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第五節 復活顕現の伝承

パウロ書簡における顕現伝承

 このように、イエスが十字架された過越祭から次の巡礼祭である五旬節までの七週間は、イエスの刑死で挫折・消滅したかに見えた福音運動が、復活者イエスを終末時の主キリストとして宣べ伝える新しい形で力強く息を吹き返し、将来の福音の史的展開の出発点となった重要な時期です。その原動力は、この期間中に弟子たちが復活者イエスの顕現を体験したことです。この体験がどのようなものであったかは、この体験を語り伝える伝承をたどる以外に知ることはできないのですが、その伝承が実に様々で、その全容を見渡す統一的な物語を書くことは困難です。本稿で見たように、四福音書が伝える復活顕現の物語は大きく違っていて、一つにまとめることはできません。それで最後に、福音書に書きとどめられるまでの伝承のいくつかを取り上げて、この期間に起こった復活顕現の出来事に少しでも迫ってみたいと願います。
 弟子たちが復活者イエスの顕現を体験してからそれが福音書に書きとどめられるようになるまでの間に、彼らの体験がどのように語り伝えられたのか、その過程はもはや正確に叙述することはできません。しかし、この期間の中程に、いやむしろ初期に(この表現については後述)、復活顕現の伝承を垣間見させる重要な文書記録があります。それは、パウロ書簡です。
 パウロは、コリント第一書簡の一五章で、自分が知っている顕現伝承をまとめて、次のように書いています。

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。(コリントT 一五・三〜八 新共同訳)

 最初の福音書であるマルコ福音書の成立が70年前後とすると、50年代初頭のコリント第一書簡は、この期間の中程になりますが、80年代とか90年代の成立と推定される他の福音書から見ると、この期間のごく初期になります。この記録は、新約聖書の中でもっとも早い時期の文献記録であり、復活顕現の伝承をたどる上で最も重要な資料となります。ここに記録されている顕現伝承について、留意すべき重要な点を見ておきましょう。

ペトロと十二人への顕現

 ここでパウロは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と言って、ここに引用している宣教内容がパウロ自身が受けてコリントの人々に告知した福音であることを宣言しています。ですから、この宣教内容はパウロ以前に確立していた告知内容《ケリュグマ》であり、そのもっとも古い定式であると言えます。その定式は、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死に、葬られ、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活し、ケファに現れ、その後十二人に現れた」という部分であり、おそらく復活顕現の後数年以内に、エルサレム共同体で形成された定式であると見られます。
 この《ケリュグマ》の内容については、ここで立ち入ることはできませんが、キリストが復活したという告知が、その顕現に接した弟子たちの体験と一体として語られていることが、ここでは重要です。キリストの復活は、どこそこで地震が起こったというような、客観的・歴史的事実として報告できる事柄ではなく、特定の人たちの体験として起こったことであり、それを体験した人たちの証言によって告知され、その証言によって復活者イエスを信じる者に与えられる霊的体験です(使徒一〇・四〇〜四一参照)。
 この特定の人たち、すなわち神によってあらかじめ証人として選ばれ、復活者イエスの顕現を体験した者は、この《ケリュグマ》では「ケファと十二人」と特定されています。「ケファ」という名は、シメオン(ギリシア語ではシモン)というガリラヤの漁師にイエスが与えられた呼び名であり、「岩」を意味するアラム語です(ヨハネ一・四二)。彼はユダヤ人の信徒仲間ではよくこの名で呼ばれています。この「岩」を意味するギリシア語が「ペトロ」であり、後にこのペトロが彼の呼び名として広く用いられるようになります。「ケファ」というアラム語の名が用いられていることは、(他のユダヤ教特有の表現と共に)この《ケリュグマ》がアラム語圏の最初期エルサレム共同体で成立したことを示しています。
 ここで(定冠詞をつけて)あの「十二人」と言われているのは、「十二人」と言えば誰のことか周知の人たちであることが前提されています。パウロがこの書簡を書いた時には、十二人の弟子団が生前のイエスの教えを継承する者として、またイエスが復活されたことを証言する者として、その権威が確立していたことを示しています。この「十二人」の名はここではあげられず、一団として扱われています(この「十二人」の意義については、ルカ二部作の講解の適当なところで扱うことになります)。
 「ケファ」(=ペトロ)の名だけが最初にあげられ、「その後に」十二人に現れたと言われているのは、ペトロがこの「十二人」弟子団の筆頭者であり、「十二人」を代表する立場であることを表現しています。先に見たように、ペトロは弟子団を代表していつも真っ先に発言し、イエスを否認することでも代表格でしたが、その裏切りを赦されたペトロは、復活者イエスの顕現に最初に接し、弟子団が再びエルサレムに移住することを主導したと見られます。このような弟子団におけるペトロの位置は、エルサレムで十一人とその仲間が、「本当に主は復活してシモンに現れた」と言っていたというルカの記事(二四・三三〜三四)にもうかがわれます。
 弟子たちは、イエスの十字架の後ガリラヤに戻ります。そして、ガリラヤで復活されたイエスに出会います。そのことは、生前のイエスと空の墓に現れた天使が予告したこととされ、ガリラヤでの復活者イエスの顕現に接した体験が、イエスのガリラヤ伝道の時期の出来事に組み込まれて語られます(マルコ福音書)。マタイはこのマルコの語り方を踏襲しつつも、ガリラヤに戻った弟子たちがイエスの指定された山で復活されたイエスにお会いし、世界宣教の命令を受けた出来事があったとしています(マタイ二八・一六〜二〇)。マルコ福音書(九・二〜一三)にはイエスが高い山で姿が変わられたという記事がありますが、この記事とマタイの山上での復活者イエスの顕現記事との関係が問題になります。二つの記事は別の出来事を描いているのでしょうか、それとも同じ出来事を違った状況に置いて描いているのでしょうか。ルカ福音書五章とヨハネ福音書二一章にある二つのガリラヤ湖での大漁の記事の関係と同じ問題が起こります。
 山上の変容の記事には(マルコにもマタイにも)、山を下りるときイエスが弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」と命じられたとあります。ということは、この物語はイエスの復活後には、イエスの神の子としての栄光(地位)を告知するために、使徒たちによって繰り返し用いられていたと考えられます。事実、かなり時代は遅くなりますが、ペトロの名によって書かれた手紙に、ペトロの宣教の言葉として次のように引用されています。

 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」。(ペトロU一・一六〜一八)

 わたしは、マルコ福音書に伝えられている「山上の変容」は、実際にイエスの生涯にあった事実であると理解しています。マルコの記事は、きわめて具体的です。イエスが、意を決してエルサレムに上ろうとされたとき、フィリポ・カイサリア地方の高い山に登り、そこで祈りに入られたとき、そのお姿が変わり、天的な栄光に包まれたことを、弟子たちは目撃したと考えられます。その出来事が、イエスの復活後、イエスの神の子としての栄光(地位)を告知するために用いられ、マタイの復活者イエスの山上での顕現記事になったと推察されます。

拙著『マルコ福音書講解U』351頁「山上での顕現」を参照。

五百人以上の兄弟への顕現

 パウロが最初期のエルサレム共同体から受けた《ケリュグマ》は五節までで、「次に」という語で始まる六節以下は、それに加えてパウロが知っている顕現伝承を列挙したものと考えられます。その最初に「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」という報告が来ます。この報告がどのような出来事を指しているのか、古来議論が絶えません。
 これはペンテコステの日に聖霊が多くの人に降ったときのことを指していると考える人もいます。その可能性を否定することはできませんが、弟子たちが祈っていた一部屋のことや、当時のエルサレムの街の狭さから想像すると、この可能性は小さいと考えられます。わたしはむしろ、この出来事はガリラヤで起こったのではないかと推察しています。
 イエスは生前ガリラヤの各地を巡って、多くの病人をいやし、「神の国」の福音を告げ知らされました。ガリラヤにはイエスを慕う多くの人たちがいたはずです。イエスの十字架の後、ガリラヤに戻っていたペトロら弟子たちは、ガリラヤで復活されたイエスの顕現に接し、まず周囲の人々にこの驚くべき出来事(イエスの復活)を語ったことでしょう。ある時ペトロたちの話を聞くために多くの人たちが(おそらく人里離れた寂しい場所に)集まり、イエスのエルサレムでの最後とその後の復活顕現の出来事を語るペトロたちに耳を傾けていた時、聖霊が降り、多くの人たちが同時に復活されたイエスの顕現を体験するというような出来事があったのではないかと推察されます。

この「五百人への顕現」と、イエスがガリラヤの荒野で五千人の人たちにパンをお与えになった記事との関係については、拙著『マルコ福音書講解U』348頁「食卓での顕現」を参照してください。

 これはあくまでわたしの推察に過ぎません。しかし、エルサレムであれガリラヤであれ、このような多数の人たちに同時に復活されたイエスが御自身を現される出来事があったことは事実であり、その事実性をパウロは、「そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています」という言葉で確証しています。この出来事は30年のことであり、パウロの手紙は50年代初頭ですから、まだ二十数年しか経っていません。生存している人もかなりいたはずです。コリントの人たちから見ると、出来事があったパレスチナは遠い土地ですが、当時の地中海世界の密接な交通からすると、その体験をした生き証人に直接確かめることもできる状況です。事実、「十二人」以外でこのような復活顕現を体験したユダヤ人たちが、パウロの時代までに各地のディアスポラ・ユダヤ人に復活者イエスを宣べ伝えています(たとえばローマ書一六章に出てくるアンドロニコスとユニア)。パウロはこのような形で、多くの証人を立てて、復活顕現が事実であることを保証します。

ヤコブとすべての使徒たちへの顕現

 続いてパウロは、「次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」と書いています。このヤコブは、十二人の一人「ゼベダイの子ヤコブ」ではなく、「主の兄弟」と呼ばれるヤコブです。復活されたイエスがどのように兄弟のヤコブに現れたのか、その具体的な出来事を確認することは困難ですが、そのような出来事があり、それを語り伝える伝承がごく初期からあって、それをパウロがここに引用しています。
 パウロは五節で《ケリュグマ》の引用を終えた後、「次いで」という語を繰り返し、その後「最後に」という表現で自分への復活されたイエスの顕現を語っています。しかしこれは、時間的な前後関係を明らかにするためではなく、本来別々の顕現伝承を列挙して、(時期的にはかなり遅い)自分への顕現をペトロやヤコブへの顕現と同じ系列に置くためであると見られます。
 「ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れた」という伝承も、もともと「すべての使徒たち」に対するヤコブの首位性を語る顕現伝承を、ペトロへの顕現と並べてここに置いたものと見られます。最初期の共同体では、復活されたイエスが最初に現れたという事実が、その人物の権威を保証する重要な要件であったようです。ヤコブはかなり初期から「主の兄弟」としてエルサレム共同体で重んじられていましたが、40年代初頭のヘロデ王による弾圧でペトロがエルサレムから去ってからは、ヤコブがエルサレム共同体を代表し統率する立場に立っていました(使徒一二章)。そのヤコブの首位性を保証する伝承が、このような形で形成されていたと見られます。この伝承はさらに発展して、後には復活されたイエスは誰よりも先に兄弟のヤコブに現れたという伝承になっていきます(ヘブル人福音書一七)。
 ペトロの場合は最初に顕現を受けたものとして「十二人」の筆頭者とされていますが、ヤコブは「すべての使徒たち」の代表者とされています。それで、「十二人」と「すべての使徒たち」がどういう関係と見られているのかが問題になります。「すべての使徒たち」は、イエスの生前に召されて弟子となった「十二人」よりも範囲が広く、最初期の福音運動で(何らかの形で)復活されたイエスの顕現に接して、そのイエスを宣べ伝えるために各地に派遣された伝道者すべてを指していると見てよいでしょう。ヤコブはこのような「使徒たち」を代表する首座にあるとされているわけで、この伝承は最初期の福音運動における「主の兄弟ヤコブ」の権威を垣間見させています。

「主の兄弟ヤコブ」については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』438頁以下の附論第一章第一節「主の兄弟ヤコブ」を参照してください。そこで見ましたように、ヤコブは生前のイエスの宣教活動に協力的であり、最後の過越祭のエルサレム行きにも、母マリアや家族と一緒に同行しています。そして、復活されたイエスの顕現に接し、弟子たちと共にエルサレム共同体に加わり、次第に影響力を強め、40年代初頭から60年代初頭の殉教に至るまで、エルサレム共同体の代表者として、その時期のエルサレム共同体を取り仕切るだけでなく、福音運動全体に巨大な足跡を残します。ヤコブについては、生前のイエスの活動には批判的であったが、復活されたイエスの顕現を体験して回心したという見方が一般的でしたが、最近この通説は見直されつつあります。
 なお、ヤコブへの顕現伝承は発展して、後に復活されたイエスは最初にヤコブに現れたという伝承になり、それが「ヘブル人福音書」(おそらく二世紀にエジプトで成立)の断片一七に記録されるようになります。参考までにその断片を引用しておきます。
 「一七 ヘブル人によると呼ばれ、最近わたしがギリシア語およびラテン語に翻訳し、オリゲネスもしばしば用いている福音書もまた、救い主の復活のあとに次のように述べている。『しかし主は、布地を祭司の奴隷に与えてしまったあとに、ヤコブのところに行って彼に姿を現した』。なぜならヤコブは、主の杯を飲んでしまったあの時から、主が眠っている者たちの間から復活するのを見るまでは、パンを食べないと誓っていたからである。そしてしばらくたってまた『食事とパンを持って来なさい』、と主は言った。そしてすぐに次のようにつけ加えられる。『彼はパンをとり祝福してさき、義人ヤコブに与えて言った、「わが兄弟よ、きみのパンを食べなさい。なぜなら、人の子は眠っている者たちの間から復活したのだから」』」。 ――『聖書外典偽典』6巻「ヘブル人福音書」(川村輝典訳)より引用

パウロへの顕現

 パウロは「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と書いて、復活されたイエスが自分に顕現されたあのダマスコ途上の出来事を、ペトロから始まる顕現伝承の系列の最後に置いています。パウロの顕現体験は、「過越祭と五旬節の間」にあったペトロたちの体験からかなり日が経っています。三年ほど経っていると見なければなりません。しかし、パウロは自分の顕現体験をペトロたちのそれと同列に置いて、自分もまたペトロたちと同じく、復活されたイエスを見て、その復活者イエスを主キリストと宣べ伝えるために召された使徒であることを主張します(コリントT九・一)。しかもそれを「すべての(顕現の)最後」のものとしています。証人に復活されたイエスを現す出来事は、これが最後だという宣言です(この点は、四〇日目の昇天で区切るルカと違います)。
 パウロは自分に対して、イエスに直接師事した弟子ではなく、正式にエルサレムの使徒団から任命された使徒でもないという批判があることを承知しています。それで、ペトロ以下の顕現伝承に自分への顕現を加えたとき、自分を「月足らずで生まれた者」と呼び、その月足らずで生まれた自分が使徒であることを弁証して、次のように言います。

ここでパウロが自分を呼んでいる「月足らずで生まれた者」(=早産児・未熟児)という訳語には問題があります。原語は「流産児、死産児」を指す語です。七十人訳ギリシア語聖書でも、おもにこの意味で用いられています。しかし、死んでしまっているのではないのですから、「流産児、死産児」とすることはできません。また、「早産児・未熟児」という表現は、現代ではいずれ正常な子になることが含意されていますので、ここでは不適切です。ここでは、正常な出産(正常時の出産)でないため生まれた異形の子として、「生まれそこない」(田川訳)とか、古い日本語ですが「鬼子」(オニゴ=生まれながらに歯が生えているような荒々しい子)などとすると、直後の九節と意味がよく続きます。なお、この呼び方はパウロの批判者たちがパウロに投げつけた蔑称であるとする見方がありますが、パウロ自身が回心前の自分の姿を思って自分を呼んだ名であると見ることも十分できます。

 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。(コリントT一五・九〜一〇)

 たしかにパウロは、「神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」であることを認めています。他の使徒たちが、生前のイエスに師事して、よく準備された期間を経ているのに対して、自分は神の民を迫害している時に突然復活者イエスに遭遇し使徒とされたことを、他の使徒が正常な出産による使徒であるのに較べて、自分は正常時でない出産による使徒、すなわち異常出産による使徒だと、出産の比喩を用いているのです。
 しかし、その異常さは神の恩恵の大きさを示すためです。神の民を迫害したまさにその自分が、現に復活されたイエスを見た者として、使徒として立てられているのは神の恩恵の出来事です。そのことをパウロは、「神の恵みによって、今日の(使徒としての)わたしがあるのです」と言います。恩恵は、人間の側の価値とか資格を問わず、この場合は敵であるパウロをも、自分の懐に受け入れて、使徒とする神の無条件の愛の働きです。
 パウロに与えられた恩恵は、無駄にならず、パウロを通して巨大な働きを成し遂げました。福音を世界にもたらす使徒としてのパウロの働きは、たしかに他のすべての使徒を凌駕していました。パレスチナから発した福音は、パウロによって西方エーゲ海地域全域に広がり、帝都ローマも視野に収めるまでになっていました。パウロはこの事実をあげて、それがパウロによるものではなく、パウロを通して働く神の恩恵であるとすることで(神の恩恵は人を変革し突き動かす強烈な力です)、自分に起こった復活者イエスの顕現の事実性と、パウロに与えられた恩恵の大きさを確証します。

マルコ福音書への付加部分に見られる顕現伝承

 最初期の復活顕現の伝承は、パウロ書簡に記録されたこの一覧表だけでなく、様々な形で流布していたようです。それを広く収集することは今では不可能ですが、その一端がマルコ福音書の付加部分に見られます。マルコ福音書は一六章八節で終わっており、九節以下は後で付け加えられた部分であることが広く認められています。八節で唐突に終わっていることを不自然と感じた後代の編集者が、信仰者の共同体に語り伝えられている復活顕現の伝承を用いて、空の墓以後の物語を構成して、福音書の結びとしたと見られます。それで、どのテキストや翻訳でもこの部分は括弧に入れています。
 最初に、マグダラのマリアに復活者イエスが現れたという伝承が用いられています(九節)。「週の初めの日の朝早く、復活されたイエスはまずマグダラのマリアに現れた」という伝承は、最初期の共同体に広く知られていたようです。しかしこの復活されたイエスは最初にマグダラのマリアに現れたという重要な伝承は、ヨハネ福音書(二〇・一一〜一八)では大きく用いられていますが、他の福音書では「婦人たち」の中に埋没しているか(マタイ二八・九)、全然出てこないことになります(マルコ福音書本体、ルカ福音書)。パウロが引用する復活顕現の伝承にも出てきません。これについては後述します。
 次に、「彼ら(弟子たち)のうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された」という伝承が引用されています(一二節)。この伝承はルカ福音書(二四・一三〜三五)では、エマオへ向かう二人の弟子が途中で復活されたイエスにお会いして、聖書の解き明かしを受け、また食事を共にしたという詳しい物語となって伝えられています。
 その他、弟子たちが食事をしている時に復活されたイエスが現れたという伝承があったことを示唆しています(一四節)。この食事の席での顕現もルカ(二四・三六〜四六)は詳しく描いています。他にも「新しい言葉」(=異言)とか「蛇をつかんでも害をを受けない」など、ルカに特有の記事との類似性が目立ち、この付加部分を書いた編集者はルカ二部作に親しんでいて、それを要約して用いた可能性があります。しかし、マグダラのマリアの場合に見られるように、ルカとは別に広く流布している伝承を用いているのも事実です。

女性への顕現伝承の除外

 以上、新約聖書に伝えられている復活顕現の伝承を見てきましたが、そこには一つの顕著な傾向があることに気づきます。それは、復活されたイエスは最初にマグダラのマリアに現れたという伝承があるのに、それがヨハネ福音書以外ではほとんど用いられていないことに代表されるように、総じて女性への顕現伝承が排除されていることです。女性たちのイエスへの深い思いと、女性たちがだけがイエスの死と埋葬に立ち会ったことを考えると、マグダラのマリアだけでなく、イエスを信じ慕う女性たちにも、復活されたイエスが現れておられると推察されます。イエスの母マリアにも復活されたイエスが現れておられるからこそ、母マリアも弟子たちと一緒にエルサレム共同体に加わっていたと考えられます。しかし女性への顕現記事は、ヨハネ福音書の例外的な記述以外はほとんどありません。
 この排除には何か理由がなければなりません。その理由の一つに、ユダヤ教においては女性は法廷で正式の証人としての資格を認められていなかったという慣習があります。神はイエスを復活させて主キリストとしてお立てになったという告知は、イエスの復活顕現を体験した者の証言として語られました。最初は周囲のユダヤ人に告知されたので、女性は証人としての資格がなく、その証言をしたのはすべて男性の弟子たちでした。その結果、復活顕現の伝承は男性だけになっていったと考えられます。しかし、マグダラのマリアのような顕著な場合は、共同体内部の言い伝えとして語り伝えられたのでしょう。
 もう一つの理由として、グノーシス主義に対抗するために、正統派の共同体が女性への顕現伝承を排除したという事情が考えられます。グノーシス派は、すべてユダヤ人である使徒たちの教えは初歩に過ぎず、霊的知識《グノーシス》を与えられた自分たちこそ真の救いに至る道を教える教師であると主張していました。その霊的知識《グノーシス》は特別に選ばれた者に啓示されたとしましたが、その中にマグダラのマリアが含まれます。イエスは地上におられた時もマグダラのマリアを愛し、復活されたときには最初に彼女に現れ、彼女だけに特別の《グノーシス》を与えられたとする文書がグノーシス派には出てきます(フィリポによる福音書、マリアによる福音書など)。総じてグノーシス派では、マグダラのマリアはさらに勝る啓示の受領者として、その権威はペトロよりも上です。グノーシス派は女性にも教師の資格を認め、女性の聖職者を立てていました。
 それに対して、使徒たちの信仰を継承すると自任する「正統派」は、男性本位のユダヤ教の伝統と家父長制ローマ社会の枠の中で、女性聖職者を認めず、その根拠とされるマグダラのマリアの権威を極力排除しようとします。その傾向はすでに新約聖書内の牧会書簡にも見られますが、二世紀以後のグノーシス派との論争において、正統派の共同体はマグダラのマリアへの顕現とか啓示を主張する文書を異端として排除します。その結果、新約聖書正典に残された復活顕現の伝承は男性の弟子へのものだけになります。マグダラのマリアへの顕現を最初の顕現として例外的に重視するヨハネ福音書は、グノーシス派では親しまれますが、正統派では受け入れるのに躊躇があったようです。

結び―顕現体験と召命体験

 復活顕現の伝承を追ってきて強く印象づけられることは、顕現体験は同時に召命体験であるという事実です。このことは、比較的その内容が詳しく伝えられているパウロの顕現体験が典型的です。パウロ自身が自分のダマスコ体験を語るときも、復活されたイエスに遭遇した体験と、その復活者イエスから異邦人に福音を宣べ伝える使命を与えられたことは、一息に語っています(ガラテヤ一・一五〜一六)。パウロのダマスコ体験を物語るルカの記事も繰り返し、パウロがこの時復活の主イエス・キリストを証人として宣べ伝える者として召されたことを語っています(使徒九・一五、二二・一四〜一五、二六・一五〜一八)。これはパウロ自身から出たことをルカが物語として書いたと見なければなりません。
 これ(顕現体験は同時に召命体験であるということ)は事の性質上当然です。復活されたイエスに出会って、何もしないでいることができるでしょうか。じっと座っていることができるでしょうか。この圧倒的な現実を体験した以上、出て行ってこの決定的な神の救済の出来事を証言せざるをえません。現代でも聖霊を受ける体験は、何らかの形で復活者イエスに出会う体験です。ペトロやパウロのような最初の証人としての救済史上の意義を担うものではありませんが、それでもやはりこの時代に復活者キリストを証言するために召されているのだという自覚をもたらします。わたし自身の小さい体験と生涯もそれを証言しています。
 わたしがガリラヤ湖畔の出来事(マルコ一・一六〜二〇、ルカ五・一〜一一)をペトロたちが復活されたイエスに出会った体験を伝える記事と見るのも、この顕現体験は同時に召命体験であるという理解からです。これは、ユダヤ教徒がラビに弟子入りする程度の出来事ではなく、復活顕現を体験した者がすべてを捨てて証人としての生涯に乗り出す様子を描く場面だと理解せざるをえません。
 こうして復活されたイエスの顕現を体験し、その証人として召された弟子たちは、いよいよ次の巡礼祭である五旬節に聖都エルサレムで、その証言の声を上げます。ここから「福音の史的展開」の本論が始まります。