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第三節 エルサレムでの復活者イエスの顕現

ヨハネ福音書の場合

 マルコ福音書が、弟子たちは復活者イエスの顕現をガリラヤで体験したとしているのに対し、ヨハネ福音書はそれがエルサレムで起こったとしています。これは、マルコがイエスの働きをほとんどガリラヤに限っているのに対して、ヨハネはイエスの働きをエルサレム中心に描いていることの延長上にあり、ヨハネ福音書では復活されたイエスもエルサレムで弟子たちに顕現されます。これは、ヨハネ福音書を生み出した共同体の指導者ヨハネがエルサレムの住人であり、イエスのエルサレムでの働きに協力していた人物であったからでしょう。
 ヨハネ福音書では、復活されたイエスは最初にマグダラのマリアに現れ、彼女が弟子たちにイエスの復活を告げ知らせています(二〇・一一〜一八)。日曜日の早朝、イエスを葬った墓に行ったのはマグダラのマリアだけです。彼女は墓が空であることを弟子たちに報告し、一緒に墓に走ります。二人の弟子が空の墓を確認して帰った後、マリアは墓の外に立って泣いています。そのとき復活されたイエスがマリアに現れ、「わたしの兄弟たちのところへ行って、彼らに『わたしは、わたしの父であり、あなたたちの父である方、わたしの神であり、あなたたちの神である方のところに昇る』と言いなさい」と告げておられます。「わたしはガリラヤに行く。そこでわたしに会う」とは言っておられません。
 その日、すなわち週の初めの日(日曜日)の夕方に復活されたイエスは、戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちのいる部屋に現れ、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたたちを遣わす」と言って、息を吹きかけ、聖霊を賦与されます(二〇・一九〜二三)。そのとき部屋にいなかったトマスは、「わたしたちは主を見た」という他の弟子たちの証言を信じませんでしたが、そのトマスに復活されたイエスが八日後に現れておられます(二〇・二四〜二九)。こうして、エルサレムにおける顕現を三例報告して、ヨハネ福音書の本体部(一〜二〇章)は閉じられます。
 ところが、結びの言葉(二〇・三〇〜三一)で一度完結したこの福音書に、後に補遺として二一章が加えられることになります。その補遺では、「その後、イエスはティベリアスの海辺で、再び弟子たちに御自身を現された。それは、このように現されたのである」として、ペトロをはじめ七人の弟子がガリラヤ湖に漁に出かけたときに復活者イエスが姿を現された出来事が詳しく報告され、このガリラヤ湖での顕現が、弟子たちへの三度目の顕現とされています(二一・一〜一四)。

ここのガリラヤ湖での顕現記事について詳しくは、拙著『ヨハネ福音書講解U』246頁の「第一節 ガリラヤでの顕現」を参照してください。

 この補遺の記事によってヨハネ共同体も、弟子たちが十字架のあと一度ガリラヤへ戻った事実、およびガリラヤでの復活者イエスの顕現の伝承を知っていることを示しています。このガリラヤ湖での復活者イエスの顕現を、この補遺を加えた編集者は「三度目」と数えます。ということは、編集者は本体部分(二〇章)の顕現を二度と数えていることになります。すなわち、マグダラのマリアへの個人的顕現は別にして、「弟子たち」への顕現は週の初めの日と八日目の二回とし、これを三度目の顕現としていることになります。
 本来イエスの働きをエルサレム中心に描き、復活されたイエスの顕現もエルサレムに限ってきたこの福音書本体の後に、このようにガリラヤでの顕現伝承を用いた補遺を加えたのはなぜか、その動機とか理由がずいぶん議論されてきました。断定的なことは言えませんが、おそらくこの補遺は、ヨハネ共同体がペトロを代表的使徒と仰ぐ周囲の主流の共同体と協調する必要が生じた状況で、本体に加えられたのでしょう。本体部では、「イエスが愛された弟子」がペトロと対抗するように、ペトロに勝る証人として描かれていますが、この(十二使徒団の外に立つ)「もう一人の弟子」は、そのイエス証言によりヨハネ共同体を形成した指導者であると見られます。この独自の歩みを続けてきた共同体も、この弟子(共同体で「長老」と呼ばれている指導者)の晩年に、分裂の危機を体験し(ヨハネT二・九)、多くの兄弟たちが交わりから出て行きました。残った兄弟たちに、正しい信仰と愛の交わりにとどまるように説き勧めた長老の回状が「ヨハネの第一の手紙」であると見られます。その長老が高齢で召された後、出て行ったグノーシス主義的傾向の者たちに対抗して、残った兄弟たちはペトロ系の伝承に従っている周囲の主流の共同体と協調するようになり、このようなペトロへの顕現と、ペトロと長老ヨハネの関係を主題とする補遺を加えたのではないかと考えられます。

ヨハネ共同体とその指導者である長老ヨハネについて詳しくは、拙著『ヨハネ福音書講解U』の附論『「もう一人の弟子」の物語―ヨハネ文書の成立をめぐって』を参照してください。

ルカ福音書の場合

 ルカはマルコ福音書を基本的な資料として用いて福音書を書いています。しかし、復活者イエスの顕現については、大きくマルコ福音書から離れています。マルコ福音書では、イエスご自身の指示と空の墓での天使のお告げで、弟子たちはガリラヤに戻り、そこで復活されたイエスに会うことになっていました。ところがルカはこの両方を取り除いています。マルコ福音書(一四・二七〜三一)にある、最後の食事の席からゲツセマネへ行く途上でイエスが語られたとされている弟子たちの離反とガリラヤで会うという予告は、ルカの並行箇所(二二・三一〜三四)では、弟子の離反の予言だけとなり、ガリラヤへ行くようにという指示はなくなっています。空の墓での天使の告知にも、ガリラヤへ行くようにという指示はありません。マルコでは「ガリラヤで会う」とありましたが、ルカでは「ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」となっています。
 ルカ福音書では、復活されたイエスの顕現はエルサレムとその近郊に限られています。ルカはまずエマオ(エルサレムから北西約11キロ)へ向かう二人の弟子への顕現を詳しく物語ります(二四・一三〜三五)。この二人は十一人の使徒(ユダが去った後の十二使徒)の中の二人ではありません。この二人がエマオで復活されたイエスと食事をしたという体験をしたのは、「ちょうどこの日」、すなわち女性たちが空の墓を発見した日曜日のことでした。その日の暮れにエマオの村に入り、食事をしようとしたとき、イエスの姿が見えなくなります。二人はすぐエルサレムに戻り、「十一人とその仲間」に報告します。その時、彼らは「本当に主は復活して、シモンに現れた」と言っていたとされています。するとシモン・ペトロへの顕現もその日(日曜日)に起こったことになります。

エマオへの途上での復活されたイエスの顕現については、拙著『ルカ福音書講解V』 359頁の「エマオで現れる」の項を参照してください。

 「十一人とその仲間」がエマオから急いで戻ってきた二人の報告を受けているとき、復活されたイエスが彼らの真ん中に立ち、「シャローム」の挨拶をされます。亡霊を見ているのだと恐れおののく弟子たちに、イエスはご自分の手と足を見せ、差し出された焼き魚の一切れを食べて、亡霊ではなくイエスご自身であることを示されます。その上で、イエスこそ聖書に予言されていた苦しみを受けて復活するメシヤであることを世界に伝えるという使命をお与えになります。そのための力を受けるまでは、エルサレムに とどまるように命じられます。この顕現の出来事も、「その日」(=日曜日)の夕方か翌日がはじまる夜ということになります(二四・三六〜四九)。
 その後、復活者イエスは弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、天に上げられます(二四・五〇〜五三)。したがってルカ福音書では、弟子たちがガリラヤに戻って、そこで復活者イエスの顕現に接するという余地はありません。ところがルカには、マルコ福音書(一・一六〜二〇)の湖畔での弟子の召命とよく似た記事があります。ルカ福音書(五・一〜一一)の湖畔での弟子の召命記事でも、マルコの場合と同じように、イエスが彼らを「人間をとる漁師になる」という言葉で召しておられます。もしマルコの召命記事が(先に見たように)復活者イエスの顕現のときの召命を地上のガリラヤ伝道の出来事として組み込んだものであれば、ルカの場合もそうではないかと考えてみなければなりません。事実、ヨハネ福音書の補遺(二一章)に、きわめてよく似た記事が、ガリラヤ湖畔での復活者イエスの顕現の記事として伝えられています。
 ヨハネ福音書二一章の記事とルカ福音書五章の記事を較べますと、細部での違いはありますが、一晩中漁をしたが何も獲れなかったこと、イエスの指示で網を降ろしたところおびただしい数の魚が獲れたこと、ペトロがひれ伏した(湖に飛び込んだ)ことなど、物語の主要な内容では一致しています。細部の違いは、同じ出来事を語り伝える伝承が、その経路の違いや福音書の記事になるさいの執筆者の意図などの違いによって生じた違いであると見られます。別の出来事が二回あったとするには、その内容があまりにも似すぎています。では、本来は地上のイエスが弟子たちを召されたときの出来事が復活者イエスの顕現の物語となったのか、それとも、もともと復活者イエスのガリラヤ湖畔での顕現の伝承が、ルカによって地上のイエスが弟子を召される物語とされたのかが問題になります。
 ヨハネ福音書の補遺を書いた編集者が、地上のイエスの物語を復活顕現の物語に用いた(それでは復活顕現の物語は作り話になります)とは考えにくく、逆にルカがガリラヤ湖での復活顕現の伝承を地上のイエスが弟子を召される記事にした動機は十分に考えられます。ルカはその二部作(福音書と使徒言行録)を聖都エルサレムを中点とする福音の進展として描いています。すなわち、イエスによるガリラヤからエルサレムへの進展、使徒たちによるエルサレムからローマへの進展です。その中点として、使徒たちの福音はエルサレムから始まらなければなりません(ルカ二四・四七〜四九)。使徒たちは力を受けるまでエルサレムにとどまっていなければなりません。使徒たちが再びガリラヤに戻って、そこで復活顕現を体験し、そこから福音を宣べ伝え始めるという順序は、ルカの図式には入って来ることはできません。それでルカは、マルコのガリラヤへ戻るようにというイエスと天使の指示を削除したのです。そして、(おそらくペトロから出た)この貴重なガリラヤ湖畔での復活顕現の伝承を、地上のイエスがペトロを弟子として召された物語として、ガリラヤ伝道の初期に置くのです。

エーゲ海地域で成立したと見られるルカ二部作は、エフェソを中心に活動したヨハネ共同体が保持している伝承を多く受け継いでいると見られます。この場合も、同じガリラヤでの復活顕現の伝承が、ヨハネとルカでそれぞれの意図に従って別の形で用いられたと見るべきでしょう。ルカは、ガリラヤでの顕現伝承も知っていたでしょうが、それを全面的に省略しています。ルカは、自分の著述の意図とか図式に合わせて大胆に省略する著述家です。

 このこと(ルカが復活顕現の伝承を地上のイエスの働きの時期の出来事として用いたこと)は、ヨハネ福音書の記事が枝葉を多くつけた伝承としての性格を残しているのに較べて、ルカ福音書の記事は物語として滑らかにされていることとか、ペトロが「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのは、先に主を三度否定したことを指していると理解できることなどからも推察することができます。また、ルカは先輩のマルコがすでに復活顕現の伝承を地上のイエスの働きの期間の出来事として用いているのを知っています。この点でルカがマルコに従ったとしても自然なことです。

ガリラヤかエルサレムか

 このように復活顕現の記事は四つの福音書でかなり違います。この違いはどう説明できるのでしょうか。復活者イエスは時空を超えた存在ですから、ガリラヤとエルサレムで同時にご自身を現すことはありうることです。しかし、それを体験する弟子たちは地上の人間ですから、ガリラヤとエルサレムに同時にいることはできません。では、弟子たちの体験を伝える四福音書の記事がこのように違うのはどう理解すべきなのでしょうか。
 エルサレムでの顕現を伝えるヨハネ福音書とルカ福音書は、それがイエスの十字架の死から三日目にあたる日曜日のことであるか、翌日とか八日後とか比較的短期間の出来事としています。そうすると、弟子たちはエルサレムで復活者イエスの顕現に接したのですが、その体験は直ちにエルサレムでイエスを復活者キリストとして宣べ伝えることにはならず、逮捕の危険があり、生活の基盤のない弟子たちは、エルサレムを去り、ガリラヤに帰って生業に戻ったとしなければなりません。そのガリラヤで、マルコ・マタイ系の伝承が伝えているような復活者イエスの顕現を体験し、その体験の中で宣教への召しを受け、その召しに従って生業の漁師の働きを捨て、福音の告知のために献身するようになったと見られます。
 ペトロは師イエスが逮捕されて大祭司の館に連行されたとき、館の女性使用人に問い詰められて、三度までイエスを知らないと否認しています。このことはペトロには深い自責の念となっていたはずです。もしイエスの十字架の死の直後にエルサレムで復活されたイエスの顕現に接していたとすると、そのような体験があるにもかかわらず、「ユダヤ人たちを恐れて」ガリラヤに戻り、漁師の生業に日々を過ごすようになっていたことで、ますます師を裏切った自責の念に苦しんでいたのではないかと推察されます。その自責の念が、湖畔で顕現された復活者イエスに出会ったときに、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫んで、水の中に飛び込ませたと考えられます。
 そのペトロを復活者イエスはありのまま受け入れ(=赦して)、「恐れることはない。わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われます。ペトロの感激はどれほどであったでしょうか。ペトロは(兄弟アンデレと共に)「すぐに網を捨てて従った」とマルコは書いています。同じように召されたゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」とあります(マルコ一・一六〜二〇)。ルカ(五・一一)では、「彼ら(シモン・ペトロとゼベダイの子ヤコブとヨハネ)は舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とあります。
 このような表現は、ペトロたちガリラヤの漁師が生業を捨てて、復活されたイエスをメシヤ・キリストとして宣べ伝える働きに全面的に献身したことを指し示しています。このように「すべてを捨てた」弟子たちは、どのような行動に出たのでしょうか。それが次の主題となります。