市川喜一著作集 > 第20巻 福音の史的展開T > 第6講

序章 復活者イエスの顕現

       ―― 受難の過越祭から五旬節まで ――




第一節 イエスの十字架と弟子たち

イエスの十字架上の死を見届けた女性たち

 主イエス・キリストの福音を世界に告知する福音活動は、復活されたイエスの顕現を体験した弟子たちが、この復活者イエスをイスラエルに約束されたメシア、神から人の救い主として立てられて世に遣わされたキリストとして宣べ伝えた活動から始まります。では、弟子たちが復活者イエスの顕現を体験したというのは、どういう出来事だったのでしょうか。その出来事を検討するために、それが起こった状況を見ておきたいと思います。
 イエスはガリラヤで「神の国」を宣べ伝える活動をされましたが、その間、祭りの度ごとにエルサレムに上っておられます。それは、忠実なユダヤ教徒として当然のことであり、ヨハネ福音書が伝える通りであると考えられます。しかしマルコ福音書は、福音にとって重要な意義をもつことになる最後の過越祭のときのエルサレム上りだけを伝えています。その過越祭こそ、イエスの受難の時となるからです。イエスが最後にエルサレムに上られたとき、弟子の一団と数人の女性たちがイエスに従ってエルサレムに上りました。
 その時、イエスはエルサレムでの死を覚悟して、受難を予告しながらエルサレムへの道を進まれます。それに対して弟子たちは、ガリラヤで神の力によって数々の奇跡を行われたイエスは、エルサレムで大いなる業を現して神の支配を打ち立てられるのだと期待し、そのとき誰が高い地位につけられるかなどと議論していました。しかしエルサレムでは、イエスは逮捕され、ローマ総督に引き渡され、十字架刑で処刑されることになります。弟子たちは落胆し、悲嘆にくれます。
 イエスが十字架を担って刑場へ引かれていくとき、刑場まで従って行き、イエスの十字架の上での最後を見届けたのは、ガリラヤから従ってきた数人の女性だけでした。福音書はその女性の名を伝えています。マルコ福音書(一五・四〇)では、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメの三人です。マタイ福音書(二七・五六)では、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母の三人とされています。マルコとマタイの報告をつきあわせると、「ゼベダイの子らの母」の名はサロメということになります。ルカ福音書(二三・四九)は、イエスの最後を見届けた女性たちを、名をあげずに「ガリラヤから従ってきた婦人たち」とひとまとめにして伝えています。これらの共観福音書では、女性たちは「遠くから見守っていた」と伝えられています。
 ヨハネ福音書(一九・二五)では、「その母(イエスの母マリア)、母の姉妹、クロパの妻マリア、マグダラのマリア」の四人の女性があげられています。イエスの母マリアが十字架のそばにいたことを伝えているのはヨハネ福音書だけです。

イエスの最後を見届けた女性たちについての四福音書の記事の関係については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』406頁の注記と、拙著 『ヨハネ福音書講解U』197頁のヨハネ福音書一九・二五についての講解を参照してください。

 共観福音書と違ってヨハネ福音書では、女性たちは遠くから見守ったのではなく、十字架上のイエスと会話ができる位置にいたことになります。さらに、その場に「イエスが愛された弟子」もいたと伝えられています。共観福音書が伝えることが事実だとすれば、ヨハネ福音書は「イエスが愛された弟子」がイエスの母マリアを引き取ったことを説明するために、母マリアと愛弟子が十字架の側に居合わせた記事(ヨハネ一九・二六〜二七)を入れて構成したことになります。
 イエスの十字架のとき、男性の弟子たちはどこにいたのでしょうか。弟子たちは、刑場に立ち会わなかったのはもちろん、遠くから見守ることもなく、「ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ二〇・一九)のです。これは当然です。イエスはユダヤ教の最高法院で死刑の判決を受け、ローマ総督からも反逆罪の判決を受けて十字架刑に処せられたのです。その弟子も仲間として探索され、逮捕される危険があります。壮年の弟子たちが、逮捕を恐れて身を隠したのも当然です。イエスの最後を遠くからでも見届けることができたのは女性だけということになります。十字架後の弟子たちの行動については、後でもう少し詳しく見ることにします。
 ヨハネ福音書が伝えるように、「イエスが愛された弟子」が十字架の側にいたとすれば、この男性の弟子はまだ少年で、母親のような年代の女性たちの間に隠れて近づくことができたとしなければなりません。

イエスの埋葬

 イエスが十字架の上で絶命されたのは、日没が迫っている夕暮れでした。「その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので」(マルコ一五・四二)、日没までに急いで遺体を十字架から取り降ろして埋葬しなければなりません。日没とともに安息日が始まると、このような作業は安息日律法で禁止されているのでできなくなり、「木にかけられた死体は、かならずその日のうちに埋めなければならない」(申命記二一・二二〜二三)という律法を守れなくなるからです。
 十字架の側には弟子はいません。誰も埋葬しなければ、当時の律法規定により、イエスの遺体は犯罪者墓地に放棄されることになります。この状況を見た一人の有力な人物が、「勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるように」と願い出ます。それは、「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ」でした(マルコ一五・四三)。これは勇気のいる行動です。イエスはユダヤ教の最高法院で神を汚す者として死刑の判決を受け、ローマ総督によって反逆の罪で処刑された人物です。そのイエスの遺体を引き取って葬ることは、自分もイエスの仲間と見られる危険があります。それまで「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」(ヨハネ一九・三八)ヨセフは、ここにきて意を決してイエスの仲間であることを公に言い表す行動に出るのです。ヨセフは、このとき「ユダヤ人たちを恐れて」逃げ去った弟子たちよりも、信仰では勝ります。また、まだ復活の報知もない時に十字架につけられたイエスを言い表すことにおいて、われわれの信仰に勝ります。このヨセフの行動は、福音の宣教において「空の墓」という証言を可能にする重要な意味を持つことになるので、四つの福音書はみな詳しく報告しています。
 ピラトは、イエスの死が早いことを不審に思いますが、百人隊長に確認させた上で、イエスの遺体をヨセフに引き渡します。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納めます(マルコ一五・四四〜四六)。ヨセフによる埋葬に関しては、四福音書は基本的に一致しています。ただ、他に誰が埋葬に居合わせたかについては、共観福音書では(弟子はもちろん女性たちもその場にはいないのですから)ヨセフだけが行ったことになりますが、ヨハネ福音書(一九・三九)では、ヨセフの他にニコデモが香料をもって駆けつけ、居合わせた女性たちと一緒にイエスを埋葬したとしています。後代の宗教画では、ヨハネ福音書に基づいて(=共観福音書の証言は無視されて)、十字架から取り下ろされたイエスの遺体を囲んで嘆く女性たちが好んで描かれるようになります。共観福音書では、女性たち(二人のマリア)が、ヨセフがイエスの遺体を埋葬した墓を見届けて(マルコ一五・四七)、安息日が明けた日曜の早朝に香料を添えるために墓に行くことになります。
 ヨハネ福音書(一九・四〇)は、イエスの埋葬が「ユダヤ人の埋葬の習慣に従って」なされたとしています。当時のエルサレムのユダヤ人は、小高い丘の中腹に掘った墓室(人が立って入れる小さな空間)に、亜麻布で巻いた遺体を安置し、数日近親者が祈りと嘆きの行事を行った後、墓室の奥に掘られた数個の細長い横穴の一つに遺体を納めます。そしてほぼ一年後、肉体が乾燥して朽ち果てた後、残された骨を骨箱に納めて定められた地区に安置します。

このような「ユダヤ人の埋葬の習慣」について詳しくは、拙著『ヨハネ福音書講解U』216頁の「ユダヤ人の埋葬の習慣」の項を参照してください。

 この墓は、刑場の近くの園にあったので用いられたとされていますが(ヨハネ一九・四一)、マタイ(二七・六〇)だけがそれがヨセフの墓(ヨセフが自分と一族のために準備した墓)であったとしています。福音書は共通して、それが「だれもまだ葬られたことのない新しい墓」であることを強調しています。もしすでに他の誰かが葬られていたのであれば、イエスを葬った墓が空になっていたという証言は、その骨がイエスのものでないと証明しない限り、イエスの復活証言の一つとしては無意味になります。

十字架後の弟子たち

 イエスが十字架の上で息を引き取られ、その日のうちに埋葬されたとき、弟子たちは「自分たちのいる家の戸に鍵をかけ」、息を潜めて隠れていました。翌日の安息日も同じようにしていたと考えられます。ところが、安息日が明けた翌日(すなわち週の初めの日、日曜日)の早朝、女性たちが息を切らせて駆けつけ、イエスを葬った墓が空になっていることを報告します。
 この報告とその結果も、福音書によって違います。マルコ福音書(一六・一〜八)では、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメの三人が、日曜日の早朝、イエスの遺体に香料を添えるために墓に行き、墓が空であることを発見します。マルコは、その女性たちが墓で天使の顕現に接し、「震えが止まらず、正気を失い、墓から出て逃げ去った。そして、誰にも何も語らなかった。恐ろしかったからである」としています。
 マタイ福音書(二八・一〜八)は、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓に行き、墓が空であることを見て、天使のお告げを受け、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と、マルコを修正しています。
 ルカ福音書(二四・一〜一二)は、マグダラのマリアと数名の女性が、墓が空であることを見て、使徒たちに報告しています。ところが、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」としています。しかし、ペトロが墓まで走り、墓が空であることを確認したと伝えています。
 ヨハネ福音書(二〇・一〜一〇)では、マグダラのマリアが墓が空であることを発見して報告します。報告を受けて、ペトロと「もう一人の弟子」が墓まで走り、墓が空であることを確認しています。
 このように、出来事から四〇年以上も経って書かれた福音書では、それぞれの記者の意図によって細部の違いが出て来ていますが、このような伝承を透かして見えてくる事実が二、三あります。
 弟子たちは刑場にも墓に行かず、街の隠れ家に潜んでいます。最初に墓が空であることを発見して弟子たちに伝えのは女性たちでした。その中でいつもマグダラのマリアの名が最初に置かれています。これは復活されたイエスが最初に御自身を現されたのはマグダラのマリアであったという伝承(マルコ一六・九)を反映しています。
 弟子たちは、空の墓の報告や、復活されたイエスにお会いしたというマグダラのマリアや女性たち(マタイ二八・九)の証言を信じませんでした。失望と恐怖の中にいる弟子たちが、復活というあまりにも人の思いを超えた出来事を信じられないのも無理からぬことです。彼らが後で慚愧の思いから漏らした当時の心境が、後に「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」というルカの記事や、「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」というマルコ福音書(一六・一四)の記事になったと考えられます。
 ユダヤ教徒は、過越の祭りの期間中はエルサレムにとどまるように律法によって命じられています。祭りの期間が終わったとき、弟子たちは帰郷する巡礼団に混じってガリラヤに戻ったことでしょう。逮捕の危険があるエルサレムにとどまる理由はありません。また、弟子たちや女性たちは、祭りに参加するために巡礼としてエルサレムに来ているだけで、エルサレムには生活の基盤(住居とか生業)がありません。ガリラヤに帰ってそれぞれの家業に戻る以外に選択肢はありません。漁師のシモン・ペトロは、「わたしは漁に行く」と言う以外ありませんし、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言う他ありません(ヨハネ二一・三)。