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第四章 パウロの異邦人伝道




第一節 パウロによる異邦人共同体の形成

はじめに

 第四章において異邦人伝道の主要な担い手となった使徒パウロが告知した「キリストの福音」の内容を見ることになりますが、その準備として本節でパウロの異邦人への福音活動を概観し、パウロの福音が告知された歴史的状況を見ておきたいと思います。実は、使徒パウロの福音活動については、前著『パウロによるキリストの福音T、U、V』においてやや詳しく見ました。本節はその要約となりますが、パウロの福音を理解するためには、その福音が成立した歴史的な場の理解が必要ですので、繰り返しをいとわず、本書「福音の史的展開」でも取り上げることにします。
 ただし、パウロの生い立ち、ユダヤ教の教師として活躍した時代、回心の体験、アンティオキア共同体の指導的メンバーとして活動した時期(キプロスとガラテヤ州南部での福音活動を含む)のことは、すでに第二章と第三章で扱っていますので、ここではパウロがアンティオキア共同体から離れて独立で福音活動を進め、おもに異邦人からなる共同体をエーゲ海地域に形成した時期の活動に限ります。この時期こそ、パウロの福音活動がもっとも充実した姿を現し、パウロのキリスト信仰の唯一の資料であるパウロ書簡が生み出された時期となります。

T 独立の福音活動の開始

アンティオキア共同体からの独立

 パウロは回心後、ダマスコ、タルソス、アンティオキアを拠点にして、そのような地域の中心都市と周辺の諸地域に福音を告知する活動を進めます。ダマスコでのパウロの回心はイエスの十字架の三年後の三三年と見られ、「それから(足かけ)三年後」、すなわち三五年にエルサレムに上りペトロと会い、ギリシア語系ユダヤ人の会堂で激しく論争し、迫害されてタルソスに逃れます。回心からエルサレムに上るまでの期間も、ダマスコだけでなく、アラビアのナバテア王国で(おそらくその首都ペトラで)活動しています。タルソスに来てからも周辺のキリキヤ州の諸地域で福音活動をしたと考えられます。そして、三九年か四〇年頃に、バルナバに連れられてアンティオキアに来て、バルナバと共にアンティオキア共同体の指導的メンバーとして活動し、周辺のシリア州諸地域に福音を宣べ伝えます。その時期の活動の代表的事例として、パウロがバルナバと一緒に行ったキプロスとガラテヤ州南部諸都市の伝道活動が、パウロの最初の伝道旅行として、ルカによって詳しく記録されています(一三〜一四章)。
 ところが、先に見たように、アンティオキア集会におけるユダヤ人と異邦人の食卓での交わりをめぐる論争で、パウロはバルナバと対立して孤立します。この事件は四九年と見られますので、パウロは一〇年間ほどアンティオキア共同体の一員として活動していたことになります。この共同の食卓をめぐる問題で、アンティオキアに来ていたペトロとも対立するに至ったパウロは、アンティオキアを出て独自の福音活動に乗り出します。共同体の中での一致、とくに指導的な働き人たちの間の一致を描きたいルカは、この食卓での交わりの問題を伝えていません。パウロがアンティオキアを離れて福音活動を始めた経緯についても、それをマルコを連れて行くかどうかの問題で、パウロとバルナバの意見が違ったからだとして、次のように書いています。

 数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか」。バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。(一五・三六〜四〇)

 パウロとバルナバのように深く理解し合い信頼し合っている盟友が、一人の若者を連れて行くかどうかで意見が違ったぐらいで激しく衝突し、別行動をとるようになったとは考えられません。パウロはなおバルナバを信頼していたとしても、食卓の問題からアンティオキア共同体全体がペトロの権威の下に立つことを選び、パウロと対立するに至った以上、パウロはもはやアンティオキア共同体にとどまることはできなくなります。パウロは同労者としてシラスを選び、アンティオキアを後にします。

マルコがパンフィリア州でパウロとバルナバと別れてエルサレムに帰った事情について、また、同労者として選んだシラスについては、すでに本書365頁「パウロの孤立」の項で扱っていますので、ここではパウロがアンティオキアを去った後のことから扱います。

 以前にパウロがバルナバと一緒に行ったキプロスとガラテヤ州南部諸都市への福音活動(いわゆる「第一次伝道旅行」)は、アンティオキア集会から送り出され、アンティオキア集会に戻ってきて報告するという形で、すなわちアンティオキア集会の福音活動の一環として行われていました。それに対して、これからのパウロとその一行の福音活動はもはやアンティオキア集会とは関係なく、パウロ一行の独立の福音活動として行われます。これ以後に書かれたパウロの手紙では、食卓問題に触れる一箇所(ガラテヤ二・一一)以外には「アンティオキア」という名前は出てこなくなります。一〇年も活動を共にしたアンティオキア集会のことに全然触れないという事実に、パウロの辛い思いが示唆されているように思われます。

これ以後のパウロの福音活動は「第二次伝道旅行」とか「第三次伝道旅行」と呼ばれています。しかし、アンティオキア集会の福音活動の一環として行われたものと、パウロ一行の独立の福音活動という性格の違う活動を同列に並べて呼ぶことは問題がありますが、便宜上慣例の呼び方に従います。

 先にバルナバと一緒に行ったキプロスとガラテヤ州南部諸都市への福音活動は、その費用を(比較的富裕な)アンティオキア共同体が提供していたと考えられます。短い期間に多くの都市を回って活動しているので、その間にパウロが手仕事をして経費を自給したということは考えにくく、またそれを示唆する記事もありません。それに対して、この時以後の福音活動にはパウロ自身が天幕生地の手仕事をして生活費や活動経費をまかない、独立自給の活動を進めたことを示す記事が多くなります。その実態については、それぞれの記事が出てくるところで触れることにして、ここではこの時以後のパウロの福音活動が独立自給の活動であったことを指摘するだけで先に進むことにします。この時の出発については、「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した」とあるのも、もはやアンティオキア共同体がサポートするのではなく、二人を主の配慮だけに委ねるという意味が示唆されているように思われます。

ガラテヤ州での福音活動

 アンティオキアを出発したパウロとシラスがどのような行程を進んだのかは語られていません。二人は「シリア州やキリキア州を回って諸集会を力づけた」(一五・四一)とあるだけです。おそらく二人は以前に形成したシリア州の諸集会を訪れた後、イッソス湾に沿って陸路タルソスに行き、タルソスと周辺のキリキア州の諸集会を訪れ、そのまま北上してタウルス山脈を越え、先に伝道したガラテヤ州南部諸都市を(その時とは逆の順序で)訪れます。
 最初にその諸都市の中で一番南西にあるデルベに達し、そこからリストラに進みます。「そこで」、すなわちリストラでテモテという「弟子」に会い、彼をチームの一員に加えます。「弟子」というのは、イエスを信じて従う者を指す最初期共同体での呼び方です。テモテは、おそらく先にパウロとバルナバがリストラで福音を伝えたとき、信仰に入った青年であろうと見られます。その後、リストラと近くのイコニオンで活発に活動し、彼の活動はこの地域の兄弟たちに評判になっていたようです。パウロはこの青年テモテを見込んで、一行に加えます。
 パウロはテモテを自分のチームに加えるにあたって、彼に割礼を授けます(一六・三)。テモテの父親はギリシア人であり、母親がユダヤ人でした(テモテU一・五)。その場合、ユダヤ教では子はユダヤ人と見なされますが、父親が反対したためか、テモテは割礼を受けていませんでした。パウロは「その地方に住むユダヤ人の手前」テモテに割礼を施します。父親の反対がなかったのは、この時には父親が亡くなっていたからだと推察されます。パウロはこの時の福音活動でも、まずユダヤ人に福音を宣べ伝えることにしていたので、テモテがユダヤ人に語りかける十分な資格があるとユダヤ人から認められるように、割礼を授けたものと考えられます。
 パウロの割礼に対する原則(ガラテヤ二・三〜五、五・一一〜一二、コリントT七・一八)からすれば、すでにバプテスマを受けて信仰を告白している無割礼の信者に、改めて割礼を受けるように求めることはありえないとして、ルカの報告の歴史性を否定する学者も多くいます。たしかにパウロは異邦人への割礼は厳しく拒否していますが、テモテをユダヤ人として扱い、これからのユダヤ人伝道にさいしてユダヤ人社会に制限なく入って行くために伝道の方策として(コリントT九・二〇)、テモテに割礼を施したと考えられます。
 今やテモテを加えたパウロの一行三人は、ガラテヤ州南部のルカオニア地方の諸都市(デルベ、リストラ、イコニオン)から西に向かい、ピシディアのアンティオキアを経て、すぐ西に隣接するアジア州を目指します。アジア州はエフェソを中心とする地域で、古くからのギリシア植民都市が多くあり、ユダヤ人も多数住んでいたので、パウロの伝道地としては適切な候補地でした。事実、パウロは後に(第三次伝道旅行のさい)エフェソに二年ほど滞在して伝道し、アジア州の諸都市に有力な集会を設立しています。しかし、この時は何らかの事情に妨げられて予定を変更し、北に向かって旅を続け、フィリギア地方の西部を経て、ガラテヤ州北部のガラテヤ地方を通ります。
 「ガラテヤ地方」というのはアンキュラ(現在のトルコの首都アンカラ)を中心とする小アジア中央部の内陸地域で、前三世紀以来ヨーロッパから渡ってきたケルト諸族が定住していました。「ガラテヤ人」というのは本来このケルト系の人々を指す言葉であり、彼らの居住地域が「ガラテヤ」と呼ばれたのでした。ケルト系の人々は勇猛で傭兵として活躍することが多かったようです。ケルト系の人々の居住地域として、ガラテヤ地方は人種的にも文化的にも周囲の地域とは異質の色彩が強く、ギリシア化も遅れていたようです。しかし、ガラテヤ王国は前二五年に滅び、ローマの支配下に入りました。ローマはガラテヤ地方と南のルカオニア地方や近隣の地域を加えて「ガラテヤ州」としました(ローマの属州としての行政上の「ガラテヤ州」と地域名としての「ガラテヤ地方」を混同しないことが必要です)。
 パウロがなぜアジア州に向かう予定を変えて、伝道地としてはあまり適切でないと見られるガラテヤ地方に向かったのかは謎です。ルカはそれを「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」(一六・六)と表現しています。おそらく、パウロと一行の祈りの中で何らかの強い聖霊の迫りがあって、アジア州に向かう自分たちの計画を断念することが主の御心であると悟ったのでしょう。
 ルカはガラテヤ地方を通ったことを報告するだけですが、この時パウロは何かの事情でこの地方にしばらく滞在することを余儀なくされ、その間に福音を語り、同労者たちの働きもあって、この地方に信じる者の群れが形成されたようです。パウロがある期間滞在することを余儀なくされた事情については、後にパウロがガラテヤの人々に手紙を書いたときにこう言っています。

 「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」。(ガラテヤ四・一三)

 パウロは決して身体頑健な偉丈夫ではなかったようです。むしろ外見は弱々しく(コリントU一〇・一〇)、何か発作を伴うような持病をかかえていたようです(コリントU一二・一七)。山岳地帯の長旅で体が弱り、ガラテヤ地方ではしばらく滞在して(おそらく越冬して)休養し、体力の回復を待たなければならない状況であったと推察されます。その間、ガラテヤの人々はパウロが語る福音に熱心に耳を傾けただけでなく、病むパウロを温かい心で受け入れ、パウロと一行に尽くしたのです(ガラテヤ四・一五〜一六)。こうして「ガラテヤ地方」にもキリストの民の集会が形成されます。この諸集会は、「ガリラヤ州南部の諸都市の集会」とは区別されなければなりません。

U マケドニア州での福音活動

トロアスの幻

 ガラテヤ地方にしばらく滞在して宣教活動を続けた一行は、その地に成立した集会を後に残して出発し、西に向かいます。小アジア西端のミシア地方の近くまで来て北に向かい、ビティニア州に入ろうとします。ところが、再び「イエスの霊がそれを許さなかった」ので、そのまま西進し、ミシア地方を通って小アジア北西端の港町トロアスに到着します(一六・六〜八)。
 トロアスでパウロは夜の祈りの中で幻を見ます。その幻の中に一人のマケドニア人が現れ、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」とパウロに願います。その幻を見て、パウロはマケドニア人に福音を宣べ伝えるように神から召されているのだと確信し、ただちにマケドニアへ向けて出発した、とルカは伝えています(一六・九〜一〇)。
 パウロの行程についてはすでに「聖霊から禁じられた」とか「イエスの霊がそれを許さなかった」と語られ、またここで幻によって目的地が与えられたとされています。このような霊的体験については現代の学者は懐疑的ですが、聖霊に導かれた歩み、聖霊に満たされた祈りにおいては実際に起こることです。パウロ自身「第三の天にまで引き上げられた」体験を証言しています(コリントU一二・二)。初期のキリスト者が聖霊による預言や異言を体験していたことはよく知られている事実でしたし、パウロ自身他の誰よりもこうした霊の賜物に豊かに恵まれていたのでした(コリントT一二章)。パウロは実際何らかの形の幻を見たと考えられます。
 ここ(一六・九〜一〇)で突然初めて「わたしたち」を用いた文体が出現します。すなわち、著者はトロアスからマケドニアに向けて出発した一行に自分を含めているのです。この「わたしたち」を用いた部分(いわゆる「われら章句」)は、フィリピでの活動を伝える一六章一七節まで続くだけで、それ以後は途絶え、ずっと後にパウロが第三次旅行からの帰途にフィリピを訪れるときに再び現れ(二〇・五)、それ以後最後まで、フィリピからミレトスへの旅(二〇・五〜一五)、ミレトスからエルサレムへの旅(二一・一〜一八)、カイザリアからローマへの旅(二七・一〜二八・一六)という旅行記に現れます。そうすると、著者のルカはトロアスでパウロ一行と出会い、ひとまずフィリピまで同行し、パウロがそこを去った後も滞在し、パウロが第三次旅行から帰ってきたときフィリピで再び一行に加わり、終わりまでずっとパウロに付き添ったと推定されます(著者が他人の旅行記を資料として用いた可能性や、著者の文学的虚構であるとする説もありますが、著者自身がこれらの旅行の同行者であるとする古代教会以来の見解を決定的に否定する根拠は乏しいようです)。
 このことからさらに、ルカはマケドニアの人で、ルカがトロアスでパウロに出会ってマケドニアの状況を語ったことが、パウロが「マケドニア人」の幻を見るきっかけとなったという推察もありえます。トロアスでの幻体験がどのような性質のものであれ、パウロは生涯大きなビジョン(幻)を見つづけて、福音の展開にとって決定的な時代を駆け抜けた人物であることは間違いありません。パウロは自分が「異邦人への使徒」として召されていること、すなわち世界の諸民族に福音を宣べ伝える使命を主から与えられていると自覚していました。とくにアンティオキア共同体から離れて独立の宣教活動を開始してからは、パウロの眼差しは世界の中心ローマとその先にある西の果てにまで達していたのです(ローマ一五・二二〜二四)。
 パウロがアンティオキアを出発し、ガラテヤ州を経てビティニア州に入ろうとしたのも、おそらくニコメディア、ビザンティウムを経てエグナティア街道沿いに伝道し、真っ直ぐローマに至ろうとしたのでしょう。ところが、御霊によって経路変更を余儀なくされトロアスに至りますが、そこから海路ネアポリスに渡り、フィリピ、テサロニケとマケドニアの主要都市に伝道することになります。これらの諸都市もみなエグナティア街道沿いにあり、パウロはこの街道をローマに向かって西へと急ぎます。このようなパウロの姿に、パウロが内に抱いていたビジョン(幻)が見えるようです。その後もパウロは何度も経路変更を余儀なくされてローマに到達することはできませんでしたが、パウロはそれを「妨げられたので」と語っています(ローマ一・一三、一五・二二)。パウロは偉大なビジョンの人であったと言えます。

フィリピでの福音活動

 一行はトロアスから海路をとり、サモトラケ島を経由して、トラキア湾(エーゲ海北端部の湾)対岸のネアポリスに上陸します。ここでパウロは初めてヨーロッパの地に足を踏み入れることになります。ネアポリスはエグナティア街道沿いにある港町で、パウロの一行はこの街道を西に急ぎ、最初の都市フィリピに到着し、そこにしばらく滞在することになります。
 フィリピは「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市」であると説明されています。もともとはギリシア人が入植して建てた町ですが、前四世紀にマケドニア王フィリポ二世が「フィリピ」と改名します。前二世紀にローマがマケドニアの支配を打ち破って属州マケドニア州としたとき、フィリピの地はその四地区の第一区とされ、ローマの退役兵士の入植地となります。その後、アウグストゥスが政敵アントニウスを破ったアクティウム海戦の後、彼はアントニウスの退役兵士をこの都市に入植させ、イタリア本土と同じ特権をもつ「植民都市」とします。このような経緯から、フィリピは小都市でありながら、ローマの飛び地のような性格の都市となっていました。
 フィリピでのパウロの福音活動は、他の都市のように安息日にユダヤ人の会堂に入って、まずユダヤ人にイエスがメシアであることを論証するというのではなく、安息日に祈りの場所を求めて町の門を出て川岸に行き、そこに集まった婦人たちに語りかけるという形で始まります(一六・一一〜一五)。フィリピのような小都市では会堂を形成するのに必要な成人男性のユダヤ人十人がいなかったので、会堂がなかったのでしょう。他都市(ティアティラ市)出身の紫布商人のリディアという女性が、パウロの話を聴いて信仰を持ち、家族と共にバプテスマを受けました。この女性は「神をあがめる者」、すなわち異邦人でユダヤ教の教えを聴き、唯一神を礼拝するようになった人(しかし割礼を受けてユダヤ教に改宗するまでには至っていない人――もっとも女性には割礼はありませんでした)でした。パウロの伝道は、このような「神をあがめる」異邦人を多く惹きつけたのです。
 リディアはパウロの一行を自宅に迎え泊まらせます。リディアの家はフィリピにおけるパウロの活動の拠点、広くギリシアと呼ばれる地域の初穂、ヨーロッパの最初の集会となります。この家を核として成長したフィリピの集会は、後にパウロのよき協力者となって、献金を送るなどしてパウロの福音活動を支えます。パウロもこの集会に心のこもった手紙を書き送ります。その手紙からも、フィリピの集会は女性の働きが顕著であったことがうかがえます(フィリピ四・二)。
 使徒言行録(一六・一六〜四〇)によりますと、パウロは占いの霊につかれている女奴隷から占いの霊を追い出したので、彼女の占いで利益を得ている主人に恨まれ、ローマ市民には許されない風習を宣伝する者と訴えられます。広場に集まった群集が騒乱を起こしそうになったので、高官たちは群集の圧力に押されて正規の裁判もなしに、下役(警吏)たちに命じてパウロとシラスを広場で裸にし、鞭打ち、投獄します。高官たちはローマ市民権をもつ者を非合法に鞭打ち投獄したことが明るみに出ることを恐れて、翌朝ひそかにパウロたちを釈放しようとしますが、パウロはローマ市民権を持つ者としての処遇を要求します。すなわち、投獄の不当を認めて謝罪し、高官自身がパウロたちを獄から連れ出すように求めます。こうして名誉を回復した後、高官たちの要請によってフィリピを去ることになります。

パウロのローマ市民権については、拙著『パウロによるキリストの福音T』284頁の注記を参照してください。

 パウロとシラスが引き渡された「高官たち」というのは、植民都市フィリピの司法・行政を執行する二人の「都市政務官」のことです。パウロたちが群集の騒乱に巻き込まれて投獄されるに至った背景には、直前にクラディウス帝がローマからユダヤ人を追放したこともあって(四九年)、ローマに直結する植民都市フィリピでも反ユダヤ感情が高まっていたことが考えられます。パウロたちは、ユダヤ人であること、騒乱を持ち込む者、またローマ帝国の市民に許されない宗教風習を宣伝する者として訴えられています(一六・二〇〜二一)。
 このように、フィリピでのパウロの受難は、使徒言行録ではルカによってかなり脚色されていますが、パウロ自身の証言によって事実であることが確証されます。すなわち、パウロはフィリピのすぐ後に伝道したテサロニケの信者に、こう書き送っています。「知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」(テサロニケT二・二)。「辱められた」というのは、広場で裸にされて鞭打たれたことを指すのでしょう。パウロは他の箇所で「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度」(コリントU一一・二四〜二五)と言っていますが、後の三度はユダヤ人以外、すなわち異邦人からの鞭打ちを指しますので、この三度の中にパウロはフィリピで受けた鞭打ちを数えているのでしょう。
 夜中にパウロとシラスが賛美を歌っていたとき、大地震があって獄の戸が開き、鎖も外れたので、囚人が逃げたと思って自殺を図った看守に、パウロが福音を語り、看守とその家族が回心したという物語(一六・二五〜三四)は、話の本筋にややぎこちなく挿入された挿話であると見られます。三四節ではパウロたちは看守の家にいますが、三五節以下ではまだ牢にいます。三五節以下は二四節(または二三節)に自然に接続します。この挿話は、ペトロとパウロを対等に描こうとするルカの意図から、ペトロの脱獄物語(一二・一〜一九)に相応するパウロの奇跡的脱獄として、ここに置かれたのでしょう。ルカはパウロの奇跡的脱獄を語り伝える伝承に看守の劇的な回心物語を加えて、この挿話を形成しています。パウロの投獄と釈放にさいして、この物語の核になる出来事があったのでしょう。それがフィリピの集会で語り伝えられてルカの知るところとなり、この記事になったと考えられます。

テサロニケでの福音活動

 フィリピを発ったパウロの一行は、マケドニア州の州都であるテサロニケを目指します。途中にアムピポリスやアポロニアなどの都市がありますが、通過するだけ(あるいは宿泊するだけ)で、一行は西へ急ぎ、テサロニケに到着します。
 州都テサロニケは大都会であって、多くのユダヤ人が居住しており、ユダヤ人の会堂がありました。パウロはユダヤ人の会堂に入り、メシアは苦しみを受け、死者の中から復活するように定められていること、十字架につけられたイエスこそこのメシアであることを宣べ伝えます。その結果、信じた少数の例外もありましたが、大多数のユダヤ人は反発します。その中で、会堂に集まっていた神をあがめるギリシア人や上流の婦人たちがかなり多く信仰に入ります。こうして、おもに異邦人から成る信者の群がテサロニケに成立します。
 パウロのテサロニケ伝道についてのルカの報告(一七・一〜九)は、パウロ自身の証言(すぐ後に書かれたテサロニケ書簡T)と基本的には矛盾していません。ただ、ルカの記事は、三回の安息日にわたって福音を宣べ伝えた後すぐにユダヤ人の暴動が起こって、パウロの一行は比較的短期間でテサロニケを去らざるをえなくなったという印象を与えますが、実際にはパウロはかなり長くテサロニケで活動したのではないかと考えられます。パウロが一行の生活と活動の必要資金を自分で満たすために天幕造りの仕事をしたこと(テサロニケT二・九)は、一行の滞在がかなりの期間にわたっていたことを示しています。また、すぐ後に書いたこの手紙で、パウロがテサロニケの群れの信仰がマケドニア州とアカイア州に響きわたっていると言っている(テサロニケT一・七〜八)ことも、かなりの期間の活動を示唆します。テサロニケでのパウロの福音告知が実際にどのようなものであったのかは、パウロがテサロニケを去って間もなくコリントから書いたこの「テサロニケの信者への手紙T」に生き生きと証言されています。
 パウロの福音は、多くの異邦人の信者を得ましたが、ユダヤ人は激しく反発します。ルカはユダヤ人の反発をパウロの成功に対する妬みによるものとしていますが(一七・五)、実際はパウロの律法に対する態度への反発であったと見られます。そして、イエスの場合と同じく、実際は聖なるモーセ律法を汚す者として抹殺したいのですが、異邦人の権力者に訴えるときは皇帝の支配に反抗する政治的な反逆者として告訴するのです(ルカ二三・二と使徒一七・七を参照。このような書き方に、キリスト教徒が皇帝支配に反抗する者であるという非難はユダヤ人の中傷によるものだとするルカの護教的な意図が見られます)。パウロはこの時期、十字架につけられた復活者キリストを信じることが唯一の救いであると宣べ伝え、それをモーセ律法の順守と二者択一の関係に置き、異邦人を割礼のないまま神の民として受け入れていました。律法に熱心なユダヤ教徒にとって、このようにモーセ律法を無効にするように見えるパウロの宣教はとうてい黙過することはできなかったのです。
 テサロニケ書簡Tによると、テサロニケの信者を迫害したのは「同国人」、すなわち異邦人であるとされています(テサロニケT二・一四)。パウロが去ってからのテサロニケ集会への迫害は、ユダヤ人やローマ人からではなく、「同国人」、すなわちギリシア人であるテサロニケ市民と指導階級からであったと見られます。しかし、テサロニケでのパウロの福音活動を妨げたのはユダヤ人であって、パウロはそのことを激しい言葉で非難しています(テサロニケT二・一五〜一六)。
 ユダヤ人たちはパウロとシラスが泊まっていたヤソンというユダヤ人の家を襲い、パウロとシラスを捕らえようとしますが、見つけることができなかったので、反逆者をかくまったとしてヤソンと数名の仲間を町の当局者に突き出します。当局者は騒乱を恐れますが、ヤソンたちを逮捕する根拠がないので、保証金を取って釈放します。
 危険を察知した兄弟たちは、パウロとシラスを夜陰に紛れて逃し、さらに南の都市ベレアに送り出します。ベレアでもパウロはユダヤ人の会堂で福音を宣べ伝えます。ここではユダヤ人もかなり信仰に入ったと伝えられています。また、上流の婦人たちを含むギリシア人も多数信仰に入ります。ところが、そのことを伝え聞いたテサロニケのユダヤ人たちは、ベレアまで押しかけて来て騒ぎを引き起こし、パウロとシラスの活動を妨害します。ベレアの兄弟たちは直ちにパウロを送り出し、海岸地方に行かせ、そこから(おそらく海路で)パウロをアテネに連れて行きます(一七・一〇〜一五)。
 ルカはユダヤ人が「群集を扇動し騒がせた」と書いていますが、これはおそらく、ユダヤ人が会堂でパウロの律法に対する態度を異端的だとして騒ぎ、パウロが語ることを妨害し処罰を要求したのではないかと考えられます。パウロは「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」(コリントU一一・二四)と言っていますが、「四十に一つ足りない鞭」とはユダヤ人会堂での処罰としての鞭打ちを指しています。パウロが反律法的な言説以外の理由で鞭打ちを受けるとは考えられませんので、パウロが数える「五度」の中にテサロニケやベレアでの「騒ぎ」が含まれている可能性も否定できません。
 パウロはここまでエグナティア街道を一路西へ進んできました。その行き先にローマを望んでいたのでしょう。しかし、ここからエグナティア街道を離れて進路を南にとり、ベレア、アテネ、コリントへと向かいます。この進路変更はパウロの計画にあったものか、またはユダヤ人の騒乱によってやむなくされたものかは分かりません。テサロニケやベレアでの脱出の様子を見ますと、パウロの希望通りではなく、やむなくそういう進路を取らざるをえなかったという印象を受けます。パウロはローマの信者に向かって、「何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」(ロマ一・一三)と言っていますが、その「何回も」の中にこの場合を含めてもよいのではないかと考えられます。

V アカイア州での福音活動

アテネでのパウロ

 マケドニア州の州都テサロニケでかなりの期間活動してきたパウロの一行は、ユダヤ人による騒乱によってテサロニケに止まることができなくなり、ベレアに脱出し、そこでもユダヤ人によって扇動された騒乱に巻き込まれ、そこからも脱出して(おそらく船便で)南のアカイア州に向かい、ギリシアの古都アテネに到着します。
 ルカによりますと、パウロはアテネでベレアに残してきたシラスとテモテが到着するのを待ちます(一七・一六)。しかし、パウロ自身の手紙によりますと、パウロが去ってから同国人からの迫害にさらされている、成立したばかりの若いテサロニケの集会を心配して、指導と激励のためにアテネからテモテを派遣します(テサロニケT三・一〜五)。そして、テサロニケから帰ってきたテモテをコリントで迎えることになったようです(一八・五、テサロニケT三・六)。
 仲間の到着を待つ間、パウロはアテネの人々に福音を語り、哲学諸派の人たちと論じ合います。ルカは使徒言行録一七章(一六〜三四節)に、パウロのアテネでの活動とその福音告知の内容を詳しく書いています。しかし、パウロの手紙から確認できることは、アテネでの伝道活動は何の成果もなかったという事実だけです。パウロは次の訪問地であるコリントのステファナ一家を「アカイア州の初穂」、すなわちアカイア州で最初に信仰に入った家族だとしています(コリントT一六・一五)。アテネもアカイア州の都市ですから、アテネでは一人も信者を得なかったことになります。また、パウロはすべての手紙でアテネに触れることは、先に見たテモテを待っていた場所として触れる以外は、いっさいありません。アテネはパウロの福音活動において何の痕跡をも残していません。
 ルカがパウロのこの時のアテネ伝道でアレオパゴスの議員ディオニシオスとダマリスという婦人が信仰に入ったとしているのは(一七・三四)、おそらくこの伝道以後の時期に成立したアテネの集会を代表する人物を、この時に回心したものとして描いた結果だと考えられます。パウロは州都の大都市に長く滞在し、周辺の諸都市に仲間を派遣して伝道するという仕方で伝道活動を進めましたから、パウロのコリント滞在中にアテネに集会が成立した可能性もあります。しかし、パウロはアテネについて全然触れていないので、アテネ共同体の成立はパウロ以後の時期と見るほうが自然でしょう。エウセビウスの『教会史』(三巻四・一一)は、アテネ教会の初代司教としてディオニシオスの名を上げています。
 ところで、ルカはパウロがアテネのアレオパゴスでギリシア人たちにしたとする説教を詳しく報告しています(一七・二二〜三一)。この「アレオパゴス説教」は、教養あるギリシア人に福音を弁証する議論の典型として、新約聖書の中でも特異な位置を占めています。しかし、この説教はパウロの説教の要約とか報告としての歴史的な資料ではなく、使徒言行録の中の他の主要説教と同じく、ルカによって構成されたものと見られます。ルカは、ギリシア思想や文化の発祥の地として認められているアテネを、福音とギリシア哲学との遭遇を描く舞台として選んだのでしょう。
 この時期にパウロがマケドニア州やアカイア州のギリシア諸都市で告知したキリストの福音とはどのような内容のものだったのかは、次節でパウロ自身の手紙の証言から追求することになりますが、ここでは「アレオパゴス説教」という形にルカがまとめたギリシア人への福音の提示を見ることにします。

 パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。(一七・一六)

 「パウロは憤慨した」とあるのは、「パウロの霊は刺激された」という表現が用いられています。アテネの町が「偶像で満ちている」のを見て、昔預言者が異教の偶像を拝む者たちに語らないではおれない迫りを感じて語ったように、パウロの霊はアテネの人々に語らないではおれない衝動に突き動かされます。この状況は、福音がヘレニズム世界に入って行くとき、いたるところで遭遇する状況です。

 それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。(一七・一七)

 それで(=この衝動に突き動かされて)、パウロはこのギリシア文明の中心地アテネでも「福音を恥とせず」、十字架につけられたキリストの福音を語らないではおれません。アテネにも多くのユダヤ人が居住しており、会堂がありました。それでパウロは安息日には会堂に入って、そこに集うユダヤ人と聖書の神をあがめる異邦人とに福音を語り、聖書を論拠にして議論します。そして、安息日以外の週日には市の広場(アゴラ)に出て行って、そこに居合わせる市民たちと毎日論じ合います。アテネでも、「まずユダヤ人に、そして異邦人にもまた」というパウロの福音活動の原則が貫かれています。

 また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。(一七・一八)

 当時のギリシア諸都市のアゴラ(広場、市場)では、哲学者たちも市民を相手に自分たちの世界観や生き方を説いていました。当時のギリシア哲学の代表的学派であるエピクロス派やストア派の幾人かの哲学者も、そこに居合わせてパウロと討論します。ここでエピクロス派やストア派の哲学の内容について立ち入ることはできませんが、この両派だけでなくギリシア哲学はどれも、啓示に基づく救済史的な聖書信仰とは根本的に相容れないものですから、とうていキリストの福音を理解することはできません。彼らはパウロを嘲笑するか、せいぜい外国の神々の宣伝をする者だと誤解するだけです。彼らはパウロが「イエスと復活を告知した」のを、イエスという男神と「アナスタシス(復活)」という女神を宣伝していると誤解したのです(《アナスタシス》というギリシア語は女性名詞です)。

 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」(一七・一九〜二〇)

 「アレオパゴス」は、「アレス(軍神)のパゴス(岩山)」の意で、アテネの中心にそびえるアクロポリスの丘のパルテノン神殿の近く(歩いて数分)にある小さな岩山です。眼下にはアテネの広場(アゴラ)が広がっています。ここに集まった「評議会」は古い歴史があり、その議員は貴族階級から選ばれ、アテネの統治や司法(裁判)に重要な役割を果たしてきました。ディオニシオスにつけられている《アレオパギテース》という称号(一七・三四)は、「アレオパゴス議会の議員、最高法廷の裁判官」を意味します(現代ギリシア語では最高裁判所判事)。麓の広場(アゴラ)でエピクロス派やストア派の哲学者と議論していたパウロを、彼らが「アレオパゴスに連れて行った」(一七・一七〜一九)のは、外国の神を持ち込んだことについて裁判を受けさせるためであった(多くの教父の解釈)のか、単に広場(アゴラ)での議論の続きをするためであったのかは、争われています。裁判を示唆する表現がないことから、現代ではおそらく後者、すなわちただパウロの説くところを静かに聞くためであったと見られています。少なくともルカはそのように扱っています(その結末の一七・三二〜三三を参照)。この時のパウロの説教のギリシア語全文は銅板に刻まれて、アレオパゴスの丘の岩肌にはめ込まれていて、異教世界へのパウロの福音告知の活動を記念する記念碑となっています。

 すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。(一七・二一)

 ルカはアテネの人たちの気風をこのように描いて、彼らがパウロの説教をたんなる好奇心だけで聞いて、真剣にその告知を自分の問題として取り組もうとしなかったことを示唆しています。それは、パウロの福音告知が真剣な反応を呼び起こさなかったこと(一七・三二)への説明になっています。

パウロのアレオパゴス説教

 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」。(一七・二二〜二三)

 アレオパゴスの真ん中に立ってアテネの市民に語りかけるパウロの姿と言葉を伝えることによって、ルカは偶像に満ちた当時の異教世界に福音を語りかけます。これは現代の異教世界に語りかける福音の原型でもあります。
 パウロは偶像に満ちたアテネを断罪するのではなく、それを「あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であること」を示すしるしとして認めています。ここで「信仰のあつい」と訳されているギリシア語は、「宗教的な」とか「宗教熱心な」とか「信心深い」という意味の語で、聖書がいう神に対して「信仰深い」とか「敬虔な」という意味ではありません。この語は「迷信深い」という意味にも用いられる語ですが、パウロはここでそのような否定的な意味ではなく、肯定的な意味で用いています。パウロは自分の宗教と違う宗教を無価値な異教として切り捨てるのではなく、その偶像礼拝の背後にある人間の宗教性を認めて、それを手がかりにしてまことの神への信仰に導こうとします。
 彼らの熱心な宗教性の現れとして、パウロはアテネの街角で見かけた多くの神殿や祭壇などの中に、「知られざる神に」と刻まれている祭壇を見かけたことを取り上げます。原文の「知られざる神に」は単数形の神ですが、現在までの考古学的発見の中には、このような単数形の碑文をもつものはなく、「知られざる神々に」という複数形の碑文をもつものが発見されているということです。もし実際に単数形の碑文のものがあったとしても、それは多神教世界で自分がその名を知らない「ある神に」という意味であったでしょう(この碑文の「神」に冠詞はついていません)。
 多神教の世界では、人は自分が様々な神々から恵みを受けて生きていると感じ、その神々からの祝福が将来にも保証されるように、その神々に犠牲を献げてあがめます。それを怠れば、神々からの怒りと復讐をまねくと恐れます。アテネの人たちは、もし自分が受けている恵みがあるのに、その神の名を知らないためにその神への献げ物をしていないならば、その神の怒りを招くことを恐れて、「知られざる神に」という祭壇を設けて礼拝をしていたのです。
 パウロは、そのような「知られざる神に」献げられた祭壇がある事実を、アテネの人たちが「知らずに拝んでいる神」への予感として取り上げ、その「あなたがたが知らずに拝んでいる神」を知らせようと言って、聖書の唯一の神を告知します。パウロは、アテネの人たちがその宗教性から「知られざる神」があることを予感していることを、まことの神への予感として意義づけをし直して、そこから福音の告知を始めます。

 「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」。(一七・二四〜二五)

 福音は「神の福音」です。すなわち、神がわたしたちに与えてくださる恩恵の告知です。神がいまさないところに福音はありません。神を信じない心に救いの言葉を語りかけることはできません。福音はまず、人間が造った諸々の偶像は神ではなく、人間にとってすべての存在の根源である唯一の神がいますことを告知します。その神とは、アテネの人々が知らずに拝んでいる神に他ならないとして、アテネの人たちの宗教性をまことの神へと向けさせます。
 アテネの人たちだけではありません。人間は宗教的動物で、何か人間を超える超越的存在を拝まないではおれません。その宗教性が様々な祭儀を生み出し、神々を拝ませます。神殿を造り、そこに神が住むとして、神に仕える祭儀を執り行い、神々からよいものが与えられることを期待します。それは本来の宗教性の倒錯です。パウロは最初にこの人間の宗教性の倒錯を指摘して、人々の宗教性が自分の存在の根源である方に向かうように語りかけます。
 異教世界の人々が「知らずして拝んでいる神」は、「世界とその中の万物とを造られた神」であり、「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる方」なのです。したがって、手で造った神殿などにはお住みにならず、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。「天地の主である神」は、命と息と、その他すべてのものを与えてくださる方なのです。わたしたち人間は、自分の手で造った神殿で、自分の仕方の祭儀で仕える神々が、自分の願い通りのものを与えてくれることを期待するという宗教ではなく、自分を存在させ生かしている創造者なる神を、その神が求める生き方によってあがめるという方向の宗教性に転換しなければなりません。福音はそのような宗教性の場に成り立ちます。

 「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」。(一七・二六〜二七)

 神は唯一であり、その唯一の神が天地の万物を造られた神であることを告げ知らせた上で、パウロは地上の様々な民族はその唯一の神を求めるべきことを説きます。地上は実に多様な民族が、多様な神々をいただいて暮らしていますが、実はこの多数の多様な民族も一人の人から造り出されたのであり、人間としてみな同じなのです。創造者なる神は、多くの民族を「地上の至るところに住まわせ、時(《カイロス》の複数形)を決め、彼らの居住地の境界をお決めになり」、人間の多様多彩な在り方をお許しになりました。しかし、限られた時期と場所に限定されて存在するその多様な諸民族は、実は「一人の人から造り出された」のであり、人間として同じなのです。
 諸民族は、同じ一人の神を追い求め、その神に仕えるようになるために、その多様な存在が許されているのです。民族の文化や宗教は多様でも、人間としては同じですから、その人間を造った神を探し求めさえすれば、その唯一の神を見出すことができるはずなのです。事実、創造者なる神は、どの民族の人間にも遠く離れている存在ではなく、その中にいてくださるのです。そのことを、パウロはギリシアの詩人の言葉を引用して補強します。

 「皆さんのうちのある詩人たちも、『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」。(一七・二八〜二九)

 二つの引用の中で第一のものは前六世紀のクレタ人エピメニデスの作とされる詩の一節です。そこでは「神」はゼウスを指していますが、パウロはそれを創造者なる唯一の神への予感また証言として引用します。第二のものは前三世紀のキリキア出身の詩人アラートスの詩の一節で、人間がゼウス神の子孫であることをうたっています。パウロがこのようなギリシア文学の出典を知っていたのかどうかが問題になりますが、このような詩句は、神はロゴスとして万物の中に偏在するというストア派の影響もあって、当時のギリシア人の間で諺のように広まっていて、パウロがそれを用いていると見ることもできます。パウロは回心前は会堂に集うギリシア人に聖書を教えていたのですから、このようなギリシア人へのアプローチは熟知していたと考えられます。
 こうして、ギリシアの詩人も認めているように、人間は神と同類なのだから、「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはならない」と、偶像礼拝の矛盾と倒錯を衝きます。周囲の諸民族の偶像礼拝に対する批判と攻撃はイスラエルの預言者の本領ですが(たとえばイザヤ四四・九〜二〇)、ユダヤ教としてギリシア文化と遭遇したときにも知恵文学においてその愚かさが繰り返し語られました(たとえば「知恵の書」一三・一〇〜一九)。パウロの告知もその延長上にあります。

 「さて、神はこのような無知の時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」。(一七・三〇〜三一)

 このように地上の諸民族が創造者である唯一の神を知らず、神でない偶像を拝むという時代が長く続きました。それは、そのような偶像礼拝が存在の根源であるまことの神に対する背反であることを知らない無知によるものであるとして、神がその「無知の時代」を見過ごしてくださったからであるとし、「しかし今は」神は世界の諸民族に向かって「悔い改める」ように、すなわち、このまことの神に「立ち帰る」ように命じておられるのだと告知します。
 そして、今立ち帰るように命じられている理由が続きます。それは神が世界を正しく裁かれる日が決められたからです。もはや無知として見過ごしにされる時代は終わり、背反は背反としてその責任を問われる日が定められ迫っているからです。そのような裁きの時が迫っていることの確証を、その裁きを執行するべく選ばれた方を死者の中から復活させることによって、神は世界に与えられたと告知されます。もちろんそれは、イエスが死者の中から復活して、キリストまたは《キュリオス》(主)と立てられた出来事を指しています。イエスという個人の働きではなく、死者の中からの復活という出来事が、終わりの日の到来を指し示す出来事(神の働き)として告知されています。
 この「アレオパゴス説教」はルカの筆になるものでしょうが、内容はパウロの異邦人への福音告知の要点をよく伝えています。この時期、すなわちパウロがマケドニア州とアカイア州で福音活動を進めた時期の福音の内容が、この時期に書かれたパウロ自身の手紙に証言されていますが、それによるとパウロが異邦人に告知した福音の内容が次の二点に要約されています(テサロニケT一・九〜一〇)。
 1 異邦人が偶像から離れて生けるまことの神に立ち帰ったこと。
 2 死者の中から復活されたイエスこそ神の御子であり、やがて来るべき裁きの時にわたしたちを救ってくださる方であること。
 この「アレオパゴス説教」は、まさにこの二点をアテネの人々に告知しています。パウロが告知した神は、天地万物の創造者である唯一の生ける神であるだけでなく、時を定めて世界を裁き完成すべく諸民族の歴史を導く神、すなわち救済史の神であることが、この「アレオパゴス説教」によく示されています。パウロが異邦人に告知した福音の内容については、次節で詳しく扱うことになりますが、ここではその典型として「アレオパゴス説教」の概略を見ました。

 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。(一七・三二〜三三)

 このパウロの「アレオパゴス説教」を聴いたアテネの人たちの反応は、嘲笑と批判的(第三者的)対応でした。ギリシア人にとってはとくに「死者の復活」という告知が受け入れがたい愚かな事柄であったようです。「死者の復活」は、たんに一人の死んだ人間が生き返ったという奇蹟を問題にしているのではなく、人間の救済が終わりの日に起こる「死者たちの復活」によるものであり、ナザレのイエスという一人の人に起こった復活が、その終わりの日の到来を告知しているという使信なのです。それはギリシア人には愚かさの極みであったのです。ギリシア人は霊魂の不滅を信じていましたが、身体は霊魂の牢獄であり、身体をもった救済は考えられず、また、「死者の復活」を究極目標とする救済史という信仰もギリシア人には無縁な世界観でした。復活を根幹とするパウロの福音告知は、アテネのギリシア人の嘲笑を招くだけでした。

「死者の復活」を核心とするキリストの福音がギリシア文明と遭遇したときに起こる葛藤については、 拙著『パウロによるキリストの福音U』339頁以下の「第八節 補論 ― 霊魂の不滅と死者の復活」を参照してください。

 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。(一七・三四)

 パウロはアテネでは一人の回心者も得なかったこと、ここに名をあげられている二人は後の時期に信仰に入り、アテネの集会を代表する人物となったことは、先に見たとおりです。

コリントに到着

 アテネを去ったパウロは、当時アカイア州の州都であったコリントに向かいます。コリントは、ペロポネス半島をギリシア本土とつなぐ僅か5キロメートル足らずの地峡に位置し、北にある外港レカイオンは西(イタリア方面)に向かって開けたコリント湾に面し、南にある外港ケンクレアイは東(小アジア方面)に開けたサロニコス湾に面しています。このような地理的な位置から、東西の物流の中継点として、コリントは交易によって栄え、パウロの時代にはヘレニズム世界で最も富裕な都市の一つとなっていました。成り上がり都市の生活は華美放縦に流れ、「コリント風に暮らす」というと、贅沢と性的放縦の中に暮らすことを指すようになっていたと伝えられています。

コリントについて詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音U』8頁の注記を参照してください。

 コリントに入ったパウロは、まず土地のユダヤ人信者との接触を求めます。その中で、最近のクラウディウス帝のユダヤ人追放令(四九年)によってローマからコリントに来ていたアキラとプリスキラというユダヤ人夫妻と出会います。この夫妻はポントス州出身のユダヤ人で、パウロと同じテント造りを職業としていたので、パウロはこの夫妻の家に住み込んで一緒に仕事をし、自分の生活を支えます(一八・一〜三)。アキラ夫妻は直前までローマに住んでいたので、ローマの事情、とくにローマの信者の状況に詳しく、パウロは目標としているローマについて、この夫妻から貴重な情報を得ることになります。アキラとプリスキラ夫妻は、最後までパウロの忠実な協力者となり、パウロの宣教活動において重要な役割を果たします。
 アキラとプリスキラ(プリスカと呼ばれている場合もあります)夫妻は、ローマでユダヤ人の会堂に所属し、その中でキリストの福音を力強く宣べ伝えたので、激しく反対するユダヤ人との間に騒乱が起こったのでしょう。ローマの歴史家スエトニウスがその著『皇帝列伝』で「ユダヤ人はクレストゥス(これはクリストスの不正確なラテン語表記だと見られます)の煽動で絶えず騒擾を起こしたから、クラディウスは彼らをローマから追放した」と書いていますが、アキラ夫妻はその騒乱の当事者であったのでしょう。 
 パウロのコリント滞在は、四九年のクラウディウス帝のユダヤ人追放令の直後であることと、後に出てくる総督ガリオンの任期(五一年〜五二年)から確定することができます(ガリオンの任期は近年発見されたガリオ碑文によって確認されています)。すなわち、パウロは五〇年の秋にコリントに到着し、一年半滞在して、五二年の春にコリントを去ったことになります。パウロの生涯の年代は、この年代を起点にして推定されます。

コリントでのパウロの福音活動

 パウロはアキラ夫妻と一緒に天幕作りの仕事をして生活を支え福音活動を続けます。しかし、「シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し」ます(一八・五)。二人がマケドニア州の集会からの献金を携えてきたので、手仕事に時間を取られずに、福音を告げ知らせる活動だけに専心することができるようなったからです。後にパウロはマケドニア州の集会であるフィリピの集会に、献金を送り続けてパウロの福音活動を支えてくれたことに対する感謝の手紙を書いています(フィリピ四・一〇〜二〇)。この手紙は、パウロの独立自給の福音活動の実際の姿を垣間見させます。

パウロの独立自給の福音活動については、拙著『パウロによるキリストの福音V』184頁以下の「独立伝道者パウロ」の項を参照してください。

 コリントでのパウロの伝道は、自然にまず会堂でユダヤ人にイエスがメシアであることを宣べ伝える活動から始まります。しかし、大部分のユダヤ人から激しい反対を受けます。そこで会堂と決別し、神をあがめる異邦人ティティオ・ユストの家に活動の場を移し、そこで異邦人に福音を宣べ伝えます(一八・五〜七)。彼の家はユダヤ人会堂の隣にあったというのですから、パウロの宣教活動はユダヤ人たちを強く刺激したことでしょう。
 異邦人ユストの家でのパウロの福音活動によって「コリントの多くの人々」が信仰に入り、コリントに異邦人を主体とする信者の群が成立します。コリントでのパウロの福音活動はかなりの成功を収め、パウロはコリントに一年半(五〇年秋から五二年春まで)も滞在して活動を続けます。このような長期の滞在は、一つにはコリントでの成功に促されたものでしょう。パウロは多くの異邦人が御言葉を受け入れて信仰に入ってきた事実に主の導きと御心を感じたのでしょう。ルカはそれを、パウロが幻の中で主の言葉を聴いた結果であるとしています(一八・九〜一〇)。もう一つにはおそらく、パウロはコリントでアキラ夫妻と出会い、ローマの事情を詳しく知るに至ります。直前のクラウディウス帝のローマからのユダヤ人追放令によって、いまはローマ入りを強行する時期ではないと判断し、コリントに腰を落ち着けて活動することにしたのでしょう。コリントはアカイア州の州都であり、まず州都に福音を確立するというパウロの世界宣教計画にも合致します。パウロはアキラ夫妻とテント造りの職業に携わり、長期滞在の態勢でコリント伝道に臨みます。
 福音活動の場をユストの家に移しましたが、パウロはアキラ夫妻の家に住み続けたと考えられます。しかし、第三次伝道旅行のさいコリントに滞在して、そこからローマ書を書いたとき(五六年)、パウロとコリントの共同体全体がガイオという人物の家に世話になっていると言っています(ロマ一六・二三)。その時にはアキラ夫妻はもはやコリントに住んでいないのですから、パウロの一行はコリントの集会が集まるガイオの家に滞在したのでしょう。また、ガイオはパウロ自身がバプテスマを授けた数少ない人たちの中に含まれています(コリントT一・一四)。そこで、使徒言行録のティティオ・ユストとこのガイオが同一人物であって、そのローマ風のフルネームは Gaius Titius Justus であったのではないかという推定がなされます(グッドスピード)。
 コリントのユダヤ人は全体としてはパウロに激しく反対するのですが、他の都市と違ってコリントでは、有力なユダヤ人がかなり信仰に入ります。その代表が会堂長のクリスポ一家です。このクリスポは、パウロ自身がバプテスマを授けた数少ない信者として、パウロの書簡の中に名が上げられています(コリントT一・一四)。土地のユダヤ人社会を代表する会堂長がイエスを告白するにいたったことは、ユダヤ人社会にとって衝撃であり、ユダヤ人や神を敬う異邦人たちの回心に大きな影響を及ぼしたことでしょう。シラスやアキラ夫妻のような有力なユダヤ人伝道者の協力もあって、キリストの福音はコリントのユダヤ人社会にある程度根を下ろしたものと見られます。
 こうしてアカイア州の州都である富裕な大都市コリントに、異邦人とユダヤ人を含む信者の集会が形成されます。コリントでは、ユダヤ人信者と異邦人信者は別の集会を形成したのではなく、同じ家に集まり、共同の食卓の交わりを持ちます。そのことは、パウロの福音の質から言っても当然推定できますし、後にパウロが、コリントの「集会全体」がガイオの家に世話になっていると言っている(ローマ一六・二三)ことからも裏書きされます。
 この事実は、コリントのユダヤ人社会を強く刺激したと考えられます。会堂の隣にある異邦人ティティオ・ユスト(先に見たように、この人物はローマ書のガイオと同一人物である可能性があります)の家で、ユダヤ人が異邦人と一緒に食事をして、自分たちこそ新しい神の民であり、正しい仕方で神を礼拝しているのだと主張したのですから、イエスを信じないユダヤ人にとってはとうてい見過ごすことのできない律法違反行為だったのです。異邦人と食卓を共にすることは、熱心なユダヤ教徒には許されない律法違反行為です(アンティオキア事件参照)。福音を信じないユダヤ人にとって、パウロは十字架につけられたメシアというような馬鹿げた宣伝をするだけでなく、ユダヤ人に聖なるモーセ律法を破るように唆す、許しがたい背教者であったのです。
 それで、ガリオンがアカイア州の総督であったとき、ユダヤ人はパウロを襲い、法廷に引き立てて行って訴えます。その訴えは、これまでのようにローマの支配に反抗する者としてではなく、「律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しています」という内容であったと伝えられています(一八・一二〜一三)。その訴えに対してガリオンは、「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない」と言って、訴えを門前払いにし、ユダヤ人を法廷から追い出します(一八・一四〜一六)。
 コリントでは、ユダヤ人がパウロをローマ支配への反逆者としてではなく、ユダヤ教と異なる宗教を宣伝する者として訴えたのは、成立して成長し始めた若いキリストの民の集会を、「レリギオ・リキタ(公認された宗教)」としてのユダヤ教から追い出して、ローマ政府の東方諸宗教に対する抑圧政策の対象としようとしたと考えられます。総督ガリオンはこの訴えを正しくユダヤ教内部の教義争いと判断して、ローマの法廷にはなじまない訴えとして門前払いにします。
 「すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけ」ます。この「群集」は、この訴訟とは関係のない異邦人の群集とは考えられませんので、パウロに対する訴えに失敗したことに憤激したユダヤ人の群集が、リーダーである会堂長のソステネに憤懣をぶっつけたのだと見られます。ガリオンはそれを見ながら、制止するのでもなく、まったく無視します。この態度は、ローマ教養人から見れば野蛮なオリエント宗教に対する軽蔑を示すものでしょう(一八・一七)。
 こういう事件があった後もなおしばらくパウロはコリントに滞在しますが、おそらく春の船便の再開を待って、コリントを去ります(一八・一八)。

W アジア州での福音活動

コリントからエルサレムに向かう

 コリントを去った後のパウロの行程について、ルカは次のように伝えています。

 パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って別れを告げ、エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶をするためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。(一八・一八〜二二)

 パウロ一行とプリスキラ・アキラ夫妻は、コリントの南の外港ケンクレアイから出航します。この港は東(小アジア方面)に開けたサロニコス湾に面し、東に向かう船便の出航地でした。

その記事の中でルカは、「誓願を立てていたので、ケンクレアイで頭を剃った」と書いています(一八・一八)。「誓願」というのは「ナジル人の誓願」(民数記六・一〜二一)のことであろうと考えられます。この誓願は、大きな危険からの守護を求めて、一定期間酒類を断ち、頭髪を剃らないと誓うことです。「頭を剃った」というのは、この誓願の期間が満ちたことを意味することになります。また、この誓願の終わりにはエルサレムの神殿で捧げ物をする規定になっていたので(二一・二三〜二四参照)、ルカはこの記事でパウロのエルサレム行きの動機の一つを示唆しようとしたかもしれません。この誓願の件は、パウロが最後までユダヤ教徒として行動していたことを示しています。しかし、この時のエルサレム行きは、そのような小さな事ではなく、もっと重大な問題があったからだとしなければなりません。

 パウロたちの一行はひとまずエフェソに上陸します。エフェソで船を乗り換える必要があったのでしょう。次の船を待つ間に、パウロはユダヤ人の会堂に入って、ユダヤ人と論じ合います。エフェソの人たちはパウロにもうしばらく滞在して活動するように願いますが、パウロはそれを断り、予定通りに出航します。エフェソはパウロが以前から目標にしていた伝道地であること(一六・六)、また後にエフェソを最重要拠点として活動したことを考えますと、この時パウロがいかにエルサレム行きを重視して急いでいたかがうかがわれます。
 エフェソでの短い滞在を報告するルカの文を、新共同訳は「パウロは二人をそこに残し、自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った」(一八・一九)と訳しています。これは訳としては正しいのですが、意味がよく分かりません。「二人をそこに残し、自分だけが」という主語を、それに続く「エフェソから船出した」までの全部を指すと読めば、意味が通ります。すなわち、パウロはアキラとプリスキラ夫妻をエフェソに残して、自分だけがエフェソを出発したのです。この夫妻をエフェソに残したことは、パウロはこの時、再びエフェソに戻ってきて働きの根拠地にしようと考えていたことを示唆します。
 今回パウロが何のためにエルサレムに上ったのかについて、ルカは「教会に挨拶をするため」とだけしか書いていません(一八・二二)。当時の旅行の困難さを考えますと、パウロがただ「教会に挨拶をするために」エルサレムへ急いだとは考えられません(ここの「教会」は定冠詞つき単数形の《エクレーシア》であり、エルサレム共同体を指します)。ローマを目指して西へ西へと働きを進めていたパウロが突然東に向かって急ぐという行動には、何か差し迫った重大な目的がなければなりません。それは福音の進展にとって重大で緊急の問題をエルサレム共同体の指導者たちと話し合うためであったはずです。それで、あの「エルサレム会議」(一五章)はこの時のエルサレム訪問のときに行われたと見る説が唱えられます。

この説については、拙著『パウロによるキリストの福音V』6〜17頁でマーフィー=オコゥナーを代表者として、左記の著作に基づき、やや詳しく紹介しましたので、そこを参照してください。
 Jerome Murphy=O'Connor, PAUL, a critical life, Clarendon Press, Oxford, 1996

 パウロはアンティオキア共同体を出て、ガラテヤ州、マケドニア州、アカイア州と福音告知の活動を進めて、その地域に多くの異邦人を含む集会を設立してきました。そのさい、すでにあの「エルサレム会議」でエルサレム共同体の「柱と目される」ヤコブ、ペトロ、ヨハネと合意した原則に従って、異邦人信者には割礼を求めませんでした。ところが、ユダヤ教を絶対化してモーセ律法を順守しなければ神の民ではありえないとする一部の保守的なユダヤ人たちが、パウロの「無割礼の福音」に反対し、パウロが設立した異邦人を含む集会にやってきて、異邦人信者に割礼を受けることを説得する活動を執拗に続けました。彼らは異邦人信者をユダヤ教徒にして、ユダヤ教の中でイエスを信じる者にしようとしたのです。彼らはキリストの民をユダヤ教の中の一派にしようとしたのです。このようなユダヤ人は「ユダヤ主義者」と呼ばれていますが、正確には「ユダヤ教絶対主義者」であり、「ユダヤ化主義者」です。このような「ユダヤ主義者」の働きかけがパウロが形成した異邦人共同体に執拗に行われたことが、パウロ書簡に見られます。このような「ユダヤ主義者」を論破して「無割礼の福音」を確立することが、パウロの福音活動の重要な局面になります(この問題は次節で扱うことになります)。
 パウロはコリントに滞在している間に、このような「ユダヤ主義者」の活動を伝え聞き、それを放置すれば自分の「無割礼の福音」が倒れることを恐れ、急遽エルサレムに上って、この問題をエルサレム共同体の指導者と協議しようとしたと考えられます。おそらく「ユダヤ主義者」はエルサレム共同体の権威をバックにして割礼を要求したのでしょう。パウロはこの問題を徹底的にエルサレム共同体(とくにその代表者ヤコブ)と話し合って、彼らの働きかけを無力にしなければならないと考えたのでしょう。
 パウロが生涯続けたこの「ユダヤ教絶対主義者」との戦いは、一回の会議で決着するようなものではなく、パウロは二回、あるいは三回とエルサレムの重立った人たちと語り合わなければならなかったと推察されます。ルカはそれを一回の「エルサレム会議」で決着したものとして(一五章で)描いていますが、それほど簡単な性格のものではなかったようです。コリント滞在の初期に書かれたテサロニケ第一書簡以外のパウロ書簡はみな、この時のエルサレムでの会談以後に書かれていますが、ガラテヤ書やローマ書をはじめ、どれもみな「ユダヤ主義者」への強い警戒と激しい論駁を含んでいます。この戦いはパウロの生涯の最後まで続きます。
 なおルカが伝えるエルサレム会議の報告にはありませんが、パウロはエルサレムの指導者たちが「貧しい人たちのことを忘れないように」と求めたこと、すなわちエルサレム共同体への資金援助を求めたことを伝えています(ガラテヤ二・一〇)。この要請もこの時の会談でなされたとすると、それ以後のパウロの活動(第三次伝道旅行)が募金活動の様相を見せるようになることも理解しやすくなります。

アンティオキアからエフェソへ

 ルカは使徒言行録でアンティオキアを出てからのパウロ一行の行程をごく簡単に報告しています。

 「パウロはしばらくここ(アンティオキア)で過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、弟子たちを力づけた」。(一八・二三)

 パウロは船便でカイサリアに着いてエルサレムに上っていますから、その時期は冬の前でなければなりません(冬季は船便がありません)。アンティオキアに滞在した「しばらく」というのはどのくらいの期間か決定できませんが、冬の間は「ガラテヤやフリギアの地方」に出る陸路は、「キリキア門」と呼ばれる険しい峠が雪で通れませんから、少なくともアンティオキアで越冬しているはずです。アンティオキアで越冬して、春になって「キリキア門」が通ることができるようになるとすぐにアンティオキアを出発したと見られます。
 春になって山道が通れるようになると、パウロはすぐにアンティオキアを発ち、タルソから北へ向かい、「キリキア門」峠を越え、カッパドキアを経て、ガラテヤ地方を目指したと考えられます。ここの「ガラテヤ」は、第一次伝道旅行で訪れたリストラなどの「ガラテヤ州」南部の諸都市ではなく、第二次伝道旅行の途中に立ち寄って伝道した北方の「ガラテヤ地方」(小アジア中心部、現在のアンカラ周辺の地方)であると見られます。
 ルカは「ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、弟子たちを力づけた」と書いています。もしエルサレム会議が第二次伝道旅行の後であるとすると、ガラテヤの諸集会には直前に行われたエルサレム会議の合意を、重要なこととして伝えたはずです。また、この時にエルサレムの聖徒たちのための募金活動を始めたと考えられます(コリントT一六・一)。そのためにこそ、困難な山道のコースを選んだと考えられます。それにもかかわらず、パウロがエフェソに到着してしばらくして、ガラテヤの人たちが割礼を受けようとしていることを伝え聞き、彼らが「こんなにも早く離れて」福音から離反することに驚く(ガラテヤ一・六)、ということになります。
 そこから西に隣接するフリギア地方を経て、さらに南西に向かってアジア州に入り、おそらくフィラデルフィア、サルディス、スミルナを経て、あるいはコロサイ、ヒエラポリス、ラオデキアなどがあるリュコス渓谷を経由、そこからトラレスを通って、エフェソに到着します。
 ガラテヤ・フリギア地方からエフェソに入る旅程に登場するこれらの都市の名は、パウロのエフェソ滞在中に書かれた手紙の中にしばしば現れる名であり、また、少し後にはヨハネ黙示録の「七つの教会への手紙」(黙示録二〜三章)の宛先にも多く現れる名です。パウロがこれらの諸都市をただ通過しただけであるのか、またはその中のいくつかの都市で伝道して信者の群れを形成したのか、確認することはできません。しかし、その中のどこかで伝道活動をして、集会を形成した可能性はあります。
 このエフェソに来るまでの全行程を、ルカは「パウロは高地地方を通ってエフェソに下ってきた」(一九・一の部分直訳)と書いています。カッパドキア、ガラテヤ、フリギアの地方は小アジア(現在のトルコ領小アジア)の中央部の高地です。パウロがアンティオキアからエフェソへ行くのに、楽な海路を選ばず(前年アンティオキアに行くときはエフェソから船でカイサリアに渡っています)、困難な高地地方の旅をしたのは、おそらくガラテヤの諸集会に直前に再度行われたエルサレム会議の合意を直接伝えるためであり、また募金のためと見ると納得しやすくなります。

エフェソ

 では、パウロが目的地としたエフェソとはどのような都市でしょうか。パウロの伝道活動の理解に必要な限り、簡潔に見ておきましょう。
 エーゲ海に面した小アジア西南部は、古くからギリシア人の植民活動が盛んで、ギリシア文化が栄えた土地でした。この地方は「イオニア」と呼ばれ、この地方へのギリシア人の植民活動は、前一〇世紀から始まり、前八世紀にはサモス、ミレトス、エフェソというようなポリスが成立していました。エフェソは、この時期にイオニアに成立した十二都市の「イオニア同盟」の中心都市であったと伝えられています。ホメロスの叙事詩などはこの頃にイオニアで成立したと見られています。
 その後イオニア諸都市は海外に植民活動を開始し、交易によって大いに栄えます。また、ペルシャ、バビロニア、エジプトなどの古代東方の先進文化と接触をもち、これら東方の知恵とギリシア人の合理的思考が刺激しあって、ギリシア文化圏に最初の哲学学派を生み出します。ミレトスを中心に活動したタレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスらのミレトス派哲学者、エフェソの王家の出身とされる哲学者ヘラクレイトス、また叙情詩のアナクレオン、歴史のヘカタイオスなどが現れ、前六世紀(イスラエル史ではバビロン捕囚の世紀)のイオニアは、ミレトスを中心に文化の最盛期を現出します。ペルシャ戦争以後ギリシア文化の中心地がアテネに移る以前は、イオニアがギリシア文化の中心地であったことは、その中心都市エフェソの性格を考える上で忘れてはならない重要な事実です。
 その後、イオニアはリュディア、続いてペルシャと、隣接するオリエントの専制王国の支配を受けることになります。一時、ペルシャの支配を脱した時期もありますが、ペロポネス戦争以後はペルシャの支配が続きます。ペルシャを破ったアレクサンドロス大王以後のヘレニズム時代には、マケドニア王国、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアなどからの支配と干渉を受けることになりますが、経済的には繁栄を続けます。その後イオニアはローマ人に征服され、前一三三年にローマ領アジア州となり、エフェソはその州都(総督府所在地)となります。アウグストゥス帝(在位前27年〜後14年)はエフェソを重視し、壮大な建築物や水道の建設、道路の舗装などで街を整え、エフェソは「アジア第一で最大の都市」として繁栄の絶頂期を迎えます。
 政治的にはローマ属州アジアの州都として、経済的には交易の中心都市として、エフェソは大いに繁栄しますが、エフェソは当時の地中海世界で宗教都市としても重要な都市でした。エフェソには女神アルテミスを祭る巨大な神殿があり、世界の各地から多くの巡礼者を引きつけていました。その壮大な神殿は「世界の七つの驚異」の一つに数えられ、その祭儀はエフェソの最大の誇りでした。各地から参詣に来る人たちが買い求める銀製の神殿模型の製造は、エフェソの重要な産業であり収入源でした。
 住民はもともとギリシアから来た人々が多かったのですが、東方の諸民族も多く混じり合っていました。オリエントの古代文明と接触のあった他のヘレニズム都市と同じく、エフェソも東方の諸宗教の祭儀やギリシアの神々を祭る神殿や祠が多くあり、先にコリントの宗教事情を描いたのと同じような状況でした。最近のエフェソ遺跡の発掘は、このような異教の神殿跡を多く発掘していると報告されています。また、当時のギリシア都市の慣例として、都市に顕著な貢献をした人物を死後に(時には生前に)神として祀ることも普通に行われていました。ローマの皇帝を神として祀ることも行われ、すでにアウグストゥス帝の許可を得て、カエサルも神として祀られていました。このような土壌の中で、後にドミティアヌス帝(在位81年〜96年)が自分のために神殿を建てて、巨大な自分の像を拝ませることになります。
 エフェソにもユダヤ人はかなり古くから住んでいました。ヨセフスは、ローマ時代を扱った『古代誌』一四〜一六巻で、また『アピオンへの反駁』二巻で、エフェソにユダヤ人が住んでいることに数回言及しています。パウロの時代のエフェソにどれほどのユダヤ人人口があったのかは分かりませんが、当時のヘレニズム世界を代表する大都市として、他の大都市と同じくかなりの規模のユダヤ人共同体があったと考えられます。セレウコス朝とローマの支配下では、ユダヤ教は法的保護を受け、(おそらく複数の)会堂を持ち、平穏にユダヤ教徒として暮らしていました。

パウロ到着前のエフェソ ― プリスキラ・アキラ夫妻とアポロ

 パウロが高地地方を通ってエフェソに下ってきたとき、エフェソにはすでにある程度の信者がいました。それは、すでに一年ほど前からプリスキラ・アキラ夫妻が伝道活動をしていたからです。前の年にコリントからエルサレムに向かう時、パウロはアキラ夫妻をエフェソに残して、自分だけがエルサレムとアンティオキアに行き、翌年になってアンティオキアから高地地方を通ってエフェソに下ってきたのでした。アキラ夫妻をエフェソに残したのは、自分が次の働きの場と思い定めていたエフェソに拠点を作ってもらうためであったと見られます。パウロが到着したとき、アキラ夫妻の家にある程度の規模の信者が集まりを形成していたと考えられます。パウロは、コリントの場合と同じように、おそらくこの夫妻の家に住み、この集会を足場にして活動を開始したのでしょう。エフェソ集会の基礎を築いたのはプリスキラ・アキラ夫妻です。
 パウロがエフェソに到着する前に、この夫妻がアポロに「もっと正確に神の道を教えた」という出来事があったことを、使徒言行録(一八・二四〜二八)が伝えています。アポロは、「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しい雄弁家」でした。アレクサンドリアは当時ヘレニズム文化の中心地で、ギリシアの学芸がもっとも栄えた大都市でした。そこのユダヤ人共同体は規模も大きく、またギリシア文化や思想の素養も深く、自分たちの宗教であるユダヤ教とその聖典である聖書を周囲のギリシア教養人に伝えることにもっとも熱心なユダヤ人でした。そこから、聖書(旧約聖書)のギリシア語訳である「七十人訳ギリシア語聖書」が生まれ、聖書とギリシア哲学を融合させた偉大な哲学者フィロンが出ます。アポロは、このようなアレクサンドリアで育ったユダヤ人であって、「雄弁家」としてギリシア哲学の素養と、「聖書に詳しい」聖書学者としての訓練を兼ね備えた人物でした。
 このアポロは各地で「イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていた」とされます。「主の道に通じている」(協会訳)聖書学者として、アポロはイエスこそ聖書を成就するメシアであることを、聖書を論拠にして熱く語り、各地のユダヤ人を説得していました。このアポロがエフェソにやって来て、「会堂で大胆に」イエスのことを教え始めます。エフェソでは、パウロよりも先にアポロがユダヤ教の会堂でイエスがメシア・キリストであることを説いたのです。その会堂にプリスキラとアキラが居合わせます。このことは、この段階ではイエスを信じるユダヤ人はユダヤ教徒として安息日ごとに会堂に集まることが普通であったことを示しています。
 その会堂に居合わせたプリスキラとアキラはアポロが語るのを聴き、彼を(おそらく自宅に)招き、「もっと正確に神の道を説明した」とされます。アポロは「聖書に詳しい」、また「主の道に通じている」イエスを信じる聖書学者として、すでにイエスのことについて「正確に教えていた」のですが、彼が語るのを聴いたプリスキラとアキラは、彼の教えにまだ何か足りないものがあることを見抜いて、「もっと正確に」神の道を説明することになります。
 では、アポロの教えに足りないものとは何か、ルカは何も説明していません。ただ、アポロについて「彼はヨハネのバプテスマしか知らなかった」と書かれていることが示唆を与えます。この表現はヨハネのバプテスマの他に、アポロがまだ知らなかったもう一つ別のバプテスマがあることを示唆しています。プリスキラとアキラはアポロにこの「もう一つ別のバプテスマ」のことを説明したと考えられます。
 すぐ後に続く段落(一九・一〜七)で、「ヨハネのバプテスマ」を受けたがまだ聖霊を受けていなかった弟子が、パウロの教えを聞いてイエスを信じ、「イエスの名によってバプテスマを受け」、聖霊を受けたことが報告されています。ここで「ヨハネのバプテスマ」と対比されているのは、「イエスの名によるバプテスマ」ではなく、イエスを信じて告白することによって受けた「聖霊のバプテスマ」です。正確に言うと、「ヨハネによる水のバプテスマ」と「復活者キリストによる聖霊のバプテスマ」が対比されているのです。「聖霊のバプテスマ」という表現を使ったかどうかは確認できませんが、プリスキラとアキラは、自分たちがパウロから教えられ、パウロとの協力関係の中で体験し生きている、聖霊による復活者キリストとの交わりという質の信仰を説明したのではないかと推察されます。アポロはすでに(おそらくパレスチナで)地上のイエスの働きや言葉について伝える「イエス伝承」は多く受けていたのでしょうが、プリスキラ・アキラ夫妻との接触によって、パウロ的な聖霊による信仰の次元に目を開かれ、イエス・キリストのことを「ますます霊に燃えて語り、いっそう正確に教えた」と思われます。

エフェソにおけるパウロの福音活動

 アポロがエフェソを去ってコリントに向かった後に、パウロは「高地地方を通ってエフェソに下ってきました」(一九・一)。おそらくパウロはプリスキラとアキラ夫妻の家で旅装を解き、そこに住んで福音活動を開始したと推察されます。パウロは早速、エフェソのユダヤ人会堂に入り、「神の国のことについて大胆に論じ」、ユダヤ人を説得しようとします(一九・八)。パウロは自分を異邦人への使徒であると自覚していますが、決してユダヤ人への宣教を放棄したのではありません。そのことは手紙の中で、パウロがユダヤ人の救いを熱烈に願い祈っていることからも分かります(コリントT九・二〇、ローマ九・一〜五)。ルカも、パウロはどの都市に入ってもまず最初にユダヤ人の会堂に行って福音を語ったと伝えています。テサロニケでも(一七・二)、コリントでも(一八・四)そうでした。
 エフェソでもパウロは三か月にわたって会堂でユダヤ人とそこに集まる「神を敬う」異邦人に、イエスがキリストであることを説きます。ユダヤ教会堂には、ユダヤ人(ユダヤ教徒)だけでなく、ユダヤ教に惹かれた異邦人(異教徒)も集まっていました。その中で、割礼を受けてユダヤ教に改宗するまでには至っていないが聖書の神を崇拝する異邦人は、「神を敬う者」と呼ばれていました。実は、このユダヤ教の会堂に集まる「神を敬う」異邦人たちが、新しいキリスト信仰の担い手として重要な位置を占めることになります。異邦人に福音を宣べ伝えるにも、最初の手がかりはユダヤ教会堂にあったのです。
 ところが、会堂で福音を語って三か月ほど経ったとき、それができなくなります。その事情をルカは次のように伝えています。

 パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった。(使徒一九・八〜一〇)

 「かたくなで信じようとはせず」と言われている「ある者たち」とは、頑迷なユダヤ教徒であると考えられます。ユダヤ人にとって「十字架につけられたメシア」などということは「つまずき」そのものであり、その上律法順守がもはや救いの道ではなく、イエスに対する信仰だけが救いであるというような告知は、神聖な律法(ユダヤ教)に対する許すことができない冒?でした。それで、彼らは「会衆の前でこの道を非難した」のです。「この道」というのは、イエスをキリストと信じる信仰(福音信仰)を指すルカ特有の表現です。「会衆の前で」非難した、すなわち会堂の集会の場で非難の声を上げたのですから、会堂は騒乱状態に陥り、もはや平穏な礼拝を続けることはできず、会堂司はパウロたちに退去を求めたのでしょう。このように、どの都市でもパウロは先ずユダヤ教会堂で福音を語りますが、ユダヤ人たちの激しい非難によって追い出されています。テサロニケでも、コリントでもそうでした。エフェソも例外ではなかったのです。
 コリントでは、会堂から追い出されたパウロは、「神を敬う」異邦人ティティオ・ユストの家で集会を開き、福音を語り続けることになります。彼の家は会堂の隣にあったので、パウロの活動は会堂のユダヤ人たちを強く刺激し、ついにユダヤ人の一団がパウロを襲い、法廷に引き立てることになります(一八・五〜七、一二)。エフェソでは、パウロは「弟子たち」、すなわちイエスを信じるようになったユダヤ人と「神を敬う異邦人」の一団を引き連れて会堂を離れ、「ティラノの講堂」(直訳)に集まり、そこで毎日福音を語り続けることになります。この講堂は、ティラノという人の所有である講堂か、またはティラノという人にちなんで名付けられた講堂でしょう。エフェソには、他にも「ケルソスの図書館」(ケルソスというアジア州総督の記念に捧げられた図書館)というような個人の名を冠した建物があったことが、遺跡の発掘によって確認されています。
 会堂に集まるのはおもにユダヤ人ですが、公共の講堂には様々な宗教の異邦人が多く集まったことでしょう。また、会堂に人が集まるのは週に一度安息日(土曜日)だけですが、ティラノの講堂では「毎日」福音を説くことができるようになります。ある写本(西方系テキスト)によると、パウロは毎日午前一一時から午後四時まで五時間もこの講堂で論じたと伝えられています。エフェソのような暑い地方では、午前一一時には仕事を止めたそうです。パウロは、コリントの場合と同じく、エフェソでもプリスキラとアキラ夫妻の家に住んで、一緒に天幕造りの仕事をして、自分の生活を支えたと推察されます。――ルカは、後にパウロ自身がエフェソの人たちへの別れの訓話でそう言ったと伝えています(二〇・三四)。パウロも一一時に天幕造りの手仕事を止めて、講堂に駆けつけたのでしょう。その時間には労働者たちの聴衆も期待できます。五十歳代のパウロのエネルギッシュな活動ぶりが目に浮かぶようです。このような活動(後に見るように癒しを含む活動)が「二年も続いた」とすると、その評判はエフェソの後背地の広い地域に伝わったことでしょうから、「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」というルカの報告は決して誇張ではないと言えます。

パウロによる奇跡の働き

 エフェソでのパウロの福音活動について、ルカは「神の国について大胆に論じ」と言うだけで、その説教の内容まで立ち入っていません(これは次節で扱うことになります)。ところが、ルカはエフェソでのパウロの宣教活動については、それまでのテサロニケやベレア、またコリントでの活動については触れてこなかった事実を、かなり詳しく伝えています。それは、「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」という事実です(一九・一一)。パウロは、求められるときには病人に手を置いて祈って病気を癒し、悪霊につかれた人にはイエスの名によって悪霊を追い出したことでしょう。しかしそれだけでなく、エフェソでは「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」(一九・一二)と伝えられています。エフェソの人々のパウロに対する熱狂ぶりがうかがえます。
 古代の人々は、神から遣わされた人の体には神の力が宿っていると信じていましたから、その人の体に触れると病気は癒されると信じました。それで、イエスの体に触ろうとして人々が押し迫ったのでした(マルコ三・一〇)。イエスの体に触ることができない長血の女は、イエスの衣の房に触れて癒されたのでした(マルコ五・二五以下)。エフェソで人々は、パウロが行う癒しなどの奇跡を見て、パウロを神から遣わされた使者として迎え、パウロに触れようとして殺到したのでしょう。そして直接触ることができない者は、「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当て」て祈ると、「病気はいやされ、悪霊どもも出て行く」のでした。これは古代だけのことではありません。現代でも、聖霊の力に溢れた伝道者が手を置いて祈ると病人が癒され、また、その伝道者が手を置いて祈ったハンカチを病人に当てて祈ると癒されるなどの奇跡が起こっています。これは、その人の手など体の一部や衣服に力が宿っているのではなく、神の力に対する信仰が、その人の体や衣服との接触という形で行動に現れるからです。
 このように「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」という事実は、パウロ自身の証言によっても確認されます。パウロは自分が行った奇跡について書簡の中で語ることはほとんどありませんが、このエフェソでの伝道活動を終えたすぐ後にコリントで書いたローマ書で、このように言っています。

 「だから、わたしは神に仕えることについては、キリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。異邦人を従順に導くために、キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、わたしはあえて語ろうとは思いません。キリストが言葉とわざにおいて、しるしと不思議を現す力によって、御霊の力によって働かれたのです。こうして、わたしはエルサレムから始まり、孤を描いてイリリコン州に至るまで、キリストの福音を満たしてきました」。(ローマ一五・一七〜一九私訳)

 パウロは自分の伝道活動を、「キリストがわたしを通して働かれたこと」としています。そして、キリストはパウロを通して、「言葉とわざにおいて」働かれました。「言葉において」とは、パウロが福音の言葉、すなわち「十字架の言葉」を宣べ伝えるとき、キリストが「御霊の力によって働かれ」、聴く者に直接「十字架につけられた復活者キリスト」の栄光と奥義を示し、信仰の従順に導かれる働きです。「わざにおいて」とは、パウロの宣教に「しるしと不思議を現す力」が伴い、キリストが「御霊の力によって」病人を癒し悪霊を追い出すなどの奇跡を現される出来事を指しています。そのような奇跡を、パウロはここで「しるし」と呼んでいます。パウロの福音告知には「しるし」が伴いました。これが、パウロの福音活動が短期間に大きな成果をあげた理由であることを、わたしたちは見落としてはなりません。ルカがエフェソでのパウロの働きについて報告していることは、パウロ自身の証言によって確認され、その重要性を示しています。
 ルカがエフェソでのパウロの働きについて、とくに「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」ことを伝えるのは、ペトロたちの奇跡の働き(三・一〜一〇、五・一二〜一六)との均衡をとるためという動機も考えられます(使徒言行録は、前半のペトロと後半のパウロの描き方に均衡をとることを、著作の構成原理の一つとしているようです)。しかしそれ以上に、会堂や講堂で「神の国」のことを論じ、並行して病人を癒し悪霊を追い出す働きをするパウロの描き方に、「神の国について語り、人々を癒された」イエスの働き(ルカ九・一一)との並行関係を感じます。ここでルカが、パウロ書簡にも使徒言行録にも用例が比較的少ない「神の国」を用いていることからも、福音書を書いたルカがイエスとの並行関係を意識して、このパウロのエフェソ伝道を描いたのではないかと推測させます。
 なお、ルカはエフェソでのパウロの「しるしと不思議を現す力」の働きに伴う出来事として、二つのエピソードを加えています。一つは、ユダヤ人の祈祷師の話です(一九・一三〜一七)。パウロの働きを見て驚いたユダヤ人の祈祷師が、パウロを真似てイエスの名を用いて悪霊を追い出そうとしたところ、かえって悪霊に憑かれた人に襲われ逃げ出し、その出来事を見て、エフェソの人たちは大いに主イエスの名を崇めるようになったということです。
 もう一つは、魔術の本が焼き捨てられた話です(一九・一八〜二〇)。新しく信仰に入った人たちが、これまでの自分の行いを打ち明け、悔い改めるようになりますが、その中でとくに「魔術」を行っていた者たちが、魔術の本を持ってきて焼き捨てたことが、顕著な出来事として語られています。「魔術」とは異教の呪術的な活動を指していると見られます。このような活動をしていた人たちが回心して信仰に入り、これまで自分たちがしてきた行為が神の御旨に反する行為であることを示され(実際に純真な人を欺くような悪行もあったことでしょう)、自分たちの「魔術」の拠り所としていた経典の類などを持ってきて、皆の前で焼いたというのです。現代と違い、当時は書物は高価でした。焼いた本の値段は「銀貨五万枚」にのぼったとルカは伝えています。このエピソードは、パウロの福音がたんなる思想の問題ではなく、実際に人々の生活と行為を変える力であることを示しています。ルカは、この二つのエピソードの結びとして、「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」と書いています。

聖霊によるバプテスマ

 このような二年あまりにわたるパウロの力強い宣教活動の結果、エフェソにはかなりの規模の信者の群れが形成されたと考えられます。この時期においては、信者たちは個人の家に集まって、信仰の交わりを進めていました。エフェソでの代表的な例は「アキラとプリスキラの家に集まる集会(エクレーシア)」です(コリントT一六・一九)。他にもこのような「家の集会(エクレーシア)」とか、特定の立場の人たちがグループを形成していたようです。ローマ書一六章(三〜一六節)にある「個人的な挨拶」の人名リストは、当時の《エクレーシア》の状況を垣間見させてくれます。この「挨拶」がローマに宛てられたものかエフェソに宛てられたものかが争われていますが、どちらに宛てられたものにせよ、パウロの時代のローマとかエフェソのような大都市における信者の姿や集会の構成が見えてきます。それによりますと、ユダヤ人も異邦人も多く含まれ、自由人もいますが奴隷身分の者も多く、男性だけでなく女性も多く、指導的な立場で活動する女性もいたことがうかがえます。エフェソの場合、土地柄から商工業に従事する人が多かったことでしょう。
 このようなグループの一つに信仰上の問題があって、パウロが対処した物語が使徒言行録一九章(一〜七節)に伝えられています。このグループの「何人かの弟子」は、ヨハネのバプテスマしか知らなかったとされています。プリスキラとアキラがアポロの教えに足りないものがあることを感じて「もっと正確に神の道を説明した」ように、パウロはこのグループの弟子たちの信仰に問題を感じて、「あなたたちは信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねます。パウロは、彼らの信仰に聖霊の働きが欠けていることを見たわけです。すると彼らは、「いいえ(受けていません)。わたしたちは聖霊がいますかどうかも聞いていません」(私訳)と答えます。彼らの答えは、聖霊(神の霊)の存在そのものについて何も聞いていないという意味ではなく、聖霊がすでに世に来て、今は人々の中におられるのだということを聞いていないという意味であるとしなければなりません。ヨハネのバプテスマを受けた人たちですから、イスラエルにおける神の霊の存在と働きについてある程度のことは聞いていたはずです。ただ、彼らは終わりの日にはすべての人に聖霊を与えるという神の約束が今や成就しているのだという報知を聞いていなかったのです。
 パウロが彼らに、「では、あなたたちは何の中へバプテスマされたのか」(直訳)と尋ねますと、彼らは「ヨハネのバプテスマの中へ」(直訳)と答えます。それでパウロはバプテスマの意義を説明してこう言います、「ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けて、彼の後に来る方の中へと、すなわちイエスの中へ信じるように民に告げたのです」(私訳)。すなわち、洗礼者ヨハネが授けた水のバプテスマはそれだけで意義を全うするものではなく、イエスを信じることによって意義が全うされるのだというのです。
 彼らはパウロの言葉を聞いて、「主(キュリオス)イエスの名の中へ」とバプテスマされます。もちろんパウロは、イエスを主《キュリオス》と信じて告白することが救いの道であること、この「主(キュリオス)イエス」は十字架の死によってわたしたちの罪を贖い、復活して御霊のキリストとして生きておられ、信じる者に聖霊を与える方であることを詳しく説いたことでしょう。彼らが「主(キュリオス)イエスの名の中へ」バプテスマされたことは、この「主(キュリオス)イエス」御自身の中へバプテスマされ、十字架・復活の「主(キュリオス)イエス」に合わせられ、その方に属する者になることを告白する行為であったわけです。たんにバプテスマの時に唱える名がヨハネからイエスに変わったというのではありません。
 こうして「主イエスの名の中に」バプテスマされた人たちの上にパウロが手を置いて祈りますと、「彼らの上に聖霊が降り、彼は異言で語り、預言をした」という現象が起こります。聖霊が降ること自体は目に見えません。しかし、それが起こったことの現れとして、異言とか預言という現象が伴います。いつも伴うとは限りませんが、使徒言行録では、聖霊が降ったことが明確に知られる必要のある重要な場合には、いつも異言とか預言という超自然的な現象を伴った出来事として伝えられています。最初はペンテコステの日の聖霊の注ぎです(二章)。その時エルサレムに集まっていたユダヤ人たちは、使徒たちが異言で神を賛美するのを聞いて驚きます。サマリアでペトロとヨハネが信じた人たちの上に手を置いて祈ったとき聖霊が降りました(八章)。そこでは異言とか預言のことは出てきませんが、それを見たシモンが金でその力を買おうとした物語から、そのような目に見える現象が伴っていたことが示されています。次はペトロがコルネリオに福音を語ったときに聖霊が降った出来事です(一〇章)。その時も、周囲の人が「異邦人が異言を語り、神を賛美するのを聞いた」ので驚いたとあります。このようにルカは、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てまで」(一・八)福音が広まることを描く著作の構想に従って、まずユダヤ人に、次にサマリア教徒に、さらに「神を敬う」異邦人に、そして最後にここで異邦人への使徒パウロの働きによって異教の代表的都市エフェソで聖霊が降ったことを語ることになります。
 聖霊の賜物は福音の本質的な部分です。すなわち、それがなければ福音が福音でなくなるのです。パウロは書簡の中で繰り返し聖霊の働きの重要性を語っていますが、歴史を語るルカは、目に見える出来事を語る形で聖霊の賜物を伴う福音の進展を語るのです。ここでルカが語ろうとしていることは、バプテスマを受けるさいに唱える名がイエスでなければならないということではなく、洗礼者ヨハネが授けた水のバプテスマではなく、復活者キリストが授ける聖霊のバプテスマこそ福音が告知する神の恵みの働きであると言っているのです。ルカは、その著作の第一部(ルカ福音書)でイエスが父の約束として語っておられた聖霊(ルカ一一・五〜一三、二四・四九)が、第二部(使徒言行録)で実際に与えられる出来事を語ることによって、聖霊の賜物が福音の本質的部分であることを指し示しているのです。使徒言行録一九章でのエフェソでの聖霊の降臨は、それを語るルカの一連の物語の最後に位置するものとなります。そして、この一連の聖霊降臨の物語を、「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」(一・五)という標題で始めていることから、これを「聖霊のバプテスマ」と呼んでよいでしょう。

周辺地域への宣教活動

 エフェソではパウロが二年間も(ユダヤ人の会堂ではなく)公開の「ティラノの講堂」で毎日福音を語る活動を続けたことで、またその間に「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」ので、その評判は高まり、救い主としてのイエス・キリストの御名はエフェソだけでなく周辺の諸都市の人々にも伝わっていきます。ルカは、「このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」と言っています(一九・一〇、なお同二六節も参照)。エフェソがアジア州の州都であり、交通と交易の中心都市であったことから、周辺諸都市の人の往来も頻繁で、周辺諸都市の人がエフェソに来て福音を聞き、そこで信仰に入った人たちが自分の都市に帰って福音を語るという形で、福音が伝えられていったと推察されます。
 しかし、パウロはこのような自然な形での拡大に任せているだけではなく、テモテらの協力者を派遣するなどして積極的に周辺諸都市に伝道の働きを進めたものと考えられます。パウロ自身が出向いたかどうかは確認できません。パウロはコロサイには行っていませんが、コロサイ出身者のエパフラスによってコロサイやその近隣都市のラオデキア、ヒエラポリスに信者たちの集会が形成されたのは典型的な事例です。
 エーゲ海に面する小アジア西岸部のパウロ時代の地図を見ますと、アジア州の州都であるエフェソの周辺に、スミルナ、ペルガモン、テアテラ、サルディス、フィラデルフィアなどの名が見えます。この五都市にエフェソ自身と(先に出てきた)ラオデキアを加えると、九十年代に成立した見られるヨハネ黙示録の二章と三章に出てくる「アジア州の七つの集会」に重なります。それに、イグナティオス書簡(二世紀初頭)の宛先として出てくるマグネシアとトラレスもエフェソのごく近くの都市です。ここに名をあげた十一都市の集会は、パウロがエフェソで活動した時期に成立したか、または核になる信者が活動を始めるなど、その萌芽をもった集会ではないかと考えられます。

エフェソから周辺都市への福音の拡大については、コロサイの場合は文書の資料もあり、比較的確実に事情が分かります。コロサイへ福音が伝えられた消息については、拙著『パウロによるキリストの福音V』46頁以下の「コロサイの場合」の項を参照してください。

エフェソでの騒乱と投獄

 パウロが二年間も「ティラノの講堂」で毎日福音を語る活動を続けたことと、その間に「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」ので、エフェソの市民の熱狂は次第に高まってきます。その熱狂ぶりは、先に見たように、パウロとの接触を求めて「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持っていって病人にあてる」とか、パウロがイエスの名で悪霊を追い出すのを真似する祈祷師が出るとか、魔術の本を焼き捨てるなど、使徒言行録(一九・一一〜二〇)に生き生きと描かれていました。
 その熱狂の結果、エフェソに大きな騒乱が起こります。ルカはその騒乱の発生から始め、その成り行きを詳しく物語っています(一九・二三〜四〇)。パウロの福音は、先に見たように、異邦人に異教の偶像から離れ、天地の創造者である目に見えない唯一の神に帰るように説き勧めるものですから、アルテミス神殿の銀製の模型を作って参詣人に売って利益を得ていた人たちは、エフェソの市民が熱狂してパウロの話を聞きに集まるのを見て、自分たちの事業に対する脅威を感じ、パウロたちに反対する運動を始めます。彼らの中の一人デメテリオ(神殿模型の製造業者)は、職人たちや同業者に呼びかけて大きな集会を開き、パウロたちを非難するアジ演説を行います。煽動されたエフェソの市民たちは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、「エフェソ人のアルテミスは偉大なるかな」と叫んで野外劇場になだれ込みます。当時のヘレニズム都市では、円形の野外劇場は演劇の上演だけでなく、市民たちの大きな集会にも用いられていました。
 このような福音の進展にとっての危機と仲間の危険とを見たパウロは、自身でこの劇場に乗り込んで市民に語りかけようとしますが、危険を察した仲間や、パウロに共感を寄せていた市の高官たちから止められます。劇場ではユダヤ人のアレクサンドロという人物が弁明しようとします。彼が何を弁明しようとしたのかは分かりませんが、おそらく偶像を拝まない点では同じであるが、会堂のユダヤ人はパウロ一行とは別であると弁明して、パウロの活動から生じたユダヤ人への非難をかわそうとしたのでしょう。しかし、興奮した群衆に阻まれて語りかけることもできず、集会は喚声と怒号が二時間も続く混乱状態に陥ります。
 そこで、市全体が騒乱状態に陥るのを恐れた市の書記官が登壇して、群衆に平静を保つように訴えます。ローマの支配者は、宗教問題には寛容ですが、騒乱など秩序を乱す行為や出来事にはきわめて敏感で、そのような事態が起こった場合には為政者は重い責任を問われます。書記官は群衆に、不満があるなら正式の法廷に訴えるとか会議に問題を出すとかして解決を図るように説得します。彼の説得は効を奏して、群衆は解散します。こうして、騒乱は収まることになります。
 ルカはこの騒乱について、パウロは騒乱に巻き込まれることなく、外にいて無事だったとしています。そして、「この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した」(二〇・一)と、パウロには何事もなかったかのように書いています。しかし、パウロの手紙にはエフェソでの投獄を示唆する表現が見られます。たとえば、エフェソから書き送った手紙で複数回の投獄に触れていますが(コリントU一一・二三)、フィリピでの投獄の後で他に可能性のあるのはエフェソということになります。「死の宣告を受けた思い」をする「アジア州で被った苦難」もエフェソでの投獄を示唆しています(コリントU一・八〜九)。また、獄中から書かれた書簡(フィリピ書とフィレモン書)を子細に検討すると、どうしてもパウロはエフェソで投獄されたとしなければなりません。そうすると、パウロがエフェソで投獄されるような事件とは、このアルテミス神殿をめぐる騒乱以外にはありえないので、パウロはこの事件に巻き込まれて投獄されたと見ざるをえません。
 新約聖書のパウロ書簡集には、パウロが獄中から書いたとされる獄中書簡が四つ収められています。フィリピ書、フィレモン書、コロサイ書、エフェソ書の四つです。ところで、使徒言行録にはパウロの投獄ないし拘留が三回報告されています。フィリピでの投獄(一六章)、エルサレムで逮捕されてからカイサリアに送られて二年間の拘留(二四章)、そしてローマでの拘留生活(二八章)の三回です。近年にいたるまで、パウロの獄中書はローマで書かれたとされてきましたが、近代の聖書学の発展にともない、ローマ説の不自然さが指摘されるようになって、使徒言行録には報告されていないエフェソでの投獄と理解する見方が有力になってきました。フィリピは時期の点から見てありえないことですし、ローマとカイサリアは、フィリピ書とフィレモン書に現れる人物や土地との頻繁な交流にはあまりにも遠すぎて不自然です。この両書簡に登場する人物や土地との関わり方は、エフェソでの投獄を前提にするとき、もっとも自然に理解できます。とくにフィレモン書はエフェソ説の有力な論拠になります。
 パウロの書簡からはエフェソでの投獄を前提としなければならないとすると、ルカが使徒言行録でエフェソでの投獄を報告していない理由が問題になります。基本的に、ルかの著作には護教的動機が強く働いています。すなわち、「この道」とルカが呼ぶイエス・キリストの信仰は、決してローマの秩序に反するものではないということを弁証しようとする意図があります。それで、このエフェソでの騒乱事件を語るときも、パウロは責任のない局外者として描かれ、市の高官までもパウロに好意的で、市の行政当局の強い指導で騒乱が収まったことだけを報告し、パウロが責任を問われるような投獄という事態を省略したと見ることもできます。フィリピでの投獄も、それが占いによる利益を失った者の告発という不当な理由によるものであることを述べ、投獄が誤りであったことを当局者が認める形で釈放されるという形で描かれています。
 逮捕されたパウロを釈放してもらうために、パウロの仲間たちが必死の努力をしたことは十分推察することができます。この事件からすぐ後に書かれたローマ書(一六・四)で、パウロはプリスキラ・アキラ夫妻について「この二人は、わたしの命のために自分たちの首を差し出してくれたのです」と言っています。夫妻はパウロの命を助けるために自分の命を危険にさらしたという意味です。そうすると、この騒乱の時にパウロを助けるために、二人が命の危険を冒して奔走したことも十分推察されます。
 無罪放免されたのか、市からの追放という程度の処罰で済んだのかは分かりませんが、パウロはこの事件の後エフェソを発って、マケドニアに向かうことになります。このような事件の後に、エフェソにとどまって活動を続けることはできないはずです。この事件のすぐ後になりますが、パウロはコリントからエルサレムに向かうとき、エフェソには入らないで「ミレトスからエフェソに人をやって集会の長老たちを呼び寄せて」彼らと会っています(二〇・一七)。この事実は、ルカは「旅を急いだ」からだとしていますが、パウロがエフェソからの追放処分を受けていたことを示唆するという理解もできます。

X パウロの最後の日々

パウロの募金活動

 パウロは(おそらく第二次伝道旅行の後の)エルサレム訪問時に、エルサレムの重立った人たちから「貧しい者たちを顧みるように」という要請を受けていました。その要請に応えるために、パウロはその後の第三次伝道旅行では、それまでに設立した異邦人諸集会にエルサレムの聖徒たちへの献金を集める活動を進めます。パウロがこの募金活動に力を注いでいたことは、この伝道旅行の拠点となったエフェソで書いた書簡に繰り返し触れられていることからも十分うかがうことができます。とくに有力であったコリントの集会には、募金について具体的な指示を与え(コリントT一六・一〜四)、トラブルが生じたときにはテトスを派遣して真意を説明するなど苦心しています。その苦心は「募金の手紙」と称される手紙(コリントUの八章と九章)からもよく分かります。
 騒乱事件でエフェソを立ち去らざるをえなくなったパウロは、この募金活動を完了するために、今までに設立した異邦人諸集会を訪れ、献金をまとめてエルサレムに届けようとします。パウロはアジア州のエーゲ海沿いの諸都市を訪れ、トロアスでかなり福音活動をして、対岸のマケドニア州に渡り、フィリピやテサロニケを訪れ、そこから(おそらく)エグナティア街道を西進してイルリコン州で福音活動をした後、アドリア海に出て、ニコポリスなどを経てコリントに至ります。コリントで越冬(五五年から五六年にかけての冬)して、エルサレムへ向かう春の船便を待ちます。そのコリント滞在中に、パウロはローマの人たち宛の手紙を書きます。この「ローマ書」は、パウロが生涯をかけて告知した福音の内容を包括的に提示する文書として、新約聖書の中でもっとも重要な文書となりますが、同時にこの時のパウロの状況と心境を示す証言として重要です。
 エルサレム共同体への募金は、パウロにとってはたんなる経済的援助ではなく、終末的なイスラエルに異邦人が参与することを証示するという救済史的な意義を担う重要な活動でした(ローマ一五・一六)。しかし、「ユダヤ教絶対主義」的な体質を残すエルサレム共同体が、無割礼の異邦人共同体からの献金を受け入れるかどうかについて、パウロは不安を感じています(ローマ一五・三一)。パウロは、ローマ帝国東部での福音活動を終えた今、ローマを拠点として帝国の西部に活動を進め、西の果てのイスパニア(スペイン)にまで福音をもたらそうと計画しています(ローマ一五・二二〜二四)。しかし今は、この献金をエルサレムに届けることが急務です(ローマ一五・二五〜二八)。パウロはエフェソにいるときはまだ自身が行くことを決めていませんでしたが(コリントT一六・三〜四)、ここで身の危険を承知の上で、献金を届ける異邦人諸集会の代表者と一緒にエルサレムに上る決意を固めます(ローマ一五・三〇〜三二)。
 このようにエルサレム共同体への募金活動はパウロにとって重要な働きでしたが、奇妙なことにルカはこの募金活動について一切触れていません。これは、この献金がエルサレム共同体に受け入れられず不首尾に終わったことを知っているので、パウロのこの活動に触れるのを避けたからだと考えられます。

エルサレムでの逮捕と裁判

 現代のような便利な送金制度がなかった古代では、多額の現金を遠い地に持参するには、途中で盗賊や遭難などの危険を予想しなければなりませんでした。それに、モーセ律法に対するパウロの言動を許し難い冒?と感じているユダヤ人たちがパウロの命を狙って暗殺団まで組織しています(二〇・三)。パウロは異邦人諸集会の代表者たちと一緒に出発しますが、予定を急に変更したり、苦心して危険を避け、エルサレムへの旅に出発します(二〇・三〜六)。
 エルサレムへの旅については、ルカは出発から到着まで、同行者の一人として「わたしたち」を用いた詳しい旅行記を書いています(二〇・三〜二一・一六)。その内容の詳細はここでは省略せざるをえませんが、この旅行記の性格について簡単に触れておきます。ルカはその二部作でイエスの物語と使徒たちの物語の間に対応関係を見ていますが、この長いパウロのエルサレムに至る旅を、イエスの受難の地エルサレムへの最後の旅に対応するものとして書いているようです。この旅においてパウロは、自分の受難と死を予告しながらエルサレムに向かっています。その典型的な実例はエフェソの長老たちにした告別の説諭です(二〇・一七〜三八)。これはパウロの「訣別遺訓」です。ルカは明らかにこれをパウロとエフェソの人たちの最後の別れの時としています(二〇・二五、三八)。これはルカがローマでのパウロの最後を知っていることの有力な論拠になります。
 エルサレムに到着したパウロは、翌日同行した異邦人集会の代表者たちを伴って、エルサレム共同体の代表者「主の兄弟」ヤコブと長老たちに会います。この時にはペトロもヨハネもエルサレムにはいません。この五六年の会談は、エルサレム共同体に献金を渡すことがおもな目的であるのに、献金問題に触れることのないルカは、ここでもその成り行きについて何も語っていません。ただ、ヤコブがパレスチナ・ユダヤ人信者の間にパウロに対する激しい反感があることを伝えて、パウロに律法順守の姿勢を示すために神殿での清めの祭儀に参列するように勧めたことを伝えています(二一・一七〜二六)。この事実は、エルサレム共同体がそのままでは献金を受け取ることができなかったことを示唆しています。
 パウロがヤコブの勧めに従って神殿に入ったとき、エフェソでパウロを訴えて失敗したユダヤ人たちが、パウロが異邦人を神殿の聖域に連れ込んだとして騒ぎ立て、パウロを捕らえて殺そうとします。その時、ローマの軍隊が出動してパウロを拘束し兵営に連行します。この時からパウロは、騒乱を引き起こした罪でローマ総督の裁判を受ける身となります(二一・二七〜三六)。
 パウロは連行されるとき、エルサレムのユダヤ人民衆に自分が受けた啓示と使命を語り弁明します(二一・三七〜二二・二一)。さらに最高法院でも証言します(二二・三〇〜二三・一一)。パウロを律法の冒?者として激しく憎むユダヤ人たちがパウロを暗殺する計画を立てていたことが伝えられ、パウロはローマ兵士によってカイサリアにいる総督フェリクスのもとに護送されます(二三・一二〜三五)。総督フェリクスはパウロの裁判を開きますが、判決を延期して、二年間パウロを拘禁したままにします(二四・一〜二七)。フェリクスの後任として赴任した総督フェストゥスは裁判を再開しますが、パウロは皇帝に上訴します(二五・一〜一二)。そのとき、新総督のところに表敬訪問してきたアグリッパ王(当時彼はヘロデ大王に匹敵するユダヤ全土の王になっていました)に向かって、パウロは堂々と自分の回心から告知する福音の内容を語り、王に信仰を説きます(二六・一〜三二)。

エルサレムとカイサリアにおけるパウロの裁判について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音V』373頁「第三節・エルサレムでの逮捕とパウロの裁判」を参照してください。

 ルカは入手しうるかぎりの資料を駆使して、エルサレムとカイサリアにおけるパウロの裁判を詳しく描いています。この長い裁判の記事はルカの構想によるものですが、ルカはイエスの裁判とパウロの裁判を対応するものとして描いています。イエスの場合は資料はごく限られたものでしたが、パウロの場合は同行者としてかなり詳しい資料を入手していたようで、詳しく描いています。パウロは、ローマ総督には騒乱を引き起こす者として訴えられていますが、実際は律法(=ユダヤ教)に対するパウロの言動をユダヤ教に対する許し難い冒?として激しく反発したユダヤ人たちの執拗な訴追です。

ローマへの護送とパウロの殉教

 皇帝に上訴したパウロは、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスに引き渡され、ローマに向かう船便で護送されます。ところがその船がクレタ島沖で暴風に遭い遭難します。船は積み荷を投げ捨てて一四日もアドリア海を漂流し、ようやくマルタ島に漂着します。マルタ島で三ヶ月を過ごし越冬しますが、その間もパウロは病人をいやすなどして福音を宣べ伝えます。マルタ島から別の船便でイタリア本土に上陸し、陸路ローマに入ります。このカイサリアからローマに至る航海を、ルカはその航海を共にした一人として、「わたしたち」の文体を用いて、航路、寄港地、船籍など航海の基本的な事項だけでなく、船首の飾り、風の名称、浅瀬の名称、乗員の人数に至るまで詳しく物語っています(二七〜二八章)。
 パウロはついにローマに入ります。念願していたようにローマの集会に迎えられるという形ではなく、皇帝の裁判を受ける未決の囚人としてローマに到着します。しかし、ルカにとっては諸国民への使徒パウロがついに帝国の首都ローマに入り、そこで「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(二八・三一)ことを報告すれば、それでこの著作の目的は達せられたのであり、その裁判の結果に触れることなく、ここで叙述を打ち切ります。ルカは彼の二部作の第二部(使徒言行録)を、福音がエルサレムからローマへ進展することを主題として叙述したのです。
 ルカはその裁判の結果を知っているはずです。無罪として釈放されたのであれば、この著作の護教的意図に沿う重要な事実ですから、それを省略することは考えられません。むしろ、先に見たように、エルサレムへの旅が諸集会への訣別を告げる旅として描かれている事実から、ルカがパウロの有罪判決と処刑を知っていたとしなければなりません。
 諸国民への偉大な使徒パウロは、志半ばで殉教しますが、パウロがエーゲ海地域に形成した異邦人諸集会は、その後の福音の展開の主要舞台として重要な役割を果たすことになります。

ローマへの護送、二年間にわたるローでの拘禁、ネロの裁判について、詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音V』390頁「第四節・ローマへの護送とパウロの殉教」を参照してください。フェストスの総督在位は五九年から六二年と推定されます。パウロの裁判は新任総督へのアグリッパ王の表敬訪問の時に行われていますから、五九年と見られます。その年に裁判が行われて上告が認められ、すぐにローマへの護送が始まったとすると、マルタでの一冬を経て、ローマ到着は翌六〇年ということになります。そうすると、パウロはその二年後の六二年に、ネロ帝による裁判で有罪となり、殉教の死を遂げたと推察せざるをえません。

補説 パウロの最後についての牧会書簡の証言

 新約聖書にあるテモテへの二つの書簡とテトスへの書簡は、パウロの名で書かれていますが、実際はパウロ以後の著者によるものであると広く認められています。この三書簡は、扱っている共同体の状況がパウロの時代からかなり隔たっていることや、文体と用語もパウロのものとは違っています。しかし、「牧会書簡」とまとめて呼ばれるこの三書簡の中でテモテへの第二の手紙には、パウロの知り合いの人物名が多く出てきて、パウロの最後の日々の個人的消息を推測する手がかりになります。この手紙は、新約聖書の書簡の中で(ローマ書一六章を別として)個人名が一番多く出てくる書簡です。
 牧会書簡はパウロ以後の人物による「パウロ名書簡」であるとしても、このような個人的消息は著者が創作したものではなく(パウロを個人的に知っている人たちが生存している時代に作り話が流布することは不可能です)、何らかの信頼できる資料を用いていると考えられるので、牧会書簡の記事からパウロの最後の日々の状況を推察することが許されるでしょう。もし牧会書簡の著者が宛先人であるテモテ自身であるとすると(その可能性も十分あります)、著者は自分宛のパウロの手紙の一部を用いたことになります。以下、テモテへの第二の手紙をパウロの手紙として、少なくとも個人的消息を語る部分はパウロの手紙の一部と見て、パウロの最後の様子を推察してみましょう。

牧会書簡の中で、テトス書とテモテ書Tが共通点を多くもち、かつそれらが非パウロ的であるのに対して、テモテ書Uがその二書簡とは違い、むしろパウロ書簡と共通点が多いことから、テモテ書Uはパウロの真正の獄中書簡であることを主張する学説もあります。詳しくは、左記の箇所を参照してください。
J.Murphy-O'Connor, PAUL, A Critical Life, 1996 p.357
Murphy-O'ConnorはテモテUの真正性を擁護する議論の中で、それを偽書とする議論の多くが、テトス書とテモテ書Tについての議論を根拠としているとし、方法論上の誤りを指摘しています。牧会書簡を一体としてその真正性を議論することは再検討されなければならないと思われます。

 テモテへの第二の手紙によると、パウロはローマの獄中にいます(一・一六〜一七)。しかも「犯罪人のように鎖につながれています」(二・九)。この状況は、ルカが使徒言行録の最後(二八・三〇〜三一)で描いているパウロの状況とは違っています。裁判が始まって(四・一六)、状況が変わったのかもしれません。パウロはこの獄中で処刑を覚悟してこの手紙を書いています(四・六〜八)。それでこの手紙はパウロの最後の手紙、すなわち遺書の性格を帯びています。
 パウロはエフェソにいるテモテに、冬になる前に(四・二一)急いでパウロのところに来るように頼んでいます(四・九)。冬になって船便がなくなると、パウロがこの世にいる間に会えなくなる恐れがあります。アジア州(おそらくエフェソ)出身のティキコをエフェソに遣わしたのは(四・一二)、テモテがパウロのところに来る道案内をさせるためでしょうか(パウロの居所を探すのは困難であったことは後述)、それともテモテが去った後のエフェソの共同体を指導させるためでしょうか。パウロはテモテに、マルコを連れてくるようにとか、トロアスのカルポのところに置いてきた外套を持ってくるようにとか(冬の獄舎は耐え難い寒さです)、羊皮紙の書物(聖書?)を持ってくるようにとか、きわめて具体的な指示をしています。銅細工人アレクサンドロは、テモテT(一・一九〜二〇)で名をあげられているアレクサンドロと同じ人物であると考えられます。
 パウロはローマの獄中で、多くの同志や友人から見放されたか、接触がとれない状況で、孤立無援です。元同労者のデマス(フィレモン一・二四、コロサイ四・一四)は、この世を愛し(=身の安全を図って)、パウロを見捨ててテサロニケに去って行きました。クレケンスやテトスは福音活動のためにガラテヤとかダルマティアに行ったのかもしれません(四・一〇)。いずれにせよ、パウロが頼れる親しい同志はみな遠くにあって接触ができません。ルカだけがパウロのところにいて(四・一一)接触を保っています。ルカはローマに護送されるパウロと最後まで一緒にいて、その様子を「われら章句」で伝えた人物です。この手紙もルカの手で発送されたのかもしれません。

牧会書簡は、ルカが使徒言行録の結尾として書簡形式でパウロの最後を伝えたものと見る説があります(ABDの J.Quinn )。

パウロのような大使徒がその最後において深い孤独を感じざるをえないような状況に置かれていたことは意外です。パウロの最初の弁明(法廷)では「だれも助けてはくれず、皆わたしを見捨てました」と言っています(四・一六)。とくにエフェソを中心とするアジア州であれだけの大きな働きをしたパウロが、「アジア州の人々は皆、わたしから離れ去りました」(四・一五)と言っているのには驚きます。その中でエフェソのオネシフォロだけが、パウロが囚人であることを恥と思わず、パウロがローマに送られたという噂か知らせを聞いて、はるばるローマまで来て、パウロの居所を懸命に探し、ついに探し当て、囚人パウロに面接して励ましたことに、パウロは大いに感謝しています(四・一六〜一八)。当時の世界で最大の都市ローマ(町名も番地もない巨大都市)で、パウロとつながりのある信者を捜し当てることはきわめて難しいことでした。

ここに名をあげられているオネシフォロは、フィレモン書のオネシモと同一人物であるとする見方も可能です。当時のローマ社会では人の名は短縮形で呼ばれることがよくありました(プリスキラはプリスカと呼ばれていました)。オネシモはオネシフォロの短縮形である可能性があります。エフェソで人目にも目立つくらいパウロに仕えた人物(四・一八)としては、まずフィレモン書に出てくるオネシモが思い浮かびます。ここのオネシフォロがオネシモと同一人物であるならば、奴隷オネシモはパウロの願い通りに解放されて、パウロの忠実な助手となり、パウロに仕え、パウロの最後の時にも一緒にいたことになります。また、フィレモン書の講解で述べたように、イグナティオス書簡に出てくる「エフェソの監督オネシモ」は、フィレモン書のオネシモと同一人物であり、彼は後にはエフェソ集会の監督にあげられ、エフェソにおけるパウロ書簡の収集に重要な役割を果たした可能性があります。「フィレモン書のオネシモ=テモテ書のオネシフォロ=イグナティオス書簡のエフェソの監督オネシモ」は推察ですが、事実である可能性は高いと考えられます。

 ここで「彼(オネシフォロ)は、わたしが囚人の身であることを恥とも思わず」(一・一六)とあることが注目されます。この書簡の一章には、「わたしが主の囚人であることを恥じてはなりません」(一・八)とか、「わたしはそれ(囚人であること)を恥じていません」(一・一二)とか、「囚人であることを恥じる」という表現が三回繰り返されています。これは、パウロが囚人としてローマの最高法廷である皇帝の裁きを受けるようになったことで、信者の間に動揺が起こったことを反映しているのではないかと考えられます。多くの信者や友人がパウロから離れ去ったのも、重大国事犯として鎖につながれている囚人パウロを恥じたからでしょう。
 パウロはこの最後の手紙で愛弟子テモテに、そしてテモテを通してキリストの民の共同体に、囚人パウロを恥じることのないように語りかけています。福音のために囚人となっているパウロを恥じることで、福音を恥じることにならないように励ましています(ローマ一・一六)。これは、十字架につけられたイエス・キリストを恥じることなく言い表す信仰と同一線上にあります。
 手紙の結びの挨拶(四・一九〜二二)で、パウロはまずプリスキラとアキラに挨拶を送っています。この夫妻は最後までパウロが最も信頼した同労者でした。パウロがローマ書を書いた時にはローマにいたこの夫妻は(ローマ一六・三)、この時にはエフェソに移っていたことになります。オネシフォロは今ローマにいるのですから、パウロはエフェソの留守宅に挨拶を送ります。エラストはコリント集会の人で、市の経理係でした(ローマ一六・二三)。トロフィモはアジア州の諸集会を代表してパウロと一緒に献金をエルサレムに届ける旅に加わった人です(使徒二〇・四)。
 パウロは最後に「エウブロ、プデンス、リノス、クラウディア、およびすべての兄弟」からの挨拶をテモテに伝えています。ここに名をあげられている人々は、獄中のパウロと接触したローマの兄弟姉妹たちであると見られます。その中のリノスは、ローマにおけるパウロとペトロの殉教の後、ローマ共同体の最初の監督に任じられた人物として、エイレナイオスの『異端論駁』(三巻三・三)とエウセビオスの『教会史』(五・六)にその名が出てきます。
 このパウロの最後の手紙は、処刑を覚悟しなければならない孤立無援の厳しい外面的状況と、死に直面しながら信仰の勝利に溢れている使徒の内面の対比が鮮やかに感じられます。この状況で、パウロは希望に溢れて静かに語り出します。

 「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」。(四・六〜八a)

 そして、使徒はその栄冠を自分だけのものとはせず、同じ信仰の仲間と分かちあいます。

 「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」。(四・八b)