市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第11講

第一章 エルサレム共同体の成立




第一節 聖霊の傾注と福音告知の開始

T 五旬節前の弟子たち

エルサレムで祈り待ち望む弟子たち(一・三〜五)

 序章「復活者イエスの顕現」で見ましたように、弟子たちは過越祭から戻ったガリラヤで復活されたイエスの顕現を体験し、約束された栄光の主の来臨を待つためと、この事実を民に告知するために、生業を捨ててエルサレムに移住します。イエスの家族、すなわち母マリアと兄弟たちや、イエスを慕う他のガリラヤの女性たちも、弟子たちと一緒にエルサレムに移住します。ルカは、この時エルサレムに集まった十一人の弟子の名をあげた後、「彼ら(十一人の弟子たち)は皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」と伝えています(一・一三〜一四)。
 ルカは弟子たちがイエスの十字架の後、ガリラヤに戻ったことには触れていません。ルカは、自分の著述の意図から見て必要でない事柄とか適切でない事実は大胆に省略する著述家です。ここでもルカは、弟子たちが五旬節の前にはエルサレムにいたことだけに注目して、それを復活者イエスの指示によるものとして描いています。ルカはこう記述しています。

 3 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである」。(一・三〜五)

 この「エルサレムを離れないで」という指示も、「父の約束されたものを受けるまでは」という限定をつけて読めば、弟子たちが一度はガリラヤに戻って、そこで復活者イエスの顕現に接したという他の福音書の報告とも矛盾しません。ルカはそのエルサレム中心構想から、ガリラヤでの復活顕現を重視せず省略したと見られます。復活されたイエスはエルサレムに戻ってきた弟子たちに、神が指示されるまでエルサレムから離れないように命じられます。世界に対する神の業はエルサレムから始まらなければならないからです。

ルカ二部作のエルサレム中心構想については、拙著『ルカ福音書講解T』26頁以下の「第三節 ルカ二部作の構想」、とくに31頁を参照してください。ルカがガリラヤでの顕現伝承を知らないわけではなく、その伝承を生前のイエスのガリラヤ宣教の時期に置いていることについては、本書60頁の「ルカ福音書の場合」を参照してください。

 弟子たちがエルサレムに戻ったのは、(先に序章で見たように)復活者イエスの栄光の主としての来臨《パルーシア》を待つためであったと推測されますが、ルカはそれを「父が約束されたもの、すなわち聖霊によるバプテスマを待つ」ためであったとしています。ルカは、エルサレム神殿が崩壊してから何十年も経った時に著述しています。エルサレム神殿が崩壊しても弟子たちが待望した《パルーシア》は起こらず、エルサレムにおいて起こったことは聖霊の力による福音告知の開始であったという事実を熟知しています。ルカは、それを神の御計画とし、復活者イエスが命じられた事柄として描きます。
 ルカは福音書の最後(ルカ二四章)で、復活されたイエスが弟子たちに現れた出来事を最初の一日に限っていましたが、ここでは「四十日にわたって彼らに現れた」としています。この四十日が何を意味するかについては議論があります。ルカはすでに第一巻(福音書)の終わり(二四・五〇〜五一)で、イエスが天に上げられたことを書いています。この第二巻(使徒言行録)でも、「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(一・九)と記述されています。それで、この「四十日」は普通、復活された日曜日から数えて四十日目に昇天されたと理解されています。
 しかし、この理解には問題があります。だいたい復活にしても昇天にしても、何月何日に起こったということができるような性格の出来事ではありません。したがって、その二つの出来事の間に四十日あったと数えることはできません。復活顕現の記事は、イエスが苦しみを受けて死なれた後、弟子たちがイエスとの関わりでもった霊的体験の告白です。「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し」、そのイエスの働きかけを受けて、弟子たちはイエスが生きておられることを体験しました。そのような体験は、受難の後の「週の初めの日」から始まりましたが、その復活されたイエスの働きかけが昇天で終わったとして、その日を決めることはできません。パウロは三年後の自分への復活者イエスの顕現を、ペトロたちへの顕現の延長上に置いています。
 この「四十日」は、イエスの荒れ野の四十日と同じく、弟子たちが使徒として整えられるために啓示にあずかった期間を指し示す象徴的な日数としなければなりません。弟子たちはこの期間に、復活されたイエスから「神の国」の秘義を伝えられ、「使徒」としての資格を整えられた、とルカは言おうとしているのではないかと考えられます。

父の約束としての聖霊のバプテスマ(一・四〜五)

 ここで「ヨハネが水で授けたバプテスマ」と対比して、「聖霊によるバプテスマ」が「前にわたしから聞いた、父の約束されたもの」とされています。最初期においては、復活されたイエスを信じて主と言い表し、イエスに従う者に聖霊が注がれることは、ごく普通の体験でした。その体験は様々な形をとったことでしょうが、それがヨハネが授けた水のバプテスマと対比して、「聖霊によるバプテスマ」と呼ばれるようになります。それがいつ頃からかは分かりませんが、遅くともマルコ福音書が書かれる頃には、この呼び方は普及していたと見られます。すでにパウロも、「一つの御霊によって、一つの体の中へバプテスマされた」という表現を用いていますが(コリントT一二・一三私訳)、50年代のパウロ書簡にはまだ「聖霊によるバプテスマ」という句は出てきません。しかし、70年前後のマルコ福音書になると、洗礼者ヨハネは「わたしは水でバプテスマしたが、その方(キリスト)は聖霊によってバプテスマされる」と言ったとされるようになります(マルコ一・八)。その後に成立した他の福音書も、この水によるヨハネのバプテスマと聖霊によるキリストのバプテスマを対比するようになります(マタイ三・一一、ルカ三・一六、ヨハネ一・三三)。
 この「聖霊によるバプテスマ」は、「かねてわたしから聞いていた父の約束」(協会訳)とされています。イエスは地上におられたときに繰り返し、聖霊が与えられることを父の約束として語っておられました。たとえば、弟子たちに祈りを教えられたときに、真夜中にパンを求めた友人の比喩を語り、「求めよ、そうすれば与えられる」と励まし、求める自分の子によいものを与える父親の姿を描いた上で、「天の父はなおさら、求めてくる者に聖霊を下さらないことがあろうか」(協会訳)と結論しておられます(ルカ一一・一〜一三)。このように聖霊は、神がわたしたちの父として子である者に約束された賜物であることが強調されています。このような父の約束としての聖霊の賜物のことは、イエスは一度ならず弟子たちに語られたと考えられます。それが「かねてわたしから聞いていた」という、過去の繰り返しを示唆する動詞形で表現されています。

証人となる力(一・六〜八)

 6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。(一・六〜八)

 弟子たちに現れた復活者イエスは、その父の約束によって、「間もなく」聖霊によるバプテスマが授けられることを予告されます。それを聞いた弟子たちは、「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねます(一・六)。神が父としての約束を果たしてくださる決定的な時が近いという復活者イエスの予告を聞いたとき、ユダヤ教徒である弟子たちが、長年イスラエルの民が待ち望んできた「イスラエルに支配が回復される」(私訳)時が近いと理解したのも、無理からぬことです。当時のイスラエルでは黙示思想的待望が燃えていましたから、洗礼者ヨハネの時以来熱心な信仰で神の約束実現の時を待ち望んでいた弟子たちは、このイエスの予告をイスラエルに与えられている終末的回復の予告と受け取ります。
 それに対して復活されたイエスは、弟子たちの思い違いを改めるような答えをされます。弟子たちが期待している「イスラエルに支配が回復される時」は、「父が御自分の権威をもってお定めになった時」であり、その時や時期は「あなたがたの知るところではない」として、「間もなく」与えられる父の約束の実現は、それとは違う性格のものであることを教えられます。
 最初期の共同体は、復活されたイエスが栄光の中に来臨されて、世界に神の支配を確立される「主の来臨」《パルーシア》を熱烈に待ち望んでいました。「主の来臨」は、イスラエルにとっては、イスラエルが異邦人の支配から解放されて神の民としての栄光を回復し、異邦諸民族がイスラエルを中心とするその神の支配にあずかるようになることでした。ところが、イスラエルは異邦人(ローマ人)の支配から解放されるどころか、逆にローマ人によって神殿も焼き払われて、壊滅的な打撃を受けたのでした。この70年に起こったエルサレム神殿の崩壊を境として、《パルーシア》待望は深刻な問題に直面するようになります。すでにこの70年前後の時期に成立したと見られるマルコ福音書にも、その時を地上の暦の中で計算することを厳しく戒める記事が出ています(マルコ一三・三二〜三三)。この問題(=来臨遅延の問題)が深刻になった時期(最初期後期)に書いているルカも、復活者イエスが「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」と言われたとして、《パルーシア》の時をあれこれと議論すること自体を退けます。

最初期、とくにエルサレム神殿の崩壊で区切られるその前期と後期で、《パルーシア》待望がどのように変わっていったかについては、拙著『パウロ以後のキリストの福音』148頁の「第三章第一節「来臨待望の変遷」を参照してください。
 なお、七節で「時と時期」と訳されている語は、「クロノスやカイロス」(両方とも複数形)です。この組み合わせは、すでにパウロ書簡(テサロニケT五・一)に出てきています。新約聖書では、神が決定的な意味をもつ出来事を起こされる時を《カイロス》と呼ぶことが多いようですが(たとえばマルコ一三・四は《カイロス》)、本来時間の流れの期間をさす《クロノス》も同じような意味で用いられる場合もあります。この両語の組み合わせは、両語をあまり厳密に区別しないで、救済史上の諸々の出来事が起こる時のことを指しています。

 その上で、「そうではなく」という強い語に導かれて、それとは違う神の御計画が示されます(訳出されていませんが、八節は原文では《アッラ》という反対を示す強い語で始まっています)。「間もなく」起こる神の出来事は、《パルーシア》ではなく「聖霊によるバプテスマ」です。「聖霊のバプテスマ」とは、イエスを信じる者に聖霊が降り、信じる者が聖霊に浸される(《バプティゾー》される)ことです。それは、聖霊という神の力を受けることです。そして、その聖霊の力は、それを受けた者を復活者イエス・キリストを世界に証しさせる力、復活者キリストの証人とする力です。
 復活者イエス・キリストの証人として証しをするのは、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」です。これは、その証言活動の地理的な範囲だけでなく、福音がユダヤ教の限度を超えて、サマリア教徒や異教徒にまで及んでいくことを指しています。ルカはこれ以後の章で、福音の進展を、エルサレムから始まり、ユダヤ教徒の各地に、サマリア教徒の地に、そして「地の果て」までを支配する異教ローマ帝国の首都にまで及んでいく過程として描きます。
 ルカはこの短い一段(一・六〜八)で、ルカの時代に対する神の御計画を示し、時代が抱える深刻な疑問に答え、これからの進路に明快な指針を与えています。今は《パルーシア》を待望してその時期を議論する時ではなく、ただひたすら、賜った聖霊の力によって地の果てまで復活者イエス・キリストを証しする働きを進めるべき時であるとします。そのルカの理解がこの場面(五旬節前のエルサレムの弟子たち)に投影されて、このような復活者イエスの命令となったと考えられます。「わたしの証人となるであろう」という未来形は、聖霊の力を受けた者が当然なるべき姿を示しており、命令の意味を持っています。

復活者イエスの昇天(一・九〜一一)

 9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。 10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。(一・九〜一一)

 ルカは先に、復活されたイエスがその日にベタニアから昇天されたように書いていました(ルカ二四・五一〜五二)。しかしここでは、少なくとも四十日を経た後に、(一二節が示唆しているように)エルサレムにごく近い「オリーブ畑」と呼ばれる山から昇天されたとしています。このような食い違いは、ルカ文書の成立過程に様々な問題を提起しています。しかし、先にも述べたように、もともと復活とか昇天は霊的次元の体験の告白であって、何月何日にどこそこで起こったというように指示することはできない性格のものです。最初期の福音は、神は十字架につけられたイエスを復活させてメシア・キリストとしてお立てになったと告知しましたが、それを「イエスは天に上げられて、神の右に座した」という、王の即位を指す聖書の表象(詩編二編や一一〇編など)を用いて語りました。これは、最初期の福音の担い手がユダヤ教徒である以上当然です。この「天に上げられ、神の右に座すに至る」は、本来復活と一つの出来事、あるいは復活を聖書的表象で表現したものです。福音書や使徒書簡に残されている最初期の信仰告白の伝承には、復活と昇天が一体として告白されていたことを示唆する痕跡が多く見られます。「上げられる」は、十字架・復活の出来事を指す用語となっています(ルカ九・五一、ヨハネ福音書)。ヘブライ書などは、復活という語を用いないで、「天の幕屋に入られた大祭司」のイメージでイエスの復活を指し示しています。
 このように、本来一体である出来事を、ルカは復活・昇天・聖霊授与という順序に起こった出来事として「順序正しく(歴史的に)」記述します。イエスの昇天は、復活の日と聖霊降臨の間のある時に、エルサレム近くのオリーブ山で起こった出来事とされます。
 イエスは「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」とされます。雲は、聖書では神の臨在を指し示す象徴であり、同時に神を人から隠す隔ての象徴でもあります。神のもとに行かれたイエスは、「雲に覆われて」人間の目には見えなくなります。去って行かれるイエスを追って、天を見つめている弟子たちに、「白い服を着た二人の人がそばに立って」、この出来事の意味を解き明かします。この「白い服を着た」二人は、空の墓で現れた人(マルコ一六・五)と同じく、天使としなければなりません。
 二人の天使は弟子たちに「ガリラヤの人たちよ」と呼びかけます。これは、最初期の福音運動がエルサレムのユダヤ教徒には(やや軽蔑している)ガリラヤ人が始めた運動と見られていたことの名残でしょうか(二・七参照)。そしてこう言います。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。「同じ有様で」ですから、来られるときも「雲に包まれて」来られることになります。これは、「人の子」が「雲に乗って」来られると表現してきた《パルーシア》預言(ルカ二一・二七、マルコ一三・二六)の言い直しです。

新共同訳は「またおいでになる」と訳していますが、原文には「また」はありません。この新共同訳は、キリストの来臨《パルーシア》を「再臨」とすることの影響でしょうか。《パルーシア》を「再臨」と表現するのは問題があることについては、拙著『パウロ以後のキリストの福音』256頁の「来臨と再臨―用語について」の項を参照してください。

 先に見ましたように、ルカは差し迫った《パルーシア》を待望するのではなく、聖霊の力によって地の果てまで福音を伝えることを自分たちの時代の課題としていますが、《パルーシア》信仰を捨てたわけではありません。福音書でもマルコ福音書一三章の「小黙示録」をほぼそのまま引き継いでいます。ここでも、昇天の記事を《パルーシア》を予告する出来事として描いています。ルカの二部作は、《パルーシア》を待望しつつ聖霊によって激しく福音を伝えた使徒たちの信仰を、自分たちの時代の状況に合わせた形で再編したものと言えるでしょう。

ルカにおける「十二使徒」 (一・一二〜二六)

 前の「序章」の中の「エルサレムへの移住」の項で詳しく見たように、ガリラヤでイエスに従った弟子たちは、ガリラヤで復活されたイエスに出会って、この福音を伝えるようにという召しを受け、栄光の主イエスの来臨を待つために、エルサレムに移住します。イエスの家族、母マリアと兄弟たち、また、ガリラヤでイエスにつき従った女性たちも、弟子たちと一緒にエルサレムに移住します。そこで見たように、彼らは先の過越祭のとき最後の晩餐をとったシオン地区の二階部屋(または屋上の間)に集まり、心を合わせて熱心に祈ります。ルカは、ペトロ以下その時の十一人の弟子の名をあげています(一・一二〜一四)。イエスが選ばれた十二人の弟子(ルカ六・一二〜一六)は、ユダがイエスを裏切って脱落したため十一人になっています。

 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。(一・一五)

 このエルサレムへの移住は、先にイエスを三度まで否認したペトロが、赦されて立てられ、主導したと考えられます。それで、エルサレムでもペトロがイエスを信じる人たちの一団を主導することになります。この時、「百二十人ほどの人々」が集まっていたとされています。まだエルサレムでの伝道活動は始まっていませんから、この百二十人はガリラヤから来た人たちと、イエスがエルサレムで教えられたときにイエスを信じた人たちとしなければなりません。イエスの在世中に、イエスを信じたエルサレム住民もかなりいたことは、ヨハネ福音書から推察することができます。
 ペトロはまず、ユダの裏切りは聖書が預言したことであって、神の御計画の中で起こらざるをえなかったことであることを述べ、ユダの身に起こった悲惨な結末も聖書(詩編六九・二六と一〇九・八)の預言通りであったことを語ります(一・一六〜二〇)。その上で、ユダの脱落によって欠けた一人を補って「十二使徒」団を維持するために、立てられた二人の候補の中から、「くじを引いて」一人を決め、使徒の仲間に加えます(一・二一〜二六)。

イエスが選ばれた十二弟子の中から師を引き渡す裏切り者が出た事実は、最初期の共同体にとって重荷でした。それを克服するために、それは聖書の預言の通りに起こったことであり、必然(神の計画による「ねばならぬ」)であることが強調されるようになります。また、裏切ったユダの最後がいかに悲惨なものであったかも、時と共に誇張されて語られるようになります。そのことはマタイ(二七・三〜一〇)がまとめていますが、ルカもここで少し違った形で(受け継いだ伝承を用いて)語っています。このユダに関する伝承と、マタイとルカの違いについては、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』382頁の「ユダの自殺」の項を参照してください。

 使徒の仲間として「主の復活の証人」となる者の資格として、「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネのバプテスマのときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者」であることが求められています。このような者は十二弟子以外にもいたわけです。そのような資格のある二人、バルサバと呼ばれユストともいうヨセフとマティアの中から、聖書的な伝統(サム上一〇・二〇以下など)のある「くじ」の形で、マティアの方が選ばれます。マティアはここで名があげられるだけで、以後新約聖書には一切出てきません。
 ルカはその二部作を通して「使徒」の称号を十二人に限定しています。ルカは、イエスが十二人を選ばれたときに「使徒と名付けられた」と明記して(ルカ六・一三)、それ以後は福音書でも彼らはいつも「使徒」と呼ばれています。これはルカだけの呼び方であり、他の福音書にはありません。

マルコ福音書三・一四の「使徒と名付けられた」は有力な写本にはなく、ルカ六・一三からの補筆と見られます。ネスル・アーラント版原典でも[ ]に入れられています。

 福音書の段階、すなわちイエスが地上で教えておられた段階では、彼らはイエスの「弟子」です。その弟子たちが、復活されたイエスに出会い、聖霊を受け、復活されたイエスの証人として世に送り出されます。彼らは、何よりもまずイエス復活の証人ですが、同時に在世中のイエスの教えの伝承の保持者であり、復活されたイエスから「神の国」の奥義を教えられた者であり、聖霊の力を与えられて奇跡を行う者として、ルカの時代(最初期後期)には共同体にとっての土台とされ、最高の権威となり、「使徒」という称号で呼ばれて尊ばれます(エフェソ二・二〇)。ルカはこの「使徒」という称号を、イエスの在世中の働きの時期にまで遡らせ、その二部作を一貫して、イエスが選ばれた十二人の弟子を「使徒」と呼びます。ルカにとって「使徒」は十二人に限られ、パウロでさえも「使徒」と呼ばれることはありません。
 ルカがあげている使徒の資格は、「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネのバプテスマのときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者」です。パウロは在世中のイエスと共にいた者ではありません。また、「天に上げられた日まで」に復活されたイエスに出会った者でもありません。この要件からすると、パウロは「使徒」ではありませんから、ルカは一貫してパウロを使徒と呼びません。しかし彼の著作の第二部の後半はパウロの働きの事蹟で占められています。もしルカ自身が著作の第二部に標題をつけるとすれれば、それは「使徒言行録」ではなかったことでしょう。後世につけられたその標題がふさわしいのは前半だけで、全体は「エルサレムからローマへ」至る福音の史的展開を語る著作です。

U 五旬節の出来事

聖霊の降臨

 1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(二・一〜四)

五旬節の日が満ちて(二・一)

 五旬節(ペンテコステ)は、過越祭と仮庵祭と並んで、ユダヤ教の三大巡礼祭の一つです。春先の過越祭の五十日後に行われます(七週の祭りともいわれます)。昔は「刈り入れの祭り」と呼ばれ、小麦の刈り入れの祭りでした(出エジプト三四・二二)。過越祭を構成する「種入れぬパンの祭り」が穀物の収穫の開始を告げたのに対し、わずか一日の五旬節の祭りが収穫の結びを飾ることになります。このような性格から、五旬節は過越祭の結びの行事のように見なされていたようです。ルカは冒頭で「五旬節の日が満ちて」(直訳)と書いていますが、この「日が満ちて」という表現には、過越祭の時に成し遂げられたキリストの救いの業が充満に達して(結びの日を迎えて)この日の聖霊の注ぎとなったという気持ちが込められているのかもしれません。
 なお、七〇年の神殿崩壊以後は、ラビたちは五旬節をシナイにおける律法授与を記念する祭りと意義づけるようになります。この意義づけは、イエスの時代以前にすでにユダヤ教の中の特定の集団で行われていたようです(たとえばヨベル書六・一七以下)。クムラン宗団でも、新参者の加入を許可する祭りは五旬節に行われたとされています。
 律法授与による旧い契約を記念する祭りの日に、聖霊による新しい契約が実現し、新しい契約の民が誕生したのは、神の御計画によるものであって、人間が計画して起こした出来事ではありません。弟子たちは、過越祭の次の巡礼祭である五旬節に、イエスが復活してメシアとして立てられたことを、祭りに来るすべての同胞ユダヤ人に告知するためにエルサレムに集まっていたのです。そして、その日に「時が満ちた」のです。

激しい聖霊の注ぎ(二・二)

 五旬節の日になって、巡礼者がぞくぞくとエルサレムに集まってきます。弟子たちは、いよいよユダヤの同胞に復活されたイエスをメシアとして告知するために立ち上がらなければなりません。しかし、まだ特別なことは何も起こらず、復活されたイエスが「あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と言われたことが実現しているようには思われません。彼らはまだ、神殿に集まるユダヤ教徒の群衆に大胆に声を上げる力がありません。彼らは必死の思いで祈り続けたことでしょう。
 先にエルサレムに集まった信じる者の数は百二十人ほどであったと記されていましたが(一・一五)、この百二十人が一つの家(二節の「家」は単数形)に集まっていたと想像することは、当時の住居の状況からするとやや困難ですが、ルカはそのような実際の状況には構わないで、「一同が一つになって集まっている」ところに聖霊が降ったということを強調しています。
 「一同が一つになって」切に祈っているとき、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に」響きわたります。ギリシア語では風と息と霊は同じ語《プニューマ》で指し示されますから(そしてヘブライ語でも同じ語です)、聖書ではしばしば霊の動きを風の動きで比喩的に表現します(たとえばヨハネ三・八)。しかし、ここの「風」は《プニューマ》ではなく、文字通り風とか突風という意味の別の語です。ここではまだそれが霊の出来事であるという内容ではなく、外面的な現象だけが報告されています。
 しかし、これが聖霊が降った、あるいは注がれた出来事であることは、すぐに「すると一同は聖霊に満たされ」と言われていることから、明白です。復活されたイエスが「あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と言われたことが実現したのです。彼らは聖霊の中にすっかり浸され(バプテスマされ)、聖霊に満たされたのです。
 聖霊はこの時に初めて地上で働きを始めたのではありません。すでに弟子たちが復活されたイエスに出会ったとき、聖霊は働いておられました。先にも見たように、復活者の顕現は聖霊の働きと一体です。しかし、その働きはまだ個人的でした。すなわち、一人一人の霊眼に、イエスが生きておられることを見せるという働きでした。ところがここでは、すでにイエスが復活して生きておられることを体験している「一同に」聖霊が注がれ、彼らが一つになって、この復活されたイエスを証しする力を受けたのです。あるいは、復活者イエスを証しする力に満ちた共同体が生まれたのです。
 聖霊は人格的存在であって、水のような物質ではありませんから、本来、聖霊が「注がれる」とか「聖霊の傾注」という表現は適切ではありません。しかし、「聖霊のバプテスマ」というときのバプテスマも、水の中に浸されるということですから、聖霊の現実を指し示すのに、水を比喩として用い、「注ぐ」とか「浸す」とか「満たす」という表現を使うことは許されるでしょう(二・一七〜一八、テトス三・六)。ここでは、聖霊が降られたというだけでは十分表現できない、激しい満たしの出来事を描くために、あえて「注ぐ」とか「傾注」を用います。

異言の賛美(二・三〜四)

 一同が「聖霊に満たされた」とき、不思議な現象が起こります。その時、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまり」、「一同は御霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだし」ます。聖霊が火で象徴されることはすでに見たとおりですが、ここでは「炎のように分かれた舌」が現れたと言われています(舌は複数形)。たしかに、めらめらと燃える炎の先は分かれて、舌のように見えます。その「炎のように分かたれた舌」が一人一人の上にとどまります。そのとき「一同は御霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のですから、この「炎のように分かたれた舌」は、人間の言語機能を圧倒している聖霊の存在を指し示す象徴であることになります。
 この象徴関係は、ギリシア語ではよく分かります。ここで「言葉」と訳されている語は「舌」と同じ語《グロッサ》ですから、ここは「炎のように分かたれた《グロッサ》が現れ、一人一人の上にとどまり、一同は御霊が語らせるままに、ほかの国々の《グロッサ》で話しだした」と書かれています。「炎のように分かたれて現れた舌」は、「ほかの国々の言葉」を語らせる聖霊を象徴していることになります。
 一同は聖霊に満たされ、溢れるように神を賛美します。死者の中から起こされ、高く上げられたイエスの栄光を賛美します。このキリスト・イエスにおいて成し遂げられた大いなる神の救いの業を賛美します。その賛美の叫びが、もはや普段自分たちが使っているガリラヤのアラム語ではなく、様々な国の言葉になってほとばしり出たのです。このように、自分の母語と違う別の言語で祈ったり賛美することを「異言」《グロッソラリア》と呼びます。《グロッソラリア》は、文字通りには「舌語り」を意味します。この五旬節(ペンテコステ)の時に、聖書では初めて「異言」という現象が起こります。
 異言という現象は、ここで「御霊が語らせるままに」と言われているように、聖霊が人間の言語機能を支配して語らせる現象です。当人がこう語ろうと意識して語るのではなく、母国語以外の言葉が、聖霊が語らせる言葉として口をついてあふれ出る現象です。この異言現象は、聖霊の働きの一つの現れとして、この時以来ずっと続きます。使徒言行録でも繰り返し報告されていますし、パウロ書簡にも聖霊の賜物《カリスマ》の一つとして取り上げられています。この異言について詳しくは、別の機会に取り上げることにして、ここでは五旬節の出来事を追っていくことにします。

異言を聞いた人たちの驚き(二・五〜一三)

 天から起こった激しい突風のような物音と、一群の人たちが大声で迸るように賛美している声を聞いて、周囲の人たちが驚いて集まってきます。集まってきたのは、「天下のあらゆる国から帰って来てエルサレムに住んでいる信心深いユダヤ人(ユダヤ教徒)」でした。
 当時ユダヤ人は、「イスラエルの地」と呼ばれるパレスチナに住んでいるユダヤ人だけでなく、それよりも多くのユダヤ人が地中海世界の各地(おもに大都市)に散らばって住んでいました。パレスチナ以外の都市に散らばって住んでいるユダヤ人(ユダヤ教徒)は、「離散のユダヤ人」(ディアスポラ・ユダヤ人)と呼ばれていました。彼らにとって、エルサレムは神がその臨在を現される神殿がある永遠の都であり、年ごとに神殿税を送り、事情が許す時には巡礼して神殿に詣で、晩年にはそこに戻って側に住むことを切に願う憧れの都でした。そして、事実エルサレムには、そのように離散の地から戻ってきて住まいを構えるようになったユダヤ人とその子孫が多く住んでいました。ちょうど日本でも大都市に移住してきた地方出身者が県人会などを作って交流するように、世界の各地からエルサレムに帰ってきて住んでいるユダヤ人たちは、それぞれの出身地ごとに会堂を作ったりして、共同体を形成していました。
 大きな物音を聞いて集まってきたエルサレム在住の離散のユダヤ人たちは、この一群の人たちがそれぞれ自分たちの生まれ故郷の言語で語っているのを聞いて、「あっけにとられて」(=混乱に陥って)しまいます。彼らは「茫然自失し」(原語はエクスタシーを指す語)、「驚き怪しみ」― ルカの筆は始めて異言現象に接した外の人々の驚きを強い語を重ねて描いています ― こう言います。
 「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」。祈っている一群の人たちがガリラヤ人であることは、周囲のユダヤ人たちはよく知っていました。最近ガリラヤからエルサレムに移住してきたこともよく知っていました。彼らがガリラヤ人であることは、普段の彼らの言葉(アラム語)のガリラヤ訛りからも明らかでした(マタイ二六・七三)。そのガリラヤ人たちが、世界の各地から来ている自分たちの生まれ故郷の言葉を語っているのを聞いて驚くのです。
 ルカは、ここに集まった離散のユダヤ人たちの元の居住地の一覧をあげています(九〜一一節)。パルティア、メディア、エラム、メソポタミアの四つは東方の国または地域の名であり、そこにはバビロン捕囚以来多くのユダヤ人が住んでいました。離散のユダヤ人の一覧にユダヤがあげられているのは意外ですが(それで多くの読替の提案がなされています)、ルカはこの重要な出来事にパレスチナのユダヤ人も証人に加えたかったのでしょう。カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリアは、パウロの伝道地となったユダヤ人が多く住む小アジアの諸州であり、エジプト、キレネ、リビアはユダヤ人が多く住むアフリカの地域の名です。これで、放射状に東方と西方北と西方南のすべての離散の地があげられたことになりますが、ルカは自分の著作の目的地であるローマをあげることも忘れないで、「ローマから来て滞在中の者」も入れています。その上、「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり」と、集まったユダヤ教徒の中には異邦人出身のユダヤ教徒も含まれることにも触れ、さらに不備を補うかのように、クレタ、アラビアという地名を入れています。ここに集まった離散のユダヤ人は、すでにエルサレムに居住している者だけでなく、巡礼としてエルサレムに来て滞在している者もいたはずです。
 このように多くの地域の国語で育ったユダヤ人たちが、アラム語しか話せないはずのガリラヤ人が自分の故郷の言葉で「神の偉大な働き」を賛美しているのを聞いて驚くのです。ここで語られている異言は、それを聞く者に理解できる言葉であることになります。異言にも二種類あって、それを聞く周囲の人が理解できる場合と、理解できない場合があります。理解できない場合、それは「天使の言葉」だとされることもありました(コリントT一三・一)。現代でも、英語を話せるはずのない人が、美しい英語で祈り出すというような異言の現象は珍しくありません。あの五旬節の日には、アラム語しか話せないガリラヤの人たちが、ここにあげられた多くの地域の言語で祈りだしたのです。
 しかし、一群の人が多くの言語で高揚した大声で賛美している声から、聞いている各人が自分の故郷の言語を聞き分けることは(普通の聴覚では)できないはずです。聞いている各人が、それぞれ自分の母語を聞き分けたというのは、聞く方にも御霊の働きがあって、自分の母語だけを聞き取らせて理解させたと考えざるをえません。現代でも、御霊は異言を解く賜物を与えて、特定の人に聞いている異言を理解させてくださることがあります。この五旬節の日には、聖霊の異言を語らせる働きと異言を解く働きが同時に起こったとしなければなりません。
 異言現象は、パウロ書簡にも詳しく取り扱われていて(コリントT一二、一四章)、ルカの時代の共同体では周知の現象でした。それは聖霊の働きの一つのしるしでした。この五旬節の日に起こった歴史的事実を確定することは困難ですが、その日に始まった福音告知の働きと、その結果生まれた共同体の形成を、ルカは聖霊の働きとして語り、それが聖霊の働きであることを示す顕著なしるしの異言現象で彩ります。このような福音の時代の端緒を語るルカの語り方に、ルカの理念、ルカの救済史理解が表れています。しかし、それは続くペトロの説教でさらに明確に表現されることになりますので、そこで扱うことにします。

V ペトロの説教(二・一四〜四二)

使徒言行録における「説教」

 使徒言行録には二五ほどの演説または説教が含まれていますが、そのほとんどすべては、ほぼ同数のペトロとパウロの説教です。もちろん、それは実際に語られた説教をそのまま記録しているのではなく、ルカによる要約であり、ルカによって入念に作り上げられ、言語形式や文体においてルカの特色を示しています。
 ルカの要約は、古代の歴史文学における「演説要録」という性格のものです。著者は、主要人物の演説を要約して記述することで、その歴史の意義や自分の確信とか主張を、その人物を通して語っているのです。ルカの場合、その全体がルカの作文だということはできません。資料に基づく何らかの歴史的な核があるとしなければなりませんが、説教を要約して記述するルカの仕方は、ルカ自身の思想や神学によるものであり、ルカの時代の福音理解に基づいています。
 その結果、本来かなり違った立場で伝道したはずのペトロとパウロの演説が、その違った立場を反映せず、同じような内容となり、どちらの演説として読んでもよいような内容になっています。また、その演説の内容が、それが行われたとされる状況と合わない場合もあります。したがって、使徒言行録の中の説教や演説を読むことによって、ルカとその時代の福音理解は伝わりますが、それを通してペトロやパウロの実際の歴史的状況と演説内容を確認することは、きわめて困難な課題になります。
 この困難さは、福音書を通してイエスの実際の言葉を確認しようとする課題の困難さと似ています。福音書に伝えられているイエスの言葉は、すでに最初期共同体の状況の中で伝承され記録されたものであり、その状況と無関係ではありえません。しかし、福音書の場合は他の福音書と比較することで、かなり歴史的なイエスの言葉に迫る手がかりがあります。それに対して使徒言行録の場合は、ルカの要約しかないのですから、比較の手がかりはなく、実際の内容を確認することは困難を極めます。パウロ書簡との比較が助けになる場合もありますが、そのような場合は限られています。
 本書は、最初期の福音の歴史的展開を追うことによって福音の本質に迫ることを課題としており、使徒言行録の注解や講解を目指すものではありません。従って、各演説や説教を詳しく講解することはしないで、ルカがそのようにまとめた意義を探求して、少しでも各時代の実際の福音の在り方に迫りたいと願っています。

終わりの日の到来(二・一四〜二一)

 ガリラヤから来た一群の人たちが異言で「神の偉大な業」を賛美しているのを聞いて、エルサレムのユダヤ教徒は大いに驚きますが、一部の人たちは「あの人たちは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲笑します。それで、「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始め」ます。ルカは以下のペトロの福音告知の演説を、十二使徒の告知として提示します。
 ペトロはまず「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」と釈明した上で、ヨエル書を引用して、今ここで起こっていることは、預言者ヨエルが終わりの日に起こると預言したこと、すなわち神の霊の傾注が実現しているのだと告知します。

ルカは七十人訳ギリシャ語聖書のヨエル書三・一〜五を引用しています。そのさい、冒頭の「それらのことの後に」を「終わりの日々には」という表現に変えています。ヨエル書のこの箇所は、三〜四節の「天と地にしるしを示す。・・・・・太陽は闇に、月は血に変わる」が示しているように、きわめて強い黙示思想的な終末預言です(マルコ一三・二四などを参照)。最初期の共同体は、その預言にある神の霊の傾注に関する部分(一〜二節)を、自分たちが体験している聖霊の注ぎと働きの預言として用いました。ルカは、ここでそれをペトロに語らせています。なお、最後の五節は、「しかし、主の御名を呼ぶものは皆、救われる」という最初期の福音告知のスローガンとなった文だけが引用され、以下の数行は引用されていません。

 今イエス・キリストを信じる者たちが体験している聖霊の働きは、終わりの日の出来事の一つであり、その終わりの日の完全な顕現が近いことを指し示すしるしです。終わりの日に関する聖書の預言が成就しているのです。ルカはそのことを、五旬節のペトロに語らせることによって、世界に告知します。

神のご計画によるイエスの死と復活(二・二二〜二八)

 聖書の終末預言が目の前で実現していることを宣言した上で、ペトロは本題に入ります。改まって「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と呼びかけて、「あなたがたが、律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったナザレの人イエスを、神は死の苦しみから解放して、復活させられました」と語りかけます。この「あなたたちはイエスを殺したが、神はこのイエスを復活させた」という告知が、この五旬節のペトロの宣教の核心です。イエスが十字架につけられたことはエルサレムのユダヤ人はみな知っています。今ペトロは彼らに、自分が体験した否定しようのない事実として、「神はイエスを復活させた」と証言します。
 ペトロは、イエスの復活を自分が体験した事実として証言するだけでなく、イエスの死も復活も共に神のご計画に従って起こったことだと、聖書に基づいて説きます。聖書を論拠として説くことは、聖書を神の啓示として信じているユダヤ教徒に告知するときには、不可欠の要件です。
 まずペトロは、聴衆も知っているイエスの「奇跡と、不思議な業と、しるし」を取り上げ、それは神がイエスを通して行われた働きであり、神がイエスを遣わされたことの証明であるとします。この奇跡の働きによって神から遣わされた方であることが証明されているイエスを、あなたたちは「律法を知らない者たち(異邦人)の手を借りて、十字架につけて殺してしまった」が、それは「神が、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡された」出来事であるとします。特定の聖書の箇所は引用されていませんが、聖書全体が来たるべきメシヤの苦難を預言しているという最初期共同体の聖書理解(ルカ二四・二六〜二七、四四)を、ルカはここでペトロに語らせています。

ここで「十字架につけて」と訳されている用語は、パウロが「十字架につけられたキリスト」という時の「十字架」を語幹とする動詞ではなく、「釘づける」という意味の動詞です。これは、パウロ以前の古い表現を残しているのかもしれません。

 このイエスの十字架の死も神から出たことであるが、しかしそのイエスを、神は死の苦しみから解放して復活させられたと宣言し、それを「(神からの人である)イエスが死に支配されたままでおられるなどということはありえなかったから」だとし、その理由の文を聖書を用いて論証します。
 ここで引用されている聖書は、ダビデの作とされている詩編一六編(八〜一一節)です。この詩編はもともと敬虔なイスラエルの魂が神の守りを賛美する詩編ですが、最初期のユダヤ人の共同体で、他の多くの詩編と共に、来るべき救世主の預言と解釈されて用いられるようになっていました。その解釈を、ルカはここでユダヤ人聴衆に向かってなされたペトロの説教に用いています。詩編の「魂を陰府に渡すことなく、・・・・・墓穴を見させず」という(ヘブライ語聖書の)詩的表現は、ここでは「魂を陰府に捨て置かず、・・・・朽ち果てるままにしない」と、死人の中からの復活を預言する(七十人訳ギリシャ語聖書の)具体的な表現で引用されています。

メシヤとして立てられたイエス(二・二九〜三六)

 当時のユダヤ教においては、「ダビデの詩」という標題の詩はみなダビデの作だとされていましたから、語る者も聴く者もユダヤ人であるところでは、「ダビデの詩」である詩編一六編は、実際にダビデが語った言葉であるとして引用することは当然でした。ペトロは、この詩編一六編の預言は、その墓が現につい近くにある(=確かに死んでしまっている)ダビデが自分について語った預言ではありえず、「ダビデは預言者であったので」、将来ダビデの王座に就くと約束された方、すなわちメシヤについての預言であることを知っていたとします。

エルサレムで「ダビデの墓」とされる遺跡は、エルサレム南西部、シオン地区(最後の晩餐を記念する教会の近く)にあります。

 その上で、ダビデは「キリストの復活」について語ったのだとして、再び詩編一六編(一〇節)を引用しますが、今度は「その体は朽ち果てることがない」と、(詩編にはない)「彼の体」を入れて、その預言が死人の中からの体の復活であることをさらに鮮明にします。このような聖書の引用を見ていますと、最初期のユダヤ人共同体が、イエスを信じない(=イエスの復活を信じない)ユダヤ人に対して、聖書を論拠として用いた論争の苦心の跡がうかがえます。
 このような議論は、イエスが復活されたという事実がユダヤ教徒の間に引き起こした結果であり、聖書解釈の争いです。重要なことは、イエスが復活されたという事実です。それは客観的・歴史的事実ではなく、信じる者が体験する主体的・霊的現実です。イエス復活の告知は、本来「神はイエスを復活させた。わたしたちは皆、そのことの証人です」という形で告知される性格のものです。五旬節の日にペトロたちは、聖霊の力に満たされて、この証言を開始したのです。
 イエスが復活されたということは、イエスが「神の右に上げられた」ことを意味します。イエスの復活を体験した最初期のユダヤ教徒は、それを「神の右の座に着かれた」という聖書の表現を用いて言い表しました。そして、イエスが復活して高く上げられ、今現に神の右に座しておられることを、二つの論拠を用いて確証します。
 その第一は、「あなたたちが今見聞きしている」この聖霊の注ぎは、神の右に上げられたイエスが、終わりの日にすべての者に注ぐと約束された聖霊(先のヨエル書の預言)を、父から受けて注いでくださった結果であり、この聖霊の現象はイエスが神の右に座しておられることを指し示すしるしであるとします。
 第二は、再び「ダビデの詩」からの聖書引用です。ここに引用されている詩編一一〇編一節は、最初期の福音告知において、イエスの復活・高挙を聖書を用いて論証するために、繰り返して用いられた重要な箇所です。この詩編の言葉は、イエスがダビデの子ではなく、ダビデの主であることを論証するために、イエスご自身が用いられたとされています(マルコ一二・三五以下)。その詩編の言葉を、最初期の福音告知はイエスの復活・高挙を預言するダビデの預言として用いました。ダビデは偉大な王でしたが、死んで葬られ、天に昇ることはありませんでした。そのダビデが「主は、わたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着け』」と預言したのだから、その詩編はダビデの主であるメシヤが神の右に座するにいたることを預言しているのだとされます。この詩編による論証が、五旬節の日になされたペトロの最初の福音告知に用いられているのです。
 このように、イエスの復活・高挙を証言し論証した上で、ペトロはその福音告知の説教を結びます。これが、ペトロの五旬節説教の眼目です。

 「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。(二・三六)

補注 ― 「メシア」か「キリスト」か

 ここのペトロの告知の言葉は、ギリシア語では「あなたたちが十字架につけたこのイエスを、神は《キュリオス》また《クリストス》としてお立てになった」という表現です。《クリストス》は、ヘブライ語またはアラム語の「メシア」(油を注がれた者)に相当する語のギリシア語訳ですから、新共同訳は、アラム語でなされたペトロの説教で用いられたはずの「メシア」に戻して訳しています。この訳し方は、イエスが「あなたたちはわたしを誰と言うか」と問われたときに、ペトロが「あなたこそ神からの《クリストス》です」と答えたところを、「あなたは神からのメシアです」と訳した(ルカ九・二〇)のと同じ線上にあります。
 福音書でのペトロの告白を「あなたはメシアです」と訳すのは適切です。当時のユダヤ人たちが期待していたメシアとは、神の力をもってイスラエルを異邦人の支配から解放し、世界に神の支配をもたらす解放者であって、ペトロもそのような意味でイエスをメシアと信じたのです。それは、そのペトロのメシア告白をイエスが修正して、そのようなメシアではなく、苦しみを受けて復活する「人の子」であると言われたと伝えられていることからも確認できます。

福音書でのペトロの告白を「メシア」と訳すことについては、拙著『マルコ福音書講解T』326頁以下の段落44「苦しみを受ける人の子」の講解を参照してください。

 ところが、ここは違います。イエスはすでに苦しみを受けたあと復活しておられるのです。ペトロはアラム語で説教したのですから、当時のユダヤ人たちが用いている「メシア」という表現を使ったのでしょうが、それはもはやあの時(福音書におけるペトロの告白)の「メシア」ではありません。そうでないことを示すために、ペトロは先に《キュリオス》という称号を出して、「《キュリオス》また《クリストス》とした」と一息に言います。この《クリストス》は、もはやあの時の「メシア」ではなく、たしかに油(霊)を注がれて世に遣わされた方(メシア)ですが、神と等しい栄光の座にいます《キュリオス》としての「メシア」です。
 この「主」《キュリオス》という称号は、異邦人世界に福音が広まったとき、異邦人共同体で初めて用いられるようになったという見方があります(宗教史学派)。たしかに、異邦人世界ではかなり早い時期に「イエス・キリスト」が固有名詞のように受け取られるようになり、イエスの身分を指す尊称として「主」《キュリオス》が用いられ、「イエスは《キュリオス》である」という信仰告白が基本的定式として用いられるようになっていたのは確かです(コリントT一二・三、ローマ一〇・九など)。
 しかし、パレスチナのユダヤ教内のキリスト告白においても、早くから復活されたイエスに対して《キュリオス》という称号が用いられていた痕跡が多くあります。たとえば、「マラナ・タ」というアラム語の祈りの言葉(信徒間の挨拶とか合い言葉のようになっていたと考えられます)が伝えられていますが(コリントT一六・二二)、これは「主よ、来たりたまえ」という祈りであり、アラム語を用いるパレスチナの共同体が、復活されたイエスに向かって「主」という尊称で呼びかけていたことを示しています。また、パレスチナに起源すると見られるイエスの語録集にも、イエスを《キュリオス》と呼びかけている語録が伝えられています(マタイ七・二一=ルカ六・四六)。同じくパレスチナ起源と見られるヤコブの手紙(五・七〜八)にも「《キュリオス》の来臨」という表現が用いられています。
 もともと聖書では、「主」は神に対して用いられる尊称です。それを復活されたイエスに対して用いた事実は、アラム語を用いるパレスチナの最初期の共同体(ユダヤ教内のキリスト信仰共同体)もまた、かなり早い時期から、復活されたイエスを神性をもつ方としていたことを示しています。このように 復活されたイエスに「主」という尊称を用いるようになったのはいつ頃からかを確認することは困難です。また、ペトロが五旬節の説教で実際にはどのような用語で復活されたイエスを呼んだのか確認することも困難です。しかしルカは、五旬節の最初の福音告知において、すでにペトロが復活されたイエスを「《キュリオス》また《クリストス》」と呼んだとしています。
 したがって、ここの《クリストス》を「メシア」と訳すことは問題です。イエス復活後の福音告知においては、復活されたイエスはもはや当時のユダヤ人が期待した「メシア」ではなく、「わたしたちの罪のために死に、三日目に復活されたキリスト」です。五旬節当日の説教ではまだイエスの死の意義が明確に語られたのではないでしょう。また、ペトロが実際に用いた用語も確認することは困難です。しかし、この日から告知される復活者イエスは(このような意味での=《ケリュグマ》の)「キリスト」として告知されているのですから、ここはやはり「キリスト」と訳すべきでしょう。福音書でのペトロの告白を「メシア」と訳すのは適切ですが、新共同訳のように、それを復活以後にも用いるのは適切ではないとしなければなりません。

賜物としての聖霊の約束(二・三七〜四二)

 ペトロの説教の最後に来る結びの言葉(三六節)は、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と訳すこともできます(新改訳)。たしかにこう読んだ方が、聴衆のユダヤ人が胸を刺されて、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と、ペトロたちに問いかけたことによく続きます。聴衆の中には、ピラトの法廷で「あの男を十字架につけよ」と叫んだ人たちもいたことでしょう。
 自分たちがしたことの重大さに恐れをなしたユダヤ人聴衆が発したこの問いに、ペトロは答えます。

 「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも与えられているものなのです」。(二・三八〜三九)

 ここでの「悔い改め」は、律法に違反していた生活を改めることではありません。イエスを拒否していた態度を一八〇度転換して、イエスをキリストとして受け入れることです。そして、このように態度を転換してイエスをキリストとして受け入れることを、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」ことで言い表すように求めます。
 ここでバプテスマに「罪の赦しに至らせる」または「罪の赦しを受けるために」という説明がつけられています。この五旬節の状況では、「罪」とは個々の律法違反の集積ではなく、神が遣わされた方を十字架につけたという罪です。この途方もない罪も、悔い改めてイエスをキリストとして受け入れるならば赦されるという告知です。しかし、ここでルカは、「罪過(複数形)の赦しに至らせる悔い改めのバプテスマ」という、最初期の福音告知でヨハネのバプテスマ以来のバプテスマ活動を指すのに定型化して用いられていた表現をそのまま用いています。しかし、ここでの罪は、神によって主またキリストとされた方を十字架につけたという大罪です。そのような大罪さえも神は赦してくださるという告知です。このことを語るペトロの心中には、三度までイエスを否認した自分を受け入れてくださったイエスの姿があったことでしょう。
 ここでペトロは、悔い改める者に「イエス・キリストの名によってバプテスマを受ける」ことを求めています。イエスは洗礼者ヨハネのもとを去って独自の宣教を始められてからは、バプテスマを授けることなく、バプテスマのことを語られたこともありません。ところが弟子たちは五旬節以来、イエスを信じる者に「イエスの名によるバプテスマ」を授けてきました。そして、それを復活されたイエスの命令として根拠づけてきました(マタイ二八・一九)。
 最初期の福音活動において、バプテスマが再開された理由と時期については議論が続いています。しかし、バプテスマが当初から広く行われていたことは、パウロ書簡からも確認できます。ルカは、このバプテスマ活動を最初の五旬節からとして描きます。しかし、福音におけるバプテスマは、洗礼者ヨハネの「罪過(複数形)の赦しを得させるバプテスマ」ではなく、イエスを主またキリストと言い表すバプテスマです。もちろん罪の赦しを含みますが、それ以上に「聖霊のバプテスマ」を受ける場です。
 ペトロは「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と言っています。この「そうすれば」は、バプテスマという儀礼を受ければという意味ではなく、イエスをキリストと言い表し、このイエスに全存在を浸し入れる(全生涯を委ねる)ならばという意味です。そのように信仰を言い表してイエスに身を委ねれば、「聖霊の賜物を受ける」(直訳)のです。これはイエスを信じる者に神が与えてくださる約束です。
 ここの「聖霊の賜物」は、パウロ書簡に出てくる「聖霊の《カリスマ》」ではなく、「聖霊という(神からの無代価の)賜り物」という表現です。「賜物として聖霊を受ける」という意味です。聖霊を受けるのは、律法の行いとか、道徳的立派さとか、宗教的精進というような、わたしたち人間の側の努力や価値・資格によるものではなく、まったくそれに値する価値や資格のない者に、ただイエスを信じるがゆえに無代価で与えられる神の賜物です。このように、受ける資格とか価値のない者に、無条件によいもの(ここでは聖霊)を与えてくださる神の姿勢とか働きを、聖書は「恩恵」と呼びます。ここのルカの記事は、福音とは初めから恩恵の告知であることを示しています。
 この「聖霊の賜物」の約束は、まず「あなたがた」に与えられています。すなわち、イエスを十字架につけて殺した世代のユダヤ人たちに与えられています。そして、「あなたがたの子供たち」、すなわちこの時代のユダヤ人の子孫たち、代々のユダヤ人にも与えられています。さらに、「遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」与えられています。これは、神が招かれる限り、ユダヤ人の枠から離れて「遠くにいるすべての人」(=異邦人)にも与えられているとします。ルカは、著作の主題である異邦人への救いの進展を、最初のペトロの宣教に織り込みます。神の霊が異邦人に与えられるというようなことは、当時のユダヤ教徒には考えられないことです。

 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(二・四〇〜四二)

 五旬節のペトロの説教はこれに尽きるのではなく、「このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、勧め」ます。ルカはペトロの勧めを、「邪悪なこの時代(世代)から救われなさい」という言葉でまとめています。この表現には、現在は神の終末審判が迫っているのであるから、裁きに定められたこの世代の民の中から救い出されて、神が受け入れてくださる新しい別の民に加わりなさい、という意味が含まれています。

ここで「時代」と訳されている語は《ゲネア》ですが、これは「血統、家系」という意味と、ある特定の「世代」という意味の語です。マタイ福音書の系図(一・一七)で、「一四代」とあるのは「一四の《ゲネア》」です。この語は共観福音書で多く用いられており、そのほとんどは「この《ゲネア》」という形で、イエスの時代のユダヤ民族を指しています。それは最後の審判の直前の世代を指しており、今呼びかけている世代の民が、そのような終末に直面していることを示して、悔い改めを迫っています(たとえばルカ一一・五〇)。「邪悪な世代」という表現は旧約聖書にもありますが(申命記三二・五ほか)、黙示思想の拡大によって、終末の直前の世代がきわめて邪悪な相を見せるようになるという思想が一般的になってきます(たとえばラテン語エズラ記五・九〜一二、マルコ一三・五〜一三)。イエスも「神に背いたこの罪深い《ゲネア》」という言い方をされたと伝えられています(マルコ八・三八)。パウロも、キリストはわたしたちを「悪の世から救い出すために」御自身を捧げられたと言っていますが(ガラテヤ一・四)、ここの用語は「悪の《アイオーン》」です。これは「来るべき《アイオーン》」に対して、時間の中にある現在の世の総体を指しており、「この世代《ゲネア》」よりも一般的な意味合いの語です。

 ペトロの説教を聴いて、その勧めを受け入れた人たちはバプテスマを受けて、イエスをキリストとして信じることを言い表します。「その日に三千人ほどが仲間に加わった」とありますが、「三千人」という数がどの程度正確に歴史的事実を伝えているのかは確認困難です。しかし、先にも見たように、聖霊の著しい注ぎは聴衆にも及んだと考えられますので、ペトロの説教を聴いた多くの人が、聖霊の働きの中でイエスが復活しておられることを体験したと考えられます。先に序章の「X 復活顕現の伝承」で見たように、復活されたイエスはペトロと十二人に現れた後、「次いで、五百人以上もの兄弟に同時に現れました」というのは、この五旬節の日の出来事であるとする見方もあります。このように、多くのユダヤ人がイエスを信じるようになった出来事が語り伝えられる過程で、「三千人」という伝承が形成され、それをルカが用いたのでしょう。
 バプテスマを受けてイエスを主キリストと言い表すようになった人たち(みなユダヤ人)は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とされます。「パンを裂くこと」は、イエスが弟子たちとされたように、食事を共にする集会を指していると考えられます。こうして、五旬節の日にエルサレムで、多くのユダヤ教徒からなる共同体が成立します。この共同体の姿や歩みを描くことが、次節からの主題となります。