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まえがき

 本書は「福音の史的展開」という標題ですが、はじめに本書の内容と性格について簡単にお断りをしておきます。
 福音とは、神が主イエス・キリストの出来事、とくに十字架の死と復活の出来事において、わたしたち人間の救いを成し遂げてくださったという告知であり、またその告知を宣べ伝える活動です。神の救いの出来事は、イエスの生涯だけでなく、それを準備するイスラエル二千年の歴史と、その福音告知の活動が始まってから現在に至る二千年のキリスト教の歴史の中で展開されています。従って、「福音の史的展開」とは、広い意味ではその歴史の全体を含むことになります。しかし、そのような膨大な内容を一個人が、一つの著作で扱うことはできませんので、本書では、イエスの復活後に開始された福音告知の活動の最初期だけを扱います。それは、この時期に福音がもっとも純粋にその姿を現しており、範例的な意義を持っているからです。
 ここで「最初期」というのは、イエスの復活後、この福音告知の活動が始まってから、新約聖書に収められている諸文書が成立する期間を指しています。具体的には、新約聖書のもっとも遅い文書の成立がほぼ二世紀初頭であると考えられるので、30年のイエスの十字架と復活からほぼ百年の期間を指します。この時期を「新約聖書時代」と呼ぶことにします。
 この「最初期」は、ユダヤ戦争におけるエルサレムの陥落・神殿の崩壊(70年)を境として、前期と後期に分かれます。前期は、ほぼイエスの弟子である使徒たちが活躍した時期であり、使徒時代と呼べるでしょう。後期は、使徒たちの後継者が活動した時期であり、使徒後時代、正確には使徒直後時代ということになります。
 ルカもこの時期を代々の《エクレーシア》にとって範例となる時期として「使徒言行録」を書いていますが、ルカは前期しか扱っていません。それも前期のすべてではなく、パウロのローマ到着までです。これは、拙著『ルカ福音書講解T』の序論「ルカ二部作の成立」で見ましたように、ルカの著作意図から出たことです。しかし、新約聖書全体がわたしたちの福音理解の基準とされるのであれば、現代のわれわれは新約聖書文書の成立時期全体を扱うべきであると考え、本書では前期だけでなく、後期も含めて「新約聖書時代」を扱うことにします。
 前期を扱うさいの資料としては「使徒言行録」があります。しかし、本書は使徒言行録を講解するのではなく、使徒言行録を批判的に検討して資料として用い、この時期の福音運動の実像に迫りたいと願っています。この時期に関しては、パウロ書簡という一次資料もあるので、この一次資料の視点からルカの使徒言行録の記述の意義を理解することも重要な作業になると考えます。したがって、使徒言行録はその全体の講解ではなく、前期の歴史の資料とすると共に、ルカの意図や福音理解(神学)を明らかにするのに有益で必要な形での(部分的な)取り扱いになると思います。
 後期については、その歴史を記述した使徒言行録のような著作はありませんので、その時代に成立した文書を資料として、その時期の福音の展開を追わなければなりません。そのさい、新約聖書の多くの文書がこの時期に成立していますので、それを資料として用います。さらに、新約聖書の外にもこの時期に成立した文書がありますので、それも併せて用いて、この時期の福音の史的展開をたどることになります。

 福音はキリストの出来事を告知する言葉ですが、その言葉は(パウロが言うように)「信じる者を救いに至らせる神の力」です。そして、その言葉の告知は、一度なされたら文書に書きとどめられて固定され、以後はそれを読んでその内容を信じればよいという性格の言葉ではありません。その言葉は、人から人へ直接語りかける形で伝えられる性格の言葉です。すなわち、その福音の現実に生きる証人から、救いを必要とする周囲の人々に語りかけるという形で伝えられていくとき、そこに働く聖霊の力によって、「救いに至らせる神の力」としての姿を現します。
 そうすると、語る人も聴く人もある具体的な歴史的状況に生きる人間ですから、そこで語られる福音にはその歴史的状況の刻印が刻み込まれることになります。周囲のユダヤ教徒のパレスチナ農民に語りかけるイエスの言葉と、ヘレニズム都市の異教徒の市民に語りかけるパウロの言葉は同じではありません。新約聖書には実に様々な異なった歴史的状況においてなされた福音の証言が含まれています。その様々な歴史的状況から生じる表現の違いを貫いて一貫している福音の本質を見極めることができてはじめて、「福音とは何か」という問いに答えたことになります。
 これは決して容易な課題ではありません。本書は、この課題に取り組み、「福音とは何か」という問いに答えようとする努力の一つです。この困難な課題に取り組むために複雑な議論を進めなければなりませんが、読者の便宜のため本論の前に、福音とその証言である新約聖書について簡潔にまとめた二つの論稿を序論として置いておきます。序論1の「福音とは何か」は、この問いに対する答えをもっとも簡潔な形にまとめたものであり、本書における福音理解の基本的な視点を述べています。序論2の「新約聖書における多様性と一体性」は、著者の新約聖書理解の基本的な視点を提示しており、また、本書の内容の見取り図になると思います。本論は上巻(T)と下巻(U)に分かれます。上巻では前期(使徒時代)を扱い、下巻では後期(使徒後時代)を扱うことになります。

 「福音とは何か」という問いを追究したこのささやかな努力が、この国の福音の進展のために役立つことを切に願って、本書をお届けします。

二〇一〇年 六月
               京都の古い町並みの中から
                    市 川 喜 一