市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第12講

第二節 エルサレム共同体の発足

T 生まれたばかりのエルサレム共同体

ルカの記事

 五旬節(ペンテコステ)の日に、地中海世界の各地から集まったユダヤ教徒の巡礼者たちに、ペトロらガリラヤのイエスの弟子たちは聖霊の力に溢れて、先の過越祭のとき十字架につけられたイエスを、神は死者の中から復活させて、「主キリスト」としてお立てになった、と宣教の第一声を上げました。そして、悔い改めて(=このイエスを拒み死に至らせた罪を悔い改めて)、イエスを主キリストと信じるように説き勧めました。そして、このペトロの勧めの結果が次のようにまとめられていました。

 41 ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(二・四一〜四二)

 この結果は前回見たところですが、ルカはこのペトロの説教によってイエスを主キリストと信じた人たちの共同体の姿を、さらに次のように記述しています。この部分(二・四一〜四七)は、ペンテコステの日に成立したエルサレム共同体の成立直後の姿を記述する段落として一体です。

 43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行なわれていたのである。44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。(二・四三〜四七)

 この段落(二・四一〜四七)から、エルサレムに成立したばかりのイエスを信じる者たちの共同体の姿が垣間見られます。以後この共同体を「エルサレム共同体」と呼んでいきます。
 「垣間見られる」と言ったのは、この記事はあくまでルカによる要約記事であって、その根拠になる資料は不明であり、資料から確認できることは多くないからです。もちろんこれはルカの作文ではなく、ルカは何らかの形でエルサレム共同体にかかわる伝承を用いているのでしょうから、ルカの記事を手がかりにし、かつルカ特有の傾向を透かして、この時のエルサレム共同体の姿を推察しなければなりません。

バプテスマ

 ペトロが告知する福音の言葉を受け入れた者は、ペトロの勧めの言葉(三八節)に従ってバプテスマを受けて、イエスを信じることを言い表し、それによって「仲間に加わった」とされます(四一節)。ここですでにバプテスマが共同体への加入儀礼として扱われています。
 イエスはごく初期に洗礼者ヨハネと同じくバプテスマを授ける活動をされましたが、洗礼者ヨハネの運動から離れて、ガリラヤで独自の宣教活動を始められてからは、バプテスマを授けず、バプテスマについて教えたり語ることもなく、弟子たちを宣教に派遣するときもバプテスマを授けるように命じておられません。にもかかわらず弟子たちがイエス復活後の宣教において、イエスを信じる者にバプテスマを授けるようになったのはなぜか、またいつ頃からかが議論されていますが、ここでその議論に立ち入ることはできません。パウロの時代にはすでに、バプテスマは広く信仰告白の行為として行われており、パウロは集会員は当然バプテスマを受けているとして、その意義について語っています。それ以来ルカの時代まで、バプテスマはキリスト信仰共同体に加わる者が当然受けている加入儀礼として扱われてきました。ルカはそのバプテスマを、当然のように共同体成立の当初にまで遡らせ、このペンテコステの日から行われている加入儀礼として扱います。
 ルカは「ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」と書いていますが、一日に三千人もの人がエルサレムでバプテスマを受けたことは想像することが困難です。バプテスマは当然水の中に浸される形で行われたはずですが、エルサレムにはヨルダン川のような川はありません。エルサレム共同体が集まったシオン地区には、エッセネ派の沐浴用の水槽跡が何カ所か発掘されていますが、そのような規模の水槽で一日に三千人がバプテスマされることは不可能です。ルカの記事は実際にあったことの報告というよりは、イエスを信じる者の共同体に加入するにはバプテスマを受けることが当然となっていたルカまでの時代の理念を、最初の日にまで遡って表現したものと言えます。
 最初期のエルサレム共同体が行ったバプテスマは、洗礼者ヨハネのバプテスマが原型となっていることは間違いありません。イエスご自身もほとんどの弟子たちもヨハネからバプテスマを受けています。そして、洗礼者ヨハネと同じく神の支配到来の切迫の使信をイスラエルに宣べ伝えてきました。バプテスマはその使信への応答です。ただ、弟子たちがイエスの復活後に行ったバプテスマは、洗礼者ヨハネのバプテスマと決定的に違う点があります。それは「イエスの名による」バプテスマであることです(二・三八)。イエスの名によるバプテスマを受ける者は、イエスに所属する者であることを公に言い表すのです。こうしてルカの記事は、この日エルサレムにイエスに属する者たちの共同体が呱々の声をあげたことを物語ることになります。

ここで「イエスの名」に用いられている前置詞は《エピ》(の上に、に基づいて)ですが、《エン》(において、によって)もよく用いられます。とくに《エイス》(の中へ)の用例が典型的であり、重要です。どの前置詞を用いても、バプテスマはその名が指す方に所属する者になることを公に表明する行為であることには変わりはありません。後にバプテスマが「父と子と聖霊の名による」バプテスマになることについては(マタイ二八・一九)、別の機会に触れることにします。

 もう一つ、イエス復活後のバプテスマが洗礼者ヨハネのバプテスマと決定的に違う点は、このバプテスマには「賜物として聖霊を受ける」約束が伴っていることです(二・三八〜三九)。これはバプテスマという儀礼の効果として聖霊が授与されるということではなく、バプテスマを受けることが象徴するように、イエスに所属する者として自分の全存在をイエスに引き渡す者には、神は無条件に聖霊を与えてくださるという約束です。
 ペンテコステの日にバプテスマを受けた多くの人たちに聖霊が注がれたことは明記されていませんが、この段落に散見する「熱心」とか「喜び」とか「心を一つにして」というような表現に、聖霊によって高揚したこの時の共同体の姿がうかがわれます。先に見たように、ペンテコステの日には、弟子たちだけでなく聴衆にも聖霊の注ぎがあり、この日のエルサレムは一種の(現代の用語でいえば)リバイバル運動を見ることになったといえるでしょう。

パンを裂く集まり

 このようにイエスに所属する者となった信者たちの信仰生活はどのような形をとったのでしょうか。その様子は「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」と描かれています(四六節)。神殿のことは後で扱うことにして、ここではまず「家ごとに集まってパンを裂き、一緒に食事をしていた」という記事に注目します。「毎日ひたすら心を一つにして」という句は「神殿に参り」だけにかかるのではなく、「家ごとに集まってパンを裂き、一緒に食事をしていた」ことにもかかると読めます。信じた者たちは、心を一つにして毎日「家ごとに集まってパンを裂き、一緒に食事をしていた」のです。彼らがいかに「相互の交わりに熱心」(四二節)であったかがうかがえます。
 ここで「パンを裂く」ことと「一緒に食事をする」ことが別にあげられています。食事を始める時にパンを裂いて神に感謝の祈りを捧げることは、当時のユダヤ教徒の習慣であり、イエスも弟子たちとの食事のときにそうしておられました。とくに最後の晩餐においてイエスがパンを裂き、神に感謝を捧げ、弟子たちにお与えになった光景と言葉は、忘れることができない強烈な印象を残していたはずです。また、復活されたイエスが弟子たちに現れて食事をされたとき、パンを裂いて弟子たちに手渡しておられます(ルカ二四・三〇、ヨハネ二一・一三)。弟子たちが「パンを裂く」という句を用いるとき、このイエスとの食事、とくに最後の夜の食事を引き継いでいるという気持ちを示していると考えられます。
 しかし、パンを裂くことは食事の始まりであり、食事と別のことではありません。後の時代には、裂かれたパンと回される杯で行われる「聖餐」と会食が区別されるようになりますが、この区別を最初期の共同体に持ち込むべきではありません。信者が家ごとに集まってした共同の食事は、最初期の集会の中心的な営みでした。それは、自分たちが共にイエスの仲間であることを確認する信仰生活の中心行事でした。また、このイエスの名による共同の食事は、終末時のメシアの饗宴を先取りする食事として、来臨待望の表現でもあったはずです(コリントT一一・二六)。このように彼らが「家ごとに集まって、パンを裂き、一緒に食事をした」ことは、後の時代の「家の集会《エクレーシア》」の原型となります。

財産の共有

 このような毎日の共同の祈りの生活が成り立つためには、何らかの生活の基盤がなければなりません。とくに使徒たちをはじめガリラヤから来た信者たちは、エルサレムに生業とか生活の基盤がありません。そのことが、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(四四〜四五節)と描かれています。財産の共有の上に成り立つ生活共同体が実現したのです。
 この財産の共有が単なる理念ではなく実際の出来事であったことは、後でバルナバの資産提供やアナニアとサフィラの事件を実例としてあげて、詳しく具体的に記述されています(四・三二〜五・一一)。どうしてこのような過激な変革がごく短時日の間に実現したのでしょうか。それは、ルカは書いていませんが、主の来臨《パルーシア》が迫っているという熱烈な待望があったからだと推察されます。
 最初期のエルサレム共同体が熱烈なキリスト来臨待望の集団であったことは、本書で見ていくことになりますが、序説の「ルカ二部作の成立」で述べたように、ルカはキリストの来臨が起こらないという現実に直面しなければならなくなった時代に、これから歴史の中を歩んで行かなければならない《エクレーシア》のために新しい救済史の枠組みを提示しようとして書いているので、《エクレーシア》の原型ともいうべきエルサレム共同体を熱烈な来臨待望の集団として描くことはできないのです。ルカはエルサレム共同体を、あくまで聖霊の力に溢れて復活の主を証しする集団として描きます(四・三二〜三三)。
 しかし、イエスを信じる者たちが進んで財産や持ち物を売り払って共同生活の資に提供したという事実は、エルサレム共同体が差し迫ったキリストの来臨を待ち望んで一日一日を過ごしていたことを示しています。使徒たちは信者に資産を提供することを決して強制しませんでした。それは、各自の信仰から出る自発的な行動でした(五・四)。イエスを信じ、その来臨を間近に待ち臨む信者たちは、主の来臨のときに主に喜ばれるために進んで資産を提供して、共同体の祈りと証しの活動を支えたのです。
 エルサレム共同体が主の来臨を熱烈に待望する集団であったことは、「マラナ・タ」というアラム語の合い言葉が伝承されている事実が示唆しています。このアラム語は「主よ、来たりたまえ」という祈りか、または「主は来たりたもう」という宣言の言葉とも理解できますが、このパウロ書簡(コリントT一六・二二)が伝えているアラム語の祈りは、「アッバ」と並んで、ギリシア語世界に伝えられた数少ないアラム語の祈りの言葉です。それがアラム語であることは、それがエルサレム共同体から出ていることを示しています。最初期のエルサレム共同体の信者たちは、互いに「マラナ・タ」と呼び交わして、イエスに対する信仰を確かめ合い、励まし合って、キリスト来臨の待望に生きたのだと推察されます。そのアラム語の合い言葉が、ギリシア語世界でもギリシア語に訳されることなく、「アッバ」と共に、貴重な信仰の遺産としてギリシア語の異邦人世界に継承されたと考えられます。
 エルサレム共同体が発足のごく当初から財産を共有する共同体であったことは、エッセネ派の影響を考えることもできます。先に見たように、エルサレム共同体はシオン地区に集まったと見られますが、その地区にはエッセネ派の共同体も活動していました。エルサレムのエッセネ派がどのような共同体の形を取っていたかについては議論がありますが、クムランのエッセネ派共同体に見られるように、エッセネ派には資産共有制の理念があったことは確かです。エルサレム共同体は当初からエッセネ派共同体と親密な関わりがあり、組織形態など共同体の形成にあたってエッセネ派から影響を受けた形跡があります。ペンテコステの日以来、エッセネ派の入信者が多くいて、彼らの影響で資産の共有も自然に行われたと推察することもできます。もっともエッセネ派共同体に加入する者は教団規律に従うかどうかを試す二年間の試験期間を経た後に入会を認められ、資産を提供したのですが、エルサレム共同体では間近な来臨に備えて、入信後すぐに資産を差し出して共同生活に入った点で、エッセネ派と大きく異なります。
 この最初期のエルサレム共同体に見られた資産共有の共同生活を「原始共産制社会」と呼んだ時期もありましたが、これはまったくの見当違いです。この財産共有には生産手段の公有という面は全然ありません。これはあくまで切迫した終末に備えるための信仰による無私の財産共有制であり、生産活動に関する経済制度とは関係がありません。
 このような生産を伴わない資産の共有に基づく共同生活は、長年にわたって維持することはできません。資金はいずれ枯渇します。エルサレム共同体は発足後ほぼ二〇年後の五〇年前後の時期には、当時成立しつつあった異邦人諸集会からの献金による支援を必要とするに至っていました(ガラテヤ二・一〇)。パウロはこの要請に応えて、自分が形成した異邦人諸集会からエルサレム共同体のために献金を集める困難に満ちた活動を進めることになります。

ユダヤ教内のキリスト信仰

 発足当時のエルサレム共同体の姿を描くルカの記事に、もう一つ注目すべき記述があります。ルカは、イエスを信じた者たちは「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」と書いています(四六節前半)。ここでルカは「神殿にお参りする、詣でる」と書いています。ここで「お参りする」と訳されている動詞は、四二節で「〜に熱心であった」と訳されている動詞と同じで、ある事柄に「固く立つ、しっかりと続ける」というような意味合いの動詞です。イエスを信じたエルサレム共同体の信者たちは、使徒たちも含めて、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り(あるいは、詰めて)」、神殿の祭儀にあずかり、祈りを捧げるという礼拝行為を、熱心に、しっかりと続けていたのです。
 エルサレム共同体の成員は全員ユダヤ人、すなわちユダヤ教徒ですから、彼らが神殿に詣でたのは当然であり、とくに注目すべきことではないかもしれません。しかし、彼らが「毎日神殿に詰めて」礼拝行為を熱心に続けたという記述は、彼らの来臨待望によるものではなかったかという点で、吟味を必要とする問題です。当時イスラエルを救うメシアは神殿に現れるという待望があったとも伝えられています。彼らの動機を特定することは困難ですが、少なくとも彼らが神殿での礼拝に熱心であった事実は、彼らがユダヤ教徒としての生活を継続することに何の疑念もなかったことを示しています。
 彼らはイエスをメシア・キリストと信じたのですが、その信仰によってユダヤ教を捨てたとか、ユダヤ教から離れたわけではありません。キリスト教という新しい宗教に改宗したのではありません。まだキリスト教は存在しません。彼らは熱心なユダヤ教徒のままです。イエスをメシア・キリストと信じることによって、ユダヤ教の中に新しい信仰運動を始めたのです。彼らは「ユダヤ教イエス派」とでも呼ぶべき共同体です。
 後にイエスを信じるユダヤ教徒は、当時のユダヤ教指導層から「ナザレ人らの異端」と呼ばれて異端扱いを受けることになりますが(協会訳二四・五)、当初はユダヤ教内部の特別なメシア信仰の運動として、周囲のユダヤ教徒たちからその熱心さが注目される存在でした。ルカは、彼らのユダヤ教徒としての新しい生き方は「民衆全体から好意を寄せられた」と書いています(四七節)。この記述は、エルサレム共同体が、エッセネ派がそうであったように、ユダヤ教律法順守(この場合は神殿礼拝)の熱心さのにゆえに一目置かれていたことを示唆しています。
 エルサレム共同体が、当初だけでなく最後の時期に至るまで神殿の祭儀に積極的に参加していたことは、五〇年代半ばにパウロが献金を携えてエルサレムを訪れた時に、エルサレム共同体を代表するヤコブがパウロに神殿での清めの祭儀にあずかるように勧め、パウロがそれに従っている事実からも分かります(二一・一七〜二六)。エルサレム共同体は、最初から最後まで、エルサレム神殿での礼拝を中心とするユダヤ教に忠実なユダヤ教徒の共同体でした。このように、ユダヤ教の内部でイエスをメシア・キリストと信じるキリスト信仰は、「ユダヤ教内キリスト信仰」と呼ぶことができると思います。
 ユダヤ教徒としての生活は、神殿での礼拝だけでなく、会堂での信仰生活も重要な活動です。エルサレムにも多くの会堂があり、エルサレム在住または在留のユダヤ教徒は、各自所属の会堂に安息日ごとに集まり、律法の学びと祈りを続けていました。会堂がユダヤ教徒の生活の重要な拠点であることは、エルサレムでも変わりません。この会堂での活動において、エルサレム共同体は重大な局面を迎えることになるのですが、それは次章の課題になりますので、ここではユダヤ教徒として会堂での信仰活動も続けられていたことを指摘するにとどめます。

十二使徒の指導

 誕生したばかりのエルサレム共同体の姿について要約した文に、「彼らは、使徒の教え・・・・に熱心であった」(四二節)という句がありました。エルサレム共同体のユダヤ人たちは、ユダヤ教徒としての生活に忠実であっただけでなく、「使徒たち」の教えに耳を傾け、その教えに従うことにも熱心であったとされています。
 イエスが自分に従う弟子たちの中からとくに十二人を選び出して身近に置かれたことは事実ですが、その十二人を「使徒と名付けられた」として(ルカ六・一三)、イエスの地上の働きの時期からこの十二人を「使徒」と呼ぶのはルカだけです。他の三福音書では「使徒」という名称はいっさい出てきません。彼らはいつも「弟子」と呼ばれています。

マルコ三・一四の「使徒と名付けられた」は、後代の写本の段階でのルカ六・一三からの転記と見られ、マルコ六・三〇は「遣わされた者たち」と訳すべき用例です。

 最初期のキリスト信仰共同体で、指導層の特定の範囲の人たちが「使徒」と呼ばれ、その特別の権威が認められていたことは、パウロ書簡や使徒名書簡から十分確証できます。しかし、誰が「使徒」と呼ばれるのかという範囲の問題や、その働きや権威の性格、さらにそのような権威ある立場がいつごろに確立したのかという時期の問題は、様々に理解され、議論が続いています。ここではその議論に立ち入ることはできませんので、ルカ二部作における「使徒」という名称の用法にしぼりますと、ルカはイエスご自身が選ばれた十二人だけを「使徒」と呼び、それ以外の人物を使徒と呼ぶことはありません。パウロでさえ、ルカは使徒と呼んでいません。
 ルカは、イエスが「十二人を選んで使徒と名付けられた」とした後は、福音書でこの十二人を使徒と呼んでいますので、使徒言行録においても初めから彼らを「使徒」と呼んでいます。ルカにおいては、使徒はこの十二人だけですから、イエスを裏切ったユダが欠けた後、くじによって一人を補い、「十二使徒」を維持することになります(一・一二〜二六)。こうして、イエスご自身によって選ばれて使徒とされた十二人が、イエスの復活後に成立した共同体の信仰に責任を担う指導者となります。
 このようにして立てられた「使徒」の任務は、イエスが復活されたことの証人であることと、イエスの教えを継承して新しく成立した共同体に伝えることです。ペトロを代表とする十二使徒たちは、ペンテコステの日にイエスが復活して主キリストとして立てられたことを証言した後、このイエスを信じて成立した共同体に、イエスの教えを伝えて、イエスに従うように教えます。
 これまでに見たように、使徒の教えに熱心に耳を傾けている人たちはすべてユダヤ教徒です。彼らは聖書(旧約聖書)を神の啓示と信じ、その律法に従うことに熱心な人たちばかりです。したがって、使徒たちの教えは、その聖書について、また律法に従うことについてのイエスの言葉を伝え、イエスがその教えと働きで示された新しい解釈を教えることが内容となります。こうして使徒たちの働きは、賜っている聖霊の力によって病気をいやすなどの力ある業でイエスが復活して生きておられることを力をもって証しすることと、イエスの言葉と働きを伝えて、イエスに従う生き方を教えることの二つになります。後者は「イエス伝承」の保持と継承と言ってもよいでしょう。使徒たちの任務のこの二つの面は、「病人をいやし、会堂で教えられた」イエスと同じ働きを継承することになります。
 それで本稿の次の課題は、使徒たちが行った働きのこの二つの面を描いて、成立したばかりのエルサレム共同体の進展をたどることがその内容となります。

U エルサレム共同体の伝道活動

使徒たちによる奇跡(三・一〜一〇)

 最初期のエルサレム共同体の姿を描くルカの要約文の中に、「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行なわれていたのである」という文がありました(二・四三)。そのような不思議な業としるしの中の代表的な事例として、ルカはエルサレムでの使徒たちの働きを語る三章以下の箇所の最初に、神殿での足の不自由な人のいやし(三・一〜一〇)を置きます。この記事や次のペトロの説教の記事(三・一一〜二六)は、最初期のエルサレム共同体が「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参っていた」状況をよく伝えています。
 ペトロとヨハネは「午後三時の祈りの時に神殿に上って」行きます。律法の規定では、「毎日、朝夕に羊を一匹ずつ、日ごとの焼き尽くす献げ物として」捧げるように定められていました(民数記二八・三〜四)。夕べの献げ物を捧げる時間が「午後三時」で、それが「祈りの時」とされ、敬虔なユダヤ教徒は神殿に詣でて祈りを捧げました。ペトロとヨハネもこの祈りの時刻に神殿に上っていきます。丁度その時刻に、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来ます。彼は自分で歩けないので、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのです。「美しい門」という名の門は知られていませんが、おそらく神殿東側で異邦人の庭から婦人の庭に入る門がその美しさで有名であったので、その門を指すと見られます。
 ペトロとヨハネが一組で語られていますが、行動しているのはペトロだけです。ペトロはその物乞いの男を見つめ、自分たちを見るように声をかけます。まず視線でペトロと男がつながります。男は何か施し物がもらえるのではと期待してペトロを見つめます。するとペトロは、「施しとして与える金銀はわたしは持っていない。しかし、わたしが持っているものをお前にあげよう」と言って、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じます。ペトロが持っているものとは、「ナザレの人イエス・キリストの名」であり、その名によって(=その方の名代として)生まれながら足の立たない人に「立ち上がって歩け」と命じる権威と力です。
 そう命じると同時に、ペトロは男の右手を取って彼を立ち上がらせます。するとたちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、踊り上がって立ち、歩きだします。男の右手を取って立ち上がらせるペトロの行動は、ペトロの信仰を示しています。すなわち、ペトロはイエスの名によって命じたことはすでに起こっているということを疑うことなく、当然この男は立ち上がることができるのだという前提で行動しているのです。それに応えてこの立ち上がることのできるはずのない男が立ち上がろうとするとき、彼も信仰によって行動しているのです。このように二人がイエスの名を信じて行動するとき、その名が指し示す復活者イエスが行動してくださいます。その男は、踊り上がって立ち、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行きます。
 この出来事を目撃した神殿内のユダヤ人たちは「我を忘れるほど驚き」ます。この奇跡物語は、福音書に記録されている奇跡物語と同じく、この種の物語に典型的な構造を示しています。
  1 奇跡を行う者の状況(一節)
  2 奇跡を受ける者の困窮した状況(二節)
  3 困窮した者の嘆願(三節)
  4 奇跡を行う者がかける言葉(四〜六節)
  5 奇跡を行う者の不思議な行動(七節前半)
  6 驚くべき結果(七節後半〜八節)
  7 目撃者による奇跡の確認(九〜一〇節)
 ルカは、福音書の場合と同じく、共同体に伝承されている奇跡物語を用いて、病人をいやし神の国の福音を説かれたイエスと同じ働きを使徒たちも引き継いでいることを示すために、まずこの足の不自由な物乞いの男のいやしを語り、その次に「神の支配」の到来についての説教を置きます(ルカ五・一七以下を参照)。こうしてルカの二部作において、イエスの働きと使徒たちの働きは対応した形で記述されていきます。そしてさらに、このペトロの働きに対応して、パウロの働きも同じように、いやしの奇跡を示した後、福音を説くという形で進められていきます(一四・八以下を参照)。

ペトロの神殿説教(三・一一〜二六)

 生まれてから歩いたことのない男が、踊り上がって立ち、ペトロとヨハネの二人と一緒に境内に入っていきます。ただ、この「美しい門」を通って「境内に入った」のであれば、異邦人の庭から婦人の庭に入ったことになりますが、「ソロモンの回廊」は異邦人の庭の東側の列柱回廊だとされていますので、一一節以下のペトロの説教は、彼らが「境内に入る」前の出来事としなければなりません。あるいは、一度境内に入ったあと再び異邦人の庭に戻ってきた時のこととしなければなりません。足の不自由な人のいやしの記事は、四章のペトロたちの逮捕と尋問の記事に自然につながりますので、この「ソロモンの回廊」での説教の記事は、いやしと教えを続かせるために、ルカがやや不器用にここに挿入したと見る見方もあります。

当時の神殿の構造については、岩波版新約聖書U『ルカ文書』48頁にC・シックによる再構成図が引用紹介されていますので、それを参照してください。

 「ソロモンの回廊」は、異邦人も自由に入れる「異邦人の庭」にあるので、人々が集まる場所となっていました。イエスも、エルサレムではこの「ソロモンの回廊」で、ユダヤ人たちに語りかけておられます(ヨハネ一〇・二三以下)。使徒たちもここで神殿に集まるユダヤ教徒や「神を敬う」異邦人に教えを説きました。ここの表現や、エルサレム共同体のことを描く段落で、「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた」(五・一二)と言われていることから、最初期のエルサレム共同体は、普段は家ごとに集まっていた信者たちが一緒に使徒の教えを聴くときには、この「ソロモンの回廊」に集まったと推察されます。そうすると、エルサレム共同体は最初は神殿の中でその具体的な集会活動を進めていたことになります。要約文の「彼らは毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」という文が指し示す具体的な情景が思い浮かびます。
 奇跡を見て驚いて集まってきた民衆に向かってペトロは語りかけます。ペトロはまず、この不思議な出来事がペトロたちの超能力とか特別の敬虔さによるものではなく、イエスによるものであることを明らかにします(一二〜一六節)。
 ペトロは神殿に集まってきている人たちに、「イスラエルの人たち」と呼びかけています。イスラエルという呼び名は、ユダヤ人を神との契約関係にある民、神の約束を受けている民として見るときの呼び名です。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫として、この先祖たちに与えられた約束を受けつぐ民として呼びかけています。
 昔モーセがイスラエルの民を奴隷となっているエジプトから導き出すために遣わされたとき、モーセは「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた」と宣言しています(出エジプト記三・一五)。今ペトロがこの神の名を用いてイエスのことを語るのは、子孫をご自分の民として祝福すると先祖たちに約束された神が、その約束を実現するためにご自分の民の中に遣わされた僕がイエスであると言っているのです。イエスこそこの先祖の神から遣わされ、モーセによる出エジプトに較べられる働きを成し遂げるために遣わされた僕(神の意志の実行者)であると宣言しています。
 そして、イエスがこのように尊い地位の方であることが、「神はイエスに栄光をお与えになった」と表現されています。この表現は普通イエスの復活について用いられる表現ですが、ここではイエスが地上でなされた多くの奇跡を指していると考えられます。神はイエスを通してこのような驚くべき働きを現し、神がイエスと共におられることを示されたにもかかわらず、約束を受けつぐイスラエルの民がそのイエスを拒み、ついには殺してしまったのです。
 イエスの十字架上の死は、ローマの支配に反逆した叛徒の死(普通十字架刑はそれを意味します)ではなく、ローマが無罪であることを認めていたイエスを、約束の受け手であるイスラエルが(ローマ総督の手によって)殺した出来事である、すなわち、イエスの死は政治的な次元の出来事ではなく、約束された神と約束の受け手であるイスラエルの間で起こった救済史的な次元の出来事であることを明らかにします。
 そのさい、ペトロはイエスを「命への導き手である方」と呼んでいます。原語の「《ゾーエー》の《アルケーゴス》(第一の位置に立つ者、導く者)」が何を意味するのかについては議論がありますが、イエスはご自身が最初に死者の中から復活した方として「初めの者、死者の中から最初に生まれた方」(コロサイ一・一八)ですが、同時にそのような方として、ご自分に属する者たちを《ゾーエー》(復活の命、永遠の命)に導く方、救い主でもあります。イエスはそのような方としてイスラエルの民の中に来られたのですが、その「命への導き手」であるイエスをイスラエルは殺してしまいました。しかし、神はこの方を死者の中から復活させて、イエスに栄光を与え、イエスこそまことに「命への導き手」であることを示されました。ペトロは自分たちこそこのイエス復活の証人であると、この出来事の真実性を保証します。この人間の行為と神の行為の対照は、先のペンテコステ説教と同じ線上にあります。
 このように、つい先ほどイスラエルの民が拒否して殺したイエスこそが、今現に生きていて働き、目の前でこの生まれつき足の立たない人を完全にいやしたのだと、ペトロはこのいやしの事実をもって、イエスの復活とそれによって示されたイエスの救済者としての地位を論証します。この論証の最後で、このいやしの出来事を表現するペトロの語り方は示唆的です。一六節の文の主語は、「イエスの名」であり、「イエスによる信仰」です。イエスの名が、その名の信仰に基づいて、その人をいやしたのです。いやしの奇跡を行うのは「イエスの名」です。それは、その名が指し示している人格の行為です。このようにイエスの名によって命じられたことが起こったのですから、それはイエスの働きであり、それはイエスが今も生きておられることのしるしです。また、この奇跡の出来事は、先に見たように、このような生まれながら足の立たない人をも神は立たせてくださるという信仰がペトロにあったからですが、このような信仰は復活されたイエスの内に生き、イエスから賜るのでなければ起こりえません。その意味で、この男のいやしは「イエスによる信仰」によって起こった奇跡と言うことができます。
 前半(一二〜一六節)で、目の前で起こった奇跡が復活されたイエスによるものであることを示したペトロは、続いて後半(一七〜二六節)で、そのイエスを殺したイスラエルの民に、悔い改めてイエスを受け入れるように迫ります。 
 ペトロはイスラエルの民に「兄弟たち」と呼びかけ、彼らがイエスを十字架の死に追いやったのは、神のご計画について理解のない指導者に扇動されて行った無知の行為であると指摘して、悔い改めの余地を残します。その上で、メシア・キリストによって民を救われる神のご計画を語ります。
 イスラエルの民は無知から神が遣わされたメシアであるイエスを殺したが、それは、「すべての預言者の口を通してメシアが苦しむことを予告しておられた」神が、そのような人間の無知の行為を用いてご計画を実現された出来事である、とペトロは説きます。このペトロの言葉は、イエスの十字架死は救済のために神が定められたメシア・キリストの受難であるとする理解の仕方が、エルサレム共同体でごく初期から確立していた理解であることを示しています。

このペトロの神殿説教で、原文の《ホ・クリストス》を、新共同訳は「メシア」と訳しています。ペトロが当時のユダヤ人にアラム語で語ったときには、当時のユダヤ教での用語である「メシア」を用いて語ったはずですから、この訳は正しい訳です。しかし、先のペンテコステ説教の最後の用法で説明したように、復活後のイエスの称号として、《キュリオス》と併置される《クリストス》は、もはやユダヤ教の「メシア」では納まりきれないので、やはり(協会訳のように)「キリスト」と訳すべき理由があります。しかし、このペトロの神殿説教は、歴史的にはまだユダヤ教の枠内での出来事ですから、「メシア」という訳も十分理由があります。このような過渡期の用例については、「メシア・キリスト」という二重の表記も許されるでしょう。

 このように、イエスは神の定めにより苦しみを受けたメシアであるのだから、そのメシアを殺した罪を悔い改め、イエスをメシア・キリストとして受け入れ、それによってメシアを殺した罪が消し去られるように立ち返りなさい、とペトロは民に説き勧めます。そうすれば、すなわち、イスラエルが悔い改めて罪を消し去られるならば、「主のもとから慰めの時が訪れる」と言って、悔い改めを促します。
 この「慰めの時」は、主が「イスラエルのために前もって定めておられたメシア」としてのイエスを遣わしてくださる時です。それは、後にキリストの民が「キリストの来臨《パルーシア》」として語るようになる時のことです。その時にこそ苦難の中を歩んできたイスラエルの民に「慰め、休息」が訪れます。この時は未来です。まだ来ていません。
 この「慰めの時」の到来を待ち望む姿勢は、当時のユダヤ教共通の希望でした。ただ、その希望の根拠が違いました。ファリサイ派の人たちは、イスラエルが律法を完全に順守すれば、主はその時を到来させると教え、民に律法順守を励ましました。それに対して、イエスをメシアと信じたエルサレム共同体(ユダヤ教イエス派)は、イスラエルがイエスをメシアとして受け入れるならばその時が来るのだと告知しました。民のために死なれたメシアであるイエスによって罪が消し去られるからです。
 その時がまだ到来しないのは、今がまだ神が定められた「万物更新の時」でないからです。その時までメシア・キリストであるイエスは「天にとどまることになっている(そう定められている)」からです。《デイ》(〜しなければならない、〜する定めになっている)という用語が示唆するように、これはユダヤ教黙示思想の世界です。神による救済の出来事は、人間には隠されているが、神の御旨の中で定められているご計画に基づき、定められた時に従って実現する定めになっているという思想世界です。ルカはこのことを、「神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた」ことと表現しています。

「万物の更新」という表現は、新約聖書ではここだけに出てくるルカ独自の用語です。しかし同じような内容を語る箇所は他にもあります。たとえば、パウロはローマ八・一八〜二一で、将来全被造物が滅びへの隷属から解放される「神の子たちの顕現」の日のことを語っています。共に黙示思想的な終末待望の表現です。

 この箇所(一九〜二一節)はきわめて終末的・黙示思想的です。この箇所の表現には、ルカ独自の用語法が多く見られ、ルカの手で書かれたことをうかがわせますが、内容は最初期のエルサレム共同体の来臨待望の姿勢をよく伝えています。エルサレム共同体は周囲のユダヤ教徒たちに、神が死者の中から復活させたイエスこそ、メシア・キリストとしての栄光をもってやがて世界に来臨し、イスラエルを栄光に導く方であることを告知しました。
 最後にペトロは、聖書の預言を引用して、預言者の子孫であり、神が先祖たちと結ばれた契約の子であるイスラエルの民に、神がお立てになり、イスラエルに遣わされた「神の僕」であるイエスを受け入れるように、強く説き勧めて告知の言葉を締めくくります(二二〜二六節)。
 このペトロの神殿説教は、先のペンテコステ説教と一組で、十二使徒と彼らに率いられるエルサレム共同体が、同胞のユダヤ人たちに宣べ伝えた福音の内容がよく要約されています。ルカ独自の用語や表現、また思想傾向があるとしても、ルカが伝えているこのような最初期エルサレム共同体の伝承から、地上に呱々の声を上げた時期のキリストの民が告知した福音の姿を垣間見ることができます。その内容は、本章の最後でまとめることにします。

V 迫害下のエルサレム共同体

ペトロとヨハネの逮捕と尋問(四・一〜二二)

 ペトロとヨハネが神殿内の「ソロモンの柱廊」で民衆に語りかけていると、神殿を支配する勢力である「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」が近づいてきて、二人を逮捕して投獄、翌日まで牢に入れます。すぐに尋問しなかったのは、「既に日暮れだった」ので、夜は裁判を開くことができなかったからです(一〜四節)。
 ここでルカは、使徒たちがユダヤ人民衆に教えていた内容を、「イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝える」と要約しています。使徒たちはただイエスが復活したという事実を知らせただけでなく、「死者たちの復活」という終末的事態が、イエスの身に(具体的に)起こったことを告知していたのです。すなわち、イエスの復活は、預言者たちが語っていた、神に属する者たちが死者の中から復活するという終わりの日の出来事が始まったという告知です。これは、後にパウロがキリストの復活を眠りについた者たちの「初穂」として宣べ伝えたのと同じです。ここのルカの表現に、最初期エルサレム共同体がイエスの復活を終末の時の開幕ととらえていたことを垣間見ることができます。
 神殿の支配勢力は、ペトロとヨハネの教えを危険なものとして逮捕しましたが、二人の告知を聴いた多くの民衆がその告知を受け入れ、イエスを信じて仲間に加わり、その数が「五千人ほどになった」と伝えられています。ペンテコステの日の三千人からさらに二千人増えたことになります。この数がどれほど歴史的に正確かは確認できませんが、ルカはこのような数字で、エルサレム共同体が聖霊の働きによって力強く拡大する勢いを描いています。
 逮捕投獄の翌日、大祭司一族と議員、長老、律法学者たちが集まり、二人を尋問します(五〜七節)。これは正式の最高法院の法廷ではなく、イエスの場合と同じように、神殿を支配する大祭司一族による取り調べの段階です。それを経て、最高法院全員による正式の法廷が招集されます(五・二一と比較)。この時の取り調べを主導したのは、「大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族」とされていますが、福音書の場合と同じく、この時の実際の大祭司はアンナスの娘婿のカイアファでしたが、前大祭司のアンナスが実権を握り、ここに名をあげられているような一族の者が神殿支配の実力者でした。
 大祭司は、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問します。これはイエスに対する尋問と同じです(ルカ二〇・一〜二)。「ああいうこと」というのは、それに対するペトロの返答(九節)からすると、ペトロが神殿の中で足の立たない人を立たせたことを指しています。この事実から、もとの伝承は奇跡から逮捕へすぐに続いていたのであり、その間に神殿説教が入ったのはルカの構成によるとする見方が出てくることになります。
 この尋問に対して、ペトロは「聖霊に満たされて」答えます。師のイエスを死に追いやった勢力を恐れてガリラヤに戻っていたペトロは、今やその大祭司や律法学者たちの前に堂々と立って、聖書を引用して、ナザレのイエスこそ「ほかのだれによっても、救いは得られない」唯一の救い主であることを言い表します(八〜一二節)。
 そのさい、ペトロはイエスのことを「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリスト」と呼んでいます。そして、復活によってキリストとして立てられた方が、イスラエルの指導者たちによって殺されるという形で死ななければならなかったのは、それが神の定めであったからだとして、聖書(詩編一一八編二二節)を引用して論証しています。この聖書引用は、最初期のキリスト共同体が、キリストの死の必然性を論証するときに繰り返し用いた聖句であり(ペトロT二・七)、共観福音書記者によってイエスがご自身の受難の預言として用いられたとして引用される聖句となります(ルカ二〇・一七と並行箇所)。
 ペトロとヨハネはガリラヤの漁師であり、ラビの下で律法教育を受けた律法学者ではありません。その意味で彼らは「無学な普通の人」です。その二人が、大祭司やエルサレムの律法学者たちに対してこのような聖書に基づく議論を堂々と述べたのですから、その大胆さに大いに驚きます。二人の証言から、二人がイエスの仲間であることは確認できました。しかし、その男はイエスの名によっていやされたという彼らの主張を反駁することはできません。現に目の前に足をいやされた人が立っているのですから。この人は、ペトロたちと一緒に連行されて尋問の場に立たされていたのでした(一三〜一四節)。ここで、「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ二一・一二〜一五)と言われたイエスの言葉が成就しています。他の福音書は聖霊が言うべき言葉を授けると書いていますが、ルカは復活者イエスが授けるとしています。
 議員たちは二人を議場から去らせて相談しますが、この癒やしの奇跡を見て神を賛美している民衆を恐れて、二人を処罰することはできず、ただイエスの名によって語ったり教えたりすることを厳しく禁じて釈放します。その命令に対して二人は、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と答えます(一五〜二一節)。
 ルカは最後に、いやされた男の人が四十歳を過ぎていたことを付記し、この男の記事(三・一〜二)から始まった物語を枠づけます(二二節)。この枠によって三章一節から四章二二節までが、この男をめぐる一続きの物語となりますが、その中にルカは、ユダヤ人に対するエルサレム共同体の宣教内容の要約として、ペトロの神殿説教を入れてこの部分を構成しています。

迫害下の共同体の結束(四・二三〜五・一一)

 共同体を代表するペトロとヨハネの最初の逮捕から始まったユダヤ教指導層による迫害に対して、エルサレム共同体がいかに一致結束して信仰の証しを立てていったか、その姿がルカによって描かれます。最初に、共同体の一致した祈りが描かれます(四・二三〜三一)。
 釈放された二人の報告を聞いた「仲間」(=エルサレム共同体)の人たちは、心を一つにして、声をあげて神に祈ります。その祈りは、天地を創造された神に向けられ、その神が僕であるダビデを通して預言された言葉(詩編二・一〜二)の通り、ヘロデとピラトに代表される「地上の王たち」と、大祭司と議員に代表されるイスラエルの「指導者たち」は、一緒になって「油を注がれた聖なる僕イエス」に逆らい、定められていた通りそのイエスを殺したことを思い起こし、今その勢力がイエスの名を語るなと脅してきていますが、その脅しに屈することなく大胆に「御言葉を語る」ことができるように祈ります。そしてさらに、イエスの名によって病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるように祈ります。彼らは、ペトロたちが伝えるイエスの不思議な業(奇跡)が本当だったのかどうかというようなことを議論しませんでした。同じ業が、イエスの名によって行われることを祈ったのです。
 祈りが終わると、「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り」だします。これはペンテコステの日の聖霊の出来事とよく似た記述ですが、これは、ペンテコステ以来、エルサレム共同体は聖霊の激しい満たしの中で、聖霊が語らせるところに従い、イエスを言い表す言葉を語り続けた事実を指し示しています。この告白の言葉が「御言葉」であり、後に「福音」と呼ばれる言葉になります。その内容については、本章の最後にまとめることになります。
 次に、「信じた人々の群れ(=エルサレム共同体)は心も思いも一つにして」いた事態が、「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」財産共有の姿で描かれます。エルサレム共同体の財産共有の態勢は、すでに最初期の共同体の姿としてあげられていましたが(二・四四〜四五)、ここでその具体的な姿が二つの実例をあげて記述されます(四・三二〜五・一一)。
 一つは、バルナバの実例をあげて、土地や家を持っている人が皆、それを売って代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、使徒たちの管理に委ねたことが報告されます。その金は必要に応じて、おのおのに分配されたので、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と言われることになります。このようなエルサレム共同体の財産共有制の成り行きについては、先に述べました。ここで、後に重要な働きをするバルナバが始めて登場します。バルナバについては、後で詳しく触れることになりますが、ここでは彼が本名をヨセフというキプロス島出身のディアスポラ・ユダヤ人であることだけを記憶しておきましょう。
 もう一つは、アナニアとサフィラの事件を実例として、この財産共有制がどのように運営されたかを語っています(五・一〜一一)。この資産の提供は、クムランのエッセネ派に見られるような、共同体に加入するための必要条件ではありませんでした。それは自発的になされる任意の行為であることが、四節の「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」というペトロの言葉から分かります。それは、信仰によって共同体に加わった者が、主の来臨の迫りの中で、聖霊によって促されて自発的になした行為でした。ところが、アナニアとサフィラという夫妻が口裏を合わせて、土地を売った代金の一部をもってきて、それを全額と偽って使徒たちに渡したので、その偽りを聖霊によって示されて見破ったペトロから、「サタンに心を奪われ、聖霊を欺いた」行為として叱責されます。ペトロの叱責の言葉を受けた二人は、その場で倒れて息絶えます。これを見た共同体の人たちは、「非常に恐れた」とされています。この恐れは、神がこの共同体の存立にいかに深く現実的に関わっておられるかを実感して、それに参与することの厳粛さに畏怖の念を感じたということでしょう。

使徒たちの働きと受難(五・一二〜四二)

 迫害の中で共同体が聖霊による一致結束を強めていたことを描いた後、ルカは使徒たちの顕著な働きを伝えます(五・一二〜一六)。先に見た奇跡、すなわちペトロとヨハネが生まれながら歩けなかった人を立ち上がらせた奇跡は代表的な事例でしたが、そのような「しるしと不思議な業」が使徒たちによって次々と行われ、エルサレムはもちろん、付近の町からも続々と病人が連れてこられ、ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人にかかるように、病人を大通りに連れ出して担架などに寝かせるほどでした。当時の人は、神の人の着衣などに触れるだけで病気がいやされると信じていたことは、イエスの衣の裾にでも触れるならばいやされると信じた長血の女の事例からも分かります。ペトロに触れることができなければ、せめてその影がかかるようにと願った人たちの病苦の切実さがうかがわれます。とにかく、こうしてペトロのもとに連れてこられた病人は「一人残らずいやしてもらった」と報告されています。この記事でも、ルカは使徒たち全員の働きとして報告していますが、実際に名をあげられているのはペトロだけです。
 この記事で注目されることは、「一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていた」と報告されていることです。すなわち、エルサレムにイエスを信じる者たちの共同体が形成されたとき、使徒たちを取り囲む一団の信者たちは、神殿の中に集まり、共同体としての活動を続けたという事実です。使徒たちのなしたいやしの働きも、多くは神殿の中のこの場所で行われたはずです。そして、先に見たように、この神殿の中でイエスを死者の中から復活し、やがて到来する神の子と告知する宣教もここで行われました。
 このような共同体の顕著な活動を目撃した周囲のユダヤ教徒たちは、信者たちの熱心な信仰を賞賛しましたが、「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった」と報告されています。すなわち、イエスを信じるユダヤ教徒の一団が、周囲のユダヤ教徒からはっきりと区別されるようになってきたのです。ユダヤ教イエス派の共同体が明確に姿を現すようになってきたと言えます。
 このようなイエス派の共同体がいつまで神殿の中で活動できたかは問題です。すぐに、神殿の支配勢力である「大祭司とその仲間のサドカイ派の人々」が、イエス派共同体の指導者である使徒たちを逮捕して投獄します。ルカは「ねたみに燃えて」と言っていますが、神殿の支配層からすれば、つい先に異端として死罪にしたイエスがメシア・キリストとして告知されることを許すことはできません。逮捕して裁判にかけるのは必然の対応です(五・一七〜一八)。
 ところが、夜中に主の天使が現れ、使徒たちを解放し、神殿の境内でイエスのことを告知するように命じたので、使徒たちは夜明けから境内に入って教え始めます。一方、大祭司は夜明けをまって最高法院を招集し、正式の裁判を始めようとします(夜に正式の法廷は開けません)。ところが、投獄したはずの使徒たちが牢にいないという報告を受けて狼狽します。そこで神殿守衛長に命じて、もう一度使徒たちを法廷に連行させます(五・一九〜二六)。
 使徒たちを法廷の真ん中に立たせて、最高法院の議長であり裁判長である大祭司が尋問します。大祭司は、イエスの名を口にするのも汚らわしいとばかりに避けて、「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」と命令違反を詰問します(五・二七〜二八)。
 それに対して、ペトロが他の使徒たちを代表して答えます。ここでもペトロの名だけがあげられています。ペトロは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と断言します(すでに四・一九でも同じ発言)。ペトロはすでに、イエスの復活と聖霊の働きにより、イエスの出来事こそ神がなされた業であり、それに敵対する大祭司ら最高法院の命令は人間から出たものにすぎないことを見ています。大祭司ら最高法院の命令を人間のものとするのは、ユダヤ教徒の認識と発言としては実に革命的なものです(五・二九)。
 その上で、ペトロは「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」と宣言します。ここでは、イエスの十字架と復活は、あくまで「わたしたちの先祖の神」が「イスラエルの悔い改めと罪の赦し」のために成し遂げられた出来事として告知されています。これは、エルサレム共同体の宣教がユダヤ教の枠の中で行われていることの表れです(五・三〇〜三一)。
 最後にペトロは、「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神がイエスに従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証しておられます」と、自分たちを証人として差し出すと同時に、聖霊をも証人として法廷に呼び出します。このように証言するのは、自分たちの内にいます聖霊が語っておられるのだという認識がそう語らせたのですが、それは「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊である」(マタイ一〇・一九〜二〇)というイエスのお言葉があるからでしょう(五・三二)。

ここを新共同訳は(そして協会訳と岩波版も)、「神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊」と訳していますが、原文は「彼に従う人々に」であり、「彼」は神御自身ではなく、(原文ではやや離れた位置にありますが)イエスを指すと理解する方が適切です。ペトロと彼の共同体は、イエスに全存在を委ねるときに聖霊が注がれるという特別の体験を重ねています。ここは「神に従う」という一般的な姿勢でなく、ユダヤ教世界では異端とされて殺されたイエスに危険を冒して身を投じるという信仰の姿勢を指すと理解すべきであると考えます。

 ペトロの証言を聞いた大祭司と議員は激しく怒り、使徒たちを殺そうとします。すなわち、死刑の判決を下そうとします。ペトロは大祭司と議員を「あなたたちが救い主を殺したのだ」と断罪したのですから、彼らの怒りから死刑の判決は避けられません。その時、「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエル」が立って、対策を提案します。彼はこの時代の代表的なメシア運動を取り上げて、その実例から「あの者たちの取り扱いは慎重にし、手を引くように」と勧告します。最高法院は彼の勧告を受け入れ、使徒たちを鞭打ち、再びイエスの名で語ることを厳しく禁じた上で釈放します(五・三三〜四〇)。
 危うく死刑を免れ、鞭打ちを受けて釈放された使徒たちは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」、最高法院から出て行って、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせます(五・四一〜四二)。この「メシア・イエスについて福音を告げ知らせた」という活動については、次項Wで詳しく扱うことにします。
 彼らがこのような辱めをうけたことを喜んだのは、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」(ルカ六・二二〜二三)というイエスの言葉を、深く心に刻み込んでいたからでしょう。

ガマリエルの演説について

 ところで、この演説をしたとされるガマリエルは、イエスの少し前の時代に活躍した著名な律法学者ヒレルの弟子であり、後継者です。その時代のファリサイ派にシャンマイとヒレルという二人の高名の律法学者が、対立する傾向の律法解釈を主唱し、それぞれの学派を形成していました。ヒレルの後継者として活躍したのが、その弟子のガマリエルです。彼の活動期間は二〇年から五〇年にかけての期間と見られています。彼はその時代のファリサイ派を率いる最も著名な律法学者であり、ファリサイ派を代表して最高法院の議席を占めていました。
 なお、ガマリエルは、その膝下でパウロが律法を学んだ師とされています。ルカは、パウロがユダヤ人への演説で「ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けた」と証言したと報告しています(二二・三)。

パウロがエルサレムのガマリエルのもとで律法を学んだことについては、研究者の間で重大な疑念が表明されています。しかし、M・ヘンゲルがその著 Pre-Christian Paul で論証しているように、この証言は事実として受け取ることができます。この問題については、拙著『パウロによるキリストの福音T』50頁の「エルサレムのパウロ」を参照してください。

 ガマリエルは、イエスをメシアと言い表す使徒たちを裁く最高法院で、当時のメシア運動の代表的な指導者として、テウダとガリラヤのユダの二人をあげて、この二人の実例から勧告の演説をしています。この二人は、当時の歴史家ヨセフスも詳しく記録している、著名な反ローマの過激運動の指導者でした。テウダは、ファドゥスがユダヤの総督であった時(四四〜四六年)、預言者であると自称して、四〇〇人ほどの同志を糾合し、反ローマの武装蜂起を企てます。その蜂起は総督ファドゥスによって鎮圧され、テウダは殺されます。ガリラヤのユダは、六年にユダヤがローマ直轄領となり、総督キリニウスによって住民登録が行われた時、それに応じてローマ皇帝に税を納めることはヤハウェの主権を侵すことだと反対して武装蜂起しますが、これもローマの軍事力によって鎮圧されます。ガマリエルは、この二つのメシア運動的な実例をあげて、今ペトロたちによって始められたイエスをメシアと仰ぐ運動も、それが人間の思いから出たものであれば、この二つの実例のように滅びるであろうし、もし神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできず、彼らに敵対することは神に敵対することになると言って、彼らから手を引き、彼らを歴史の審判に委ねるように勧告します。

六年の総督キリニウスによる住民登録については拙著『ルカ福音書講解T』128頁の注記を、またガリラヤのユダについては同書123頁以下の「ガリラヤ人の抵抗運動」の項を参照してください。

 このガマリエルの演説の歴史性については、重大な問題があります。一つは、ガマリエルはテウダの事例を先にあげて、「その後」と言ってガリラヤのユダの事例をあげています。しかし、これは明らかに事実ではありません。六年に蜂起したユダが先で、その後かなり経ってからテウダの事件が起こります。さらに重大な問題は、テウダの事件は四四年以後であり、三〇年に行われたはずのガマリエル演説の十数年も後のことであるという事実です。したがって、実際にガマリエルがテウダの事件に言及したことはありえません。しかしルカが著述した時には、両方とも過去の事件であり、ルカはよく知っています。ルカはこの二つの著名な事件を用いて、使徒たちによって始められたイエスをメシアとする運動が、他の当時のメシア運動とは別の性格のものであることを示し、それが今日(ルカの時代)までますます発展して続いている事実をもって、それが神から出たものであると主張しているのです。しかも、それをユダヤ教きっての碩学ガマリエルの口を借りて主張しているのです。

ガマリエル演説の引用でルカが年代を違えていることについては、拙著『福音の史的展開U』の428頁を参照してください。

エルサレム共同体とユダヤ教諸派

 このように、生まれたばかりのエルサレム共同体を周囲のユダヤ教社会は迫害したのですが、「周囲のユダヤ教社会」と言っても、それは一色ではありません。当時のユダヤ教には少なくとも三つの異なる傾向の派があり、それぞれの派のユダヤ教徒はエルサレム共同体に対して違った対応をしています。三つの派というのは、当時の歴史家ヨセフスがあげているサドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派の三派です。ヨセフスは「第四の哲学」として「熱心党」《ゼーロータイ》をあげていますが、これをユダヤ教の一派とすることができるかどうかは問題があり、ここでは宗教的傾向と立場の異なる以上の三派だけを取り上げます。

《ゼーロータイ》については、拙著『ルカ福音書講解T』123頁以下の「ガリラヤ人の抵抗運動」を参照してください。《ゼーロータイ》運動は、ユダヤ戦争までの一世紀のユダヤ教において重要な意義を持ちますが、宗教的立場としてはファリサイ派の中の(対ローマ)過激派と見てよいでしょう。エルサレム共同体との関係でも、後になると重要な関わりが出てきますが、初期の段階ではファリサイ派に含めて考察しておきます。
 使徒たちを逮捕し、最高法院に連行し、死刑の判決を下して殺そうとしたのは、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」(四・一)、あるいは「大祭司とその仲間のサドカイ派の人々」(五・一七)とされています。当時の神殿祭儀を担当する祭司たちの中で、大祭司をはじめ祭司長たちなど、上級の祭司はサドカイ派でした。彼らは神殿祭儀を牛耳る貴族祭司階級の人たちでした。宗教的には、成文律法(モーセ五書)の権威だけを認め、後の時代の解釈によって形成された(ファリサイ派の)口伝律法をいっさい認めない保守的立場をとりました。したがって、モーセ律法にない天使や諸霊の存在、終末の審判や復活など、ファリサイ派が時代の変化の中で解釈を通して形成した教義は否定していました。後にパウロが最高法院で、このサドカイ派とファリサイ派の対立を利用して弁証を展開することになります(二三・六〜一〇)。
 サドカイ派は律法の適用には厳格で、違反者には厳しい判決を下し、冷酷に処罰しました。また、ユダヤ教団の権力の座にある者として、時代の政治的支配勢力(ここではローマ)には巧妙に妥協し、権力の維持に努め、それを脅かす動きには敏感に反応しました。イエスを逮捕し、死刑の判決を下し、ローマに引き渡して処刑したのも、このような律法上の厳格主義(マルコ一四・六三〜六四)と権力維持のための政治的策略(ヨハネ一一・四七〜五〇)からでした。このようなサドカイ派と大祭司がその権力を用いて(神殿守衛長は大祭司の配下の警察長官です)、神殿内でイエスをメシアとして宣べ伝える使徒たちを弾圧し、処刑して取り除こうとまでしたのは当然です。彼らの動機と意図はイエスの場合と同じです。
 このようなサドカイ派の強硬な態度に対抗して、「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエル」が立って、使徒たちを権力によって弾圧しないように議員たちを説得します。このガマリエルの演説は、先に見たように歴史性には問題がありますが、ユダヤ教内に新しく起こったメシア・イエス運動(イエスをメシア・キリストと信じて宣べ伝える運動)に対するファリサイ派の姿勢をよく代表しています。
 ファリサイ派は、もともとヘレニズム時代に滔々たるギリシア化の流れに抗して、先祖伝来の信仰を時代に適した生活の中で維持しようとして起こったユダヤ教内の革新派でした。前二世紀のマカバイ戦争の前後に起こった先祖伝来の宗教を護持しようとする「敬虔な者たち」《ハシディーム》の運動は、時代に即した律法解釈により神殿の外での日常生活の中で律法を実現しようとしたファリサイ派と、エルサレムの祭司制そのものを非正統として、荒野で別の祭司制によるユダヤ教共同体を形成したエッセネ派に分かれていきます。ファリサイ派は、当時形成されつつあった会堂組織を通して、広く民衆の間にユダヤ教を根付かせていきます。
 ファリサイ派はハスモン時代には、権力の座にあるハスモン王朝から弾圧されたりしますが、神殿と最高法院を握る大祭司側も、民衆に影響力の強いファリサイ派を無視することができず、最高法院に議席を与えることになります。エルサレム共同体が成立した時代には、ファリサイ派の律法学者たちが最高法院の議席の一角を占めていました。
 ガマリエルは「民衆全体から尊敬されている律法の教師」であり、大祭司などサドカイ派の強硬な態度に対して、新しいメシア・イエス運動に対する「民衆」の共感を代弁していると言えます。ルカは、エルサレムに始まった新しい信仰運動について、「民衆は彼らを賞賛していた」(五・一三)と書いています。この「民衆」は、ファリサイ派の指導下にある一般のユダヤ教徒を指します。この「民衆」の共感と支持があったので、エルサレム共同体はサドカイ派の指導層から迫害されても、存続することができたのです。大祭司から派遣された守衛長らは、「民衆に石を投げつけられるのを恐れて(使徒たちに)手荒なことはしなかった」のです(五・二六)。イエスご自身も、その弟子であるペトロたちもみな、ファリサイ派ユダヤ教の中で育った人たちです。その人たちによって唱えられ告知された新しい信仰運動に、ファリサイ派ユダヤ教徒の「民衆」が共感したのも理解できます。もっとも、後で見るように、この新しい信仰運動が律法に対して自由な態度を示すようになったときには、迫害者サウロに見られるように、激しい弾圧をするようになりますが、最初期には同情的であったことを忘れてはなりません。

新約聖書(とくに福音書)に見られるファリサイ派に対する激しい批判と敵意(たとえばマタイ二三章)は、七〇年の神殿崩壊後のユダヤ教を担ったのはファリサイ派だけであり、ファリサイ派ユダヤ教の会堂勢力との激しい対立の中で、福音書が成立したからです。その敵意を無批判に、イエスの時代と最初期のエルサレム共同体に持ち込むことは誤解を生みます。

 ところで、この時代には、ファリサイ派と並んでエッセネ派という改革派が活動していました。ヨセフスが、サドカイ派とファリサイ派と並んで名をあげているエッセネ派については、謎が多く、まだその全容が明らかになったとは言えません。しかし、二〇世紀の半ばに死海北西岸のクムランの洞窟で発見された「死海文書」はエッセネ派の文書であることについては、ほぼコンセンサス(一般の承認)があり、その死海文書からエッセネ派の内容が解明されつつあります。
 ところが、サドカイ派とファリサイ派については多くの(批判的)記事を含む新約聖書が、エッセネ派についてはいっさい触れることなく、完全に沈黙しています。これは新約聖書の最大の謎の一つです。イエスご自身も洗礼者ヨハネを通してエッセネ派とはつながりがあり、生まれたばかりのエルサレム共同体も、先に見たように、エッセネ派共同体が活動していたシオン地区に集まり、大きな影響を受けていたはずです。それにもかかわらず新約聖書がエッセネ派について沈黙している理由は、推察する他はないのですが、おそらくエッセネ派からの入信者が多くいて、信仰内容においても、また実際的な共同体形成についても、エッセネ派からの影響が大きく、エッセネ派との親密な関係が、エッセネ派については他のサドカイ派やファリサイ派に対するような批判的な記事を書かせなかった理由ではないかと考えられます。ルカの要約記事にある「祭司も大勢この信仰に入った」(六・七)という記事は、エッセネ派からの入信を指すとする研究者もいます。
 エルサレム共同体とエッセネ派との関係については、黙示思想的な信仰内容とか、共同体の管理体制の相似とか、個々の問題で検討すべきことが多々ありますが、ここでは当時のユダヤ教諸派の中でエッセネ派は、サドカイ派のように迫害するのではなく、またファリサイ派以上に同情的であり、エルサレム共同体と親密な関係にあったことだけを指摘しておきます。

このエルサレム共同体とエッセネ派との親密な関係から、イエスの宣教や原始キリスト教の成立をエッセネ派の延長として説明する議論が行われたことがありますが、エッセネ派の厳格な律法主義と福音の恩恵支配の原理は根本的に違うことを見落としてはなりません。

W エルサレム共同体のキリスト告知

はじめに

 以上に見たように、呱々の声を上げたばかりのエルサレム共同体は、周囲のユダヤ教指導層からの脅迫や迫害に屈することなく、聖霊の力にあふれてイエスをメシア・キリストと告知する働きを進めていきます。最後に、この時期のエルサレム共同体のキリスト告知がどのような内容になっていったのかをまとめておきましょう。
 しかし、これをまとめることは至難の課題です。というのは、エルサレム共同体はアラム語を使うイエス信仰のユダヤ教徒で構成される共同体ですが、彼らの信仰内容を直接伝えるアラム語で書かれた資料は皆無だからです。わたしたちは、後にギリシア語で書かれるようになった信仰文書(たとえばパウロ書簡や福音書やルカの使徒言行録など)の断片的言及からこの時期のエルサレム共同体のキリスト信仰の内容を推察する以外に方法がないのです。このような限界から、このまとめは多くの推察を含み、不確実な要素が多く残りますが、それでも力を尽くして、後の時代の福音の展開にとって土台となったこの時期のエルサレム共同体の信仰告白を探求し、その内容を描く努力をしなければなりません。ここに提供するまとめは、そのような試みから生まれた一試論にすぎません。

キリスト告知の主要内容

 エルサレム共同体が告知した最初のキリスト告知は、イエス復活の事実を証言し、その事実に基づいて、ナザレのイエスこそ神がイスラエルに遣わされたたメシア・キリストであるという告知であったことは間違いありません。それは、これまで本稿で見てきたように、ルカが使徒言行録で伝えている通りであり、事の性質上そうであることが当然です。
 問題は、そのメシア・キリストがどのような意味でキリストであるのか、またそのキリストがもたらす救いがどのような内容の事態であるのか、そのような内容についてエルサレム共同体がどのように告知したかです。

 まず第一に言えることは、エルサレム共同体はイエスの復活が預言を成就する出来事であることを強調しました。宣べ伝える使徒たちも、彼らの告知を聴く者たちも皆ユダヤ教徒です。ユダヤ教徒に語りかけ、自分たちが語ることが神から出たものであることを論証するには、それが聖書に基づいていることを明らかにしなければなりません。使徒たちは、自分たちが復活されたイエスの現れを体験したことを証言するだけでなく、その出来事が聖書に預言されていることの成就であることを告知しました。たとえば、ペトロはペンテコステ説教において、いま目の前で起こった聖霊の傾注を預言者ヨエルの終わりの日の預言の成就であるとして論証する(二・一四〜二一)だけでなく、自分たちが体験し告知しているイエスの復活を、預言者としてのダビデの詩編を論拠として引用し、聖書を神の言葉として信じているユダヤ教徒聴衆に語りかけています(二・二二〜三二)。このペトロのペンテコステ説教はルカによる要録であるとしても、この点(イエスの復活を聖書によって論証していること)は事実を伝えていると信じることができます。
 イエスの復活が聖書の預言の成就であると告知することは、イエスの復活を終末の時代の到来として告知することです。イエス復活の告知は、たんに一度死んだ人間が生き返ったという想像以上に不思議な出来事が起こったと、その目撃証人として証言するだけのことではありません。それは、神が預言者を通して語っておられた終わりの日が到来したと告知しているのです。まだ終わりの日の完成ではないとしても、少なくとも終わりの日々(時代)が開幕したことを告知しているのです。このことは、使徒たちが「イエスの身に起こった死者の中からの復活を宣べ伝えていた」(四・二)と書いているルカの表現に垣間見ることができます。「死者たちの中からの復活」は、当時のイスラエルの中でもファリサイ派やエッセネ派など敬虔な人たちが終わりの日に神がなされる業として待ち望んでいました。その終わりの日の出来事が目の前でイエスの身に起こったのです。

 第二に、ペトロを初めとする使徒たちはイスラエルの民に、復活によって主またキリストとして立てられたイエスは、やがて神の栄光をもって世界に現れ、イスラエルを救い、世界に終局的な神の支配を打ち立てる方であることを告知しました。この栄光のキリストの顕現あるいは来臨は、後にキリストの民が「キリストの来臨」《パルーシア》と呼んで、熱烈に待望した終末的出来事ですが、この告知は、使徒言行録三章のペトロの神殿説教(三・一一〜二六)に反映しています。しかしわたしは、最初期のエルサレム共同体のキリスト来臨の告知はもっと直接的で激しい形ではなかったかと推察しています。
 それは、序章「復活者イエスの顕現」でも述べたように、ガリラヤで復活されたイエスの顕現に接したペトロたちが危険を冒してエルサレムに移住したのは、キリストの来臨をエルサレムで待つためであったと見られること、またその後のエルサレム共同体の歴史において、ステファノや主の兄弟ヤコブなど殉教者は「人の子」を待望して死についた事実などが、エルサレム共同体が初めから終わりまで一貫して、差し迫った「人の子」としてのキリストの来臨を待望する共同体であったことを示しています。それに、これも以前に述べたように、「マラナ・タ」(主よ、来たりたまえ)というアラム語の祈りが最初期のキリストの民の合い言葉のようになっていた事実も、キリスト来臨の待望がアラム語のエルサレム共同体から出ていることを指し示しています。
 先にルカ二部作全体への序章「ルカ二部作の成立」で見たように、ルカはキリストの来臨を差し迫った将来に待望することができなくなった世代のキリストの民に向かって、新しい救済史の枠組みを提示し、これからキリストの証人として歴史の中を歩む覚悟を促しています。そのような視点から書いているルカは、エルサレム共同体の差し迫った来臨待望の熱気を描くことを抑制している節があります。そのようなルカの傾向を考慮に入れると、最初期のエルサレム共同体の来臨待望はルカが描くよりずっと熱烈であり、中心的な位置を占めていたと推察されます。エルサレム共同体の来臨待望は、パウロがテサロニケ第一書簡で描く来臨待望以下のものではなかったはずです。

 第三に、エルサレム共同体のキリスト告知は、イエスの十字架上の死を神のご計画によって起こった出来事であるとしたことです。数々の奇跡により、また最終的に死者の中からの復活により、神から遣わされたメシア・キリストであると証明されたイエスが、地上ではイスラエルを異教徒の支配から解放するどころか、ローマ総督によって十字架刑に処せられて恥辱の刑死を遂げたという事実が何を意味するのか、それを説明し、その事実をキリスト告知の中で位置づける(意義づける)ことが、エルサレム共同体にとって差し迫った重大な課題でした。
 ルカはすでにペトロのペンテコステ説教において、ペトロが「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」と語ったとしています(二・二三)。ペトロが実際にペンテコステ説教でこのように明確に語ったのか、あるいはルカがその後のエルサレム共同体の十字架理解とか、キリストの民の共通の十字架理解をこの日のペトロの口に置いたのか、議論が残りますが、エルサレム共同体がこのような十字架理解に達し、キリストを告知するとき、周囲のユダヤ教徒にこのように宣べ伝えたことは確かでしょう。
 使徒たちをはじめイエスを信じたユダヤ教徒たちは、メシア・キリストであるイエスが十字架上に刑死したという事実をどう理解するべきか、必死に聖書を調べ、その真義が示されるように祈り求めたことでしょう。そのさい、神が遣わされた義人が地上では迫害されて苦難を受け、その後神によってその正しさが証明されて栄光の座に上げられるという、預言書や詩編や知恵文学の「義人の苦難」のパターンが彼らの理解を導いたと考えられます。とくに第二イザヤの「主の僕」の預言は、イエスが御自身について言及された預言として重視され、そこに語られている「多くの人の罪を負い、自らを償いの献げ物とした」という言葉に導かれて、イエスの十字架の死を民の罪をあがなう贖罪の死と理解するに至ります。
 この理解は、パウロがローマ書(三・二四〜二五)で「信仰による義」を論証するとき、「(人は)ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです。神はこのキリストを、その血による贖いの場としてお立てになったのです」というとき、パウロは伝承された文を引用していると見られていますが、この伝承文はエルサレム共同体で形成された十字架理解を指し示しています。神殿で繰り返される犠牲祭儀に親しんできたユダヤ教徒が、キリストの十字架の出来事の意義を語るのに犠牲祭儀のイメージと用語を用いるのは自然なことです。
 エルサレム共同体は、このようにキリストの死を贖いの場として立て、信じる者を救うことが「神のご計画」だと理解し、そう告知したのです。このことは復活者イエス御自身が使徒たちに示された事として、後にルカがこう言っています。「イエス(復活されたイエス)は言われた。『・・・・メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか』。そして、モーセとすべての預言書から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ二四・二五〜二七)。

 第四に、エルサレム共同体は、復活してキリストとして立てられたイエスは、信じる者に聖霊を与えてくださる方であると告知しました。ペトロはペンテコステ説教において、イエスの復活を証言した後、それに続けてこう言っています。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」(二・三三)。まさに、ペンテコステの出来事は、復活してキリストとして立てられたイエスが、御自身に従う者に聖霊を与える働きをされた典型的な実例です。このようなキリストを告知した後、ペトロは聴衆に説き勧めます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(二・三八)。
 キリストは信じる者に聖霊を与えてくださるという告知は、初めから一貫してエルサレム共同体のキリスト告知の重要な内容であったことは、ルカが使徒言行録全体を貫いて、この約束が実現していく事実を描いていることからも分かります。ペンテコステの日にイエスに従う多くのユダヤ教徒に聖霊が下りました。次に、半ユダヤ教徒というべきサマリア教徒にも、イエスを信じたとき聖霊が与えられました(八・一四〜一七)。さらに、まだ割礼を受けてユダヤ教に改宗していない「神を敬う」異邦人であるコルネリオ一族が、ペトロの告知するイエス・キリストを信じたとき、聖霊のバプテスマを受けました(一〇・四四〜四八)。そして、パウロの福音を受け入れたエフェソの異邦人は、主イエスの名によってバプテスマを受けて、聖霊を受けています(一九・一〜七)。
 このような事実から、「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、キリストは聖霊によってバプテスマしてくださる方である」という、ルカも繰り返し言及する告知(たとえば一・五)が形成されます。それがいつ頃から明確な形をとるに至ったのかは議論がありますが、少なくとも復活者キリストこそ聖霊を与えてくださる方であるという告知は、エルサレム共同体から始まっていたと見ることができます。

 第五に、エルサレム共同体は、イエスがダビデの子孫としてメシア・キリストであると告知しました。このことはすでにペトロのペンテコステ説教に示唆されています。ペトロはこの日のキリスト告知において、イエスの復活が神の働きであることをダビデの詩編を根拠にして語りましたが、その後、「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました」とし、神はイエスを復活させて王座に着けることによって、その約束を果たされたとしています(二・三〇〜三五)。
 当時のイスラエルの民には、メシアはダビデの子孫から出るという待望が広く行き渡っていました。それで、イスラエルの民にイエスをメシア・キリストであると告知するには、イエスがダビデの子孫であることを示す必要がありました。それで、エルサレム共同体は初めからイエスをダビデの家系から出た方であることを主張したと考えられます。それを指し示す直接的な資料はないので、ペトロのペンテコステ説教におけるダビデを論拠にしたキリスト告知も、実際にその日にペトロが語ったものか、あるいは後のエルサレム共同体のキリスト告知を反映してルカがまとめたものか議論が残ります。しかし、後の時期にエルサレム共同体で成立したと見られる定型的なキリスト告知の文に、復活と並ぶ主要項目として、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」(ローマ一・三)とあることから(これについては後述)、また、エルサレム共同体の信仰の流れを受け、ユダヤ教徒向けに書かれたマタイ福音書が、繰り返しイエスをダビデの子孫であることを強調していることから、エルサレム共同体のキリスト告知がイエスをダビデの子孫と主張したことは、十分推察できます。
 三章以下の本体部分ではあまりイエスがダビデの子孫であることを語らないルカ福音書も、一〜二章の誕生物語ではこれを強調しています。本来異邦人向けに福音書を書いているルカは、イエスがダビデの子孫であることにはそれほど関心を示していません。しかし、誕生物語でイエスのダビデ家系が強調されている事実は、その部分の強いユダヤ教的傾向と合わせて、誕生物語が別起源の文書であり、おそらくエルサレム共同体で形成されたものではないかという推察を促します。
 エルサレム共同体がイエスのダビデ家系を強調したので、それを継承した福音告知は異邦人世界へ進出しても、イエスがダビデの子孫であることを語り続けました。パウロは、彼の書簡で見る限りはイエスのダビデ家系にはほとんど言及することはありませんが、ルカはパウロにも、「神を畏れる」異邦人を含む聴衆への宣教において、メシアであるイエスはダビデの子孫であることを語らせています(一三・二二〜二三)。パウロ系の共同体には、かなり後の時期になっても、「わたしの宣べ伝える福音によれば、この方(イエス・キリスト)は死者の中から復活され方であり、ダビデの子孫です」(テモテU二・八、原文の語順による私訳)という信仰告白が、パウロのキリスト告知の要約として行われていました。

ルカの誕生物語については、拙著『ルカ福音書講解V』の第二三章を参照してください。なお、ルカの誕生物語の成立事情と性格については、拙著『福音の史的展開U』第八章第一節の「W ルカ福音書の成立過程」の中の「1 誕生物語」(465頁)を参照してください。

定型的なキリスト告知の形成

 後の時期に成立したパウロ書簡に、定型的な形にまとめられたキリスト告知の文やキリスト賛歌が引用されていますが、その中で次の二つは、その内容や用語の特徴から、研究者の間で広くユダヤ人キリスト信仰共同体で形成されたものと認められています。
 一つは、コリント第一書簡の一五章(三〜五節)で、パウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」として、その内容を次のように書いています。

 「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。 (コリントT 一五・三〜五)

 この定型文がユダヤ教の枠内の共同体で成立したことは、「聖書に書いてあるとおり」という表現が繰り返されて、キリストの出来事がユダヤ教聖書の預言の実現であると強調されていること、「罪」が複数形で、ユダヤ教律法への諸々の違反の意味で用いられていること、「罪のための死」はユダヤ教の贖罪祭儀を背景とした表現であること、「ケファ」というアラム語の呼び名が用いられていることなどから十分推察できます。なお、ここに用いられている「死んだ」、「葬られた」、「復活した」、「現れた」という出来事はイエスの身に起こったことですが、その動詞の主語が「キリスト」となっていることが注目されます。エルサレム共同体はすでにごく初期に、イエスの身に起こったこれらの出来事を、聖書のメシア預言を成就する出来事と理解し、イエスをこの預言されたメシア・キリストと同一視して語っていたことを示唆しています。
 ここでパウロは、ここに引用している定型的なキリスト告知の内容を、「わたしも受けたもの」だと言っています。では、パウロはこのような定型的キリスト告知をいつ、どこで、誰から、どのようにして「受けた」のでしょうか。パウロがすでに形成されている定型的なキリスト告知を受けた場所としては、二つの都市が推定されます。一つはエルサレムで、他の一つはアンティオキアです。
 パウロは、イエスの十字架・復活の出来事からほぼ三年経った三三年にダマスコ途上で回心しています。それから足かけ三年後の三五年にエルサレムを訪問し、ペトロに会い、十五日間ペトロのもとに滞在して語り合っています(ガラテヤ一・一八〜二〇)。この時に、エルサレム共同体で形成されていたこの定型的キリスト告知の形を受けた可能性があります。このパウロのエルサレム訪問は、ペンテコステの日の宣教の開始から五年ほど経っているのですから、このような定型的キリスト告知が形成されていた可能性は十分にあります。
 一方、パウロはエルサレムから故郷のタルソに戻り、その後アンティオキアの共同体で一〇年以上にわたって指導的な立場で活動しています。その時期にアンティオキア共同体で形成されたキリスト告知の文を受けて、それをコリントなどの異邦人集会に伝えた可能性も主張されています。次章で詳しく見ることになりますが、アンティオキアの共同体はギリシア語系のユダヤ人が形成した共同体ですから、もしパウロがこのキリスト告知の文をアンティオキア共同体から受けたのであれば、本章で扱っている最初期(ステファノ殉教までの三年ほどの期間)のアラム語を使うエルサレム共同体のキリスト告知を知る資料にはならないことになります。
 パウロが引用しているキリスト告知の文がギリシア語であることは、アンティオキアで受けたことの論拠にはなりません。パウロがこれをアラム語を使うエルサレム共同体から受けたとしても、コリントの集会に書き送るときは当然ギリシア語で書いたのですから。むしろ、「ケファ」というアラム語の呼び名が用いられていることや、復活されたキリストの顕現が「十二人」にあったとされていることは、強くパレスチナ、すなわちエルサレムで形成された伝承であることを指し示しています。「十二人」はアラム語を使うパレスチナのユダヤ人であり、アンティオキア共同体でなくエルサレム共同体の指導者であるからです。そうであれば、エルサレム共同体は、パウロが最初に訪問してくるまでのごく初期の数年間に、このような定型的なキリスト告知を形成していたことになります。

 もう一つは、ローマ書の最初の挨拶の部分で、自分と手紙の受取人である未見のローマのキリスト者たちとを結ぶ共通の場として、パウロはキリストの福音を提示するさい、ローマの読者がすでに受けていたと見られる定型的な文を引用しています。パウロは「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」と前置きした上で、

 「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の御子と定められたのです」。

とその内容を伝え、その後で(おそらくパウロ自身の文で)こう結んでいます

 「この方が、わたしたちの主イエス・キリストです」。(ローマ一・二〜四)

 この定型文はイエスを「御子」と呼んでいますが、ユダヤ教内では来るべきメシアは神の子とされていたのですから(マルコ一四・六一)、エルサレム共同体がイエスを初めから「御子」と呼んだとしても不思議ではありません。この呼び方は発展した後期のキリスト論を示唆しているとする必要はありません。
 この定型文がまずイエスを「ダビデの子孫から生まれた」方と告知していることは、これがユダヤ教内のキリスト信仰共同体から出たものであることを強く指し示しています。パウロはイエスがダビデの子孫であることを積極的に語ることはありません。イエスがメシア・キリストであるという告知は、本来イエスが死者の中から復活されたことを根拠としていますが、ユダヤ教徒に宣べ伝えるときには、聖書の約束を成就する方として、イエスがダビデの子孫であることが加えられました。この二つの使信を、出来事の順序で表現するために、「肉によれば」(人間としての出来事に従えば)と「聖なる霊によれば」(神の霊の働きとしては)の二つの面の対比に整理されて語られるようになっています。また、ここで用いられている「聖潔の霊」という表現も、パウロのものではなく、ユダヤ教の特徴を示しています。
 これはパウロがローマの人たちに宣べ伝えた福音のまとめではなく、ローマの人たちがすでに伝えられていた福音の内容です。パウロはまだローマに行ったことはありません。では、ローマの人たちはこのような内容の福音をいつ、誰から受けていたのでしょうか。
 ローマには多くのユダヤ教徒が住んでおり、彼らは聖都エルサレムと密接な交流をもっていました。ローマのユダヤ人居住区には、戦争捕虜として連れてこられ奴隷とされていたユダヤ人たちが、後に解放されてローマに住み続けていました。エルサレムには「リベルテン会堂」(解放された奴隷の会堂)と呼ばれるシナゴーグもありましたが(六・九)、これはこのような解放奴隷でエルサレムに移住したユダヤ人が建てたシナゴーグだとされています。
 ステファノ殉教以来、このようなシナゴーグに所属していたディアスポラ・ユダヤ人信者が、迫害によってエルサレムから追われ、ローマをはじめ多くの地中海地域のヘレニズム都市に移住していきました。そのような移住した、または旅をした無名のユダヤ人信者によって、イエスをメシア・キリストと信じるユダヤ教内の運動はディアスポラ・ユダヤ人の諸会堂に急速に広まっていきました。ローマ書一六章(七節)に出てくる「アンドロニコとユリア」(おそらく夫妻)も、パレスチナで復活者イエスの顕現に接し、それをローマに伝えた「使徒」であったと見られます。
 こうして伝えられたキリスト信仰をめぐってローマのユダヤ人会堂で激しい論争が起こり、ローマの治安を心配したクラウディウス帝は全ユダヤ人をローマ市から追放します。パウロの協力者プリスキラとアキラ夫妻もこの騒動の当事者であったと考えられます。これが四九年のことですから、イエスの十字架・復活の出来事から二〇年ほどで、ローマのユダヤ人会堂には、イエスをキリストと告知する福音がよく知られていたことが分かります。
 ローマ書に引用されている定型文は、ギリシア語を話すディアスポラ・ユダヤ人によって伝えられたものですから、厳密には次章で取り扱うべき内容になりますが、それがパレスチナから出ているという状況からして、この定型文は最初期のエルサレム共同体のキリスト告知の内容を十分に反映していると見られます。先に見たコリント第一書簡に引用されている定型文との前後関係が問題にされますが、それを確認することは困難です。相互関係はともかく、両者は最初期のエルサレム共同体のキリスト告知を要約する定型文として、貴重な資料であることは変わりません。

イエス伝承の伝達

 以上に見たように、最初期のエルサレム共同体は、以後の代々のキリスト告知の基礎を据える内容を形成しました。代々の諸国民のキリスト信仰共同体は、この最初期のエルサレム共同体のキリスト告知を継承して存在していると言えます。その重要性は計り知れません。しかし、エルサレム共同体には、その重要性において勝るとも劣らぬもう一つの働きがあります。それは、イエスに直接師事した弟子たちが率いる共同体として、彼らが目撃したイエスの働きや教えの言葉を保持し伝達したことです。
 最初期のエルサレム共同体は、ペトロを筆頭者とする「十二人」の弟子によって率いられていました。彼らは復活者イエスの証人として「使徒」と呼ばれるようになりますが、同時に地上のイエスの働きと教えの目撃証人として、またイエスの教えの継承者として、イエスの教えを伝えることで、共同体をイエスに従うように指導します。彼らが伝えたイエスの働きと教えの言葉が「イエス伝承」を形成します。このイエス伝承の伝達という働きにおいて、彼らは他の誰にもできない重要な貢献をすることになります。
 このイエス伝承の形成と伝達は、複雑な過程を経て、最後には福音書という形で世界に提供されることになります。この過程を探求する「伝承史」は、現代の聖書学と神学において重要な分野になっていますが、これは大きな主題ですので、章を改めて別の機会に扱うことになります。ここでは、このイエス伝承の形成と伝達にエルサレム共同体がもっとも重要な働きをした事実だけを指摘しておきます。