初の者となるために。(一八節)
神はよしとされた、
 すべての充満がこの方の中に宿り、(一九節)
 万物をこの方により、
 この方へと和解させることを。
  地の上にあるものも天にあるものも、
  この方の十字架の血によって和に至らせて。(二〇節)

 パウロもフィリピ書で当時の共同体で用いられていたキリスト賛歌を引用しています。そのキリスト賛歌(フィリピ二・六〜一一)と比べますと、コロサイ書の賛歌は長くて詳しくなっています。フィリピ書の賛歌はキリストの受難と復活という救済史的出来事に集中していますが、本書の賛歌はそれだけでなく、創造とか存在の根源というような宇宙論的なキリストの姿を語っています。
 賛歌はその前半(一五〜一七節)で、創造における御子の位置、あるいは存在の根源としての御子の意義を語っています。最初に、御子キリストは「見えない神の像、すべての造られたものに先だって生まれた方」(一五節)とされます。「先だって生まれた方」は一八節でも用いられ、著者のキリスト論の鍵語になっています。
 すべての造られたものに先だって生まれた方ですから、この方は被造物ではなく、万物よりも先に存在し、万物はその方の中で、その方により、その方に向かって(を目標として)創造されたことになります(一六節)。その万物が「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも」というだけでなく、「王座も主権も、支配も権勢も」と、当時《コスモス》を構成すると考えられていた支配的諸霊が加えられていることが注目されます。そして、このような創造における位置から、御子キリストは「万物に先だっていまし、万物はこの方の中で存立している」と、存在の根源であることがうたわれます(一七節)。
 賛歌はその後半(一八〜二〇節)で、救済の秩序における御子の位置について語ります。御子キリストは何よりもまず救済の担い手である《エクレーシア》(ここでは「御民」と訳しています)の「頭」であることがうたわれます。パウロにおいても「《エクレーシア》はキリストの体である」という思想はありますが、キリストがその体である《エクレーシア》の頭であるという思想はありません。キリストに属する者たちの共同体を「体」という有機体とする表象はパウロから始まっていますが、キリストがその体の頭であるという理解はコロサイ書から始まり、エフェソ書では救済論の中心的な位置を占めるに至っています。
 ここではキリストの復活は「死者の中から最初に生まれた方《プロートトコス》」という形で語られ、先の「すべての造られたものに先だって生まれた方《プロートトコス》」(一五節)と対応して、御子キリストが「すべてのことにおいて最初の者」であること、すなわち神の創造の働きにおいても救済の働きにおいても、キリストが「はじめ」(根源)であることがうたわれます(一八節)。
 そして、神の救済の働きは、「すべての充満」が宿る御子キリスト(一九節)の十字架の死によって成し遂げられた「万物の和解」に基づくものであることが、最後に賛美されます(二〇節)。この御子の十字架による万物の和解こそ終末的救済の秩序の土台であるという理解が、その後のキリスト教の教理を決定し、十字架がキリスト教のシンボルになることになります。ヘレニズム世界で福音を語る本書は、もはやユダヤ教の「義とする」という表現を用いることなく、もっぱら「和解」という用語で救済を語ります。また、「充満」という用語も、コロサイ書とエフェソ書の両方で、キリストを語るさいの中心的な考え方になっています(後述)。

宇宙論的枠組みにおけるキリスト

 この賛歌から、キリストは、パウロの時代の救済史的な枠組みの中で理解されるキリストから、コロサイ書では宇宙論的枠組みで理解されるキリストへと移行していることがうかがわれます。パウロは生粋のユダヤ人として、救済を時間軸上の出来事とするヘブライの伝統的な思考の枠組みの中でキリストを理解しています。パウロは、準備と実現、預言と成就、予型と本体、今の時(歴史)と来るべき時(終末)、という時間軸上の対比で思考し、キリストはイスラエルの歴史が預言し約束してきたことの終末的な実現であり、神が計画された救済史の成就であると理解し、そういう方として告知しています。
 そのヘブライの時間的な枠組みに対して、ギリシア人の思考は空間的であり、万物は天にあるものと地にあるもの、上にあるものと下にあるもの、見えるものと見えないものの対比で見られ、宇宙《コスモス》は地を覆う多くの階層からなる霊的空間として意識され、それぞれの階層を支配する支配《アルコーン》、権勢《デュナミス》、権威《エクスーシア》などの霊的存在がいると見られていました。それでキリストも、万物の創造者である神の御子として、万物すなわち《コスモス》の中でどのような地位を占める方であるかが問題とされ、キリストを告白する賛歌においても、まず前半で《コスモス》におけるキリストの独自の地位が賛美されます。そこで、「すべての造られたもの」、すなわち万物が「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権勢も」と対比されていたことは、ギリシア人の空間的な思考の枠組みをよく示しています。
 後半で救済の秩序におけるキリストの位置を告白する部分でも、十字架と復活のキリストが「死者の中から最初に生まれた方」として、「この方こそ《アルケー》である」とされます。《アルケー》は「はじまり、最初」という意味の語ですが、ギリシア人はこれを(物事がそこから始まる)「根源」という意味で用いており、ここでは文脈からその意味であることは明らかです。最初の福音告知がキリストの出来事を約束とか預言の成就として告知したのと較べると、その面は背後に退き、キリストが存在と救済のすべてがそこから始まる根源として告知され、天と地を仲介して《コスモス》の完成をもたらす救済者として賛美されています。

「充満」と「奥義」

 また、コロサイ書はキリストについて語るとき、「充満」《プレーローマ》という語を繰り返し用いています。すでにキリスト賛歌の中でも「すべての充満がこの方の中に宿ることを、神はよしとされた」という表現があります(一九節)。さらに著者は、「キリストの中にこそ神性の全き充満が体をとって宿っており、あなたたちはこの方にあって満たされているのです」と語ります(コロサイ二・九〜一〇)。キリストは「神性の全き充満」が「体をとって」宿っている方であるとされます。そのことは賛歌で、「この方は見えない神の像《エイコーン》」と言い表されていました(一五節)。
 「充満」《プレーローマ》は、後にグノーシス主義の重要な用語になります。グノーシス主義文書では、《プレーローマ》は「至高神以下の神的存在によって満たされた超越的な光の世界」を意味します。グノーシス主義では、この至高の光の世界には様々な名をもつ多くの神的存在がいるわけですが、コロサイ書ではキリストだけが「神性の全き充満」であるとされます。このことが強調されるのは、「世の諸々の霊」から出る間違った教えに惑わされることなく、しっかりとキリストだけに固着するように求めるためです(コロサイ二・六〜八)。
 キリストは「神性の全き充満」が宿る方として、「すべての支配と権勢の頭」であるとされます。当時のヘレニズム世界の宇宙観(コスモロジー)では、宇宙《コスモス》は地を底辺とする多層の霊界から成り、その各層を支配する霊的存在を「支配」《アルケー》とか「権勢」《エクスーシア》と呼んでいました。キリストを「すべての支配と権勢の頭」とすることは、宇宙を人体にたとえて、キリストが《コスモス》全体の統合者であることを指しています。このように本書においては、ヘレニズム世界で福音を語るにふさわしく、キリストは宇宙論的な視点で理解され、表現されています。
 パウロはキリストを語るときに「充満」《プレーローマ》という語は用いていませんでした。コロサイ書がこの語をよく用いるのは、この時期のこのエーゲ海地域の共同体が、パウロよりも一段と深くヘレニズム世界に進入していることを指し示しています。そして、この時期の終わりの方で、同じくエーゲ海地域で成立したと見られるヨハネ福音書(おもに序詩の「ロゴス賛歌」)にもこの「充満」という用語が繰り返し現れるのも、この時期・この地域での福音が、よりいっそう強くギリシア的な現れ方になってきていることを示しています。
 もう一つ、コロサイ書がキリストを語るときによく用いる用語に「奥義」《ミュステーリオン》という語があります。この「奥義」も、コロサイ書とエフェソ書の中心概念です。《ミュステーリオン》はもともとユダヤ教黙示思想の用語で、人間には隠されている神の秘密の御計画とか天界の実相を指します。ヘレニズム世界の人たちには「密儀」(それにあずかることによって救済を受けるとされる秘密の儀式)という意味も連想されたことでしょう。パウロも、今まで神の中に隠されていたが、今や聖徒たちに現されるに至った神の救済計画という黙示思想的な意味で用いています(コリントT二・一、七、四・一、一五・五一)。
 この《ミュステーリオン》の中身はキリストである、と著者は宣言します。「神は御自分の聖徒たちに、異邦人の中にあるこの奥義の栄光の豊かさがどれほどのものであるかを知らせようとされたのです。この奥義とはあなたたちの中にいますキリスト、栄光の希望です」(コロサイ一・二七)。もはやギリシアの密儀宗教の「密儀」でもなく、またユダヤ教黙示思想の「隠された救済計画」でもなく、キリスト自身が「奥義」《ミュステーリオン》そのものなのです。
 コロサイ書は、この「奥義」《ミュステーリオン》を「あなたがたの中にいますキリスト」、すなわち異邦人であるあなたがたの中にいまし、今あなたがたが体験し、その中で生きているキリストに他ならないとします。そして、このキリストこそ「栄光の希望」であるとされます。コロサイ書では、「希望」はわたしたちのために現に今「天に蓄えられている希望」(一・五)であり、将来のことではなく現にあずかっている救済の現実全体を指しています。キリスト御自身こそ、今信じる者があずかっている救済の栄光(神的な素晴らしさ)そのものであるというのです。この点は、パウロが語る「栄光の希望」すなわち将来に現れる栄光を待ち望む希望(ローマ八・一八〜二五)とは重点が違ってきています。

コロサイ書とエフェソ書

 パウロの名で書かれた書簡の中に、コロサイ書ときわめてよく似たものがもう一つあります。エフェソ書です。両書は全体の構成と内容が似ているだけでなく、使用している用語まで似ています。エフェソ書に用いられている用語の四分の一がコロサイ書にあり、コロサイ書の用語の三分の一がエフェソ書に見出されます。文章や表現がほとんど並行している例がかなりあります。さらに、重要な概念や術語が両方で共通しています。たとえば、キリストの体、体の頭としてのキリスト、充満《プレーローマ》、奥義《ミュステーリオン》、和解などが、両方で鍵をなす用語となっています。原文を読んでいますと、これほど同じ用語を用い、同じような文体で、基本的には同じ福音理解をもって書いているのは同一人ではないかと感じさせます。同一人説を否定する決定的な根拠はないようにも思われます。
 しかし、執筆時期や状況の違いでは説明しきれない違いもあり、著者は別であるとする見方が普通です。その場合、エフェソ書の著者がコロサイ書に依存したと見る見方が大勢です。内容的にエフェソ書がコロサイ書の思想傾向をいっそう押し進めている点があることからも、そう見るのが順当だと考えられます。両者ともパウロを(回顧的に)唯一の権威としており、エフェソを中心とするアジア州のパウロの活動圏で成立した文書であることは確かです。コロサイ書とエフェソ書の両書は、エーゲ海地域における七〇年以後の時代のキリスト信仰の質を指し示すもっとも重要な証言です。
 なお、コロサイ書がほとんど聖書を参照しないのと対照的に、エフェソ書はかなり聖書(旧約聖書)を参照していること、またクムラン文書の思想との近さを見せていることなどから、エフェソ書の著者としてギリシア思想に通暁したユダヤ人キリスト者を推定する説(EKK)もありますが、決定的ではありません。この時期には異邦人信徒も十分聖書に親しんでいたことが推察されるからです。著者が誰であるか、個人を特定することはできません。
 コロサイ書は、集会に侵入してきた「偽りの教え」を反駁するという特定の目的がありましたが、エフェソ書にはそういう状況はありません。エフェソ書は手紙の形式で書かれていますが、個人に対する挨拶もなく、特定の集会の具体的な問題に触れることもなく、議論の内容もきわめて一般的な神学論になっています。一章一節の「エフェソにいる」という宛先の地域名も、最古の有力な写本にはありません。それで、本書は特定の集会に宛てられた書簡ではなく、キリスト信仰についての一般的な論説、あるいは広い地域の諸集会に回される勧告の回状であったと見られます。

パウロ書簡集におけるエフェソ書の位置については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』145頁のG・タイセンからの引用文を参照してください。

キリストを頭とする万物の統合

 エフェソ書には、コロサイ書にあったようなキリスト賛歌はありませんが、全体としてはコロサイ書と同じように、ギリシアの宇宙論的な枠組みでキリストを言い表しています。しかし、「その力を神はキリストの中に働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天上において御自身の右の座に着かせ、すべての支配、権勢、勢力、主権、すべての名の上に置かれた」と宇宙論的なキリスト告白をした後、「さらに今の世だけでなく来るべき世において唱えられるすべての名の上に」という句を付け加えて、ヘブライ的な救済史の視点も入れています(エフェソ一・二〇〜二一)。コロサイ書に較べると、エフェソ書にはユダヤ教黙示思想の影響が見られる一例かもしれません。「今の世《アイオーン》」と「来るべき世《アイオーン》」という対句は典型的な黙示思想の用語です。
 また、エフェソ書は「奥義《ミュステーリオン》」という語を「秘められた(救済)計画」という意味で用いて、次のように言っています。

 「神は、あらゆる知恵と判断力をもってわたしたちが御旨の奥義を知るようにしてくださいました。これは、キリストにあって前もって定められた神の承認によるもので、諸々の時の充満へと運用されて、天にあるものも地にあるものも、すべてがキリストを頭として統合されるに到るのです」。(エフェソ一・八〜一〇)

 ギリシア思想においては、宇宙《コスモス》の万物は一つの秩序(システム)をなす統合体であり、そのような統合体として《コスモス》はすべての価値の源泉、神的な全体です。福音はキリストを、そのようなギリシア的な《コスモス》の統合の原理《アルケー》また目標として提示します。「天にあるものも地にあるものも、すべてがキリストを頭として統合される」のです。

「すべてがキリストを頭として統合される」と訳したところの原文は、「すべてがキリストにあって《アナケファライオオー》される」となっています。《アナケファライオオー》は、《ケファレー》(頭)を語幹とする動詞で、本来は「頭の下に統合する」という意味です。そこから「一つにまとめる、帰せしめる、に集める、要約する」という意味で用いられるようになります。新約聖書での用例は、こことローマ一三・九の「要約する」という意味の用例の二例だけです。二世紀後半に活動した教父エイレナイオスは、この《アナケファライオオー》を鍵語として聖書の救済史的理解を提示しています。なおエフェソ一章一〇節の救済史的理解については、拙著『神の信に生きる』の199頁「救済史の構造」を参照してください。

 しかもその統合は、静止したシステムではなく、「諸々の時の充満へと運用されて」それに至る動的な過程です。ここの直訳は「時の充満の運用へと至る」という句で、《ミュステーリオン》を修飾しています。この簡潔な表現は、「時」《カイロス》、「充満」《プレーローマ》、「運用、経綸」《オイコノミア》という特別な意味合いの専門用語の羅列で、救済史の進行を表現しています。
 「時」《カイロス》は、たんなる時間の流れではなく、意味のある出来事が起こる時点を指しています。ここでは複数形で、救済のための神の諸々の働きがなされる時のことです。「時の充満」とは、時機が熟して計画された出来事が起こることを指しています。その典型的な例は、イエス・キリストの出現とその十字架・復活の出来事が「時は満ちた」という宣言をもって宣べ伝えられていることです。この決定的な「時」以外にも、多くの出来事が神の定められた時の充満として起こっています。聖書はこのような「時」の記録です。すなわち、定められた時に起こった救済のための諸々の出来事の記録です。
 このように、神が「時の充満」という形でその救済の計画を運用されることを、ここでは《オイコノミア》という語で表現しています。この《オイコノミア》という語は、もともと家を管理・運営するという意味の語で、現在の「経済」の語源となった語です。ここでは分かりやすくするため「運用」と訳していますが、神学用語では「経綸」と訳すことが多いようです。この「時の充満の運用」は、現在わたしたちが「救済史」と呼んでいる内容に相当します。著者は、聖書の救済史的理解を「時の充満の運用」という表現で指していることになります。
 キリストにおける万物の統合、すなわちキリストにおける《コスモス》(宇宙、全存在界)の完成が、ここでは時間的な過程を含むようになっています。あるいは、時間的な視点で見られています。このように《コスモス》の理解に時間の要素が入ってきたことは、コスモロジー(《コスモス》の理解の仕方)の歴史において画期的な出来事です。ギリシア人にとって《コスモス》は静止した存在の秩序でしたが、それが動き出したのです。時間の流れの中で変化し、完成に向かう過程となったのです。しかも、その過程は神の「秘められた計画」に基づく変化です。ここに、ヘブライの救済史の思想とギリシアのコスモロジーが融合しています。
 聖書の救済史の枠組みも、この融合によって大きな変化を遂げています。聖書(旧約聖書)はイスラエルの歴史、神とイスラエルの契約の歴史の記録です。イスラエルにおける神の救済の働きの記録です。したがって、その視野はイスラエルという一つの民に限られていました。ところが、今や救済史の視野が《コスモス》、すなわち全世界、宇宙、全存在界に拡がったのです。
 実は、この拡大は新約聖書から始まったのではなく、すでにユダヤ教がギリシア思想と遭遇したヘレニズム期に始まっていました。押し寄せるギリシア化の波に抵抗して父祖の宗教と慣習を維持しようとした《ハシディーム》(敬虔な者たち)の運動からファリサイ派とエッセネ派が生まれますが、彼らはギリシア化への抵抗で相手の土俵(ギリシア思想)で戦ったため、その信仰はギリシア思想の枠組みで表現されるようになります。このヘレニズム期に形成された知恵思想と黙示思想は共通して、ギリシアの知恵やコスモロジーを受け入れ、その枠組みで自身の信仰を表現するようになっています。ヘレニズム・ユダヤ教の視野はイスラエルの枠を超えて《コスモス》に及んでいます。パウロ自身も、ファリサイ派の一員としてヘレニズム・ユダヤ教の体現者であり、聖書の救済史をしっかり身につけていると同時に、ギリシア人の思考世界に馴染んでいる面がありました。
 キリストの福音が、ギリシア文化の中心地ともいうべきエーゲ海地域に入ってきたとき、そのキリスト理解がギリシア的な思想の枠組みの中で語られるようになるのは必然であり、それはコロサイ書によく現れていました。エフェソ書の著者は、そのコロサイ書と同じキリスト信仰に立ちながら、パウロ書簡集全体への導入として書いているため、ユダヤ人パウロにあった救済史的視点を見失うことなく、(特定の問題に対処している)コロサイ書よりも総合的な記述になっていると見られます。彼自身、ユダヤ人であった可能性は十分にあります。

「罪の赦し」の福音と復活信仰の現在化

 コロサイ書とエフェソ書がキリストにあって与えられる救いについて語るとき、パウロと較べると二つの点で違いが目立ちます。一つは、パウロがほとんど語らなかった「罪の赦し」を福音の中心に据えていることであり、もう一つは、復活をすでに起こったこととしていることです。
 コロサイ書とエフェソ書は、キリストにおける救済を要約するような位置に次のような宣言を置いています。

 「御父はわたしたちを闇の権勢から救い出して、その愛の御子の支配下に移し入れてくださいました。この御子にあってわたしたちは贖い、すなわち罪過の赦しを得ているのです」。(コロサイ一・一三〜一四)


 「この方にあって、わたしたちはその方の血による贖い、すなわち罪過の赦しを受けています。それは、神の豊かな恩恵によるものです」。(エフェソ一・七)
 パウロも「贖い」について語りました。しかし、それは最初期共同体の伝承を引用する場合(ローマ三・二四)など、ごく僅かです。旧約聖書の「贖い」には、祭儀的な罪や汚れの清めという意味と奴隷や捕虜の買い戻し・解放という二つの意味がありましたが、パウロはキリストにおける救いをいつも罪や死の支配力からの解放として語っており(ローマ八・二など)、「罪の赦し」を福音の内容として語ることはありません。「赦し《アフェシス》」という用語さえパウロには出てきません。
 それに対してコロサイ書とエフェソ書は、キリストにおける神の贖いの働きを明確に「罪過の赦し《アフェシス》」と定義し、それを福音の基本的内容としています。エフェソ書は「その方の血による贖い、すなわち罪過の赦し」と書いて、贖いが祭儀的な罪の清めの出来事であることをいっそう明確にしています。しかも、「罪過」は複数形であり、人が犯す諸々の違反行為を指しています。パウロが「罪」というときはいつも単数形で、人を神に背かせる支配力を指しているのと対照的です。
 パウロは、救いはキリスト信仰によって与えられるものであり、ユダヤ教の律法順守とは関係がないことを主張するために、「信仰による義(救い)」を強調しました。その主張を貫くために、救済における律法の意義を言葉を尽くして語らなければなりませんでした。ところがコロサイ書とエフェソ書の時代には、ユダヤ教とは関係のない異邦人が共同体の主流を形成して、もはやユダヤ教との関わりは問題ではなくなっており、「律法の行為」か「キリストの信仰」かという議論はなくなっています。両書には「律法」という用語すら出てきません。
 「罪過の赦し」が福音の中心的内容となる傾向は、この時期(最初期後期)の終わり頃に出現したルカの二部作においても見られます(ルカ二四・四七、使徒二・三八、一〇・四三)。そして、この傾向はその後のキリスト教における教理の形成に大きな影響を及ぼすことになります。そのために、キリスト教の長い歴史において、パウロが指し示す「聖霊による罪と死の支配力からの解放」(ローマ八・二)という福音の本質が覆い隠される結果も引き起こすことになります。福音を「罪過の赦し」に限定することは、神と人の関係を法廷での関係に限定し、福音が聖霊による生命的な変革の現実を与える力であることを見失わせる危険があります。

 もう一つ、救いについてパウロとの違いが目につく点は、コロサイ書とエフェソ書の両書が復活を現在の体験としていることです。エフェソ書の著者は、その手紙を読む異邦人読者に向かって、彼らの信仰に入る前の罪に溺れていた状態を描き(エフェソ二・一〜三)、その上でキリストにあって彼らに与えられた救いを次のように記述します。

 「ところが、神は憐れみに富んでおられ、わたしたちを愛してくださったその絶大な愛によって、もろもろの違反によって死んでいるわたしたちさえもキリストと共に生かし、― 恩恵によってあなたたちは救われているのです ― キリスト・イエスにあって共に復活させ、共に天上の座に着かせてくださったのです」。(エフェソ二・四〜六)

 ここに用いられている「共に生かし」、「共に復活させ」、「共に座に着かせ」は、みな過去の出来事を指す動詞形が用いられています。キリストが復活されたとき、キリストにあるわたしたちも「キリストと共に」復活したというのです。コロサイ書も、読者にキリスト者としての歩みを勧告する区分を、「さて、あなたたちはキリストと共に復活したのであるならば、上にあるものを追い求めなさい」という言葉で始めます(コロサイ三・一)。両書は、「復活」をキリスト者の身にすでに起こった出来事として扱っています。
 ところが、パウロは「復活」をすでに起こったこととして過去形で語ることはありません。「キリストと共に死んだ」は過去形で語られますが、「復活」はつねに未来形で語られています(ローマ六・四〜五)。この違いは、著者がパウロと違った現実に生きていることを示しているのではなく、同じ現実を指すのに用いる用語が違ってきていると理解しなければなりません。
 パウロは、わたしたちがキリストにあって(キリストに合わせられて)復活の質をもつ新しい命に生きることを現在の事実として強調していますが、それを「復活した」という語で語ることはありません。「復活」はいつも「死者の復活」という将来の終末的な出来事として待ち望まれています(コリントT一五章)。ところが、著者は現在わたしたちが復活の質の新しい命を生きていることを「(キリストと)一緒に復活した」と表現するのです。ここに、明らかにパウロと著者との間に用語の違いが出てきています。
 「復活させる」を過去形で用いる以上、将来の復活を語ることはできません。事実、エフェソ書には将来の復活(死者の復活)を語る箇所はありません。終末時の死者の復活を指す術語となっていた「復活」《アナスタシス》という名詞(パウロはそれを用いて死者の復活を強調していました)は、コロサイ・エフェソ書には出てきません。著者の目は現在に集中し、「復活」はこの世(地上)で死んでいたわたしたちがキリストの命に生かされ、キリストと一緒に天上の座に着くこととされます。すなわち、復活が時間的な軸ではなく空間的な枠組みの中で表象されることになります。ここでも「復活」という信仰内容が現在化され、救済史という時間軸をもつヘブライ的な思考の枠組みから、天と地という上下関係をもつ空間的なギリシア的思考の枠組みに移行していることが見られます。

この「復活信仰の現在化」とも呼ぶべき変化は、ヨハネ福音書においてもっとも明確な表現に達しています。ヨハネは、「信じる者は永遠の命を持っており、裁かれることなく、死から命に移っている」と語り(五・二四)、「(現に)わたしが復活《アナスタシス》であり、命である」(一一・二五)と宣言します。しかし、そのヨハネ福音書が同時に、「わたしの父の意志は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を持ち、わたしがその人を終わりの日に復活させることである」と、「終わりの日の復活」を加えている(六章に四回)ことは、復活信仰を現在の体験だけに限定することはできないし、またしてはならないことを示唆しています。

キリストの充満としての《エクレーシア》

 先にエルサレム共同体が自分たちを終末時に起こされた「神の会衆《カハール・エール》」であると自覚し、それをギリシア語で「神の民《ヘー・エクレーシア・トゥ・テウー》」と表現したことを見ました。パウロもその自覚を共有しており、キリストを信じた者たちの共同体を《エクレーシア》という語で指していました。しかし、パウロにおいては《エクレーシア》という語は実際の集会を指しており、一つの集会を指すときは単数形で、一定地域の諸集会を指すときは複数形で用いられていました。パウロの場合は、《エクレーシア》は「集会」と訳すのが適切でした。
 ところが、コロサイ書とエフェソ書になると、(個々の集会への挨拶の場合は別として)《エクレーシア》が実際の個々の集会を指す用例はなく、いつも定冠詞付きの単数形で用いられ、キリストを信じる民の総体を指すようになっています。それで、両書の私訳で、わたしは《ヘー・エクレーシア》を「御民」と訳しています。しかも両書は、この《ヘー・エクレーシア》を、キリストを頭とする「キリストの体」として語っています。
 パウロも「集会」の一致を説くさい、《エクレーシア》を人体にたとえて語っていました(コリントT一二章)。しかしそれは、多彩な御霊の働きで成り立っている個々の「集会」が同じ生命によって構成される有機的な一体であることを説くための比喩でした。ところが、コロサイ書とエフェソ書になると、そのような個々の集会に対する実際的な勧告はなく、いつもキリストを信じる者たちの共同体とは何であるのかということが説かれるようになっています。そのことはすでに、この時期のキリスト信仰を要約して言い表しているコロサイ書の「キリスト賛歌」にも、「この方はその体、すなわち御民の頭」(コロサイ一・一八a)という形で明確に出てきています。
 キリスト者の共同体は、終末時に神によって起こされた神の民であるという、救済史的な視点から見られるのではなく、天(霊界)にいますキリストが地上に体を取って現れた姿、すなわち「キリストの体」であるという視点から見られるようになっています。そして、天にいますキリストこそがその体である《エクレーシア》の「頭」であるとされます。「頭」は体全体の司令塔であり、体全体を支配しています。その人体における頭と体の関係が比喩として用いられて、地上におけるキリストの体である《エクレーシア》と天にいます霊なるキリストとの関係が語られるようになっています。
 このコロサイ書で語られているキリストを頭とする「キリストの体」としての《エクレーシア》は、エフェソ書になるとさらに一段と展開されて、福音とキリスト信仰の中心的な位置を占めるようになってきます。エフェソ書の著者は、信じる者たちに対して働く神の力がいかに絶大なものかを悟るように祈った後、次のように語ります。

 「その力を神はキリストの中に働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天上において御自身の右の座に着かせ、すべての支配、権勢、勢力、主権、さらに今の世だけでなく来るべき世において唱えられるすべての名の上に置かれたのです。神はまた、すべてのものをキリストの足の下に服させ、キリストをすべてのものの上にある頭として御民にお与えになりました。御民はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満です」。(エフェソ一・二〇〜二三)

 その力とは、キリストを復活させた力、死者を生かす復活の命を質とする力です(二〇節)。それだけでなく、神はその力を働かせてキリストを「天上において御自身の右の座に着かせ、すべての支配、権勢、勢力、主権、さらに今の世だけでなく来るべき世において唱えられるすべての名の上に置かれた」のです(二一節)。神はイエスを死者の中から復活させて高く上げ、「神の右に座す」者とされたという宣言は、詩篇一一〇編に基づいて、すでに最初期の福音告知の定式になっていましたが、このユダヤ教的定式に、著者は「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」(フィリピ二・九)という異邦人集会ですでに形成されていたキリスト賛歌を融合させます。
 著者は、その「あらゆる名」を詳しく「天の諸々の場所において、すべての支配、権勢、勢力、主権の上に(置かれた)」と、具体的に名をあげます。ここにあげられている「支配《アルケー》、権勢《エクスーシア》、勢力《デュナミス》、主権《キュリオテース》」という名は、地を覆う諸天(階層をなす霊界)の各層を支配する霊的存在を指す名で、当時のヘレニズム世界の人たちの神話的宇宙観(コスモロジー)の用語でした。すでにパウロもこのような名を上げていました(コリントT一五・二四)。著者はそのような名を総動員した上で、さらに漏れる名がないように、「今の世だけでなく来るべき世において唱えられるすべての名の上に置かれたのです」と、天上におけるキリストの主権を描きます(二一節)。この「今の世《アイオーン》だけでなく来るべき世《アイオーン》においても」という表現には、著者のユダヤ教黙示思想との親近性が感じられます。
 神はキリストを「すべての名の上に置かれた」ということは、「すべてのものをキリストの足の下に服させた」ことを意味します。この言葉は詩篇八章七節の引用ですが、パウロはこれを未来の出来事としています(コリントT一五・二七)。本書では「服させた」と過去形で語られています。万物をキリストの足の下に服させた上で、そのキリストを「すべてのものの上にある頭として御民にお与えになった」と語られます(二二節)。すなわち、宇宙万物《コスモス》の頭であり支配者であるキリストが、頭としてその体である御民に与えられたのです。このことによって、キリストが《エクレーシア》の頭であるという関係は、宇宙論的な意味を持つことになります。御民は、《コスモス》の支配者であるキリストを頭としていただくことにより、《コスモス》の真義(《コスモス》の存在意義)を体現する中核体となるのです。
 このことを著者は、「御民はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満です」と表現します(二三節)。この言葉は、著者の思想の特色をもっともよく示しています。コロサイ書も「充満」《プレーローマ》という思想が中心にありました。しかし、コロサイ書においては、「充満」はおもにキリストについて語られていました。すなわち、「すべての充満がこの方(キリスト)の中に宿り」(一・一九)とか、「キリストの中にこそ神性の全き充満が体をとって宿っており」(二・九)と言われています。それに対してエフェソ書では、キリストの体である《エクレーシア》が「すべてにおいてすべてを満たしておられる方の充満」であるとされます。「充満」の担い手がキリストから《エクレーシア》に重心を移しています。もっとも、キリストが万物の存在意義を満たすという意味で「すべてにおいてすべてを満たしておられる方」であることは変わりませんが、その《コスモス》の充満体であるキリストが、頭として《エクレーシア》を統御しておられ、《エクレーシア》はこのキリストの充満体となっているという事実が、著者が見ている「真理」であり「奥義」であるのです。エフェソ書の全体は、この奥義の展開であると見てよいでしょう。

キリスト者の倫理

 《エクレーシア》がこのようなものであるならば、信仰によって《エクレーシア》に所属し、《エクレーシア》を構成するキリスト者各員の歩み(実際的な生き方)も、その《エクレーシア》の本質から規定されることになります。このことはエフェソ書においてとくに明確になります。
 コロサイ書ではまだ、実際的な勧告の拠り所はキリストでした(コロサイ二・六〜七)。「神の奥義」そのものであり、「すべての知恵と知識の宝が隠されている」キリスト(コロサイ二・二〜三)、「神性の全き充満が体をとって宿っている」キリスト(コロサイ二・九)にしっかりと根を下ろして歩むことが、偽りの教えに対抗し(コロサイ二・一六〜二三)、この世でキリスト者にふさわしく歩むための根拠でした(コロサイ三・一〜一一)。
 ところがエフェソ書になると、実際的な歩みについての勧告は、《エクレーシア》の外にいる者との対比で、《エクレーシア》の内にいる者としてふさわしく歩むようにという形をとります。著者はその対比を、「かって」異教徒として《エクレーシア》の外にいたときの生活と、「今は」信仰によって《エクレーシア》の内にいる者としての生き方の対比として描きます(エフェソ四・一七〜二四)。
 今はキリストに属する者も、以前は《エクレーシア》の外にあって「この世の霊力」に従って歩み、罪過の中で死んでいました。しかし今は、神の絶大な恩恵によってキリストと共に生かされて、天上にいますキリストが支配される《エクレーシア》に組み入れられています。《エクレーシア》はキリストにおける神の絶大な恩恵が支配する場であり、信じる者(キリストにある者)は恩恵によって救われ、善い働きをするように造られたのです(エフェソ二・一〜一〇)。《エクレーシア》の外は、不従順の霊が支配し、罪と死が支配しています。わたしたちもみな、かってはこの「世」にあって死んだ者でした。しかし今は、恩恵の場である《エクレーシア》にあって、救われて善い働きをするように造られています。恩恵の場である《エクレーシア》こそ、キリスト者の倫理が成立する場です。
 なお、キリスト者の実際の歩みについての勧告として、コロサイ書(三・一八〜四・一)とエフェソ書(五・二一〜六・九)の両方に共通して「家庭訓」が含まれています。「家庭訓」は、家の中での人間関係、すなわち夫と妻、親と子、主人と奴隷の関係について訓戒を与えています。家庭訓の基調は、下位の者(妻、子、奴隷)の上位の者(夫、親、主人)への服従です。これは当時のローマ帝国の家父長制社会で、キリスト者も「健全な」家庭を築くようにとの勧告であり、その服従が「キリストへの畏敬をもって」なされるように勧告されます(エフェソ五・二一)。ただ、エフェソ書では結婚関係がキリストと《エクレーシア》の結びつきの奥義を指し示すものとして特別に扱われています(エフェソ五・二二〜三三)。
 もはやユダヤ教律法をキリスト者の倫理の源泉とか基準にすることができない状況で、パウロの場合は明確に聖霊による生き方が倫理の源泉とされていた(たとえばガラテヤ書五章)のに対して、エフェソ書になると聖霊への言及はそれほど明確ではなく、キリストにある新しい生き方が、世間一般の人々との対比で「光の子」という象徴的な標語で指し示されるようになっています。しかし、終わりの日を前にして「贖いの日のための保証」である聖霊を悲しませるような振舞いをしないように(エフェソ四・三〇)という形で倫理の動機付けがなされており、パウロ的な終末の場での聖霊による倫理の枠組みは維持されています。

「光の子」については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』116頁以下のエフェソ書五・一〜二〇の講解を参照してください

V テサロニケ第二書簡の終末待望

来臨遅延の問題

 キリストの民は、エルサレム共同体の発足以来ずっと、復活者キリストが栄光の中に来臨されて世界を裁き、神の民を完成される日の到来を、「キリストの来臨《パルーシア》」とか「主の日」と呼んで待ち望んできました。パウロが異邦人世界に福音を告知したときも、テサロニケ第一書簡(とくに四章)やコリント第一書簡(とくに一五章)に見られるように、《パルーシア》は福音告知の重要な項目でした。ところが、使徒たちが世を去り、エルサレム神殿が崩壊しても、《パルーシア》は起こらず、世界は同じように継続しています。今の世《アイオーン》の終わりがエルサレム神殿の崩壊と重ねて預言されていたので(マルコ一三章)、神殿が崩壊した七〇年以後の時代には「来臨の遅延」が信仰上の問題となり、この時期の指導者は、使徒たちが宣べ伝えていた通りに来臨がなかったという事実に真剣に対処しなければなりませんでした。
 前項(U)で、この時期のエーゲ海地域のパウロ系諸集会のキリスト信仰を証言するものとして、コロサイ書とエフェソ書の内容を見ましたが、この両書には《パルーシア》という用語が出て来ません。両書ではキリストの来臨という事柄自体が問題にされていません。両書では、「来臨」なしで完成が考えられています。そこでは、キリストの民の目はキリストが来臨される未来にではなく、霊界の最上層にいますキリストに向けられています。キリスト者個人も、キリストの民《エクレーシア》も、そして宇宙《コスモス》も、そのキリストに満たされることが目標であり、完成です。パウロにおいてはなおキリストは聖書の救済史の枠組みの中で理解され宣べ伝えられていましたが、コロサイ・エフェソ書の段階になると、キリストはもはや時間軸上の救済史の枠組みではなく、ヘレニズム世界の霊的空間の宇宙論的枠組みの中で理解されるようになっています。
 来臨を問題にしないのであれば、「来臨の遅延」の問題もなくなります。コロサイ書とエフェソ書は、この方向で来臨遅延の問題を乗り越えています。しかし、この問題については別の対応の仕方も試みられています。《パルーシア》待望は、もともと黙示思想の流れに属するものですから、黙示思想の枠組みの中でこの問題を乗り越えようとする試みです。そのような試みの一つがテサロニケ第二書簡です。

エルサレム共同体発足時からこの時代に至るまでの来臨待望の変遷については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』148頁以下の「第一節 来臨待望の変遷」を参照してください。

テサロニケ第二書簡の成立

 テサロニケ第一書簡がパウロの真正の書簡であることは異議なく認められていますが、テサロニケ第二書簡については議論が続いていて、パウロの真正の書簡とする説とパウロの名による(別人の)書簡だとする説が対立しています。
 用語について見ると、パウロ書簡によく用いられているパウロ的な用語でテサロニケ第二書簡には全然出てこない用語がかなりあること、同じ用語が違った意味合いで用いられていることなど、用語の違いが見られます。また、第一書簡が宛先の集会員に対して人間的な親しい感情を込めて呼びかけ、「励まし、慰め、強く勧める」のに対して、第二書簡では「わたしたちは命じます」が多くなります。この違いは、著者と宛先人との関係が違ったものであることを示しています。
 同じく黙示思想の用語を用いてキリストの来臨を語っていますが、第二書簡には、第一書簡になかった来臨前の出来事の順序を図式的に語る「時間表」が出てくるなど、内容的にも違った面があります。また、第二書簡の著者は「わたしたち(パウロ、シルワノ、テモテ)が説教や手紙で教えた伝承《パラドシス》に堅く立つ」ように求めています(二・一五)。パウロは自分が伝え教えたばかりのことをすぐに手紙で《パラドシス》と呼ぶことはありません。第二書簡のこの箇所は、パウロの教えが伝承として確立していた、パウロ以後かなり経った時期を示しています。さらに、第二書簡は、「わたしたちから書き送られたという手紙」によって惑わされないように警告しています(二・二)。この警告は、第二書簡が書かれるまでにパウロの名による他の手紙がテサロニケの集会に送られていたことを前提にしています。このような「使徒名書簡」が用いられるようになるのは、使徒としてのパウロの権威が確立していた、かなり後の時期を示唆しています。
 このような点を総合すると、テサロニケ第二書簡はパウロ以後の時代に、エーゲ海地域のパウロ系共同体(おそらくテサロニケ集会)の指導的な立場の人物がパウロの名によって書いた書簡であると判断せざるをえません。

テサロニケ第二書簡がパウロの真正の書簡ではなくパウロ名書簡であることについて詳しくは、拙著『パウロ以後のキリストの福音』160頁以下の「第二節 テサロニケ第二書簡の成立」を参照してください。ここではそれを要約した上で、この書簡を七〇年以後の時代において来臨遅延の問題に対処した文書として扱い、その内容を検討します。

テサロニケ第二書簡における来臨待望

 パウロの時代においてもテサロニケ集会は、周囲の同国人からの迫害を経験していました(テサロニケT二・一四)。しかし、この時期(後期)には周囲の異教市民からの迫害はさらに激しくなっていたようです(テサロニケU一・四)。迫害は黙示思想的な来臨待望の火を燃え上がらせます。迫害の中で、テサロニケを中心とするマケドニア州のパウロ系諸集会では、パウロ以後にもキリストの来臨に対する熱心な待望が維持され継続していたと見られます。エフェソを中心とするアジア州で成立したコロサイ書とエフェソ書では、来臨《パルーシア》のことは語られなくなっていましたが、そのアジア州でも迫害が始まった一世紀末には、ヨハネ黙示録という激しい黙示文書が成立することになります。

この時期の迫害の性格については次節で取り扱います。

 著者はパウロの第一書簡に倣い、宛先の人たちについての賞賛と神への感謝を置きますが、その中でキリストの来臨についての信仰を言い表しています(テサロニケU一・三〜一二)。その信仰は、基本的には第一書簡のパウロと同じです。著者は、パウロがテサロニケの集会に説教や手紙で伝えた教え《パラドシス》を堅く守り続けるように説いています(二・一五)。しかし、子細に比較すると違いもあります。著者は、テサロニケの集会が「あらゆる迫害と苦難の中で忍耐と信仰を示している」(四節)ことを、「あなたがたを神の国にふさわしい者とする神の判定が正しいということの証拠」だとします(五節前半)。そうすることで、現在受けている苦難が「神の国のために(=神の国を受け継ぐために)受けている苦しみ」であると意義づけます(五節後半)。その上で、そう判断する根拠を述べます(六〜一〇節)。著者がそう判断する根拠は、神の正しい報いです。

 「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます」(六〜七節)。
 これは典型的な黙示思想です。著者は、黙示思想的な希望の原理をキリストの民に適用して、迫害の下にあるキリストの民を励まします。
 続いて、主イエスの来臨のときに行われる神の裁きが具体的に描かれます。

 「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう」(八〜九節)。

 パウロも「かの日が火の中に現れ」と言っています(コリントT三・一三直訳)。終わりの日が火の中に現れるというのも典型的な黙示思想的表象であり、初期の来臨待望を語る表現の中によく出て来ます。その表象がここで主イエスの来臨に用いられて、「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます」となります。そして、主イエス御自身が裁きを執行されることになります。
 パウロも終わりの日を神の怒りが現れる日としていますが、その時に来臨されるイエスは、その神の怒り(裁き)からイエスを信じる者を救い出すために来られます(テサロニケT一・一〇)。来臨される主イエスが「神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります」というように、主イエス御自身が反対者に報復されるという面はないか、希薄です。この点でも第二書簡の来臨待望は、パウロと違ってきています。これは、迫害によって黙示思想的な傾向が刺激された結果だとも考えられます。

「不法の者」の出現

 このように自分たちの来臨待望を確認した上で、著者は本題に入ります。その主題は、「わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、その方のみもとにわたしたちが集められることについて」です(二・一直訳)。このことについて、テサロニケの集会に動揺があることを知った著者は、正しい来臨待望を確立するためにこの手紙を書きます。
 テサロニケの集会がキリスト来臨の問題で動揺したのは、ある人々が「霊や言葉によって」、あるいはパウロから出たと称する手紙によって、「主の日は既に来た」と唱えたからです(二・二)。先に見たように、パウロまでの初期のエクレシアは、キリストの来臨を間近なものとして熱心に待ち望んでいました。その待望がキリストの福音を急速に広める原動力の一つでした。しかしパウロ以後の時代には、来臨が遅れているという事実に直面して混乱が生じ、様々な形でこの問題(来臨の遅延、来臨待望の崩壊)を克服しようとする努力がなされました。著者はこの問題を黙示思想の枠組みの中で、黙示思想の解釈を通して克服しようとします。
 著者は、「主の日は既に来てしまっている」という主張を、以下のような黙示思想の論理を用いて反駁します。すなわち、主が来臨される前に、まず「背教」が起こり、「不法の者」が出現しなければならないが、今は彼を「抑えているもの」があるので、彼はまだ出現していない。したがって、主の来臨はまだ将来のことである。定められた時が来て、その「抑えているもの」が取り除かれると「不法の者」が出現する。その出現した「不法の者」を、栄光の中に来臨される主イエスが滅ぼされる。この時はじめて「主の日が来た」と言えるのだ、という論理です(二・三〜八)。
 この箇所(二・三〜八)は、その論理も表現も典型的なユダヤ教黙示思想そのものです。ユダヤ教黙示思想では、アンテオコス・エピファネスの迫害時に多くの背教者を出したというような体験から、終末が到来する前には厳しい選別が起こるという思想が生まれ、それがその後の黙示文書に繰り返されて、終末前の「背教」の預言となります(たとえばラテン語エズラ記五・一〜一二)。その預言は福音の終末待望の中に受け継がれ、主が来臨される前には惑わす者たちが出現し、多くの民が神に背くようになるという預言になります(マタイ二四・一〇〜一二)。
 そのような終末前の背教の中から、その背教を一身に体現するような「不法の者」が出現します。この「不法の者」は、神の法《ノモス》に対するトータルな反逆により、神の裁きに定められた者、「滅びの子」とも呼ばれます。この神への最終的な反逆者は、「すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言」します(四節)。自分を神とすることこそが、「不法の者」の本質です。
 この「不法の者」がまだ出現しないのは、「彼を抑えているもの」があるからです。この「彼を抑えているもの」が何であるかは、テサロニケの人々はよく知っているものとして、著者は何の説明も加えないで用いています(六節前半)。今「抑えるもの」が彼を抑えているのは、その「不法の者」が神の定められた時に出現するためです(六節後半)。「不法の者」はまだ現れていませんが、すでに「不法の秘密」が働いています。すなわち、「不法の者」の働きがこの世界の中で秘かに進められています。しかし、このような秘かな、隠された形での彼の働きも、「抑えている者が取り除かれるまで」のことであって、その時が来ると「不法の者」は顕わな姿で出現します(七節と八節前半)。こうして、定められた時に出現した「不法の者」を、主イエスが御自分の口の息(または霊)によって殺し、「彼の来臨の光輝」(直訳)によって滅ぼされます(八節後半)。

ここで問題になるのは、「不法の者」の出現を「抑えているもの」とは何かです。六節では中性単数名詞で「抑えているもの」と訳されていますが、七節では男性単数名詞で「抑えている者」と訳されています(新共同訳)。伝統的に、これはローマ帝国とかローマ皇帝と理解されてきましたが、最近はこの解釈に疑問が提起され、実に様々な解釈が提案されています。しかし、どれも困難を抱えていて、当時の人たち(著者と読者)がこれをどう理解していたのかを知ることはほとんど不可能です。

 キリストの来臨が遅れており、世界がこのままの状況で進むという現実を、当時の黙示思想の枠組みで考える人たちは、この「抑えているもの」の理論で説明したのではないかと考えられます。パウロが第一書簡を書いたときには、キリストの来臨は切迫したものとして待望されており、このような説明の余地も必要もありませんでした。ここにも、第二書簡の状況がパウロの時とは違ったものであることが示されています。
 続いて、神に敵対し、神の民を滅ぼそうとするサタンの働きも、終末が近づくにつれてますます顕わに神の働きと対抗し、メシアと使徒たちの働きを模倣して進められることが指摘されます。「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです」(九節〜一〇節前半)。これも黙示思想的終末図式の一つです。この図式は、共観福音書の黙示思想的終末待望(マルコ福音書一三章とその並行箇所)にも繰り返し現れます。そのようなサタンの働きに惑わされて、偽りを信じ、「自分たちの救いとなる真理」、すなわちキリストの福音を信じなかった人たちの滅びが描かれて、この段落が締め括られます(一〇節後半〜一二節)。

キリストの来臨を前にして

 このような黙示録的時間表を用いて来臨はまだ将来のことであるとした上で、著者はその来臨の日に備えて生活するための心構えを説きます(二・一三〜一七)。この書簡では滅びも救いもキリストの来臨時の裁きにおける出来事とされていて、現在は「滅びに向かっている人たち」と「救いに向かって初穂として選ばれた」者たちとの対比として描かれます。神は、パウロたちが告知した福音によって、あなたたちを主イエス・キリストの栄光にあずからせるために招き、御霊の清めと真理の信仰によって初穂として選ばれたのであるから、滅びに向かっている世の人たちと同じようにならず、いつも善い働きをなし、善い言葉を語るようにと説き勧めます。
 さらに著者は、来臨を前にして怠惰な生活をしないように警告します(三・六〜一五)。自ら手仕事をして福音活動をしたパウロを実例として引き合いに出して、「自分で得たパンを食べ、落ち着いて仕事をするように」命じます(一二節)。それは、集会に「怠惰な生活をして、少しも働かず、余計なことをしている者がいる」と聞いたからです。来臨待望の熱心または動揺と怠惰な生活の関係については、来臨を熱心に待望するあまり地上の生活に無関心になったのか、来臨待望が動揺した結果、信仰が崩壊し無気力とか自棄的になったのか、様々に推察されていますが確実なことは分かりません。
 以上に見たように、テサロニケ第二書簡の存在は、エーゲ海地域のパウロ系共同体にはこの時期にも、黙示思想的な《パルーシア》待望が底流としてあったことを証言しています。

W 牧会書簡における共同体秩序

「牧会書簡」について

 パウロ書簡集に個人に宛てられた手紙が四つ収められています。その中でフィレモン書は一人の奴隷の扱いについてパウロがその主人に宛てた依頼の手紙であって、全く私的な用件の手紙ですが、他の三つ、すなわちテモテに宛てた二通とテトスに宛てた一通は、その内容が私的な用件ではなく、集会の指導という信仰上の問題を扱っており、集会での公の朗読を予想しているという点で共通しています。この三通は、集会を指導するという牧者の責任を担う者(テモテとテトス)に、使徒パウロが牧会の仕方を指示しているという点で内容が共通しているので、「牧会書簡」という名で一括して扱われます。

私的な書簡のフィレモン書が正典に入っている事情については、拙著『パウロによるキリストの福音V』の「第五章 奴隷も自由人もない(フィレモン書)」を参照してください。

 この牧会三書簡は、内容が共通しているだけでなく、用語や文体に共通点が多く、同じ著者によって、同じ時期に、同じ目的のために書かれたと見られて、普通一括して扱われます。わたしの著作『パウロ以後のキリストの福音』の「第七章 キリストの民の形 ― 牧会書簡におけるキリストとその民」においても、三書簡を一体として扱いました。しかし、この一括扱いには問題があります。三書簡の中で、テトス書とテモテ第一書簡が共通点を多くもち、それらが非パウロ的であり、パウロ名書簡であることはほぼ確実であるのに対して、テモテ第二書簡は他の二書簡とは違い、むしろパウロ書簡と共通点が多いことから、(少なくとも核心部分は)パウロの真正の獄中書簡である可能性があります。先に(拙著『福音の史的展開T』478頁の「補説 パウロの最後についての牧会書簡の証言」で)テモテ第二書簡を、最後のローマでの獄中でパウロが書いた手紙として扱って、パウロの最後の日々を見ましたので、ここではテトス書とテモテ第一書簡をパウロ名書簡として扱い、パウロ以後の時期の福音とキリスト者共同体の姿を見ることにします。この二書簡については、通常「牧会書簡」について言われているように、その成立は一世紀末か二世紀初めという、相当遅い時期の成立が推定されます。以下、この両書を「牧会二書簡」と呼んで議論を進めます。

Murphy-O'ConnorはテモテUの真正性を擁護する議論の中で、それを偽書とする議論の多くが、テトス書とテモテ書Tについての議論を根拠としているとし、方法論上の誤りを指摘しています。 詳しくは、J.Murphy-O'Connor, PAUL, A Critical Life, 1996 p.357 を参照してください。

牧会二書簡におけるキリストの福音

 テトス書において、著者は最後に「善い行いの勧め」(三・一〜一一)をしていますが、その中にこの時期のパウロ系共同体の信仰告白ともいうべき文がありますので、それを引用しておきます。

 「けれども、わたしたちの救い主なる神の慈しみと人間への愛が現れたとき、わたしたちが行った義の業によるのではなく、御自身の憐れみによって、神はわたしたちを救ってくださいました。この救いは、再生の洗いと聖霊の新生によるもので、神はこの聖霊をわたしたちの救い主イエス・キリストによって豊かにわたしたちに注いでくださったのです。こうして、わたしたちはキリストの恩恵によって義とされて、永遠の命の希望に基づく相続人となったのです」。(テトス三・四〜七 私訳)

 著者は、パウロがローマ書一三章でしているように、「支配者や権威に服し、これに従う」ように求めた上で、無条件に善い行いをするように勧めます(一〜二節)。そして、悪の塊であった自分たちが(三節)、神の恩恵によって救われ変えられたのだという、キリストにおける救いの告白が引用されます。この詩の形の告白文(四〜七節)は、当時の洗礼告白文であった可能性がありますが、その内容は、パウロ以後のパウロ系集会における福音理解を言い表している定型的な告白文として重要です。これが「信仰告白」であったことは、それが「この言葉は信実です」(八節冒頭)という句で終わっていることからも分かります。
 ここには「わたしたちの救い主なる神」とか、「人間への愛」とか「再生の洗い」というような、ほとんどここだけにしか出てこない特殊な用語や表現が用いられていて、付加があったことをうかがわせますが、その内容はまったくパウロ的であり、パウロの恩恵の福音が信仰告白として継承されていることが示されています(テモテT一・一二〜一七も参照)。とくに救いが「聖霊の新生(聖霊によって新しくされること)」によるとされていること、およびその聖霊が「救い主イエス・キリストによって」与えられるものであることが明言されていることは、この時期にはまだ聖霊の働きが救いの基本的な内容であることが見失われていないことを示しています。しかしそれが、おそらくバプテスマを指す「再生の洗い」と一つにされているところに、パウロ以後の状況が示唆されています。パウロは聖霊を受けることをただ信仰によるものとし、バプテスマとは関連づけていません(ガラテヤ三・二、コリントT一・一七)。
 この「信仰告白」を疑うことなく受け容れて「良い行いに励む」ことこそが神の民にふさわしい生き方であり(八節)、この告白を超えて「愚かな議論、系図の詮索、論争、律法についての論議」などにふけることは有害無益であり、このような議論で集会に分裂を引き起こす者にかかわらないように警告されます(九〜一一節)。ここで警戒されている「議論」は、その内容には触れられていませんが、おそらく当時(一世紀末から二世紀にかけての時期)キリストの民の共同体に入り込んできたグノーシス主義的な教説をさしているものと考えられます。
 このグノーシス主義的な傾向に対する警告は、テモテ第一書簡でも重要な主題です。この書簡も「作り話や切りのない系図」に心を奪われ「異なる教え」を説く人たちに対する警戒から始まります(テモテT一・三〜七)。

 「あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします」。(テモテT一・三〜四)

 ここの「作り話」の原語は《ミュトス》(神話)です。前世紀に発見されたナグ・ハマディ文書などからグノーシス主義派の諸文書の内容が明らかになりましたが、それを見ますと、人間の救済に関して実に複雑で多彩な神話的な物語が展開されており、その神話世界では存在界と救済の働きを担う神的存在の系譜が限りなくたどられています。著者はこのような神話的な物語を「異なる教え」として切り捨て、「信仰による神の救いの計画の実現」に身を委ねるように説き勧めます。「救いの計画の実現」と訳されている原語は《オイコノミア》ですが、この語は(先にエフェソ一・一〇の講解で述べたように)救済史において中心的な位置を占める用語です。後(二世紀末)にグノーシス主義に反対して『異端論駁』を書いたエイレナイオスが救済史神学を確立しますが、グノーシス主義的救済神話と聖書的救済史神学の対立は、すでにこの牧会二書簡の時から始まっています。

グノーシス主義派の「神話と系図」がいかに複雑で「切りのない」ものかについては、『救済神話―ナグ・ハマディ文書T』(荒井・大貫・小林訳、岩波書店)を一見すればよく分かります。

牧会二書簡における集会秩序

 牧会二書簡は共通して、監督や長老など集会の制度的な面や、共同体基金の運用など、集会の秩序について強い関心を示しています。テトス書(一・五〜九)では、町ごとに「長老たち」が立てられることになっていますが、その「長老たち」の資格が述べられているところに突然「監督」(単数形)という名称が現れます。この二つの名称について様々な理解の仕方が提案されていますが、両者に求められている資格が重複していないことから、両者は別の役職名ではなく、「長老」の管理者としての任務が「上に立って監督する者」という名詞で表現されていると考えられます。すなわち、「監督」は「長老」とは別の役職名ではなく、「長老」の管理者としての働きの表現です。「監督」が単数形であるのは、六節で長老の資格を論じるところでは、すべて単数形が用いられていることの延長です。なお、初期においては集会《エクレーシア》は「家の集会」という形をとっていましたから、指導者の資格も、牧会書簡では「よき家長」として描かれることになります。
 テモテ書T(三・一〜一三)では「監督」と「奉仕者」という名称が現れます。「監督」は単数形で現れていますが、(イグナティオス書簡のように)とくに一人でなければならないとは要求されていません。「家の集会」というような小さな共同体では、一人であることは当然だったことでしょう。「奉仕者」は複数形で扱われており、「女性の奉仕者」もいたことが明記されています。「奉仕者」は監督を補佐して、集会の実際の運営に当たった人たちでしょう。
 テモテ書Tには「長老」という地位は出てきませんが、テトス書では「監督」も「奉仕者」もなくて「長老」だけが出てきます。それで、この三者の関係が問題になり、様々な議論がされることになります。一つの可能性として、テトス書の宛先地のクレタの集会はおもにユダヤ人からなる集会であったので、ユダヤ人の共同体に普通の「長老」による指導体制を形成しましたが、テモテ書の宛先地のエフェソではおもに異邦人の集会であったので、ヘレニズム世界に一般的な「監督」による指導体制を形成し、それに独自の「奉仕者」という補佐役が加えられたと考えられます。「監督と奉仕者」という組み合わせは、すでにパウロの時代にも現れています(フィリピ一・一)。
 両書で監督、長老、奉仕者に求められている資格は、当時のヘレニズム社会で一般的な徳目を備えている立派な人格者でなければならないということです。パウロ書簡に見られた《カリスマ》(御霊の賜物・能力)によるのではなく、社会的人徳が条件となっています。これは、キリスト者の共同体が周囲の人々から非難されることのないようにしようとする、この時期の護教的姿勢(これについては後述)の現れです。

牧会二書簡における「信仰」の質

 牧会二書簡の著者は、パウロの継承者として、パウロが告知した福音を忠実に伝えています。それは、先にテトス書(三・四〜七)に引用されている告白文で見たとおりです。しかし、その信仰の質には、時の経過と状況の変化と共に、パウロ書簡における信仰とは微妙な距離も見られるようになっています。
 牧会二書簡では、一定の形式をもった告白文が、使徒から伝えられた権威ある「真理」として確立しており、「この言葉は信実です」という断定的な宣言句を伴って出てきます。牧会書簡における信仰は、そのように権威あるものとして確立している「真理」とか「健全な言葉」を受け容れて告白し、健全な生活をするというような意味になっており、パウロ書簡におけるような霊なるキリストとの交わりという生き生きとした霊的体験の質が希薄になっています。このような質の信仰を指すのに、「敬虔、信心」《エウセベイア》という用語が多く用いられるようになります(一〇回)。この点でパウロ書簡との距離を感じざるをえません。
 パウロは「異なる教え」の誤りを正面から論じて、福音の正しい理解に導く努力をしています。コロサイ・エフェソ書にはまだ議論する傾向が残っていますが、牧会書簡になると「異なる教え」を説く者と議論すること自体が禁じられます。たとえば、死者の復活を否定する者たちに対して、パウロはコリント第一書簡(一五章)で詳しい議論を展開していますが、牧会書簡では何の議論もなく、「真理の道を踏み外した者」として切り捨てられています(テモテU二・一八)。牧会書簡は繰り返し、「異なる教え」を説く者の「作り話や切りのない系図」に関わらないように警告し、彼らとの議論を有害無益なものとして禁じています。
 パウロは聖書(旧約聖書)が神からの啓示であることを当然とし、聖書を権威とし、また拠り所として議論を進めています。それに対して、牧会書簡は使徒パウロの権威を拠り所としています。著者は自分の議論を進めるさいに、旧約聖書を引用したり論拠にすることはほとんどありません。著者が基準としているのは聖書ではなく、使徒パウロの体験と言説であり、周囲のヘレニズム世界のモラルです。著者は、キリストの民が周囲のヘレニズム社会の基準から見て「健全な」生活をするように求め、とくに監督、長老、奉仕者というような集会を代表する立場の人たちに、高い水準で満たすように求めています。牧会書簡の勧告には、敵を愛するとか、善をもって悪に報いるというような福音独自の勧告はありません。終末的待望の用語は出てきますが、その待望がキリスト者の生き方を決めているという痕跡はごく僅かです。
 なお、牧会書簡を通読して、祭儀的な面が何も触れられていないことに気づきます。旧約聖書の祭儀が問題にならないのは、キリストの民がユダヤ教の枠の外に完全に出てしまっている時期の著作として当然ですが、当時のエクレシアで行われていたはずのバプテスマや聖餐の儀礼についても触れられていないことが目立ちます。ほぼ同時代のイグナティオス書簡がこれらのサクラメントの有効性と結びつけて司教の重要性を強調しているのと対比すると、牧会書簡の沈黙は目立ちます。著者はこの点について問題を感じていなかったのでしょう。
 パウロは女性が集会で祈ったり預言したりすることを認めています(コリントT一一・二〜一六)。ところが、牧会書簡は女性が集会で教えることを禁じています。これは、当時のローマ社会が男性家長の権力が絶対的な家父長制社会であり、既婚女性が公の場で発言することを嫌う傾向があったので、社会の倫理規範に合わせたという面もあるのでしょうが、女性が集会で教えたり礼典を執り行うことを認めていたグノーシス派に対抗するためという動機も強かったのではないかと考えられます。

パウロ書簡には女性が集会で発言することを禁止する文もあります(コリントT一四・三三〜三六)。これは女性が集会で祈ったり預言したりすることを認めている文(コリントT一一・二〜一六)と矛盾するので、発言禁止の文を牧会書簡(テモテT二・一一〜一二)に基づいて後から挿入された文であると見る説もあります。しかし、集会での女性の発言禁止は特別の場合に対するものであると限定すれば、この部分を本文として残しても解釈可能です。詳しくは拙著『パウロによるキリストの福音U』232頁の「集会における婦人」の項を参照してください。

 女性に沈黙を命じる根拠として、著者はアダムとエヴァの物語を論拠にしますが(テモテT二・一二〜一五)、女性だけに罪の責任があるかのような偏った解釈をしています。「牧会書簡がなければ、新約聖書ははるかに女性に友好的なものとなるだろう」(タイセン)と嘆かれることになります。このような女性観は、ローマの家父長制社会とかグノーシス派への対抗というような時代の状況に規定されたもので、正典にあるからといって絶対化するのは誤りです。男性と女性の関係については、「キリストにあっては男も女もない」(ガラテヤ三・二八)という大原則に従って、それぞれの特質をもって補い合い助け合う平等の関係を構築すべきです。
 牧会書簡は用語と文体においてルカ文書と親近性があります。用語と文体だけでなく、両者はその護教的姿勢において共通しています。護教的姿勢というのは、信仰者の共同体が一定の規模となり、社会的に注目される段階になったとき、批判的な外の社会に対して自分たちの信仰と存在の正統性を弁証して、社会からの認証を得ようとする姿勢です。牧会書簡は、共同体自身が社会的認証を得られる姿になるように内部の人たちに働きかけています。それに対して、ルカ文書は外の人たちに、自分たちの信仰と共同体の成立がいかに正統なものであるかを示すために書かれたという面があります。このようにして始まった護教活動は、二世紀になって、ローマ社会に向かってキリスト信仰の正統性を論じる文書を書く、ユスティノスらの「護教家」に引き継がれていくことになります。