市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第13講

第二章 ユダヤ教の外に向かう福音

はじめに

 前章「エルサレム共同体の成立」では、イエス復活の直後にエルサレムに成立した共同体の活動を見ました。この共同体は、ペトロを始めとするイエスの直弟子たちによって指導される共同体でした。彼らはアラム語を話すガリラヤのユダヤ教徒であり、その宣教活動の対象はエルサレムのユダヤ教徒に限られていました。ところが、この共同体は数年の内に、おそらく三年も経たない内に、エルサレムを出て、ユダヤ教の枠を超え、ユダヤ教の外の人たちにイエス・キリストを宣べ伝える活動を開始します。
 このユダヤ教の枠を超えてキリストの福音を宣べ伝える活動を担ったのは、おもにギリシア語を話すユダヤ教徒でした。彼らの運動は、最初に福音をユダヤ教の外にもたらして、キリストの福音が世界に広がってゆくための突破口を開いたものとして、福音の史的展開の上でもっとも重要な意義をもつ運動です。本章は、このギリシア語を話すユダヤ教徒によって進められたユダヤ教外への福音活動を扱うことになります。本稿では、このギリシア語を話すユダヤ教徒、厳密にはギリシア語を母語とするユダヤ人を「ギリシア語系ユダヤ人」と呼びます(後述)。



第一節 ギリシア語系ユダヤ人の福音活動

T ギリシア語系ユダヤ人の分離

ディアスポラのユダヤ人

 ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、その居住地によって、パレスチナ・ユダヤ人とディアスポラ・ユダヤ人(離散のユダヤ人)に分けられます。パレスチナ・ユダヤ人とは、パレスチナの地、ユダヤ人が「イスラエルの地」と呼ぶパレスチナで生まれ育ち、パレスチナに住むユダヤ人です。ディアスポラ・ユダヤ人とは、パレスチナ以外の世界の各地に離散して住み、生活するユダヤ人です。
 ディアスポラ・ユダヤ人はバビロン捕囚から始まります。捕囚の民としてバビロンに住んだユダヤ人は、クロス王の解放令で故国のユダヤに帰り神殿を再建しますが、実際に帰ったのは一部の人たちで(四万人程度と推測されています)、大部分のユダヤ人はすでに生活が確立しているバビロンに残ります。彼らは異郷の地バビロンで、モーセ律法の研鑽と実行に努め、ユダヤ教徒の共同体を形成し、後にユダヤ教の一大中心地となる土台を築きます。
 その後のヘレニズム時代に、様々な事情からヘレニズム世界の各地(多くは大都市)に移住して商業や手工業に携わるユダヤ人や、傭兵や奴隷として働くユダヤ人が多くなります。彼らは移住先の土地で強固なユダヤ人共同体を形成し、律法に従うユダヤ教徒としての生活を続けます。彼らは、その土地の言語を使って土地の生活にとけ込みますが(そうしなければ生きてゆけません)、宗教生活の拠点として会堂を建て、そこでラビを中心にヘブライ語の《トーラー》を学び、律法に従うユダヤ教徒としての結束を強くしていきます。新約聖書の時代、すなわち一世紀には、ディアスポラ・ユダヤ人の数はパレスチナ・ユダヤ人よりもはるかに多くなっていました。アウグストゥス帝の時代にローマ帝国内に居住したユダヤ人の総数は約四五〇万人とされていますが、そのうちパレスチナ・ユダヤ人は約五〇万〜七五万人と推定されています。そうすると、ディアスポラ・ユダヤ人は約四〇〇万人近くにのぼることになります。
 ヘレニズム世界の共通語はギリシア語ですから、大都市生活者のユダヤ教徒は、居住するヘレニズム都市の言語であり、ヘレニズム世界共通語のギリシア語を使うようになります。こうしてヘレニズム世界の諸都市に成立した会堂を核とするユダヤ教徒の共同体が、共通語であるギリシア語により大きな情報網を作り、その情報網による密接な交流が、ヘレニズム世界におけるユダヤ人の存在を特異なものにします。このようなヘレニズム世界におけるディアスポラ・ユダヤ人の存在が、後に福音が急速にヘレニズム世界に広がる土壌となります。
 ギリシア語を用いて生活するようになったディアスポラ・ユダヤ人は、自分たちの聖典である聖書もギリシア語に翻訳して、会堂で用いるようになります。ヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳する事業は、ヘレニズム世界で最大の文化都市であり、また最大のユダヤ人共同体を抱えていたアレキサンドリアで行われました。アレキサンドリアのユダヤ人でギリシア文化の教養の高い人たちが、自分たちの会堂で用いるだけでなく、外のギリシア世界の人たちに自分たちの宗教の優れた質を紹介し、また弁証するために、ヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳します。前二世紀に「律法」(モーセ五書)が翻訳され、その後続いて「預言者」や「諸書」も翻訳されて、一世紀には全聖書がギリシア語で読めるようになったとされています。
 このアレキサンドリアで翻訳されたギリシア語聖書は、プトレマイオス王の要請によってエルサレムから派遣された七十二人のユダヤ人長老によって七十二日間でなされたという伝説から、(概数の七十を用いて)「七十人訳ギリシャ語聖書」と呼ばれています。このギリシア語聖書は、後にヘレニズム世界におけるキリスト信仰の共同体《エクレーシア》で聖書として用いられ、福音の史的展開に巨大な影響を及ぼすことになります。

七十人訳ギリシア語聖書の成立について詳しくは、秦剛平『七十人訳ギリシア語聖書T』(河出書房新社)の「総説序 ― アレクサンドリアにおけるモーセ五書のギリシア語訳」を参照してください。

二言語都市エルサレム

 どこに住んでいても、ユダヤ教徒にとってはエルサレムこそ神殿がある聖なる都です。神はその神殿に現れ、そこから世界に語りかけられます。エルサレム神殿こそ、すべてのユダヤ教徒が神を礼拝すべき聖なる場所です。世界の各地に離散して住むユダヤ人は、年ごとの巡礼祭にエルサレムに上り、神殿での祭りに参加すること、また年ごとに神殿税を送って、神殿の維持とその活動に参加することが喜ばしい義務でした。そして、敬虔なユダヤ人にとって、人生の終わりにはエルサレムに移住して、そこで律法の学びに専心し、そこで主の来臨を待ちながら最後を迎え、そこに葬られることが憧れでした。
 このような事情から、エルサレムには巡礼として世界の各地からやってくるユダヤ人が多数滞在していました。その上、晩年には移住して、エルサレムに住居をもつようになったユダヤ人家族とその子孫が多く住んでいました。彼らはギリシア語を母語とするユダヤ人です。さらに、エルサレムは、当時の地中海世界の「七つの驚異」の一つに数えられる壮麗な神殿を有し、ユダヤ人以外の多くの巡礼者(観光客)を引きつけていました。一世紀のエルサレムは、ローマ帝国の東方で、エフェソやアンティオキア、アレクサンドリアなどと並ぶ有名都市であり、多くの民族が行き交う国際都市であったのです。彼らの共通の言語はギリシア語ですから、エルサレムはギリシア語が通用する国際都市でした。
 もちろん、エルサレムはパレスチナにある都市であり、そこの本来の住民はパレスチナ・ユダヤ人が多数を占めます。彼らの母語はアラム語です。エルサレムはアラム語とギリシア語の両方が使われている二言語(バイリンガル)都市でした。

ヘンゲルはその著 "The Pre-Christian Paul" 54頁以下で、当時のエルサレムおよび近郊で発見される骨箱などの碑文の33%がギリシア語であることから、(そのような碑文を残すのは中流または上流階層であることを考慮に入れて)エルサレム人口の10〜15%がギリシア語系ユダヤ人であったと推定しています。そして、当時のエルサレムの人口を約10万人と見て、エルサレムのギリシア語系ユダヤ人の人口を、1万人〜1万5千人と推定しています。エルサレムではやはりアラム語系ユダヤ人が多数を占めていたことになります。ただし、エレミアス( Jeruaslem in the time of Jesus )は当時のエルサレムの面積から計算して、5万5千人〜9万5千人と推定し、その少ない方の数字が妥当だろうとしています。

パレスチナ・ユダヤ人の言語としてのアラム語

 当時のパレスチナの住民はアラム語を日常語として用いており、イエスご自身もペトロをはじめ弟子たちもアラム語を使っていたのですから、当時の歴史的状況を理解する上でアラム語をめぐる状況を知ることが重要となります。それでアラム語についてごく概略のことを、ここでまとめておきます。
 アラム語は、ヘブライ語、フェニキア語などを含む北西セム語系の言語の一つです。この言語を用いていた遊牧民であるアラム人が、前二〇〇〇年頃にメソポタミアやシリアに侵入して定住し、多くの都市国家を形成します。アッシリアが興り、これらの都市国家が滅びた後も、アラム語は通商や交易のための国際語として残ります。アッシリア帝国の移住政策により、アラム語はエジプトからメソポタミア南部までの広い地域に広がり、その地域の国際語となります。この時期(ほぼ前七世紀の終わり頃まで)のアラム語は「古アラム語」と呼ばれています。
 その後カルディア人が建てた新バビロニア帝国の外交語となり、さらにペルシャ帝国の治下では近東だけでなく、南は上エジプト、西は小アジア、東はインド亜大陸までを含む広い地域の共通語となります。ほぼ前二〇〇年ごろまでの帝国の公用語として使われていたこの時期のアラム語は「帝国アラム語」と呼ばれています。旧約聖書の後期の文書であるエズラ記の公文書の部分(四・八〜六・一八、七・一二〜二六)は、この時期の帝国アラム語で書かれています。
 ヘレニズム時代およびローマ帝国時代になると、この地域での行政の公用語はギリシア語になります。また、この時期のヘレニズム都市ではギリシア語が用いられるようになりますが、周辺の土地ではアラム語が使い続けられるという言語状況が見られるようになります。各地方のアラム語はそれぞれ独自に発展していきますが、書き言葉のアラム語は比較的統一を保ち、各地域間の交流手段として用い続けられます。この時期、すなわち二五〇年頃までの時期のアラム語は「中期アラム語」と呼ばれます。ダニエル書のアラム語部分(二・四〜七・二八)、死海文書の一部、タルグム(ヘブライ語聖書のアラム語による解説的翻訳)などは、この時期のアラム語で書かれています。
 その後イスラームの拡大にともなって、七〇〇年頃には、日常語でも文章語でも、近東ではアラビア語がアラム語に取って代わるようになります。しかし、アラム語を用いる地域も残り、現在でも少数ながらアラム語を用いている地域とか部族があります。アラム語の歴史は、後期アラム語を経て、現代アラム語に至ります。現在でもアンティオキアのキリスト教会は、イエスと弟子たちが用いたアラム語を使っている教会として、その古さを誇っています。
 イスラエルの民の言語はもともとヘブライ語でしたが、捕囚以後はパレスチナでもペルシャ帝国の共通語であるアラム語が徐々に日常語として使われるようになっていました。ヘレニズム期になると、パレスチナでも大都市では一部の階層でギリシア語も使われるようになりますが、周囲の農村部住民および庶民階級の都市住民はアラム語を使っていました。イエスの時代では、パレスチナのユダヤ人の日常語はアラム語であったと言える状況でした。
 イスラエルの民の言語はもともとヘブライ語でしたから、父祖アブラハム以来の歴史とその中での宗教体験はヘブライ語で書かれ、律法や預言書などの聖文書はすべてヘブライ語で書かれることになります。神殿での祭儀も会堂《シュナゴゲー》での礼拝もすべてヘブライ語の聖書に基づいて執り行われます。イスラエルの民の日常語がヘブライ語であるかぎり問題はないのですが、捕囚期以後民の日常語がアラム語に移行するに従って、宗教活動に問題が出て来ます。
 ヘブライ語とアラム語はもともと同じ北西セム語系の言語であって、きわめてよく似ています。文字も同じ文字を用いています。しかし、時代が下ると共に、アラム語を用いる民衆はだんだんとヘブライ語聖書を理解することができなくなります。神殿での祭儀はヘブライ語の式文で執り行われても深刻な問題はありませんが、会堂における聖書朗読やその解説は、会衆の理解のためにアラム語で行われるようになり、そのためにヘブライ語聖書がアラム語に翻訳され、解説もアラム語で行われるようになります。
 アラム語に翻訳された聖書は「タルグム」と呼ばれますが、これは単なる日常語への置き換えではなく、ヘブライ語聖書の意味を解説する注解書の役割も兼ねています。タルグムはヘブライ語聖書のアラム語への解説的翻訳と言うことができます。会堂で朗読される聖書はヘブライ語聖書でなければなりませんが、解説し勧めをする者はタルグムを用いることになります。子供たちは「書物の家」(会堂付属の学校)でまずタルグムを学び、それを通して聖書のヘブライ語を学習することになります。

エルサレムの言語状況と会堂

 神殿のあるエルサレムでも、ユダヤ教徒の日常の宗教生活は会堂で行われます。先に見たように、エルサレムのユダヤ教徒は、アラム語を話すパレスチナ・ユダヤ人と、ギリシア語を使うディアスポラ・ユダヤ人がいるのですから、会堂もその使用言語により、アラム語を用いる会堂とギリシア語を用いる会堂の二種類の会堂に分かれます。エルサレムのユダヤ教徒は、それぞれ自分の日常語を用いる会堂に所属して、ユダヤ教徒としての宗教生活を進めていくことになります。
 エルサレムに居住または滞在するディアスポラ・ユダヤ人は、それぞれの出身地別に会堂を建て、そこで同郷人としての結束の中で宗教生活を送る場合が多かったようです。使徒言行録(六・九)にそのような会堂の一例が見られます。ルカはそこで、ステファノと議論したユダヤ人を、「いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキレネ人の(会堂に属する)者たち、アレキサンドリア人の(会堂に属する)者たち、また、キリキア州とアジア州出身の人たち」(私訳)と呼んでいます。このようなギリシア語を用いるディアスポラ・ユダヤ人の会堂で、同じくギリシア語の会堂に属するステファノと彼のグループに対する迫害が始まります。

使徒言行録九章六節の読み方には、様々な違った提案がなされています。「解放された奴隷の会堂」は、原語では「リベルテンの会堂」というラテン語で解放奴隷を指す用語が用いられており、おそらくローマから来た解放奴隷とその子孫たちが作った会堂であると考えられます。前六三年のポンペイウスの対ユダヤ戦争で捕虜になり、奴隷としてローマに連れて行かれたユダヤ人の子孫が後に解放され、その中の多くの者がエルサレムに移住して会堂を作ったと推察されています。原文では、「会堂」の後に「いわゆるリベルテンの」と、「キレネ人たちの」と「アレキサンドリア人たちの」という複数所有格が続いていますが、これはそれぞれその人たちの「会堂に所属している者たち」という表現の省略形と考えられます(私訳では括弧付きで補う。岩波訳参照)。「会堂」が単数形であることから、これらのアフリカ出身のユダヤ人がローマからの帰還者と一緒に「リベルテンの会堂」という一つの会堂に所属していたと読むことは不自然です。アフリカの大都市キレネとアレキサンドリアは多数のディアスポラ・ユダヤ人が居住しており、このようなアフリカ出身の多くの人たちがローマからのユダヤ人と同じ会堂に所属したとは考えられません。彼らがそれぞれの会堂を形成していたことは、他の箇所や資料からも推察できます。その後に、「会堂に所属する者たち」と並んで、「出身の者たち」として、キリキア州とアジア州出身のユダヤ人があげられています。このアジア州出身のユダヤ人は後にパウロの反対者としても登場します(二一・二七)。

 ギリシア語を用いる会堂は、ギリシア語を母語とするディアスポラのユダヤ人だけでなく、日常語としてギリシア語を使っている異邦人で、イスラエルの神を求める人たちも集まってきていました。このようなユダヤ教の神を敬いながらも、まだ割礼を受けてユダヤ教に改宗するまでに至っていない異邦人は「神を敬う者」と呼ばれて、制限付きながらユダヤ教徒との交わりを持ち、会堂での宗教生活を共にしていました。この異邦人の「神を敬う者」の存在が、後で福音の進展にとって重要な意味をもつようになります。
 ここで留意しなければならない事実があります。「ギリシア語を話すユダヤ人」と言っても、ギリシア語を母語として育ったユダヤ人もいれば、アラム語を母語としながらも、後にギリシア語を学習して話せるようになったユダヤ人もいます。本稿では、ギリシア語を母語とするユダヤ人を「ギリシア語系ユダヤ人」と呼ぶことにします。アラム語を母語として育ったパレスチナ・ユダヤ人を「アラム語系ユダヤ人」と言うならば、その中にもギリシア語をよくするようになったユダヤ人がいます。したがって、「ギリシア語を話すユダヤ人」と言っても、その中にはギリシア語を母語とする「ギリシア語系ユダヤ人」もいれば、アラム語を母語とする「アラム語系ユダヤ人」もいるわけです。逆に、ギリシア語を母語とする「ギリシア語系ユダヤ人」の中にも、エルサレムに在住してヘブライ語・アラム語を学習し、アラム語をよくするようになった者もいます。
 このように、「ギリシア語を話すユダヤ人」と「アラム語を話すユダヤ人」の区別は、截然としたものではなく、その中には「ギリシア語系ユダヤ人」と「アラム語系ユダヤ人」が混じっていて、交錯し、複雑な様相を示しています。

エルサレム共同体における言語問題

 さて、ペンテコステの日に始まった復活者イエスの告知と聖霊の注ぎによって成立したエルサレム共同体は、先に見たように、アラム語を話す地元のパレスチナ・ユダヤ人だけでなく、世界の各地からエルサレムに集まっていたギリシア語を話すディアスポラ・ユダヤ人も含んでいました。巡礼としてエルサレムに来ていたディアスポラ・ユダヤ人だけでなく、エルサレムにはギリシア語を話すユダヤ人も多数住んでいたのですから、エルサレム共同体がギリシア語を話すユダヤ人を含むようになったのは当然です。
 使用言語がアラム語であろうとギリシア語であろうと、ユダヤ教徒はみな神殿の祭儀に参加し、会堂で日常の宗教生活を営むのですから、エルサレム共同体に所属するイエスの信者も、ユダヤ教徒としていずれかの会堂に所属して、安息日には会堂に集まり、聖書を朗読し、勧めを聞き、祈りを捧げるユダヤ教の礼拝を守っていました。そうすると、自然にアラム語を使うユダヤ人信者はアラム語の会堂に、ギリシア語を使うユダヤ人信者はギリシア語の会堂に行くことになります。エルサレム共同体は、全体が集まって使徒の教えを聞くときには、先に見たように、神殿内のソロモンの柱廊に集まったようですが、日常の宗教生活はアラム語の会堂とギリシア語の会堂に分かれて進められることになります。
 先に発足した当初のエルサレム共同体の生活を見ましたが、そこで見た「毎日ひたすら心を一つにして、・・・家ごとに集まりパンを裂き、一緒に食事をしていた」という「家の集まり」も、当然のことながら、アラム語を話す者同士、ギリシア語を使う者同士の集まりになります。
 こうして、使用言語の違いから、エルサレム共同体はアラム語を使う信者のグループと、ギリシア語を話す信者のグループという二つのグループに分かれることになり、同じ信仰に燃えながらも、使用言語の違いから、時には意思の疎通を欠く事態も生じることになります。ルカはこのような事態の一例を報告しています。

先に見たように、エルサレムにおけるギリシア語系ユダヤ人の割合が全人口の10〜15%であるとして、単純にその割合がそのままエルサレム共同体のギリシア語系ユダヤ人の割合となると見なすと、ギリシア語系ユダヤ人はエルサレム共同体では一割程度の少数派ということになります。

「七人」の選出

 使徒言行録六章一節に次のような記述があります。

 「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである」。(六・一)

 ここで「ギリシア語を話すユダヤ人」と訳されている原語は《ヘレーニスタイ》です。このギリシア語の意味と用例については様々な議論がありますが、ここでは(新約聖書では)「ギリシア語を話すユダヤ人」という訳が正確です。厳密には「ギリシア語を母語として話すユダヤ人」という意味です。本稿でいう「ギリシア語系ユダヤ人」です。先に見たような、アラム語を母語としているユダヤ人で、学習によってギリシア語を使えるようになったユダヤ人は《ヘレーニスタイ》には入りません。
 「ヘブライ語を話すユダヤ人」の原語は《ヘブライオイ》で、文字通りには「ヘブライ語を話す人たち」であり、ここでは「ヘブライ語を話すユダヤ人」という意味になります。しかし、先に見たように、パレスチナのユダヤ人の日常語はアラム語ですから、厳密に言うと不正確な表現ですが、ギリシア語を使う異邦人から見れば、ヘブライ語もアラム語も同系のセム語であって、区別がつかず、大雑把に一つにくくった表現です。

《ヘレーニスタイ》と 《ヘブライオイ》の語義と用例についての詳しい議論は、M・ヘンゲル『イエスとパウロの間』(土岐健治訳・教文館)の31〜44頁を参照してください。なお荒井献『原始キリスト教とグノーシス主義』(岩波書店)57頁以下も参照。

 エルサレム共同体の中で、「ギリシア語を話すユダヤ人」と「ヘブライ語を話すユダヤ人」の間に「日々の分配」のことで問題が起こります。先に見たように、エルサレム共同体は信者たちが自分の資産を売って得た資金を提供し、使徒たちの管理運営に委ねていました。それでも働き盛りの男性は日々の収入を得る道もあったでしょうが、資産を提供した寡婦たちは、共同体から分配される資金だけで生活しなければなりませんでした。その分配について、ギリシア語を話すユダヤ人から自分たちのグループの寡婦たちが軽んじられているという苦情が、使徒たちに出されます。十二人の使徒たちは「ヘブライ語を話すユダヤ人」ですから、ヘブライ語を話すユダヤ人の状況にはよく目配りが行き届きますが、別のグループを形成していた少数派のギリシア語を話すユダヤ人グループには、配慮が十分に行き届かなかったのでしょう。
 それで「十二人」は弟子たちをすべて呼び集めて、次のような提案をします。

 「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」。(六・二〜四)

 これを聴いた「一同は、この提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカルノ、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせ」ます。すると、「使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」という形で、選ばれた七人を承認します。ルカはあくまで、イエスに任じられた使徒が「七人」を任命したという形をとっています。(六・五〜六)
 これが、ルカの伝える「七人」選出の経緯です。この報告によると、「十二人」は祈りと神の言葉の奉仕に専心するために、食卓の世話を「七人」に委ねたことになっていますが、その後「七人」が食卓の世話をしたという事実はなく、むしろ彼らは「十二人」と同じく御言葉を伝える伝道者として活躍しています。
 新たに選ばれた「七人」は、そのギリシア語名からして、またその後のギリシア語による活躍から見て、全員が「ギリシア語を話すユダヤ人」であることが分かります。このような状況から見えてくることは、この「七人」選出の出来事は、食卓の係を新しく選んだという程度のものではなく、ヘブライ語を話すユダヤ人の指導者である「十二人」が、ギリシア語を話すユダヤ人のグループの指導者としての「七人」を承認し、二つのグループの指導体制が別になったことを指し示しているということです。このような最初期のエルサレム共同体の状況は、分裂ではありませんが、一種の分離の状況と言えます。ルカはそれを食卓の世話の問題として差し障りのないものにしています。これは、共同体の一致を美しく描こうとするルカの傾向が現れた一つの例で、他にもこのように深刻な相違を小さな問題にして描くことは、ルカの使徒言行録にしばしば見られます。
 《ヘレーニスタイ》と 《ヘブライオイ》は、ユダヤ人の間の使用言語による区分ですが、エルサレム共同体の内部では、ギリシア世界に対する姿勢の違いにもつながっています。《ヘレーニスタイ》は、ギリシア語を母語としてギリシア文化の世界で育っていますから、ギリシア文化に対する受容度が大きい、あるいはギリシア世界に対してより開放的であるといえます。それに対して、アラム語を母語としてパレスチナで生まれ育った《ヘブライオイ》は、パレスチナのユダヤ教環境の影響が強く、ユダヤ教律法に対する忠誠心がいっそう強いといえます。こうして、《ヘレーニスタイ》はギリシア文化に向かう姿勢、《ヘブライオイ》はヘブライの宗教に向かう姿勢という違った傾向を持つグループとなります。「七人」選出の記事は、最初期のエルサレム共同体にこのような区分があったことを垣間見させます。
 ところで、ギリシア語を話すユダヤ人信者グループの指導者として選ばれた「七人」については、ここで突然名前が出てくるだけで、この時までの経歴は何も分かりません。ここに名をあげられているフィリポは、「十二人」の中の一人でガリラヤのベトサイダ出身のフィリポ(ヨハネ一二・二一)とは別人です。
 最後に名をあげられているニコラオだけに「アンティオキア出身の改宗者」という説明がつけられています。「改宗者」というのは、生まれは異邦人であるが割礼を受けてユダヤ教に改宗した人を指します。ルカの歴史記述は、ここから異邦人伝道の拠点となるアンティオキアを目指しますが、そのことを暗示するためにこのような説明をつけたという受け取り方も可能です。しかし、確実なことは分かりません。

「十二人」の名前のリストの場合もそうでしたが、このような名簿の順序は、そのグループ内の序列を示すのが普通です。それで、「十二人」の場合、裏切り者のイスカリオテのユダが最後に上げられていたように、「七人」の場合も、後に異端的な「ニコライ派」(ヨハネ黙示録二・一五)の開祖となってキリストを裏切ったニコラオが最後にあげられているとする推測もあります。「改宗者」であるとは、元は異教徒であったことを示しており、異教的傾向の強い人物であったことを示唆しているのかもしれません。しかし、これはあくまで名簿の順位からする推測であり、そうであることを指し示す確かな根拠はありません。

 彼ら「七人」は、ディアスポラ・ユダヤ人またはその家系の者で、ペンテコステ以後のエルサレムで使徒たちの福音告知を聴いて信仰に入り、共同体に加わった者たちです。彼らのその後の活躍については、以下の項で見ることになります。

U ステファノの殉教

ステファノに対する告発

 「七人」の中で、ステファノだけに「信仰と聖霊に満ちている人」という賛辞がつけられ、リストの第一位にその名があげられています。このように名前を列挙するとき、その順序はグループ内の序列を示しますので、ステファノが筆頭者として、この「七人」を代表し、ひいてはギリシア語系ユダヤ人グループを代表する指導者ということになります。それは、ペトロが「十二人」の筆頭者として、「十二人」を代表し、同時にアラム語系ユダヤ人の共同体を代表しているのと同じです。ステファノに代表されるギリシア語系ユダヤ人のグループは「ステファノ・グループ」と呼ばれることもあります。
 ステファノはエルサレムのギリシア語を使う会堂の一つに所属し、そこで周囲のギリシア語系ユダヤ人に対して、力強くイエスをキリストと告げ知らせます。自分の会堂だけでなく、広くエルサレムのギリシア語系ユダヤ人に働きかけたと考えられます。それだけでなく、ステファノは御霊の賜物に豊かに恵まれ、「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」、すなわち次々と病人をいやし悪霊を追い出すなどの奇跡を現していたのです(六・八)。
 このステファノのメシア・イエスの告知に対して、周囲のギリシア語系ユダヤ人の会堂から反対の声があがります。「いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキレネ人の会堂に属する者たち、アレキサンドリア人の会堂に属する者たち、また、キリキア州とアジア州出身の人たち」(六・九前半私訳、41頁の注記を参照)などの、ギリシア語系ユダヤ人のある者たちが立ち上がり、ステファノと激しく議論します。
 ディアスポラのユダヤ人で、離散の地から聖なる都エルサレムに戻ってきて住み、自分たちの会堂を造っている人たちは、律法に忠実で熱心なユダヤ教徒です。律法に熱心だからこそ、聖都エルサレムに戻り、律法を学び、律法に従った生活をして、ユダヤ教徒としての生涯を全うしたいのです。彼らはステファノがイエスの救いを語る言葉の中に、律法から自由な信仰、律法とは別に救いがあるとする主張を敏感に聞き分けます。これは後にパウロが明確な言葉で主張することになるのですが、すでにステファノの告知にそれが出ているのです。ステファノはパウロの先駆者です。
 律法に熱心なこれらの会堂のユダヤ人たちは、このステファノの主張に反対して、激しく論争します。しかし、「彼が知恵と御霊とによって語るので、歯が立たなかった」という結果になります(六・九〜一〇)。議論で言い伏せられた反対者たちは、人々を唆して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒?する言葉を吐くのを聞いた」と言わせます(六・一一)。そして、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院(この新共同訳には問題があります―後述)に引いて行きます(六・一二)。イエスの裁判の場合と同じように、彼らは偽証人を立てて、次のように訴えさせます。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所(神殿)を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習(ユダヤ教)を変えるだろう』」。(六・一三〜一四)
 反対者が訴えたのは、ステファノがイエスの復活を証言したり、イエスをメシアと言い表したことではありません。それはすでに最高法院で取り上げられ、そのような証言をしたペトロたちは釈放されています。ステファノに対する訴えは、「この聖なる場所(神殿)と律法(モーセ律法)をけなして」、「モーセと神を冒?する言葉」を吐いたということです。そのことは、ステファノが「あのナザレの人イエスは、この場所(神殿)を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習(ユダヤ教)を変えるだろう」と言うのを聞いた、と具体的に説明されています。
 ルカは、ステファノの殉教物語をイエスの受難物語と一対のものとして書いているように思われます。最高法院への告発においてイエスの場合も、神殿を汚す言葉とモーセ律法に対する侮蔑が問題とされていることが並行しています。イエスが神殿に関してされた発言を正確に確認することは困難ですが、「この神殿を壊してみよ。わたしは三日で立て直してみせる」(ヨハネ二・一九)のような意味の発言をされていたことは確かでしょう(マルコ一四・五八、一五・二九も参照)。ステファノは、イエスが栄光の中に来臨されるときにはもはや神殿はなくなる(ヨハネ黙示録二一・二二)とか、聖霊によって神を礼拝する者には神殿祭儀は不要である(ヨハネ四・二一〜二四)というような発言をしたのかもしれません。そのような発言を、告発者はステファノが「あのナザレ人イエスは神殿を破壊する」と主張していたとして告発します。
 イエスの受難物語における最高法院での裁判で、マルコは神殿に対するイエスの発言が問題になったことを報告していますが(マルコ一四・五八)、ルカ(二二・六六〜七一)はそれを省略しています。その代わり、このステファノへの告発において、その問題を取り上げています。これは、重複記事を避けるルカの方針から出たものと考えられます。
 モーセ律法に対するイエスの態度が、律法学者たちがイエスを取り除こうとして最高法院に訴えた原因となったことは福音書全体から明らかですが、ステファノに対してもこの問題が告発の理由になっています。おそらく、ステファノが「昔の人は・・・・と命じられている。しかし、わたしは言う」として、イエスがモーセ律法に代わる新しい命令を与えられたことを強調したことが、このような告訴の理由となったのでしょう。
 聖霊体験による終末的熱狂、すなわち、聖霊によって自分たちは今終末の現実、聖書が預言してきた終わりの日の恵みの中にいるのだという喜びに満ちた高揚は、エルサレム共同体共通の体験ですが、パレスチナ・ユダヤ人のアラム語系ユダヤ人は律法に忠実な歩みを続けたの対して、少数のギリシア語系ユダヤ人たち(ステファノ・グループ)はイエスの救いが律法の枠を超えていることを理解し、大胆にそれを言い表した結果、ステファノに対する告発が起こったと見られます。
 聖霊の力に満たされて語ってきたステファノは霊的に高揚し、その顔は輝いていたことでしょう。ルカは、「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた」と描いています(六・一五)。

ステファノの弁論

 大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねたのに対し、ステファノは滔々と弁論を開始します(七・一以下)。ステファノの弁論は、父祖アブラハムに対する土地の約束から説き起こし、族長たちの物語、モーセによる出エジプト、荒野の四十年、ダビデ・ソロモンによる神殿建設、バビロン捕囚、そしてメシアとして遣わされたイエスの殺害に至るまでのイスラエルの全歴史を見渡し、その上で聖霊に逆らってきたイスラエルの罪を厳しく糾弾し、こう結論します。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方(正しい方、預言されていた方、イエス)を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」(七・五一〜五三)。
 この五三節に及ぶステファノの弁論は、使徒言行録の中に出てくる使徒たちの説教や演説の中で、もっとも長いものです。ここでその詳細を分析し、詳しく講解することはできません。また、その必要はないでしょう。聖書(旧約聖書)に親しんでいる者であれば、それが神の民イスラエルの歴史、すなわち神がイスラエルの中で働かれた働きの主要な内容と、それに対するイスラエルの対応を尽くしていることが分かります。その長い弁論の主旨は、この結論の言葉が示しているように、イエスを殺したのは、先祖たち(イスラエル)がしてきたのと同じく、聖霊に逆らう罪だということです。そして同時に、聖霊によって語る自分を殺そうとしてるユダヤ人たちの行為も、神の霊に逆らう罪であると告発していることになります。
 おそらく、ステファノはイエスの殺害に続いて、神がイエスを復活させたことを語ろうとしたのでしょうが、ここまで聴いた者たちは、もはや耐えられず、激高のあまりステファノを外に連れ出し、石打にして殺します。ステファノの弁論は途中で中断されます。しかし、この中断はルカの意図的な構成によるものと考えられます。ルカは、ユダヤ人が殺したイエスを神が復活させたことは、すでにペトロのペンテコステ説教で詳しく語りました。しかし、そこではイエスの十字架の死については、それが預言のとおりに起こったことだという要約的な宣言があるだけでした。ルカはいまステファノの口を通して、イエスの死が長いイスラエルの歴史の中で必然的に起こったことであり、その歴史の成就であることを、その歴史に即して語ります。それで、この弁論は長くならざるをえません。これは、最初期の共同体がユダヤ教共同体に向かって語ろうとしていることを、ルカがステファノの口を通して語らせているのです。ここでも、ルカがステファノの殉教物語をイエスの受難物語と一対のものとして書いていることが見えてきます。ルカは彼の二部作の第二部(使徒言行録)で、ステファノの弁論とペトロのペンテコステ説教の組み合わせによって、第一部(ルカ福音書)のイエスの受難・復活物語に対応する物語を完成しています。実に見事な構成です。

ステファノに対する石打

 弁論が終わったとき、ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った、と伝えられています(七・五五〜五六)。これは、最初期エルサレム共同体の終末的熱狂を言い表す典型的な言葉です。
 ここで「人の子」というユダヤ教黙示思想の代表的な称号が用いられていることが注目されます。イエスがこの称号を用いられたことは、福音書に数多く伝えられていますが、イエス以外の人物がこの称号を口にしたのはここだけです。イエスは最高法院での裁判で、「おまえは誉むべき方の子、メシアなのか」という大祭司の尋問に対して、「わたしはある。あなたがたは人の子が神の右に座し、天の雲と共に来るのを見ることになる」と答えておられます(マルコ一四・六二)。ここでもイエスの受難物語とステファノの殉教物語の並行が見られます。 
 イエスがこの「人の子」という表現をどのような意味で用いられたのかについては、様々な議論があり、困難な問題を抱えていますが、最初期のエルサレム共同体はこの表現をユダヤ教黙示文書が用いている意味、すなわち終わりの日に天から現れて、世界を裁き、神の民に栄光をもたらす超自然的人格を指す意味で用いていたことは確実と考えられます。
 イエスが復活されたことを、ユダヤ教徒の集団である最初期エルサレム共同体は、聖書の表現を用いて、「天に上げられ、神の右に座した」と表現しました。ステファノはこの表現を用いていますが、ここでは神の右に座しておられる」ではなく、「神に右に立っておられる」となっています。これは、殉教しようとしているステファノを迎えようとしておられる姿勢だとする解釈もありますが、むしろ当時の終末的熱狂からすれば、今にも世界に来臨しようとして立ち上がっておられる姿勢と理解する方が適切であると考えます。ステファノのこの告白から、最初期エルサレム共同体が「人の子」の来臨を熱烈に待望する終末的信仰のユダヤ人共同体であったことが分かります。
 このステファノの言葉を聞いたユダヤ人たちは、「大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」とされます(七・五七〜五八)。
 「大声で叫びながら耳を手でふさぎ」というのは、神を冒?する言葉が他にも自分にも聞こえないようにする動作(ジェスチユアー)です。その動作で、自分が冒?の言葉に対抗していることを示します。彼らは「ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ」、ステファノを殺します。
 このステファノ石打の記事は、困難な問題を抱えています。この記事には、最高法院の死刑判決の報告もなく、激高した民衆によるリンチの様相を示しています。ほとんどが社会で重きをなす高齢の議員たちが、「ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げた」とは考えられません。この結末は、ステファノは最高法院に告発され、そこで裁判を受けたというはじめの状況と矛盾しているように見えます。さらに、イエスの裁判に見られるように、当時の最高法院は死刑を執行する権限をもっていなかったという事実もあります。しかし、都の外での処刑や、証人の立ち会いなど、律法に従った処刑としての一面も見せています。それで、ステファノの石打は最高法院による正規の裁判の判決による処刑か、激高した民衆のリンチによるものかが争われることになります。
 困難の原因は、六章一二節の《シュネドリオン》を「最高法院」と理解したことにあります。たしかに、新約聖書ではほとんどの場合、このギリシア語は最高法院を指しています。しかし、たんに「集会、衆議所」を意味する用例もあります。もともとは「町のユダヤ人の指導者のたちの議会」を指す用語であり、「最高法院」はその特別な場合です。たとえば、マルコ一三・九の《シュネドリオン》(複数形)は、《シュナゴゲー》(複数形)と並べられており、明らかに最高法院ではありません。両者は、各会堂または会堂の連合体の司法権をもつ集まり《ゲルーシア》などを指していると見られます。
 ステファノの告発の状況を考えますと、論争はエルサレムでは少数派のギリシア語系ユダヤ人の間での論争ですから、ステファノに論争では歯が立たなかったギリシア語系ユダヤ人の律法熱心派が、ステファノを襲って近くのギリシア語を使う会堂の一つに連れて行き、そこの《シュネドリオン》に訴えた、というのが実際の出来事であったと考えることができます(ヘンゲル)。そこに大祭司はいないはずですが、ルカがこの出来事を伝える伝承なり資料の《シュネドリオン》を最高法院として、ステファノの弁論をイエスやペトロの場合と同じく、全イスラエルに対する告発の弁論として構成したと見られます(七・一)。
 各会堂には、数名の長老からなる司法権をもつ「衆議所」があり、律法の違反者に「四十に一つ足りない鞭打ち」を加えるなどの懲罰を科す権限を持っていました。最高法院も死刑執行の権限を持っていないのに、会堂が死刑を執行できたかどうかが問題になります。しかし、ローマ総督の支配が実効的に及ばないような場合は、律法への熱心に燃えたユダヤ教徒が、律法違反者を(律法に規定された処刑方法である)石打で殺そうとしたことは、繰り返し報告されています。ナザレの会堂のユダヤ教徒がイエスを石打にしようとしたことや(ルカ四・二八〜二九)、姦淫の現場で捕らえられた女を石打にしようとした記事(ヨハネ八・三〜五)、また、イエスの言動に自分を神と等しい者とする冒?を見たユダヤ教徒がイエスを石打にしようとしたことが、ヨハネ福音書には繰り返し出てきます(ヨハネ八・五九、一〇・三一、一一・八)。後に「主の兄弟ヤコブ」も、ローマ総督不在のエルサレムでユダヤ人たちによって石打で殺されています。イエスの場合は、ローマ総督の目が光っている過越祭のエルサレムですから、最高法院は総督に訴えて、ローマ式の処刑である十字架刑でイエスを殺すことになります。
 この時期のエルサレムは律法への熱心に燃えていました。律法に違反する者を取り除くことが、律法への忠誠の証しでした。先に見たように、エルサレムに戻ってきて住んでいるギリシア語系ユダヤ人は、律法に熱心な人たちでした。彼らにとって神殿やユダヤ教律法を汚すように聞こえるステファノの言動は放置できませんでした。彼らは暴力的にステファノを襲い、会堂の集会(衆議所)に訴え、その決定を受けて石打にします。そう見れば、都の城壁の外での処刑、証人の立ち会いなど、律法の規定を守っている点も了解できます。総督ピラトはこの時カイサリアにいて、エルサレムにはいません。このエルサレムの少数派の中で起こった局地的な暴力的な事件は、ローマ側からも見過ごされたのでしょう。
 新約聖書で実際に石打が実行されたことを語るのはここだけですから、石打とはどのように行われるのかを見ておきます。石打の執行方法は申命記一七・二〜七に規定されていますが、さらにミシュナーによって詳しく規定されたところによると、判決を受けた者を町の門の外に連れ出し、人の背丈の二倍以上の高所から下に突き落とし、その人を罪に定める証言をした証人(二人以上が必要)の一人が石を投げつけ、それで死ななければもう一人の証人が石を投げます。それでも死ななければ、立ち会った会衆全員が石を投げて死なせます。
 ステファノの場合も「証人たち」が居合わせています。証人は石を投げるとき、上着を脱いだのでしょう。脱いだ上着をサウロと呼ばれている若者の足もとに置いて、石を投げます。ここで初めてサウロが舞台に登場します。後にギリシア語名でパウロと呼ばれ、使徒言行録後半の立役者となるパウロは、ここに迫害者として、ヘブライ語名のサウロで登場します。「サウロはステファノの殺害に賛成していた」(八・一前半)とありますが、これはおそらくステファノが訴えられたギリシア語系ユダヤ人の会堂の衆議所で、ステファノの処刑に賛成したことが言われているのだと考えられます。サウロは、ギリシア語系ユダヤ人の会堂でステファノ・グループを迫害した勢力の急先鋒でした。このことは次章で詳しく見ることになります。
 証人の投げた石だけでは死なず、立ち会った全員の「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」、とルカは書いています(七・五九〜六〇)。
 こうしてステファノは、イエスの霊に生きる者にふさわしく自分を殺す者たちのために執り成しの祈りを捧げながら、眠りにつきます。「眠りにつく」という表現は、復活の時を目覚めとして待ち望んだキリスト者が、死を語るときの語り方です(マルコ五・三九、ヨハネ一一・一一およびその講解を参照)。ステファノは、その名のとおり、最初に勝利した者に与えられる命の冠(黙示録二・一〇)を受ける者となったのです。「ステファノ」は、ギリシア語で栄冠とか花輪の冠を意味する名詞です。
 このステファノの死は、イエスの死の姿と対応する形で書かれていることが、すぐに分かります。ルカ福音書(二三・四六)では、イエスは十字架の上で「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言って、息を引き取られました。ステファノは、投げつけられる石の下で、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と叫んでいます。ステファノは「天が開いて、人の子が神の右に立っておられる」のを見ています。その人の子であるイエスに、ステファノは自分の霊を委ねます。また、十字架の上でイエスは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、自分を殺す者たちのために執り成しの祈りを捧げておられます(ルカ二三・三四)。ステファノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈っています。このような対応を見ますと、ルカがステファノの死をイエスの受難と重ねて描いていることがよく見えてきます。
 ルカでは、イエスの死も、ステファノの死と同じく、殉教の死という性格になっています。マルコが伝える「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」というイエスの苦悩に満ちた悲痛な叫びは消し去られ、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」という、ステファノが見せたのと同じ、信頼に満ちた平安の表現となっています。ルカは、イエスを第二部で描く殉教者の原型として描き、第一部と第二部を同じ原理で貫かれた対応編としていることが、ここでも見られます。

ステファノの殉教から三〇年ほど後(六二年)に、長年エルサレム共同体の統率者であった「主の兄弟ヤコブ」が、ステファノと同じく石打の刑で殉教します。ヤコブの殉教の次第は、当時の歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代誌』二〇・一九九〜二〇一に詳しく伝えられています。また、エウセビオスはその著『教会史』第二巻二三・四〜一九で、二世紀半ばのパレスチナ・ユダヤ人のキリスト教著述家であるヘゲシッポスを引用して、ヤコブの義人ぶりとその殉教の次第を詳しく伝えています。その内容については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』449頁以下の「ヤコブの殉教」を参照していただくことになりますが、それによると、ステファノ殉教の記事がヤコブの殉教の次第とよく似ていることに気付きます。それで、ヨセフスやヘゲシッポスが用いたヤコブの殉教に関する伝承とか資料をルカも知っていて、それを用いてステファノ殉教の記事を書いたと見る研究者もいます。ステファノ殉教の記事は、ここで見たように首尾一貫しない点もあるので、ルカが用いた資料間の相違が問題になったりします。しかし、ここでは資料の問題に深入りできませんので、ステファノ殉教の記事が、ヤコブの殉教記事と似ているという事実だけを指摘しておきます。

迫害の新たな局面

 イエスを信じる者たちに対するユダヤ教側からの迫害は新たな段階に入りました。「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」という事態になります(八・一後半)。
 しかし、この文は文字通りに読むと奇妙なことになります。ステファノが殉教した日、エルサレムの共同体そのものに大迫害が起こり、十二人の使徒の他は全員がエルサレムから追い出され、ユダヤとサマリアの地方に散って行ったことになり、エルサレムには十二人の使徒だけが残ったことになります。これは二つの点で奇妙です。一つはエルサレム共同体全体に対する迫害であれば、その指導者である使徒たちだけが迫害を免れ、エルサレムに残るのは奇妙です。宗教教団に対する迫害は、指導者を真っ先に、あるいは指導者だけを迫害します。第二は、この日の後もエルサレムには使徒に指導される共同体が存続して活動しているという事実と矛盾します。
 この奇妙さは、先に見たように、エルサレム共同体がアラム語系ユダヤ人とギリシア語系ユダヤ人の二つのグループに分かれていたという事実を背景にして見ると解消します。ここで「使徒たち」というのは十二人が代表するアラム語系ユダヤ人のことであり、「使徒たちのほかの皆」というのは、ギリシア語系ユダヤ人を指していると理解すると、この文は、ステファノの殉教にさいして起こった迫害の性格をよく伝えていることになります。この日、ギリシア語系ユダヤ人信者に対する大迫害が起こり、彼らは皆エルサレムから追い出され、ユダヤとサマリアの地方に散って行ったのです。しかし、多数派のアラム語系ユダヤ人のグループは無傷でエルサレムに存続します。迫害はあくまで少数派のギリシア語系ユダヤ人の会堂での出来事です。
 「しかし、信心深い人々がステファノを埋葬し、彼のために盛大な哀悼を表した」(八・二私訳)とありますが、この「信心深い人々」はエルサレムに残ることができたアラム語系ユダヤ人を指すと理解すると、彼らは、別のグループの指導者であるステファノを、同じ主イエスを告白する仲間として、その死を悼み、丁重に埋葬したということになります。しかし、「信心深い人々」という表現は、二章五節では信心深いユダヤ教徒を指しており、ここでもその意味で用いられている可能性があります。ガマリエルが、同僚議員であるアリマタヤのヨセフがイエスにしたように、ステファノを自分の墓に埋葬したという後の時代の伝承もあるようです(NTD)。「主の兄弟ヤコブ」の殉教のときも、「市中でもっとも公正な精神の持ち主とされている人たちや、律法の遵守に厳格な人たちは、この事件に立腹し」、抗議活動をしたと伝えられています。
 さらに、埋葬した後に、「そして彼のために大きな嘆き(哀悼)をなした」(直訳)というのは、新共同訳のように「彼のことを思って大変悲しんだ」という理解も可能ですが、ここではそのような内心の悲しみではなく、外に表された哀悼表現の行為を指すと理解すべきでしょう。動詞も「行った」という意味の動詞が用いられています(岩波訳参照)。このような公の哀悼の表現行為は、イエスの場合もそうであったように(ルカ二三・二七、四八)、この殺害に対する抗議の意思表示でもあります。
 この節のステファノの埋葬と嘆きの記事は、「主の兄弟ヤコブ」を葬ったエルサレム共同体の思い出と重なっているのではないかと感じさせます。殉教者を尊び丁重に葬ろうとすれば、当時のユダヤ教の埋葬の習慣に従えば、一年から二年の年月がかかります。ヤコブの場合、迫っている戦争(第一次ユダヤ戦争)の危険の中で、エルサレム共同体の人たちは、ヤコブ殉教の後直ちにエルサレムから退去せず、危険なエルサレムにとどまって、敬愛する指導者ヤコブをユダヤ教の埋葬の習慣に従って葬ります。そのような記憶が、このステファノの葬りの記事になったのではないかと感じられます。

ヤコブの葬りとユダヤ教の埋葬の習慣については、前出の拙著『パウロ以後のキリストの福音』449頁以下の「ヤコブの殉教」と、それに続く「ヤコブの骨箱」の項を参照してください。

 「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」。(八・三)

 このギリシア語系ユダヤ人会堂における迫害で、急先鋒となったのはサウロでした。彼はステファノ・グループの者たちの「家の集会」を探索し、イエスをメシアと言い表す者たちを「男女を問わず引き出して」、彼らの律法違反を告発するために会堂の「監禁所」に引き渡していました。このサウロの迫害行為については、次章でパウロの回心を扱うところで詳しく触れることになりますので、ここではこれだけにしておきます。

新共同訳で「牢」と訳されているギリシア語原語は、見張りとか監視を意味する語で、それが見張り人、監視所、牢獄という意味に用いられるようになります。会堂に「牢獄」があったとするのは問題で、会堂での審問までの間監視下に置くという程度のことではないかと考えられます。

 このステファノの殉教に始まる迫害は、それまでにユダヤ教側からエルサレム共同体に加えられた脅迫や迫害とは違った様相を見せています。それまでの迫害はおもにサドカイ派など神殿勢力によるものでした。その迫害においてファリサイ派は、ガマリエルの勧告(五・三三〜四〇)にも見られるように、イエスをメシアと言い表すエルサレム共同体の信仰運動に、(消極的な形ながら)同情的な姿勢を見せていました。ところが、ステファノ・グループがモーセ律法の有効性そのものを問題とするような言動を見せるにいたって、律法に熱心なファリサイ派の人たちは激しく反発し、迫害する側に回ります。サウロは律法への熱心に燃えているファリサイ派の若手律法学者です。ガマリエルの弟子であるサウロを先鋒として、ファリサイ派はエルサレム共同体のギリシア語系ユダヤ人を激しく迫害します。
 この迫害はあくまでギリシア語系ユダヤ人会堂間での出来事であり、エルサレム共同体の主要部をなすアラム語系ユダヤ人は圏外にいて「無傷」であった、と先に書きました。しかし、「無傷」というのは、殉教者を出さず、家ごとの探索を受けるというような迫害を受けなかったというだけで、同じ信仰の仲間としてファリサイ派の厳しい批判にさらされるようになり、これまでと違った状況に陥ったことは、ギリシア語系ユダヤ人グループと変わりはありません。それまで草創期のエルサレム共同体に友好的であったエッセネ派も、彼らは律法には厳格な立場のユダヤ教徒ですから、この出来事を機に批判的な態度に変わったのではないかと推察されます。エルサレム共同体は、権力中枢の神殿勢力からだけでなく、会堂を基盤に勢力をもつファリサイ派からの批判も浴びて、日常のユダヤ教社会の中で圧迫される状況になったと言えます。エルサレム共同体は、ユダヤ教全体を敵に回すような状況の中で歩まなければならなくなります。
 このように最初の殉教者を出し、状況を大きく変えるに至った重大な出来事は、いつ起こったのでしょうか。その年代は、パウロの回心の直前ということになりますので、パウロの年代の計算から導き出されます。パウロの年代の計算は次章で取り上げますが、それによるとステファノの殉教は三三年のことであったと広く認められています。エルサレム共同体は、発足後三年ほどで、一段と厳しい時期を迎えることになります。

V フィリポのサマリア・沿岸地方伝道

フィリポのサマリア伝道

 ギリシア語系ユダヤ人信者に対する迫害によって、彼らは皆、「ユダヤとサマリアの地方に散って行った」ということになります(八・一)。ユダヤの各地に散って行った人々のことは何も報告されていませんが、サマリアに散って行った人たちの中で目覚ましい働きをしたフィリポのことが、詳しく伝えられることになります。フィリポは「七人」の名簿で、ステファノに次いで二番目に名があげられています。
 「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(八・四)。
 迫害は福音の種子をエルサレムの城壁の外へ拡散する神の手となります。迫害によってエルサレムを追われ、周辺の地に散って行った人たちは、福音を告げ知らせながら巡り歩き、各地に福音の種を蒔きます。当然、エルサレムの周辺地域であるユダヤの地にもイエスをメシアと信じるユダヤ人の集会が生まれたことでしょう。「ユダヤの諸集会」のことはパウロ書簡にも言及されています(ガラテヤ一・二二)。ルカが報告しなかったのは、エルサレムの周辺地域としてユダヤ教徒が居住するユダヤに集会が形成されたのは当然のこととして、特別に報告する必要を感じなかったからでしょう。
 しかし、サマリアは事情が違います。サマリアの人たちは、同じモーセ五書を正典として奉じながら、エルサレム神殿での祭儀を中心とするユダヤ教という宗教を形成した南のユダヤの人たちとは違う宗教、すなわちゲリジム山でのヤハウェ礼拝を中心とするサマリア教という別の宗教を形成していました。ユダヤ教徒はこれを異端視して、サマリア教徒とはいっさい交際をしませんでした(ヨハネ四・九)。
 このサマリアに足を踏み入れ、サマリアでイエスをメシアとして宣べ伝えるということは、ユダヤ教律法に忠実なアラム語系ユダヤ人には考えられなかったことでしょう。イエスの語録にも、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」という言葉が伝えられています(マタイ一〇・五〜六)。使徒たち自身をはじめアラム語系ユダヤ人が主流のエルサレム共同体は、サマリアに福音を伝える活動をすることなど、思いも及ばなかったことと考えられます。
 ところが、「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝え」ます(八・五)。これは、フィリポがギリシア語系ユダヤ人だったからできたことです。ギリシア語系ユダヤ人は、ユダヤ教という枠に囚われることが少なく、視野は世界の異なる文化や宗教に広く開かれていました。フィリポは、サマリアはユダヤ教圏ではないとして黙って通り過ぎるのではなく、救いを必要としている同じ人間として、キリストを宣べ伝えます。
 フィリポが下っていった「サマリアの町(単数形)」とはどこかが問題になります。まず、当時著しくギリシア化していた首都のセバステ(昔の王都サマリア)が考えられます。そこではギリシア語による活動がしやすいからです。または、宗教的な中心地であった古都シケム、当時はスカルと呼ばれた都市の可能性もあります。後に出てくるシモンの活動を考慮にいれますと、スカルの可能性も残ります。どの都市であるか決定することは困難です。
 フィリポはその町で「キリストを宣べ伝え」ます。サマリア教徒は、終わりの日に「一切のことを告げる」モーセのような預言者が現れることを待望していました。その預言者は「ターヘーブ」(再来者)と呼ばれ、サマリア教徒のメシア(油を注がれた救済者)でした。そのサマリア教徒に向かって、フィリポは大胆に、ユダヤ人の間に現れたイエスをメシア・キリストとして宣べ伝えます。ユダヤ人であるフィリポがユダヤ人のイエスをキリスト(油注がれた救済者)として宣べ伝えるのですから、普通であればサマリア教徒は一蹴するはずですが、サマリアの人たちは熱心にフィリポの告知に耳を傾けます。それは、セバステのようなヘレニズム都市においては、後にパウロがヘレニズム諸都市で福音を告知したときにそうであったように、様々な種類の宗教的告知にオープンな姿勢があったからでしょう。それに、フィリポはステファノと同じく、エルサレム神殿の祭儀にあずかることを救いの必要条件としないなど、ユダヤ教律法にこだわらない姿勢があったので、サマリアの人たちもフィリポに共感することができたのでしょう。しかし、フィリポの宣教にサマリアの人々が耳を傾けた最大の理由は、フィリポの宣教に聖霊の力が伴い、フィリポによって「すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見た」からです。
 「群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ」。(八・六〜八)
 フィリポのサマリアにおけるキリスト告知の活動には、ガリラヤでのイエスの「神の国」宣教活動や、エルサレムでの使徒たちのキリスト告知の活動と同じように、このような「しるしと奇跡」が伴いました。それが、フィリポのサマリア伝道を成果の多いものにしました。サマリアの町(おそらくセバステ)でイエスをキリストと信じたのは、おそらくサマリア人(サマリア教徒)だけでなく、多くのギリシア人を含んでいたのではないかと推察されます。そうであれば、フィリポが異邦人伝道の最初の開拓者ということになりますが、ルカはそうとは明言せず、ペトロを異邦人伝道の開拓者として描きます(使徒言行録一〇章)。

サマリアにおけるフィリポとシモン

 「ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリヤの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである」。(八・九〜一一)
 シモンという人物の経歴、教え、活動がどのようなものであったのか、正確なことは分かりません。後にキリスト教側からグノーシス主義的な異端の源流となった人物として扱われ、反異端論者の視点から描かれた姿しか伝えられていませんので、その歴史的な実像を正確に知ることはできません。同じサマリアの出身であるユスティノスは二世紀の半ばに、シモンをサマリアのギッタという町の出身で、クラウディウス帝の時代にローマで悪霊の力で奇跡を行い、元娼婦のヘレナを伴侶として伴い、彼女を「最初の思惟」と呼んで、グノーシス主義的な教えを説いた人物として描いています。二世紀末のエイレナイオスになると、シモンはすべての異端の源として扱われるようになります。
 フィリポがサマリアに来たときには、シモンはサマリアで活動し、「魔術を使ってサマリヤの人々を驚かせ」、多くの追従者を得ていました。そして、追従者の前で、自分を「偉大な者」(神)と自称し、サマリアの人たちは子供から大人まで、「この人こそ『大いなる力』と呼ばれる神の力だ」と言って、彼に聴き従っていました。ここの「注目した」(新共同訳)は、「聴き従った」(岩波訳)とする方がよいでしょう。「心を奪われていた」のですから、もっと強く「熱狂的に追従した」としてもよいのではないかと思います。
 「魔術」というのは、霊的な力で奇跡を行うことを、その霊能者を自分たちの教義から外れているとする体制的宗教からする批判的な呼び方です。後のユダヤ教ラビたちは、イエスをも「魔術師」と呼んで批判しています。後のキリスト教著述家によって、シモンはいつも「シモン・マグス」、すなわち「魔術師シモン」と呼ばれています。シモンは何らかの霊力で奇跡を行い、「サマリヤの人々を驚かせ、心を奪っていた」のでしょう。それだけに、フィリポが行う聖霊の力による奇跡に驚き、「バプテスマを受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた」ということになります(八・一三)。
 サマリアにおけるフィリポとシモンの対決は、出エジプト記におけるモーセとエジプトの魔術師たちとの対決を思い起こさせます。ファラオに仕えるエジプトの魔術師たちもいろいろな不思議な業を行いましたが、モーセがそれにまさる不思議な奇跡を行って見せるので、ファラオもついにモーセが示すヤハウェの言葉に従わざるをえなくなります。ここでは、シモンはフィリポが行う奇跡が自分のものよりも力強くまさっていることを認め、フィリポが宣べ伝えるイエスの弟子となって、イエスの名によってフィリポと同じような霊の力を行使したいと願って、バプテスマを受けたのではないかと考えられます。シモンがバプテスマを受けたのは、神の前に悔い改めて自分を無とする行為ではなく、さらに自分の霊力を高めたいための行為であることは、この後のシモンの姿から容易に推察することができます。

サマリアにおけるペトロとシモン

 「しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女もバプテスマを受けた」。(八・一二)

 フィリポが来るまでは、サマリアの人たちはシモンに心を奪われ、熱狂的につき従っていましたが、フィリポがサマリアに来て「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせる」に及んで、先に見たような事情で、サマリアの人たちはフィリポが告げ知らせる福音を信じ、多くの人がバプテスマを受けます。その中にシモンもいたのですから、フィリポのサマリアでの福音活動は大きな成功を収めたことになります。
 ここでフィリポの活動が「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせた」と記述されています。ルカも福音書においては、他の福音書と同じく、イエスの宣教を「神の国を宣べ伝えた」と描いていますが、使徒言行録では使徒たちの宣教を「神の国を宣べ伝えた」と記述することは少なく、「キリストを宣べ伝えた」とする方が多くなります。パウロ書簡などの使徒書簡では「神の国」はほとんど出てこなくなり、もっぱら「キリスト」について語られることになります。ルカは使徒言行録では、使徒たちをイエスの宣教を継承する者として「神の国を宣べ伝えた」と描く一方、使徒たちの宣教の内容に即して「キリストを宣べ伝えた」とか「イエス・キリストを宣べ伝えた」と記述することが多くなります。そして、ここや、パウロの宣教活動をまとめるところで「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(二八・三一)と書いているように、代表的な箇所で両方を並記しています。
 イエスが宣べ伝えられた「神の国」と、使徒たちが告知した「キリスト」は、実は同じ現実です。両方とも、その内容は「聖霊による終末の現臨」と言えるでしょう。終わりの日に実現すると約束されていた事態が、今や聖霊によって現実にこの地上の体験となっているのです。その内容は、神の恩恵の圧倒的な支配です。復活の命が溢れている現実です。イエスはそれを「神の支配」という表現で指し、使徒たちは聖霊によって実現している恩恵の支配を「キリスト」と呼びました。その事態が、イエス・キリストの中に到来し、溢れているからです。
 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞きペトロとヨハネをそこへ行かせます(八・一四)。ルカはあくまで、この時期の福音活動がすべて「使徒たち」のコントロールの下で行われたという建前を貫きます。ギリシア語系ユダヤ人が「七人」の指導者を立てて分離したときも、それを「十二人」の提案と承認による出来事として描きました(六・一〜六)。ここでも、フィリポが「十二人」から派遣されたのではなく、独立に行ったサマリアでの伝道活動とその成果は、「エルサレムの使徒たち」の監察を受け、その承認の上で、エルサレム共同体の活動の一部として組み入れられていきます。「十二人」に代表されるエルサレム共同体は、福音活動全体の本部としての地位と活動を与えられているように見えます。この原則は、パウロの場合も含めて、使徒言行録の最後まで貫かれています。これは、ルカがユダヤ戦争の後エルサレム共同体がそのような指導的地位をなくしてから数十年の後に書いていることを考えますと、史実というよりはルカの理念を表現しているように感じられます。ルカは、自分の時代とこれからの時代の福音活動が何らかの統一的な形で行われるべきであるという理念から、このような書き方をしているようです。ルカのこの理念は、後のカトリシズム(普遍的・統一的教会の理念)を準備すると見てよいでしょう。
 「二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」。(八・一五〜一七)
 「エルサレムの使徒たち」の監察と承認は、「十二人」から派遣された二人(ペトロとヨハネ)が、フィリポによって信仰に入り、バプテスマを受けて信仰を公に言い表した人たちに手を置いて祈り、それによって彼らが聖霊を受けたという形で描かれます。フィリポの聖霊の力に満ちたカリスマ的な伝道活動を考えますと、彼の告知を聴いて信仰に入ったサマリアの人たちは、何らかの形で聖霊の働きを強く受けて、聖霊の体験をしていると考えられます。それを、使徒の按手によって初めて与えられる賜物として描くルカの記述は、先にみたように、ルカのカトリシズム理念の一つの表現でしょう。
 ルカは使徒言行録全体を通じて、聖霊の授与を異言とか預言というような目に見える現象で描いています。ペンテコステの日の異言から、コルネリオ一族の異言と賛美(一〇・四六)、エフェソの信徒たちの異言と預言(一九・一六)に至るまで、聖霊の授与を語る代表的な箇所で、聖霊を受けた者のエクスタシーの状態での異言などの現象を描いています。このような現象は、パウロ書簡にも見られるように、最初期の福音活動に伴うのが普通でした。ここのサマリアの場合も、とくに異言とか預言を語ったとは明記されていませんが、シモンがそれを見て、次のような申し出をしたのですから、目に見える現象が伴ったことは明らかです。フィリポの伝道で、サマリアの人たちはすでに聖霊の力強い働きを受け、聖霊による復活者キリストとの出会いという霊的体験をしていたのでしょうが、「使徒たち」の按手によって、異言とか預言というような聖霊の賜物(カリスマ)を受けたのも事実です。
 「シモンは、使徒たちが手を置くことで、御霊が与えられるのを見、金を持って来て、言った。『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください』」。(八・一八〜一九)
 このシモンの態度は、彼の受けたバプテスマが真の悔い改めではなく、自分の霊的能力を高めるための方便であったことを暴露しています。外形的な儀礼行為が霊的な次元の出来事を保証するものではないことを示す典型的な事例です。金で宗教的権威とか地位を買おうとするこのシモンの態度が、後に金銭で教会の聖職の地位を得ようとする行為、すなわち「聖職売買」の原型とされ、その行為が「シモニー」と呼ばれることになります。
 このシモンの申し出に対して、ペトロは厳しくシモンの罪を指摘し、悔い改めを求めます。

 「すると、ペトロは言った。『この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのこと(聖霊の授与)に何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている』」。(八・二〇〜二三)

 「何でも金で買える」という精神は、貨幣で経済社会を形成した人間の根源的な傲慢、諸悪の根源です。この根源的な悪から、社会的存在としての人間の不幸と悲惨が起こります。その根源的な傲慢が、金で神の賜物を買おうとするようになったとき、その傲慢は極点に達します。神の賜物、その究極の内容は神の霊による信仰と愛と希望ですが、それは決して金では買えません。それを金で買おうとする態度は、人間が根底から腐敗している(腹黒い)者であり、人間を超えた悪の力(サタン的な力)に縛られていることの証明です。

 「シモンは答えた。『おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください』」。(八・二四)

 ペトロの厳しい糾弾を受けて、シモンはこのように懇願しますが、それに対してペトロがどうしたか、またシモンがどうなったかは何も述べられていません。後代の伝承によれば、シモンはその後ローマで活動し、「魔術」を行い、自分の教えを広め、それをキリスト教の用語で行ったので、正統派キリスト教会側からすべての異端の源流として非難される人物となります。その後のシモンの働きと反異端教父たちの批判の詳細については、ここで触れることはできませんので、この使徒言行録の記事で、この時代の一人の霊能者シモンが、サマリアでキリストの福音に触れ、キリスト教的な衣をまとった自分流の宗教思想を形成し、すべての反正統派的キリスト教の源流となった出来事だけを見ておくことにします。

サマリア伝道に関するヨハネとルカの報告

 「このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った」。(八・二五)
 フィリポのサマリア伝道の記述の最後に加えられたこのルカの要約文は、フィリポの伝道で始まったサマリアでの福音の進展が、ペトロとヨハネのサマリアでの福音告知によってエルサレム共同体の福音活動の中に組み込まれていったことを示しています。
 エルサレム共同体がサマリアにイエス・キリストの福音を伝える活動に乗り出したのは、ここで見たように、迫害でエルサレムを追われてサマリアに行った、ギリシア語系ユダヤ人の指導者「七人」の中の一人であるフィリポの活動を追認する形で行われたのですが、それも決して問題なく行われたのではないと推察されます。アラム語系ユダヤ人はユダヤ教の伝統に忠実で、サマリアに対してはいっさい交際しないという厳しい態度でしたから、ステファノ事件以来、アラム語系ユダヤ人たちだけで構成されるようになったエルサレム共同体には、サマリアに入っていって信仰を伝えることには激しい反発があったはずです。彼らは「サマリア人の町に入ってはならない」というイエスの言葉を引用することもできたことでしょう。その中でペトロとヨハネが、フィリポの伝道に聖霊の働きを認めて、それに従う決断をしてサマリアに入ったのは、エルサレム共同体にある柔軟性、すなわち非ユダヤ教世界に対する開放性の一面を覗かせています。この後も、エルサレム共同体は、この開放性とユダヤ教の枠の中にとどまろうとする厳格な閉鎖性の間を揺れ動くことになります。
 ルカが伝えるサマリアでの福音活動の開始は以上のようです。ところが、新約聖書にはサマリア伝道に関して、違った内容の報告がもう一つあります。それはヨハネ福音書四章です。ヨハネ福音書(四・一〜四二)によると、サマリアで福音が告げ知らされたのはイエスご自身の働きによります。イエスは、初期のエルサレムでの働きを終えてガリラヤに行かれるとき、サマリアを通過されます。そのとき、サマリア人の聖所があるゲリジム山の近くのシカル(またはスカル)という町で一人の女にご自身がメシアであることを示され、その女の証言によって多くのサマリア人がイエスを信じるようになったとされています(詳細は拙著『対話編・永遠の命―ヨハネ福音書講解T』の当該箇所を参照)。
 ヨハネとルカの報告の違いは多くの議論を呼び起こしています。しかし、両者は矛盾するものではありません。イエスがその宣教活動の中でエルサレムとガリラヤを何回か往復された以上、サマリアを通られたこともあるでしょうし、そのさい個人的にご自身の霊的な力を示したり、教えられたこともあったでしょう。その結果、ある程度の数のサマリア人がイエスを信じるようになったとしても当然です。
 一方、ルカが伝えるフィリポのサマリア伝道は、イエス復活後の「主イエス・キリスト」を告知する宣教活動です。おそらく首都セバステで大規模な回心が起こり、その後のペトロとヨハネの巡回によって、サマリアに福音が浸透していきます。そのさい、イエスご自身によって信仰に導かれていたサマリア人がどのように関与したかは分かりません。ルカはヨハネ福音書を知らないで書いているようです。ルカとヨハネは、それぞれの構想で著述しています。両方の記事は、矛盾ではなく、それぞれ独立の別個の記事として、固有の位置と価値をもっています。

フィリポとエチオピアの高官

 サマリアで大きな働きをしたフィリポに、主の天使が現れ、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言います。ガザは、エルサレムから南東に下って地中海に出たところにある町です。命じられた行き先には、「そこは荒野である」(直訳)という説明がわざわざつけられています(八・二六)。それは、フィリポをガザに遣わすためではなく、エルサレムからガザに向かう荒野の中の道を旅しているある人物に出会わせるための天使の導きでした。
 フィリポが天使の言葉に従い、その道に行くと、エルサレムに礼拝に来て故国エチオピアに帰る途中の「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官」を見つけます(八・二七)。エチオピアは、エジプトのさらに南、ナイル川上流地域の王国です。エジプトの王が「ファラオ」と呼ばれていたように、エチオピアの女王は「カンダケ」という称号で呼ばれていました。その王国の財務長官ともいうべき高官が、エルサレム神殿での礼拝に来ていて、ガザを経由してアフリカにある故国エチオピアに帰る途中でした。
 ナイル川上流、エジプトからもはるか南にあるエチオピア王国の高官が、エルサレム神殿に巡礼として参拝するということは、不思議なことに感じられますが、これは当時の状況からすると、けっしてありえないことではありません。エチオピアは、旧約聖書では「クシュ」と呼ばれ、古代イスラエルと様々な形での交流があったようで、ユダヤ教に似た制度もあったとされています。古代のエチオピア人は、ソロモンとシバの女王との間にできた子によって創設された国であると信じていました。ナイル川上流のスエネ(現在のアスワン)や、ナイル川上流の島エレファンティンには、すでに何世紀も前から大きなユダヤ人植民地があり、隣接地域にもユダヤ教を広めていました。それに、(ストラボンによると)エチオピア人は一種の創造神信仰を持っており、聖書の神を受け入れることが容易であったと考えられます。知性の高いエチオピア宮廷高官が、倫理性の強い一神教のユダヤ教に惹かれて聖書を学び、改宗するまでには至らないが「神を敬う者」という形でユダヤ教に加わり、祭りのときには巡礼としてエルサレム神殿に参拝することは十分ありうることです。
 この高官は「宦官」でした。女王の宮廷に仕える役人は宦官(去勢された男性)が多くいました。このような男性は主の民に加わることはできないので(申命記二三・二)、この高官は割礼を受けてユダヤ教への「改宗者」となることはできず、異邦人のままで、礼拝に参加したり、ある程度のユダヤ教徒との交わりを認められた「神を敬う者」であったのです。ユダヤ教は、固有のユダヤ教徒の周辺に、このような異教徒で「神を敬う者」を多数集めていました。この階層の人たちが、これからの福音の進展にきわめて重要な役割を果たすことになるのですが、この宦官のエチオピア人高官は、その第一号となるわけです。また、イザヤ書(五六・三〜五)の終末預言が彼において実現し始めたことになります。
 フィリポが御霊に促されて、この高官が乗っている馬車を追いかけていくと、エチオピア人高官が預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえてきます。フィリポが「読んでいることがお分かりになりますか」と言うと、宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼みます(八・二八〜三一)。敬虔な高官は、巡礼の旅にイザヤ書の巻物を携えて行き、往復の馬車の中で朗読していたのでしょう。朗読していたイザヤ書は七十人訳ギリシア語聖書のイザヤ書であったと考えられます。彼も当時の共通語であるギリシア語を話し、ギリシア語系ユダヤ人であるフィリポと直接ギリシア語で話し合えたはずです。
 このエチオピア人高官が朗読していたのはイザヤ書五三章でした。ルカは、その中の七節後半から八節前半の部分だけを引用しています(八・三二〜三三)。高官が朗読していたのはこの部分だけでなく五三章の全体でしょうが、ルカはこの章を指すのに、その中の「主の僕」の姿を典型的に描く部分を引用して、イザヤ書五三章の「主の僕」が話題になっていることを伝えています。

ルカが引用している部分は、正確に七十人訳ギリシア語聖書と一致しています。ルカがこの訳を用いて著述している以上、一致は当然であって、エチオピア人高官が七十人訳ギリシア語聖書を用いていた証明にはなりませんが、高官が置かれていた歴史的状況から、彼はこの訳を用いていたとするのが順当でしょう。

 ここのルカの引用の仕方から、贖罪を指し示す部分が含まれていないとして、ルカの贖罪論の特色を議論することは適切ではないでしょう。ルカは、「主の僕」の姿を指し示す典型的な「小羊」の部分を引用して、五三章全体が話題になっていることを伝えようとしているだけです。
 宦官はフィリポに、「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」と尋ねます(八・三四)。預言者イザヤが五三章で語っている「僕」とはだれを指しているのか、古来議論の絶えない問題です。これが預言者自身を指しているとする理解も、ユダヤ教ラビの時代から現代まで続いている有力な解釈です。しかし、だれか他の人を指していることも考えられます。その候補も、エレミヤなど多くの名があげられて議論されてきました。この「僕」の姿は、イスラエルに与えられた預言を真剣に考える敬虔な人たちにとって、長年の謎でした。この高官は、人里離れた荒野で突然現れたフィリポを神からの使者と感じたのでしょう、「どうぞ教えてください」と教えを乞います。
 「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせ」ます(八・三五)。フィリポは高官の質問に答えて語りはじめます。おそらくフィリポは、この箇所から説き起こし、聖書全体にわたって、十字架につけられ三日目に復活したイエスこそ、聖書の預言を成就するメシアであることを詳しく語ったのでしょう。これは、ルカの福音提示の仕方です(ルカ二四・二六〜二七、四四参照)。
 最初期の共同体は、イエスの出来事を聖書の成就であるとして福音を語りましたが、その中でイザヤ書五三章が中心的な位置を占めていたことは十分推察することができます。とくに、メシアであるイエスが十字架につけられて死んだという事実は、このイザヤ書五三章の「主の僕」の預言から、その意義が理解され、宣べ伝えられました。その歴史的事実を、ルカはこのような物語の中に組み込んで伝えています。このような伝え方も、ルカの実に巧みな構成であると言えます。
 フィリポが聖書に基づいて諄々と語るのを聴いて、このエチオピア人高官はイエスを信じ、フィリポに求めて自ら進んでバプテスマを受け、イエスをメシア、神の子キリストと信じることを言い表します(八・三六〜三八)。当時のバプテスマは水の中に浸される形で行われました。荒野を通る寂しい道で、ようやく水のあることろを見つけて、彼はフィリポからバプテスマを受けます。
 ところが、「彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去って」しまいます。宦官はもはやフィリポの姿を見ることができず、その不思議な出来事に途方にくれたことと思いますが、内にあふれる御霊の「喜びにあふれて旅を続け」、はるか南の自分の国エチオピアに帰って行きます。彼が喜びにあふれたのは、聖霊がもたらす信仰の喜びに加えて、宦官の体でありながら、神の民に加えられたことに対する感激もあったことでしょう(八・三九)。
 なお、この物語は、二人の弟子がエマオへ向かう道で、見知らぬ旅人から聖書の解き明かしを受け、それがイエスだとわかったとき、イエスの姿は見えなくなったという福音書の物語(ルカ二四・一三〜三五)と対応しています。ここでも、ルカ二部作の第一部と第二部の対応関係が見られます。

その後のエチオピア

 この高官がエチオピアに帰国してからのことは、確実なことは分かりません。ただ、後代にこの高官について様々な聖者伝説的な物語が形成され、彼は女王にもバプテスマを施したとか、殉教して葬られた後にも奇跡が起こったというような物語が伝えられているようです。おそらく、このような聖者伝説は、エチオピアがキリスト教の国になってから、聖書に伝えられているこの高官がエチオピアに最初にキリストの福音をもたらした人物として聖者化され、彼についての伝説が形成されたのでしょう。
 エチオピアは世界でもっとも古いキリスト教国の一つですが、エチオピアにおけるキリスト教の始まりは霧の中にあるようで、明確ではありません。新約聖書時代のエチオピアは、前三〇〇年頃から始まるメロエ王朝が支配する国であり、この王朝の女王が「カンダケ」と呼ばれていました。しかし、この王朝の時代にエチオピアがキリスト教化されたということは確認できません。三五〇年にメロエ王朝を滅ぼしたエザナ王が、ティルスから来た二人のキリスト教徒兄弟によって国をキリスト教化したとされています。その後の数百年間に聖書がエチオピア語に翻訳されますが、その中には他の翻訳では失われてしまっている貴重な外典(ヨベル書、エノク書など)が含まれています。
 七世紀以降のイスラームの侵入によってエチオピア教会は圧迫されますが、エチオピアのキリスト教徒は地下や絶壁に教会を造り、信仰を守り抜きます。国の指導勢力としてのキリスト教会は、王朝の変遷、エジプトのコプト教会やヨーロッパのカトリック教会との確執、現代の社会主義革命などを経て、紆余曲折の道をたどりますが、エチオピアはもっとも古いキリスト教国としての伝統を保持しています。
 中世には、ヨーロッパのキリスト教徒がエチオピアを「プレスター・ジョンの国」と呼んだ時期もありました。中世のヨーロッパ・キリスト教国に「プレスター・ジョン」伝説が流布しますが、これは「プレスター・ジョン」というキリスト教徒が東方に大きな国を建設し、彼がその強力な軍を率いて聖地エルサレムを奪回し、キリスト教徒をイスラームの脅威から解放するという伝説です。はるかに遠いキリスト教国のエチオピアが、この伝説の国とされたこともあったのです。
 ルカの時代には、エチオピアはヘレニズム世界の南の果てと見られていました。ルカは、サマリアに続いてエチオピアに福音が伝えられた記事を置くことで、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで」(一・八)の福音の進展の中で、福音が少なくとも南の地の果てにまで届いたことを示唆しようとしたのでしょう。東の果てのインドには使徒トマスが福音を伝えたとされています。パウロは西の果てのイスパニアにまで福音を伝えることを生涯の使命とします。このように、使徒時代には「地の果てまで」福音を伝えることは具体的な目標でした。

その後のフィリポ

 その後のフィリポの行動についてルカは、「フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った」と、簡潔に伝えるだけです(八・四〇)。
 「フィリポはアゾトに至って見出された」(直訳)は、フィリポが神の霊によるエクスタシーの状態のままアゾトまで連れて行かれ、そこで我に返ったことを指しているようです。アゾトはガザの北東約30キロにある町で、エルサレムからほぼ真西に地中海に出た位置にあります。「エルサレムからガザに行く道」は、はじめエルサレムから西に向かいますが、その途中の寂しいところでフィリポはエチオピア人の高官と出会い、そのあと西に導かれてアゾトに着いたようです。
 フィリポはアゾトから「海の道」を北に向かい、地中海沿岸の諸都市で福音を告げ知らせながら旅を続け、カイサリアに至ります。その途中にある都市には、後にペトロが巡回して訪ねたリダやヤッファ(九・三二〜四三)が含まれます。ペトロがこれらの町を訪れたときには信者がいたのですが、これはこの時のフィリポの福音活動で集会が形成されていたことを示しています。ルカは、サマリアの場合と同じく、これらの沿岸諸都市の集会の形成をフィリポには帰せず、後で監察のためにエルサレム共同体から派遣されたペトロに帰しています。これは、先に見たように、最初期の福音活動をエルサレム共同体の統率の下に行われた統一的な運動として描くルカの視点によるものです。
 カイサリアに到着したフィリポは、当時パレスチナ第一の都市であり、総督府所在地であるこの都市に腰を据えて福音活動を進めます。後にパウロが最後のエルサレム訪問をする途中でカイサリアに立ち寄り数日滞在しますが、そのときパウロはフィリポの家に泊まっています(二一・八)。これは五六年のことですから、フィリポは二〇年以上にわたってカイサリアを根拠地にして伝道活動をしたことになります。ルカの記事からも、この時カイサリアにはかなりの規模の集会があったことがうかがえます。
 フィリポには「預言をする四人の未婚の娘」がいたと伝えられています(二一・九)。この事実からすると、フィリポ自身も預言の賜物が豊かなカリスマ的な「福音告知者」だったことが推察されます。年代的には、フィリポはカイサリアに落ち着いた後に結婚したと考えられます。晩年のフィリポはアジア州で活動し、ヒエラポリスで死んで葬られたという伝承が、二世紀の教父によって伝えられています。おそらく六〇年代のユダヤ戦争による混乱期に、アジア州に移住したものと推察されます。