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第四節 キリスト信仰の進展 ― イエスとパウロの間

はじめに ― 用語について

 前節でパウロが第二次伝道旅行に出発するところまでを見ました。次章においてパウロの異邦人伝道活動の主要部分とその福音告知の内容を見ることになりますが、その前にイエスの復活から始まったキリストの福音告知の活動において、パウロに至るまでのこの時期に、「キリスト」がどのように理解され、信じられ、告白されるようになっていったのかを見ておきたいと思います。
 そのさい本稿で用いる用語について一言しておきます。「キリスト」を理解し言い表す仕方を、神学では「キリスト論」と呼びますが、「キリスト論」という呼び方は、新約聖書時代には馴染みません。キリストとわたしたち人間との関わり方には様々な側面があります。キリストは、聖霊によって体験され、賛美され、言い表され、その理解は議論され、組織的に記述され、世界に告知されます。新約聖書はその「キリスト」を証言する文書です。「キリスト論」という用語は、その体験のロゴス的表現を指すだけの印象があり、その全体を指すのには適切ではないと感じます。このキリスト体験と理解の全体を指す適切な用語はまだ見つかりませんので、本稿では「キリスト信仰」を用います。この用語を用いる意味は、以下の論述の中で触れることになります。

序 ― イエスとパウロの間

 すでに「第一章 エルサレム共同体の成立」の最後に置いた「エルサレム共同体のキリスト告知」の項(本書150頁以下)で、成立したばかりのエルサレム共同体が周囲のユダヤ教徒に、復活されたイエスこそ神が終わりの日にイスラエルに送ると約束されたメシア・キリストであり、そのキリストがどのような働きをするキリストであると告知したのか、その内容をまとめておきました。そして、「第二章 ユダヤ教の外に向かう福音」の最後の「ギリシア語系ユダヤ人の福音告知」の項(本書238頁以下)で、そのイエス・キリストが「主《キュリオス》」という称号で呼ばれるようになった消息を見ました。アンティオキア共同体は、内容上はエルサレム共同体から受け継いだ同じ「イエス・キリスト」を告知したのですが、「イエス・キリスト」が一人の人の名前のように理解される異邦人世界で、この方の地位を示すために「主《キュリオス》」という称号を用いたのでした。
 この「第三章 エルサレムとアンティオキア」において、最初期前期の福音活動を担う二つの代表的な共同体のそれぞれの分野での活動(ユダヤ人に対する活動と異邦人に対する活動)の概略と、エルサレム会議を中心とする両者の関わりを見てきましたが、その最後にアンティオキアでの食卓事件を契機としてパウロがシラスと共に、アンティオキア共同体とは別に新しい異邦人伝道に出発するところまで来ました。次の「第四章 パウロの異邦人伝道」において、パウロが広く世界に告知した福音の内容、すなわちパウロはどのようなキリストを告知したのかを扱うことになりますが、その前にここで、イエスとパウロの間の期間に起こった福音の進展、すなわちキリスト信仰とキリスト告知の内容上の進展を概観しておきたいと思います。
 そのさい、これまでの叙述においても示唆してきましたように、「福音告知」と「キリスト告知」は同じことを指しています。福音を告げ知らせるとは、キリストを告げ知らせることです。福音とは、神がキリストにおいてわたしたちを救う働きを成し遂げてくださったという喜ばしい告知です。この告知はすでに独自の形でイエスにおいて始まっていますが、パウロにおいて世界に告知される福音となりました。その間に何が起こったのか、どうしてイエスが片田舎のガリラヤで周囲の同胞ユダヤ人に宣べ伝えられた神の救いの福音が、当時の全世界であるヘレニズム世界のすべての民族に宣べ伝えられる福音になったのか、その事情を探るためにイエスとパウロの間の期間に起こったキリスト信仰の進展をたどってみたいと思います。ここで「キリスト信仰の進展」というのは、福音活動の地理的な拡大のことでなく、キリスト信仰の内容の深化と拡張を指しています。そのために、イエスご自身の福音告知の活動から始めます。

実は、この「イエスとパウロの間」という標題で、M・ヘンゲルが一書を著しています。M・ヘンゲル『イエスとパウロの間』(土岐健治訳、教文館、聖書の研究シリーズ59)です。本節「キリスト信仰の進展」はこの書に多くを負っています。

T イエスの福音告知

共観福音書における「福音」の用例

 イエスの働きを伝える福音書にも「福音」という名詞や、「福音する(福音を告げ知らせる)」という動詞が現れます。厳密に言うと、ヨハネ福音書にはなくて、共観福音書だけに現れます。では、イエスが「福音を告げ知らせる」という働きをされたという記事は、イエスの働きのどういう内容を指しているのでしょうか。何を意味しているのでしょうか。
 最初に用語の分布を見ておきます。マルコ福音書には「福音」という名詞が八回出てきますが、「福音する」という動詞は出てきません。それに対してルカ福音書では、「福音する」という動詞は一〇回出てきますが、「福音」という名詞は出てきません。マタイ福音書は、名詞形が「御国の福音」という形で三回と「この福音」という形で一回、計四回出てきます。動詞形は「福音を告げ知らされている」という受動態で一回出てくるだけです。

念のために出てくる箇所をあげておきます。
マルコ福音書における名詞形 ― 一・一、一・一四、一・一五、  八・三五、一〇・二九、一三・一〇、一四・九、一六・一五
ルカ福音書における動詞形 ― 一・一九、二・一〇、三・一八、四・一八、四・四三、七・二二、八・一、九・六、一六・一六、二〇・一
マタイ福音書
   「御国の福音」(名詞形) ― 四・二三、九・三五、二四・一四、   「この福音」 (名詞形)― 二六・一三 
 「福音を告げ知らされている」 (動詞形)― 一一・五

 このような分布を調べてまず気がつくことは、この用語がいわゆる「編集句」に用いられていることです。すなわち、福音書の著者が伝承を用いて福音書を記述するとき、伝承資料のつなぎ目にイエスの行動を要約して描くために入れる文章に用いられていることに気づきます。たとえば、マルコ福音書一・一四、ルカ福音書八・一、二〇・一、マタイ福音書四・二三、九・三五などが典型的な例です。
 他にイエスご自身が「福音」という語を用いて語られたとされる箇所があります。マルコ福音書で見ると、「わたしのために、また福音のために」という形で出てくるところがありますが(マルコ八・三五、一〇・二九)、これと並行するマタイとルカには「福音のために」という句はありません。この句はマルコによる付加であると考えられます。
 また、イエスが「時は満ちた。神の国は近づいている。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ 一・一五)と告知されたとされているのも、イエスの告知の言葉をマルコが要約して表現したものと見られます。マルコはすでに何十年も最初期共同体の福音告知の活動に携わり、「福音を信じなさい」と叫び続けてきました。その表現をイエスの活動を要約する宣言の言葉に用いたのも理解できます。それだけでなく、イエスが語られた自分たちの時代の出来事を預言するようなお言葉を伝えるのに、自分たちがしている活動を表現する用語を用いたのも理解できます(マルコ一三・一〇、一四・九)。そして、自分の著作の標題的な位置に「イエス・キリストの福音」という表現を置きます(マルコ一・一)。
 マタイはパレスチナ・ユダヤ人によるユダヤ教内の福音活動の流れに属する律法学者的素養の人物です。この流れが生み出した「語録資料Q」では、「福音」という用語は使われていません。したがって、本来マタイは「福音」という用語とは疎遠な関係です。「福音」という用語は、ギリシア語系ユダヤ人の福音活動の中で、とくにパウロの福音活動の中で中心的な用語になったものです。パウロとも深い関わりにあったマルコが、自分の著作に「イエス・キリストの福音」という標題をつけるに至るのです。マタイはこのマルコ福音書を受け入れて、その枠組みの中で自分の福音書を構成したので、イエスが語られた「神の国」の告知を「御国の福音」と呼ぶようになります。マタイ福音書で「福音」という語が現れるのは、マタイがイエスの教えの言葉の集成を指す時に用いる「御国の福音」の三カ所(四・二三、九・三五、二四・一四)だけで、イエスの言葉には現れません(マルコに従ったと見られる二六・一三を例外として)。
 ルカもマルコ福音書を枠組みとして用いて自分の福音書を書いています。しかもルカはパウロの福音活動の流れに属する人物ですから、当然イエスの活動も福音という視点から描くようになります。しかし、そのさいルカは「福音」という名詞は使いません。イエスの活動を描くのにいつも「福音する、福音を告げ知らせる」という動詞を用います。イエスが「神の国」を主題として教えられたことは、イエス伝承によって十分知っているルカは、この動詞を用いるにさいして「神の国」を目的語とし、「神の国を福音する」という表現をとることになります(ルカ四・四三、八・一、一六・一六)。しかしルカは、イエスや弟子の活動全般を(目的語なしで)ただ「福音する」という動詞で指すこともあります(七・二二、九・六、二〇・一)。

ルカが「福音」という名詞の使用を避けた理由については、拙著『福音の史的展開U』482頁の「ルカ福音書における『福音』」を参照してください。

「福音」という用語の源流

 ルカはナザレの会堂での出来事を最初に置いて、そこでのイエスの宣言をイエスの活動全体の綱領的な宣言としています(ルカ四・一六〜三〇)。その宣言で、イエスはイザヤ書(六一・一〜二)を引用して、その預言を成就する者として来たとご自分の使命を宣言しておられます。そのイザヤの預言は、主の霊を受けた者(油を注がれた者)が敵対的な力に捕らわれていた人を解放し、主の恩恵の時代の到来を告知することを預言し、その方の活動を「福音を告げ知らせる」という表現で語っています。この引用は、最初期共同体の活動の中心概念となる「福音」という表現の出所を示唆する重要な引用です。
 最初期前期の福音活動はユダヤ人によって担われました。彼らが福音を告げ知らせるとき、メシア・キリストとしてのイエスの出来事も、自分たちがしている福音告知の活動もすべて、彼らが神の約束の言葉として信じている聖書(旧約聖書)の成就として理解し、そう宣べ伝えました。そのさい、終わりの日に神が成し遂げてくださる救済の働きが、バビロン捕囚からの解放を語るイザヤ書の預言の終末的実現として理解され、イザヤがその解放の告知を指す語として用いている「良い知らせ」という用語が注目されるようになります。その箇所をあげておきます。

 高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。(イザヤ四〇・九)

 いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。(イザヤ五二・七)

 主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。(イザヤ六〇・一)

 このヘブライ語聖書の「良い知らせ」を七十人訳ギリシア語聖書は「福音」《エウアンゲリオン》という語で訳したのです。もともとこの《エウアンゲリオン》というギリシア語は、《エウ》(良い)と《アンゲリオン》(知らせ、告知)が合成された語で、戦勝の報知とか新皇帝の即位の告知を指す用語でした。七十人訳ギリシア語聖書がイザヤの預言にある「良い知らせ」を《エウアンゲリオン》というギリシア語で表現したのは、適切な訳語であったと言えます。この《エウアンゲリオン》というギリシア語を、日本語訳聖書は「福音」、すなわち喜ばしい音信(使信)という意味の漢字で訳すことになります。

「福音」という熟語は、キリスト教世界の外の日本社会ではいまだに定着していないように感じられます。「フクイン」という読み方からはじめて、その意味を説明しなければならない現状です。しかし、他に適切な用語がないので、この伝統的な漢字を使い続けることになります。

福音におけるイエスと使徒たちの同質性と違い

 この「福音」《エウアンゲリオン》という用語が最初期の共同体で用いられるようになる経緯は、次項以下で扱うことになります。この項(T イエスの福音告知)では、イエスの働きについて用いられている「福音」とか「福音する」という語の用例を見てきました。その用例から推察できることは、イエスが用いられたとされる「福音」とか、イエスが「福音する」活動をされたという記述は、最初期共同体がしている福音活動をイエスに投影して記述したものであるということです。イエスご自身は、アラム語で弟子たちや周囲のユダヤ人たちに語られたのですから、《エウアンゲリオン》というようなギリシア語を用いられたわけではありません。福音書の記述は、イエスが御霊によって体現しておられる終末的な神の恩恵の支配を告げ知らされた活動を、ギリシア語を用いて福音を周囲の世界に伝えている最初期共同体が、自分たちがしている福音活動の用語で語った結果です。
 この事実、すなわち最初期の共同体が自分たちの福音活動の用語でイエスの働きを語ったという事実は、イエスと最初期共同体の活動の同質性と継続性を指し示しています。最初期の共同体はイエスとは全然別のことを告知し始めたのではありません。彼らはイエスがしてこられた福音告知の活動を引き継いで、イエスと同じ内容を告知をしていると自覚していたので、自分たちの福音告知の活動を語る用語でイエスの活動を記述したのです。
 では、その「同じ内容」とは何でしょうか。これはイエスの告知と最初期共同体の告知の両方を詳しく検討して比較しなければなりませんが、ここで先に結論を述べておきますと、イエスも最初期共同体も同じく、終わりの日に実現すると約束されていた神の恩恵による救済の到来を告知したのです。ルカの二部作で言いますと、第一部の福音書でイエスの活動を語り、第二部で最初期共同体の活動を記述しますが、その両方で「福音する」という用語で、終末的な救済の告知が描かれています。
 最初期共同体の福音告知を担ったのは使徒たちです。イエスと使徒たちの福音告知は同質であると言いましたが、両者には決定的な違いもあります。それは、イエスの福音告知の活動は、十字架と復活という出来事によって終末的な神の救済の出来事が起こる前のことであり、イエスはそれを既に起こった事実として宣べ伝えるのではなく、ご自身の中に霊的現実として到来している終末的救済について比喩を用いて語り、しるしをもって指し示すという形で告知されました。それに対して、使徒たちの福音告知はその出来事が起こった後、その出来事を告知するという形で、終末的な神の恩恵による救済を告知することになったという点です。
 先に使徒たちの福音告知の活動を記述するのに、「福音を告知する」と「キリストを告知する」は同じことであると言いました。使徒たちにとっては、福音とは復活されたイエスをキリストと告知することでした。その復活者キリストにおいて約束されていた神の終末的な救済が成就したのですから、キリストを告知することが福音を告知することだったのです。

イエスの福音告知におけるメシア・キリスト

 では、イエスの場合はどうでしょうか。イエスは終末的救済をもたらすメシア・キリストについてどう語られたのでしょうか。メシア・キリストにかかわるイエスの自覚とか告知は、福音書研究の最大の課題であり難問の一つです。ここでそれを詳しく扱うことはできませんが、今回の最初期共同体の福音告知との関係という視点から要約しておきたいと思います。
 イエスはご自分をメシア・キリストであると告知されませんでした。共観福音書で見る限り、「神の国」を告知する活動において、自分こそ神の支配をもたらすメシアであると宣言されたことはありません。むしろ、そういう見方とか暗示に対して、それを言い表すことを厳しく禁じておられます。
 共観福音書でイエスがご自分のメシアとしての身分を示唆する出来事や弟子たちの理解を言いふらさないように命じられたこと、すなわちイエスがご自身のメシアであることを秘密にしようとされたことは、W・ヴレーデの『メシアの秘密』という著作の刊行(一九〇一年)以来、その意義について多くの議論が重ねられてきました。共観福音書にはそのような「メシアの秘密」の動機があるといっても、子細に吟味すると、その動機はマルコ特有のものであることが分かります。マタイとルカがマルコに従っている箇所では、マルコを引き継いでイエスがメシアであることを秘密にしようとされたという記事がありますが、マタイとルカがマルコから離れて、「語録資料Q」や各自の特殊資料に基づいて独自の段落を形成しているところには、そのような記事はありません。この事実は、ご自分の身分を秘密にしようとされたという「メシアの秘密」の動機は、マルコ福音書について検討しなければならないことを求めています。
 イエスはご自分がメシア・キリストであることを秘密にしようとされたとするマルコ福音書に対して、ヨハネ福音書のイエスはご自分が神から世に遣わされた者であることを明白に、しかも繰り返しユダヤ人たちに宣言しておられます。ヨハネ福音書において「神から遣わされた者」は、預言者たちの中の一人ではなく、定冠詞つきの大文字単数形の意味であり、終末的な意味で神の約束を成し遂げるために遣わされた唯一の人物、すなわちキリストを指します。ヨハネ福音書は、イエスが神の自己宣言句である「わたしはある」《エゴー・エイミ》という句を用いて、自分がそれであることを宣言されたとしています。
 そもそも「福音書」という文書は、イエス伝承を用いてキリストを世界に告知しようとする文書です。イエスが地上でなされた働きや語られた言葉を伝える伝承が「イエス伝承」ですが、それを用いて地上のイエスの姿を伝え、そのイエスが復活してキリストして立てられ、いまこのキリストであるイエスを信じる者を救われるのだという福音を世に告知しようとして著された文書です。それはイエスの伝記ではありません。あくまで福音を告知するための文書、すなわちキリストを世に告知するための文書です。福音書がそのような性格の文書である以上、地上のイエスの姿と最初期共同体が告知する復活者キリストが重なってくることは当然です。ただその重なり方が各福音書によって違ってくるだけです。

「メシアの秘密」

 各福音書のキリスト告知の仕方の違いについては、後の章で福音書を扱うときに詳しく検討することになりますが、ここではイエスの働きと最初期共同体のキリスト告知とのつながりを検討するのに必要な最小限の概観をしておきます。
 復活者キリストを世界に告知しようとする福音書の基本的性格からすると、マルコ福音書よりもヨハネ福音書の方が本来の福音書の性格をいっそう素朴に示している、とわたしは感じています。しかし、地上のイエスの実際の言動を伝える記録としては、いつもイエスと一緒に行動したペトロが伝える伝承に基づいているとされるマルコ福音書の方が、事実に近いと考えられます。すなわち、地上のイエスは、最後の裁判における宣言までは、その働きの期間中はご自分がメシア・キリストであるという宣言はされなかったと見られます。
 その事実を伝えるマルコは、キリストであるイエスがそれを宣言されなかった理由、言い換えればキリストとして世に現れなかった理由を説明しなければなりません。マルコはその理由を、イエスご自身がそれを秘密にしようとされたからだとします。しかし、その秘密は十字架・復活までです。十字架・復活によってキリストとしての働きが成し遂げられ、イエスが復活者キリストとして顕現されるときには、その秘密はもはや秘密ではなくなります。このことをマルコは、イエスご自身の言葉として次のように表現しています。

 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。(マルコ九・九)

 この御言葉は、山の上でイエスの姿が変わり、一瞬神の子キリストとしての栄光が人間イエスの姿を貫いて弟子たちに顕されるという出来事がありましたが、その山を下りるときに語られたものです。イエスは弟子たちに今見た神の子キリストとしての栄光を秘密にしておくように命じられます。しかし、その命令には、「人の子が死者の中から復活するまでは」という期限がついています。イエスが死者の中から復活される時には、神御自身がイエスを神の子キリストと世界に公示されるのですから(ローマ一・四)、弟子たちはイエスがメシア・キリストであることを秘密にする必要はなく、むしろ神の公示の通りに世界に告知することが求められることになります。この期限は、この場合だけでなく、イエスがメシア・キリストであることを秘密にしておくように命じられた他の場合(マルコ八・三〇など)についても同じです。

秘密にせよとの命令

 このようにマルコ福音書に見られる「メシアの秘密」の動機は、メシア・キリストであると告知しているイエスが、地上の生涯では実際にメシアとして現れなかった理由を説明し、人間イエスと復活者キリストとの重なりをもつ福音書を構成するためのマルコの手法である、と広く理解されています。たしかにそうです。しかし、これはマルコの創作ではありません。実際にイエスがこのように秘密にしておくように命令されたことは、十分事実であると見ることができます。
 イエスの時代とその前後は、ユダヤ教社会に熱心党《ゼーロータイ》の運動が広がり、メシア運動の火の手が次々に燃え上がる時代でした。イエスが行われる奇跡を見た当時のユダヤ人民衆が、イエスをメシアとして戴いて蜂起し、ローマの支配を打破し、ユダヤ教律法が支配する純粋な信仰共同体を樹立するための運動、一つの新しいメシア運動になる可能性は十分にありました。それは、イエスにとっては神から召された道とは違う方向であり、イエスはそのような道に進むことをサタンからの誘惑として厳しく退けなければなりませんでした。したがって、イエスの働きを見て、人々がイエスをそういう意味のメシアだと信じて喧伝することは、極力避けなければならない状況でした。
 それでイエスは、イエスの手によって奇跡を体験した人たちに、その奇跡を言いふらさないように厳しく命じておられます(マタイ一二・一五〜一六)。イエスの身分を知る悪霊に黙るように命じられたのも、このような動機からでしょう(マルコ一・二五)。しかし、この奇跡を言いふらさないようにという命令は守られなかった場合が多かったようです(マルコ一・四四〜四五)。驚くべき神の力を現されるイエスの評判はガリラヤ中に広がり、イエスに対するメシア期待は高まります。この期待は、イエスが荒野で五千人の男たちに食物をお与えになった出来事の時に頂点に達します。彼らがイエスを王として立てようとしているのを察知して、イエスは山に退かれます(ヨハネ六・一五)。
 この頃、イエスをメシアだと言い表したペトロに対して、イエスはペトロが期待するメシアではなく、殺されて復活する人の子であるという奥義を語り出されます。そして、自分がそのような者であることを誰にも言わないように厳しくお命じになります(マルコ八・二九〜三一)。この命令はよく守られたようです。これは弟子たちが命令を守ったというより、そのような事態(イエスが殺されるよう事態)に対する恐怖と、あまりにも理解を超えたことであるので、それを口にすることができなかったのが真相でしょう。
 このように、一口に「メシアの秘密」と言っても、様々な局面があり、口外するなという命令もその動機や結果は一律ではありません。しかし、イエスがそのような命令をされたという事実が伝承され、その伝承を用いてマルコは、イエスが地上ではメシア・キリストとして現れなかったのは、イエスがそれを秘密にすることを命じられたからだとする「メシアの秘密」という動機で理由づけ、それを用いて人間イエスと復活者キリストが重なる福音書を構成することになります。
 なお、イエスがご自身の身分を秘密にしようとされたことと対応して、マルコ福音書では「弟子の無理解」という主題が目立つようになります。弟子たちは最後までイエスが誰であるか、何を成し遂げようとしておられるのかを理解することができませんでした。これは、イエスがご自身の身分を秘密にしようとされたことの当然の結果です。ペトロのメシア告白さえ、イエスから「サタンよ、退け」と叱責される程度の理解です。この弟子の無理解という主題は、マタイとルカでは変化しますが、その詳細は福音書を扱うときに譲ります。

イエスの自称と自覚

 では、イエスはご自身の身分をどのように自覚し、どのように語り出されていたのでしょうか。イエスのような方の内面を理解することなど、とうていできないことです。伝えられているお言葉の端々からその一端を推測する他はありません。そのさい手がかりになるのは、イエスが引用したり関連を示唆される聖書の言葉です。イエスも一人のユダヤ人として、聖書(旧約聖書)が神の言葉として権威をもっているユダヤ教社会に生き、そこで活動された方です。その思いと言動が聖書の言葉や概念によって形成され表現されるのは当然です。
 ここでそれを詳しく扱うことはできませんので、結論だけを述べることになります。イエスは神の霊を受けていることを深く自覚しておられたはずですが、聖書で「油を注がれた者」が任じられる祭司とか預言者とか王のような身分の者とはされませんでした。たしかにイエスは、神から世に遣わされて神の言葉を語る預言者であり、イエスもご自分のことを預言者としておられるところがあります(ルカ四・二四、一三・三三)。また、イエスが十字架上に死なれたとき、究極の献げ物を献げる祭司の務めを全うされたという面があり(ヘブライ書)、死者の中から復活されたとき、万物を支配する権威ある支配者(王)の地位に上げられたことも事実です。しかし、地上のイエスはご自分がこのような者であることを語られることは(預言者としての一面に触れる場合の他は)ありませんでした。とくに、先に見たように、当時のユダヤ人たちが期待していた熱心党的な、ローマの支配からイスラエルを解放する政治的なメシア王と誤解されることを避けるために、「メシア」という称号は用いられませんでした。
 伝えられているイエスのお言葉の端々から、イエスがイザヤ書にある「主の僕」と自覚しておられたことがうかがえます。イエスがご自分を「主の僕」であると語られたことはありませんが、イエスがご自身の苦難を語られるときの言葉は、そう自覚しておられたことを指し示しています。マルコ福音書の一〇章四四〜四五節や、最後の晩餐のお言葉(マルコ一四・二二〜二四)などはその典型です。
 また、イエスは聖霊を受けて「神の子」として自覚しておられたはずです(マルコ一・一一)。聖霊は子の身分を与える霊です(ローマ八・一五)。その自覚は、イエスが神を父と呼んで深い祈りの交わりに入っておられた事実や、神に関わる発言に垣間見られます(たとえばルカ一〇・二二)。しかし、共観福音書に見る限り、イエスが世に向かって自分が神の子であると宣言されたことはありません。

「人の子」

 イエスが口にされた唯一の称号らしき名は、「人の子」という句です。「称号らしき」と言ったのは、この句は黙示文書では終末時に天から現れて神の審判を執行し神の支配を完成する超自然的な人格の称号として用いられていますが(その代表的事例がダニエル七・一三〜一四)、詩編やエゼキエル書などでは別の意味で用いられ、さらに当時のアラム語の慣用的表現として「ある人」、「わたし」という意味でも用いられる句であり、イエスがどのような意味でこの句を用いられたのかは議論が続いている句であるからです。
 この句はアラム語やヘブライ語では独特の意味内容をもつ句ですが、これをギリシア語で表現した句《ホ・ヒュイオス・トゥ・アントロープー》(人の子)は、ギリシア人にはほとんど意味をなさない不可解な句となります。それで、ギリシア語で異邦人に福音を告知したパウロはこの句を全然用いていません。しかし、パレスチナ・ユダヤ人の間では、イエスだけが口にされたこの句は大切に伝承され、それがギリシア語で伝承されるようになっても、イエスが語られたアラム語の句がそのままギリシア語で表現され、「人の子」《ホ・ヒュイオス・トゥ・アントロープー》という耳慣れない不可解な表現がギリシア語で書かれた福音書に残ることになります。
 当時のパレスチナ・ユダヤ人は黙示思想的終末待望が強烈な人たちでしたから、この「人の子」句が伝承される過程で、イエスが口にされた別の意味の「人の子」が黙示思想の終末的な「人の子」として語り伝えられるようになった可能性があります。しかし福音書ではこの句はイエス以外の誰も口にせずイエスだけがこれを用いておられますので、またイエスがご自分のことを語られるときには、メシアとか他の称号を用いないでこの句だけを用いておられるので、イエスがご自分を何者とされていたのかを探求するさいに最も重要な手がかりになります。
 イエスがこの「人の子」という句を終わりの日に雲に乗って来臨する審判者の称号として用いられた主要な箇所は、神殿崩壊と合わせて終わりの日のことを預言されたとされる「マルコの小黙示録」(マルコ一三章、とくに二六節)と、最高法院における裁判で大祭司の尋問に答えて「わたしはある《エゴー・エイミ》」と宣言された後に用いられた場合(一四・六二)です。両方とも、イエスの簡潔な預言の言葉と宣言が、黙示思想的終末待望に燃えるパレスチナ・ユダヤ人の共同体で伝承される過程で、「人の子」句を含む現在の形に形成された可能性が考えられます。イエスご自身がこの句を用いられたとしても、弟子たちに秘かに語られた説話においてであり、周囲の人たちにこの句でご自身の身分を宣言されたのではありません。
 「人の子」が用いられるもう一つの重要な場面は、受難予告の言葉です(マルコ八・三一、九・三一、一〇・三三〜三四)。本来終末的な栄光の称号である「人の子」が受難予告の文の主語として用いられるようになった経緯は、(拙著『ルカ福音書講解T』415頁で見たとおり)ご自分が指導層の人たちに引き渡されることを予告された謎の言葉に用いられた「人の子」という表現(マルコ九・三一)が、すでに知られている詳しい受難の経緯を加えて受難予告として形成された結果であると考えられます。
 イエスは当時のアラム語の慣用にしたがって、多くの場合、一般的に「(ある一人の)人」とか「わたし」を指す句としてお用いになったと考えられます。そうするとイエスは、最後の最高法院で大祭司の「お前はメシアなのか」という問いに肯定でお答えになるまでは、公の福音告知の活動において、「人の子」を含むメシア・キリストを指す用語でご自分の身分を宣言されることはなかったと言うことができます。

恩恵の支配

 このように、イエスの福音告知の活動において、メシア・キリストを明確に告知することがないのであれば、イエスの働きはどのような意味で福音の告知と言えるのでしょうか。
 イエスは聖霊を受けて、聖霊の力によって活動されました。しかしイエスは、神から聖霊の油を注がれたメシアであるとか神の子であるとは宣言されませんでした。ひたすら聖霊によって自分の中に到来している終末的な神の支配を現し告知されました。その神の支配(神の国)告知の働きは、悪霊を追い出し病気をいやす奇跡の働きと、聖書を解き明かし比喩を用いて神の支配の姿を言葉で告げ知らせる働きでした。その内容の解明は福音書研究の課題ですが、以下の論述とのかかわりで必要な限りで、わたしなりの結論を述べておきます。
 わたしは、イエスの「神の国」告知の内容は、終末的な恩恵の支配の到来を告知するものであると理解しています。聖書(旧約聖書)は、メシアや「人の子」の到来とか、新しい契約の締結とか、終末審判の執行とか、様々な用語とイメージで、創造者なる神の最終的な救済の働きを語っています。しかし、その預言がすべてイエスによって成就したのであれば、その中身はイエスがなされた「神の国」告知から理解されなければなりません。そして、イエスが告知された神の支配とは「恩恵の支配」です。すなわち、神は終わりの時に臨んで、自分に敵対している人間を無条件に受け入れ、御自身のよきものを与え、御自身の栄光にあずかる者とされるのです。この無条件の神のよき働きが恩恵です。そして、この無条件絶対の恩恵が神と人間の関係を決める唯一の原理となっている事態が「恩恵の支配」です。イエスはこの「恩恵の支配」を告知されたのです。
 この「恩恵の支配」の原理は、当時のユダヤ教を支配していた「律法の支配」と真っ正面に対立するものでした。当時のユダヤ教は、神がモーセを通して啓示された律法、実際にはユダヤ教という宗教の諸規定を守り行うことが、神の民として扱われる条件となっていました。この原理からすれば、律法を行う者であるかどうかが条件とならないで、どのような人でも(=ユダヤ教諸規定を守らない人でも)無条件で神の救いを受けるという「恩恵の支配」は、ユダヤ教の根底をくつがえす許し難い背教でした。このために、ユダヤ教の指導層はイエスと対立し、ついにはイエスを殺すに至ります。
 聖霊こそ終末的事態の現臨です。イエスはこの聖霊による終末的事態の現臨の中身を、「恩恵の支配」を告知することによって世に現されました。しかし、そのイエスがそのような終末的事態を世界にもたらすキリストであるという事実は隠されていました。イエスはご自分をそのようなキリストであるとは宣言されませんでした。このイエスこそが、この終末的事態を世界にもたらすキリストであることは、イエスの十字架と復活によって初めて公示されるに至るのであり、聖霊によって十字架されたイエスが復活者キリストであるとの奥義を示された使徒たちによって世界に告知されるようになります。そして、この十字架・復活のキリストにおいて終末的な「恩恵の支配」がすべての民に到来していることが、パウロによって明確に告知されるに至ります。その過程が次項以下の主題となります。

U ユダヤ教内のキリスト信仰の進展

パレスチナ・ユダヤ人

 十字架につけられて殺され、墓に葬られたイエスが、復活して弟子たちに顕現された出来事と、その復活されたイエスの顕現に接した弟子たちが、エルサレムで復活されたイエスをキリストとして告知し始めた経緯は、「序章・復活者イエスの顕現」で述べました。その結果エルサレムに成立したユダヤ人のキリスト信仰共同体の活動とそのキリスト告知の内容は「第一章 エルサレム共同体の成立」でやや詳しく扱いました。この成立したばかりのエルサレム共同体のキリスト告知の内容は、その章の最後の「エルサレム共同体のキリスト告知」の項にまとめました(本書150頁以下)。
 その後のエルサレム共同体の歩み、とくに主の兄弟ヤコブが統率するようになった時期のエルサレム共同体については、「第三章第一節 エルサレム共同体と主の兄弟ヤコブ」で触れ、その最後の「パレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰」(本書278頁以下)の項で、その時期のエルサレム、ユダヤ、ガリラヤ、シリアなどを含むパレスチナ・ユダヤ人の間におけるキリスト信仰の特徴をまとめておきました。
 パレスチナ・ユダヤ人というのは、パレスチナでの流通語であるアラム語を母語とするパレスチナ在住のユダヤ人のことです。当時はパレスチナも、とくに都市部はかなりギリシア化されており、ギリシア語を用いるユダヤ人も多くいましたが、農村部ではアラム語を母語とするパレスチナ生まれのユダヤ人が多数を占めていました。イエスご自身も弟子たちもみなガリラヤ在住のアラム語を母語とするパレスチナ・ユダヤ人でした。サマリアは別として、北のガリラヤと南のユダヤは、エルサレムの神殿とエルサレムの祭司や律法学者たちが構成する最高法院の統治下で、敬虔なユダヤ教徒として暮らしていました。
 上記二つの項で見た福音の進展は、このようなパレスチナ・ユダヤ人の間での進展であり、彼らのキリスト信仰はユダヤ教の枠の中でのキリスト信仰でした。彼らは復活されたイエスをメシア・キリストと信じ、聖霊を受けてキリストの民となりましたが、それでユダヤ教から離れたのではありません。彼らはユダヤ教からキリスト教に改宗したのではありません。その時にはまだキリスト教という宗教は存在しません。彼らはユダヤ教徒としての生活を続け、その中でイエスをキリストと信じる信仰を言い表したのです。彼らは特別な信仰を言い表すユダヤ教徒、いわば「イエス派ユダヤ教徒」であったのです。
 この項では、このようなイエスをキリストと信じたユダヤ教徒のキリスト信仰、すなわちユダヤ教の枠内でのキリスト信仰を扱うことになります。それで、先にあげた二つの項「エルサレム共同体のキリスト告知」と「パレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰」の内容と重なることになりますが、本節の「キリスト信仰の進展―イエスとパウロの間」という視点から、一つにまとめて要約し、その特質を考察しておきたいと思います。

この時期のユダヤ人のキリスト信仰を指すのに、一般の神学書では「ユダヤ人キリスト教」Jewish Christianity という表現がよく使われています。しかし最近、最初期にイエスをメシアと信じたユダヤ人の信仰、とくに「主の兄弟ヤコブ」に代表されるエルサレム共同体のユダヤ人の信仰は、 Jewish Christianity というより Christian Judaism と呼ぶ方が適切であるという主張が強くなっています。彼らは、ユダヤ教からChristianity という新しい宗教に改宗したのではなく、ユダヤ教徒のままであり、彼らの宗教は Judaism(ユダヤ教)であるからです。ただ、そのユダヤ教がイエスをメシア・キリストと信じるという内容をもつ特別なユダヤ教になっただけです。このイエスをメシア・キリストと信じるという信仰を Christianという形容詞で表すならば、彼らの信仰はまさに Christian Judaism と呼ぶことができます。ここでの用語でいえば、「キリスト信仰のユダヤ教」ということになります。

エルサレム・ケリュグマ

 エルサレム共同体を中核とするパレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰はユダヤ教の枠内でのキリスト信仰ですが、ユダヤ教という場に成立するキリスト信仰とはどのような姿になるのか、そのキリスト信仰が時と共にどのように進展していったのか、これが本項(U)の主題になります。
 最初に復活されたイエスの顕現に接し、エルサレムで復活者イエスをメシア・キリストと告知したのは、みなガリラヤから来たパレスチナ・ユダヤ人の弟子たちでした。聖霊の力強い働きによって、彼らの証言を聞いたエルサレムのユダヤ人が大勢、その告知を信じ、イエスをキリストと言い表すようになります。大多数はアラム語を母語とするエルサレム在住のパレスチナ・ユダヤ人だったでしょうが、その中にはかなりの数のディアスポラ・ユダヤ人も含まれることになります。彼らはパレスチナ以外の地中海世界の大都市で生まれ育ったギリシア語を母語とするユダヤ人(ギリシア語系ユダヤ人)で、エルサレムに滞在または来住していた人たちでした。

当時のエルサレムの言語状況については、本書165頁以下の「ギリシア語系ユダヤ人の分離」の項を参照してください。ヘンゲルは、当時のエルサレム人口の10〜15%がギリシア語系ユダヤ人で、残りの大多数はアラム語を母語とするパレスチナ・ユダヤ人であったと推定しています。

 こうして誕生したエルサレム共同体は、イエスの弟子であった使徒たちの指導の下に、キリスト信仰による日常の交わりを深め、周囲のユダヤ人にキリストを告知する働きを進めます。この時期の彼らのキリスト信仰の内容は、彼らが告知したキリスト告知の内容から知ることができますので、その告知の内容を五つの項目にまとめておきます。

1 イエスの復活は、復活されたイエスの顕現を体験した弟子たちが証言する事実でありますが、彼らは同時にその出来事は聖書の約束を成就する出来事であると告知しました。すなわち、神が終わりの日に成し遂げると約束してこられた預言が成就したのです。イエスの復活によって終わりの時代が開幕したのです。「復活のキリスト」の告知です。
2 復活されたイエスは、終わりの日を開始されましたが、その終わりの日における神の支配を完成するために、すぐに栄光の中に来臨され、世界を裁かれることを告知しました。「来臨のキリスト」の告知です。
3 そのメシア・キリストであるイエスが十字架につけられて死なれたのは、その死を民の罪のための贖罪の場とする神の御旨によるものであって、イエスをキリストと信じる者は、そのキリストの贖罪にあずかって罪が赦されることを告知しました。「十字架のキリスト」の告知です。
4 復活してキリストとして立てられたイエスは、このイエス・キリストを信じる者に聖霊を与えてくださる方であることを告知しました。「聖霊によってバプテスマするキリスト」の告知です。
5 イエスはダビデの子孫であり、メシア・キリストはダビデの子孫から出るという聖書の預言を成就する方であると告知しました。「ダビデ系メシア」告知です。

以上の五項目は、先に本書150頁以下の「エルサレム共同体のキリスト告知」でまとめた「キリスト告知の主要内容」を要約したものです。以下のキリスト告知の定型文についての記述もそこの要約です。詳しくはその箇所を参照してください。

 彼らはみなイエスの弟子でした。しかし、彼らがエルサレムで福音告知の活動を始めたとき、彼らはイエスの教えはこうであったとか、イエスがどのような奇跡を行われたとか、そういうことは語らないで、ひたすら十字架につけられたイエスこそ、死者の中から復活してキリストとして立てられたのだという事実を証言し、ここにあげた項目を内容としてキリストを告知したのでした。イエスの教えの言葉とか働きは、後になって信者の共同体を指導するときに用いられるようになり、それが伝承として保持されて、やがて福音書という形で福音告知に用いられるようになります。しかし、それはずっと後のことであり、当初は十字架につけられて死に、三日目に復活したイエスを、終末的な救済者キリストと告知する働きに集中していました。このキリスト告知の内容を、普通「ケリュグマ」と呼んでいます。
 この「ケリュグマ」という語は、「告知する」というギリシア語動詞《ケーリュッソー》の名詞形の《ケーリュグマ》(告知された内容)から来た用語で、キリスト告知の内容を指す術語として一般に用いられています。エルサレム共同体は自分たちの「ケリュグマ」を定型的な文にまとめています。これは「エルサレム・ケリュグマ」と呼んでいいでしょう。それは、パウロが「自分も受けたもの」として手紙の中で引用しています。

 「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。(コリントT一五・三〜五)

 このケリュグマは、パウロが回心後三年目にエルサレムを訪れたときに「受けた」ものと見られます。この訪問は三五年と見られますので、三〇年にエルサレムで復活者キリストの告知が始まってから五年ほど経っています。その間にこのようなケリュグマが形成されていたことになります。
 もう一つ、パウロがローマの共同体にあてた手紙の中で、ローマの人たちがすでによく知っているケリュグマとして、次の文が引用されています。

 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。(ローマ一・三〜四)

 このローマ書に引用されているケリュグマは、パウロが伝えたものではなく、ローマとエルサレムのユダヤ人の密接な交流の中で、直接エルサレムからローマの人たちに伝えられたものと見られます。
 この二つの定型的な形で伝えられているケリュグマは、その成立時期の前後関係については議論がありますが、両方ともユダヤ教内のキリスト信仰から出ていることは、その用語と内容から広く認められています。両方ともエルサレム共同体から出ている以上、それは当然です。最初期、ユダヤ教の中でキリストを信じた人たちは、このような内容のキリストを告知したのであり、それは彼らのキリスト信仰の姿を表現していることになります。

「神の僕」イエス

 このような定型的なキリスト告知の言葉だけでなく、他にも説教や祈りの言葉などから、最初期のエルサレム共同体の人々のキリスト信仰の姿を垣間見ることができます。たとえば、ペトロは神殿説教でイエスを「(神の)僕」と呼び(三・一三、二六)、エルサレム共同体のユダヤ人たちは祈りの中でイエスを「聖なる僕」と呼んでいますが(四・二七、三〇)、この「僕」という称号は旧約聖書に深く根ざしているパレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰の特質を指し示しています。
 旧約聖書には「ヤハウェの僕」《エベド・ヤハウェ》という名称が数多く出てきます。祈りでの「あなたの僕」や、ヤハウェの言葉の中での「わたしの僕」など、「僕」の用例は多岐にわたります。

旧約聖書における「僕」《エベド》の主要な用例
 義人が神の前に自己をへりくだって呼ぶ呼称として(詩編一一九・一七六など)。
 複数形で義人全般を指す(詩編三四・二二など)。
 単数形でイスラエルを指す(第二イザヤで四四・一、二一など多数)。
 父祖たち(出エジプト記三二・一三)、モーセ(民数記一二・七)、ダビデ(サムエル記下三・一八)、エリヤ(列王記下九・三六)など、
   イスラエル史の主要人物を指す。この語の用例は第二イザヤの「僕の歌」で頂点に達します。そして、この歌での用例はメシアとの関連で   理解されるようになります(イザヤ四二・一、四三・一〇、四九・六、五二・一三、五三・一一)。

 ヘブライ語聖書の《エベド》を、七十人訳ギリシア語聖書はおもに《パイス》(僕、子)と《ドゥーロス》(奴隷)というギリシア語で訳しました。全体では両語はほぼ同数ですが、「僕の歌」においては《パイス》(僕、子)が用いられています。《パイス》というギリシア語には僕と子という二つの意味がありますが、聖書では《エベド》の訳語として僕の意味で用いられています。したがって最初期の共同体がイエスを《パイス・トゥ・テウー》と呼んだとき、それは旧約聖書の《エベド・ヤハウェ》を指していたのであって、「神の子」ではなく「神の僕」という意味であったと理解しなければなりません。最初期のアラム語系ユダヤ人の共同体では、旧約聖書の伝統に従って、イエスを「神の僕」と理解し、周囲のユダヤ人にそう告知していたことになります。イエスこそ、聖書の「神の僕」の姿を完成する究極の「神の僕」であり、終わりの日に出現するメシアに他なりません。「この称号の起源は最初期のパレスチナの共同体に求められなければならない」(エレミアス)ということになります。

エレミアスは「新約聖書神学辞典」の《パイス・トゥ・テウー》の項で、用例の綿密な分析から、イエス以前の時代に、ギリシア語系ユダヤ人のユダヤ教では第二イザヤの「僕の歌」の《パイス・トゥ・テウー》を「神の子」と理解し、それを集合的に理解する傾向があったが、パレスチナ・ユダヤ教では「神の僕」と理解し、メシアを指すとする解釈する傾向があったとしています。

 パレスチナ・ユダヤ人の共同体は、イエスを第二イザヤの「主の僕」《エベド・ヤハウェ》と理解することにより、イエスの受難を贖罪として理解するように導かれたと考えられます。当時のユダヤ教において、とくにパレスチナのユダヤ教において、すでに第二イザヤの《エベド・ヤハウェ》はメシアを指すとする解釈がありました。イエスご自身もバプテスマの時に「あなたはわたしの《エベド》」という呼びかけをお受けになり、ご自分を第二イザヤの「主の僕《エベド・ヤハウェ》」の使命を果たすべく遣わされた者と自覚された可能性が高いと言えます。したがって、最初期のパレスチナ・ユダヤ人の共同体がイエスを「神の僕」と呼び、イエスを第二イザヤの「主の僕」《エベド・ヤハウェ》と理解することにより、イエスの受難を贖罪として理解するように導かれたことの端緒はイエスご自身にあったと見ることができます。
 第二イザヤの「主の僕」は民の罪を負って死に、「自らを償いの献げ物とした」と言われています。そのような「主の僕」としてのイエスの死が、日頃いけにえの血を注いで贖罪の祭儀をしているパレスチナ・ユダヤ人によって祭儀的な表象で語られるのは自然の流れです。とくに、イエスが十字架上に流された血が「大贖罪日」に《カッポレート》(「贖罪所」と呼ばれる契約の箱の上部の金の板)に注がれる血という象徴で語られるようになります。パウロがローマ書(三・二三〜二五)で「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており、ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです」と言った後、「神はこのキリストを、信実によって、その血による贖いの場(《ヒラステリオン》=《カッポレート》のギリシア語訳)としてお立てになったのです」と言うとき、このパレスチナ・ユダヤ人のキリスト告白の伝承を引用していると見られます。
 ところがこの《エベド》のギリシア語訳《パイス》に子という意味もあるため、「神の僕」がギリシア語圏では「神の子」と理解され、「神の子《ヒュイオス》」という称号に覆い隠されてゆくようになります。ギリシア語圏では、「僕」では復活者イエスの栄光を指し示すのに不適切で、「子」こそがふさわしいとされたようです。《ヒュイオス》は「息子」という意味の語で、僕という意味はありません。ローマ書一・三〜四のケリュグマの「神の子」や、イエスのバプテスマや変容の時の「わたしの子」は、「神の僕《パイス》」がギリシア語系ユダヤ人の共同体で「神の子《ヒュイオス》」に置き換えられた結果であると考えられます(エレミアス)。パウロおよびパウロ以後の書簡では、キリストを「神の僕」と呼ぶことはありません。

「人の子」イエス

 パレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰において、もう一つ特徴的な称号は「人の子」です。パレスチナ・ユダヤ人の共同体はイエスを「人の子」と言い表し、この称号が黙示思想においてもっている終末的な性格を強調するようになっていきました。
 パレスチナ・ユダヤ人の共同体がイエスを「人の子」と言い表したのは、彼らの発明ではなく、イエスご自身がこの称号を用いられたからです。イエスがこの称号を用いられた事実については、先に見ました(本書389頁)。ただ、イエスがどのような意味でこの称号を用いられたのかは議論が続いていて確認が困難です。ここでは、その問題には立ち入らず、最初期のパレスチナ・ユダヤ人の共同体が用いた「人の子」称号の使い方に焦点をあてて検討していきます。パレスチナ・ユダヤ人の共同体が「人の子」句を大切に伝承した事実は、先に見た通りです(本書288頁以下の「人の子」の伝承)。
 パレスチナ・ユダヤ人の共同体は、復活されたイエスが栄光の中に世界の支配者として来臨される「キリストの来臨《パルーシア》」を熱烈に待ち望む共同体でした。しかも彼らは、熱心なユダヤ教徒として、当時ユダヤ教の中で流布していた終末待望を熱く語る黙示文書に親しんでいた人々でした。黙示思想的終末待望は、死海文書に見られるクムラン共同体が代表するエッセネ派のような特殊な黙示思想的共同体だけでなく、七〇年までは主流派であるファリサイ派にもありました。そのようなパレスチナ・ユダヤ人の共同体で、イエスが口にされた「人の子」の言葉が伝承されていく過程で、イエスが用いられた「人の子」句ではそうでなかった場合も、それが黙示思想の「人の子」の意味で用いられたり、「人の子」という称号や「人の子」句自体が加えられた可能性を考慮しなければならないことになります。
 たとえば、最高法院の裁判で、大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という尋問に、イエスは「わたしはある《エゴー・エイミ》」とお答えになった後、「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」と言われたと伝えられていますが(マルコ一四・六二)、この後半の「人の子」の言葉は実際にイエスご自身がそう語られたのか、それとも、イエスを「人の子」と言い表している最初期の共同体が、イエスの高挙を預言しているとされている詩編一一〇編一節を、ダニエル書七章一三節の「人の子」句と合わせて形成したキリスト告知の言葉をここに置いたものかが、研究者の間で真剣に議論されています。
 また、イエスがご自身の受難を予告された文章の主語が「人の子」となっている経緯については、先に見た通りですが(拙著『ルカ福音書講解T』415頁)、その背景には最初期のパレスチナ・ユダヤ人の共同体において「ヤハウェの僕」と「人の子」という二つのイメージが結合していたという状況が推察されます。この結合はイエス以前のユダヤ教黙示文書にも見られますが、そのような土壌のあるところで、イエスを同時に「ヤハウェの僕」と「人の子」であると言い表しているパレスチナの共同体が、イエスを「受難する人の子」と理解して告知するようになるのは必然です。

エレミアスは、前掲の「新約聖書神学辞典」の項で、「エチオピア語エノク書」(原本はアラム語)の中のメシアに関する幻(三七〜七一)において、一人の人物が「人の子」とか「メシア」と呼ばれると同時に、「選ばれた者」、「義なる者」、「諸国民の光」というような、第二イザヤの「主の僕」を指す語で呼ばれている事実などをあげて、この結合がイエス以前のパレスチナ・ユダヤ教にあったことを示しています。

 パレスチナ・ユダヤ人の共同体で形成された「語録資料Q」については、その成立と性格について先に見ました(本書279頁以下の「イエスの語録伝承とQ共同体」)。そこで見たように(本書288頁以下の「人の子の伝承」)、この「語録資料Q」においてはイエスが「人の子」について語る語録が多く保存されています。この「語録資料Q」について、ハーンは次のように言っています。
 「語録資料の神学的構想を特徴づけるのは、イエス伝承を人の子キリスト論と結合していることである。イエスは地上にすでに現れ、かつ、審判者として再び到来するはずの人の子であるという主導観念の下に、イエスの言葉が主題的な視点から整理されている」。(F・ハーン『新約聖書神学T』(大貫・大友訳、日本キリスト教団出版部)上212頁)
 「語録資料Q」とは別に福音書を記述したマルコにおいても、イエスは全権を帯びた黙示思想的「人の子」であることと、同時に受難する「神の僕」であるという両方の主導観念によって構成されています。したがって、マルコ福音書と「語録資料Q」を用いて構成されたマタイとルカを合わせて、共観福音書は、「神の僕」であるメシア・キリストと「人の子」であるメシア・キリストというパレスチナ・ユダヤ人共同体のキリスト信仰から生み出された文書であると言うことができます。もっとも、原型をなすマルコ福音書は、十字架・復活のキリストの福音を基本的な枠組みとして構成されていますが、その素材がすべてパレスチナ・ユダヤ人共同体が提供するイエス伝承である以上、共観福音書がパレスチナ・ユダヤ人共同体のキリスト信仰の色彩を帯びるのは必然です。
 それぞれの福音書のキリスト告知の内容とその特色は、福音書を扱う後の章で詳しく論じることになります。ここでは、その素材がパレスチナ・ユダヤ人共同体が形成し伝えたイエス伝承である限り、福音書にはパレスチナ・ユダヤ人共同体のキリスト信仰が染みこんでいることを認識し、それを正しく位置づけて解釈する必要があることを指摘するにとどめます。たとえば、「人の子」キリスト信仰に代表されるユダヤ教黙示思想の要素については、慎重な取り扱いが要請されます。

「ダビデの子」イエス

 もう一つ、パレスチナ・ユダヤ人共同体のキリスト告知において特徴的な内容は、イエスを「ダビデの子」、すなわちダビデの子孫として告知している点です。当時のユダヤ教では、来るべきメシアはダビデの家系から出る、と広く信じられていました。ダビデの子孫から出るメシアは、イスラエルを異教徒の支配から解放し、ダビデ王国のような栄光の王国を再建すると期待されていました。

当時のユダヤ教におけるメシア待望と、その中での「ダビデの子」としてのメシア待望については、拙著『マルコ福音書講解U』90頁の「ユダヤ教のメシア待望」の項を参照してください。

 イエスの力ある働きを見た群衆は、イエスを「ダビデの子」と呼んで歓呼しましたが、イエスはご自分を「ダビデの子」と宣言されたことはなく、むしろ民衆の「ダビデの子」という歓呼を抑えるような語り方をしておられます。それは、「ダビデの子」としてのメシアが政治的解放運動の指導者と理解される危険があったからです。しかし、イエスの復活を体験した最初期のパレスチナ・ユダヤ人の福音告知においては、イエスは「ダビデの子」として告知されるようになっています。当時のユダヤ人が、メシアはダビデの子孫から出ると信じていましたから、パレスチナ・ユダヤ人の共同体がイエスを「ダビデの子」と告知したのは当然です。
 当時のユダヤ人が待望していた「ダビデの子」としてのメシアはイスラエルをローマの支配から解放するはずでした。ところが、イエスはローマの支配者によって十字架につけられて処刑されてしまいます。そのようなイエスがメシアではあり得ないとするユダヤ教側からの批判に対して、パレスチナ・ユダヤ人共同体は、詩編一一〇編を根拠にして、イエスは復活してダビデの主となられたのであって、それによってサムエル記(下七・八〜一六)のメシア預言は成就したのだと反論しました。この「ダビデの子」としてのキリスト告知は、先に引用したローマ書(一・三〜四)のケリュグマに典型的に表現され、パレスチナ・ユダヤ人の福音活動の集大成というべきマタイ福音書で強調されることになります。

この「ダビデの子」としてのキリスト告白が、パレスチナ・ユダヤ人の外でも広く受容された経緯については、拙著『マルコ福音書講解U』96頁以下を参照してください。

V ユダヤ教の外でのキリスト信仰の進展

はじめに

 キリストの福音がかなり初期から、ギリシア語系ユダヤ人に担われてユダヤ教の外に展開していった経緯については、本書「福音の史的展開」において詳しく見てきました。それはすでに第二章「ユダヤ教の外に向かう福音」、第三章第二節「アンティオキア共同体とその福音活動」、第三章第三節「エルサレム会議とその前後」で取り扱いましたが、それはおもに福音告知の活動がユダヤ教の外の世界に向かって進展して行く姿を追うものでした。それに対して、ここではその活動の中で形成されたキリスト信仰の中身とその進展について、資料から知りうる限り追究してみたいと思います。

エルサレムから始まるギリシア化
 この時期、ユダヤ教の外に向かう福音の担い手はアンティオキア共同体であったことは、これまでに十分に見てきました。しかし、アラム語系ユダヤ人の福音活動の代表であるエルサレム共同体と、ギリシア語系ユダヤ人の福音活動の拠点となったアンティオキア共同体の関係を、一方はアラム語を使うパレスチナ・ユダヤ教の枠内のキリスト信仰、他方をギリシア語を使う異邦人世界(ユダヤ教の外の世界)のキリスト信仰と図式的に割り切ることは危険です。
 たしかにキリスト信仰共同体は、ギリシア語を日常語とするヘレニズム世界の大都市アンティオキアにおいて異邦人も多く含むようになり、ギリシア的な要素が多く入ってきたのは事実でしょう。しかし、先に見たように、エルサレムとの密接な霊的な交流によってキリスト信仰の基本的内容は変わることはありませんでした。たとえば、コリントT一五・三〜五に引用されている「ケリュグマ」はギリシア語で伝えられていますが、だからといってそれがアンティオキア共同体で形成されたアンティオキア独自のものではありません。むしろ内容と用語はエルサレムで形成されたものであることを強く示唆しています。おそらく、すでにエルサレムでこのようなギリシア語で定型化され、それがアンティオキアなどに伝えられたものと考えられます。
 当時のエルサレム共同体は、アラム語系ユダヤ人の共同体だといっても、ギリシア語をよくする指導的メンバーが多くいました。「十二人」の中でもギリシア化した町ベトサイダ出身のフィリポなどはかなりギリシア語ができたと見られます(ヨハネ一二・二一)。同じ町の出身であるペトロとアンデレもそこそこギリシア語が使えたと考えられます。ステファノ事件で三三年にエルサレムから散らされるまでは、「七人」が代表するギリシア語系ユダヤ人も「十二人」と密接なつながりの中で活動したことでしょう。
 ギリシア語系ユダヤ人が散らされた後も、エルサレムにはバルナバ、シラス、バルサバと呼ばれるユダ、ヨハネ・マルコなど、ギリシア語に堪能な指導者がいました。彼らはギリシア語系ユダヤ人でありながら長年エルサレムで生活してアラム語を身につけたか、またはアラム語系ユダヤ人でありながら学習でギリシア語を使えるようになったか、いずれにしてもアラム語とギリシア語のバイリンガルなユダヤ人でした。彼らが後にアンティオキアに行って指導的な立場で活動し、エルサレム共同体で形成されたケリュグマ伝承やイエス伝承を伝えることになります。
 当時のエルサレムの言語事情からすれば、エルサレム共同体はアラム語だけでなく、ギリシア語も用いて周囲のユダヤ人に福音を告げ知らせる活動をしていたはずです。その中で、「ケリュグマ」もイエス伝承もギリシア語で伝えられるようになっていたと考えられます。パウロが回心後三年目(三五年)に初めてエルサレムに上り、ペトロの家に滞在してエルサレム共同体が形成した「ケリュグマ」を受けたとき、すでにギリシア語で表現されていた形で受けたのでしょう。

当時のエルサレムの言語事情については、本書167頁の「二言語都市エルサレム」の項とその前後を参照してください。

アンティオキアにおけるキリスト告知の変化

 パウロはコリント第一書簡の一五章で、自分も受けて伝えた福音の内容(ケリュグマ)を確認した後(三〜五節)、そのケリュグマが告知するイエスの復活の証人を自分自身も含めて列挙し(五〜一〇節)、最後に「とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」と締めくくっています(一一節)。こうしてパウロは、自分が告知している福音が「彼ら」が告知している福音と同じであることを確言しています。この「彼ら」が誰を指すのかは議論もありますが、ここにあげた復活の証人を含むことは確かです。そうすると、ここにあげられた「ケファ、十二人、五百人、ヤコブ、すべての使徒」はみなパレスチナ・ユダヤ人であり、パウロはこの文で、アンティオキア共同体の福音告知を代表する自分の福音が、彼らパレスチナ・ユダヤ人の福音告知と同じであることを保証していることになります。先にも述べたように、ケリュグマの基本的な内容については、アンティオキア共同体もエルサレム共同体に代表されるパレスチナ・ユダヤ人の福音告知と変わるところはありません。
 しかし、アンティオキア共同体の福音活動を担ったのは、バルナバやパウロなどディアスポラ・ユダヤ人出自のギリシア語系ユダヤ人でした。しかも、福音活動の主要な対象はユダヤ教徒ではないギリシア人になっていきます。そうすると同じ福音を語っていても、語る側も受ける側もその文化的背景はもはやパレスチナのユダヤ教ではなく、ヘレニズム世界のギリシア文化なのですから、その語り方は微妙に違ってくるのは避けられません。ここでは、その変化を追いながら、アンティオキア共同体の福音告知、すなわちキリスト告知の内容がどのようになっていったのかを追究したいと思います。
 たとえば、パレスチナ・ユダヤ人の共同体で重要なキリスト理解を示す「神の僕」イエスという表象は後退して、「神の子《ヒュイオス》」に変わっていきます。先にも見たように、《エベド・ヤハウェ》(主の僕)を指す句がギリシア語で《パイス・トゥ・テウー》と訳され、その《パイス》が子という意味もあることから、イエスは「神の僕」ではなく「神の子」であると理解され、僕の意味もある《パイス》に代えて、息子という意味だけの《ヒュイオス》に変わっていきました。福音書と使徒言行録に保存されているパレスチナ・ユダヤ人の伝承では《パイス》が残されていますが、パウロ書簡とパウロ以後の使徒名書簡では《パイス》は全然出てきません。すべて《ヒュイオス》になっています。この変化は、アンティオキア共同体の福音活動において始まっていたと考えられます。
 さらに顕著な変化は、パレスチナ・ユダヤ人の福音告知で主導的であった「人の子」の表象が後退し、消滅していることです。イエスが「人の子」という句をどのような意味で用いられたかは別として、最初期のパレスチナ・ユダヤ人の共同体が栄光の中に来臨されるイエスを「人の子」の称号で用いて語ったのは顕著な事実であり、その用例は福音書の中に保存されています。しかし、ユダヤ教黙示思想に縁のないギリシア人に福音を告知するとき、やがて栄光をもって来臨されるイエスを語るのに、アンティオキア共同体のギリシア語系ユダヤ人の伝道者は、もはや「人の子」という称号を用いることはありませんでした。その典型はパウロです。パウロはアンティオキアを出てマケドニアに福音を宣べ伝えたとき、復活されたイエスの栄光の来臨を告知しましたが、そのとき「人の子」という称号はいっさい用いていません。イエスの来臨を扱うテサロニケ第一書簡で「人の子」は一度も出てきません。この事実は、パウロが直前までいたアンティオキア共同体での「人の子」表象の後退ないしは消滅を指し示しています。パウロ書簡とパウロ以後の書簡には「人の子」はいっさい出てきません。
 キリストを「ダビデの子」と告知することも、アンティオキア共同体のキリスト告知では後退していたと見られます。これも先に見たように、聖書(旧約聖書)の約束の成就としてメシア・キリストの到来を待ち望んでいるユダヤ人には、イエスがダビデの家系から出た方であり、「ダビデの子(子孫)」であるという告知は重要な項目でした。これはローマ書(一・二〜四)に引用されているケリュグマに現れ、ユダヤ人向けに書かれたマタイ福音書で強調されているキリスト告知の重要項目です。しかし、パウロはケリュグマを引用する場合以外は、キリストを「ダビデの子」と呼ぶことはなく、パウロ以後の書簡でも「ダビデの子」は出てきません。ただ一カ所、かなり後期のテモテ第二書簡(二・八)に福音を要約するような形で、イエス・キリストを「ダビデの子孫で、死者の中から復活された」方と呼ぶところがありますが、これは福音書が流布してその影響がパウロ系の共同体にも及んだ時期のものと見られます。
 総じてアンティオキア共同体の福音告知においては、イエス伝承は断片的に用いられることはあっても、それがキリスト告知の重要項目になったり原理になったりすることはなかったと推察されます。このことは、パウロがその書簡でほとんどイエス伝承に触れることなく福音を語っていることからも推察されます。この事実は、パレスチナ・ユダヤ人の共同体がキリストを告知する活動において、だんだんとイエス伝承を用いるようになったのと対照的です。彼らは、イエス伝承を素材として用いて復活者キリストの福音を告知する「福音書」を生み出す道備えをすることになります。

「キュリオス」イエス・キリスト

 先に見たように、アンティオキアにおける福音告知の変化の中で最も重要なものは、イエスが《キュリオス》として告知されるようになったことです。パレスチナ・ユダヤ人の間では、十字架につけられたイエスが復活してメシア・キリストとして立てられたと告知され、キリストとしてのイエスが「イエス・キリスト」または「キリスト・イエス」と呼ばれていました。しかし、メシアとかキリストという称号に馴染みのないギリシア人の間では、イエス・キリストが一人の人物の名前のように理解されるようになり、この方が神から遣わされた救済者であることを指し示す別の称号が必要となります。そのためにアンティオキアでは、《キュリオス》(主人、主)という称号が用いられるようになり、イエスは「キュリオス・イエス」または「キュリオス・イエス・キリスト」と呼ばれて告知されるようになります。

この《キュリオス》という称号の意味と、それが用いられるようになった経緯については、先に本書238頁以下の「V ギリシア語系ユダヤ人の福音告知」の項でやや詳しく述べましたので、ここでは繰り返さず、この《キュリオス》という称号で呼ばれるようになった結果、イエス・キリストがどのような方として理解され、賛美され、告知されるようになっていったのかを追究します。なお、《キュリオス》は「主人」とか「主」という意味のギリシア語であり、日本語聖書では「主」と訳されていますが、「主」という語は日本語聖書では神やヤハウェを指す語としてあまりにも広く用いられていますので、ギリシア語の《キュリオス》という称号の意味が拡散してしまい、その称号がイエスに用いられる意義があいまいになりがちですので、本稿ではギリシア語の《キュリオス》をカナ表記で用いて議論を進めます。

 すでに初期のアンティオキア共同体の福音活動について、「(彼らは)《キュリオス》イエスを福音した(=福音として告知した)」と言われています(一一・二〇)。ですから、その福音を聞いて信じるとは、「イエスを《キュリオス》と信じて言い表す」と表現されることになります。異邦人に福音を宣べ伝えた使徒パウロは、後にこう書いています。

 「口でイエスは主《キュリオス》であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」。(ローマ一〇・九)

 これはパウロ独自の発言ではありません。アンティオキア以来、異邦人への福音活動の中で形成されてきた共通の信仰告白形式を、パウロが引用しているのです。「口でイエスは主《キュリオス》であると公に言い表す」ことと、「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことは一体です。心で信じたことを口で公に言い表すのです。「信じる」という行為は、心と言葉において一体です。そして、イエスが死者の中から復活されたということは、イエスが《キュリオス》であるということと同じです。イエスは復活によって《キュリオス》とされたのです。
 《キュリオス》であるという事実の中に復活が含まれているので、この信仰告白はさらに簡潔に、「イエスは《キュリオス》である」という形にまとめられます。この形がもっとも簡潔な信仰告白として異邦人諸集会で用いられていたことは、パウロがコリントの集会に書き送った書簡(コリントT一二・三)で、聖霊による叫びとしてこの句を引用していることからもうかがわれます。

キリスト賛歌における《キュリオス》

 《キュリオス》というギリシア語は、もともと家や農場など財産(とくに奴隷)の「所有者」を指す語で、奴隷や雇い人に対して「主人」を指す語として、世俗の世界で広く用いられていました。その延長上で、皇帝も《キュリオス》と呼ばれるようになります。同時に、宗教的な用語としては、当時のギリシアの神々の世界でゼウスとかイシスという神々を指す用語としても使われていました。ギリシア世界には「多くの神々、多くの《キュリオス》たちがいると思われていた」のです(コリントT八・五)。その中で、福音はイエス・キリストを唯一の《キュリオス》として告知したのです。唯一の《キュリオス》は世界《コスモス》の支配者《コスモクラトール》、また万物の統御者《パントクラトール》です。こうして、復活して高くあげられ、神の右に座するに至ったという、ユダヤ教における復活者イエスの姿は、ギリシア語世界では唯一至高の《キュリオス》として語られるようになっていきます。
 当時のギリシア人は《コスモス》(世界、宇宙)を人間が住む大地を中心に、その上には霊的存在が活動する天(霊界)が幾層にも重なって覆い、その下には陰府《ハデス》があると見ていました。《コスモス》は地の上の天、地、地の下の世界の三界からなり、さらに天は数層の霊界で構成されますが、その層がいくつあるかは、八層とか七層とか様々に考えられていました。最上層の天には至高の神がいまし、最下層の天には地上の人間に働きかける諸霊がうろうろしているとされていました。その各層にはその層の霊たちを取り仕切る支配者《アルコーン》とか権威《エクスーシア》とか権能《デュナミス》がいると考えられていました。この宇宙観は新約聖書にも前提されています。パウロも「第三の天」にまで引き上げられたという霊的体験を語っています(コリントU一二・二)。
 ギリシア語系ユダヤ人とギリシア人(異邦人)からなるアンティオキア共同体が、キリストを全《コスモス》を支配する《キュリオス》であると賛美していたことを示す「キリスト賛歌」が、パウロ書簡の中に保存されています。パウロがフィリピの共同体に書き送った手紙の中で、パウロは次のようなキリスト賛歌を書いていますが、これはパウロ自身が手紙の一部として書いた文章ではなく、パウロ以前に成立していた共同体の賛歌を引用していると見なければなりません。そうだとすると、これはアンティオキア共同体で、遅くとも四〇年代には成立し、実際に歌われていた賛歌であると見られます。

 6 キリストは、神の身分でありながら、
   神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、
  人間と同じ者になられました。
  人間の姿で現れ、
8 へりくだって、死に至るまで従順でした。
  それも十字架の死に至るまで。
  
9 このため、神は彼を高く上げ、
  あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが
すべて、イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、「イエス・キリストは主(キユリオス)である」と公に宣べて、
  父である神をたたえるのです。 (フィリピ書 二・六〜一一)

 この賛歌は二つの部分から成り立っています。前半(六〜八節)はキリストが主語で、神の身分のキリストが自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ姿で現れ、死に至るまで神に従われたことを賛美しています。後半(九〜一一節)は神が主語で、そのキリストを神が高く上げて、天上のもの、地上のもの、地下のものすべて、すなわち《コスモス》全体の《キュリオス》とされたことを賛美しています。前半はキリストの高いところからの降下、後半はキリストの高いところへの高挙を賛美していることになります。
 この神と等しくある至高の天と、地上の人間の世界の間のキリストの降下と高挙は、循環しています。高挙がなければ降下はなく、降下がなければ高挙はありません。もともとキリスト告知は、十字架につけられたナザレのイエスを神は復活させてキリストとしたという告知でした。復活して高く上げられ、神の右に座したキリストは、神と等しい方として永遠にいます方です。このようなキリスト信仰から見ると、十字架の死に至るイエスの生涯は、神と等しい身分のキリストが、地上で神の御計画を実現するために、人間の姿で現れ、僕として働かれた姿となります。そのように神の僕として死に至るまで完全に従われたからこそ、神はこのイエスを復活させ、高く挙げて《キュリオス》とされたのです。
 この賛歌は、後半でキリストが全《コスモス》の《キュリオス》とされていること、また、イエスとイエス・キリストが並行していて、イエス・キリストが一人の方の名前になっていることなど、ギリシア語系ユダヤ人共同体の特色を色濃く出しています。しかし、前半では「僕」の表象が中心にあり、パレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰も取り込まれていることがうかがわれます。これは、アンティオキア共同体の成立の事情を考えると、当然の結果でしょう。イエスの復活から出発するのでなく、キリストの降下から出発するのは、先に見たパレスチナ・ユダヤ人共同体のキリスト信仰における「神の僕」と「人の子」の融合から出ているのかもしれません。すなわち、本来永遠に神と共にいます「人の子」が、地上に現れて僕として仕え、苦しみを受けたという理解から出ている可能性があります。
 このようにアンティオキア共同体では、一人の方の名前としての《イエスース・クリストス》に、この方が《キュリオス》であることを示す称号が付けられて、《キュリオス・イエスース・クリストス》という呼び方が繰り返し用いられるようになります。この呼び方が、パウロとパウロ以後の書簡においてキリストを指す正式の、もっとも荘重な呼び名として用いられることになります。日本語訳では「主イエス・キリスト」となりますが、この「主」はここで見たような全《コスモス》の支配者として《キュリオス》であることを見落としてはなりません。

キリスト信仰における賛歌

 キリスト信仰は、聖霊によるキリスト体験から発します。聖霊の働きを受けてキリストとの出会いを体験し、そのキリストの恩恵の力によって新しい自分が生まれたことを体験した者は、新しい自分の根底となられたキリストを賛美し、言い表し、人々に告げ知らせないではおれません。人間のあらゆる活動を通してそのキリストを表現しようとします。個人の行動(倫理)も、組織活動も、また芸術も、キリストを表現します。しかし、人間にとってもっとも根源的な表現は言葉による表現です。ここにキリスト信仰の言葉による表現として、「キリスト論」が成立します。賛美も、告白も、告知もすべて言葉によって行われます。
 その表現の最初の、そしてもっとも根源的な表現は賛歌です。賛歌は内に溢れるキリストへの感謝と賛美が、人間の根源的な営みの一つである「歌う」という姿で溢れ出たものです。それは自分が、または自分たちが体験したキリストを言い表し、その言葉を歌い出したものです。キリストの恵みを受けて喜びに溢れる者たちが集って祈るとき、最初に出てくるのは賛歌です。パウロはコリントの集会に、集会の秩序について勧告するとき、信仰者の集会をこのように描いています。

 「あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」。(コリントT一四・二六)

 ここで「詩編の歌」と訳されている原語は《プサルモス》です。このギリシア語は本来弦楽器演奏を意味していましたが、七十人訳ギリシア語聖書では詩編の前書きのヘブライ語《ミツモル》の訳語として用いられ、「宗教的な歌」という意味で用いられていました。新共同訳では「賛歌」と訳されており、ここでも「賛歌」と訳すべきです。ここでは旧約聖書の詩編を朗唱したり歌ったのではなく、霊の息吹によって自ずから歌い出された新しい歌、霊歌とでもいうべき種類の歌であったと考えられます。それは、ここにあげられている集会の営み、「教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈する」がすべて聖霊の賜物(カリスマ)であることから、この「賛歌」も聖霊の働きとしての歌であるとするべきです。
 集会の営みの最初に賛歌があげられていることが注目されます。「それぞれがうたう」賛歌が一同に唱和されて集会の賛歌となり、そこで聖霊によって語られた教えとか啓示によって内容が豊かにされて、集会のキリスト賛歌が形成されていったと推察されます。最初期の集会が聖霊の満たしによる一種の熱狂の中で行われたことは、最初期のエルサレム共同体(四・二三〜三一、とくに三一節参照)からパウロの時代のアンティオキア共同体に至るまで同じであったはずです。その中で生み出されたキリスト賛歌は、その共同体のキリスト信仰をもっとも直裁に表現するものとして重要です。パウロがフィリピ書で引用しているキリスト賛歌は、パウロがいた時代(四〇年代)のアンティオキア共同体のキリスト信仰の一端を垣間見させる重要な資料となります。

集会において賛歌が重要な働きをしていたことは、パウロ以後のパウロ名書簡でも取り上げられています(コロサイ三・一六〜一七、エフェソ五・一八〜二〇など)。また、ヘブライ書、牧会書簡、ヨハネ黙示録などには、最初期の共同体でうたわれていた賛歌の断片が見られます。そして、現代でも聖霊に満たされた集会では、聖霊がうたわせる霊歌が体験されることがあります。

キリストの来臨《パルーシア》

 このようにフィリピ書のキリスト賛歌はパウロの時代のアンティオキア共同体のキリスト信仰の告白と見られます。その前半は「僕」の姿のキリストを賛美することで、「主の僕」としてのキリストの十字架の死による贖いが含意されていると考えられます。それは、アンティオキア共同体の中核を形成する指導者がみなギリシア語系ユダヤ人であることから当然の推察です。そして後半では、復活という語は用いられていませんが、高く上げられて《キュリオス》とされたという賛美の中に当然復活は含まれています。後にパウロがキリスト信仰のエッセンスとして「十字架につけられたキリスト(=復活者キリスト)」という告白を掲げますが、このキリスト信仰はすでにアンティオキア共同体のキリスト賛歌でうたわれていた内容に他なりません。
 しかし、当時のアンティオキア共同体のキリスト信仰には、この賛歌ではうたわれていないもう一つの重要な面があります。それは「キリストの来臨《パルーシア》」です。自分を無にして僕の姿をとり、死に至るまで神の御旨に従われたイエス・キリストを、神は高く上げて、天と地と地の下、すなわち全《コスモス》を支配する《キュリオス》とされました。そのような《キュリオス》を賛美するアンティオキア共同体は、その《キュリオス》がやがて世界に来臨されて、世界を裁き、ご自身の民を救い、栄光にあずからせてくださる日を、熱烈に待ち望んでいました。そのことは、独自の福音活動を開始したパウロが、アンティオキアから離れた直後に書いた手紙から十分推察することができます。
 次章で見ることになりますが、パウロはアンティオキアから離れて、シラスと共に独自の福音活動を進めていくことになります。パウロは聖霊に導かれて、アナトリア(小アジア)からマケドニア州に入り、州都テサロニケで福音を宣べ伝えます。しかし、ユダヤ人の反発と迫害により、逃れて隣のアカイア州の州都コリントに行きます。そこからテサロニケに残した信者たちに手紙を書き送り、彼らの信仰を励まします。それがテサロニケ第一書簡です。この手紙は現存しているパウロの最初の手紙であり、同時に新約聖書のすべての文書の中でもっとも古いものです。
 この手紙はコリント到着後すぐに書かれたと見られます。到着は五〇年と見られ、パウロのアンティオキア出発が四九年とすれば、わずか一年あまり後に書かれたことになります。その間にパウロはテサロニケでキリストを告知し、その内容について手紙で書き送っているのですから、これはアンティオキア時代にアンティオキア共同体と共有していた信仰であることは明らかです。一年後にパウロが、アンティオキア時代にはなかったまったく新しい福音告知を始めたとは考えられません。アンティオキア共同体は、パウロがテサロニケ第一書簡で書いているような「キリスト来臨」の信仰と待望に燃えて、キリストを告白していたはずです。
 この手紙の中でパウロは、イエス・キリストを信じて、イエスを《キュリオス》と言い表すようになったテサロニケの人たちの信仰を、次の二点に要約しています。
1 偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった
2 御子が天から来られるのを待ち望むようになった。この御子とは、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスである。(テサロニケT一・九〜一〇)
 この要約からも、キリスト来臨の告知がパウロ福音告知の中でいかに重要な項目であったかがうかがえます。さらにパウロはこの手紙の四章(一三〜一八節)で、パウロが告知したキリストの来臨について次のように述べています。

 「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主(キユリオス)御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主(キユリオス)と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主(キユリオス)と共にいることになります」。(テサロニケT四・一六〜一七)

 これはパレスチナ・ユダヤ人共同体のキリスト信仰の特色である黙示思想的な終末待望そのものです。アンティオキア共同体もこの終末待望を継承しています。しかし、重要な変化も見られます。パレスチナ・ユダヤ人の共同体では、天から現れ来臨される方は「人の子」と呼ばれていました。それに対してパウロでは、「人の子」は用いられることなく「主(キユリオス)」が用いられています。これは、異邦人環境の福音告知を担ったアンティオキア共同体で、「人の子」称号が後退し消滅したことを指し示していると見られます。さらに、パウロはキリストが来臨される日を「主(キユリオス)の日」と呼んで、その日がいつ来るのか分からないから、いつも目覚めているように励ましています(テサロニケT五・一〜一一)。「主(キユリオス)の日」は、旧約聖書の「ヤハウェの日」がギリシア語で表現されたものでしょうが、パウロの福音告知ではキリストが来臨される日、《パルーシア》の時を指す用語になっています。
 来臨信仰は本来ヘブライ的救済史信仰の一つの表現です。旧約聖書は、初めに天と地を創造し、イスラエルを選んで契約を結び、段階的に御自身を啓示し、終わりに御自身の贖いの業により民を救い、世界を完成して栄光を現される神、そのような歴史の中で救済の働き(それが救済史です)をされる神を信じるイスラエルの信仰を内容としています。来臨信仰は、その救済史の最終局面に関わる部分です。
 それに対して、《キュリオス》信仰はギリシア的コスモロジー(宇宙観)の枠組みの中でのキリスト信仰の表現です。復活者イエス・キリストが《コスモス》全体の統合者・支配者と言い表されているのです。終わりの日に現れて民を救い世界を完成する方が、アンティオキア共同体で「人の子」から《キュリオス》に変わったことは、ヘブライ的な救済史信仰がギリシア的なコスモロジーの枠組みの中で語られるようになるというキリスト信仰の重大な変化の出発点となります。この方向の変化は、パウロを経て、パウロ以後のパウロ名書簡の時代に続き、コロサイ書やエフェソ書において、パレスチナ・ユダヤ人共同体の黙示思想的キリスト信仰から脱却したヘレニズム世界のキリスト信仰が成立するに至ります。この変化が、パウロにおいて、またパウロ以後のパウロ名書簡においてどのように進んでいったのかは、後の諸章の主題となります。ここでは、この変化がアンティオキア共同体から始まっていることを指摘するにとどめます。
 このように聖書的な救済史信仰が、ギリシアのコスモロジーの枠組みの中で語られるようになったことは、思想史的にはきわめて大きな影響を後世に及ぼすことになります。イスラエルの救済史は選ばれた民族の救済が主題でしたが、その視野が世界と宇宙に拡大しました。一方、ギリシアの《コスモス》は静止した秩序であって、そこには時間軸上の動き、すなわち歴史はありませんでしたが、そこに救済史という時間軸上の動きが導入されることによって、《コスモス》は動き出しました。すなわち、《コスモス》(世界、宇宙)は歴史のある世界、時間軸上で変化する《コスモス》となりました。ヘブライ的な救済史信仰とギリシア的なコスモロジーが融合することで(これはすでにヘレニズム期ユダヤ教の黙示思想において準備されていましたが)、世界秩序を一つの理念とか目的に向かって進むものとして見る世界史の視点が可能になったと言えます。マルキシズムなども、このように変貌した救済史思想の延長上にある思想だと言えます。

律法(ユダヤ教)との関係

 ユダヤ教の枠内でのキリスト信仰では、ユダヤ教との関係は原理的には問題になりませんでした。たしかにキリスト信仰のユダヤ人は、ユダヤ教指導層から律法違反を疑われ、迫害されましたが、ユダヤ教そのものを否定する者として、会堂から放逐されることはありませんでした(少なくとも前期では)。迫害もユダヤ教徒に対するユダヤ教律法による処罰でした。キリスト信仰のユダヤ人も、ユダヤ教(律法)そのものを否定することはありませんでした。自分たちは忠実なユダヤ教徒として律法を順守していることをアピールしていました。その姿勢は、イエスの言葉とされる次のマタイ福音書の宣言に言い尽くされています。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。(マタイ五・一七)

 キリスト信仰は律法と預言者(ユダヤ教)を廃止するのではなく完成するのだという主張です。しかしユダヤ教の外に出てキリストを告知したアンティオキア共同体では、ユダヤ教との関係が深刻な問題となってきます。異邦人信者に割礼を求めず、異邦人がユダヤ教に改宗しなくてもキリストの民でありうるという原則はエルサレム会議で確立したとされていますが、実際にはユダヤ教との関係が問題でなくなったわけではありません。アンティオキア共同体には多くのユダヤ教徒が含まれ、とくに指導層はみなユダヤ教徒でしたから、当然ユダヤ教との関係は残り、とくに非ユダヤ教徒の信者が含まれる共同体ですから、ユダヤ教との関係は複雑な問題を引き起こすことになります。典型的な実例は、先に見た食卓での交わりの問題です。
 これまでにアンティオキア共同体におけるキリスト信仰の内容が、パレスチナ・ユダヤ人共同体のキリスト信仰からどのように変わったのかを見ましたが、その変化の中で最大のものはユダヤ教との関係です。しかし、この変化から生じる問題に、もっとも先鋭的に対処したのはパウロです。それで、この問題は次章でパウロの福音告知を扱うところで詳しく見ることにします。