市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第9講

第四節 弟子たちのエルサレムへの移住

危険なエルサレムへ

 過越祭の五十日後に五旬節(ペンテコステ)の祭りが来ます。この五旬節も三大巡礼祭の一つで、すべてのユダヤ教徒はエルサレムの神殿に詣でなければなりません。過越祭のときに師のイエスはユダヤ教の最高法院で、神を冒?し、律法違反を唆す異端者として死刑の判決を受け、ローマ総督に引き渡されて、十字架刑によって処刑されたばかりです。ペトロをはじめ弟子たちは、そのようなエルサレムに残ることはできず、過越祭がすんだ後、郷里のガリラヤに戻ったのでした。ところが、五十日後の五旬節にはエルサレムにいて、イエスをイスラエルに約束されたメシヤであると宣べ伝える活動を始めています。この過越祭と五旬節の間に何があったのでしょうか。
 先に見たように、過越祭の後ガリラヤに戻った弟子たちは、復活されたイエスの顕現を体験し、この復活者イエスをメシヤ・キリストとして宣べ伝える働きに召されます。弟子たちはすでに以前、イエスがガリラヤで「神の国」を宣べ伝える働きをされていたとき、イエスに従ってガリラヤを巡り歩いてその働きを共にし、イエスの教えを聴きました。その時には、家や家族はそのままであり、弟子たちは召されたときにイエスに従ってガリラヤを巡回し、またイエスから派遣されてガリラヤの町や村に出向いて、「神の国」は近いと宣べ伝えたのでした。しかし、今回は違います。復活者イエスから宣教の召しを受けた弟子たちは、エルサレムで宣べ伝えるために、エルサレムに向かいます。なぜでしょうか。
 エルサレムは師イエスが処刑された都です。イエスを死に追いやった勢力が支配している町です。そこに行くことは、死を覚悟しなければならないほど危険な行為です。イエスがラザロを生き返らせるために、「もう一度ユダヤに行こう」と言って、「ヨルダンの向こう側」からユダヤの地に向かわれたとき、弟子たちは「ラビ、つい先には、ユダヤ人たちがあなたを石打にしようとしていました。それなのに、またそこへ行かれるのですか」と言っています。それでもイエスが行かれるので、トマスが仲間の弟子たちに、「われわれも行って、一緒に死のう」と言っています(ヨハネ一一・一六)。このトマスの言葉は、この時ガリラヤからエルサレムに向かおうとする弟子たちの心境を代弁していると見られます。
 このような死地に赴くような行為を断行するためには、よほどの強い動機とそれをなさせる力が必要です。まず、弟子たちがエルサレムに向かった動機とか理由を見ましょう。

何のためにエルサレムへ

 弟子たちが危険を冒してエルサレムに上った動機は、復活されたイエスが神の支配を地上に実現する栄光の主として来臨されるのをエルサレムで待つためであった、とわたしは推察しています。「推察している」と言ったのは、新約聖書の中にはそれを直接根拠づける文言はなく、前後の事情からそう推察せざるをえないからです。弟子たちのエルサレム移住を伝えている唯一の資料であるルカの使徒言行録は、来臨遅延の状況で成立したルカの救済史理解から、差し迫ったキリストの来臨を待つというような動機を語ることはありません。わたしたちは、ルカが描くところよりも、当時の弟子たちの状況に身を置いて、その動機を考察すべきであると考えます。

ルカの救済史理解については、拙著『ルカ福音書講解T』の序論「ルカ二部作の成立」、とくに48頁以下の「結び―ルカ二部作出現の意義」の項、および拙著『福音の史的展開U』 599頁の「W ルカの救済史理解」の項を参照してください。

 イエスが弟子たちと一緒におられたとき、「神の国(神の支配)」について多くの言葉で語られました。イエスが神の支配をどのようなものとして教えられたのかは、福音書研究の大きな主題であり、様々な見方があって議論が続いています。ここでその議論に立ち入ることはできませんが、イエスの神の支配の告知には、少なくとも洗礼者ヨハネと同じく神の支配が差し迫っていることをイスラエルに告知されたという一面があったことは否定できません。そして、イエスが当時のユダヤ教黙示思想をどのように評価されていたかは難しい問題ですが、イエスが「人の子」という黙示思想独特の称号を用いて、ご自身のことや神の支配のことを語られたことは、イエス伝承の中でもっとも確実なことの一つです。
 イエスはその「人の子」という称号に、苦しみを受けて殺され、それによって民を贖う救済者という内容をこめられました(マルコ八・三一)。これは、弟子たちの理解を超えることでした。しかし、イエスが「人の子」という称号を用いられた以上、そこにイエスがどのような内容をこめて語られたにせよ、ユダヤ人の弟子たちがそれを、終わりの日に雲に乗って現れる超自然的な支配者の来臨を指すと理解したのは当然です。それは、イエスご自身が語られた終末預言として、マルコ福音書一三章とその並行箇所に書き記されることになります。
 イエスを神の大能の力をもって神の支配を実現するメシヤであると信じていた弟子たちが、エルサレムでイエスが処刑されるのを見たときの落胆と混乱は察するにあまりあります。ところが、イエスは三日目に復活されました。神はイエスを死人の中から復活させて、この方こそ神が遣わされた終末的な支配者であることを証明されました。もはや何も疑うことはありません。復活されたイエスは、ご自身が予告しておられたように、神の大能をもって敵対する勢力を打ち破り、神の支配を樹立するために来臨されるはずです。
 復活されたイエスが主《キュリオス》として来臨されるのはどこでしょうか。ユダヤ人である弟子たちにはエルサレム以外は考えられません。エルサレムこそ大能の神の都、そこに神の栄光と支配が現れる場所です。そして、イエスこそ神の支配をもたらされる「人の子」であることを、イスラエルの民に告知しなければなりません。そのような告知は、もはやガリラヤのような片田舎ではなく、神の民イスラエルの聖なる都エルサレムでなければなりません。しかも、全イスラエルが集まる祭りの時でなければなりません。弟子たちは、この復活者イエスによる神の支配の実現を告知するために、次の祭りである五旬節に間に合うようにエルサレムに上ります。もはや巡礼のユダヤ教徒としてではなく、終末的な神の支配の告知者としてエルサレムに上ります。
 このように弟子たちが危険を冒してエルサレムに上ったのは、そこで復活者イエスが栄光の主として来臨されるのを待つためであったという推察は、その弟子たちが形成した最初期のエルサレム共同体の姿からも確認されます。すなわち、ペトロをはじめとする使徒たちと、イエスの兄弟ヤコブが指導した最初期のエルサレム共同体は、その発足当初から一貫して「キリストの来臨《パルーシア》」を熱烈に待望する集団でした。彼らが「人の子」の来臨を命がけで待ち望み、その信仰を言い表していたことは、かなり初期のステファノの殉教や、最後の時期の「主の兄弟ヤコブ」の殉教のとき、二人とも「人の子」という表現で栄光の主イエスを言い表して死についたことからも十分うかがわれます。

最初期のエルサレム共同体の《パルーシア》待望については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』の148頁「エルサレム原始教団の《パルーシア》待望」を、また、ステファノとヤコブの「人の子」告白については、同書490頁「ヤコブと黙示思想」を参照してください。

エルサレムへ駆り立てる力

 このようにエルサレムに行く動機は十分あっても、死を覚悟してでも危険な都に行くには、よほどの力に突き動かされるのでなければ実行することはできません。わたしは、弟子たちはその力をガリラヤで復活者イエスの顕現に接した体験の中で受けていると信じています。
 ルカは、弟子たちが聖霊を与えられ、イエスを主キリストと告白し証言する力を受けたのは、ペンテコステの日の「聖霊降臨」の時であったとしています(使徒一・八と二・一以下)。しかしそれは、ルカが弟子たちの聖霊体験を彼独自の図式にまとめて描いた結果であって、実際はもっと複雑で多様な体験であったと見られます。
 パウロのダマスコ体験に見られるように、復活者イエスに出会う体験は聖霊を受ける体験と一体です。両者は切り離すことはできません。ヨハネ福音書(二〇・二二)も、復活者イエスの顕現に接することは聖霊を賦与されることであると示唆しています。イエスに復活者としての栄光を帰して示すのは聖霊の働きです(ヨハネ一六・一四)。ペトロたちがガリラヤで復活されたイエスに出会ったとき、神の霊の注ぎを受けたと見るべきでしょう。
 神の霊はイエスを復活者としての栄光の中に現すだけでなく、その顕現に接した者を奥底から造り変える働きをされます。パウロはこの御霊の働きによって、イエスの敵対者からイエスの奴隷として生涯イエスに仕える者に変えられました。ペトロたちはそれ以前からイエスを師と仰ぐ者でしたから、パウロのように劇的に変えられることはありませんでしたが、それでも探索や逮捕を恐れてエルサレムからガリラヤに逃げ帰っていた者が、死をも恐れず危地に向かう勇気ある者に変えられたのです。

エルサレムへの移住

 復活者イエスの顕現に接したペトロたちが、五旬節の前までにエルサレムに上ったのは、祭りに上る巡礼者としてではなく(巡礼者はまた戻ってきます)、生業を捨てて、あるいは家や舟を売り払って、エルサレムに移住したと見るべきです。いわば背後の橋を切り落として、エルサレムに向かったのです。そのことは、ガリラヤ湖畔での弟子たちの召命記事にくりかえし出てくる「網を捨てて」とか、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」とか、「すべてを捨てて」というような表現で示唆されています。今度のエルサレム行きがそこで栄光の主の来臨を待つためであるならば、弟子たちのそのような思い切った行動も理解できます。
 この弟子団のエルサレム移住を主導したのはペトロであったと見られます。ペトロは、いつも弟子団を代表するように真っ先に行動しています。「あなたたちはわたしを誰と言うか」というイエスの問いかけにも、ペトロが真っ先に「あなたこそメシヤです」と答えています。このペトロがイエスを三度も否認して師を裏切ったことを悔いていたとき、復活されたイエスはそのペトロを受け入れて、新しく形成される弟子団の先導者としてお立てになりました。そのことはルカ福音書(二二・三一〜三四)で、最後の食事の席でイエスがペトロの信仰が無くならないように祈った上で、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたお言葉に示唆されています。エルサレムへの移住を先導したペトロは、その後のエルサレム共同体を代表する立場で行動することになります。
 このエルサレム行きは、生前のイエスに付き従って教えを受けた弟子たちだけでなく、イエスの家族も一緒にエルサレムに移住したと見られます。ルカは、ガリラヤからエルサレムに移住した弟子団の十一名(裏切ったユダを除く十一名)の名を上げた後、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと、心を合わせて熱心に祈っていた」と伝えています(使徒一・一四)。
 イエスを熱心に慕うガリラヤの女性たち(その代表格はマグダラのマリアです)が、イエスの最後の過越祭巡礼に従って行き、エルサレムでイエスの受難にさいして重要な役割を果たしたことは先に見ました。その女性たちが今回も弟子たちと一緒にエルサレムに移動または移住したのは当然です。ここで重要な事実は、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちがエルサレムに移住していることです。イエスには四人の兄弟と数人の姉妹がありました(マルコ六・三)。姉妹たちはすでに結婚していて、おそらくこのエルサレム移住には参加しなかったのでしょう。兄弟四名全員が母マリアと一緒に移住したかどうかは確認できませんが、少なくとも弟のヤコブは一緒に移住しています。おそらく後にユダ書を書くことになるユダ(ユダ一・一)も一緒に移住したと推察されます。
 母マリアもヤコブら兄弟たちも、イエスがガリラヤで「神の国」を宣べ伝える活動をしておられたとき、イエスの働きに同行するなど、協力的でした(ヨハネ二・一二)。母マリアは、イエスの最後の過越祭のときのエルサレム行きに同行しています。兄弟たちもこの巡礼としてのエルサレム詣でには同行していると見られます。母マリアや弟ヤコブに復活されたイエスがご自身を現されたことは確認できませんが、マグダラのマリアに現れたように母マリアにも現れたと想像することは許されるでしょう。弟のヤコブに現れたという伝承があったことは確実です(このことは後で扱います)。母マリアと弟ヤコブをはじめイエスの家族(父ヨセフはすでに亡くなっています)も、弟子団と一緒にエルサレムに移住し、弟子たちと一緒にエルサレムで来臨待望の生活に入ったと推察されます。

イエスの家族は生前のイエスの伝道活動に批判的であったとする通説は、最近の研究で修正を迫られています。この点については、拙著『パウロ以後のキリストの福音』の439頁「イエスの弟ヤコブ」の項を参照してください。

 イエスの家族と弟子団が、ガリラヤからエルサレムに移住することはけっして容易なことではなかったでしょうが、エルサレムには新しい住まいを見つけたりして彼らの移住のために奔走するイエスの支持者もいたはずです。そのことは、最後の過越祭のときイエスと弟子の一行が過越の食事をする部屋を用意した人物がいたことからも、十分推察することができます。イエスはその人物のことを「都のあの人」と呼んでおられます(マタイ二六・一八)。その人物は弟子たちにも周知の人物でした。その人物を特定することは困難ですが、ヨハネ福音書によるとイエスは祭りの度ごとにエルサレムに上って、エルサレムで多くの力ある業を行い、教えておられるのですから(イエスのエルサレムでの働きを最後の過越祭の時だけとするマルコよりもこちらの方が事実でしょう)、エルサレムにもかなりの数の追随者がいたはずです。議員のニコデモやアリマタヤのヨセフをはじめ上流階級にも(隠れた形ながら)イエスを信じる人たちがいました。そのような人たちの中で、イエスの家族や弟子団に住まいを提供した人物がいたとしても不思議ではありません。

最後の過越祭のときの過越の食事をする部屋の提供については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』361頁「過越の食事の準備」の項を参照してください。

 ルカは、弟子たちは「オリーブ畑」と呼ばれる山から天に昇られる復活者イエスを見送った後、エルサレムに戻り、「泊まっていた家の上の部屋に上がった」と伝えています。そこで弟子たちはイエスの家族や女性たちと祈りに没頭することになります(使徒一・一二〜一四)。この「上の部屋」は、最後の食事が行われた「二階の広間」(マルコ一四・一五)と(原語での)用語は違いますが、同じ部屋ではないかと多くの研究者は推定しています。ガリラヤから身一つでエルサレムにやって来た弟子たちやイエスの家族が、とりあえず身を寄せることができるのは、先に過越祭の食事のためにイエスとその一行に「二階の広間」を提供した有力な支持者の家以外は考えられません。
 古代教会の伝承から、この家があったところに「最後の晩餐教会」が建てられたとされています。この教会は現在、エルサレム南西部の「シオン地区」にあるので、最後の晩餐が行われ、最初期のエルサレム共同体が集まったこの家は、シオン地区にあったと推定されます。このシオン地区には、城壁南西角の「エッセネ門」の存在が示唆するように、エッセネ派の活動拠点があったと考えられ、最初期のエルサレム共同体はエッセネ派から強い影響を受けているという推察が根拠づけられます。

J・H・チャールズウァース編著『イエスと死海文書』(山岡健訳・三交社)の中のR・リースナー執筆の論稿「第七章 イエス、原始共同体、そしてエルサレムのエッセネ派居住地」は、最後の晩餐の部屋と最初期のエルサレム共同体の集会場所が同じであること、それがエルサレム南西部のシオン地区にあり、エッセネ派居住地と同じ地区であることを、考古学的発掘に基づき、説得的に論証しています。これらのことは、もはや「推定」ではなく、事実として扱ってよいでしょう。