市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第16講

第二節 アンティオキア共同体とその福音活動

はじめに

 本書「福音の史的展開」は、第一章で「エルサレム共同体の成立」の経緯をたどった上で、成立したばかりのエルサレム共同体の福音告知の内容を見ました。続いて第二章「ユダヤ教の外に向かう福音」では、ギリシア語系ユダヤ人の活動と、後に異邦人伝道の担い手となるアンティオキア共同体の成立とパウロの回心を扱いました。そして、この第三章「エルサレムとアンティオキア」では、最初期前期(七〇年のエルサレム神殿の崩壊まで)の福音活動の二つの拠点となるエルサレム共同体とアンティオキア共同体の状況と両者の関わりを扱うことになります。前節でエルサレム共同体の状況とエルサレムを中心とするアラム語系ユダヤ人のユダヤ人に対する福音活動を概観しましたが、本節ではアンティオキアを拠点とするギリシア語系ユダヤ人の福音活動、とくにパウロによって担われた異邦人への福音告知の最初の活動を見ることにします。そして、次節でこの二つの共同体の関わりを検討した上で、この最初期における福音活動の諸潮流をまとめたいと考えています。

T アンティオキア共同体の福音活動

ヘレニズム世界の大都市アンティオキア

 アレクサンドロス大王は、その東征により東方の支配者ペルシャを滅ぼし、インドまでその支配を伸ばした直後、三三歳の若さでバビロンで急死します(前三二三年)。その後、四〇年に及ぶ後継者戦争の結果、エジプトはプトレマイオス家が獲得、小アジアからイラン東北部までの広大な東方領ではセレウコス家の支配が確立します。マケドニア本国とギリシアは、少し遅れてアンティゴノス家の統治が確立します。こうして、アレクサンドロス大王が志したギリシア文化と東方オリエント文化を融合させる試みは後継三王朝に引き継がれ、ギリシア風の生活と文化が、東方諸国に浸透して行きます。
 このギリシア人の三王朝が支配した時代は、「ヘレニズム時代」と呼ばれます。しかし、この三王朝は前一世紀には次々とローマの属州となります。セレウコス王朝は前六四年にポンペウスに屈しローマの属州となり、前三〇年にエジプトがローマに征服されて、「ヘレニズム時代」は終焉を迎えます。しかし、政治的にはギリシア人王朝の支配は終わりますが、文化的には支配者のローマも、この時代に形成されたヘレニズム文化を継承し、ヘレネス(=ギリシア)の文化はローマ時代を通して地中海世界に広く浸透していきます。したがって、わたしたちが扱っている新約聖書の時代(一世紀)は、文化的にはこのヘレニズム時代に属することになります。
 小アジア・シリアから東方の支配者となったセレウコス一世は、前三〇〇年頃、オロンテス川が地中海に注ぐ地にギリシア風の都市を建設し、父親(あるいは息子)のアンティオコスにちなんでアンティオキアと名付けます。彼の息子アンティオコス一世はこれをセレウコス朝シリア王国の首都とします。彼は領土に次々とギリシア風の都市を建設して「アンティオキア」と名付けたので(一六もあったと伝えられています)、以後首都のアンティオキアは「オロンテス川沿いのアンティオキア」とか「シリアのアンティオキア」と呼ばれるようになります。
 このアンティオキアは、現在では人口八万人程度のトルコの一地方都市(トルコ名アンタキア)ですが、ヘレニズム時代にはローマとアレクサンドリアに次ぐ世界で三番目の大都市でした。盛期の人口については、古代の歴史家の伝えるところは二〇万人から六〇万人と幅がありますが、現代の研究者はだいたい一五万人から三〇万人と見ている人が多いようです。規模だけでなく、文化的にもアレクサンドリアと並んで、当時のヘレニズム文化の中心地の一つとなっていました。
 アンティオキアが隆盛をきわめたのは、その地理的位置から東西交易の中心地となったからです。アンティオキアは、オロンテス川河口の港湾都市ピリエのセレウキアから約三〇キロ上流にあり、これをを外港として、東方世界と西方の地中海諸都市の間の交易の拠点として富を蓄え、大いに栄えます。この大都市には、シリア人だけでなく、マケドニア人、ギリシア人、ユダヤ人など、さまざまな民族の人が移り住むようになり、東方の宗教や文化がギリシア文化と融合して、代表的なヘレニズム都市となります。繁栄したヘレニズム都市の例にもれず、アンティオキアにはギリシアの神々やオリエントの神々に捧げられた神殿が軒を連ね、その周辺には歓楽街が広がっていました。そのような享楽的な雰囲気と同時に、魂の平安を求める人たちに、ストア派やエピキュロス派の哲人たちが救いの道を説いていました。

アンティオキアのユダヤ人共同体

 このヘレニズム世界の大都市アンティオキアには、都市の創建以来ユダヤ人が多く住むようになっていました。ヨセフスによると、すでに創建者のセレウコス一世がユダヤ人に居住を認め、「ポリテウマ」(自治権)を与えたということですが、確証は少ないようです。ただ、マカバイ記U(四・三三〜三四)によると、大祭司職を追われたオニアは、アンティオキアの近くのダフネの聖域に退いて、政敵メネラオスを非難しますが、結局策謀によって殺害されます(前一七〇年代)。この事件は、アンティオキアにかなりの規模のユダヤ人共同体があり、エルサレムと密接な交流があったことを示しています。前二世紀のマカベヤ戦争の前、大祭司ヤソンがセレウコス朝のギリシア化政策に迎合してエルサレムをギリシア風の都市にしようとした時期、彼はエルサレム市民ができるだけ多くアンティオキア市民権を得るように努力しました(マカバイU四・九〜一〇、一九)。パレスチナのユダヤ人にとって、アンティオキアは最新のヘレニズム文化の栄光に輝く大都会であったのです。
 アンティオキアは、地理的にアレクサンドリアと並んでもっともパレスチナに近いヘレニズム大都市ですから、多くのユダヤ人居住者を迎えることになります。アンティオキアのユダヤ人共同体は、規模においてアレクサンドリアのユダヤ人共同体には及びませんが、それでも三〇万人と推定されるアンティオキアの住民の中で、三万人から五万人がユダヤ人であったと見られます(ヘンゲル)。アンティオキアの人口の一〇数パーセントがユダヤ人であったことになります。アンティオキアのユダヤ人共同体は、ギリシア化政策の熱心な推進者であったアンティオコス四世エピファネスの時代には困難な状況にあったと想像されますが、アンティオキアにおける大規模な抑圧とか迫害は伝えられていません。むしろ、後継の王たちの保護政策により、アンティオキアのユダヤ人は富み栄え、一世紀にはアンティオキアのユダヤ人は数の上でも富の上でも、エルサレムのユダヤ人を上回っていました。このことを伝えるヨセフスの記事を引用しておきます。

 当時、多勢のユダヤ人が世界各地でその土地の者と一緒に暮らしていたが、シリアは隣国でもあったのでユダヤ人の数が非常に多かった。とくにアンティオキアのユダヤ人の人口密度は高かった。それはアンティオキアが大都市であったためでもあるが、アンティオコス王の後継者たちがユダヤ人たちがそこに何の恐怖もなく住めるようにしたためでもある。エピファネスと呼ばれたアンティオコスは、エルサレムを荒らし神殿を掠奪したが、彼の後継者である歴代の王は、青銅でつくられたいっさいの奉納物をアンティオキアのユダヤ人に返還してシナゴグにおき、さらにユダヤ人にギリシア人と対等の市民権を与えた。そのうえユダヤ人はその後の王たちからも同じ待遇を受けたのでその数は増加し、彼らの奉納する手のこんだぜいたくな奉納物は神殿をこの上もなく美しく飾ったのである。
(ヨセフス『ユダヤ戦記』Z三・三 秦剛平訳)

 アンティオキアのユダヤ人は人口も多く、その中には富裕階級の人たちも多かったようです。アンティオキアのユダヤ人(当然ほとんど全員がギリシア語系ユダヤ人)は、周囲のギリシア人と仕事や生活で交流し、ギリシア風の施設(浴場や劇場など)に出入りし、「ハラカ」(口伝の律法細則)にあまりとらわれることなく、異邦人と食事を共にしていました。先にペトロが異邦人のコルネリウスの家に入り食事をしたとき、それを律法違反として非難したのはエルサレムのユダヤ教徒であり、しかも(先に見たように)「律法への熱心」が燃えていた時代の雰囲気の中のことでした。異邦人と食卓を共にすることを完全に禁止するミシュナの規定は、一世紀末から二世紀のユダヤとガリラヤのラビに負うものであって、一世紀のディアスポラのギリシア語系ユダヤ人には知られていませんでした。
 アンティオキアでもカリグラ帝の時代にユダヤ人に対する暴動と虐殺事件(39〜40年)が起こります。しかし、このような突発的事件の他は、概してアンティオキアのユダヤ人は周囲の異邦人と円満に暮らしていたようで、ギリシア人の中にもユダヤ教会堂に出入りして、奉納物を寄進したり、教えを聞いて「神を敬う者」となっていた人がかなりの数に達していました。

アンティオキアのキリスト者共同体

 このような大きなユダヤ人共同体を擁するヘレニズム世界の大都市アンティオキアに、イエスをメシアと告知する福音が伝えられてきます。先に見たように、この告知はステファノの出来事でエルサレムを追われたギリシア語系ユダヤ人によって伝えられたのですが、この告知は当然まずアンティオキアのユダヤ人たちに伝えられます。ユダヤ人の会堂には、すでにギリシア人の「神を敬う者」もかなりいるのですから、その中に信仰に入る者も出てきます。また、キプロス島やキレネ出身の者がギリシア人にも福音を宣べ伝えるに及んで(一一・二〇)、アンティオキアにはギリシア人を含む信者の共同体が形成されることになります。ここで見たように、アンティオキアというヘレニズム世界の大都会では、ユダヤ人もギリシア人とかなり自由に交際していたので、もともとユダヤ人の間の新しい信仰運動から生まれた共同体に、異邦人も無理なく受け入れることができ、ユダヤ人と異邦人とから成る「キリスト者共同体」が誕生します。
 このアンティオキアのキリスト者共同体の中核を形成し、共同体を指導した人たちのリストが使徒言行録にあります。
 「アンティオキアでは、そこの教会《エクレーシア》にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた」。 (一三・一)
 最初にバルナバの名があげられています。バルナバについては、先に(本書229頁「バルナバの派遣」の項で)そのプロフィールと、エルサレムからアンティオキアに派遣されて、アンティオキアに成立した新しい共同体を指導したことを見ました。バルナバこそアンティオキア共同体を代表する人物であり、彼の筆頭者としての存在がエルサレム共同体とアンティオキア共同体の信仰の同質性を保証します。バルナバは、エルサレム共同体のキリスト告知とイエス伝承をアンティオキアにもたらし、アンティオキア共同体がエルサレムと同じ質のキリスト信仰に生きるようにした最大の貢献者であり、エルサレム・アンティオキア関係の鍵となる重要人物です。
 次ぎに「ニゲルと呼ばれるシメオン」の名があげられています。「ニゲル」という語は、黒いを意味するラテン語のギリシア化された形です。この呼び名は、シメオンがアフリカ系のユダヤ人であることを示唆しています。このアフリカ系という示唆から、このシメオンはイエスの十字架を代わって背負った「シモンというクレネ人」(ルカ二三・二六)ではないかと推察する人もありますが、確認はできません。
 「キレネ人のルキオ」は、大きなユダヤ人共同体を有する北アフリカの大都市キレネ出身のギリシア語系ユダヤ人であり、ステファノ事件の迫害でエルサレムを追われ、アンティオキアまで来てギリシア語を話す人たち(ギリシア人、異邦人)に主イエスの福音を語り伝えた「キレネ人たち」(一一・二〇)の一人であったと見られます。

もし「ニゲルと呼ばれるシメオン」がキレネのユダヤ人であるという推定が正しいのであれば、彼もアンティオキアに来て異邦人に福音を語り、アンティオキア共同体の成立に貢献した「キレネ人たち」の一人となります。ただ、そのとき同じように異邦人に福音を語った「キプロス人たち」の中にバルナバが含まれるという推察もありますが、そうでないことについては、前出の「バルナバの派遣」の項を参照してください。

 新約聖書にはもう一人「ルキオ」が出てきます。パウロがコリントからローマの信者に書き送った手紙の最後で(ローマ書一六・二一)、パウロが自分の同国人(=ユダヤ人)として紹介している三名の中に「ルキオ」という名が出てきます。この三名は、異邦人諸集会からの献金をエルサレムに届けるための旅にパウロと同行するユダヤ人です。この二カ所(使徒一三・一とローマ一六・二一)に名をあげられている「ルキオ」は同一人物である可能性があります。しかし、「ルキオ」という名前(ラテン語形はルキウス)は、ローマ世界ではごくありふれた名前ですから、同一人とは限りません。

「ルキウス」というラテン語名は、ギリシア語の短縮形《ルーカス》(日本語ではルカ)に相当するラテン語名の一つであるので、ここの「キレネ人のルキオ」をパウロ書簡に言及されている《ルーカス》(フィレモン二四、コロサイ四・一四、テモテU四・一一)と同一視し、この《ルーカス》(ルカ)が福音書と使徒言行録の二部作の著者であるとする見方が、古代から現代にいたるまであります(現代ではフィッツマイヤー)。ルカ二部作の著者については、拙著『ルカ福音書講解T』の序論「ルカ二部作の成立」13頁の「著者と成立年代」の項を参照してください。

 「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」の名があげられていることは、アンティオキア共同体の性格を示唆しています。アンティオキアのユダヤ人には富裕階層の人も多かったので、その中から信仰に入ったユダヤ人の中には、このマナエンのように上流階級に属する人物も含まれることになります。マナエンは「領主ヘロデと一緒に育った」人物ですから、アンティオキアでは富裕な上流家族の一員であったわけです。「一緒に育った」と訳されているギリシア語は、乳兄弟とか同年配の学友として一緒に暮らした仲を意味する語です。この領主ヘロデ・アンティパスは、ヘロデ大王の息子の一人で、大王亡き後ガリラヤとペレアの領主となり、37年までその地位にありました。したがって、三〇年代半ばにアンティオキアのキリスト者共同体が成立した頃には、ヘロデはまだ領主の地位にあったのです。そのヘロデの宮廷と深い関係にあり、アンティオキアのユダヤ人共同体でも重きをなしていた人物が共同体の指導者に含まれている事実は、アンティオキア共同体の勢いを示唆しています。ルカはこのマナエンから、ヘロデ・アンティパスや彼の宮廷に関して他の福音書が知らない事実を伝え聞いていたと考えられます(たとえばルカ二三・六〜一二)。

このマナエンは、ヘロデ大王が王位に就く前に彼が王になることを預言して、ヘロデ家の厚遇を得ていたエッセネ派の預言者マナエン(ヨセフス『古代誌』一五・三七三〜九)の一族であると推察されます。そうであれば、このマナエンもエッセネ派の信仰と預言者的な伝統を受け継いでいたことが推察されます。

 最後に「サウロ」の名があげられています。言うまでもなく、これは後にパウロと呼ばれる使徒言行録の最重要人物ですが、アンティオキア共同体においては、その創立後かなり経った時に加わったので、ルカは最後に名をあげたのでしょう。先に見たように、タルソで働いていたサウロがバルナバに連れられてアンティオキアに来てその共同体で働くようになったのは39〜40年頃と考えられるので、創立から四〜五年は経っているでしょう。名があげられているのは最後ですが、アンティオキア共同体を指導した「預言する者や教師たち」の中では、筆頭者バルナバと並んで、キリスト信仰の基礎と奥義を教える代表的教師であったはずです。サウロ(パウロ)については次章で詳しく扱うことになりますので、ここではアンティオキア共同体の教師陣に名をあげられている事実に触れるにとどめます。

パウロがダマスコ途上で回心してから、次項で見るキプロス伝道に出発するまでの一四年前後の期間については、ルカの報告は断片的で、正確なことが分かりません。このパウロの「知られざる年月」について、次の文献が詳しく追跡していますので、参考にあげておきます。
   Martin Hengel & Anna Maria Schwemer, PAUL Between Damascus and Antioch , THE UNKNOWN YEARS, 1997
 なお、この時期のアンティオキアについては、この文献と次ぎにあげる文献が示唆的で、本稿のアンティオキアに関する所説はこの二つの文献に多く依拠しています。
Bruce Chilton & Craig A.Evans, Edit. James the Just & Christian Origins, 1999 所収
 Markus Bockmuehl, Antioch and James the Just

アンティオキア共同体の活動

 前章でアンティオキアにイエス・キリストを信じる者たちの共同体が成立した経緯を見ましたが、ここでそのアンティオキアのキリスト者共同体がどのような形で活動したのかを見ておきたいと思います。
 アンティオキアには三万から五万人のユダヤ人が住んでいたので、会堂もかなりの数があったと見られます。その諸会堂(全部ではなくても複数の会堂)のユダヤ人と「神を敬う」異邦人に復活者イエスが主《キュリオス》として告知され、主イエスを信じる者が生まれます。エルサレムから来たギリシア語系ユダヤ人と新しく信仰に入ったアンティオキアの会堂のギリシア語系ユダヤ人は、さらに周囲のギリシア語の者たち、すなわちギリシア語を話す非ユダヤ教徒にも主イエスを告げ知らせます。おそらく同じ会堂のユダヤ人を核とし、周囲に異邦人信者が集まる「家の集会」がいくつか形成されたと考えられます。「家の集会」という形でキリスト者の群れが形成されたことは、最初期のエルサレムでもローマでも同じです。
 復活者イエスを主《キュリオス》またメシア《クリストス》と言い表す者たちの小規模で秘かな集会が、ヘレニズム大都市アンティオキアの諸処に成立して礼拝をするようになります。その集会は、安息日ではなく、イエスの復活を記念する「週の初めの日」、すなわち日曜日に行われ、もはやユダヤ教の儀礼の形式にとらわれることなく、聖霊の満たしの中で自由に(=自発的に)、預言や異言、奨励や聖書の講解などが行われたと推察されます。その信仰は、エルサレム共同体の信仰と同じく、間近なイエス・キリストの来臨を熱烈に待望し、それまでに主イエスを世界に告げ知らせようとする伝道の熱意に燃え、周囲のユダヤ教や異教世界からの圧迫に耐えながら活動したことと考えられます。その来臨待望は、後にパウロのテサロニケ書簡に見られるテサロニケの信者たちの待望に劣るものではなく、その聖霊の働きによる霊的エクスタシーは、コリント第一書簡(一二〜一四章)に見られるコリント集会のそれ以下のものではなかったと考えられます。パウロはこのアンティオキア集会の体験を身につけて、異邦人世界に福音を宣べ伝えたのですから、そう推察するのは自然です。
 先に見たように、アンティオキアのユダヤ人は周囲の異邦人とかなり自由に行き来して交際し、食卓を共にすることも多かったようですから、新しく成立したキリスト者の集会でもユダヤ人信者と異邦人信者は自然に食卓を共にして、復活者イエス・キリストを礼拝していたと推察されます。最初期の共同体ではどこでも、最後の晩餐を記念する共同の食事と礼拝活動は一体であり、この共同の食卓が集会の礼拝の核をなしていました。この共同の食卓における礼拝を中心に、アンティオキアのユダヤ人信者と異邦人信者は自由な交わりをもち、協力して周囲の異邦人社会に福音を告げ知らせる活動を進めていたと考えられます。

エルサレムとのつながり

 アンティオキア共同体の成立を語る記事(一一・一九〜二六)の直後に、ルカは預言者の活動を伝える短い文を置いています。
 「そのころ、預言する人々がエルサレムからアンティオキアに下って来た」。(一一・二七)
 「そのころ」というのはどの時期を指すのか確定することは困難です。この記事は、特定の出来事を指すより、エルサレムとアンティオキアの間で預言者たちによる恒常的な関わりがあったことを示唆している点で意義深いものがあります。ペンテコステの日の福音告知において、ペトロはヨエル書を引用して、終わりの日には誰もが神の霊が注がれて預言するようになると語りましたが(二・一八)、使徒言行録でキリスト者共同体の預言者が言及されるのはここが最初です。
 ルカは報告していませんが、マタイ福音書や「ディダケー」には、各地を巡回して主の言葉を伝えた巡回預言者の活動が描かれています。先に「Q共同体」のところで述べたように、最初期のパレスチナ・ユダヤ人の間では、このような巡回預言者たちの活動によって、メシア・イエスの信仰運動が進展していきました。共観福音書にある弟子の派遣にあたっての説教(マタイ一〇・五〜一五)は、もともとイエスが十二人を派遣されるときのものですが、パレスチナにおける復活後の巡回預言者(=巡回伝道者)の状況が重なっています。イエスをメシアとして告知するパレスチナ・ユダヤ人の運動は、カリスマ的預言者運動の性格を示しています。この預言者運動はシリアにも波及していきますが、もともとシリアは宗教的にカリスマ的預言活動に共感する素地があり、比較的急速に拡大していったと見られます。
 大都市では、預言者たちは定住して活動するようになります。先に見たアンティオキア共同体の指導者たちのリスト(一三・一)では、バルナバ、シメオン、ルキオ、マナエン、サウロは「預言者や教師たち」(直訳)と呼ばれています。この表現は、この五名がみな預言者であり同時に教師であることを指していると考えられます。この預言者集団がアンティオキア共同体の教師であり、指導者でした。彼らは「使徒」とは呼ばれていませんが、使徒と並んでキリスト共同体の土台となる人たちです。このことは、パウロ以後の文書で《エクレーシア》は「使徒と預言者という土台の上に建てられています」と表現されることになります(エフェソ二・二〇)。
 アンティオキアにイエスを信じる者の共同体が生まれたという知らせを聞いたエルサレム共同体は、その一員であるバルナバをアンティオキアに派遣して、エルサレム共同体のキリスト告知とイエス伝承を伝え、生まれたばかりのアンティオキア共同体がエルサレム共同体の信仰を正しく継承できるようにしました(一一・二二)。フィリポがサマリアに伝道したときはペトロとヨハネを派遣し(八・一四)、さらにフィリポが沿岸地方に伝道してカイサリアに至ったときには、その地域の諸都市にペトロを派遣しています。アンティオキアには使徒ではなくバルナバが派遣されたのは、ギリシア語を日常語とするヘレニズム都市のアンティオキアの共同体では、アラム語系ユダヤ人の使徒たちよりも、もともとギリシア語系ユダヤ人であるバルナバが適任とされたからでしょう。
 バルナバも預言者ですから、この「預言者がエルサレムからアンティオキアに下って来た」という流れの発端をなすことになります。それ以後もエルサレムからアンティオキアには、バルナバのように聖霊に満たされた預言の賜物の豊かな人たちが「下って来ました」。ユダヤ人にとってエルサレムから他の土地に行くことは「下る」ことです。エルサレムこそ、そこから霊的祝福が諸地域に溢れ下る源です。エルサレム共同体はこの自覚のもとに、新しく誕生した信者の共同体に使徒や預言者を派遣して、主イエスから受け継いだ信仰を伝えます。エルサレム共同体は、最初期の福音活動の規準となります。
 アンティオキアは、パレスチナを含むシリア州の州都であり、最大の都市です。都市の規模と豊かさにおいて、アンティオキアから見たエルサレムは一地方都市に過ぎません。エルサレム共同体がアンティオキアを重視したことは容易に想像できます。エルサレム共同体は、使徒団の代表格であるペトロをアンティオキアに派遣します。ペトロがアンティオキアに来て、エルサレム共同体のキリスト信仰を伝え、ユダヤ人と異邦人の信者を指導したことは、パウロの証言もあり(ガラテヤ二・一一)、確認できます。ただ、それがいつ頃であったかは確認できません。おそらく、四三年と見られるヘロデ・アグリッパのエルサレム共同体への弾圧のときエルサレムを去ったペトロが、その後アンティオキアに来たと考えられます。
 このようにエルサレム共同体の使徒や預言者たちが足繁くアンティオキアに来て指導したという事実は、アンティオキア共同体のキリスト信仰の質について重要な示唆を与えます。この事実は、アンティオキア共同体のキリスト信仰はエルサレム共同体のキリスト信仰を継承しており、本質的に同じであることを物語っています。前世紀の宗教史学派以来、「アンティオキアの異邦人教会の神学は、シリアの宗教混淆の影響を強く受けて、エルサレムのパレスチナ・ユダヤ教から生まれたエルサレム原始教団の神学とは別物になっていた」という理解が広く行われていますが、これは違います。アンティオキア共同体のキリスト信仰は、その共同体で長年指導的な立場で働いたパウロの書簡に反映していますが、その綿密な検討から知られるアンティオキア共同体の福音理解そのものは、けっしてエルサレム共同体のそれと別物ではありません。その内容は別項(次節)で扱うことにして、ここではアンティオキアとエルサレムの密接な交流を指摘するにとどめます。
 なお、アンティオキア共同体はユダヤ教会堂から完全に分離した「異邦人教会」であるというのも誤解です。指導者の五人(一三・一)も全員ユダヤ人ですし、異邦人信者もユダヤ教に傾いていた「神を敬う者」が多かったはずです。そのような人たちのユダヤ教会堂との関わり方は個人の判断に委ねられていたと考えられます。当時のユダヤ人にとって、会堂から追い出されることはあっても、自ら出て行くことは考えられないことです。パウロは最後までユダヤ教徒として活動したので、会堂から「四十に一つ足りない鞭」を受けることになるのです。アンティオキア共同体がユダヤ教会堂から完全に分離していないからこそ、後に見るようにユダヤ人と異邦人の共同の食事が問題になります(次節)。
 アンティオキアでイエスを信じる者たちがはじめて「クリスチアン」と呼ばれるようになったのも、信者の共同体がユダヤ教会堂と別の宗教教団であるという認識が始まったことを意味するのではありません。キリスト者はユダヤ人でもなくギリシア人(異邦人)でもなく第三の種族であるという認識は、二世紀の護教家から始まるのであって、この段階ではまだユダヤ教内の終末的・霊的メシア運動の性格を色濃く残しています。「クリスチアン」という呼び名も、39〜40年のカリグラ帝時代の反ユダヤ人紛争のとき、ユダヤ人と区別するためにローマの官憲が「キリストに属する者たち、キリストに追従する者たち」という意味でつけた呼称であると見られます(この場合のキリストは個人名になっています)。

森本哲朗『神の旅人 ― 聖パウロの道を行く』(PHP文庫)という紀行文に、アンティオキアに関する興味深い記事がありますので紹介しておきます。アンティオキアの東にあるシルピオン山北麓の岩壁に「聖ペトロの洞窟」と呼ばれる洞窟があり、地元の伝承では、ペトロがアンティオキアに来たとき、そこで集まってきた信者にイエスの教えを伝えたとされています。パウロが共同の食卓の問題でペトロを批判したのも、マタイが福音書を書いたのもこの洞窟だと言い伝えられています。十二、三世紀頃にその洞窟を囲うように「聖ペトロ教会」が建てられます。アンティオキアには複数の「家の集会」がありましたが、エルサレムからペトロや使徒・預言者が来たときには、このような郊外の洞窟に集まって、その説教を聴いたと想像されます。

エルサレムへの飢饉援助

 このように信仰上の霊的資産はエルサレムからアンティオキアへの一方通行でしたが、物的な富に関してはアンティオキアからエルサレムへ行くという方向になります。もともとアンティオキアのユダヤ人共同体は、エルサレムのユダヤ人全体よりも人口において遜色なく、富において勝っていましたから、聖都エルサレムとその神殿の維持については、アンティオキアのユダヤ人が金銭や物資を送って貢献していました。アンティオキアに成立したキリスト者の共同体がエルサレムの「貧しい者たち」を援助することになるのも、その延長上にあります。先に見たように、アンティオキア共同体は上流階級の者も含まれ、大都市の共同体としてエルサレムを援助する能力があります。後にパウロは、各地のキリスト者共同体がその霊的資産をエルサレム共同体の聖徒に負っているのであるから彼らを物質的に援助する義務があることを、次のように訴えています。
 「異邦人はその人たち(エルサレムの聖なる者たち)の霊的なものにあずかったのですから、肉のもの(物質的なもの)で彼らを助ける義務があります」。(ローマ一五・二七)
 ルカは、アンティオキアからエルサレムへの援助の一例を伝えています(一一・二八〜三〇)。エルサレムからアンティオキアに下って来た預言者たちの中にアガポという預言者がいました。彼は聖霊によって語り、間もなく世界中に大飢饉が起こると予告しました(ここでは預言するという動詞とは違う動詞が用いられています)。彼の預言は、終わりの日が到来する直前には世界に飢饉や穀物の値段の高騰が起こるとされていた黙示録的な背景の中で語られた預言であり、当時の黙示思想的な終末待望をますます高揚させることになったと推察されます(マルコ一三・八、黙示録六・八など)。
 その言葉通り、クラウディウス帝のときに広範囲にわたる飢饉が起こりました。アンティオキアの共同体は、「それぞれの力に応じて援助の品を送ることを決めて」、それをバルナバとサウロに託してエルサレムに送ります。「援助の品」といっても、二人が穀物を運んだのではなく、募金した援助金を届けたのでしょう。ここで二人はその援助金を「長老たちに届けた」とあります。この記事は、先に見たように、その頃のエルサレム共同体は使徒たちではなく長老たちが代表するようになっていたことを垣間見させます。この時のエルサレム訪問で、二人は「マルコと呼ばれるヨハネ」を連れて帰ります(一二・二五、マルコについては次項で)。

クラウディウスの在位は四一年から五四年ですが、スエトニウスの証言からも、彼の在位中にしばしば大規模な飢饉が起こっているので、この飢饉がどの年のものであるか確定できません。ヨセフスによると、パレスチナでは四四〜四八年の期間に飢饉が起こり、しかもそれが安息年と重なったために重大化したと言われているので、この飢饉は四八年から四九年にかけての出来事であると推定されています。しかし、カリグラ事件の暴動の影響で不作となり、穀物の価格が暴騰した四一年から四二年の安息年の出来事と見る説や、アグリッパ一世の死(四四年)の後の四四年から四五年にかけてのことであると見る説もあります。この四四年説は、このエルサレム訪問の時にバルナバは「マルコと呼ばれるヨハネ」を連れて帰ったとされていることが、一三章のキプロスへの伝道旅行の記事と年代的に整合するので有力です。
 この飢饉援助と使徒会議(一五章、ガラテヤ書二章)の関係と年代については複雑な問題があり議論が続いています。最大の困難は当事者であるパウロ自身の証言です。回心後の最初のエルサレム訪問(三五年にペトロの家に滞在)から使徒会議のためのエルサレム訪問まで一四年間はエルサレムに行っていないというガラテヤ書(二・一)の証言との整合性です。飢饉援助を四一年や四四年と見る人は、サウロはバルナバと一緒に行ったが、生命の危険があるエルサレムには入らなかったと推察します。四八年とすると、エルサレムの使徒会議との関係が問題になります。エルサレムの使徒会議の時期の問題は、後の項(次節)で扱います。

U パウロとバルナバのキプロスとガラテヤ州南部への伝道旅行

バルナバとサウロのシリア・キリキア伝道

 パウロ自身が自分の初期の活動について書いているところによると、ダマスコでの回心後三年目に初めてエルサレムに上り、ペトロと会います(ガラテヤ一・一八)。この時のエルサレムでは、彼の元の仲間であるギリシア語系ユダヤ人から命をねらわれるまでに憎まれ、エルサレムを去ります(九・二九〜三〇)。その後の行動について、彼は「その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました」と書いています(ガラテヤ一・二一)。この地方で十四年にわたり活動した後、再びバルナバと一緒にエルサレムに上ります。このことは、パウロ自身が「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました」と証言しています(ガラテヤ二・一)。
 三五年と見られる最初のエルサレム訪問から、四八年と見られるエルサレムでの使徒会議までの(足かけ)十四年の「シリアとキリキアの地方」での活動については、パウロ自身は何も語らず、ルカもごく僅かの断片的な記事を残しているだけで、詳しいことは分かりません。この十四年はパウロの「知られざる年月」ということになります。しかし、この時期はパウロの福音理解(神学)が形成され確立される時期として重要です。この時期のすぐ後に続く六年ほどの間にエーゲ海地域におけるパウロの福音告知の活動が行われ、その中から生まれたパウロ書簡が(福音書と並んで)新約聖書の主要内容となります。それで、この「シリアとキリキアの地方」における十四年のパウロの活動について、できるだけ追跡しておく必要があります。
 三五年にエルサレムを去った後、パウロは故郷のタルソスに戻ります。そして先に見たように、タルソスとその周辺でパウロは活発な伝道活動を進め、イエスを信じる者たちの共同体を形成します。タルソスはキリキア州の州都ですから、この時期のタルソスと周辺での活動が「シリアとキリキアの地方」での働きに含まれるのは当然です。
 バルナバがタルソスに来てパウロを探し出し、アンティオキアに連れて来たのが三九年または四〇年と見られます。その後、「丸一年の間」二人はアンティオキアにとどまり、一緒にそこの集会で教えます(一一・二六)。この書き方は、その後では、すなわち四〇年または四一年から四八年の使徒会議までは、バルナバとサウロ(パウロ)はアンティオキアにとどまることなく、しばしばアンティオキアを出て各地に伝道活動を進めたことを示唆しています。アンティオキアはシリア州の州都ですから、この時期の活動が「シリアとキリキアの地方」での活動に含まれるのも当然です。
 この時期の二人の活動について、ルカは二つの重要な旅行を記録しています。一つは飢饉援助のためのエルサレムへの旅です(一一・二七〜三〇、一二・二五)。もう一つは、キプロス島とガラテヤ州南部の諸地域(パンフィリア、ピシディア、ルカオニア)への伝道旅行です。この伝道旅行については、引き続いて詳しく見ることになりますが、パウロはキリキア州に隣接するこれらのガラテヤ州南部の地域を、後年ガラテヤ書を書いたときには「シリアとキリキアの地方」に含ませていると考えられます。ルカは、この伝道旅行の重要性と、この旅行の詳しい資料を手に入れることができたという事情から、この時期のパウロの福音活動の典型として、詳しく報告したものと考えられます。

少なくともパウロが訪れたときには、ローマの行政上は、ピシディア、リカオニアの地方は州ではなく、ガラテヤ州の一部ですから、新共同訳の「ピシディア州」という訳(一三・一三〜一四、一四・二四)や「リカオニア州」という訳(一四・六)は問題があります。

 ルカは、このバルナバとサウロによるキプロス島とガラテヤ州南部の諸都市への伝道旅行を、使徒言行録の二つの章(一三章と一四章)という大きなスペースを割いて詳しく報告しています。その内容と意義についてはこの後で見ることになりますが、この伝道旅行はこの時期(四一年から四八年)のバルナバとサウロの協力伝道活動の典型として見ることができます。二人はこのような形で、アンティオキアを拠点として周辺の諸地域に福音を告げ知らせたのです。
 まず出発の様子が描かれています(一三・一〜三)。各地への福音告知の活動は、バルナバやサウロまた共同体の計画、総じて人間の側の計画によるものではなく、神が聖霊によって指示された働きであることが強調されています。集会で断食と祈りがなされているとき、聖霊が預言者を通して語り(一三・一に名をあげられている五名はみな預言者です)、その働きをする人物が指名され、彼らは共同体全体の委託を受けて、新しい未開拓の地域に向かいます。この記事は、当時の預言がきわめて具体的な内容をもって語られていたことを垣間見させます。
 ここで聖霊が預言者の口を通して告げた「バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい」や「わたしが前もって二人のために決めておいた仕事」という表現は、パウロの「神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」(ローマ一・一)という自覚と呼応しています(傍線部分の原語は同じ)。
 その方面の働きが成し遂げられたとき、遣わされた者たち(ミッショナリー)はアンティオキアに戻ってきて、その活動の成り行きを集会に報告します(一四・二一〜二七)。その後、「しばらくの間、弟子たち(=アンティオキア共同体)と共に過ごし」(一四・二八)、そしてまた聖霊が指示されるとき、新しい開拓地に向かって出発することになります。
 アンティオキア共同体から送り出された二人が、その福音活動においてどの程度共同体からのサポート(旅費や生活費)を受けていたかは分かりません。この時期の伝道旅行においても、バルナバとサウロは手仕事をして生活の資を得ていたとも見られますが(コリントT九・六)、アンティオキア共同体の資力からすれば、ある程度の援助はあった可能性もあります。この時期のパレスチナ以外の地域では、イエスが弟子たちを送り出されたときとは状況は異なり、イエスが弟子たちに与えられた「何も持つな」という命令は、文字通りではなく、すべてを神に委ねるという信仰の姿勢において受け継がれていたと言えます。
 この時期に「シリアとキリキアの地方」でなされた数多くの伝道旅行の中で、ルカにとって重要な意義をもつキプロス島とガラテヤ州南部への二人の伝道旅行が詳しく語られます。この旅行は、おそらくこの時期の終わりの方でなされた旅行であり、ルカはアンティオキアでその伝承と資料を手に入れることができたのでしょう。ルカは、西に向かったこの伝道旅行を、ローマに向かうパウロの福音活動の最初の一歩として詳しく語ります。

バルナバとサウロのキプロス伝道

 「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた」。(一三・四〜五)
 バルナバとサウロはアンティオキアを出発して、オロンテス川河口にある港町セレウキアに下り、そこから船でキプロス島に渡り、島東部のサラミスの港に着きます。キプロス島は昔からユダヤ人住民の多い島ですが(マカバイT一五・二三)、その中でもサラミスは島で一番重要な都市であり、ユダヤ人住民も多く、複数の会堂がありました。当時ローマ総督府の所在地は西端のパポスにありましたが、サラミスはなお島一番の都市でした。
 この時バルナバとサウロがキプロスに行ったのは、「わたしが前もって二人のために決めておいた仕事」という聖霊の指示の中にキプロスという行き先があったのか、バルナバの出身地がキプロスであった(四・三六)ためかは分かりません。とにかく二人がアンティオキアから西に向かったという事実は、将来に重要な意味をもつことになります。
 バルナバとサウロは、いつもそうしているように、まずその都市のユダヤ人会堂に入って、ユダヤ人に主イエスの福音を告げ知らせます。そこでの成果は報告されていませんが、そこでしばらく働いた後、一行(バルナバとサウロおよび助手のヨハネ)は「島全体を巡って」(おそらく南岸沿いに)西端にある総督府所在地のパポスまで行きます。後にパウロはどの州に入っても、その州の中心都市である総督府所在都市を目指しますが、この元老院所轄の属州キプロスでも同じです。そこで地方総督のセルギウス・パウルスに福音を語ることになります。総督がバルナバとサウロを招いたのですが、それはおそらくバルナバとサウロが行ったいちじるしい「しるし」のうわさが、総督の耳に入ったからでしょう。
 ルカはこの総督を「賢明な人物」と評しています。おそらくこの総督は宗教的な問題に真面目に取り組む知的な人物だったのでしょう。彼は「バルイエス」という名のユダヤ人霊能者と交際していました。これは、この預言的霊能のあるユダヤ人が総督府で、または総督の家庭で宗教顧問のような役割を果たしていたことを指すのでしょう。したがって、バルナバとサウロが総督に招かれて会見したとき、このユダヤ人バルイエスも側にいて、バルナバとサウロが語る主イエスの福音を非難し、総督がイエスを信じるのを妨げます。この光景は、エジプトでファラオの前で主の言葉を述べたモーセに対してエジプトの魔術師たちが敵対した出エジプト記の物語を思い起こさせます(一三・六〜八)。

「バルイエス」というアラム語名は「イエスの子」という意味であって、「イエス」という名が当時のユダヤ人にはよくある名であることを示しています。この「バルイエス」という名のユダヤ人が「エリマ」とも呼ばれていて、それは魔術師を意味する名であるというルカの説明が付けられています(一三・八)。この二つの名の関係、およびそれぞれの名の由来や意味については、学者が様々な提案をしていますが、いまだに最終的には解決していません。当時のユダヤ人は、「サウロ」と「パウロ」のように、ユダヤ名とギリシア名を使っていましたから、この「バルイエス」というユダヤ人もギリシア人の間では《エリュマス》という名を使っていたとされ、そのギリシア語が「魔術師」と解釈されたという理解が一般的です。

 聖霊に満たされて主イエスの福音を語っていたサウロは、このエリマと呼ばれるユダヤ人をにらみつけて言います。
 「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」。
 するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探すことになります。(一三・九〜一一)
 イエスに敵対し、イエスを信じる者を迫害していたサウロがダマスコ途上で復活者イエスに遭遇したときに起こったように、この主イエスに敵対するバルイエスにも目が見えなくなるという「しるし」が起こります。サウロは、自分がイエスに敵対していたときに起こったことが、今この敵対者にも起こるのだと預言したのかもしれません。そして、その言葉通りになります。この見えなくなるという状態は、「時が来るまで」という言葉が示唆しているように、一時的なものであったと見られます。
 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入ります。(一三・一二)
 ルカはバルナバとサウロのキプロスでの働きの成果については何も語らず、ただ総督の入信だけを詳しく語ります。それは、ルカにとってこの出来事がとくに重大な意義をもつからです。ルカはローマの高官テオフィロに捧げたこの二部作(ルカ福音書と使徒言行録)において、主イエス・キリストを信じる信仰がローマの体制と矛盾するものではないことを弁証しようとしています。この護教的意図からすると、属州総督というローマ帝国の高官が主イエスを信じたことは、何よりも力強い論拠となります。ルカはこの伝道旅行を、パウロのローマを目指す旅の最初のものとして扱っていますので、最初にこの高官の入信を報告して、パウロのローマ世界に対する伝道活動の突破口とします。最後にパウロはローマ皇帝自身に対面することになります。
 この総督の入信は、護教的意義だけではなく、キリスト信仰の社会的広がりという面においても重要です。初めイエスによってガリラヤの貧しい農民に告げ知らされた福音は、帝国最上層にも受け入れられる信仰となったのです。今や、キリスト信仰は社会の片隅の小さいグループの信仰に止まらず、社会の最上層の信仰でもありうることを示したのです。神の力が働くとき、上層であろうが下層であろうが関係はありません。カトリックの信仰が日本に到来したとき、多くの藩主が信仰に入ったのも、このことの例証です。

キプロスの総督セルギウス・パウルスの年代が不明のため、パウロの第一次伝道旅行の年代を決めることは困難です。

「サウロ」から「パウロ」へ

 キプロスの総督セルギウス・パウルスに福音を語った場面(一三・九)で、「パウロとも呼ばれていたサウロ」という説明がなされ、ここで初めて「パウロ」という名が出てきます。それまでは、ステファノの殉教の場面(七・五八)で登場して以来ここまでずっと「サウロ」と呼ばれてきたのですが、ここで「パウロ」という名が紹介され、以後はすべてこの名で呼ばれることになります。この箇所以後「サウロ」は出てきません。
 当時のユダヤ人、とくにヘレニズム都市で暮らすディアスポラ・ユダヤ人は、ヘブライ語名とギリシア語名の二つの名を持つことが普通でした。タルソスというヘレニズム都市で生まれ育ったサウロも、敬虔なユダヤ人両親から彼らの部族ベニヤミン族の誇りであるサウル王にちなんで「サウロ」という名を与えられていましたが、同時に《パウロス》というギリシア語名でも呼ばれていました。この場面(一三・九)までは「サウロ」で通してきたルカが、なぜこの場面から「パウロ」を用いるようになったのかは推察せざるをえません。
 総督の名の「パウルス」はラテン語形で、そのギリシア語形は《パウロス》であり、パウロと同名です。同名の総督を信仰に導いたから呼び方が変わったというのは、呼び名変更の動機としてはあまりにも偶然的・表面的すぎます。やはり、この出来事が彼のギリシア・ローマ世界に向かう活動の突破口となったという意義から、ルカはその後の活動を「パウロ」の活動として描き、それまでのユダヤ人「サウロ」の活動との区切りを印象づけたのではないかと推察されます。
 このキプロスとガラテヤ州南部への伝道旅行は、回心後最初のエルサレム訪問からエルサレム使徒会議までの十四年にわたる「シリアとキリキアの地方」での働きに含まれますが、ルカはこれをローマに向かうパウロの伝道旅行の最初のものと位置づけて、詳しく報告したと考えられます。後にこの旅行は「パウロの第一次伝道旅行」と呼ばれるようになります。その後のマケドニア・アカイア州とアジア州にわたる「第二次伝道旅行」、「第三次伝道旅行」と対等に並べることは、アンティオキア共同体との関係からすると問題がありますが、ルカの視点からすると、これはローマに福音をもたらしたパウロの最初の伝道旅行となるのですから、その呼び方にも理由があることになります。そして、その担い手の名は、もはやサウロではなく、その後の福音活動全体の主人公の名であるパウロでなければならないということになります。
 事実、キプロスを出てからの描き方は、「パウロとその一行は」とか「パウロとバルナバは」となります(一三・一三〜一四)。ここまでは「バルナバとサウロ」でしたが、ここからはバルナバは背後に退き、語るのはおもにパウロであり、パウロの働きとして描かれることになります。

ピシディアのアンティオキアへ

 パウロとその一行は、キプロスの州都パフォスから船出してパンフィリアのペルゲに来ますが、「マルコと呼ばれるヨハネ」は一行と別れてエルサレムに帰ってしまいます。(一三・一三)
 一行はキプロス島西端のパフォスから北西に航海して、小アジア南西部のパンフィリアにあるペルゲに到着します。ペルゲはケストルス川の河口から一五キロほど遡ったところに位置する港町です。地中海を航行する船は川を遡って直接ペルゲまで入ったと伝えられています。ペルゲはトロイア戦争の後の時代に移住してきたギリシア人によって建設された都市で、ヘレニズム時代には大いに繁栄し、その遺跡はパウロに関係する都市ではエフェソに次ぐ偉容を見せています。パウロはこの時ペルゲでは御言葉を語ることなく、帰途に立ち寄ったときに伝道活動をします(一四・二五)
 このペルゲでマルコは一行から別れてエルサレムに帰ってしまいます。マルコはエルサレムの住民で、彼の母親マリアの家はペトロの活動拠点となっていました(一二・一二)。バルナバとサウロが飢饉援助のためにエルサレムに行ったとき、バルナバは青年マルコをアンティオキアに連れてきて(一二・二五)、今回の伝道旅行に助手として参加させたのでした(一三・五)。マルコはキプロス出身のバルナバのいとこですから(コロサイ四・一〇)、マルコもキプロス出身のユダヤ人家族の一員であったのでしょう。マルコがここで一行から別れてエルサレムに帰った理由は、様々な推測が行われていますが、確認することはできません。ただ、この時のマルコの行動については、パウロは同労者としてふさわしくないとして、厳しい見方をしていることがルカによって伝えられています(一五・三八)。マルコについては、別に適当なところで扱うことになります。
 パウロとバルナバはペルゲから北に進み、ピシディアのアンティオキアに到着します(一三・一四)。この二つの都市の間は一五〇キロあり、六日の旅程です。しかも峻険なタウルス山脈を越えることになりますから、その旅はきわめて困難なものとなります。しかもピシディア山地の住民は気性が荒く、略奪集団を組んで旅人を襲うことがしばしばでした。パウロが「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難・・・・・」(コリントU一一・二六)と回顧している言葉は、この時の旅にふさわしい表現です。
 わたしたちにとって、パウロの旅程よりも、そこでパウロが語った福音書告知の内容が重要です。幸い、ルカはパウロがアンティオキアの会堂で行った福音告知の言葉を詳しく報告していますので(一三・一六〜四一)、その内容と意義を見ましょう。それは、ユダヤ人から異邦人に向かうパウロの福音活動の典型です。それは、ペンテコステの日のペトロの福音告知と並ぶ重要なものであり、使徒言行録における代表的な福音告知の一つです。ルカの要約も、ペトロのペンテコステ説教(二三節)やコルネリウスの家での福音告知(一〇節)を超える分量(二六節)を用いて、詳しく伝えています。

パウロの福音告知 ― ルカによる要約

 困難な旅をして到着したピシディアのアンティオキアで、パウロとバルナバは安息日に会堂に入ってユダヤ教の礼拝に参加します。当時のユダヤ教会堂では遠くから来たラビに奨励の説教を依頼するのが習慣でした。この求めに応じてパウロが立ち上がり、会堂に集まっていたユダヤ人と「神を敬う」異邦人たちに語り始めます。ここでも語るのはバルナバではなくパウロです(一三・一四〜一六)。
 パウロの福音告知は二つの主要部と結びの三部で構成されています。それぞれの部は改まった呼びかけの言葉で始まっているので、区分は分かりやすくなっています(一六節後半、二六節、三八節)。
 第一部(一六〜二五節)は、族長たちからダビデに至るイスラエルの歴史を概観し、その歴史はダビデの子孫から救い主が送られるという約束を構成すること、そしてその約束に従ってイエスが救い主として送られたことを語ります。その上でイエスが現れる前にイスラエルに悔い改めを宣べ伝えた洗礼者ヨハネは、彼自身が約束された救い主ではなく、救い主について証言する者であることが加えられます。
 イエスがダビデの子孫であることを強調するのは、ユダヤ人に向かって福音を語るときの特色です。当時のユダヤ人には、メシアはダビデの子孫から出るという信仰が行き渡っていたからです。また、イエスの出来事を洗礼者ヨハネの活動から始めるのも、最初期の福音告知の通例です。ここでイエスの称号に「救い主」《ソーテール》という語が用いられていることが(二三節)、この文がルカによる要約であることを印象づけます。この「救い主」という用語は、牧会書簡や第二ペトロ書簡のような新約聖書の最後期の文書に多く(全体で二四例のうち一五例)、ルカもよく用いています(四例)。ユダヤ人に向けた福音告知では、イエスが約束された「メシア」であるという表現が普通です。ところが、おもに異邦人に向かって福音が語られるようになった後期では、異邦人に馴染み深い「救い主」が用いられるようになります。ルカもこの流れの中にいます。
 第二部(二六〜三七節)では、神の約束に従ってイスラエルに送られたイエスが、民の不信仰のゆえに総督ピラトに引き渡され、罪もないのに十字架にかけられて殺されたこと、墓に葬られたこと、死者の中から復活されたこと、証人として選ばれた者たちに現れたことが語られます(二六〜三一節)。ここには、「キリストはわたしたちの罪過のために死に、葬られ、三日目に復活し、わたしたちに現れた」という最初期のエルサレム・ケリュグマが響いています。
 そのイエスの出来事を語った後、このイエスの復活こそがイスラエルに与えられた神の約束の成就であることが、福音として告知されます(三二〜三七節)。詩編(二・七)にある「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」という神の子出現の預言は、イエスの復活によって実現したと告知されます。イエスは復活によって神の子と世界に公示されたのです(ローマ一・四)。そして、もう一つのダビデの預言(詩編一六・一〇)も、ダビデ自身においてではなく、イエスの復活において成就したことが指し示されます。この聖書証明は、ペンテコステの福音告知においてペトロが用いているのと同じです(二・二五〜三一)。
 この福音告知の結びとして第三部(三八〜四一節)で、パウロはユダヤ人に向かって「兄弟たち」と呼びかけて、だからこのイエスを救い主として信じるように説きます。第一部と第二部の福音告知の内容は、二〜五章に見られるペトロの福音告知とほぼ同じ内容です。これをペトロが語ったとしても違和感はありません。これは、最初期共同体がユダヤ人に宣べ伝えた福音の基本形です。しかし、この結びの第三部に来て、ルカはパウロの福音告知の独自の中心点を明示します。

 「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。(一三・三八〜三九)

 ルカはここで「この方による罪の赦し」と「信じる者は皆、この方によって義とされる」を同格に並べています。たしかに、「信じる者は皆、この方によって義とされる」、すなわち「信仰による義」はパウロの福音の核心です。しかし、「罪の赦し」については、パウロはほとんど言及することはありません。ここに用いられている「赦し」《アフェシス》という語はパウロ書簡には一度も出てきません。「罪の赦し」が福音の中心に据えられるのは、パウロ以後のコロサイ書やエフェソ書などのパウロ名書簡になってからです(コロサイ一・一四、エフェソ一・七)。ルカもこの流れにいて、「罪の赦し」を復活されたイエスが弟子たちにお命じになった福音告知の中心主題にしています(ルカ二四・四七)。
 「モーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされる」という告知は、ユダヤ人に向けられたものです。ユダヤ人にとって「義とされる」ことは人生の最大問題です。神から義なる者と認められ、その民として受け入れられ、栄光にあずかるようになることはユダヤ人の究極の目標であり、そうなるためにモーセ律法の順守に励んだのです。ユダヤ人にとっては、神から与えられた律法であるモーセ律法を行うことが義とされる唯一の道であり、それ以外の道は考えられませんでした。ところが、パウロはユダヤ人に向かって、「モーセの律法では義とされることはできない」と宣言し、ただ神が送られた救い主であるイエスを信じることだけが義とされる道であると主張したため、多くのユダヤ人の反発を招くことになります。ルカは、このパウロの福音告知の核心をよく知っていますので、このユダヤ教会堂における福音告知にこれを入れないではおれませんでした。しかし同時に、自分が今異邦世界に告知しようとしている福音の中心主題である「罪の赦し」も入れないではおれないので、両方が並んで置かれることになります。ここにも、このパウロの福音告知がルカの要約によるもであることが示されています。
 実は、すでにパウロ自身も「義とされる」というユダヤ教独自の表現を、異邦人にも分かるように言い換えている場合があります。
 「今やキリストの血によって義とされているのですから、なおさら御怒りから救われることになります。 敵であったときでさえ御子の死によって神と和解させていただいたのですから、和解させていただいている今は、なおさら御子のいのちによって救われることになるはずです」。 (ローマ五・九〜一〇私訳)
 パウロはここで「義とされる」というユダヤ教独自の主題を、異邦人が日常に用いる「和解」という語を用いて言い直しています(コリントU五・一八〜二〇も参照)。パウロは「罪の赦し」という語は用いていません。「罪の赦し」という表現は、「罪」が複数形であることもあって、信仰によって道徳的な悪が赦される(許容される)という誤解を招きがちです。それに対して「和解」は、離反し敵対していた両者の関わりが回復するという人格関係の交わりを扱っているので、キリストの十字架において起こった出来事を表現するには、「和解」の方がより適切であると考えられます。
 パウロは、律法の行いによっては義とされず、イエスを信じることによって義とされるのだというこの宣言が、モーセ律法を絶対としているユダヤ人にとっていかに大きなつまずきになるのかをよく知っています。そして、ルカは実際にそうなったことをよく知っています。それで、ルカは最後に、預言者ハバクク(一・五)の言葉を引用して、ユダヤ人聴衆に向かって、そうならないように警戒するパウロの呼びかけを置いて、この福音告知を締めくくります。(一三・四〇〜四一)

ユダヤ人から異邦人に向かうパウロ

 パウロの福音告知の反響は大きく、さらに詳しく話を聞きたい人たちが二人についてきました。また、次の安息日にはほとんど町中の人がパウロの話を聞くために集まってきた、とルカは書いています。とくにしるし(奇蹟)が行われたことは報告されていませんが、しるしはなくても聖霊が働かれるときには、大規模な集会が行われるようになることはしばしばあることです。(一三・四二〜四四)
 この大きな反響を見たユダヤ人たちは、パウロとバルナバの成功をねたみ、パウロたちに罵声を浴びせ、その福音告知に反対の声を上げます。このユダヤ人の反対に対して、パウロとバルナバは聖書(イザヤ四九・六)を引用して、これからはその預言の通り異邦人に向かうことを宣言します。(一三・四五〜四七)
 この記事に用いられている「神の言葉(単数形)」は、ルカの時代では福音を指す用語です。それを拒むことで、ユダヤ人は自らを永遠の命にふさわしくない者と判決したので、二人は「わたしたちは異邦人の方に行く」と宣言します。その宣言を聞いて、異邦人たちは神の救いが自分たちに向けられていることを喜びますが、ユダヤ人たちは会堂に出入りしている上流階層の夫人たちや町の有力者を扇動して、二人を迫害させ、その地方から追い出します。アンティオキアの町を出るとき、二人は「足の塵を払い落とした」とありますが、これはパウロとバルナバが(とくにエルサレム共同体の有力メンバーであったバルナバが)イエスの弟子派遣のときの語録(マルコ六・一一)を知っていて、それに従ってこの象徴行為をしたと見られます。(一三・四八〜五二)

この象徴行為の意義については、当該語録(マルコ六・一一)の講解を参照してください。
 なお、この記事には二カ所で「永遠の命」という表現が用いられています(一三・四六と四八)。ルカはその二部作で、イエスを信じることによって与えられる救いを普通「命」という語で指しています。「永遠の命」を用いるのは、福音書でイエスに永遠の命を得る道を質問したファリサイ派の学者と富める人の箇所(ルカ一〇・二五、一八・一八、三〇)の三例と、使徒言行録のこの二カ所だけです。新約聖書における「永遠の命」という語の用い方について詳しくは、『天旅』二〇〇九年1号「いのちの諸相 ― 新約聖書における永遠の命」を参照してください。ここでの「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」(一三・四八)というルカの表現は、エフェソ書(一・三〜六)などに見られる永遠の選びの信仰を思い起こさせます。

イコニオンでの働き

 アンティオキアを追われた二人は、セバステ街道を通って、一五〇キロほど東にあるイコニオン(現在のコニア)に向かいます。イコニオンは、ピシディア地方の東に隣接するリカオニア地方の中心都市で、古い歴史をもつ通商で繁栄した都市でした。
 アンティオキアでパウロとバルナバはユダヤ人に向かって、「わたしたちは異邦人の方に行く」と宣言しましたが、イコニオンでもやはりまずユダヤ人の会堂に入って主イエスの福音を宣べ伝えます(一四・一)。パウロはこれ以後もどの都市でもまずユダヤ人の会堂に入って福音を告知し、そこのユダヤ人から反対されて外の異邦人に向かっています。この宣言は、以後ユダヤ人に福音を告知する活動はしないという宣言ではありません。アンティオキアでの出来事は、まずユダヤ人に宣べ伝え、ユダヤ人から反対され、会堂から追い出されて異邦人に向かうことになるパウロの福音活動の典型として最初に詳しく報告されているのです。
 ルカはすでにアンティオキアの会堂でなされたパウロの福音告知の内容をまとめて伝えていますので、イコニオンの会堂でなされた福音告知は、同じであるとして省略し、その結果起こった出来事だけを伝えています(一四・二〜六)。パウロが告知した福音を信じたユダヤ人もギリシア人(神を敬う異邦人)も多くいましたが、大部分のユダヤ人は激しく反対して、異邦人住民を扇動し、主イエスの福音を宣べ伝える二人と信仰に入った人たちにいやがらせを行います。そのような状況にもかかわらず、二人はイコニオンに「長くとどまり」、勇敢に福音を語り続けます。この「長く」がどれほどの期間であったのかは分かりませんが、一年とか二年ではなく数ヶ月(あるいは数週間)の単位と考えられます。ここでは二人の手によって「しるしと不思議な業」が行われます。その結果、住民はユダヤ人の側につく者と「使徒」(ここではルカには珍しくパウロとバルナバが使徒と呼ばれています)の側につく者とに分裂し、騒動が起こります。反対勢力は都市の指導層を抱き込み、パウロたちを石打にしようとします。二人はその計画を察知し、難を避けてその町から逃れ、同じリカオニア地方のリストラとデルベに向かいます(一四・六〜七)。

リストラでの出来事

 イコニオンを追われたパウロとバルナバは、そこから四四キロほど南にあるリストラに行き、そこからさらに東に一一〇キロほどにあるデルベにまで行きます。イコニオンもリストラもデルベもみなリカオニア地方の都市ですが、イコニオンはピシディア地方の方言を用い、リストラとデルベはリカオニア語と呼ばれる別の方言を話していました(一四・一一)。しかし、これらの古い都市もすでに十分ギリシア化されており、二人はギリシア語で福音を語ることができました。ルカは、リストラでの出来事を詳しく報告していますが、デルベでの働きは「二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にした」と、一行で済ませています(一四・二一)。後にこの都市出身のガイオという弟子が、デルベの集会を代表して、パウロの献金のための最後のエルサレム行きに同行しています(二〇・四)。
 リストラでは、二人はユダヤ教の会堂に入ったとは言われていません。ユダヤ人の会堂がなかったのでしょう。町の門や神殿の前など人が多く集まるところで福音を語ったと考えられます。その聴衆の中の一人で、「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」足の不自由な男が、パウロの一言で立ち上がり、躍り上がって歩き出すという驚くべき出来事が起こります(一四・八〜一〇)。
 この男が「座っていた」と、習慣的な動作とか状態を示す動詞形で描かれているのは、この男が町の門や神殿の前など人の集まるところで物乞いを常としていたことを示唆しています。立って聴いている周囲の聴衆の中で、この男だけが「座っていた」のです。この人は、聖霊によって力強く語るパウロから霊の迫りを感じたのでしょう、パウロを見つめ身を乗り出して一心にその言葉に耳を傾けます。パウロもこの人が全身で御言葉を受け止めていることを直感し、「いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」、彼を見つめ、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と呼びかけます。するとこの人が立ち上がり、躍り上がって歩き出すという奇蹟が起ります。
 この男に起こった奇蹟の記事は、ペトロがエルサレム神殿の「美しい門」のところで行った奇蹟(三・一〜一〇)と対応(並行)しています。『ルカ福音書講解T』の「序論 ルカ二部作の成立」で述べたように、ルカはペトロとパウロが行った事蹟を正確に対応させて描いていきます。ただ、ペトロの場合はユダヤ教の神殿の中での出来事であり、その出来事をきっかけにして、ペトロのユダヤ人に対する福音告知や、最高法院での取り調べなどが続きます。それに対して、パウロの場合は異教神殿での出来事であり、反応は違った形をとります。
 この奇蹟を見た群衆は大いに驚き、声を張り上げて叫び出します。パウロはギリシア語で福音を語り、聴衆はそれを聴いて理解したのですが、驚きのあまり叫び出したときは、土着の母語であるリカオニア語で叫んでいました。彼らは、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と叫び、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼びます(一四・一一〜一二)。
 ゼウス神殿の祭司までもが群衆と一緒になって、神殿の門前まで花輪と共に雄牛数頭を連れてきて、二人に犠牲を捧げようとします。おそらく初めは何のことか分からなかったパウロとバルナバは、周囲のギリシア人たちからそのことの意味を「聞いて」大いに驚き、「服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き」叫びます。服を裂くのは激しい悲しみとか怒りの表現です(一四・一三〜一四)。

一三節の記述の位置関係は、様々な解釈が可能です。「町の前のゼウス」は、神殿の位置を指すのか、神の名を指すのか解釈が分かれています。新共同訳の「家の門」という訳は問題です。原語には「家の」という句はなく、「門」(複数形)とあるだけです。これは神殿の柱廊などを含む門の部分を指すようです。犠牲の獣を屠るのは、神殿域に限られます。おそらくパウロは神殿の前で福音を語っていたのでしょう。「服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き叫んだ」の動詞の主語は複数形で、パウロとバルナバを指しますが、一五〜一七節の言葉は「おもに話す者」であるパウロが語ったのでしょう。

 パウロはまず、自分たちは人間であり、犠牲を捧げて神として拝むことはとんでもない誤りであると叫び、このような「空しいもの」(新共同訳では「偶像」)から生ける神に立ち帰るように福音を告げ知らせているのだと説きます。ユダヤ教徒の伝道者が異教の諸民族に福音を説くときには、まず人間や人間の手が作った偶像ではなく、天地万物を創造し歴史を支配する生ける真の神を拝むべきであると説くことから始めなければなりません。この神は「過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました」と、これまでの異教の時代の意味を語りますが、これには「しかし今は、神は救い主イエスを遣わし、その福音を世界の諸国民に宣べ伝えて、生ける真の神に立ち帰るように呼びかけておられます」という使信が続くはずです。ところがその前に、この異教の時代にも、この万物の創造者である生ける神はすべての民に、「恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっている」という事実によって、神は御自分のことを証ししておられるのだと説いたところで、パウロの福音告知は中断し、結びの「しかし今は・・・・」の呼びかけは聞かれないままに終わります。ここまで語ることで、「二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた」という報告でルカの記述は終わります(一四・一五〜一八)。
 このリストラでのパウロの福音告知は、異教の民に対する告知の最初の事例になりますが、それは前置きの部分だけで中断し、イエス・キリストによる救済の出来事は語られないままで終わっています。その全体像は後にアレオパゴスでアテネの市民に語られた福音告知(一七・一六〜三一)に出てくることになります。その後の二人の働きで、リストラでも多くの異邦人がイエスを信じるようになり、集会が形成されます。
 ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出すという事件が起こります。(一四・一九)
 リストラにはユダヤ人の在住者はいないか少なくて会堂もなかったようですが、先に訪れたアンティオキアとイコニオンではユダヤ人の会堂で福音を語ったとき、「モーセの律法では義とされない」というパウロの宣言はユダヤ人から猛烈な反発を招き、迫害され追い出されるという結果になりました。ユダヤ人のパウロに対する反感は、すでにこの時期において激しいものがあり、律法の神聖を冒?する異端者として生かしておけないというところまで来ていました。すでにイコニオンでも彼らはパウロに石を投げようとしています(一四・五)。彼らはリストラまでパウロを追ってきて、群衆を抱き込み、パウロを捕まえて石を投げつけます。これは、会堂での審問と判決による石打刑ではなく、リンチのような事件です(正式の石打刑は町の外で行われます)。激しい石打を受けて、パウロはぐったりと倒れ伏します。石打を受けて生き残った例はありません。ユダヤ人たちは、パウロが死んでしまったと思い、町の外へ引きずり出します。
 しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行くという驚くべきことが起こります。(一四・二〇a)
 ユダヤ人たちはパウロが死んだと思ったのですから、パウロは意識を失って倒れていたのでしょう。それはどんなに恐ろしい体験だったことでしょうか。後にパウロは自分が体験した苦難を列挙していますが、その中で「石を投げつけられたことが一度」と書いています(コリントU一一・二五)。それは、このリストラの出来事を指しているのでしょう。ところが、「弟子たちが周りを取り囲むと」、パウロは意識を取り戻し、起き上がって歩き、町に入っていきます。この時までにパウロの周囲には、イエスを信じる異邦人の「弟子」集団が出来ていました。弟子たちはパウロを取り囲み、主イエスの名を呼び求めたのでしょう。すると奇蹟が起こります。意識を失い、実際死んだと同じような状態になっていたパウロが起き上がったのです。パウロは、死んだ者を生き返らせる復活者イエスの力を、自らの身に体験したのです。パウロは後に、「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」と書いていますが(コリントU四・一〇)、それはけっして比喩的表現ではなく、このような体験から出ている言葉です。

アンティオキアへの帰着と報告

 そして翌日、パウロはバルナバと一緒にデルベへ向かいます。二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返します。その町々で、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励まし、弟子たちのため集会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せて、旅を続けます。(一四・二〇b〜二三)
 パウロとバルナバは、デルベから更に東に旅してキリキア門を経てタルソスに出て、そこからシリアのアンティオキアに帰ることもできたでしょう。しかし、二人はデルベからもと来た道を引き返し、福音を伝え集会を形成したガラテヤ州南部の諸都市、リストラ、イコニオン、アンティオキアを再訪します。これは、生まれたばかりのキリスト者の集会の信仰を堅くし、苦難の中でしっかりと主のもとにとどまるように力づけなければならないというパウロたちの使命感からでしょう。
 二人は新しく信仰に入った人たちに、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って励ましています。この「神の国に入る」は、やがて起こるキリストの来臨《パルーシア》の時に栄光にあずかることを指しており、その前に「多くの苦しみを経る」ことが必然(神の定め)であるというのは、黙示思想的な終末待望の構造です。ルカは、彼の著作意図から《パルーシア》という語を用いていませんが、この時のパウロの励ましは、少し後に書いたテサロニケ第一書簡の来臨待望以下のものではないはずです。この時期の福音告知は、エルサレム共同体が行うユダヤ人への告知も、アンティオキア共同体が行う異邦人への告知も、共に差し迫った来臨待望の中で、聖霊の力によって、しるしと不思議を伴う形で行われていました。
 二人は、新しく信仰に入った弟子たちの群れに、信仰を励ますだけでなく、「長老たちを任命し」、信仰共同体としての具体的な形を与えます。これは、ユダヤ教徒の共同体が長老によって指導されていることに倣ったものと考えられます。先に見たように、エルサレム共同体も長老たちに指導されるようになっていました。異邦人社会でも各種の共同体が長老たちによって指導されることはよくあることでした。二人は「断食して祈り」、おそらく長老たちに按手して、彼らをその信ずる主に任せて、旅を続けます。
 それから、二人はピシディア地方を通り、パンフィリア地方に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出します。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所でした。(一四・二四〜二六)
 二人は、キプロスから小アジア本土に来たときには直接ペルゲに上陸し、そこで福音活動をすることなく、ただちにピシディアのアンティオキアに向かいました(一三・一三)。しかし帰路では、パンフリア地方の中心都市ペルゲで福音を伝える活動をした後、近くの港町アタリアに下り、そこから船でシリアのアンティオキアに戻ります。
 二人は到着するとすぐ集会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告します。(一四・二七)
 ここでルカは《エクレーシア》(単数形)という語でアンティオキア共同体全体を指しています。実際には、多くの「家の集会」が活動していたのでしょうが、このような特別の場合にはその全体が呼び集められて、二人の報告を聞く集会が開かれます。そこで二人は、自分たちが行った福音活動のすべての経緯を「神が自分たちと共にいて行われた」こととして報告します。そして、そのこと全体を「神が異邦人に信仰の門を開いてくださったこと」と意義づけます。この表現は、ペトロが沿岸地方の伝道活動からエルサレムに帰ってきたとき、カイサリアのコルネリウスに聖霊が降ったことを報告し、それを聞いたエルサレム共同体の人たちが、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言った(一一・一八)のと同じ内容です。ルカは、異邦人世界に福音が進展して行くことを神の御計画として語りたいのです。エルサレムでもアンティオキアでも、その代表たちの働きの結果として、福音が異邦人世界に入っていったことが神の働きとして物語られています。
 そして、二人はしばらくの間、弟子たちと共に過ごします。(一四・二八)
 二人はその後しばらくは、アンティオキアから離れることなく、アンティオキア共同体の人たちと一緒に過ごし、共に集会をして、教えたり勧めたりして過ごします。

補説 ― 「ガラテヤ州」と「ガラテヤ地方」
 ところで、この伝道旅行でパウロとバルナバが伝道したピシディアのアンティオキア、イコニオン、、リストラ、デルベの諸都市はガラテヤ州の都市です。ガラテヤ州は南北に長い州で、北はパフラゴニア地方、中央部はガラテヤ地方、南はピシディア地方とリカオニア地方を含んでいます。今回パウロが伝道した諸都市は南部のピシディア地方とリカオニア地方にある都市です。
 パウロはこの後、四九年から始まると見られる「第二次伝道旅行」で、アンティオキアを出発、おそらくタルソスとキリキア門を経て、デルベ、リストラ、イコニオンを再訪して集会の人たちを励まします。そのままセバステ街道を西進してアジア州に入ろうとしますが、「聖霊から禁じられて」、進路を北に変え、ガラテヤ地方、フリギア地方、ミシア地方を経て、トロアスに着きます。ガラテヤ地方は、アンキュラ(現在のアンカラ)を中心とする小アジアの中央部に位置する内陸地方で、前三世紀以来ヨーロッパから移動してきたケルト諸族が住んでいました。このケルト系の人たちが「ガラテヤ人」と呼ばれ、彼らが住む地域が「ガラテヤ」と呼ばれたのです。ガラテヤ人の王国は前二五年にローマの支配下に入り、ローマは北のパフラゴニア地方や南のピシディア地方とリカオニア地方を合わせて「ガラテヤ州」としました。
 後にパウロは「ガラテヤの諸集会」あてに重要な手紙を書きます。このパウロのガラテヤ書簡の宛先を考えるときに、「ガラテヤ州」と「ガラテヤ地方」を区別しなければなりません。現在研究者の間で、宛先をパウロが第一次伝道旅行で形成したガリラヤ州南部の諸都市(ピシディアのアンティオキア、イコニオン、、リストラ、デルベ)と見る説と、第二次伝道旅行のときに伝道して形成した「ガラテヤ地方」の諸集会と見る説が対立し、議論が続いています。前者が「南ガラテヤ説」、後者が「北ガラテヤ説」と呼ばれ、決着がついていません。この問題は、ガラテヤ書を扱うときに触れることになりますが、ここでは「ガラテヤ州」と「ガラテヤ地方」を区別する必要を説明するにとどめます。