市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第7講

第二節 ガリラヤでの復活者イエスの顕現

マルコ福音書の場合

 そのような弟子たちに、復活されたイエスがご自身を現されます。弟子たちは復活者イエスの顕現を体験します。それがどのような性格の出来事であれ、弟子たちが復活者イエスの顕現を体験したことは疑いようのない事実です。それは、その後の弟子たちの命をかけた証言活動が証明しています。
 では、この体験は、誰が、いつ、どこで、どのような形で体験したのでしょうか。四つの福音書はみな、この重要な体験を報告していますが、その報告も出来事から何十年も経った時代に、それぞれの福音書記者が自分の意図にふさわしい形で様々な伝承をまとめているのですから、かなり違った形になっています。四つの福音書のまとめ方を検討して、弟子たちの顕現体験の実相に迫りたいと思います。
 まず、最初に成立したと見られるマルコ福音書から検討しましょう。先に見たように、本来のマルコ福音書は、墓が空であることを発見した女性たちが、「震えが止まらず、正気を失い、墓から出て逃げ去った。そして、誰にも何も語らなかった。恐ろしかったからである」という一六章八節の文で唐突に終わっています。九節以下は、このような終わり方を不自然と感じた後の時代の人たちが、他の福音書や伝承を用いて付け加えた記事であることが広く認められており、ギリシア語原典でも、またどの翻訳でも括弧に入れられています。本来のマルコ福音書には、空の墓の記事の後には復活者イエスの顕現の記事はなかったことになります。
 では、マルコ福音書は復活者イエスの顕現を伝えていないのでしょうか。けっしてそうではありません。マルコは独特の仕方で弟子たちの顕現体験を伝えているのです。それは、この福音書の終わり方自体に示唆されています。空になった墓で天使たちは女性たちにこう言ったとされています。
 「さあ、あなたがたは行って、弟子たちとペトロにこう言いなさい、『イエスはあなたがたに先だってガリラヤに行かれる。以前あなたがたに言われたように、あなたがたはそこでイエスにお会いすることになる』」(マルコ一六・七)。
 「以前(イエスが)あなたがたに言われたように」というのは、最後の晩餐を終えてゲツセマネに向かわれるとき、イエスが弟子たちに、彼らがイエスにつまずくことを予告して言われた次の言葉を指しています。
 「あなたがたは皆つまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れは散らされる』と書かれているからである。しかし、わたしは復活した後、あなたがたに先だってガリラヤに行く」(マルコ一四・二七〜二八)。
 このように、マルコ福音書は、イエスご自身の予言と空の墓での天使の告知によって、エルサレムでは十字架されたイエスにつまずいた弟子たちが、ガリラヤで復活されたイエスにお会いすることになると予告して終わるのです。これは、弟子たちが過越の祭りが終わってガリラヤに戻り、そこで復活者イエスの顕現を体験したことを、神の御計画によって起こったものだとするためです。
 では、ガリラヤで弟子たちが復活者イエスに出会った体験とはどのようなものだったのでしょうか。マルコはそれをどのように伝えているのでしょうか。実は、マルコは復活者イエスに出会った弟子たちの体験を、生前イエスが「神の国」を宣べ伝えてガリラヤを巡回しておられた時期の物語に組み込んで伝えているのです。その代表的な場合をあげておきます。
 ペトロをはじめ弟子たちはガリラヤに戻り、漁師の仕事を再開します。ある早朝、漁に出るためにガリラヤ湖の岸辺にいたとき、イエスが岸辺に立っておられるのを見ます。そのイエスが彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられます。すると彼らは直ちに網を捨ててイエスに従います(マルコ一・一六〜二〇)。この記事は、生前のイエスが弟子を召された記事としては、きわめて不自然です。弟子たちは、まだイエスの働きは何も見ていません。教えの言葉も聞いていません。
 事実ヨハネ福音書は、イエスがガリラヤで宣教活動をお始めになる前に、ペトロたちは洗礼者ヨハネのバプテスマ運動の中でイエスと出会い、そこで弟子となり、ガリラヤに戻ってきたことを伝えています(ヨハネ一章)。マルコの記事は、弟子たちが復活者イエスに出会い、その復活者イエスの召しに従って漁師の生業を捨てて、復活者イエスを宣べ伝える生涯に入ったことを語る記事と見る方が自然です。この見方を根拠づける記事がルカ福音書にありますが、これはルカ福音書を扱うところで触れることにします。
 もう一つの重要な記事は、ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちが、嵐で漕ぎ悩んでいたとき、イエスが水の上を歩いて近づいて来られたという記事です(マルコ六・四五〜五二)。生身の人間が水の上を歩くことは可能でないとして、岸辺を歩くイエスを見誤ったのだと合理的に解釈するとか、聖書の記事の信憑性を疑う材料にされたりしますが、それはこの記事の性格を見誤っているからです。これは、弟子たちが湖上で復活者イエスに出会ったことを伝える記事です。この記事は、現れた方がはじめは誰であるか分からないとか、その方が声をかけてはじめてイエスであると分かったなど、復活者の顕現を語る伝承の特色を備えています。復活者イエスの顕現であれば、それが湖上で起こることは問題ではありません。

マルコ福音書には他にも荒野でイエスが五千人の群衆にパンをお与えになった記事や、高い山の上でその姿が変わった記事など、復活者イエスの顕現を示唆する記事がありますが、これらの記事は実際の出来事と深く重なっているので、顕現物語とするには多くの保留が要ります。ここでは代表的事例として、湖畔の顕現と湖上での顕現の二例だけをあげておきます。詳しくは拙著『マルコ福音書講解U』終章の91「復活者の顕現」と92「マルコ福音書の二重構造」を参照してください。

マタイ福音書の場合

 マタイは、マルコ福音書を枠組みとして用いて、それに自分たちが継承してきた「語録資料Q」を組み入れて、ユダヤ人信者に語りかける福音書を書きました。しかし、マルコ福音書が一六章八節で唐突に終わっていることを不自然として、かなり訂正しています。マルコでは、日曜日の早朝、空の墓で天使の顕現に遭遇した女性たちは、あまりにも驚き恐れて、そのことを誰にも話さなかったとしていますが、マタイ福音書では、女性たちは走って帰ってペトロたちに報告します。しかも、その途中で復活されたイエスに出会い、「イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とされています。このとき復活者イエスは女性たちに、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言っておられます(二八・八〜一〇)。そして、弟子たちは空の墓での天使のお告げと復活されたイエスの指示に従ってガリラヤに行き、イエスが指示された山に登って、そこで復活者イエスにお会いしたという記事を加えています(マタイ二八・一六〜二〇)。
 マタイは、マルコが弟子たちのガリラヤでの復活者イエスとの出会いの体験を地上のイエスの働きの中に組み込んで伝えた書き方を継承し、湖畔での顕現や湖上での顕現を同じように書いています。ただ、マタイはこれらの出来事、とくに湖上の顕現を復活者の顕現の出来事であると理解していることを、その書き方で示唆しています。すなわち、マタイは水の上を歩いて近づいてこられたイエスを見たとき、弟子たちは「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエスを拝んだと書いています(一四・三三)。この「イエスを拝んだ」という動詞は、復活後ガリラヤの山で復活者イエスにお会いしたとき、「イエスに会い、ひれ伏した」(二八・一七)とある「ひれ伏す」と同じ動詞です(二八・九も同じ)。二つの箇所で同じように、弟子たちは復活者イエスを神の子として拝んでいることになります。
 マルコ福音書では、弟子たちはイエスの言葉や人格の奥義を理解できない者として叱責されていますが、総じてマタイ福音書では弟子たちは理想化されて、イエスの言葉や出来事の意義をよく理解していると描かれています。伝承の用い方やその意義づけにおいて、マルコとマタイでは違いが見られますが、マルコ・マタイ系の伝承では、弟子たちはガリラヤで復活者イエスと出会ったことになります。

マタイは、墓が空であった事実を弁証するために、番兵による監視など、かなり詳しい記事を加えています。そのことについては、拙著『マタイによるメシヤ・イエスの物語』407頁第十二章第五節「メシヤ・イエスの復活」を参照してください。

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