市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第15講

第三章 エルサレムとアンティオキア




第一節 エルサレム共同体と主の兄弟ヤコブ

はじめに

 先の二つの章で、エルサレム共同体の成立とその活動、および、その中のギリシア語系ユダヤ人が異邦人に福音を宣べ伝えて、アンティオキアに異邦人を多く含む共同体が成立したことを見ました。その後を受けて、本章(第三章)では、その後のエルサレム共同体とアンティオキア共同体の歩みと活動を見ていくことにします。
 この二つの共同体は、ユダヤ戦争によってエルサレム神殿が崩壊し、エルサレムがユダヤ教の中心地でなくなる時まで、ほぼ三〇年代後半から六〇年代に至る時期において、福音活動の二つの焦点を形成することになります。エルサレム共同体は、ステファノ殉教に続く迫害でギリシア語系ユダヤ人がエルサレムを去ってからは、アラム語系のパレスチナ・ユダヤ人だけの共同体となり、とくに四〇年代初頭のヘロデ・アグリッパの迫害によって使徒たちもエルサレムを離れてからは、「義人」と呼ばれる「主の兄弟ヤコブ」が統率することになり、ユダヤ教の枠内での共同体という性格が強く出てきます。本節でこのエルサレム共同体の歩みを追い、次節でアンティオキア共同体の活動を見ることにします。

T 「神の会衆」

エルサレム共同体の自称

 イエスの復活後、ペンテコステの日に使徒たちが福音を告知して以来、福音を信じる人たちの共同体がエルサレムをはじめ各地に成立します。使徒たちが告知した福音によって復活者イエスをキリストと信じた人々は、弟子とか聖徒とか呼ばれましたが、当初彼らの群れは特別な名で呼ばれることはありませんでした。彼らはイスラエルの会衆の一部であり、特別な名称で呼ばれる別の共同体ではありませんでした。アンティオキアで彼らが「クリスチアン」と呼ばれるようになっても、エルサレム共同体を中核とするユダヤ教内のキリスト信仰共同体が、イスラエルと区別される特別の名で呼ばれたという痕跡はありません。
 では、アラム語を用いる最初期のエルサレム共同体は、ユダヤ人共同体の中で、周囲のユダヤ人たちと区別して自分たちをどういう呼称で呼んだのでしょうか。彼らは、エッセネ派にも見られるように、終わりの時に臨んで特別に神に召し出されて神に所属する民となったという終末的な自覚から、自分たちを「聖なる者たち」と呼びました。パウロはエルサレム共同体への献金を語るとき、「聖なる者たちのための募金」と言っています(コリントT一六・一)。そして、このような終末的な自覚から、これもエッセネ派のクムラン文書に見られるように、自分たちを「神の会衆」《カハル・エール》とも呼びました。この二つの呼称は、当時のユダヤ教黙示思想に見られる、終末時の神の民の自覚を指す用語です。この二つの呼称の並行関係は、コリントの共同体にあてたパウロの呼びかけ(コリントT一・二)にも見られます。
 アラム語を用いる最初期のエルサレム共同体が自分たちを「神の会衆」《カハル・エール》と呼んだ事実は、パウロの手紙の中に痕跡をとどめています。パウロは自分が迫害したエルサレム共同体について、こう語っています。
 「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の《エクレーシア》を迫害し、滅ぼそうとしていました」。(ガラテヤ一・一三)
 「わたしは神の《エクレーシア》を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」。(コリントT一五・九)
 ここの「神の《エクレーシア》」は、エルサレム共同体の自称であるヘブライ語の「神の会衆」《カハル・エール》のギリシア語訳です。パウロが迫害したのは、ステファノのグループ、すなわちイエスをメシア・キリストと信じるギリシア語系ユダヤ人のグループでした。彼らは、最初期エルサレム共同体の「神の会衆」《カハル・エール》という自覚を共有しており、それをギリシア語で《エクレーシア・トゥ・テウ》(神のエクレシア)と呼んだのです。パウロは、その《エクレーシア・トゥ・テウ》(神のエクレシア)を迫害したのです。
 パウロも、「神の会衆」《カハル・エール》というエルサレム共同体の終末的自覚を共有しており、新しく形成された異邦人の信仰共同体にギリシア語で呼びかけるとき、《エクレーシア・トゥ・テウ》(神のエクレシア)と呼びかけます。パウロはその書簡(とくにコリント書簡)で、繰り返しこの《エクレーシア・トゥ・テウ》(神のエクレシア)という表現を用いています(コリントT一・二、一〇・三二、一一・一六、一一・二二、一五・九、コリントU一・一、ガラテヤ一・一三、テサロニケT二・一四の計八回)。
 パウロは、周囲のユダヤ人から迫害されたユダヤ人信者の共同体について、こう言っています。

 「兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の《エクレーシア》に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです」。(テサロニケT二・一四)

 《エクレーシア》というギリシア語はもともと、ギリシアの都市国家《ポリス》で、投票権のある市民の集会を指していました(一九・四〇はこの意味での用例)。そのギリシア語が、キリストの福音によってこの世から呼び出された者たちの集まりを指すのに用いられるようになりました。このギリシア語は「呼び出された者たちの集まり」という意味の語ですから、キリスト信者の集まりを指すのにふさわしい語であると言えます。
 この語は、ギリシア語を用いるユダヤ教においては、七十人訳ギリシア語聖書に見られるように、イスラエルの「会衆」を指すヘブライ語《カーハール》のギリシア語訳として用いられていました。しかし、ギリシア語を用いる共同体が、旧約聖書のイスラエルの民を継承する者として自分たちを指すのに、単純に《カーハール》の訳語として《エクレーシア》を用いたのではありません。というのは、《カーハール》の訳語としては、七十人訳ギリシア語聖書でも《エクレーシア》と共に《シュナゴゲー》というギリシア語もよく用いられていたからです。最初期のギリシア語系の共同体が、自分たちを神の民として言い表すとき、《シュナゴゲー》ではなく《エクレーシア》を用いたのは、《シュナゴゲー》が一般のユダヤ教徒共同体を指すのに対して、《エクレーシア》は終末的な神の民の自覚を表す《エクレーシア・トゥ・テウ》(神のエクレシア)という表現に用いられており、略して《エクレーシア》だけでそのような終末的共同体を指すことができたからです。わたしたちは新約聖書で《エクレーシア》という語に接するとき、この語がもつ終末的な響きを聞き逃してはなりません。

「神のエクレシア」《エクレーシア・トゥ・テウ》という表現について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音U』61頁以下の「神の《エクレーシア》」の項とその前後の項を参照してください。

終末的共同体としての自覚

 このような呼び方にも表れているように、最初期のエルサレム共同体は自分たちを終わりの日に呼び集められた神の民であるという終末的な自覚を強く抱いていました。この「福音の史的展開」シリーズの最初の「序章・復活者イエスの顕現」で見たように、ペトロを初めとする弟子たちが危険を冒してエルサレムに移住してきて、復活者キリストを宣べ伝え始めたのは、聖都エルサレムで復活者キリストが栄光の中に来臨されるのを待つためでした。最初期のエルサレム共同体は「キリストの来臨《パルーシア》」を待望する集団でした。この性格は、七〇年のエルサレム陥落に至るまで変わりません。

弟子たちのエルサレム移住と来臨待望の関係については、本書65頁以下の「第四節 弟子たちのエルサレムへの移住」の節を参照してください。

 ルカが「使徒言行録」で描くエルサレム共同体の姿には、このような熱烈な来臨待望が表面に出ていませんが、これはルカが「来臨の遅延」の問題に対処しなければならない時代に著作しており、来臨を迎えるまでには歴史の中を歩む覚悟をしなければならないことを示すために書いているという事情を考慮に入れなければなりません。このような事情を考慮に入れると、最初期のエルサレム共同体の来臨待望は、ルカが描くよりは遙かに熱烈であったと推察されます。パウロの時代のエルサレム共同体は、その来臨待望において、パウロ自身がテサロニケ第一書簡の四章で語っている来臨待望よりもはるかに熱烈であったと考えざるをえません。
 この来臨待望が最後まで続いたことについては、これからエルサレム共同体の歴史を扱う中で見ていくことになります。今ここでその来臨待望の全体を描くことはできませんが、これからエルサレム共同体の歴史をたどるさいに、この共同体の基本的な性格を見誤ることのないように、最初にもう一度指摘しておくことにした次第です。

U エルサレム共同体のユダヤ教外伝道

ペトロの沿岸地方伝道

 先に「第二章・ユダヤ教の外に向かう福音」で、おもにギリシア語系ユダヤ人の活動によって福音がユダヤ教の外に進展し始めた出来事を取り上げました。ステファノの殉教をきっかけにして始まった迫害によってエルサレムから追われたギリシア語系ユダヤ人の信者たちは、ユダヤ、サマリア、ダマスコ、フェニキア、キプロス、アンティオキアなどの周辺各地に散って行き、各地にキリストを宣べ伝え、ついにアンティオキアでは異邦人を多数含む共同体を形成するに至ります。では、エルサレムに残ったアラム語系ユダヤ人の共同体は、どのような原則や姿勢でイエスをメシア・キリストと宣べ伝えたのでしょうか。本節(第三章第一節)では、その後のエルサレム共同体の様子と福音活動の概略を見ていくことにします。
 ルカは、ステファノのことで起こった迫害とそれに続くギリシア語系ユダヤ人の活動を伝える記事(使徒言行録八〜一一章)と並行して、エルサレム共同体の福音活動を報告しています(九・三二〜一一・一八)。それはおもにペトロの活動に集中していますが、それはエルサレム共同体がユダヤ教の外にも福音告知の活動を広げ、ついには異邦人をも受け入れるに至る過程を描いています。ペトロ以外の使徒たちの働きは完全に視野の外に置かれています。その理由については、後で取り上げることにします。
 先にルカは、ギリシア語系ユダヤ人たちの指導者「七人」の中の一人フィリポが、サマリアから地中海沿岸地方に伝道し、シリア州の州都カイサリアに至ったことを報告していました(八・四〜四〇)。またルカは、フィリポの働きによってサマリアの人たちがイエス・キリストを受け入れたことがエルサレムに伝わったとき、エルサレム共同体はペトロとヨハネをサマリアに派遣して、サマリアの信者が聖霊を受けるようにし、二人はサマリアの多くの村で福音を伝えたことを報告していました(八・一四〜二五)。ルカは、サマリア伝道もエルサレム共同体の使徒団の統率下の活動であるかのように描いています。
 フィリポはサマリアから地中海岸の都市アゾトに出て北上し、リダやヤッファなどの沿岸諸都市で福音を宣べ伝え、ついにカイサリアに至り、このシリア州の州都である大都市に腰を据えて活動します。まさにフィリポが活動したこれらの沿岸地方諸都市にペトロが来て、すでにフィリポの働きによって信仰に入っている弟子たちに神の言葉を教える働きをします。これは、サマリアの場合と同じく、この地方の人たちがイエス・キリストを受け入れたという報せがエルサレム共同体に届き、エルサレム共同体がその地方の信者たちを指導するためにペトロを派遣したものと考えられます。ヨハネが同行せず、ペトロ一人が出向いた理由は分かりません。
 ペトロは、これらの諸都市で信仰に入った新しい弟子たちに、イエスのことを詳しく伝え、彼らが正しく信仰に歩むように教え勧めたものと考えられます。しかし、ルカはそのような働きにはほとんど触れず、ペトロがイエス・キリストの名によって驚くべき奇跡を行ったことだけを報告しています。ペトロは、リダでは八年間も中風で床についていたアイネアを立ち上がらせ(九・三二〜三五)、ヤッファではその頃病気で死んだタビタと呼ばれる女性の弟子を生き返らせます(九・三六〜四三)。このようなイエスご自身がなされた奇跡と同じ働きを、イエスの名によって行ったので、その地の人々がみなイエスを信じたことが報告されています。このリダやヤッファの弟子たちはユダヤ人であって、ペトロがこの地の弟子たちと交わりを持ったことは何も問題にされていません。ところが、カイサリアでは重大な意義をもつ出来事があり、そのことが詳しく、ペンテコステの日の出来事以上の詳しさで、大きく語られることになります。

コルネリウスの回心

 その重大な意義のある出来事とは、ローマ軍の百人隊長コルネリウスがイエス・キリストを信じて聖霊を受けた出来事です。コルネリウスはユダヤ教徒ではなく異邦人であり、異邦人に初めて聖霊が与えられた出来事として、とくにルカにとって時代を画す重大な意義をもつ出来事です。それで、ルカはその出来事の経緯を詳しく、綿密に構成された形で物語ります(一〇・一〜一一・一八)。この物語は、次の四組の並行記事(それぞれの組のAとB)で構成されていると見られますので、その構成に従って物語をたどります。

1 コルネリウスの幻とペトロの幻
A コルネリウスはカイサリアに駐屯するローマ軍の中の「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長であり異邦人ですが、イスラエルの神を信じて祈り、ユダヤ人のために多くの施しをするなど、神を畏れる敬虔な人物でした。しかし、割礼を受けるには至らず、ユダヤ教の周辺で「神を敬う者」として信仰生活をする異邦人でした。そのコルネリウスが神に祈っているとき、幻の中で天使を見て、ヤッファの革なめし職人シモンの家にいるペトロを招くようにお告げを受けます。それでコルネリウスは一人の部下の兵士と二人の召使いを使者としてヤッファに送ります(一〇・一〜八)。
B ペトロがヤッファの革なめし職人シモンの家に滞在していたとき、正午の祈りの時にペトロは不思議な幻を見ます。天が開き、様々な種類の獣や鳥が入れられた大きな布のような入れ物が地上に下りてきます。そして、「ペトロよ、身を起こして、屠って食べなさい」という声を聞きます。その中には、律法によって汚れたものとされ、食べることを禁じられている動物が含まれているので、ペトロは「わたしは汚れたものは何一つ食べたことはありません」と答えます。それに対して、「神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない」という声が天から聞こえてきます。同じことが三度繰り返されされます(一〇・九〜一六)。

2 コルネリウスの使者の到着とペトロの到着
A ペトロがこの不思議な幻のことを思いめぐらしていたとき、コルネリウスから遣わされた三人の使者がペトロの家を探し当てて門口に到着します。使者たちがコルネリウスの身に起こった出来事を説明するのを聞いて、ペトロは彼らを歓迎し、泊まらせます(一〇・一七〜二三a)。
B 翌日ペトロはヤッファの兄弟たちと一緒にカイサリアにおもむき、コルネリウスの家に到着します。コルネリウスは親類や友人を集め、ひれ伏して神から遣わされた使者であるペトロを迎えます。ペトロは、ユダヤ人が異邦人の家に入ることは律法で禁じられているのであるが、前日に見た幻によってそのような律法の規定を乗り越えて来たことを説明します(一〇・二三b〜二九)。

3 コルネリウスの体験説明とペトロの福音告知
A コルネリウスは、幻の中に見た天使によってペトロを招くことを命じられた経緯を説明します。それで、ペトロを神から遣わされた使者として、ペトロの言葉を聞こうとしていることを言い表します(一〇・三〇〜三三)。
B それに応えてペトロは、神が人を分け隔てしないで受け入れてくださることを述べて、自分に委ねられた福音の言葉を異邦人に語ります(一〇・三四〜四三)。ここのペトロの福音告知の内容は、最初期の使徒たちが告知した福音の内容の要約として重要ですから、後で改めて扱うことにします。

4 異邦人の受容が神御自身によって、次に共同体によって確認される
A ペトロが福音の言葉を語り続けているときに、聴いているコルネリウスたちの上に聖霊が降り、ペンテコステの日にペトロたちユダヤ人が聖霊を受けたときのように、異言をもって神を賛美し始めます。割礼を受けていない異邦人に聖霊が降ったのを見て、割礼を受けているユダヤ人信者は大いに驚きます。神が聖霊を与えて御自身に属する者とされたのですから、ペトロは彼らに水のバプテスマを授けて、自分たちと同じ神の民であることを認めます(一〇・四四〜四八)。
B ペトロはエルサレムに上り、エルサレム共同体にカイサリアでの出来事を報告します。エルサレム共同体のユダヤ人の中には、ペトロが無割礼の者(異邦人)と食事をして律法に違反したことを非難する者もいましたが、ペトロの幻の体験と異邦人のコルネリウスたちに聖霊が降った事実を聞いて、異邦人信者を神の民として受け入れることを承認します(一一・一〜一八)。

無割礼の福音の確立

 割礼を受けていない異邦人がそのままで、割礼を受けているユダヤ教徒と同じようにキリストに属する民として受け入れられたことは、福音の進展の歴史において時代を画する重大な意義をもつ出来事です。とくに、キリストの福音がユダヤ教の枠を超えて異邦世界に進展することを主題としてその二部作を書いているルカにとって重要です。ルカはこの出来事を、ペンテコステの日にユダヤ人に聖霊が注がれて福音の告知が始まった出来事よりも大きなスペースを用いて、詳しく物語っています。
 この出来事の意義は、ペトロがエルサレム共同体でした弁明によく示されています(一一・四〜一七)。ペトロは、律法では汚れた者とされている無割礼の異邦人と食事を共にした経緯を、自分が見た幻とコルネリウスが見た幻によって、それが神からの指示であると理解できたことを説明します。二人の人に与えられた幻が合致して一つの出来事が起こったのは、それが神の指示による出来事であることを証明しています。それは、すでにサウロとアナニアの場合にも例があります(九・一〇〜一二)。
 このコルネリウスの出来事は、無割礼の異邦人がそのままで清い者とされて神の民に受け入れられるということをユダヤ教徒に納得させることがいかに困難なことかを示しています。それは、神御自身が幻という非常手段を用いてなしてくださらなければできないほどのことです。ユダヤ教徒にとって割礼は生命線です。権力者がユダヤ教を弾圧し禁止しようとしたとき、割礼を禁止しましたが、ユダヤ教徒はそれに対して命がけで抵抗しました。割礼を行わなければ神との契約が成立せず、神の民としての資格を失うからです。その割礼がなくても神の民であり得るとするのは、ユダヤ教の存在意義を否定することです。事実、コルネリウスの出来事の後も、異邦人は割礼を受けてユダヤ教徒にならなければ救われないと主張するユダヤ教徒の勢力がエルサレム共同体に根強く残っていたことが、その後のパウロの無割礼の福音の主張をめぐる対立とエルサレム会議の成り行きによく出ています。
 ここで使徒言行録の叙述の順序を振り返りますと、このコルネリウスの出来事を頂点とするペトロの沿岸地方伝道の記事(一〇・三二〜一一・一八)が、ステファノの殉教をきっかけとして起こった迫害で散らされたギリシア語系ユダヤ人たちのユダヤ、サマリア、フェニキア、キプロス、アンティオキアでの活動を語る記事(八章から一一章にかけて)の途中に、やや無理に割り込む形で挿入されているのに気づきます。本稿でしたように、アンティオキア共同体成立の記事(一一・一九〜三〇)は、サウロの回心とそれに続く初期の活動の記事(九・一〜三〇)に自然に続きます。このギリシア語系ユダヤ人の活動を物語る記事の中に、コルネリウスの出来事を詳しく語る記事を入れたのは、無割礼の異邦人を受け入れるようになったアンティオキア共同体の活動よりも先に、ペトロとエルサレム共同体が無割礼の異邦人を受け入れていたことを主張するためであったと推察されます。歴史的事実としては、異邦人を受け入れたアンティオキア共同体の活動と、コルネリウスの出来事のどちらが先であったかは確定できません。しかし、ルカがアンティオキア共同体の成立と活動を語る記事よりも先にコルネリウスの記事を置いたのは、パウロの無割礼の福音の主張よりも先に、ペトロを初めとするエルサレム共同体が無割礼の福音を認めていたことを印象づけるためであったと考えられます。
 それにもまして、このコルネリウスの出来事は、割礼というユダヤ教の堅い城壁を打ち破って、キリストの福音を無割礼の異邦人の世界にもたらされたのは神御自身であることを物語っています。後にパウロがこの無割礼の福音を命がけで宣べ伝えますが、実はその真理は、パウロが活動する前に神御自身によって確立されていたことを、ルカはこのコルネリウスの物語で語るのです。この出来事は、キリストの福音がユダヤ教の枠を超えて世界の諸民族に広がって行くことを叙述するルカの物語の中で、最高の重要性をもつ出来事であるわけです。

使徒たちのキリスト告知の要約

 ルカはここで、ペトロがコルネリウスの家で語ったキリスト告知(=福音)を要約して伝えています(一〇・三四〜四三)。この箇所は、最初期の使徒たちが告知した福音の要約として重要です。わたしたちは先に(本書150頁以下の「W エルサレム共同体のキリスト告知」の項で)発足したばかりのエルサレム共同体のキリスト告知の内容の主要点を整理して提示しましたが、ここのペトロのキリスト告知は、その内容を引き継ぎながら、その後のペトロに代表されるアラム語系ユダヤ人の使徒たちのキリスト告知の特色をよく示しています。
 ペトロは最初に、自分とコルネリウスに与えられた幻や啓示によって、神が異邦人を差別せずに救いに招いておられることが分かったと前置きして(三四〜三五節)、福音を語り始めます。その最初の部分(三六〜三八節)は、洗礼者ヨハネの活動から始まるイエスの地上の働きを要約しています。そして、その後にイエスの十字架の死、三日目の復活、使徒たちへの顕現、すべての者の審判者としての到来、イエスを信じる者への罪の赦しの約束という最初期のキリスト告知(いわゆる「ケリュグマ」)が語られます。
 この部分も、他の箇所の使徒たちの説教や演説と同じくルカの要約ですから、ルカの思想や著作意図の影響を免れません。しかし、先に見たように、発足したばかりのエルサレム共同体のキリスト告知(エルサレム・ケリュグマ)が、使徒言行録の二〜五章にあるペトロの諸説教からほぼ復元されることからも、ルカはその時の事実を伝える資料をかなり忠実に用いているという面もあります。
 ここでは、後半のキリストの出来事を告知する部分は、それぞれの項目がかなり短く圧縮され要約されていますが、それに較べると前半のイエスの地上の働きが比較的詳しく要約されていることが目立ちます。しかも、その部分(三六〜三八節)のギリシア語が、美しいギリシア語を書くルカには珍しいほど乱れていて、アラム語資料の直訳ではないかとも推察されています。それで、アラム語に戻した文から内容を整理して英訳したC・H・ドッドの翻訳を、参考に邦訳して引用しておきます。

以下の訳文は、 C.H.Dodd, The Apostolic Preaching and Its Developments, Hodder & Stoughton p.27-28 からの引用です。

 「彼、すべてのものの主である方が、メシアであるイエスによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らに送られた言葉について、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きたあの事柄(直訳は「あの言葉」)を、あなたたちは知っていますね。神はナザレのイエスに聖霊と力をもって油注ぎをなさいました。イエスは巡り歩いて善いことをされ、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされました。神がイエスと一緒におられたからです。(三六〜三八節)
 「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方とエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、すなわちわたしたちに対してです。わたしたちは、イエスが死者の中から復活された後、一緒に食事をしました」。(三九〜四一節)
 この特色、すなわち、キリスト告知の語りかけにおいてイエスの地上の働きを語り伝えることが比較的重視されているという特色は、この時期のアラム語系ユダヤ人の福音活動の性質を指し示しています。このことは、後で(X パレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰)で詳しく扱うことになりますが、その特色は、このルカの要約文にもよく出ています。使徒たちを代表者とするパレスチナのアラム語系ユダヤ人こそ、イエスの地上の働きや言葉を語り伝える伝承(イエス伝承)の担い手なのですから、これは当然の特色です。実は、このような福音告知の形が、後に福音書を生み出す源流となります。
 イエスをメシア・キリストと宣べ伝えるキリスト告知、すなわちイエス・キリストの十字架と復活を救いの出来事とする告知(ケリュグマ、福音)の枠の中に、イエスの地上の働きを含ませ、そのイエスの地上の働きの中にもメシア・キリストとしての姿を見て、それを語り伝えるという活動、それが後に福音書を生み出します。そこでは、地上のイエスの姿を語ることによって復活者キリストを告知するという二重性が自然のことになります。このコルネリウスの家でのペトロのキリスト告知は、マルコ福音書の原型と見られます。

V ヘロデ王による迫害

他の使徒たちの活動

 このようにルカは、十二人の使徒の中でペトロの活動だけを詳しく伝えていますが、他の使徒の働きについては何も伝えていません。エルサレムへの移住とエルサレムでの福音活動の開始にあたって、その活動の担い手として「十二人」(実際は十一人)の名があげられていますが(一・一三)、その後は最初期のエルサレムでの証言活動(三〜四章)とサマリアでの伝道(八章)でペトロと行動を共にしたヨハネが登場するだけで、それもペトロの影に過ぎない形で登場するだけで、他の使徒たちは全然出てきません。名前すらあげられていません。
 「十二人」は全員アラム語系のパレスチナ・ユダヤ人であり、エルサレムを始め、ユダヤやガリラヤなどパレスチナのユダヤ人たちのところに行って、復活されたイエスをメシア・キリストと宣べ伝えたと推測されます。中には北のシリアや南のエジプトまで、ユダヤ人のいるところに福音を伝えた者もいたかもしれません。たとえば、「十二人」の中の一人トマスはシリアで活動し、後にアンティオキアから東へ三〇〇キロほどにあるエデッサで福音を伝え、さらに東に向かい、ついにはインドまで達したと、古代教会の伝承は伝えています。
 彼らはアラム語系ユダヤ人です。その中にはかなりギリシア語をよくする者もありましたが、「七人」の一人フィリポに代表されるギリシア語系ユダヤ人がしたように、「ユダヤ人以外のギリシア語を話す人々に福音を告げ知らせた」(一一・二〇)かどうかは確認できません。例外的にそのような活動があったかもしれませんが、全体としては、ステファノの殉教で始まった迫害の圏外にいてエルサレムに止まったアラム語系ユダヤ人使徒たちの働きは、ユダヤ教の枠内に止まっていた、すなわちユダヤ教徒だけに向けられていたと考えられます。
 ルカがペトロの働きだけを詳しく伝え他の使徒たちには全然触れないのは、ルカにとってはペトロが無割礼の異邦人に福音を伝え、異邦人に聖霊が降って異邦世界への門戸が開かれたあのコルネリウスの出来事こそ重要な意義のある出来事であり、その他のユダヤ教の枠内で行われた福音活動には関心がなかったからであると考えられます。

ルカが「使徒言行録」において前半においてはペトロだけに集中し、後半においてはパウロだけに集中して記述している事実は、ペトロをパウロの異邦人伝道に立ちはだかる偽使徒のように語るマルキオンに対抗するために、ペトロをパウロと同じように、いやむしろパウロ以前に異邦人に福音をもたらした真の使徒として描くためという面があったと考えられます。詳しくは拙著『福音の史的展開U』447頁の「X 使徒言行録を成立させた状況」を参照してください。

長老団の形成

 使徒たちは復活者イエス・キリストを各地に告げ知らせることが使命ですから、エルサレムを離れ地方に旅することが多かったと推察されます。ルカはペトロのサマリアと沿岸地方の旅行しか伝えていませんが、他の使徒たちも各地に散って活動し、時にはエルサレムに戻って報告したり、共同体を指導したりしていたのではないかと考えられます。
 では、エルサレムのユダヤ人信者たちは日常どのような形で一つの共同体を形成し、運営していたのでしょうか。彼らはイエスを信じたとはいえ、ユダヤ教徒であることを止めたわけではありません。ユダヤ教の内部で、イエスを信じてメシアと言い表す一派を形成したわけです。彼らは、初めはそれまでの所属ユダヤ教会堂でユダヤ教徒としての生活をしていたのでしょうが、周囲のユダヤ教側から圧迫され迫害されるに従い、自分たちの集まり、イエスを信じる者だけの共同体を別に形成するようになります。では、その形はどのようなものだったのでしょうか。
 ある人数のユダヤ教徒が集まって共同体を形成するときは、その共同体を管理統率する数名の「長老」からなる長老会議が形成されます。長老は普通ある程度以上の年齢の経験豊かなユダヤ教徒で、共同体のユダヤ人の間で信望高い者が数名選ばれます。この長老会議は《ゲルーシア》と呼ばれ、会堂を中心とするユダヤ人共同体の維持と運営を取り仕切ります。律法の違反者に刑罰を科す裁判も長老会議が担当します。この長老会議の議長役と会堂での礼拝を担当する「会堂長」《アルキシュナゴーゴス》の関係は議論のあるところですが、会堂に具体化するユダヤ人共同体の統率者であることは同じです。
 ユダヤ人信者からなるエルサレム共同体も、ユダヤ人の常として、長老会議を形成したはずです。会堂という自分たちの集会用の建物をもったかどうかは分かりませんが、長老たちに導かれる集会を形成したことは確かでしょう。ルカは直接このことを報告していませんが、使徒言行録の記述の中にその存在が垣間見られます。使徒たちは各地に出かけて不在が多いので、エルサレム共同体の日常の統率は自然に長老会議が受け持つことになります。その長老会議を取り仕切る議長として、かなり初期から「主の兄弟ヤコブ」が登場します。
 主の兄弟ヤコブが成立当初からエルサレム共同体に参加していたことは先に見ましたが、このヤコブがかなり初期からエルサレム共同体において大きな影響力をもつようになっていたことは、パウロ書簡が示唆しています。パウロは回心後三年目にエルサレムに上ります。パウロの回心は、三三年と見られるステファノ殉教の時ですから、このエルサレム行きは三五年ということになります。その時のことを、パウロはこう書いています。
 「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました」。(ガラテヤ一・一八〜一九)
 パウロは直接イエスに従ってイエスの働きを目撃したり教えを聴いたのではありませんから、このイエスをメシア・キリストとして告げ知らせるためには、少しでも正確にイエスのことを知ろうとして「ケファと知り合いになろう」としたのは当然です。イエスに直接つき従った弟子たちの中で、当時すでにケファ(=ペトロ)が彼ら使徒団を代表する者と目されていたので、ケファに会ってイエスのことを詳しく聴こうとしたのでしょう。パウロはエルサレムのユダヤ教徒からは裏切り者として命を狙われかねない立場ですから、秘かにペトロだけに会って、その家に隠れるように留まったと推察されます。ですから「ほかの使徒にはだれにも会わず」ということになりますが、「ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました」というのは、エルサレムに来て、エルサレム共同体を代表する立場にある「主の兄弟ヤコブ」に会わないわけにはいかないという理由と、何と言っても「主の兄弟」ですから、イエスのことは身近に見て多くのことを知っているからです。
 ここでパウロはヤコブを「主の兄弟」という称号をつけて呼んでいます。このことは、ヤコブがその時期にすでに、エルサレム共同体では「主の兄弟」と呼ばれて、このイエスとの特別の血縁関係によって、エルサレム共同体の中でとくに重要視されていたことを示唆しています。長老会議が形成されていたとすれば、自然にその議長役として大きな影響力を行使するようになっていたことでしょう。各地での宣教活動のために不在がちな使徒たちに較べ、長老たちはエルサレムに定住していますから、エルサレム共同体の指導は自然に長老たちの手に移り、長老団が共同体を代表することになったと推察されます。

エウセビオスの『教会史』(U一・二〜三)に次のような記述があります。「・・・このヤコブにはその徳の高さのゆえに当時の人が『義人』という称号を与えていたのであるが、このヤコブがエルサレム教会の最初の監督の座に選ばれた、と言われている」として、クレメンスの次のような文章を引用しています。「ペトロとヤコブとヨハネは、救い主の昇天後、彼らはすでに救い主から誉れを与えられていたのであるから、栄光を求めて争うことなく、義人ヤコブをエルサレムの監督として選んだ」。この記述はステファノ殉教の記述の直後にあり、かなり早い時期にエルサレム共同体の指導権が使徒団から長老団の筆頭者である「主の兄弟ヤコブ」に移っていたことを示唆しています。

ヘロデ王による迫害

 この移行の流れを決定的にする事件が、四〇年代前半に起こります。それがヘロデ王による共同体への弾圧と使徒たちへの迫害です。
 40年代の前半に、当時のユダヤの支配者ヘロデ・アグリッパ一世(在位41〜44年)が、十二人の中の一人であるゼベダイの子ヤコブを殺害します(使徒一二・一〜二)。ヘロデ大王の孫であるヘロデ・アグリッパ一世は、祖母マリアムネを介してハスモン王朝の血を引くためか、律法に忠実なユダヤ教徒に見えるように努力し、ユダヤ教の振興に力を注ぎました。彼はエルサレムのユダヤ教指導層(とくにサドカイ派の祭司貴族)と友好関係を築き、問題が起こったときには彼らの意に適う仕方で対処しました。
 おそらく何らかの律法に関する紛争でユダヤ教指導者たちがゼベダイの子でヨハネの兄弟であるヤコブを王に訴え、王はヤコブを逮捕し、処刑します(おそらく43年)。このヤコブの処刑は、エウセビオスの『教会史』(U一・五)によると斬首刑で行われたようです。ステファノの場合のようなユダヤ教の処刑である石打ではなく、イエスの場合のように王への反逆者として処刑されたのでしょう。ヤコブはステファノに次ぐ二人目の殉教者となります。
 「それ(ヤコブの処刑)がユダヤ人に喜ばれるのをみて、彼はさらにペトロをも捕らえ」投獄します(使徒一二・三〜四)。ペトロは奇跡的に脱獄することになります。ルカはこのペトロの奇跡的脱獄の物語を詳しく書いています(一二・六〜一九)。ルカはエルサレム滞在中に、この事件を知っているエルサレム共同体の人たちから話を聞いたのでしょう。目の前に見る出来事のように、生き生きと出来事を描いています。
 獄から脱出したペトロは、そのとき集会が行われていた家に戻り、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言って、エルサレムから姿を消します(使徒一二・六〜一七)。ペトロが獄から解放されて戻った家は、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」でした。ペトロは投獄されるまでこの家に住み、この家を拠点として活動していたことがうかがえます。しかし、ヤコブはその家にいません(いたらヤコブに伝えよという伝言は必要ないはずです)。ヤコブをはじめイエスの家族は別の家に住んでいたと考えられます。そして、この家の「主の兄弟ヤコブ」を中心とするイエスの家族が、エルサレム共同体の指導部を形成していたと見られます。
 その後のペトロの足どりは分かりません。アンティオキアで活動したことは、パウロ書簡(ガラテヤ二・一一)からもうかがわれます。パウロの活動地であるエーゲ海地域に姿を現した痕跡もあります(コリントT一・一二)。伝承によると、ローマにまで働きを進め、ローマで殉教したと伝えられています。この時以後、四〇年代末と見られるエルサレム会議に登場しますが、それ以外は使徒言行録にいっさいペトロの名は出てきません。
 ヤコブが処刑され、ペトロも投獄されたのですから、他の使徒たちも身の危険を感じることになったはずです。ペトロだけでなく、他の使徒たちもエルサレムを離れて、他の土地に行って活動をするようになり、エルサレムには使徒はいなくなります。ヘロデ王はすぐに亡くなりますから(一二・二〇〜二三)、またエルサレムに戻ってきた使徒もいるでしょうが、このヘロデ王の迫害を転機として、エルサレム共同体はますます長老の指導体制が前面に出て来るようになります。もともと使徒たちは外に出て行ってイエス・キリストを告げ知らせることが使命ですから、エルサレムでは長老が共同体の運営を取り仕切り、その長老の筆頭格である「主の兄弟ヤコブ」が、エルサレム共同体を代表し、信徒を指導することになります。それで次項(W)では、その「主の兄弟ヤコブ」とはどのような人物で、どのような質の信仰をもってエルサレム共同体を代表したのか、また、ヤコブに代表されるエルサレム共同体は、ヘロデ王の弾圧から後の危機的な時代にどのように歩んだのかを見ることになります。

W 主の兄弟ヤコブに代表されるエルサレム共同体

主の兄弟ヤコブ

 ルカの主要関心事は、福音がユダヤ教の枠を突き抜けて異邦世界に進展して行くことにあるので、使徒言行録においてもユダヤ教内の福音の進展には興味を示さず、もっぱら福音の異邦世界への進展の事実と、それが神の働きによるものであることを描くことに集中しています。それで、アンティオキア共同体が成立した後は、その活動によって福音が異邦人に告げ知らされて行く状況、とくにそのために選ばれた使徒パウロの働きに記述が集中し、エルサレム共同体の動きやその活動はほとんど触れられなくなります。ペトロを初めアラム語系ユダヤ人の使徒たちの働きは完全に無視されています。エルサレム共同体とヤコブのことも、エルサレム会議やエルサレム共同体への献金の場面など、パウロの異邦人伝道と関わるときだけ触れられるに過ぎません。
 しかし、イエスの復活以後エルサレムの陥落までの四〇年間、福音の史的展開のごく最初期においては主の兄弟ヤコブは最も重要な人物の一人です。その重要性はペトロ、ヨハネ、パウロに劣りません。ヤコブについては前著『パウロ以後のキリストの福音』の「附論第一章第一節・主の兄弟ヤコブ」でやや詳しく述べていますので、ここではその要点をまとめながら、ヤコブに代表されるエルサレム共同体の信仰とその福音活動を見てみましょう。
 ヤコブはイエスの弟であり、兄イエスと同じく、敬虔なユダヤ教徒であるヨセフとマリアの下で、幼いときから厳格な律法教育(聖書教育)を受け、高度な律法(聖書)の知識に通じていたと考えられます。イエスについては、既に十二歳のときに律法学者たちを驚嘆させるほどの鋭い律法理解を見せていたことがエピソードとして伝えられていますが(ルカ二・四一〜五二)、ヤコブも律法理解と律法への熱心さでは優れた人物であったと考えられます。
 青年期のイエスとヤコブの律法(=ユダヤ教)理解がどのような性質または傾向のものであったかは、資料が乏しく確認できませんが、イエスの洗礼者ヨハネとのつながりやその後の発言などから、またヤコブのエルサレム時代の姿から、多分にエッセネ派の影響が見られるファリサイ派のタイプではなかったかと推察されます。
 イエスは聖霊を受けて、時代のユダヤ教をはるかに超えた神との交わりの境地に入り、それを「神の支配」として宣べ伝える活動を始められます。この兄イエスの活動に対して、ヤコブは決して批判的とか反対ではなく、一緒に行動したりして協力的であったことは、先に見たとおりです。ただ、イエスは十二人の弟子をいつも側におらせて教えられたので、福音書は弟子のことは詳しく伝えていますが、ヤコブがどうしていたのかは伝えられず、この時期のヤコブについてはほとんど何も分かりません。

この時期のイエスに対する家族の姿勢については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』440頁の注記を参照してください。

 復活されたイエスはヤコブに現れ、ヤコブはイエスをメシアと信じるようになって、エルサレムでペトロら十二人と一緒に活動を始めます。母マリアと他の兄弟たちも一緒でした(一・一四)。その中には、後にユダ書を書くユダもいたはずです(ユダ一・一)。先に見たように、ユダヤ人信者からなるエルサレム共同体が大きくなるにしたがって長老会議が形成されますが、その中でヤコブが自(おの)ずから議長的な役割を果たすようになります。それは、他の兄弟たちの中では一番年長であることもあるでしょうが、ヤコブの律法(聖書)理解の深さと熱心さで、彼はユダヤ教徒から尊敬されていたからであると考えられます。
 ヤコブの周囲には、他の兄弟たちや母マリアとマグダラのマリアなどガリラヤから来た婦人たちもいたことでしょう。母マリアとヤコブを中心とするイエスの家族は、おそらく同じ家に住んでいたのでしょう。ペトロら使徒たちはそれぞれ別の住まいを拠点として活動していたと推察されます。共同体全体に関わる重要な問題を相談するときは、一緒に集まって討議したことでしょう。そのような使徒と長老の会議では、成立当初はペトロなど使徒が主導していますが、これも先に見たように、だんだんと長老が、とくにその筆頭者である「主の兄弟ヤコブ」が主導するようになっていきます。
 ステファノ殉教の時の迫害でギリシア語系ユダヤ人信者がエルサレムを去って、アラム語系ユダヤ人だけの共同体になってからは、長老の発言力が強くなったと見られます。ステファノ殉教前の「七人」の選任では「十二人」が主導していますが(六・二)、パウロが回心後はじめてエルサレムを訪ねた三五年頃には、すでに「主の兄弟ヤコブ」が共同体を代表するような立場にいることがうかがわれ、四二年か四三年と見られるヘロデ王の弾圧によって使徒たちがエルサレムを去るに至って、この変化は決定的になります。四〇年代末と見られるエルサレム会議では、ヤコブが議長として会議を取り仕切っています(一五・六〜二一)。
 この会議の決定を伝える書簡はまだ「使徒と長老たち」の名で書かれていますが(一五・二三)、この書簡以後は「使徒」という名称は使徒言行録に出てきません。パウロが五七年に異邦人諸集会から集めた献金をエルサレムに届けたときも、エルサレム到着の翌日ヤコブを訪ね、ヤコブに率いられた長老たちと会談しています(二一・一七以下)。この会談でも、ヤコブが長老を代表して発言しています。
 このような使徒言行録のごく僅かの記事からも、エルサレム共同体が「主の兄弟ヤコブ」によって統率され、代表される共同体となっていたことが見えてきます。その結果、この時代のユダヤ教社会では、イエスをメシアと信じるユダヤ教徒の一派を、人々は「ヤコブ派」と呼んでいたと伝えられています。

「熱心」の時代におけるエルサレム共同体

 最初期のエルサレム共同体が活動した時代(ほぼ三〇年から七〇年の四十年間)のユダヤは、「熱心の時代」と呼べるような時代でした。その時代の合い言葉、スローガンは「律法への熱心」でした。
 紀元後六年に、ユダヤがローマの直轄属州とされ、総督が赴任して徴税のための人口調査が行われたとき、異教のローマ皇帝に税を納めることは、ヤハウェだけを主とするように定めたモーセ律法に違反するとして、律法順守に熱心なファリサイ派の中の過激な者たちがローマへの反抗運動を開始します。その指導者が「ガリラヤのユダ」と呼ばれる人物です。彼から始まるこの運動は、異教的な傾向に対して勇敢に戦ったピネハスや預言者エリヤやマカバイの戦士たちをモデルとして、「律法への熱心」をスローガンに掲げて、武力を用い、身命を賭して戦いました。福音書によく出てくる「強盗」とか「暴徒」と訳されている《レースタイ》という語は、このような熱心党活動家をローマ側から見た呼び名です。
 彼らは、その律法(父祖からの伝統、ユダヤ教)に対する熱心、情熱から「熱心党」《ゼーロータイ》と呼ばれ、当時の歴史家ヨセフスから、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派に次ぐ第四のユダヤ教党派として数えられるに至ります。すでにイエスの弟子の中にも「熱心党」出身者がいましたが、エルサレム共同体の活動時期は、この「熱心党」がますますユダヤ教社会に影響力を強めていく時期と重なります。とくに、エルサレム共同体を弾圧したあのヘロデ・アグリッパ一世が亡くなると、ユダヤは再びローマの直轄属州に戻されますが(四四年)、六年の直轄属州化の場合と同じように、このことがユダヤにおける「熱心党」の活動を激しくさせる原因となります。どちらの場合も、それまでは曲がりなりにも(=ローマの傀儡政権によるものであっても)ユダヤ人の王が治めていたのが、ローマ皇帝の直轄属州となってローマ総督の支配下に入ることになり、「熱心党」の反抗運動を激化させることになります。この時代、熱心党は全国民を動員するという目標を達成し、六六年にローマとの全面戦争に突入することになります。

「熱心党」運動については、M・ヘンゲル『ゼーロータイ ― 紀元後一世紀のユダヤ教「熱心党」』(大庭昭博訳・新地書房)が詳しく述べています。この書も、第六章「ゼーロータイ運動の展開」で、ガリラヤのユダからユダヤ戦争勃発までの時期のゼーロータイ運動を、ヘロデ・アグリッパ一世の死で、その前と後に分けています。その後の時期において、ゼーロータイ運動はますます激しくなり、ユダヤ全国を巻き込んでいくことになります。

 このような時代に、ヤコブに代表されるエルサレム共同体は、周囲のユダヤ教社会と緊迫した関係の中で歩まなくてはならなくなります。ヘロデ・アグリッパの弾圧で使徒たちはエルサレムを去り、ヤコブを筆頭者とする長老たちがエルサレム共同体を指導する体制になっています。ヤコブは、「律法への熱心」を唱えてますます過激化する周囲のユダヤ教徒に囲まれて、難しい舵取りを迫られます。エルサレム共同体が直面した困難は、第一に、エルサレム共同体が異邦人と接触し、それによって律法を汚しているのではないかという周囲のユダヤ教徒からの疑いです。そして第二は、過激化する時代の中でイエスの非暴力の教えに従うことの困難です。この二つの困難について、項を改めて見ていきましょう。

律法違反の疑いに抗して

 本稿の初めに見たように、エルサレム共同体は成立当初からきわめて熱烈な終末待望の共同体でした。イエスをメシアと信じて言い表す共同体として、そのメシア・イエスが栄光の中に来臨される「キリストの来臨《パルーシア》」が間近であると信じて、祈り待ち望んでいました。このようなメシア・イエス信仰と終末待望に対して、周囲のイエスを信じないユダヤ教社会は反発したり冷笑したりしましたが、この信仰を撲滅しようとして迫害するすることはありませんでした。それは、先に最高法院におけるガマリエルの演説のところで見たとおりです。
 当時のユダヤ教社会全体が終末待望に燃える時代になってきていましたから、エルサレム共同体の《パルーシア》への終末待望も、その内容に批判はあっても、その熱烈な終末待望の姿勢で迫害されることはありませんでした。当時(ユダヤ戦争まで)のユダヤ教社会は、エッセネ派のクムラン共同体のような黙示思想的な特別の共同体だけでなく、主流のファリサイ派そのものが終末的信仰に傾いていたので、エルサレム共同体の《パルーシア》待望も、その中の特殊な形態として一定の理解を得ていたようです。
 しかし、イエスを信じるユダヤ教徒の中で、モーセ律法に対して軽視や批判的な姿勢が見られるようになったときは、話は別になります。モーセ律法の軽視や無視に見える姿勢や行動は、周囲のユダヤ教徒もユダヤ教当局も、もはや座視することはできませんでした。それはステファノ殉教事件とそれに続く迫害に見られるとおりです。エルサレム共同体の中のギリシア語系ユダヤ人信者が、モーセ律法と神殿祭儀に対して自由な姿勢を貫き、批判的な言動をしたとき、周囲のユダヤ教徒はそれを見過ごすことはできず、その代表者ステファノを石打にし、他の者も逮捕投獄しようとしたので、彼らはエルサレムから逃れざるをえませんでした。その迫害の急先鋒が、とくに律法に熱心なサウロだったのです。
 「熱心党」だけでなく、ファリサイ派やエッセネ派など、当時の律法に熱心なユダヤ教徒は、イスラエルが律法を完全に守れば、神はイスラエルを異教の支配者から救い出してくださるのだと信じ、いまイスラエルの民が苦況にあるのは、民が律法を守らないからだと考えていました。それで、律法に対する違反や軽視に対して、それを契約の民に対する裏切り行為として厳しい目を向けるようになっていました。それが、イエスを信じるユダヤ人の律法に対する姿勢を厳しい目で見させることになります。
 もともとイエスは、安息日問題に見られるように、律法違反を教唆する教師としてユダヤ教指導層から監視され、神殿体制に対するイエスの過激な批判もあって、ついに最高法院に訴えられ、神を冒?する者として死刑の判決を受けた人物です。そのようなイエスをメシアと信じるユダヤ教徒には、ユダヤ教指導層から律法に違反した行動をしているのではないかという疑いの目が向けられるのも当然です。事実、ステファノに代表されるギリシア語系ユダヤ人(多くはディアスポラのユダヤ人)が、モーセ律法と神殿祭儀に批判的な言動をしたとして摘発され、その疑いは強くなります。
 しかも、先に見たように、エルサレム共同体はユダヤ人以外の人たちに教えを伝え始めます。最初はサマリア人たちに、さらにコルネリウスの場合のように未割礼の異邦人たちに及びます。そのような人たちを共同体に受け容れて交わりをもつことは、異邦人と食事を共にすることさえ汚れとした律法に違反する行為ですから、エルサレム共同体の律法違反の疑いはますます濃厚になります。この疑いをエルサレム共同体のユダヤ人たちがいかに強く恐れていたかは、ペトロがコルネリウスのところからエルサレムに帰って来たとき、エルサレム共同体のユダヤ人たちがペトロを無割礼の異邦人と食事を共にしたと厳しく非難したことからもうかがわれます(一一・二〜三)。

エルサレム会議とアンティオキア事件

 さらに、アンティオキア共同体との接触も問題となります。これも先に見たように、ステファノのことで始まった迫害によってエルサレムから追われ各地に散らばったギリシア語系ユダヤ人によって異邦人にも福音が伝えられ、アンティオキアに多くの異邦人を含む共同体が成立します。そのアンティオキア共同体では、ユダヤ人と異邦人は同じ主イエスを信じ、同じ神を礼拝する仲間として、共同の食卓を囲んでいました。当時の集会は、食卓の交わりを中心とする交わりであり、共同の食卓は礼拝を共にすることを意味します。
 ところが、律法に熱心で厳格なユダヤ教徒から見ますと、異邦人と食卓を共にすることは重大な律法違反になります。このようなアンティオキア共同体と、同じ信仰の仲間として交わりをもっているエルサレム共同体も、汚れた異邦人と交わるという律法違反を犯していると疑われることになります。それで、エルサレム共同体からアンティオキア共同体に、異邦人信者に割礼を施してユダヤ教徒にするように説得する使節団が派遣されることになります。異邦人信者も割礼を受けてユダヤ教徒になれば、この問題はなくなり、エルサレム共同体の律法違反の疑いも晴れます。
 アンティオキア共同体を代表するバルナバとパウロは、この要求に反対し、使節団との間で激しい論争となります。それで、使徒や長老たちと協議するために、パウロやバルナバらアンティオキア共同体を代表する数名の者がエルサレムに上ることになります(一五・一〜二)。これが最初期の福音活動の時期を画する重大な意味を持つ「エルサレム会議」ですが、この会議の詳細は次節で扱うことになります。ここでは、この会議に至らせた動機の一つに、周囲のユダヤ教社会から律法違反の疑いの目で見られることに対するエルサレム共同体の恐れがあったことを指摘するにとどめます。
 このエルサレム会議で、異邦人信者は割礼を受けなくても、ユダヤ教徒との交わりのために必要最小限の律法規定を守ればよろしいという決定がされ、それが使徒と長老たちからの書簡で通知されますが(一五・二二〜三三)、その後、ペトロがアンティオキアに来たときに、この問題をめぐって事件が起こります。アンティオキアでは、ユダヤ人と異邦人が一つの食卓を囲み、一緒に礼拝を捧げていました。アンティオキアに来たペトロも、その共同の食事に参加していました。ところが、「ヤコブのもとからある人々が来た」とき、ペトロは割礼の者たちを恐れて、共同の食卓から身を引こうとします。他のユダヤ人もペトロに倣い、バルナバまでもが歩調を合わせることになったので、パウロはその行為を福音の真理に反する行為として、集会の面前でペトロを批判します(ガラテヤ二・一一〜一四)。

この「アンティオキア事件」について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音T』116頁の「第四節 アンティオキアでの衝突」の項を参照してください。

 ここで「ヤコブのもとから来たある人々」とは、エルサレム共同体から来たユダヤ人信者です。すでに見たように、四〇年代の初めにあったヘロデ・アグリッパの弾圧以来、エルサレム共同体はヤコブが代表し統率するところとなっていましたから、四〇年代末のエルサレム会議とか、その後のこの事件では、エルサレム共同体のユダヤ人がアンティオキアに来たときは、ヤコブ自身が指示したかどうかは関係なく、「ヤコブのもとから来たある人々」と呼ばれることになります。
 ペトロが「割礼の者たちを恐れて」共同の食卓から身を引こうとしたのは、どういう意味かについては議論があります。この「割礼の者たち」とは、ヤコブに代表されるエルサレム共同体(全員が割礼のあるユダヤ教徒)のユダヤ人たち、とくにその中の指導的な長老たちを指すことも可能です。しかし、エルサレム共同体を厳しい疑いの目で見ている周囲のユダヤ教徒を指している可能性も大いにあります。ここで見たように、エルサレム共同体は周囲のユダヤ教社会からは律法違反の疑いをかけられ、厳しい目で見られていましたから、今エルサレム共同体を代表するような立場のペトロが異邦人と共同の食事をしていることがエルサレムに伝わったら、エルサレム共同体はますます苦しい立場に追い込まれるので、そのような行為は止めてほしいという「ヤコブのもとから来たある人々」の説得に、エルサレム共同体と緊密な関係にあるペトロやバルナバが応じたという意味です。

「義人ヤコブ」

 周囲のユダヤ教社会、とくにその指導層から律法違反の疑いをかけられ、厳しい目で見られていたエルサレム共同体が、「律法への熱心」が高揚するエルサレムで存立しえたのは、共同体を代表するヤコブが、周囲のユダヤ教徒からも「義人ヤコブ」と呼ばれるほど、律法順守の厳格さと熱心さで有名であったことが助けになっていたと見られます。
 「義人」という呼び名は、ユダヤ教社会では律法を厳格に順守する人に対する尊敬の呼び名です。ヤコブは、イエスを信じない周囲のユダヤ教徒からも、その律法順守の熱意と厳格さで有名であったのです。このような評価がいつどこで始まったのかは確認できません。ガリラヤ時代からか、またはエルサレムに来てからか分かりません。エルサレムに来てエルサレム共同体を代表するような立場になり、エルサレム共同体が律法に違反するユダヤ教徒の集まりではなく、律法に熱心な者たちの集まりであることを示すために、ますます律法順守に厳格になった可能性もあります。とにかく、エルサレム時代のヤコブが、ユダヤ教社会で「律法の順守に厳格な人たち」(ファリサイ派、エッセネ派、熱心党)からも「義人」として尊敬されていたことは、歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(二〇・一九九〜二〇一)の記事からもうかがわれます。
 ヤコブの義人ぶりは、まとまった文書とか記事があるわけではありませんが、この時代のことを伝える断片的な資料や伝承からうかがい知ることができます。たとえばエウセビオス(『教会史』第二巻二三・四〜七)が引用しているヘゲシッポス(二世紀半ばのパレスチナのユダヤ人キリスト者の著述家)による伝承は、次のようにヤコブを伝えています。

「教会の監督権は使徒とともに主の兄弟ヤコブに譲渡された。ヤコブは主の時代から今日まで誰もが義の人と呼ぶ人物である。他にも多くのヤコブがいるが、彼だけが生まれつき聖なる者である。ぶどう酒や酒をいっさい口にせず、動物の肉も食べない。頭に剃刀を当てることも、香油を体に塗ることも、沐浴もしない。彼だけは聖所に入ることができる。そのため、彼が身に着けているのは、毛織物ではなく麻布である。常に一人で聖所に入り、跪いて人々のために神に赦しを乞う。長い時間祈るので、その両膝は駱駝の膝のように堅くなっている。この上ない敬虔さのゆえに、彼は義人、あるいは砦(擁護者)と呼ばれている。彼は預言者の言葉通りの人物である」。

 ぶどう酒を飲まず、頭に剃刀を当てないことは、ヤコブが生涯「ナジル人の誓願」(民数記六章)を立てていたことを示唆しています。しかし、それだけでなく肉を食べず、香油を体に塗ることも、沐浴もしないことは、厳格な禁欲主義者の敬虔を貫いたことを示唆しています。しかし、ヤコブの禁欲主義を過大に強調してはなりません。ヤコブはあくまで社会生活の中で律法を厳格に順守したユダヤ教徒であって、砂漠の世捨て人のような修道僧ではありません。ヤコブは、他のイエスの兄弟たちと同様、結婚していたと考えられます(コリントT九・五)。結婚して子孫を得ることは、敬虔なユダヤ教徒の義務でした。

以上の記述は、拙著『パウロ以後のキリストの福音』445頁「義人ヤコブ」の一部の引用です。「義人」としてのヤコブについて詳しくは、その項を参照してください。
 なお、R・アイゼンマンはヤコブをユダヤ戦争前の熱心党系反体制諸派を統合する指導者と見ています。そして、そのためにヤコブは大祭司ら体制派によって殺されたとしています。死海文書の(特異な立場の)研究者であるアイゼンマンは、死海文書の「義の教師」と「義人」ヤコブを同一人物とし、サウロ(パウロ)を「偽り者、敵」としています。議論は詳細を極めていますが、その基本的諸前提は受け入れられないものです。また、次項に述べるように、イエスの非暴力の教えを継承する共同体の代表として、ヤコブが熱心党系反体制諸派を統合する指導者であることはありえません。

イエスの非暴力の教え

 先にエルサレム共同体が直面した困難として、第一に、律法を汚しているのではないかという周囲のユダヤ教徒からの疑いの中で生きる困難と、第二は、過激化する時代の中でイエスの非暴力の教えに従うことの困難をあげました。ここで第二の困難について見ることにします。
 「主の兄弟ヤコブ」は、弟子としてイエスにつき従ったペトロたちと共に、自分たちが見聞きしたイエスの働きと言葉をできるだけ忠実にエルサレム共同体に伝え、その教えに従って歩むように共同体を教えたはずです。そのことは次項(X)で扱うことになりますが、ここではその中でイエスの非暴力の教えに従うことの困難を、時代を背景として考察します。
 イエスの教えの中で、もっとも特色があり印象の強いのが愛敵と非暴力の教えです。マタイとルカが伝えるところによると、イエスは弟子にこう生きることを求められました。
 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。(ルカ六・二七〜二八)
 最初の「しかし」は、世の人たちの普通の考え方や生き方、ここではとくに周囲のユダヤ教社会の常識と対比して、それとは違う生き方を指し示しています。イエスの言葉を聞いて、父の無条件の恩恵を知り、その恩恵の場に生きようとする者は、当然イエスの言葉に従って生きるようになります。その生き方がここに語り出されます。それは、父が無条件にわたしたちを赦し、受け入れ、愛してくださったように、わたしたちも接する隣人たちを、相手の価値とか姿勢と関係なく、たとえ敵対する相手でも、無条件に赦し、受け入れ、愛する生き方です。
 そして、この相手の価値に絶した無条件の愛の具体的な現れとして、非暴力・無抵抗の姿勢が説かれます。

 「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」。(ルカ六・二九〜三〇)

 このルカの記事と並行するマタイの箇所はこうなっています。

 「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。(マタイ五・三九〜四二)

 ルカがどこでも起こりうる一般的な状況を描いているのに対して、マタイはこの時代のユダヤ人社会の状況を背景にして書いています。そのことは「だれかが一ミリオン行くように強いるなら」という一文が加えられていることからも分かります。「強いる」というのは、ローマの支配下にあるユダヤ人の状況を背景にしています。ローマの軍隊や官憲はユダヤ人に、いつでも物資の運送などの強制労働を課すことができました。もし権力者が物を一ミリオン(約1・5キロ)運ぶことを強制したら、強いる者と一緒に二ミリオン行きなさいというのです。
 ここの「悪人に手向かってはならない」の「悪人」は、普段の社会生活の中で「頬を打つ」という暴力も含まれますが、当時のユダヤ人の状況においては、武力(暴力)で自分たちを屈服させているローマの勢力をも指すことになります。その「悪人」に手向かわず、「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」というような態度で臨むことは、当時徐々に影響を広げていた熱心党の理念に真っ正面から対立します。
 先に見たように、熱心党は「律法への情熱」を旗印に、異教ローマ皇帝の支配に対抗して、武力を用いてでも、神だけが支配される国、神の法律であるモーセ律法だけが支配するユダヤ教国家を目指して戦っていました。その矛先は、ローマの支配に妥協するユダヤ教支配層に向けられ、そのような聖職者を短刀で暗殺する「シカリ派」も活躍するようになります。このような風潮の中で、ローマの暴力支配も含む「悪人」に手向かうな、無抵抗・非暴力を貫けという教えを実行することは、滔々たる時代の流れに背き、ユダヤ教社会の中での孤立を招きます。
 実は、この熱心党の矛先は、すでにイエスにも向けられていました。熱心党は、創設者ガリラヤのユダの時以来、ローマ皇帝に税を納めることは、ヤハウェだけを主として仕えることを求める第一戒に違反することだとして、「律法への情熱」を抱く者はローマへの納税を拒否すべきであると、納税拒否運動を進めていました。それで、民衆に「神の国」を説き、人気の高い教師であるイエスにもこの問題を突きつけます。
 「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか」。(マルコ一二・一四)
 彼らは民衆の前でイエスに質問します。質問をしたのは「ファリサイ派やヘロデ派」の者たちとなっていますが、これはこの時代の熱心党の典型的な質問です。これは踏み絵です。これによって熱心党理念への態度決定を迫るのです。律法に適っていないので納めてはならないと答えるならば、その人は熱心党陣営の一員です。律法に適っているので納めるべきであると答えるならば、その人はローマに屈服する者で契約の民イスラエルへの裏切り者です。
 この質問に対してイエスは、皇帝の像と銘の入った銀貨を見せて、こうお答えになります。

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。(マルコ一二・一七)

 このお言葉が、代々のイエスを信じる民の政治権力に対する姿勢の基本原則となります。エルサレム共同体もこのお言葉に基づいて、政治的な活動からは身を引き、熱心党の活動とは一線を画していたはずです。そうすることで、無抵抗・非暴力の姿勢を貫いたと推察されます。
 しかし現実は厳しく、ユダヤはだんだんと熱心党の路線に傾き、とくにヘロデ・アグリッパの死後ユダヤが皇帝直轄属州になってからは、熱心党の運動が全国民を巻き込むようになります。ローマに友好的な祭司貴族の影響力が衰え、祭司集団にも熱心党の精神が広がります。この時期、熱心党の創始者ガリラヤのユダの一族が運動を指導し、息子シモンとヤコブは磔刑されますが、その後を継いだユダの息子(あるいは孫)メナヘムが頭角を現します。
 こうした状況で、66年にカイサリアで起こったユダヤ人とギリシア人の些細な紛争がきっかけとなってユダヤ人の対ローマ戦争(ユダヤ戦争)が始まります。同じ年、メナヘムはローマの要塞マサダを奇襲して勝利し、戦いの烽火を上げます。そして、軍勢を率いてエルサレムに入城し、メシアとして振る舞うに至ります。しかし、彼は神殿勢力と対立し、すぐに殺されます。指導者を失った熱心党運動は分裂し、その後はローマとの戦いの中で血なまぐさい内部闘争を繰り返し、ローマ軍の攻撃に対抗できなくなり、自滅することになります。こうして熱心党の扇動によりユダヤ人の対ローマ戦争(ユダヤ戦争)が66年に始まり、70年のエルサレム陥落・神殿崩壊でクライマックスを迎え、73年のマサダでの集団自決で終結します。
 このユダヤ戦争前の時期から、権力を握った熱心党指導者からの武装蜂起に参加するように求める要求は強くなり、非暴力のイエスの教えに従おうとするエルサレム共同体は苦境に立たされます。事実、権力を握った熱心党指導者が、戦争に参加することを拒否したイエスの信者を処刑したとも報告されています。
 ユダヤ戦争が始まる66年の少し前の62年に、エルサレム共同体を代表する「主の兄弟ヤコブ」が、大祭司によって裁判にかけられ、石打の刑で殺されます。表向きの訴因が何であれ、エルサレム共同体の存立が窮地に追い詰められていたことは確かです。有力な指導者を失ったエルサレム共同体は、戦火がエルサレムに迫ったとき、熱心党と同調者の市民と共にエルサレムに立て籠もることなく、(おそらく67年か68年に)エルサレムを脱出してヨルダン川東のペラに脱出します。それは、集会でなされた預言によるものですが、「律法への情熱」の旗印のもと武装蜂起に走った時代の中で、非暴力を原理とする民はその中心地にとどまることはできなかった、という原理的な面もあると考えられます。

ヤコブの殉教について詳しくは、拙著『パウロ以後のキリストの福音』449頁「ヤコブの殉教」の項を見てください。

X パレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰

エルサレム共同体のイエス伝承

 先に「第一章・エルサレム共同体の成立」で見たように、エルサレム共同体は復活されたイエスをメシア・キリストとして告知する活動において、その告知の内容を一定の形式にまとめて確立するようになり、以後の福音活動の基礎を据えるという重要な働きを成し遂げました。しかし、それと並んで、それに勝るとも劣らない重要なもう一つの働きで、後世のキリストの民に大きな貢献をしました。それは、イエス伝承の維持と伝達の働きです。

最初期のエルサレム共同体のキリスト告知の内容については本書150頁の「W エルサレム共同体のキリスト告知」の項を参照してください。

 エルサレム共同体は、イエスにつき従って直接イエスの働きを目撃し、その教えを聞いた「十二人」の弟子たちの証言によって生まれ、彼ら「使徒たち」の指導によって歩みました。彼らの証言によってイエスをメシア・キリストと信じたユダヤ人たちは、聖霊を受けて新しい信仰の道を歩むようになります。そのさい、イエスを信じる者たちを指導した使徒たちは、その指導の根拠として聖書(旧約聖書)と並んで、イエスの働きや言葉を用います。神の言葉として信じられている聖書も、イエスの働きと教えの言葉によって解釈され、適用されます。こうして、イエスの働きと言葉が、信仰生活を導く権威として重視され、共同体の中で語り伝えられていきます。このイエスの働きと言葉を語り伝える共同体の営みが「イエス伝承」を形成します。
 このイエス伝承の形成において、「主の兄弟ヤコブ」も重要な働きをしたはずです。ヤコブは、地上のイエスの働きの期間、イエスに協力したと見られ、直接イエスの働きを見、その言葉を聞いていると考えられます。エルサレム共同体に参加してからは、「十二人」と共に共同体を指導する重要な立場にあり、彼らの伝えるイエスの働きと言葉を用いて、一緒に共同体を指導しました。とくに、ここで見たように、ヘロデ・アグリッパの弾圧で使徒たちがエルサレムを去ってからは、エルサレム共同体を代表する立場で共同体を指導することになり、エルサレム共同体のイエス伝承の担い手となります。
 こうしてエルサレム共同体が伝えたイエス伝承を「エルサレム伝承」と呼ぶならば、このエルサレム伝承は後代の福音活動の根っこをなす重要な位置を占めることになります。ところが、このエルサレム伝承を証言する文書が何も残されていないので、正確に復元することは困難です。しかし、後に福音書の内容、とくに共観福音書の内容になるイエスの生涯、働き、言葉の多くの部分がこのエルサレム伝承によって保持・伝達されたと考えられます。その中には、受難物語を初め、多くの奇跡物語、たとえ集、イエスの語録集などがあったと考えられます。福音書以外の新約聖書の書簡類、また正典の福音書以外の(外典とか偽典と呼ばれる)最初期のキリスト教文書にもエルサレム伝承の断片があると見られます。

イエスの語録伝承と「Q共同体」

 イエス伝承の形成・保持・伝達の過程についての研究は、現代の聖書学の重要部門として進展し、その分析は詳細を極めています。しかしここは伝承史を扱う場所ではありませんので、福音の歴史的進展の考察に必要な限りでの関連を指摘するに止めます。
 イエスをメシア・キリストと宣べ伝えるユダヤ人の間での運動は、エルサレムに限られることなく、他の地域でも進展していきます。とくに、イエスが「神の国」の福音を宣べ伝え、多くの奇跡を行われたガリラヤには、イエスを慕い信じる者が多くいたはずです。ところが、そのガリラヤで復活されたイエスをメシアとして告知する活動がどのように進展したのか、それを知る資料とか手がかりがほとんどなく、その実態を知ることは困難です。ただ、最近の共観福音書の比較研究から浮かび上がったイエスの語録集を手がかりにして、エルサレムからガリラヤ・シリアへと進展したイエス・メシア運動の様子を垣間見ることができるかもしれません。
 最近の共観福音書の研究では、マタイとルカは、マルコ福音書を枠として用い、それにイエスの語録を集めた語録集と、それぞれの手元にある独自の資料を組み込んで福音書を書いたとされています。マタイとルカは共通の語録集を用いていており、その共通の語録集は、資料という意味のドイツ語の頭文字をとって「Q」と呼ばれています。この「語録資料Q」は、実際に一つの文書として発見されてその存在が確認されたものではありませんが、共観福音書の比較研究から、その存在が共観福音書の成立に前提される仮説上の文書です。

「語録資料Q」については、クロッペンボルグ他『Q資料・トマス福音書』(新免貢訳・日本基督教団出版局)を参照してください。「語録資料Q」の分析から、その担い手としてのQ共同体の歴史の復元が試みられていますが(たとえばB・マック『失われた福音書』)、その議論の多くは仮説の段階にあると見られます。なお、「語録資料Q」については、拙著『マタイによる御国の福音 ― 「山上の説教」講解』6頁「第一節 語録福音書」も取り扱っていますので、それも参照してください。

 イエスはアラム語で語られたのですから、イエスの語録集も最初はアラム語で語り伝えられたと考えられます。しかし、その語録集を信仰の拠り所として活動したユダヤ人の信仰運動が、エルサレムからサマリア、ガリラヤ、シリアと進展し、それが文書として書きとどめられる段階で、ギリシア語で書かれて流布するに至ったものと見られます。それが最終の形になるまでの期間は、イエスの復活直後からユダヤ戦争の前後の時期に至るまでの四十年以上に及ぶと見られています。
 このような「語録資料Q」を生み出したイエスをメシアと信じるユダヤ人の間の信仰運動は、資料が乏しくて実態はよく分かりませんが、この運動の担い手であるユダヤ人共同体を、ここでは仮に「Q共同体」と呼んで、議論を進めていきます。
 エルサレム共同体とQ共同体は、どちらもイエスをメシア・キリストと信じて宣べ伝える信仰運動を担うユダヤ人の共同体ですから、当然多くの共通点があります。Q共同体がどの程度、語録伝承以外の受難物語や奇跡物語などのエルサレム伝承を用いていたかは確認できません。しかし、ヤコブ書に保存されているエルサレム伝承のイエス語録と「語録資料Q」のイエス語録との間に多くの重なりが見られることからも、二つの共同体はイエスの教えの言葉を継承する同じ体質の共同体であり、共にパレスチナ・ユダヤ人の信仰運動として扱うことができると考えられます。それで以下の項で、両共同体を含むパレスチナ・ユダヤ人共同体のキリスト信仰の特質を見ることにします。

ヤコブ書に保存されているエルサレム伝承のイエス語録と「語録資料Q」のイエス語録との間の共通点については、 Painter, JUST JAMES, The Brother of Jesus in History and Tradition p.260 ff. が、先行する研究をまとめて一覧表を作っていますので、それを参照してください。

パレスチナ・ユダヤ人のイエス・メシア運動

 パレスチナ・ユダヤ人とは、「イスラエルの地」と呼ばれるパレスチナで生まれ育った、アラム語を母語とするユダヤ人を指します。これは、パレスチナ以外のヘレニズム世界の諸都市で生まれ育ち、ギリシア語を母語とするディアスポラ・ユダヤ人と対照される呼び名です。パレスチナには多くのディアスポラ・ユダヤ人も住んで活動していましたから、以下の叙述は地理的な意味のパレスチナにおける福音の進展を扱うのではなく、パレスチナの中での「パレスチナ・ユダヤ人」の間での福音の進展を扱います。ステファノやサウロに代表されるギリシア語系ユダヤ人のパレスチナにおける活動は、別に扱うことになります。
 イエスご自身も、イエスの家族も、十二人の「使徒」たちもみなパレスチナ・ユダヤ人です。エルサレム共同体は、はじめはパレスチナ生まれのアラム語系ユダヤ人もディアスポラのギリシア語系ユダヤ人も含んでいましたが、ステファノ事件から始まった迫害によってギリシア語系ユダヤ人が追われてからは、アラム語系のパレスチナ・ユダヤ人だけの共同体になっていました。パレスチナ・ユダヤ人は、その生まれ育った環境から、土地の宗教であるユダヤ教に忠実な生活が身についていた人たちでしたから、その新しい信仰運動も自ずからユダヤ教の枠内でイエスの教えに従うという限界をもつことになります。とくに「義人」と呼ばれるヤコブがエルサレム共同体を代表し統率するようになってからは、その傾向が強くなったと考えられます。。
 エルサレムを超えてユダヤ、サマリア、ガリラヤ、シリアへとイエスの教えを伝えていったQ共同体のユダヤ人も、アラム語系のパレスチナ・ユダヤ人の運動と考えられます。先に見たように、四十年代初頭に起こったヘロデ・アグリッパの弾圧によってエルサレムから追われた「十二人」は、各地に散ってイエスを宣べ伝えたはずですが、アラム語系のパレスチナ・ユダヤ人である彼らが出て行った先は、やはりまずアラム語を使うパレスチナからシリアにかけての地域であったと推察されます。彼らの働きとQ共同体の関係は解明されていませんが、何らかの関わりがあったと考えてもよいでしょう。

Q共同体がパレスチナ在住のギリシア語系ユダヤ人の運動であるという見方もあります。文書として成立していたと見られる「語録資料Q」が、アラム語から翻訳されたギリシア語ではなく、はじめからギリシア語で書かれていたという事実もこの見方の根拠とされます。しかしパレスチナのユダヤ人は圧倒的にアラム語系ユダヤ人が多く、ギリシア語系ユダヤ人は少数ですから、Q共同体はやはりおもにアラム語系ユダヤ人の運動であったと見るのが順当でしょう。ただ、その語録伝承が文書にされる段階になって、はじめから当時の共通語であるギリシア語で書かれた可能性はあります。一世紀のパレスチナはかなりギリシア化が進んでおり(ヘンゲル)、パレスチナ・ユダヤ人の中のギリシア語ができる者が、その伝承を初めからギリシア語で書いたことも十分ありうることです。

 ルカは、福音がユダヤ教の枠を超えて異邦人世界に進展していくことを主要関心事としていますから、「使徒言行録」においてもパレスチナ・ユダヤ人のユダヤ教の枠内での運動の進展については関心がなく、何も書いていません。ただ、ペトロによるコルネリウス一家への伝道のように、神の直接的な介入によって行われた異邦人伝道という例外的な出来事を大きく取り上げるだけです。これがエルサレム共同体にとって例外的な出来事であり、エルサレム共同体が原則としてはユダヤ教律法の枠内に忠実にとどまったことは、異邦人の家に入って食事を共にしたことについて、エルサレム共同体にはペトロを激しく批判する動きがあったことからも分かります。また、アンティオキア共同体の異邦人信者に割礼を受けさせようとしたり(一五・一)、異邦人信者との共同の食卓を問題にするなどの働きかけがエルサレムから出ていること(ガラテヤ二・一二)からも十分に推察されます。さらに、パウロが献金を携えてエルサレムに来たとき、ヤコブがパウロに語ったとされる次の言葉も、このことをよく示しています。
 「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって皆熱心に律法を守っています」。(二一・二〇)
 エルサレム共同体やQ共同体などのパレスチナ・ユダヤ人の信仰運動は、ユダヤ人(=割礼を受けているユダヤ教徒)に復活されたイエスをメシア・キリストと告知して、このメシアであるイエスに従うように呼びかける運動でした。それはユダヤ教の中での新しい信仰運動でした。マタイ福音書(一〇・五〜六)が保存している次の語録は、このようなパレスチナ・ユダヤ人の信仰運動の体質をよく示しています。イエスは弟子たちを宣教に送り出すにあたって、次のように言われたとされています。
 「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」。
 マタイ福音書を生み出したマタイ共同体は、もともとQ共同体の流れを汲むユダヤ人の共同体であると考えられます。マタイ共同体は、世界の諸国民にイエス・キリストを宣べ伝えなければならないという状況にありながら(マタイ二八・一八〜二〇)、主の言葉の伝承への忠実さから、それに矛盾するようなこの語録を、あえて保存し伝えています。おそらくこの語録は「語録資料Q」に含まれていたのでしょうが、異邦の諸民族への福音の進展を主要関心事とするルカは、この原理に真正面から対立するこの語録を採用していません。

パレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知

 では、エルサレム共同体やQ共同体の人たちを担い手とするパレスチナ・ユダヤ人の間でのキリスト信仰はどのような質のものだったのでしょうか。彼らのキリスト告知はどのような内容だったのでしょうか。
 エルサレム共同体のキリスト告知の内容については、先に「第一章 エルサレム共同体の成立」の最後の「エルサレム共同体のキリスト告知」の項(本書150頁以下)でまとめました。エルサレム共同体は使徒たちによって最初に形成され指導された共同体ですから、またユダヤ教における聖都としてのエルサレムの地位からして、パレスチナ・ユダヤ人の間のキリスト告知は、エルサレム共同体のキリスト告知を基準として形成されたと見るべきでしょう。すなわち、Q共同体のキリスト告知もエルサレム共同体のキリスト告知と同じ線上にあると見るべきであると考えられます。それで、エルサレム共同体のキリスト告知とQ共同体のそれを区別せず、パレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知として扱います。

最近の研究では、「語録資料Q」の担い手である「Q共同体」の性格やその信仰を、「語録資料Q」の分析だけで描く傾向があります。先にあげたB・マック『失われた福音書』もその典型です。しかし、このような研究には、方法論上の大きな疑問があります。一つの信仰運動を一つの資料文書(しかも仮説上の文書)だけから描くことは不適切です。この場合、Q共同体が「語録資料Q」以外の伝承や資料文書を用いなかったという証拠はありません。同じパレスチナ・ユダヤ人の間の信仰運動として、エルサレム共同体が形成した受難物語伝承やその他の奇跡物語伝承なども用いたはずです。「語録資料Q」に受難物語がないからという理由で、Q共同体の人たちはキリストの贖罪を信じるキリスト教徒ではなかった(マック)などという結論は奇妙な論理です。

 エルサレム共同体では、ステファノが殉教した三三年頃までに、遅くともパウロが回心後最初にエルサレムに上ってペトロと会う三五年頃までに、定型的なキリスト告知の文(後にパウロがコリントT一五・三〜五で引用する《ケリュグマ》)が形成されていたと見られます。それはステファノ・グループのギリシア語系ユダヤ人によってアンティオキアにもたらされ、アンティオキア共同体のキリスト告知の基礎になっていたことでしょう。しかし、同じキリスト告知がパレスチナのアラム語系ユダヤ人(パレスチナ・ユダヤ人)によって用いられるときには、違った様相をとることになります。
 パレスチナ・ユダヤ人たちも、エルサレム共同体が形成した定型的なキリスト告知に基づいてメシア・キリストを宣べ伝えたと考えられます。ただ、その際イエス伝承を多く用いてキリストを語ったという点が、(先にコルネリウスのところのペトロの告知の要約で見たように)パレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知の特色となります。パレスチナ・ユダヤ人は、エルサレム伝承(エルサレム共同体が伝えたイエス伝承)だけでなく、ガリラヤなどで直接イエスの働きを目撃した人たちからの伝承も持っていたでしょうし、また、イエスの働きや言葉を伝えるイエス伝承を自分と同時代の出来事として身近に感じていたからです。
 イエス伝承とは、地上のイエスの働きや言葉を語り伝える伝承です。キリストとは復活されたイエスの称号です。パレスチナ・ユダヤ人の信者は、聖霊によって体験しているキリストを宣べ伝えるさい、それを地上のイエスの働きや言葉を用いて語りました。イエスがなされた奇跡や教えられた言葉を語り伝え、復活者キリストとはこのようなイエスが復活して今も働いておられるのだという形で、キリストを告知したのです。彼らにおいては、地上のイエスと復活者キリストは、聖霊の体験において一つなのです。
 イエス伝承、すなわち地上のイエスの働きや言葉を語り伝える伝承を用いて復活者キリストを告げ知らせるというキリスト告知の働きから「福音書」が生まれることになります。彼らのこのようなキリスト告知の働きがなければ、福音書は世に現れなかったのです。福音書の成立はユダヤ戦争以後のことですから、後の章で別に扱うことになりますが、ここでユダヤ戦争以前のパレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知の活動が福音書を生み出す母胎となった事実を指摘し、パレスチナ・ユダヤ人の運動の重要性を見落とさないように注意を喚起しておきたいと思います。その重要性は福音書がないキリスト教は想像できないことからも、十分理解できると思います。

マタイ福音書の性格

 ここで、このようなパレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知の運動から生み出され、このパレスチナ・ユダヤ人の運動の性格をもっともよく示している福音書として、マタイ福音書を取り上げておきます。
 これまでに見てきたように、パレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知の運動には、二つの基本的な性格が見られます。一つは、それがユダヤ人(ユダヤ教徒)によって担われ、ユダヤ人(ユダヤ教徒)に向かってなされたユダヤ教の枠内での信仰運動であるという事実です。もう一つは、彼らのキリスト告知は地上のイエスの働きと言葉(イエス伝承)を用いて復活者キリストを語るという形でなされたという事実です。このようなパレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知の集大成として現れたのが「マタイ福音書」です。それで、マタイ福音書の特色を要約することでパレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰とキリスト告知の運動の特質を見ておきたいと思います。
 マタイは、マルコ福音書の物語を枠として用い、それに「語録資料Q」の言葉を主題別にまとめた説話と、自分の手元にある特殊な伝承(Mと呼ばれる)を配して福音書を構成したことが、現代の研究者の間で広く認められています。それで、マタイと彼の共同体がマルコ福音書と「語録資料Q」とどのような関係に立つのかが問題になりますが、そのことについて、ルツはマタイ福音書全体の綿密な分析から、つぎのように結論しています。
 「マルコ福音書は、シリアにあったマタイ教会の固有の福音書ではなく、外部からユダヤ人キリスト教会に入り込んできたものである。この教会(マタイの共同体)自身の伝承は、主として語録資料に代表されるものであった」。(U・ルツ『EKKマタイ福音書註解』より)
 マタイ共同体は、もともとQ共同体の流れに属するユダヤ人の共同体であったということです。もともとガリラヤなどパレスチナで活動していたユダヤ人が、おそらくユダヤ戦争の前後に戦禍を逃れてシリアに移住し、そこで新しい信仰生活を始めたとき、その共同体の指導者で律法学者的な素養のある人物が、その共同体の伝承をまとめてこの福音書を書いたと見られます。その時期は、エルサレム神殿が崩壊してからかなり年月が経った頃、八〇年代とか九〇年代と見られ、ユダヤ教会堂勢力と決定的に断絶し、もはやユダヤ教の中では存立することができず、異邦世界に出て行ってそこで生きていかなければならない状況です。その時期のマタイ共同体は、ギリシア語を用いるユダヤ人の共同体になっていました。
 そのような状況からマタイは、すでに成立して手元にまで伝えられていたマルコ福音書を枠組みとして受け入れ、独自の福音書を構成します。一時期パウロの同労者として「福音」を宣べ伝える活動をしていたマルコは、おもにペトロが伝えるイエス伝承を用いて、異邦諸国民に「福音」を告げ知らせるという性格の文書として「マルコ福音書」を書き上げていました。マルコ福音書は、これが「福音」を告知する文書であることを初めに宣言し(一・一、一四、一五)、伝承を解説するような位置で「福音」という語を用いています(八・三五、一〇・二九)。マタイはそのマルコ福音書を受け入れ、その表現を引き継いで、イエスの教えに「御国の福音」という標題をつけています(四・二三、九・三五)。  
 ところで、「福音」《エウアンゲリオン》という用語や概念は、もともとパレスチナ・ユダヤ人のものではなく、パウロ系の運動と文書における用語であり概念です。この語は、パウロ書簡とかパウロ名書簡、ルカ二部作などに多く用いられていますが、「語録資料Q」や受難物語伝承など、パレスチナ・ユダヤ人の固有の伝承にはほとんど出てきません。ヨハネ福音書にも「福音」という語は一度も出てきません。これは、ヨハネ共同体がその初期の形成期にはパレスチナにおけるパレスチナ・ユダヤ人の運動であった結果であると考えられます。
 それで、マタイ福音書もイエスの教えを「福音」と呼んでいますが、その教えの中身はモーセ律法を成就完成するものであるという面が強く前面に出ています。それがもっともよく表れているのは「山上の説教」です。マタイは、「わたし(メシアであるイエス)が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(五・一七)と宣言し、その後に「昔の人は・・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という形で、モーセがその律法で命じていることと、メシアであるイエスがその民に求められるところを対照しています。こうして、イエスの教えの言葉は、モーセの《トーラー》を完成する「メシアの《トーラー》」として告知され、モーセ律法を神の誡めとして尊ぶユダヤ教徒は、その延長にあり、それを完成するこの「メシアのトーラー」に従うことが求められます。こうして、マタイはユダヤ教の枠の外に出るのではなく、ユダヤ教の枠の中でメシアとしてのイエスを告知しています。この点で、「キリストは律法の終わりとなった」と宣言し、律法(ユダヤ教)とは無関係に、キリストを信じることで救われるとして、ユダヤ教の外に出て行ったパウロとは対照的なキリスト告知であると言えます。

「メシアのトーラー」については、最近出版された現ローマ教皇ベネディクト一六世ヨゼフ・ラツィンガーの『ナザレのイエス』(里野泰昭訳・春秋社)139頁以下を参照してください。

 こうして、マタイの福音は、時代の状況からユダヤ教の外の世界にメシア・イエスを告知しようとする姿勢にもかかわらず、ユダヤ教の枠内でのメシア信仰という体質を色濃く残しています。しかし、マルコ福音書と同じく、イエスの十字架の受難を神による贖いの出来事として告知する点で、立派な「福音書」です。マタイは、イエスの教えと働き、その生涯の全体が神の無条件絶対の恩恵の告知であることをよく理解し、その視点から福音書を書いています。このマタイ福音書が第一福音書として、新約聖書の最初に置かれた結果、後世のキリスト教に絶大な影響を及ぼすことになります。このマタイ福音書を通して、この時期のパレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知は、キリスト教の形成に決定的な貢献をなし、巨大な影響を及ぼすことになります。

マタイ福音書の成立と内容、性格について詳しくは、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』の序章「マタイ福音書の成立と構成」を参照してください。

「人の子」の伝承

 この時期のパレスチナ・ユダヤ人のキリスト告知の運動で、見逃すことができない特徴に、彼らの熱烈な終末待望の信仰と姿勢があります。先に(序章と第一章で)見たように、エルサレム共同体は復活されたイエスの来臨《パルーシア》を熱烈に待ち望む集団として発足していました。その熱烈な待望は、エルサレム共同体だけでなく、Q共同体を含めパレスチナに展開したパレスチナ・ユダヤ人全体の共通の信仰であり姿勢となっていました。そのことを示す指標の一つとして、ここで「人の子」というパレスチナ・ユダヤ人特有の伝承を取り上げます。
 「人の子」という表現は、エゼキエル書や詩編にも用いられていますが、イエスの時代のユダヤ教黙示文書によく出てくる独特の称号です。黙示思想の代表的な文書であるダニエル書では、終わりの日に現れて神の支配を実現する神秘的な人物が「人の子」と呼ばれています(ダニエル七・一三〜一四)。この「人の子」という表現ないし称号がわたしたちにとって重要となるのは、イエスがこの「人の子」という称号をしばしば用いられ、しかもこの称号がイエスの言葉の中だけに現れ、周囲の誰もこの句を口にしていないという事実によります。
 イエスはこの句を自分を指すときに用いておられますが、誰か他の人物を指すように用いておられると考えられる場合もあります。イエスはこの称号をどういう意味で用いられたのかは、研究者の間で議論が続いています。イエスの実像に迫ろうとする試みにおいて、この問題は避けて通ることができない困難な課題です。その全体を扱うことは別の機会に委ね、ここではパレスチナ・ユダヤ人の伝承との関係に限定して見ておきます。
 「人の子」という特異な表現とか称号は、黙示思想に親しんでいるユダヤ教徒にしか理解できません。それで、異邦人に福音を宣べ伝える活動においては、いっさいこの句は用いられていません。パウロ系の文書には全然出てきません(使徒言行録の例外的な一カ所については後述)。この句が出てくるのは、四福音書とヨハネ黙示録(二カ所)だけです。ということは、この句を伝えたのはパレスチナ・ユダヤ人だということを意味します。パレスチナ・ユダヤ人は、イエスが口にされたこの称号を大切に語り伝え、それが四福音書に保存されることになります。
 「人の子」という称号は、もともと黙示思想において終末時に神の支配をもたらす神秘的な存在を指すものですから、イエスがこの称号を口にされたとき、周囲のユダヤ人がそのような意味で理解したのは当然です。「人の子」という称号は、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(マルコ一三・二六)など、イエスが終わりの日について語られたとされる伝承に数多く現れます。
 ところが、イエスは御自身の受難を予告する時にも、それを「人の子」の受難として語られたので(マルコ八・三一)、受難物語伝承にも多く使われるようになります。その他、地上の働きについて語られたときにも、御自分のことを「人の子」という語で指しておられる場合もあります(マルコ二・一〇など)。パレスチナ・ユダヤ人は、このような多様な用例の「人の子」を忠実に伝えましたが、終末的な来臨《パルーシア》を熱烈に待ち望む共同体として、やはり栄光の中に来臨されるイエスを指す称号として「人の子」を中心に据えていたと推察されます。それは、最初の殉教者となったステファノが、息を引き取るときに、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」(七・五六)と言ったと伝えられていることからもうかがわれます。
 これは、新約聖書の中でイエス以外の人物が「人の子」という句を口にした唯一の例外となっています。使徒言行録の記述の範囲を超えていますが、実は六二年に主の兄弟ヤコブが殉教したときも、「人の子は天において大いなる力の右に座し、天の雲に乗って来られる」と叫んだと伝えられています(エウセビオス『教会史』U二三・八〜一八)。エルサレム共同体は、その最初と最後において迫害のさなかに「人の子」を言い表し、「人の子」を待ち望む信仰の告白を貫きます。そのようなエルサレム共同体に代表されるパレスチナ・ユダヤ人が、「人の子」伝承を忠実に伝えたおかげで、福音書の中に(他の者には不可解な)「人の子」句が保存され、イエス御自身と使徒たちの告知の内容を知る貴重な手がかりが残されることになります。

この時期のパレスチナ・ユダヤ人の黙示思想的な体質については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』494頁以下の「ユダ書」についての箇所を参照してください。パレスチナ・ユダヤ人のキリスト信仰についてはヤコブ書も重要な手がかりになりますが、ヤコブ書については別の機会に扱います。